オーストリア Austria
ヨーロッパの連邦共和制国家。首都はウィーン。中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し、第一次世界大戦まではイギリス、ドイツ、フランス、ロシアとならぶ欧州五大国(列強)の一角を占めていた。
■ウィーン
オーストリアの首都。人口は171万9730人(2011年3月31日)。都市単独で一つの連邦州であり、ヨーロッパ有数の世界都市である。クラシック音楽が盛んで「音楽の都」・「楽都」とも呼ばれる。第一次世界大戦まではオーストリア=ハンガリー帝国の首都としてドイツを除く中東欧の大部分に君臨し、さらに19世紀後半まではドイツ連邦や神聖ローマ帝国を通じて形式上はドイツ民族全体の帝都でもあった。ローマ帝国の宿営地ウィンドボナ (Vindobona) をその起源とし、かつてヨーロッパの数カ国を支配したハプスブルク家のオーストリア帝国の首都であった。
ウィーンは、そもそもの成り立ちが2つの道が交差するところに生まれた町であった。ドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に横切る道と、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道(「琥珀街道」)である。ローマ時代、ウィーンはちょうど帝国の北の境界にあたる位置にあり、恐らくケルト語源でウィンドボナ(bonaはケルト語で集落・町)と呼ばれる宿営地が置かれた。これがウィーンの地名の起源と言われている。
市の中央を、北西から南東にかけてドナウ川が横切っている。かつては氾濫を繰り返したこの川は19世紀に大規模な治水工事が行われたことで、現在のようなまっすぐな姿になった。旧市街に接して、ドナウ運河が流れており、こちらをドナウ河であると誤解する観光客も多い。ウィーンのカフェハウスは、オスマン帝国によるウィーン包囲の際にトルコ軍の忘れていったコーヒー豆をコシルツキーが発見したことに始まると言われる。19世紀にはウィーンのカフェ文化は文化生活の中心であった。多くのカフェは当時と変わらぬ姿で現在でも多くの観光客を惹きつけている。
■アイゼンシュタット
(Eisenstadt)は、オーストリア東部の都市。ブルゲンラント州の州都。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、アイゼンシュタット=ウムゲーブング郡の郡庁が置かれている。都市の周辺は葡萄畑に囲まれており、また都市周辺部には緑の多い自然豊かな都市である。 ハイドンが仕えていたエステルハージ家のエステルハージ城(邸宅)がある。また、北部にはユネスコの世界遺産に登録されているノイジードル湖があり、ヨーロッパ最大の遠浅の湖として知られる。
■グラーツ
オーストリアの人口第2の都市で、シュタイアーマルク州の州都。人口は約25万人。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、グラーツ=ウムゲーブング郡の郡庁が置かれている。古代ローマ帝国の時代に設けられた砦がグラーツの起源であり、町の語源はスラブ語で「砦」を意味する「グラデツ」からきている。市内にはいくつもの美術館・博物館が点在する。なかでも郊外に位置するエッゲンベルク城は州立博物館アルテ・ギャラリーとして公開され、ビザンティン美術から19世紀絵画までを取り揃えている。
■クラーゲンフルト
(Klagenfurt)は、オーストリアの都市。 ケルンテン州の州都。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、クラーゲンフルト=ラント郡の郡庁が置かれている。ヴェルター湖の東岸に位置する都市。ケルンテン州の経済・文化の中心。主に夏場には観光客も集める。交通の要所でもあり、オーストリア各地に幹線道路、幹線鉄道が延びている。近隣の都市としては、約35キロ西にフィラッハ、100キロ北東にグラーツ、65キロ南にスロベニアのリュブリャナが位置している。
■ザンクト・ペルテン
(独: Sankt Polten)は、オーストリアの都市。ニーダーエスターライヒ州の州都およびザンクト・ペルテン=ラント郡の郡庁所在地であり、郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)に指定されている。ロマネスクから初期ゴシック様式のものをバロック風に改装した大聖堂など、多くのバロック建築が見られる。面積108km2。人口約5万人。
■ザルツブルク
Salzburgは、オーストリアの都市。同名のザルツブルク州の州都である。ザルツは「塩」、ブルクは「砦」の意である。15キロほど南のバート・デュルンベルクで産出される岩塩をハライン (Hallein) 市において製塩し、大司教から特権を与えられたラウフェン(Laufen)の船乗りたちがハラインからザルツァッハ川(Salzach)を通じてヨーロッパ各地に送っていた。
■リンツ
(Linz、Linz an der Donau)は、オーストリアの都市。オーバーエスターライヒ州の州都。人口は約19万人。ウィーン、グラーツに続くオーストリア第3の都市である。また、ナチスのアドルフ・ヒトラーの故郷はその近郊のブラウナウ・アム・インである。2009年の欧州文化首都に選ばれている。世界で最も古いケーキとも言われるリンツァートルテ発祥の地としても有名である。
■インスブルック
(Innsbruck)は、オーストリア共和国の都市で、チロル州の州都である。風光明媚な観光地として、またウィンタースポーツの地として世界的に知られており、1964年と1976年にオリンピックを開催したことでも知られる。舞踏会や演劇といった芸術活動が非常に盛ん。ティロル州立劇場は1629年建築の重厚な古典様式の劇場であり、オペラ、演劇、ミュージカルなど様々なプログラムを上演している。
■カフェ・ラントマン
ウィーンのインナーシュタット(ウィーン1区)のドクター・カール・リューガーリングにあるブルク劇場のそばのパレス・リーベン・アウシュピッツの地上階にある。 カフェ・ラントマンは、1873年10月、カフェ経営者フランツ・ラントマンによってウィーンで「ウィーンの最もエレガントで最も大きなカフェ」として開店した。ラントマンでは、世紀末にはグスタフ・マーラー、ペーター・アルテンブルク、ジークムント・フロイト、フェーリクス・ザルテン、カールマーン・イムレが語らい、少し後になると、ユリウス・ラーベ、クルト・ユルゲンス、オットー・プレミンジャー、ロミー・シュナイダーらが常連客となった。
外務省:オーストリア共和国
在オーストリア日本国大使館
■ウィーン大学
1365年創立の、ドイツ語圏最古・最大の大学である。ルドルフ4世がカレル大学に対抗して創立。「ルドルフ4世大学(Alma Mater Rudolphina Vindobonensis)」と当初は呼ばれていた。
■インスブルック大学
(Leopold-Franzens-Universitat Innsbruck)は1669年に設立されたオーストリアの大学である。現在はオーストリアでウィーン大学、グラーツ大学に次ぐ規模の大学である。
■ウィーン国際空港
Vienna International Airportは、オーストリアの首都ウィーンの南東18kmに位置するニーダーエスターライヒ州シュヴェヒャートにある空港。
■インスブルック空港
Innsbruck Airportは、オーストリアのチロル州の州都インスブルックにある国際空港。インスブルックの旧市街から西に約5キロメートル離れた、イン川沿いのクラーネビッテン地区(Kranebitten)にある。
■オーストリア連邦鉄道
OBB, Osterreichische Bundesbahnen)は、オーストリアの国鉄事業を所管する国有企業グループである。1992年に政府系公社から国有の特殊会社に転換されたあと、2003年成立の連邦鉄道組織法にともない、2005年に主要子会社5社を傘下に持つ連邦政府100%出資の国有持株会社ÖBB-Holding AG(OBBホールディング株式会社)に改組された。
■ブラウナウ・アム・イン
(Braunau am Inn)は、オーストリアのザルツブルクから北へ60キロメートルの、オーバーエスターライヒ州西北部のイン川の畔にある基礎自治体 (Gemeinde)。ドイツとの国境にある街。東南部にオーストリアで三番目に大きい都市のリンツがある。アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日にブラウナウに生まれた。1989年、市長のゲアハルト・シーバはヒトラーの生家の前に、戦争とファシズムに反対する石碑を建てた。1992年以降、現代史協会はブラウナウにおける現代史のシンポジウムを開催し、また1998年からは「ホロコースト記念施設での奉仕活動」の為の会合を、毎年ブラウナウにて行っている。地域新聞「ブラウナウ・ルントゥシャウ」は「ブラウナウはここに反戦、反ファシズムを掲げる」という署名運動を開始した。
■ブレゲンツ
Bregenz,はボーデン湖の湖畔に位置する都市。オーストリア西端に位置し、湖を隔ててドイツ、スイスに接する。スイスに隣接していることから、気質もオーストリアよりスイス人に近いともいわれる。繊維、時計産業が発展しているほか、観光地として多くの観光客を集める。
■ザルツカンマーグート
Salzkammergutは、オーバーエスターライヒ州とザルツブルク州にまたがるオーストリアの観光地である。ザルツブルク市の東方に位置する。ザルツカンマーグートは「塩の御料地」の意味であり、かつてこの地方の価値ある塩鉱がハプスブルク帝国の帝国直轄地だったことに由来している。
■シュタイアー
(Steyr)は、オーストリアのオーバーエスターライヒ州の都市で、行政的には郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)である。シュタイアーは、980年に歴史的な建物の大規模な改修を受けた。街はオーストリアで最も保存状態の良い街の1つである。"Stadtplatz"周囲の旧市街が有名。旧市街は数百年間とても良く保存され、第二次世界大戦後には大規模な修復がされた。
■バーデン・バイ・ウィーン
Baden bei Wien, はオーストリア北東部、ニーダーエースターライヒ州バーデン郡に属する 基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。ウィーンの森の東麓、ウィーンの南約25キロに位置する。ローマ時代から「パンノニアの水」として知られた硫黄泉の湧く温泉地であった。
■バート・イシュル
Bad Ischlは、オーストリアのオーバー・エースターライヒ州南部に属する基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。ハルシュタット文化の時代より居住が確認されており、1262年に最初の記述がある。 1419年アルブレヒト2世によって「Salzkammer」と呼ばれる地方議会がWildenstein城に設立された。
■ハルシュタット
Hallstattは、オーストリア中部オーバー・エースターライヒ州に属する小規模な 基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。ダッハシュタイン山塊の山麓に位置し、ハルシュタット湖の湖畔に家々が並び立つ景観は、オーストリアの代表的な風景として観光ガイドに用いられ、近年では観光地として脚光を浴びている。
■ゼーフェルト
(Seefeld) は、オーストリアのチロル州インスブルック=ラント郡の都市である。周辺にはアイスクリーム屋や、観光客相手の土産物売り場がいくつかある。また駅からやや歩くと多くのレストランが存在する。
■ウィーナー・ノイシュタット
Wiener Neustadt, は、ニーダーエスターライヒ州の都市。ウィーンの南方に位置し、郡(Bezirk; 行政管区)に属さない憲章都市(Statutarstadt)である。第二次世界大戦ではオーストリア最大の爆撃を受けて市の80%が破壊され、アメリカの爆撃で数千人の市民が死亡した。1946年、街の復興のために市当局は市民に自発的に協力するよう呼びかけた結果、数千トンのがれきが片付けられる。1955年オーストリア国家条約が結ばれ、オーストリアが連合国の占領から完全に独立したときに、オーストリア最大の被害を受けたこの都市の復興事業も終わっていた。
■クレムス・アン・デア・ドナウ
( Krems an der Donau ) はオーストリアのニーダーエスターライヒ州の都市で、行政的には郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)である。 ニーダーエスターライヒ州では、5番目に大きい都市で、ウィーンのおよそ70km西に位置している。
■フィラッハ
(Villach) はオーストリアの都市。ケルンテン州に属し、州都のクラーゲンフルトに次ぐ第二の都市である。郡に属さない憲章都市(Statutarstadt)であるが、フィラッハ郡の郡庁が置かれている。人口は約5万9千人(2009年)。ドナウ川の支流であるドラウ川の谷に位置している。イタリアやスロヴェニアの国境に近く、南欧との物流拠点としての役割を果たす。
■リエンツ
Lienz)は、オーストリアのチロル州リエンツ郡の 基礎自治体 ( ゲマインデ ) 。チロル州の飛び地である東チロル地方の中心の町。人口約13,000人。登山とスキーなどリゾート地としてにぎわう。
■シュヴァルツェンベルク
Schwarzenberg, は、オーストリアのフォラールベアーク州のブレゲンツの森にある村。ブレゲンツ郡の一部。2002年現在、人口は1,805人。村の中心地は下見板造りの家のため遺産保護されている。この地では毎年、国際的に有名なリートおよび室内楽の音楽祭「シューベルティアーデ・シュヴァルツェンベルク(Schubertiade Schwarzenberg)」が催されている。
■ブルゲンラント州
Burgenland)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はアイゼンシュタット。1921年にトリアノン条約とサン=ジェルマン条約によってハンガリー王国から領土を割譲され成立した。
■チロル州
Tirol, は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。オーストリア西部に位置し、北チロルと東チロルからなる。州都は北チロルにあるインスブルック。東チロルの中心都市はリエンツ。州都インスブルックでは1964年と1976年に冬季オリンピックが開催された。
■チロル城
Schloss Tirol)は、現在のイタリア領南チロル、ボルツァーノ県メラーノ(メラン)近郊にある城。チロル伯爵家の元の居住地であり、またチロル(ティロール)という一国の誕生の地でもあった。15世紀になって交通の便がよいインスブルックに政治の中心が移動するまでは、チロル城は国主の居城であった。2003年、この城に南チロル文化・歴史博物館が設置された。
■ニーダーエスターライヒ州
(Niederosterreich)は、オーストリアの連邦州の一つ。オーストリア北東部に位置する。「ニーダーエスターライヒ」とは「低地オーストリア」の意味で、この国の中では比較的標高が低い。州都はザンクト・ペルテン。
■オーバーエスターライヒ州
Oberosterreich)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はリンツ。面積約12,000平方km、人口約140万人。州内にアドルフ・ヒトラー出生の地ブラウナウ・アム・インがある。西南部のザルツカンマーグート地域は山と湖の風光明媚な地形で国内外から多くの観光客が訪れる。ハリウッド映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった。
■ケルンテン州
Karnten)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はクラーゲンフルト・アム・ヴェルターゼー。ドイツ語の Kärnten はケルト語に由来すると考えられており、二つの説がある。一つは「友人」や「親類」を意味する carant で、これは青銅器時代のイリュリア人を指しているとする。
■シュタイアーマルク州
Steiermark)は、オーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都はグラーツ。人口約118万人、面積16,392平方km。州の紋章は銀豹。鉄資源が豊富で鉄鋼業が盛んなため「鉄の辺境地」(Eisener Mark)とも呼ばれている。
■ザルツブルク州
Salzburg)はオーストリア共和国を構成する9つの連邦州のひとつ。州都は同名のザルツブルク市。州の大部分がアルプス山脈北東部にあたり、州内を南西から北へ逆L字に流れるザルツァッハ川沿いに都市が発展してきた。
■フォアアールベルク州
Vorarlberg, は、オーストリアの最西部の連邦州で、ウィーン州についで2番目に狭い州。州都はブレーゲンツ。最大の都市はドルンビルン。
■国民議会
ドイツ語: Nationalrat)とはオーストリア共和国の代議機関。国民議会は二院制である同国議会の第一院に相当し、連邦各州の州議会で選ばれた議員によって構成される第二院とは互いに独立して設置されており、連邦全体にかかわる特別な案件については両院が連邦会議を合同で開く。
■連邦議会
ドイツ語: Bundesrat)はオーストリア共和国の議会上院。下院である国民議会と並んで、連邦制である同国の立法を司っている。
ドイツの連邦参議院とは異なり、連邦議会の議員は自由に立候補することができる。議員は採決のさいに協調することができるが、所属会派や出身連邦州ごとで議員の採決行動を制約する規定は存在しない。
■政治
政体は連邦共和制。議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会(Nationalrat)と各州議会から送られる62議席の連邦議会(Bundesrat)から成る二院制の議会制民主主義国家。
■オーストリア国民党
オーストリアの中道右派のキリスト教民主主義、保守主義政党。日本語では「オーストリア人民党」と訳される場合もある(こちらの方が原語の意味には近い)。
第一共和制時代のキリスト教社会党の後身。国際民主同盟に加盟している。現在の党首はヨーゼフ・プレル (Josef Pröll)。党のシンボルカラーは黒である。
■オーストリア社会民主党
オーストリアの中道左派、社会民主主義政党。社会主義インターナショナル加盟。2008年以降の党首はヴェルナー・ファイマン。1999年に国民党が極右政党であるオーストリア自由党と連立を組んだために野党に転落し、2002年の国民議会(下院)選挙では36年ぶりに第1党の座を失ってしまった。2006年の国民議会選挙では、議会第1党の座を奪回し、グーゼンバウアー党首が連邦首相となった。2008年の国民議会選挙では、議会第一党の座を守ったものの、11議席を減らした。
■緑の党
Die Grunen - Die Grune Alternative)は、オーストリアの環境保護政党。グローバルグリーンズ加盟政党で、欧州緑の党のメンバーでもある。1986年に オーストリア・オルタナティヴ・リスト(ALÖ) と、より保守寄りの オーストリア緑の連合 (VGÖ)が合流し 緑のオルタナティブ として結成。この年の国民議会(下院)総選挙で初めて議席を獲得した。以後、下院総選挙では毎回、議席を獲得し続けている。1993年に現在の党名になった。2004年現在で3000名の党員がいるが、それ以外にも党の活動を支える多くのボランティアがいる。環境問題以外ではマイノリティの人権擁護、直接民主主義、非暴力、フェミニズム、自己決定権などを掲げる。
■オーストリア自由党
(Freiheitliche Partei Osterreichs、略称:FPO)は、オーストリアの極右政党。「自由党」を名乗るが、自由主義政党というよりも、極右ポピュリズム政党、ドイツ民族至上主義政党の性格が強い。これは、同党が第一共和国時代において「ドイツ民族主義派 」と呼ばれた「農民同盟」・「大ドイツ人党」・「護国団」などの大ドイツ主義的な小政党の連合体に由来するところが大きい。
■オーストリア未来同盟
Bundnis Zukunft Osterreich; BZOは、オーストリアの中道右派政党。オーストリア未来連合などとも訳される。2008年11月19日以降は党首が不在で、ヘルベルト・シャイプナーが代行している。また国民議会における会派代表 (Klubobmann) にはヨーゼフ・ブフナーが務めている。
■国名
公式の英語表記は Republic of Austria。通称 Austria、形容詞はAustrian(オーストリアン)。日本語の表記はオーストリア共和国。国名の Osterreich は、ドイツ語で「東の国」という意味である。ドイツ語の reich(ライヒ)はしばしば「帝国」と日本語訳されるが、フランスのドイツ語名が現在でも Frankreich(フランクライヒ)であるように、厳密には「帝国」という意味ではない。
1.面積:約8.4万平方キロメートル(北海道とほぼ同じ)
2.人口:約840万人
3.首都:ウィーン(人口約160万人)
4.民族:主としてゲルマン民族
5.言語:ドイツ語
6.宗教:カトリック約78%、プロテスタント約5%
1270年 ハプスブルク家ルドルフ公、オーストリア王権確立
1918年 第一次世界大戦敗北によりハプスブルク帝国崩壊、共和制開始
1938〜1945年 ナチス・ドイツによるオーストリア併合
1955年 連合国との国家条約締結により独立を回復。永世中立を宣言、国連加盟。
1995年1月 EU加盟
■主要産業:機械、金属加工、観光
■ユーロ
1999年1月1日に決済用仮想通貨として導入された。この時点では現金のユーロは存在しなかった。3年後の2002年1月1日に初めて現金通貨としてのユーロが発足した。この時、導入国の従来の通貨に代わり、ユーロが法定通貨となった。ユーロ硬貨はユーロ圏16か国のほかに、合意によって認められている3か国がそれぞれ鋳造しており、裏面は各国で独自のデザインを採用している。
■経済
2005年の一人当たりGDPは世界第10位に位置し、経済的に豊かな国である。主要産業としては、シュタイアーマルク州の自動車産業、オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。ウィーンやザルツブルク、チロルを中心に観光産業も盛んである。
■シェンゲン協定
ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定である。欧州経済共同体に加盟していた当時の10の加盟国のうちベルギー、フランス、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツの5か国が1985年6月14日にルクセンブルクのシェンゲン付近を流れるモーゼル川に投錨していたプランセス・マリー=アストリ号において署名した文書。
■ウィーン会議
Congress of Viennaは、1814年から1815年にかけて、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された会議。ヨーロッパ諸国の代表が集い、議長はオーストリアの外相メッテルニヒが務めた。ウィーン会議は、フランス革命とナポレオン戦争終結後のヨーロッパの秩序再建と領土分割を目的として、1814年9月1日から開催された。
■国際モーツァルテウム財団
Die Internationale Stiftung Mozarteum)はオーストリアのザルツブルクにある非営利民間財団。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの研究、出版、コレクションの収集を行う世界的な機関である。また、モーツァルト美術館の運営、国際モーツァルト週間の開催などの事業も行っている。国際モーツァルテウム財団の建物はマカルト橋に近い新市街に位置し、以前はザルツブルク・モーツァルテウム大学と同居していたが、現在は財団単独で入居している。隣接する大ホールも財団の管理運営下にある。
■エーリヒ・クライバー
Erich Kleiber, 1890年8月5日 - 1956年1月27日はオーストリアのウィーン出身で20世紀前半を代表する指揮者の一人。指揮者のカルロス・クライバーは息子。古典派から新ウィーン楽派までの作品で、引き締まった演奏を聴かせた名指揮者であった。プラハ大学で歴史と哲学を学ぶ。学生時代から劇場通いを頻繁に行い、マーラーの指揮に影響され、自身も指揮者への道を本格的に志すようになった。プラハ音楽院で指揮を学習した後、1911年に指揮者デビューする。
■ニコラ・テスラ
Nikola Tesla1856年7月10日 - 1943年1月7日は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家。交流電流、ラジオやラジコン(無線トランスミッター)、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなどの多数の発明、また無線送電システム(世界システム)を提唱したことでも知られる。磁束密度の単位「テスラ」にその名を残す。1856年7月9日深夜、ハンガリー王国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピチ (Gospić? 近郊のスミリャン村 (Smiljan) で生まれる。1880年、オーストリア帝国グラーツのポリテクニック・スクール在学中に交流電磁誘導の原理を発見する。
■ワルター・クリーン
Walter Klien, 1928年11月27日 - 1991年2月10日はオーストリアのピアニスト。グラーツ出身。ウィーン音楽アカデミーでアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリに師事。ボルツァーノのブゾーニ国際ピアノコンクールと、パリのロン=ティボー国際コンクールを制覇した。
■クリスチャン・ドップラー
Johann Christian Doppler, 1803年11月29日 - 1853年3月17日は、オーストリアの物理学者、数学者、天文学者。観測者と震動源との相対運動によって振動数が変化することを詳しく調べ、1842年、それをもとに数学的な関係式をつくった。いわゆる「ドップラー効果」である。
■カール・ヴェルスバッハ
Carl Auer von Welsbach、1858年9月1日 - 1929年4月8日はオーストリアの化学者、発明家である。科学的研究の才能だけでなく、商業的に成功した製品を発明した。化学者としての功績は1885年に希土類元素のプラセオジム、ネオジムを発見した。
■ハンス・アスペルガー
Hans Asperger、1906年2月18日 - 1980年10月21日は、アスペルガー症候群を名付けた、オーストリア・ウィーン生まれの小児科医である。1944年、彼はアスペルガー症候群の最初の定義を著した。4人の男児において、彼が「自閉的精神病質」と呼んだ、自閉症(そのもの)と精神病質(人格の疾患)を意味する行為や能力のパターンが見られた。そのパターンには、「共感能力の欠如、友人関係を築き上げる能力の欠如、一方的な会話、特定の興味における極めて強い没頭、ぎこちない動作」が含まれる。彼はアスペルガー症候群(AS)の子供達が、興味のある事柄について非常に詳細に語る能力を持っていることから、彼らを「小さな教授たち」と呼んだ。
■ヴィクトール・フランクル
Viktor Emil Frankl、1905年3月26日 - 1997年9月2日は、オーストリアの精神科医、心理学者。ウィーン大学在学中よりアドラー、フロイトに師事し、精神医学を学ぶ。著作は多数あり、日本語訳も多く重版されている。精神科医として有名であるが脳外科医としての腕前も一級であった。第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。この体験をもとに著した『夜と霧』は、日本語を含め17カ国語に翻訳され、60年以上に渡って読み継がれている。
■アルフレッド・アドラー
Alfred Adler 独語での発音はアルフレート・アドラー、1870年2月7日 - 1937年5月28日は、オーストリア出身の精神科医、心理学者、社会理論家。ジークムント・フロイトおよびカール・グスタフ・ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した1人。アドラーは、幼い頃に、声帯のけいれんとくる病に苦しんだ。また、3歳年下の弟が生後1年でジフテリアで死んだこと、そして、アドラー自身が4歳頃に肺炎にかかって危うく死にかけたことから、医師になる決心をした。アドラーの最初の診療所は、プラーター遊園地の近くにあったので、彼の患者には、遊園地で働く、料理人や軽業師、芸人等が少なくなかった。それらの人々を援助する中で、アドラーは、彼らが、身体的な弱点を克服して、むしろそれを強みにしたり活かしたりして遊園地での仕事を得ていることに気がついた。アドラーは、自分自身の体験と、そして、主にプラーター遊園地の患者を援助する中で、器官劣等性がある人は、そのような自分の身体的な弱点を努力によって、補償あるいは過補償を行うという理論を発展させた。
■ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
1889年4月26日 - 1951年4月29日はオーストリア・ウィーン出身の哲学者。言語哲学、分析哲学に強い影響を与えた。ウィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆にあたいする。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でメンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ブラームスやマーラー、ブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィーク(シューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた。ルートヴィヒの兄パウル・ウィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、プロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している。家族から引き継いだ負の遺産としては鬱病や自殺の傾向がある[注釈 3]。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた。
■ヴィッキイ・バウム
Vicki Baum, 1888年1月24日 - 1960年8月29日は、オーストリアの作家。バウムの作品を原作とした映画『グランド・ホテル』(1932年)がアカデミー賞最優秀作品賞を獲得。ウィーンのユダヤ人一家に生まれた。バウムは、ブルジョワ的な環境のなかで幼少期を過ごし、8歳でハープを習い始め、およそ6年間、ハープ奏者としての専門的な教育を受けた。また、10代の頃には、すでに趣味で小説を書き始めていた。1914年にジャーナリストと結婚するも、すぐに破局。しかし、この結婚をきっかけとして、バウムは、ウィーンの文学界に導かれることになり、やがて著作を発表し始めるようになる。離婚後、バウムはドイツに出向き、3年の間、オーケストラのハープ奏者をつとめるとともにダルムシュタットの音楽教師として働いた。また、第一次世界大戦の間には看護士としても働いた。
■フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
(Franz Joseph Haydn, 1732年3月31日 ニーダーエスターライヒ州ローラウ) - 1809年5月31日 ウィーン、但し遺体はアイゼンシュタット)は、古典派を代表するオーストリアの作曲家。また、弟ミヒャエル・ハイドンも作曲家として名を残している。たくさんの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれている。弦楽四重奏曲第77番第2楽章にも用いられた皇帝讃歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」の旋律は、現在ドイツの国歌として用いられている。6歳のときに親戚の家に送られ、音楽の勉強を始める。1740年、ウィーンのシュテファン大聖堂のゲオルク・フォン・ロイター(Georg von Reutter)に才能を認められたことから、ウィーンに住むようになる。その後はここで聖歌隊の一員として9年間働いた(後半の4年間は弟ミヒャエル・ハイドンも聖歌隊に加わった)。ロイターはろくに隊員に食事を与えず、教育も適当であったが、音楽の都でプロの音楽家として働くという少年時代の経験からハイドンが得たものは大きかった。
■イグナツ・プライエル
(Ignaz Josef Pleyel, 仏:Ignace Joseph Pleyel 1757年6月18日 - 1831年11月14日)はオーストリア出身の古典派音楽の作曲家である。若いころ彼はおそらくヴァンハルと共に学び、1772年からアイゼンシュタットのヨーゼフ・ハイドンの生徒になった。プライエルは、彼の13年後に生まれたベートーヴェンと同様に、彼の研鑽において貴族階級の後援―この場合はエルデーディ・ラースロー伯(1746年 - 1786年)―から恩恵を受けた。プライエルは明らかに、彼を優れた生徒だと考えていたハイドンとよい関係にあった。
■ロベルト・ムージル
(Robert Musil、1880年11月6日 - 1942年4月15日)は、オーストリアの小説家。 ケルンテン州クラーゲンフルトで生まれたムージルは、当初軍人を目指し、シュタイアの実科ギムナージウム、アイゼンシュタットの陸軍初等実科学校、メーリッシュ・ヴァイスキルヒェン(チェコのフラニツェ・ナ・モラヴィェ)の陸軍上級実科学校に学んだが、機械工学の道に転じてブリュン工科大学に入学。その後再び哲学に転じると、ベルリン大学でエルンスト・マッハ研究で博士号を取得する(1908年)。しかし結局、処女作『士官候補生テルレスの惑い』(1906)で踏み出していた作家としての道を選ぶ。1905年には「特性のない男」の草案を日記に書いている。
■ベルンハルト・ヴィッキ
(Bernhard Wicki,1919年10月28日 - 2000年1月5日)はオーストリアのニーダーエスターライヒ州ザンクト・ペルテン出身の俳優・映画監督。1950年代から多くの映画に出演したが、監督も手がけ、特に第二次世界大戦中に、町を守るために召集された少年兵たちを描いた映画『橋』は高い評価を得た。1959年(昭和34年)11月25日から6日間にわたって東京で開催されたドイツ映画祭のため、俳優のトニー・ザイラー、女優のリゼロッテ・プルファー、マルギット・ニュンケらと共に来日。
■クルト・ゲーデル
(Kurt Godel, 1906年4月28日 - 1978年1月14日)は、オーストリア・ハンガリー二重帝国(現チェコ)のブルノ生まれの数学者・論理学者である。業績には、完全性定理及び不完全性定理、連続体仮説に関する研究が知られる。1931年、ゲーデル数の概念を用い、20世紀の数学基礎論、論理学にとって最も重要な発見とされる「不完全性定理」を発表した。不完全性定理は、ジョン・フォン・ノイマンら当代一流の学者の激賞を受け、「人間の理性の限界を示した」とも評されている。
■ハンス・ホライン
(Hans Hollein, 1934年3月30日 - )は、現代オーストリアの代表的建築家の一人。ウィーン生まれ。ウィーン実業学校建設科に学び、1956年、ウィーン美術アカデミー・建築学科を卒業。1958年からアメリカ合衆国に留学し、1959年まで、シカゴのイリノイ工科大学建築学科に学び、1960年、カリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学大学院を修了する。
■エゴン・シーレ
(Egon Schiele、1890年6月12日 - 1918年10月31日)は、オーストリアの画家。幼少期にシーレは初等教育を受ける為にクロスターノイブルク市へ移住、そこで美術担当の教員から早熟な才能を認められている。教師からの推薦を受けた事はシーレにとって大きな後押しとなった。16歳の時にグスタフ・クリムトと同じウィーン工芸学校(ドイツ語版)に学んだ。ただ異なったのはクリムトがそのまま職工として開業したのに対し、よりアカデミック色が強く純粋芸術を追求する場であったウィーン美術アカデミーへ更に進学した点であった。
■インゲ・モラス
(Inge Morath、1923年5月27日 - 2002年1月30日)はオーストリアの写真家。グラーツで科学者の両親の元に生まれる。ウィーンやパリで通訳、ジャーナリストとして働いた後、マグナム・フォトに編集者として参加するようになる。その後ロンドンに移り写真を学んだ。アンリ・カルティエ=ブレッソンのアシスタントを勤めた後、写真家として活動し始めた。
■オスカー・シュトラウス
(Oscar Straus, 1870年3月6日 - 1954年1月11日)はオペレッタの作曲家。ブラームスに楽才を祝福されてウィーン音楽院に学んだ後、ベルリンでマックス・ブルッフに師事し、ユーバーブレットル・カバレット(文芸酒場)で楽団指揮者を勤める(この時期、楽団の編曲家としてシェーンベルクを雇う)。その後ウィーンに戻りオペレッタの作曲に専念し、フランツ・レハールのライバルとして名を揚げる。
■アンドレアス・ゴルトベルガー
(Andreas Goldberger、1972年11月29日 - )は、オーストリア、オーバーエスターライヒ州リート・イム・インクライス出身の元スキージャンプ選手。1990年代を代表するジャンパーで、ゴルティの愛称で日本でも人気が高かった。1991-1992シーズンから本格的に参戦、総合8位となると参戦3シーズン目から総合1位、3位、1位、1位、6位と大活躍を見せた。
■ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル
(Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Kochel, 1800年1月14日 - 1877年6月3日)は、音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者。正確にはケッヒェル['kœç?l]。1862年にモーツァルトの全作品目録を出版、そこで作品に振られた番号はケッヘル番号として現在も使われている。1851年、ケッヘルの友人フランツ・ローレンツから著作『モーツァルトのこと』が送られてくる。そこにはモーツァルトの作品が散逸してしまうのではないかという懸念が表明されていた。それに刺激を受けケッヘルは作品目録の作成を開始した。完成した目録は1862年ブライトコップ社から『モーツァルト全音楽作品の年代別主題別目録 Chronologisch-thematisches Verzeichniss sämmtlicher Tonwerke Wolfgang Amade Mozart's』として出版された。
■オタカル2世
(Otakar II, 1230年? - 1278年8月26日)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1253年 - 1278年)。オーストリア公も兼ねた(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世とドイツ王フィリップの娘クニグンデの次男。ボヘミア王とポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の父。1253年、父の死によりボヘミア王として即位すると積極的な対外政策を展開し、ダルマチアの一部を相続してハンガリー王国と対立した。さらに神聖ローマ帝国が大空位時代を迎えると、次の皇帝候補の1人となった。
■カール大帝
742年4月2日 - 814年1月28日、アーヘン)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン、714年 - 768年9月28日)の子で、カール1世ともいう。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早逝したため、以後43年間、単独の国王として長く君臨した。
■フリードリヒ2世
(Friedrich II., 1211年4月25日 - 1246年6月15日)は、バーベンベルク家最後の第5代オーストリア公(在位:1230年 - 1246年)。第4代オーストリア公レオポルト6世と妃テオドラ・アンゲリナの3男。明確なビジョンも無く対外戦争を繰り返して自国を破滅させたことにより、仇名は喧嘩公(the Quarrelsome)とも闘争公(the Warlike)とも呼ばれている。
■エンゲルベルト・ドルフース
(Engelbert Dollfuß, 1892年10月4日 - 1934年7月25日)は、オーストリアの政治家および独裁者。ドルフースはオーストリアのテクシング(現在のメルク郡テクシングタール)で生まれた。幼年期は神学校で学び、その後ウィーン大学で法律を専攻、続いてベルリン大学で経済学を学んだ。第一次世界大戦の間、彼は徴兵に合格するには身長が足りなかったが、結局徴兵され1918年にはアルプスに送られ、間もなく戦時捕虜となる。
■クルト・シュシュニック
(Kurt Alois Josef Johann Edler Schuschnigg, 1897年12月14日 - 1977年11月18日)は、オーストロファシズム期の政治家。1938年にオーストリアはナチス・ドイツに併合され、彼は逮捕・拘束された。彼はオーストリア・ハンガリー帝国のトレント近郊リーヴァ・デル・ガルダ Riva del Garda am Gardasee (現在南チロル)で生まれ、第一次世界大戦中にオーストリア・ハンガリー帝国の軍隊で戦った。戦後、シュシュニックはインスブルックで弁護士となる。
■ミヒャエル・ハネケ
(Michael Haneke, 1942年3月23日 - )は、オーストリアの映画監督・脚本家。2012年現在、ウィーン在住。ウィーン大学で哲学、心理学、演劇を学ぶ。卒業後は映画批評家として数年働き、次にドイツのテレビ局で編集者・脚本家となる。さらに舞台の監督も手がけるようになる。2001年の『ピアニスト』では第54回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞し、主演のブノワ・マジメルとイザベル・ユペールにも賞をもたらした。2009年第62回カンヌ国際映画祭では『白いリボン』(原題: Das weisse band)で最高賞パルム・ドールを受賞し、ゴールデングローブ賞でも外国語映画賞を受賞している。
■パウル・ギュルダン
(Paul Guldin,1577年6月12日 - 1643年11月3日)はスイス生まれのオーストリアの数学者である。彼はユダヤ人の家系のプロテスタントの家庭に生まれたが、後にカトリックに改宗した。パウルという名前はその時改名した名前である。彼の数学上の業績はパップス=ギュルダンの定理と呼ばれる回転体の体積に関するものしかおそらく知られていない。
■ハンス・ロット
(Hans Rott, 1858年8月1日 - 1884年6月25日)は、オーストリアの作曲家。作曲家としては習作的な管弦楽曲を残したに過ぎず、今日では無名だが、生前は恩師アントン・ブルックナーや学友グスタフ・マーラーから高く賞賛されており、ブルックナーは、いつしかロットが大収穫をもたらすことを信じていた。マーラーは《交響曲第1番》において、ロットの交響曲から引用を行なった。