アルバニア Albania
東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和国。首都はティラナ。古代にはイリュリアと呼ばれた。紀元前1000年頃から、インド・ヨーロッパ語族に属する言語、イリュリア語を話すイリュリア人がすむようになった。イリュリア人は南方の古代ギリシア文化の影響を受け、またいくつかのギリシャ植民地が建設された。前2世紀にはローマ帝国の支配下となり、東西ローマの分裂においては東ローマ帝国に帰属した。
■国名
正式名称はアルバニア語でRepublika e Shqiperise(レプブリカ・エ・シュチパリセ)、通称はShqiperia(シュチパリア)。シュチパリアとはアルバニア語で「鷲の国」を意味し、アルバニア人が鷲の子孫であるという伝説に由来する。これに対し、他称の「アルバニア」はラテン語の「albus(白い)」が語源とされ、語源を同じくするアルビオンと同様アルバニアの地質が主に石灰岩質で白いことから「白い土地」と呼んだことに由来する。
■ティラナ
アルバニア共和国の首都。ティラナ州の州都、ティラナ県の県都で、同国最大の都市。旧石器時代からの遺跡が残り、アルバニアでは最も古くから人々の定住が進んだ地域であった。Tirkanと呼ばれた城がユスティニアヌス1世の命で作られたのは520年であった。しかしながら、イリュリア人の時代には全く重要な土地ではなかった。1418年にアルバニアの歴史を書いた司祭・Marin Barletiもティラナに関しては、「小さな村」と言及しているだけである。アルバニアの中心部に位置し、アドリア海沿岸にある都市ドゥラスから東方約35kmにある。
■ドゥラス
アルバニアの都市。ドゥラス州の州都、ドゥラス県の県都。アドリア海に面するアルバニア屈指の港湾都市。イタリア、ギリシャ、モンテネグロなどとの取引が行われる。鉄道路線を通じて内陸とも結ばれており、工業製品などの集散地としての役割を果たしている。
■シュコドラ
(Shkodra)、はアルバニアのシュコダル州シュコダル県に位置する都市。アルバニアの北西にあるシュコダル湖に面している。シュコダル州の州都。人口は約9万人(2004年)で、周辺地域を含めると11万人に及ぶ。アルバニアで最も歴史のある都市の一つであり、文化・経済面でも重要な中心地でもある。
■ジロカストラ
Argirocastroはアルバニア南部の人口 43,000人の都市である。歴史的な地域であるエピルス地方にあり、ジロカストラ州とジロカストラ県の首府である。
■フィエル
フィエル(アルバニア語:Fier)は、アルバニアの南西部の都市であり、フィエル州の州都およびフィエル県の県都でもある。町から8kmの距離には古代都市アポロニアの遺跡がある。フィエル市公式写真館
外務省:アルバニア共和国
在アルバニア日本国大使館
■ティラナ・リナ空港
首都ティラナ中心部から北方25キロにある空港である。アルバニア人のマザー・テレサにちなみマザー・テレサ空港とも呼ばれている。
■ティラナ大学
アルバニア首都ティラナにある大学である。1957年10月に5つの高等機関が合併してティラナ国立大学として設立 。学生数: 14,000人以上 教職員数: 600人以上
■ヴロラ
アルバニアのヴロラ州ヴロラ県に位置する都市。ヴロラ州の州都。 イタリア語でヴァローナ (Valona) と呼ばれ、ヴェネツィア共和国やイタリア王国による統治時における名称として用いられる。紀元前6世紀頃、古代ギリシアの植民都市として建設された、アルバニア最古の都市の内の一つである。
■コルチャ
アルバニア南東部のコルチャ州、コルチャ県の中心都市である。コルチャは数世紀にわたって地域の正教会およびイスラムの信仰の拠点となってきた。コルチャは正教会の府主教座がおかれ、また巨大な15世紀のモスクが建てられた。また、コルチャとその周辺にはベクタシ(Bektashi)のムスリムのコミュニティもあり、その最大の中心はトゥラン・テッケである。
■ペシュコピ
Peshkopiは、アルバニアのディブラ州ディブラ県に位置する都市である。ディブラ州の州都である。人口は14,000人(2001年度)。
■エルバサン
(Elbasan)はアルバニアのエルバサン州エルバサン県の都市。シュクンビン川沿いに位置し、農業が盛んである。たばこ、オリーブ、とうもろこしなどが生産される。住民の多くはイスラム教を信仰する。
■クルヤ
Kruje)はアルバニアの都市および基礎自治体でアルバニア北中部に位置し、クルヤ県と基礎自治体の行政的な中心である。人口は15,900人で、クルヤ山とイーシュム川の間に位置し、アルバニアの首都ティラナからは20km離れている。かつてイリュリア人の部族アルバニ族(Albani)が暮らしおり、1190年にクルヤはアルバニアでは中世で最初の自治を得た国であるアルバノン公国(英語版)の首都であった。
■ルシュニャ
Lushnje)は、アルバニア中西部の都市。フィエル州ルシュニャ県の県都で、人口は5万4813人である。ドゥラスとベラトをむすぶ街道沿いに中世後期、サルシェというトルコ人の未亡人が開いた茶屋が街の起源とされる。2000年になっても年配の男性は街をサルシェと呼んでいた。
■ペチン
Bekleyin)は、アルバニア中部のペチン県の県都である。町の人口はおよそ1万人。ペチンの古代の名前はクラウディアナ(Klaudiana)であった。現在の呼称は、オスマン帝国時代のトルコ語呼称であるベクレイン(Bekleyin)に由来している。
■サランダ
Sarande, は、アルバニアのヴロラ州サランダ県の県庁所在都市。アルバニアで最も重要な観光都市で、イオニア海に面しており、ギリシアのケルキラ島(コルフ島)まで15km程度の距離である。
■アルバニア・ヴェネタ
Albania Venetaは、1420年から1797年まで存在した南ダルマチアのヴェネツィア共和国領。最初は、現在の北アルバニアとモンテネグロのアドリア海沿岸のことを指した。しかしアルバニアと南モンテネグロは1571年にオスマン帝国に奪われた。
1.面積:約28,700平方キロメートル(四国の約1.5倍)
2.人口:約316万人(2009年、世銀)
3.首都:ティラナ(約55万人)
4.民族:アルバニア人
5.言語:アルバニア語
6.宗教:イスラム7割、正教2割、ローマカトリック1割
1912年 オスマントルコから独立
1939年 イタリアの保護領、後に併合
1944年 共産党臨時政府樹立、全土解放
1961年 ソ連と断交
1976年 中国の経済・軍事援助停止
1985年 ホッジャ勤労党第1書記死去
1990年 野党設立許可、複数政党制導入、外貨導入解禁
1991年 初の自由選挙、臨時憲法制定、米、英と国交回復、ECと外交関係、IMF、世銀、CSCE加盟
1992年 総選挙で初の非共産政権樹立、OICに加盟
1994年 PFP包括協定、PFP個別協定調印
1995年 欧州評議会に加盟
1997年 ねずみ講問題を発端とする騒乱が発生。6月の総選挙の結果、社会党を中心とする連立政権成立
1998年 新憲法制定
2000年 WTO加盟
2003年 EUとの間で安定化・連合協定(SAA)交渉を開始
2006年 EUとの間で安定化・連合協定(SAA)に署名
2009年 NATO加盟
■レク
レク(アルバニア語:Lek)は、アルバニアの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)は、ALL。補助通貨単位はチンダルク(qindarkë)で、1レク=100チンダルク。2003年1月現在、100レク、200レク、500レク、1,000レク、5,000レクの紙幣が発行されている。 1レク=0.788円である。(2012年03月20日現在)
■プリズレン連盟
Lidhja e Prizrenitは 1878年6月10日アルバニア人の政治的機関としてオスマン帝国コソボ州のプリズレンで結成した。その目的は、バルカン半島のアルバニア人居住地をスラヴ国家による併合から守り、オスマン帝国の下での自治権を獲得することであった。
■コミンフォルム
Cominform)は、共産党・労働者党情報局(Communist Information Bureau)の略。欧州共産党情報局、共産党国際情報局とも。第二次世界大戦後のアメリカの世界戦略に対抗して、ヨシフ・スターリンとヨシップ・ブロズ・チトーが提唱し、1947年にヨーロッパ9か国(ソビエト連邦、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フランス、イタリア)の共産党または労働者党で結成された。
■アルバニア労働党
かつてアルバニアで一党独裁制を敷いた共産主義政党。第二次世界大戦中の1941年11月、エンヴェル・ホッジャを指導者(書記長、のち第一書記)として アルバニア共産党が結成。当時アルバニアは枢軸国の占領下にあり、占領軍への抵抗活動、パルチザンが活発化するなかでの結成であった。
■アルバニア民主党
アルバニアの保守政党。アルバニア社会党とともに同国の二大政党制を成す。東欧革命の波がアルバニアも押し寄せるなか、1990年に結成。当時はまだアルバニア労働党(共産党)は一党独裁制を堅持する姿勢を崩しておらず、地下組織としての結党だった。
■アルバニア社会党
アルバニアの中道左派・社会民主主義政党。アルバニア民主党とともに同国の二大政党制を為す。東欧革命や隣国ユーゴスラビア紛争の波が鎖国的政策を採っていたアルバニアにも及ぶなか、1991年にアルバニア労働党(共産党)が一党独裁制とマルクス・レーニン主義を放棄し、複数政党制を導入した際に、労働党を引き継ぐ政党として登場した。
■アルバニア・マフィア
アルバニアに拠点を置くか、民族的にアルバニア人である者を主体とする複数の犯罪組織の総称。アルバニア人による犯罪活動はアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国でも活発である。その活動内容は主に麻薬と武器の取引・流通である。
■ジャクマリャ
Gjakmarrja)、単に「カヌン」(Kanun)とも通称されるアルバニア人の氏族の歴史的な掟「レク・ドゥカジニの掟」(Kanuni i Lekë Dukagjinit)の中で認められている、殺人に対して殺人で報いることを認める定め。
■1997年アルバニア暴動
(1997 rebellion in Albania)は、1997年3月に経済破綻を契機としてアルバニア共和国で発生した全国的な大規模暴動を指す。経済破綻の遠因が無限連鎖講(ネズミ講)であった事から「アルバニア宝くじ暴動」、一時的に内戦状態に陥った事から「アルバニアの無政府化」とも呼ばれた。暴徒による批判の矛先は当時のサリ・ベリシャ政権へと向かい、政府側も暴動に対して警察・軍隊による弾圧を行うなどアルバニアの治安が大きく悪化した。
■経済
アルバニアは第二次世界大戦後はほぼ鎖国状態となり1978年から完全な鎖国状態となった。経済は低調で、長年欧州最貧国の扱いを受けていた。国民はみな貧しく、ある意味では平等な状態にあった。1990年代に市場経済が導入された際には、投資会社という名目でねずみ講が蔓延した。国民の半分がはまったと言われるまでにねずみ講が蔓延した理由としては、社会主義国家で鎖国状態であったために国民に市場経済の金融・経済についての教育が行われず、国民が「投資とはこんなものだ」と思い、ねずみ講の危険性に気づかなかったことも挙げられる。
■住民
アルバニア人が大部分であるが、国土の北部と南部では言語や風習に差異がある。南部にはギリシャ人などもいる他、国境付近にはマケドニア人やモンテネグロ人もいる。人口増加率は約2.5%とヨーロッパで最も高く、逆に一人当たりの国民所得はヨーロッパで最も低い。
■言語
アルバニア語が公用語であるが、北部のゲグ方言と南部のトスク方言に別れ、標準語はトスク方言に基づいている。外国語としてイタリア語を話せる人が多い。南部のサランダを中心とした地域に住むギリシャ系住民の間では、ギリシャ語を話す人々もいる。
■アルーマニア語
バルカン半島で話される東部ロマンス語派の言語である。別名としては、マケド・ルーマニア語Macedo-Romanian、またはヴラフ語Vlachが知られている。この言語はバルカン半島がローマ化された後に形成され、ルーマニア語と多くの語彙を共有しており、非常に似た文法と語形を持っている。
■宗教
1990年、信教の自由が認められた。現在では多くの人々が穏健なムスリム、正教徒、カトリックであり、宗教間での結婚も少なくない。一方、最近では、信仰する宗教が特に無いという人々が多数派を占めていると言われている。
■イスマイル・カダレ
イスマイル・カダレ(Ismail Kadare 1936年1月28日 - )は、アルバニアの小説家。アルバニア文学を代表する作家としての地位を占めている。アルバニア南部の都市、ギロカストラに生まれる。ティラナ大学卒業後、モスクワに留学。第二次世界大戦中のパルチザンを描いた「死者の軍隊の将軍」(1963年)や、「城」(1970年)「夢宮殿」(1981年)などの著作で有名となる。1990年にはフランスに亡命し、以降パリに在住する。
■スカンデルベグ
Skanderbeg、1405年 - 1468年1月17日あるいはスカンデルベクは、中世アルバニアの君主であり、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄である。1423年頃、父がバルカン半島で勢力を広げるオスマン帝国に臣従したため兄弟とともに人質となり、イスラム教に改宗。ムラト2世の宮廷に仕える騎士として東ローマ帝国やセルビア、ハンガリーとの戦いに従軍し、その勇敢さからアレクサンドロス大王にちなんだスカンデルベクの名を受けた。
■エンヴェル・ホッジャ
Enver Hoxha1908年10月16日 - 1985年4月11日は、アルバニアの政治家、共産主義者。アルバニア労働党第一書記、1944年から1954年まで同国の首相を務めた。ホッジャ政権下のアルバニアはスターリン主義への固執からヨーロッパに於いて孤立し、半封建的国家として産業化を推し進めた。ホッジャは1908年10月16日、アルバニア南部のギロカストラでイスラム教徒の家庭に生まれる。父親は布商人でホッジャの幼年時代にヨーロッパを渡り歩き、ホッジャは叔父のハイセン・ホッジャの影響を強く受けた。1930年、奨学金を得てフランスのモンペリエ大学に入学する。しかし、政治への関心を強く持つようになり、学問を捨てて1年ほどで退学、フランス共産党に入党。
■ゾグー1世
Ahmet Zogu、1895年10月8日 - 1961年4月9日は、アルバニア共和国の大統領(1925年 - 1928年)、後にアルバニア王国の国王(1928年 - 1939年)。名前の「ゾグ」とはアルバニア語で「鳥」を意味する。ゾグはマティ族という氏族の族長で、ゾグ家はオスマン帝国のマティ総督を世襲で勤めた家系であり、地主層に属する家柄の出身であった。
■ファン・ノリ
Fan Stilian Noli、1882年1月6日-1965年3月13日は、アルバニア人の作家、政治家であり、アルバニア正教会の創設者。1882年、オスマン帝国・エディルネのイブリクテペ(Ibriktepe)で生まれた。青年期にギリシアのアテネ、エジプトのアレクサンドリアで生活し、役者・翻訳家として活躍した。1906年よりアメリカ合衆国へ渡り、1912年にハーヴァード大学を卒業した。アルバニア帰国後は、アフメド・ゾグ(のちの国王ゾグー1世)に対する1924年のクーデタを経て、新政府の首相となった。しかし、まもなくゾグの巻き返しにあい失脚、亡命してふたたび合衆国へと渡った。
■ロリック・カナ
Lorik Cana、1983年7月27日 - は、ユーゴスラビアのコソボ自治州(現・コソボ)・プリシュティナ出身のアルバニア代表サッカー選手。ポジションはMF(ディフェンシブハーフ)。闘志をむき出しにするディフェンシブハーフ。状況に応じてアルバニア代表では3バックの中央、マルセイユでは4バックのセンターバックとしてプレーしている。セットプレーからの得点力も高く、マルセイユに移籍して初めてのクラシコでは決勝点を決めるなど、大舞台にも強い。
■ヴァロン・ベーラミ
Valon Behrami, 1985年4月19日 - は、ユーゴスラビア(現コソボ)、コソボ自治州コソヴスカ・ミトロヴィツァ出身のスイス代表サッカー選手。ポジションはMF(右サイドハーフ)・DF(右サイドバック)。アルバニア人である。両親と共に、コソボ紛争から逃れるためスイスのティチーノ州にある小都市、スタビオに亡命した。
■インヴァ・ムラ
Inva Mula、1963年6月27日 - はアルバニア・ティラナ出身のソプラノオペラ歌手。父のアヴニ・ムラ(Avni Mula)はコソボ出身でアルバニアの歌手。1987年からヨーロッパ各地で数々のコンクールで優勝。1993年にはパリの国際オペラコンクールで賞を取りCDを出した。 その後も欧米各地の歌劇場で活躍している。1998年に演じたジョルジュ・ビゼー作のオペラ、『美しきパースの娘』のDVDは日本でも発売された。
■ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート
Wilhelm Friedrich Heinrich zu Wied、1876年3月7日 - 1945年4月18日はアルバニア公。対外的にはアルバニア公と称したが、アルバニア国内では国王(Mbret)と称した。ヴィルヘルムは伯母エリサベタにより、アルバニア君主候補として推薦された。これに当時の欧州の大国、オーストリア、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、イタリアがただちに賛成にまわり、1913年11月に新興国アルバニアの君主としてドイツ貴族ヴィート家出身のヴィルヘルムが擁立された。
■アルフレッド・モイシウ
(Alfred MOISIU、1929年12月1日 - )は、アルバニア共和国の政治家。同国大統領(第4代)などを歴任。アルバニア北西部の都市シュコダルの出身。1941年、首都ティラナのケマル・スタファ高校に入学。在学中(1943-1945年)にアルバニア人民解放闘争に参加1946年、ペテルスブルク工兵学校入学1948年、卒業後、ティラナ将校養成学校小隊長を経て、ティラナ軍事アカデミー教官に就任
■アドリアン・ガジャ
Adrian Gaxhaまたはアドリアンはマケドニア共和国出身のアルバニア人の歌手。アドリアン・ガジャはそのダンスの能力の高さによる、魅力的なステージ・パフォーマンスで良く知られている。アドリアンはヴィデオフェスト(Videofest)で優勝、トップフェスト(Topfest)で最優秀男性パフォーマーに、そしてティラナのヴィデオ・フェスティバル(Video Festival)で2度優勝を果たしている。
■ケイシ・トラ
Kejsi Tola、1992年2月5日 - )は、アルバニアの歌手。2007年にアルバニアの歌手オーディション番組で優勝してデビューを果たした。2008年12月22日、ユーロビジョン・ソング・コンテスト2009のアルバニア代表を決める選考会であるFestivali I Kengesで優勝を果たし、2009年にロシアのモスクワで行われるユーロビジョン2009への参加を決めた。