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クロアチア共和国
Republic of Croatia

ヨーロッパ

■歴史
9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方から東ローマ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。

東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党が自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された。クロアチアではユーゴスラビアからの分離独立を掲げるスティエパン・メシッチが政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。1991年3月2日には、西スラヴォニアの帰属をめぐってユーゴスラビア連邦軍とクロアチア警察の間で睨み合う事態となり、3月31日にはプリトビツァで両者が衝突。死者を出す事態となった。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、6月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、78%の賛成。これを受けて6月25日、スロヴェニアと同日に独立を宣言した。


クロアチア独立国
Nezavisna Država Hrvatskaは、現在のクロアチアなどに存在した国家のひとつ。ナチスの傀儡国家である。クロアチア民族主義者はこれに飽き足らず、北方で勢力を拡大していたナチスと関係を強くして、1941年4月1日にザグレブで蜂起して「クロアチア独立国」の建国宣言を発し、サヴォイア家からアオスタ公アイモーネを象徴君主として迎え、アオスタ公はクロアチア建国の英雄トミスラヴ王(Tomislav)の名を冠し、トミスラヴ2世として5月18日に形式上の国家元首である国王に即位した。

セルビア王国
1882年から1918年にかけてバルカン半島に存在した国家。前身は1817年成立のセルビア公国。1878年まではオスマン帝国の宗主権下にあり、1918年成立のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に発展する形で消滅した。首都はベオグラード。

ユーゴスラビア
1929年から2003年の間に存在した東ヨーロッパの国家。首都はベオグラード。1918年にセルビア王国を主体としたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(セルブ=クロアート=スロヴェーヌ王国)として成立。1929年ユーゴスラビア王国に改名された。1945年からは社会主義体勢が確立され、ユーゴスラビア連邦人民共和国と改称された。1991年からのユーゴスラビア紛争により解体された。

クロアチア社会主義共和国
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する社会主義国である。クロアチア社会主義共和国は1991年に独立したクロアチアの前身である。この国は1944年にユーゴスラビア民主連邦の構成国として設置され、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるユーゴスラビア共産主義者同盟によって統治されていた。1990年、社会主義を放棄し、多党制を導入し民主主義国としてクロアチア共和国へと移行、その後まもなく独立を果たした。


■国民
住民は、クロアチア人が89.6%である。その他、セルビア人が4.5%、ボシュニャク人が0.5%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くが難民としてクロアチア国外に退去したか、あるいは死亡したものと見られている。

■言語
言語は、クロアチア語が公用語であり、広く使われている (96%)。一部セルビア語を使うものもいる (1%) が、この二つは文字が違う(セルビア語はキリル文字を使用)くらいで、ほとんど同じ言葉であり、その違いは日本語の標準語(東京地域)と大阪弁の間の違いよりも小さいといわれる。

■宗教
宗教は、大部分がローマ・カトリックである (87.8%)。残りは、セルビア正教会が4.4%、イスラム教が1.3%、プロテスタントが0.3%などである。


クロアチア人
主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。血統や言語はセルビア人と同じだが、後に宗教の違いにより別民族とされる。

セルビア人
主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。

モンテネグロ人
モンテネグロを主に構成する南スラブ人である。モンテネグロ人がセルビア人とは別の民族であるかどうかはしばしば論争の対象になっている。モンテネグロ人は、言語・歴史、文化、宗教、起源においてセルビア人にきわめて近しい存在であるといえるが、他の南スラブ諸民族とも密接な関係を有している。

ボシュニャク人
Bosnjaciは、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。

スラヴ人
中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性を何よりのアイデンティティとしている。

イリュリア人
llyrii/Illyriは古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。イリュリア人として、後に知られるようになった人々の歴史の始まりはおおよそ紀元前1000年頃とされている。イリュリア人の起源に関しては現代の先史学者には問題が残されている。

アヴァール
(Avars)は、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活躍した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。


グラゴル文字
主にスラヴ系言語を記述するために作られたアルファベットで、スラヴ圏最古の文字である。正教会のキュリロス(827年-869年)とメトディオス(826年-885年)が、855年か862年から863年のころ、聖書やその他の文書をスラブ諸語に翻訳するために作成した。ギリシア文字を元にして作られたものと思われるが、極めて独特の外見を持つ。グラゴル文字は、正教会の勢力圏では間もなくキリル文字に取って代わられたが、カトリック圏に属するクロアチアに伝わり、クロアチア語の表記に近代まで一部で用いられた。


 

クルク島
Curictaはクロアチアのアドリア海北に浮かぶ島。行政上はプリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属している。人口16,402(2001年)。最大の町は、人口5,491人(2001年度)を抱えるクルク。その他にも町村がある。クロアチア本土とは1980年に掛けられた長さ1,430mの橋を通じて結ばれており、南ドイツや東欧から観光客が訪れている。

ヴィス島
Vis,は、アドリア海に浮かぶクロアチア領の島。スプリト=ダルマチア郡に属する。クロアチア本土から最も遠く離れた島である。島の主要産業は農業(ブドウ栽培が主)、漁業、水産品加工業、観光である。島の耕地のおよそ2割はブドウ畑が占める。土地原産のワイン用ブドウ種が島内で栽培される。

ダルマチア語
Dalmatian languageは、クロアチアのダルマチア海岸とモンテネグロのコトル(Kotor、イタリア名Cattaro)南部で使用された、ロマンス語の一種。既に絶滅している。爆弾により亡くなりダルマチア語が絶滅した前年の1897年、ウダイナを訪れたイタリアの言語学者であるマッテオ・バルトリが約2800の単語や文章、ウダイナの人生を書き留め、これは単語・発音・文法などでほぼ唯一の完全なダルマチア語の研究資料となった。


クロアチア語
インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語である。以前はセルビア語と同一の言語としてセルボ・クロアチア語として扱われていた。ユーゴスラビア解体後にそれぞれが別言語と主張されるようになったが、元々両者の違いは細かい正書法や表現の差異程度であり、現在でも非常に近い関係にある。話者は主にバルカン半島に分布し、クロアチア人を中心にクロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナおよび他の国で話される。スロベニア語、マケドニア語とも類似している。


グラゴル文字
主にスラヴ系言語を記述するために作られたアルファベットで、スラヴ圏最古の文字である。正教会のキュリロス(827年-869年)とメトディオス(826年-885年)が、855年か862年から863年のころ、聖書やその他の文書をスラブ諸語に翻訳するために作成した。ギリシア文字を元にして作られたものと思われるが、極めて独特の外見を持つ。


トゥオネ・ウダイナ
Antonio Udina、生年不明 - 1898年6月10日は、ダルマチア語の最後の話者として知られる人物である。トゥオネ・ウダイナは、言語学者のマッテオ・バルトリによる1897年の調査の際に、彼の両親が用いていたイタリアのヴェリア島(Veglia、クロアチア語ではクルク島と呼ばれる。現クロアチア領)の方言の情報源として調査に協力したことで知られている。


イストリア半島
イストリア半島(イタリア語:Istria)はアドリア海の奥に位置する三角形の半島である。 イストリアとはイタリア語からの呼び名で、クロアチア語、スロベニア語ではイストラ(Istra)となる。イタリア、スロベニア、クロアチアに跨る。

フヴァル島
クロアチアの島。ダルマチア沿岸のアドリア海に浮かぶ。島は東西の長さがおよそ80キロメートルあり、観光客で賑わう。フヴァル島はダルマチア地方のスプリト=ダルマチア郡に行政上属する。フヴァル海峡によってブラチ島と、ヴィス海峡でヴィス島と、コルチュラ海峡でコルチュラ島と、ネレトヴァ海峡でペリェシャツと隔てられる。島の東岬は本土からわずか6キロメートルしか離れていない。

アドリア海
Adriatic Sea は、地中海の海域の一つ。イタリア半島とバルカン半島に挟まれている。バルカン半島側では、クロアチア沿岸部が複雑な地形をもち、風光明媚な景観を構成している。保養地、景勝地が点在し、中でもドゥブロヴニクは「アドリア海の真珠」と呼ばれる(世界遺産)。

バルカン半島
Balcaniaは、ヨーロッパの東南部で、トルコのヨーロッパ部分、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、そして1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分(マケドニア共和国、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ)からなる地域と考えられている。

ドラーヴァ川
ヨーロッパ南部を流れる川である。イタリアの南チロル地方のドッビアーコ付近に源泉を発し、東側の東チロルからオーストリアのケルンテン州を通ってスロヴェニアに至る。南東部ではクロアチアを抜けてクロアチアとハンガリーの国境沿いを流れた後オシエクでドナウ川に注ぐ。全長は725kmに及ぶ。

ネレトヴァ川
Neretva,はアドリア盆地東部では最大の河川である。大規模な高さ15m以上の水力発電用のダム4カ所と貯水池により治水されているが、自然美や多様な自然景観で知られている。ネレトヴァ川はボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアにとってはもっとも価値のある天然資源として豊富な淡水資源となっており、重要なものとして認められている。

ムール川
(Mura)は、ヨーロッパ中央部、主にオーストリアを流れる河川。ドナウ川支流のドラーヴァ川の支流である。長さは465km。うち295kmがオーストリア領内、98kmがスロベニア領内、残りがクロアチアとハンガリーの国境を流れる。

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クパ川
Kupaはクロアチア北東部とスロベニア南東部の自然的国境を形成する河川である。クパ川の源流はクロアチアの都市リエカ北東部の山岳地域であるゴルスキ・コタル(Gorski kotar)で、この地域はリスニャク自然公園(Nacionalni park Risnjak)になっている。

ヴェレビト山脈
Velebitは、クロアチアで最大の山脈(最高峰ではない)。ヴェレビト山脈の最高峰はヴァガンスキ・ヴルフ(Vaganski Vrh)であり、その高さは標高1757メートルである。

ディナル・アルプス山脈
Dinarsko gorje/Dinaridi, は、南ヨーロッパ、バルカン半島の山脈。北はスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソヴォ、モンテネグロ、マケドニア共和国まで伸びる。山脈はアドリア海沿岸に北西から南東へ645km伸びる。北西のジューリア・アルプス山脈からシャル=コラブ山塊までは北から南へ直接延びる。

ビオコヴォ山脈
Biokovo)は、クロアチアのダルマチア地方にある山脈で、スプリト=ダルマチア郡のマカルスカの町の背後にそびえている。クロアチアで一番高いディナラ山(en:Dinara、標高1830m)に次いで二番目に高いスヴェティユレ山(hr:Sveti Jure、1762m、スヴェティユレは「ゲオルギオス (聖人)」の意味)がある。


<世界遺産>
ドゥブロヴニク旧市街
1979年に世界遺産に登録された旧市街は「アドリア海の真珠」とも謳われる美しい町並みを誇る。アドリア海沿岸でも傑出した観光地であり、多数のクルーズ船が寄港する他、地中海各都市とフェリーで結ばれドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の中心都市となっている。

スプリット史跡群*ディオクレティアヌス宮殿
ディオクレティアヌス宮殿は現在、他の重要な歴史的建造物群とともに、スプリトの中心市街にある。ワールド・モニュメント財団は建物の完全性に関する調査や石・漆喰などの清掃・補修を含む保全計画に取り組んでおり、2009年中には完成させる予定でいる。/クロアチア南部スプリト=ダルマチア郡の主都で、ダルマチア最大の都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置する。295年-305年、ディオクレティアヌス宮殿を造営されたことが都市の起源となったことが知られる。それより早く、ギリシャ植民地アスパーラトス(Aspá′athos)が建設されていた。ギリシャ人らは、近郊の都市サロナに住むイリュリア人(多くがダルマチア人)との貿易を行って暮らした。

プリトヴィッチェ湖群国立公園
湖群は紺碧、紺青、灰色など、目を見張るような色合いをもつ。水の色はミネラルや有機物の量、あるいは日照の角度などによって絶え間なく変化する。人類は、この地では数千年来暮らしている。人種も多様でイリュリア人、トラキア人、ケルト人、イアピュデス人(Iapydes)、古代ローマ人、アヴァール人、スラブ人、テュルクなどがかわるがわる住み着いた。

■ポレッチ歴史地区のエウフラシウス聖堂建築群
エウフラシウス聖堂:初期の聖堂は、パレンティウムの聖マウルス(Saint Maurus of Parentium)に捧げられたもので、4世紀半ばに遡る。礼拝堂から続く床のモザイクは、元々広大なローマ時代の邸宅の一部であったもので、現在もこの邸宅は教会庭園の中に保存されている。この礼拝堂(oratorium)は既に4世紀中に拡張されて、本堂と側廊(basilicae geminae)からなる教会の中にある。床にある魚のモザイク(魚はキリストの象徴である)はこの時代からのものである。ローマ皇帝ウァレンスの肖像が刻まれた硬貨が複数同じ場所で見つかっていることから、これらの日付が確定された。

ポレッチ歴史地区:ポレッチはおよそ2,000年の歴史をもち、小さなスヴェチ・ニコラ島(聖ニコラオス島)によって海から港が守られている。市の人口およそ12,000人はほとんどが周辺に住み、ポレッチ地域全体の人口はおよそ17,000人になる。市の面積は139平方キロメートルで、ノヴィグラード(イタリア語名チッタノヴァ)近郊のミルナ川から南方のフンタナ(イタリア語名フォンターナ)とヴルサル(イタリア語名オルセーラ)まで伸びる37キロの長い海岸線を持つ。

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古都トロギール
クロアチアのスプリト=ダルマチア郡の港町。アドリア海に面する。トロギルの町は、クロアチア本土とチオヴォ島の間の小さな島にある。スプリト市の27キロ西方にある。1997年、古都トロギルはUNESCO世界遺産に登録された。トロギルは2300年に亘って続く植民都市としての伝統で人々を魅了してきた。豊かな文化は古代ギリシャ、古代ローマ、ヴェネツィア共和国の影響から生み出された物である。トロギルには小さな島の中に宮殿、教会、塔が多数、そして要塞もある。

シベニクの聖ヤコブ大聖堂
教会の建造は1402年に始まったが、建設計画はシベニクが市になった1298年からあった。1431年には当時の教会を現存する教会にする工事が始まり、数多くのヴェネツィアとこの地の職人たちがゴシック様式のものを建立した。

スタリー・グラード平原
スタリー・グラードはクロアチア語で「古い町」を意味し、フヴァル島で最も古い集落であり、アドリア海の島々の中でも最古の集落の一つである。スタリー・グラードには古代より人が居住しており、古くはフヴァル文化の担い手たちが、後にはギリシャ人が居住した。紀元前384年、ギリシャ人の哲学者アリストテレスがトラキアで生まれたのと同じ年、エーゲ海のパロス島からギリシャ人が移住し、この島をパロス(Pharos)と名づけた。


ラグサ共和国
Respublica Ragusina,は、現在のクロアチア共和国ダルマチア地方のドゥブロヴニク(イタリア語名:ラグーザ Ragusa)にあった都市共和国である。1358年にハンガリー王国から独立し、15世紀から16世紀にかけてアドリア海および地中海貿易で絶頂期を迎えた。

クロアチア紛争
1991年から1995年にかけてクロアチアのユーゴスラビアからの分離独立およびクロアチア人とセルビア人の民族対立をめぐる紛争である。クロアチア紛争は、クロアチアの人口と民族分布に大きな変化をもたらした。クロアチアの人口は1992年から1995年にかけて約475万人から約440万人に減少した。2003年までは440万人の水準で変移しており、戦前の人口が回復していないことが分かる。

ユーゴスラビア紛争
ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった内戦である。1991年から2000年まで主要な紛争が継続した。多民族国家のユーゴスラビアは第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。この国は後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」といわれるほどの多様性を内包していた。

チェトニック
Chetniksは、第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。1941年4月6日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツは国防軍の大部隊でユーゴスラビアを攻撃し、瞬く間に占領した。ユーゴスラビア正規軍は10日程度で壊滅したものの、民衆による抵抗がこれに代わった。


パルチザン
第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。


ウスタシャ
(Ustase)は、クロアチアに存在した民族主義団体。第二次大戦中にドイツと同盟を結び、大量虐殺を行ったことで有名。ファシズム政党でアンテ・パヴェリッチを指導者とし、クロアチア人による独立国民国家の樹立を目指した。農民を主体とする反資本主義を政治綱領に掲げていた。しかし反資本主義を目指していながら私有財産制は認められており、ローマ・カトリックの思想を強く受けているのが特徴である。


■鉱業
クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎない。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。


クロトラム
クロトラム(英・クロアチア語:Crotram)は、クロアチアの車輌製造メーカー・コンソーシアムの名称であり、ヨーロッパで5番目の路面電車製造メーカーと見なすことができる。同コンソーシアムが製造している(LRV)路面電車車輌 TMK 2200 の愛称でもある。この車輌はクロアチアの首都ザグレブで運行されており、同国初のバリアフリー対応超低床式車輌となっている。


スロボダン・ミロシェヴィッチ
1941年8月20日 - 2006年3月11日は、セルビアの政治家。セルビア社会主義共和国幹部会議長(大統領に相当・第7代)、セルビア共和国大統領(初代)、ユーゴスラビア大統領(第3代)、セルビア共和国共産主義者同盟幹部会議長、セルビア社会党党首を歴任した。欧米からは独裁者と見られている。ベオグラードの東約70キロの町ポジャレヴァツで生まれる。少年時代は学校の共産主義科目を得意としており、「小レーニン」と呼ばれた。ベオグラード大学法学部卒業後、ベオグラード情報局、ガス産業、ベオグラード銀行等、実業界で活躍した。

シニシャ・ミハイロヴィチ
(Sinisa Mihajlovic、1969年2月20日 - )は、ユーゴスラビア(現クロアチア)ヴコヴァル出身の元ユーゴスラビア代表サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー、ミッドフィールダー。愛称は「グランシニストラ(偉大なる左足)」。

ルジェル・ヨシプ・ボスコヴィッチ
(Rugjer Josip Boskovic 、1711年5月18日 - 1787年2月13日)はアドリア海沿岸の都市ドゥブロヴニク(当時はラグーサ共和国)に生まれたイエズス会司祭、天文学者、物理学者、数学者である。イタリア、イギリス、フランスで活躍した。

レオポルト・ルジチカ
Lavoslav Stjepan Ruzicka , 1887年9月13日 - 1976年9月26日はクロアチア(当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国のスラボニア Szlavonia)ブコバル出身の有機化学者。後にスイスに帰化。1956年にユトレヒト大学教授となり、1929年にチューリッヒ工科大学教授となる。テルペノイド、ステロイド、環状ケトンの研究で知られる。1939年にノーベル化学賞を受賞した。

ヨハネス8世
(Johannes VIII、生年不詳 - 882年12月16日)は、ローマ教皇(在位:872年 - 882年)。西暦820年ころ、ローマに生まれる。教皇登位は872年12月14日であった。ローマ市民だけの協力によってサラセン人(イスラーム教徒)の攻撃からローマを守った。9世紀における最も有能な教皇のうちのひとりと考えられており、また、こののちレオ9世が登場するまでの約200年において教皇権が最後の輝きをみせた時期のローマ教皇であった。

カールマーン1世
Konyves Kalman, 1070年頃 - 1116年2月3日は、ハンガリー王、及びクロアチア王。王として即位後のカールマーンは、実弟でスラヴォニア公のアールモシュ(Almos)と戦わなければならなかった。カールマーンは生まれつきの身体障害をもっていたとされ、障害のある者は王位にふさわしくないとする風潮の強い当時のハンガリーで、アールモシュは絶えず兄の王位継承の正当性に疑念を表したのだった。

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ズボニミール・ボバン
Zvonimir Boban、1968年10月8日 - は、クロアチア・イモツキ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(レジスタ)。現在はサッカー解説者を務めている。ユーゴスラビアの名門クラブ、ディナモ・ザグレブでプロデビューし、18歳にしてキャプテンを務める。1990年5月13日、クロアチアとセルビアの対立を背景にしたディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合で起こった暴動の際に、セルビア側の警官隊と乱闘を起こし、9か月間の出場停止処分を受け、ワールドカップ・イタリア大会を棒に振る。

アンテ・ゴトヴィナ
ゴトヴィナはクロアチア紛争後期における嵐作戦を指揮し、その際に戦争犯罪を犯したとされており、2001年に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)により起訴された。4年間の逃亡生活の後、2005年12月7日にカナリア諸島のテネリフェ島で逮捕された。クロアチア国内では、ゴトヴィナに対する評価は二分している。多くの国民は英雄と見ており、戦争時に犯罪行為はなかったとしている。

ダニエル・リュボヤ
(Danijel Ljuboja、1978年9月4日 - )は、ユーゴスラビア(現・クロアチア)出身のサッカー選手。ポジションはFW。1998年夏、名門レッドスター・ベオグラードのユースからフランスのソショーへ移籍しキャリアスタート。ソショーでは在籍3年間で62試合20得点。2000年夏にストラスブールへ移籍。ストラスブールでは合計121試合に出場し34得点を挙げている。

ダヴォール・シューケル
(Davor Suker、1968年1月1日 - )は、ユーゴスラビア・オシエク(現・クロアチア領)出身のクロアチアの元サッカー選手。ポジションはFW。彼の妹のクラウディアは、日本でも御馴染みの格闘家ミルコ・クロコップと結婚した。1991年、セビージャへと移籍。11月17日のエスパニョール戦にてデビューを果たす。移籍初年度は22試合で6ゴールだったものの、翌年には開幕戦でアルバセテ相手にハットトリックを記録するなど33試合で13ゴールを挙げた。

エレナ・ドキッチ
(Jelena Dokic,1983年4月12日 - )は、ユーゴスラビア・オシエク(現クロアチア領)出身のオーストラリアの女子プロテニス選手。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス4勝を挙げ、2001年の全仏オープン女子ダブルス準優勝の経歴も持つ。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス10位。故国ユーゴスラビアの先輩モニカ・セレシュに憧れて7歳からテニスを始め、11歳の時に内戦を逃れてオーストラリアに移住した。

テオドール・ビルロート
(Christian Albert Theodor Billroth, 1829年4月26日 ベルゲン - 1894年2月6日 オパティヤ)は、ドイツ出身のオーストリアの外科医。胃癌切除手術に初めて成功した。作曲家ブラームスの親友としても知られる。ビルロートは幼いころからピアノとヴァイオリン、ヴィオラをたしなみ、外科教授として多忙な生活のかたわら、音楽会に出席したり、同好の士と室内楽を楽しんだりしていた。現存していないが、音楽評論や室内楽曲・歌曲の作曲もしている。1878年には、ビルロートはブラームスとともにイタリア旅行をした。以後二人は1882年までに3回、イタリアに旅行した。外国語に堪能なビルロートは、もっぱら案内役を務めたといわれる。

ドラグティン・ゴルヤノヴィッチ=クランベルガー
Dragutin Gorjanovic-Kramberger, 1856年10月25日 - 1936年12月24日はクロアチアの地質学、古生物学、考古学の学者。年少期、隣に住む国立博物館の薬剤師で剥製師であるスラヴォ・ウォルマスティーニが所有する「博物館」という本を読み、郵便局員のゲンナーが収集していた魚の化石を調べるなど博物学に夢中であった。

ニコラ・テスラ
Nikola Tesla1856年7月10日 - 1943年1月7日は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)を提唱したことでも知られる。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。8か国語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通していた。「公園を歌いながら散歩しつつ思考しており、なにか閃いたらしく蜻蛉返りをした。」と当時の目撃者が記録している。友人で作家のマーク・トウェインはテスラを「稲妻博士」と呼んでいる。「アメリカSFの父」と呼ばれるヒューゴー・ガーンズバックも友人であり、テスラ死後にそのデスマスクを製作させている。

ゲオルク・フォン・トラップ
(Georg Ludwig von Trapp, 1880年4月4日 - 1947年5月30日)は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の軍人、貴族(騎士(Ritter))。軍人としての最終階級はオーストリア=ハンガリー帝国海軍少佐。第一次世界大戦に潜水艦艦長として従軍し、オーストリア海軍の国民的英雄となる。1927年、マリーア・クチェラと結婚し、亡くなった前妻アガーテの子供たちとマリーアの子供たちでトラップ・ファミリー合唱団を結成して有名になる。この実話を基に作られたのが、ミュージカル・映画『サウンド・オブ・ミュージック』である。

アリダ・ヴァリ
(Alida Valli, 1921年5月31日 - 2006年4月22日)は、現在クロアチア当時イタリアのイストリアのポーラ(プーラ)生まれの女優。アルフレッド・ヒッチコックの『パラダイン夫人の恋』、キャロル・リードの『第三の男』、ミケランジェロ・アントニオーニの『さすらい』、ルキノ・ヴィスコンティの『夏の嵐 』などで知られる。15歳からローマの映画センターで演技を学び、1935年から映画に出るようになる。1941年の"Piccolo mondo antico"でヴェネツィア国際映画祭で賞を受けるなど高い評価を得るが、戦時中はファシスト政権を嫌って出演を断ったために逮捕されそうになったこともあったという。

プレドラグ・ストヤコヴィッチ
(Predrag "Peja" Stojakovic、1977年7月9日−)はセルビアの元バスケットボール選手である。現クロアチア(当時ユーゴスラビア)のポジェガ出身。ポジションはスモールフォワード。身長208cm、体重103.9kg。2001-02シーズンは初めてNBAオールスターゲームに出場するなど、更なる飛躍のシーズンになった。成績の上昇は著しく、特にシュート成功率は48.4%を記録するなど、NBA屈指のシューターとして、その地位を確固たるものにした。

マリオ・アンチッチ
(Mario Ancic, 1984年3月30日 - )は、クロアチア・スプリト出身の男子プロテニス選手。クロアチアの先輩選手ゴラン・イワニセビッチと同じスプリット出身で、顔立ちも試合中の挙動もよく似ていることから、「イワニセビッチ2世」と呼ばれることが多い。人気テレビゲームの『スーパーマリオブラザーズ』にちなんだ“スーパーマリオ”というニックネームもある。

ルドルフ・シュタイナー
(Rudolf Steiner, 1861年2月27日 - 1925年3月30日(満64歳没))は、 オーストリア帝国(1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国に、現在のクロアチア)出身の神秘思想家 。アントロポゾフィー(人智学)の創始者。哲学博士。当時22歳の学生であったシュタイナーはゲーテの自然科学に関する著作を校訂し、序文を書く仕事を依頼され、13年間かけて完成させた。シュタイナーによれば、人間の持っている通常の五感では事物の表面しか捉えることはできず、人間の死後に五感を越えたより高次の7つの超感覚(霊的感覚/器官・チャクラ)によって初めて、事物の本質を把握することができるという。

マルコ・タイチェヴィチ
(Marko Tajcevic、1900年1月29日 - 1984年7月19日)は、セルビアの作曲家、教育者、音楽評論家。オシエク出身。ザグレブ、プラハで学び、ウィーンではヨーゼフ・マルクスに師事した。ザグレブで音楽教師・音楽評論家を務めた後、1950年から1966年までベオグラードで音楽理論の教授となった。「一般音楽学」(1949)や「対位法」(1958)などの音楽学の著作がある。作品は後期ロマン派と南スラヴの民謡をベースにしているが、自由で現代的である。

ブランカ・ブラシッチ
(Blanka Vlašić、1983年11月8日 - )は、クロアチアの陸上競技選手である。身長193cmの長身選手で、女子走高跳で2m08cmのクロアチア記録保持者である。2008年北京オリンピックでは銀メダルを獲得した。世界選手権は大阪・ベルリンの2大会連続で女王に輝いた。2010年はダイヤモンドリーグで7戦7勝の成績を挙げてトロフィーを獲得。同年11月、男子800mのデイヴィッド・ルディシャと共に2010年度IAAF世界最優秀選手賞を受賞した。

アンドリア・モホロビチッチ
(Andrija Mohorovicic、1857年1月23日 - 1936年12月18日)はクロアチアの地震学者、気象学者。オパティヤ近くのボロスコ (Volosko) に生まれる。プラハ大学を卒業し、ザグレブ大学 (University of Zagreb) 教授となった。1909年にクルパ渓谷で発生した地震の走時曲線から、いくつかの波がほかの波より速く伝わっていることを見いだした。この事実をP波の速度が急に変わる不連続面によって説明した。この面は彼の名をとってモホロビチッチ不連続面、または略してモホ面と呼ばれる。地殻とマントルとを区別する重要な面である。

イーヴォ・ロビッチ
Ivo Robic、1923年1月29日 - 2000年3月9日は、国際的に活躍したクロアチア出身の歌手・ソングライター。セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(後のユーゴスラヴィア、現クロアチア共和国)、ガレシュニツァ出身、クロアチア共和国リエカにて死去した。ユーゴスラビア各地の他にも、国際的な知名度を有した。イーヴォ・ロビッチは、ザグレブで学びながら、歌手としてのキャリアをラジオ・ザグレブ・オーケストラで始めた。第二次世界大戦中は、ロビッチはザグレブのクルゴヴァルナ・ポスタヤ・ザグレブ(Krugovalna postaja Zagreb)やエスプラネード・ホテル(Esplanade hotel)で歌った。

マリオ・マンジュキッチ
(Mario Mandzukic, 1986年5月27日 - )は、クロアチア東部スラヴォンスキ・ブロド出身のサッカー選手。バイエルン・ミュンヘン所属。ポジションはFWで、クロアチア代表では右のウインガーも務める。2008-09シーズンは、28試合に出場し16ゴールをあげ、クロアチアリーグ得点王に輝いた。12得点を挙げた2011-12シーズンと、UEFA EURO 2012でグループリーグで敗退したものの3試合で3得点した活躍が評価されて、2012年6月27日に1300万ユーロでバイエルン・ミュンヘンに移籍した。

トニー・クーコッチ
(Toni Kukoc, 1968年9月18日 - )は、クロアチア・スプリト出身の元バスケットボール選手。ユーロリーグの最優秀選手として活躍したのち、アメリカに渡りNBAのシカゴ・ブルズなどでプレー。長身ながらもアウトサイドシュートやパスを得意とし、主にスモールフォワードとしてプレイした。ヨーロッパ出身選手として最も早くNBAで活躍した選手の1人である。

アレン・ボクシッチ
Alen Boksic、1970年1月21日 - )は、クロアチアのマカルスカ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはFW。1992-1993シーズンにマルセイユへ移籍。23得点を挙げる活躍をみせてリーグ得点王に輝くとともにUEFAチャンピオンズリーグを制する原動力となった。

ロヴロ・フォン・マタチッチ
(Lovro von Matacic, 1899年2月14日 - 1985年1月4日)、ユーゴスラビア出身の指揮者。日本で特に親しまれた指揮者の一人である。クロアチアの首都ザグレブ南東の町シサク(スシャーク、スィシャークとも。当時はオーストリア=ハンガリー帝国領クロワート地方スサック郡アグラム)に生まれる。9歳の時、ウィーン少年合唱団に入団、その後、ウィーン音楽アカデミーとウィーン市立音楽院で学ぶ。

クロアチア Croatia
東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。1991年にそれまで連邦を構成していたユーゴスラビアから独立した。

ザグレブ
東欧有数の世界都市。2008年現在人口804,200人で、この街はメドヴェドニツァ山の南斜面とサヴァ川の北岸に挟まれたところにある。海面からの標高は122m。北緯45度48分、東経15度58分。ザグレブはクロアチア共和国の首都として中央政府があり、ほとんど全ての省庁がここザグレブに本庁を置いている。ザグレブ新市街は、南のザグレブ中央駅からバン・ヨシップ・イェラチッチ広場(共和国広場)まで碁盤の目状に広がる。創立300年以上の歴史をもつザグレブ大学、主要官庁などのネオクラシック調の建物とユーゴスラビア時代の建物、新しい高層ビルが混然としている。共和国広場から坂を上がると(世界一短距離のケーブルカーあり)大聖堂、サン・マルコ教会がある。

そこから北に向かって旧市街が広がる。ここにはゴシック様式とバロック様式の建物が多く、中世の町並みがよく残っている。先史時代以来、ザグレブとその一帯には人間が居住していた。旧石器時代のヴェテルニツァ洞窟(Veternica)での発見物や、今のスツィタリェヴォ村(Scitarjevo)近くにあるローマ時代の破壊された都市アンダウトニア(Andautonia)の遺構がその証拠である。メドヴェドニツァ山脈の斜面には絵のように美しいかつての村(Sestine, Gracani、およびRemete)がネックレスの珠のように市を囲んでいて、今日でも豊かな伝統を守っている(民族衣装、Sestineの傘、ジンジャーブレッドなど)。

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ザグレブ国際空港
Zagreb Airportはクロアチアの首都ザグレブにある国際空港。クロアチア航空の本拠地である。

ザグレブ中央駅
Zagreb Glavni Kolodvorはクロアチアの首都ザグレブにある同国最大の鉄道駅である。クロアチア鉄道の拠点で、クロアチア国内の主要都市をはじめ、周辺国へ向かう幹線鉄道の発着駅となっている。ザグレブ中央駅はザグレブの中心部トミスラヴ広場に面しており、オーストリア=ハンガリー帝国時代の1890年より着工され、1892年に公式に開業した。駅舎はハンガリー人建築家フェレンツ・プファッフ(Ferenc Pfaff)により手掛けられた。

クロアチア鉄道
Hrvatske zeljeznice, HZ) は、クロアチアがユーゴスラビア連邦から独立した後に成立した国有鉄道である。2004年現在、2,974kmの路線延長を有し、うち248kmが複線化、1,228km(41.3%)が電化されている。


外務省:クロアチア共和国
在クロアチア日本大使館


ブリユニ
(Brijuni)は、クロアチアにあるアドリア海沿岸の地域名。12の小さな島から構成されており、クロアチアの国立公園にも指定されている。古代ローマ帝国の時代より集落があったとされる。ヴェネツィア、オーストリア帝国などの支配を経て、第一次世界大戦後にイタリア領となった。第二次世界大戦後にユーゴスラヴィアの領土となり、ティトーはこの地に避暑のための私邸を設けた。

ヴァラジュディン
Varasdinumは、クロアチア北西の都市。首都ザグレブの北81kmにある。ヴァラジュディン郡の中心地で、ドラヴァ川に近い。バロック様式の建築物、織物、食品、IT企業で知られる。

オザリ
Ozaljはクロアチア中央部カルロヴァツ郡のクパ川河畔にある小都市及び基礎自治体で、カルロヴァツの北、ヤストレバルスコの南西に位置している。オザリはクパ川の断崖の上に築かれた町で、文書に最初に記録されたのは帝国自由都市として1244年のことである。

ヴィンコヴツィ
Vinkovciはクロアチア東部ヴコヴァル=スリイェム郡の都市及び基礎自治体である。人口は2001年の国勢調査で35,912人で、ヴコヴァル=スリイェム郡では一番人口が多い都市である。ヴィンコヴツィの文化財で注目されるのは1100年からのプレ・ロマネスク様式のメラヤ教会(Meraja)とカールマーン1世、ラースロー1世の紋章で中世クロアチアの文化的にもっとも重要な記念物である。

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ヴァルポヴォ
Valpovo,はクロアチア、スラボニア地方のオシエク=バラニャ郡の都市および基礎自治体でオシエクの北西25kmの場所に位置する。今日のヴァルポヴォ周辺は古代ローマの居住地であるイオヴァリューム(Iovalium)であったと考えられている。

ヴィロヴィティツァ
イタリア語: Varavizaはクロアチア・スラヴォニア地方のヴィロヴィティツァ=ポドラヴィナ郡の都市及び基礎自治体である。またヴィロヴィティツァ=ポドラヴィナ郡の郡都で、ドラーヴァ川を挟みハンガリー国境に近く、ビロゴラ山の北側斜面に位置する。1234年、ベーラ4世によって帝国自由都市の特権を得ている。

ドゥブロヴニク
ラテン語:Ragusiumは、クロアチア、アドリア海沿岸のダルマチア最南部に位置する都市及び基礎自治体で、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の郡都である。ドゥブロヴニクは歴史的に海洋貿易によって栄えた都市で、中世のラグーサ共和国はアマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアなどと共に5つの海洋共和国に数えられ、アドリア海東側では唯一のライバルである都市国家はヴェネチア共和国だけであった。

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リエカ
Rijekaはクロアチアの都市。アドリア海に面するクロアチア有数の港湾都市。プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡に属する。過去イタリア領だったこともあり、イタリア語でのフィウーメの呼び名も通じる。リエカもフィウーメも共に「川」を意味する。今日リエカはクロアチア最大の港で、リエカの港湾当局によれば2007年の貨物取扱量は1,300万トンで急増している。

イモツキ
Imotskiはクロアチアの町およびそれを中心とした基礎自治体で、ダルマチア内陸部のビソコヴォ山北斜面に位置する。イモツキは中世の要塞とカルストの青い湖モドロ湖(Modro jezero)で知られている。青い湖の他の現象として赤い湖クレヴェノ湖(Crveno jezero)があるが、この二つの湖はアドリア海へ向かう地下の水脈でつながっている。

オシエク
Osijek、はクロアチアで4番目に大きな都市。スラヴォニア地域の経済・文化の中心地である。バロック様式の町並み、要塞、ドラヴァ川沿いの遊歩道に人気の集まる観光地である。クロアチア民族音楽で使われる楽器タンブリツァ(Tamburica)の音楽祭が、国中からタンブリツァの楽団が集まり毎年5月に開催される。

イロク
Ilokはクロアチア東部ヴコヴァル=スリイェム郡の都市およびそれを中心とした基礎自治体である。セルビアのヴォイヴォディナとはドナウ川を挟み国境を接している。イロクはドナウ川の国境や河港の町として通過地点であり、クロアチア最東端の地である。重要な文化的、歴史的な遺産も多くありゴシック教会やオスマン時代のイスラム様式の建物の跡など、東西の芸術の違いがはっきりと現れている町としてクロアチアでは興味深い町の一つである。

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オパティヤ
Opatija、はクロアチア西部プリモリェ=ゴルスキ・コタル郡の都市および基礎自治体で、リエカの南西部に位置するアドリア海沿岸の町である。夏や冬のヴァカンスシーズンには著名なリゾート地となっており、平均気温は冬が10℃、夏は25℃である。オパティヤ周辺部は月桂樹の美林に囲まれ、美しい磯や入り江に沿った海岸の遊歩道での散策も楽しめる。

カシュテラ
クロアチアのダルマチア地方沿岸部、スプリトの北西に位置し、海岸沿いに並ぶ複数の小規模な町であるが、全体でひとつの都市(grad)として扱われる。カシュテラは、古い町や比較的新しい町を含む7つの町によって構成されている。カシュテラ地域は、穏やかなアドリア海と背後に広がる急峻な岩山という自然の造形、そして恵まれた土壌によって、先史時代から人をひきつけてきた。

クニン
Knin、は、クロアチアのシベニク=クニン郡に位置する都市。クニンの近くにあったとされるローマ都市ブルヌム(Burnum)は、クニンからキスタニェ方面に18キロメートルのところに見つかった。そこにはダルマチア地方で最大の円形劇場がある。劇場は紀元前77年、ウェスパシアヌスの時代に建てられ、8千人の観客を収容することができた。

クラピナ
Krapinaはクロアチア北部クラピナ=ザゴリエ郡の都市及び基礎自治体である。クラピナには今から約12万年から5万年前にネアンデルタール人が生活した痕跡が発見されている。

ビェロヴァル
Bjelovarは中央クロアチア・ビェロヴァル=ビロゴラ郡の都市で郡都である。ビェロヴァルはビロゴラ高原(Bilogora)の南側に位置し標高135mである。ビェロヴァル=ビロゴラ郡の郡都で経済、文化の中心都市でもある。

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プーラ
Pula、はクロアチア・イストラ郡最大の都市。イストリア半島の他地域同様、穏やかな気候と海、手つかずの自然で知られている。古代ローマ時代からの行政中心地で、ワイン醸造、漁業、造船業、観光業の長い伝統を持つ。

ロヴィニ
Rovinj、は、クロアチアの都市。イストリア半島西岸に位置する観光地であり、漁港である。イタリア人共同体があり、市内ではイタリア語がクロアチア語とともに公用語となっている。地元でナイトクラブや野外劇場など遊興施設が集中するのはモンヴィである。近隣の町や都市から旅行でやってきた人々が、地元住民と一緒に楽しんでいる。モンヴィでは定期的にコンサートが開かれ、クロアチア音楽会の大物や、国際的に名の通ったハウス/テクノ音楽のDJがやってくる。

スプリト
Split,はクロアチア南部スプリト=ダルマチア郡の主都で、ダルマチア最大の都市。アドリア海東海岸の、小さな半島に位置する。295年-305年、ディオクレティアヌス宮殿を造営されたことが都市の起源となったことが知られる。それより早く、ギリシャ植民地アスパーラトスが建設されていた。

セニ
Senjはクロアチア、リカ=セニ郡の都市及び基礎自治体で北アドリア海沿岸の都市では最も歴史が古い町である。セニでもっとも有名な記念物はセニ・ネハイ要塞(Senj Nehaj)である。現在ではアドリア沿岸の観光地となっている。

ゴスピッチ
Gospicはクロアチア・リカ=セニ郡の都市及び基礎自治体でリカ=セニ郡の郡都である。ゴスピッチやその周辺は先史時代より人が住んでいるが、最初にこの地域でまとまった定住地が形成されたのは1263年とされカセグ(Kaseg)やカセジ(Kasezi)の名で記録されている。

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カルロヴァツ
Karlovac、は、クロアチア、カルロヴァツ郡の都市。ザクレブ=リエカ高速道と鉄道途上にあり、ザグレブの南西56km、リエカから130km離れている。公園内で見られる希な種類の木は、イチョウである。小学校の生徒が海から持ち帰ったものである。公園のほとんどは古い軍事砦周辺の塹壕を掘った場所に作られた。

ザダル
Zadar、はクロアチア西部、ダルマチア地方の都市。約115キロほど南東にスプリトが位置している。第二次世界大戦後の1947年、イタリアと連合国の平和条約でユーゴスラヴィア領となる。1991年のクロアチア独立戦争では、セルビア軍の攻撃で大きな打撃を受けたが、復興が進んでいる。

ウマグ
Umag,はクロアチア、イストラ郡の都市及び基礎自治体である。男子プロテニス協会のトーナメントであるクロアチアオープン・ウマグが開催される都市として知られている。ウマグが最初に言及されたのは7世紀にあるラヴェンナからの市民によってだが、すでにローマ時代には存在していたとされる。

ヴェリカ・ゴリツァ
Velika Gorica)はクロアチア、ザグレブ郡にある都市及び基礎自治体で、トゥロポリェ(Turopolje)地域の中心的な町である。古いスラヴ語でトゥロポリェは雄牛の野などを意味する。

サモボル
Samobor)はクロアチア・ザグレブ郡の都市で首都ザグレブの西郊にありザグレブ都市圏に含まれる。歴史的にサモボルでは手工業が盛んであった。主要産業の一つとしてクリスタル・ガラスのカッティングが有名で、高品質なクリスタル・ガラスがヨーロッパ各地や世界中に流通し高額で取引されている。

ノヴァ・グラディシュカ
Nova Gradiska)は、クロアチア、スラヴォニア地方のブロド=ポサヴィナ郡に属する町、およびそれを中心とした基礎自治体である。ボスニア・ヘルツェゴビナとの国境に近い。ノヴァ・グラディシュカの近くの高速道路上で、マケドニア共和国出身でバルカン半島全域で愛された歌手のトシェ・プロエスキが事故死した。

チャコヴェツ
Cakovec)はクロアチア北部メジムリェ郡にある都市。メジムリャ郡の郡都であり、ムール川とドラーヴァ川の間に位置し工業の他葡萄栽培で良く知られ、農業や狩猟も盛んである。古代ローマの地理学者ストラボンの地理書によれば、今日のチャコヴェツの場所には1世紀沼地が広がりアクアマ(Aquama,濡れた町)と呼ばれ軍事郵便の中継地や駐屯地などが置かれていた。

ニン
Nin)はクロアチアザダル郡の都市及び基礎自治体。2001年現在の人口は1,256人で基礎自治体全体では4,603人である。ニンは中世、キリスト教の教区の中心として歴史的に重要であり10世紀前半、トミスラヴ王によってラテン化が課せられるまで、ニンはクロアチア人による教会自治の中心でもあり、またダルマチア公の中心地でもあった。

トロギル
Trogir、は、クロアチアのスプリト=ダルマチア郡の港町。アドリア海に面する。トロギルの町は、クロアチア本土とチオヴォ島の間の小さな島にある。最大の産業は造船業である。20世紀初めに作られたトロギル造船所は、同時に55,000トンの船2隻を建造できる。1990年から2004年の間に、93隻の船がこの造船所で造られた。

コミジャ
Komiza)はクロアチア西岸のアドリア海に浮かぶ、ヴィス島にある小都市及び基礎自治体で人口は1,677人である。 コミジャは中央ダルマチアの沿岸からもっとも遠く離れた島であるヴィス島に位置し、クロアチア本土からは約50km離れている。

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マカルスカ
Makarska、は、クロアチア南部のに位置するアドリア海に面した町(grad)、およびそれを中心とした自治体であり、スプリトから南に60キロメートル、ドゥブロヴニクから北西に140キロメートルにある。

スラヴォンスキ・ブロド
Slavonski Brod)はクロアチア・ブロド=ポサヴィナ郡の都市。2007年現在の人口は61,823人で、ローマ帝国時代にはマルソニア(Marsonia)の名で知られ、1244年から1934年にかけてはブロド・ナ・サヴィ(Brod na Savi)で呼ばれていた。

ポジェガ
Pozega,はクロアチア東部ポジェガ=スラヴォニア郡の都市及び基礎自治体である。人口は2001年現在28,201人でポジェガ=スラヴォニア郡の郡都である。ローマ時代、属州パンノニアに属していた。ゴート族やランゴバルド人などのドナウ川中流域からイタリアへの移動ルートでもあった。

プロチェ
Ploce、は、クロアチア南部、ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡の町(grad)であり、重要な港湾都市である。2001年時点の人口は10,834人であり、民族的にはクロアチア人が95.12%と大部分を占めている。

シベニク
Sibenik, はクロアチアの歴史的都市で、ダルマチアの中央、クルカ川がアドリア海に流れ込む場所に位置している。 シベニクは政治的、教育、交通、産業、そして旅行についてもシベニク=クニン郡の中心地である。

ヴコヴァル
Vukovar,は、クロアチア、ヴコヴァル=スリイェム郡の都市及び基礎自治体でヴコヴァル=スリイェム郡の郡都である。地理的には、スラボニア東部に位置し、ドナウ川とヴゥカ川の合流地点に位置し、大きな河港がある。


■国名
正式名称はクロアチア語で、Republika Hrvatska。通称 Hrvatska(フルヴァツカ)。公式の英語表記は Republic of Croatia。通称 Croatia(クロエイシャ)。


1.面積:5万6,594平方キロメートル(九州の約1.5倍)
2.人口:443.6万人(2008年:クロアチア政府統計局)
3.首都:ザグレブ
4.言語:公用語はクロアチア語
5.宗教:カトリック、セルビア正教等
6.民族:クロアチア人(89.6%)、セルビア人(4.5%)等(2001年)
7世紀頃 スラブ人が定住

10世紀前半 トミスラブ公がクロアチア王国建国
1527年 ハプスブルグ家の支配下に入る
1918年 セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後、ユーゴスラビア王国と改称)建国に参加
1941年 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの傀儡国「クロアチア独立国」樹立宣言
1945年 社会主義ユーゴスラビア連邦の構成共和国の一つとして発足
1991年 ユーゴスラビアより独立宣言
1992年 国連加盟
2005年 EU加盟交渉開始
2009年 NATO加盟

■主要貿易品目(1)輸出:輸送機械(船舶)、石油、石油製品(2)輸入:石油、石油製品、自動車

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クーナ
(Kuna)は、クロアチアの通貨単位。略称はHRK。補助通貨単位はリパ(Lipa)で、1クーナ=100リパ。 1クーナ=約15円(2010年6月現在)クーナはクロアチア語で動物のテンを意味し、リパは同じくクロアチア語でリンデンを意味する。スロバキアやチェコで使われている通貨単位のコルナとは関係はなく、中世にテンの毛皮が貿易に使われていたことに由来している。


■音楽
クロアチアの民俗音楽は、地域によって大きく異なる。北部では旋律やリズムがハンガリーと似ているが、タンブリツァによる伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリン・ツィンバロムといった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーションは見られない。

ザグレブ四重奏団
Zagreb Quartet、はクロアチアの首都・ザグレブに本拠を置く弦楽四重奏団である。1919年に創立された歴史ある団体で、内外に広く演奏活動を行っている。

海のオルガン
Sea organ、とは、クロアチア、アドリア海沿岸の都市ザダルにある建造物である。これは、海の波によって生み出される水の流れが、巨大な大理石製階段の下に設置した管の中を通ることで圧縮された空気が押しだされてくることを利用した、創作楽器である。波の動きは、幾分無秩序だが調和的な音色を奏でてくれている。この装置はクロアチア人建築士のニコラ・バシッチによって、新都市海岸(Nova riva)再デザイン・プロジェクトの一環として造られた。


■文化
ネクタイはもともとクロアチア人の風習であったことから、クロアチアに由来する名称でネクタイを指す言語もある(フランス語: cravateやスペイン語: corbataなど)。


クレシミル・バラノヴィッチ
クレシミル・バラノヴィッチ(Krešimir Baranović、1894年8月25日 シベニク - 1975年9月15日 ベオグラード)はユーゴスラビアの作曲家、指揮者。クロアチア出身。ザグレブでピアノとホルンを学んだ後、ウィーン国立音楽大学で作曲を学ぶ(1912年-1914年)。1915年、ザグレブ歌劇場の指揮者となり1927年まで務める。1928年、アンナ・パヴロワバレエ団に加わり、ドイツ、オランダ、スイス、イタリア公演でバレエ指揮を執る。同年、ザグレブに戻り1943年まで同地で活動する。

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ミルコ・ケレメン
ミルコ・ケレメン(Milko Kelemen)1924年3月30日生まれのクロアチアの作曲家でポドラヴスカ・スラチナに生まれた。 1959年にザグレブ・ビエンナーレ現代音楽祭を設立し、その功績でドイツ国の十字勲章を授与される。パリでオリヴィエ・メシアンとフライブルクでヴォルフガング・フォルトナーに付く。楽譜そのものを複雑に書くのではなくて、単純に書いても複雑に聞こえる、言われる「シュトゥットガルト様式」の創始者と言われている。むやみに楽譜を複雑化・絵画化しないと言う主張で、その考え方は後輩のヘルムート・ラッヘンマンに引き継がれている。

ブランコ・イバンコビッチ
1954年2月28日 - は、クロアチア出身のサッカー選手、サッカー指導者。指導者として頭角を現したのは1998年のフランスW杯で、彼はミロスラヴ・ブラジェビッチ監督の元でクロアチア代表のアシスタントコーチを務め、同代表チームを3位という大躍進に導いた。

ミルコ・クロコップ
1974年9月10日 - は、クロアチア(当時ユーゴスラビア)の元キックボクサー・総合格闘家。ヴィンコヴツィ出身。最終所属はチーム・クロコップ。PRIDE無差別級グランプリ2006王者。2011年現役引退。総合格闘技の試合では立ち技主体で勝負するストライカーであり、必殺の左ハイキックを武器に多くのKO勝利を挙げた。 総合格闘技に適応した最初の本格ストライカーといわれており、ストライカーの弱点であるレスリング力とサブミッション防御力を身に付けた。

ゴラン・ヴィシュニック
Jakov Gotovac、1895年10月11日 - 1982年10月16日は、クロアチアの作曲家。スプリト出身。ザグレブで法律を学んでいたが、1920年に作曲に転向し、ウィーンに留学。帰国後の1922年にシベニクでフィルハーモニア協会を設立。翌年にサグレブに移動し、クロアチア国立劇場でオペラの指揮をしたりするなど、作曲家・指揮者として終生ウィーンで活動した。

アンドリア・モホロビチッチ
1857年1月23日 - 1936年12月18日はクロアチアの地震学者、気象学者。オパティヤ近くのボロスコ (Volosko) に生まれる。プラハ大学を卒業し、ザグレブ大学 (University of Zagreb) 教授となった。1909年にクルパ渓谷で発生した地震の走時曲線から、いくつかの波がほかの波より速く伝わっていることを見いだした。この事実をP波の速度が急に変わる不連続面によって説明した。この面は彼の名をとってモホロビチッチ不連続面、または略してモホ面と呼ばれる。地殻とマントルとを区別する重要な面である。

エレナ・ドキッチ
エレナ・ドキッチ(Jelena Dokic, 1983年4月12日 - )は、ユーゴスラビア・オシエク(現クロアチア領)出身のオーストラリアの女子プロテニス選手。プロデビュー当時はオーストラリア国籍で活動していた為、英語読みの「エレナ・ドキック」と呼ばれていたが、1999年ウィンブルドンの大会期間中から、自分がユーゴスラビアで生まれた時の発音で呼んでほしいという本人の希望により「ドキッチ」と呼ばれるようになった。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス4勝を挙げ、2001年の全仏オープン女子ダブルス準優勝の経歴も持つ。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス10位。

イヴォ・ヨシポヴィッチ
1957年8月28日 - は、クロアチアの政治家。現在、同国大統領。政治家の他に、大学教授、法律家、音楽家、作曲家としての職務経験もある。クロアチア社会民主党所属の議会議員であるが、大統領の政党所属を禁止した憲法の規定により無所属。本人はザグレブで生まれ、同地で初等教育および中等教育を終える。少年時代はサッカー選手を目指していた[4]。ヨシポヴィッチは音楽学校で中等教育を受けており、その後もザグレブ音楽アカデミーの作曲学部でスタンコ・ホルヴァト(Stanko Horvat)の指導による音楽教育を受けている。

アンテ・パベリッチ
(Ante Pavelic;1889年7月14日 - 1959年12月28日)は、クロアチアの政治家・弁護士・軍人。クロアチアの民族主義団体ウスタシャの指導者、ドイツの傀儡政権であるクロアチア独立国の国家元首。独裁者。現在のボスニア・ヘルツェゴビナのブラジナ出身。法律の教育を受け、弁護士であった。

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ドラジャ・ミハイロヴィッチ
(Draza Mihailovic,1893年4月27日 - 1946年7月17日)は、ユーゴスラビア王国の軍人。武装抵抗組織「チェトニック」の指導者。セルビア人。ユーゴスラビア王国の将校だったが、1941年にナチス・ドイツが侵攻すると山中に逃れ他の生き残りとともにチェトニックを結成し指導者になる。王党主義者で反共主義者だったためチトーのパルチザン部隊と枢軸国に支えられたウスタシャと戦った。

ヨシップ・ブロズ・チトー
1892年5月7日 - 1980年5月4日は、第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、大統領、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。「ティトー元帥」という呼び名でも知られている。1907年、のどかな田舎から一転して、シサクの錠前屋の見習として働き出した。そこでチトーは労働運動に関心をもつようになり、初めてメーデー(5月1日、労働者の日)を祝った。1910年、冶金工の組合に加入すると同時に、クロアチアとスラヴォニアの社会民主党にも加わっている。

スティエパン・メシッチ
Stjepan Mesic、1934年12月24日は、クロアチアの政治家、大統領。自由主義・親西側派の民族主義者であり、クロアチアのNATO加盟を支持している。1997年5月、ハーグ裁判所に自発的に出廷し、ボスニア・ヘルツェゴビナ内でのクロアチア人部隊の活動について証言した。HDZを脱党し、クロアチア独立民主(HND)党を設立。同年、HND解散後にクロアチア国民党(HNS)党員となり、HNSのザグレブ市支部を率いた。

テレザ・ケソヴィヤ
(Tereza Ana Kesovija、1938年10月3日 - )は、クロアチアの歌手。ユーゴスラビア王国のドゥブロヴニク(現・クロアチア)出身。ユーゴスラビア連邦のほかフランスでも成功したキャリアを築き上げている。ケソヴィヤはドゥブロヴニクで生まれ、初期の音楽教育を受けた[1]。スロベニアのリュブリャナでの音楽祭に優勝し、その後ザグレブ音楽アカデミーでフルートの課程を卒業した。

グスタフ・マーラー
(Gustav Mahler, 1860年7月7日 - 1911年5月18日)はウィーンで活躍した作曲家、指揮者。交響曲と歌曲の大家として知られる。酒造業者の息子として育ったマーラーは、黒ビールを好んで飲んだが酒自体には弱かった。アマチュアリズムが大好きであり、アイヴズの交響曲第三番を褒めちぎったのは、「彼もアマチュアだから」という理由が主なものだったと言われている。指揮者としては、自身と同じユダヤ系のブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラーらに大きな影響を与えた。特に徹底した音楽性以上の完全主義、緩急自在なテンポ変化、激しい身振りと小節線に囚われない草書的な指揮法はカリカチュア化されるほどの衝撃を当時の人々に与えた。

ゾラン・プリモラッツ
Zoran Primorac, 1969年5月10日- は、クロアチアの卓球選手。80年代後半から活躍している古株の選手で、表彰台の常連ながらビッグタイトルには縁がないため、無冠の帝王と呼ばれることもある。クロアチア・ザダル出身。80年代後半に世界選手権準優勝後、ユーゴスラビアが崩壊、練習場所を求めて流浪することになる。ワールドカップ、ITTFプロツアーなどでは優勝の常連だったが、世界選手権、ヨーロッパ選手権などのシングルスでは表彰台こそあるものの、優勝は未だ成し得ていない。母国のスポーツライターに「まるで10種競技選手のよう」と言わしめた身体に染み込ませた、しっかりとした基本技術を軸とする両ハンドプレーが得意であり、ミスが少ない。

セヴェリナ・ヴチュコヴィッチ
Severina Vuckovicはクロアチアの歌手・女優。歌手としては単にセヴェリナと名乗っている。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、クロアチア社会主義共和国スプリト(現クロアチア共和国)出身、1972年4月21日生まれ。2006年のユーロビジョン・ソング・コンテストにクロアチア代表として選出された。セヴェリナの音楽のスタイルは、民俗音楽やキャバレーの影響を受けたポップ・ミュージックと形容される。子供の頃、地元のスプリトの劇場で端役を演じていた。

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ゴラン・イワニセビッチ
(Goran Ivanisevic, 1971年9月13日 - )は、クロアチア・スプリト出身の男子プロテニス選手。2001年のウィンブルドン男子シングルス優勝者である。自己最高ランキングはシングルス2位、ダブルス20位。ATPツアーで2001年ウィンブルドンを含むシングルス22勝、ダブルス9勝を挙げた。 彼の最大の武器は身長193cmの長身から繰り出される左利きの高速サーブで、“サンダー・サーブ”という愛称で呼ばれていた。

イワン・リュビチッチ
(Ivan Ljubicic, 1979年3月19日 - )は、クロアチアの男子プロテニス選手。ユーゴスラビア(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)領のバニャ・ルカ出身。シングルス自己最高ランキングは3位。2005年度の男子テニス国別対抗戦・デビスカップで、同僚のマリオ・アンチッチとともにクロアチア・チームを初優勝に導いた。

アナ・ヴィドヴィチ
(Ana Vidovic, 1980年11月8日生)は、クロアチア出身のクラシックギター奏者。カルロヴァツに生まれる。兄ヴィクトルの影響で5歳のときにギターを始めた。すでに11歳で国際的に名を知られるようになり、13歳のときに、史上最年少でザグレブ国立音楽院に入学を果たす。イギリス・バースのアルバート・ オーグスティン国際コンクールや、イタリアのフェルナンド・ソル国際コンクール、マウロ・ジュリアーニ国際コンクール、スペインのフランシスコ・タレルガ国際コンクールなどで優勝。

アロイジエ・ステピナツ
(Alojzije Viktor Stepinac、1898年5月8日 - 1960年2月10日)は、クロアチアのカトリック教会高位聖職者。1937年から1960年まで、首都ザグレブのザグレブ大司教を務めた。1946年、ユーゴスラビア内外で世論を二分した評決において、ベオグラードの最高法廷はステピナツをウスタシャ政権へ協力した罪、そして正教会信徒のセルビア人をカトリックに強制改宗させるのを許可したことへの共謀罪で有罪とした。彼は16年の懲役を宣告されたが、5年後に釈放され、故郷クラシッチへ軟禁された。

スティーピ・ダービシュ
Stipe Drvis、男性、1973年6月8日 - )は、クロアチアのプロボクサー。元WBA世界ライトヘビー級王者。主戦場となったドイツではスティーピ・ドレウス (Stipe Drews) の名前で知られている。196cmの長身でリーチが長く、スピードを兼ね備えたボクサーであるため「スパイダーマン」の愛称を持っている。また、祖国クロアチアではバスケットボールの選手としても活躍している。2007年にクロアチア出身のボクサーとしては初めて世界王者になった。

マクシム・ムルヴィツァ
(Maksim Mrvica, 1975年5月3日 ‐ )はクロアチア出身のピアニストである。同国ダルマチア地方シベニクの生まれ。1984年 9歳で音楽学校に入学し、マリア・シェクソの指導でピアノの研鑚を積む。1987年 12歳。初めてオーケストラと共演。1990年 クロアチア紛争勃発。戦火に怯えながら、地下室でピアノの練習を続ける。1998年 ハンガリーのリスト音楽院に進学。在学中にニコライ・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝する。活動の場はロンドンが主でレコーディングもそこで行っている。ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団との共演が多い。世界各地のツアーを行う一方、母国クロアチアでも定期的にコンサートを開催している。 「10年の間にきみは変わった」と親友に言われて残念であったとインタビューでは語っている。

ヴァンナ
Vanna)、本名イヴァナ・ラニロヴィッチ=ヴルドリャク(Ivana Ranilović-Vrdoljak)はクロアチアのポップ・ミュージック歌手。子どもや若者の音楽フェスティバルで多くの賞を受けているが、公式にデビューを果たしたのは1989年にクロアチアの首都・ザグレブで開かれたフェスティバル、ザグレブフェスト(Zagrebfest)でのことであった。

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ドラジェン・ペトロヴィッチ
(Drazen Petrovic 1964年10月22日-1993年6月7日)は、クロアチアのバスケットボール選手。ポジションはシューティングガード。ユーゴスラビア代表、クロアチア代表の中心選手としてオリンピック、世界選手権などで何度もメダルを獲得した。

ゾラン・プラニニッチ
(Zoran Planinic、1982年9月12日 - )は、クロアチアのプロバスケットボール選手。ユーゴスラビアボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルで生まれる。1999年、リスボンで開催されたジュニア世界選手権に16歳ながらU-19クロアチア代表に選ばれ参加。銅メダル獲得。

ドゥブラヴカ・ウグレシィチ
Dubravka Ugresic, 女性、1949年3月27日 - )は、オランダ在住のクロアチア人作家である。ユーゴスラビア紛争において、セルビアやクロアチアなど紛争当事者である各国当局や、メディアがもたらす民族主義的な情報操作を批判した。

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