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アフガニスタン
Afghanistan
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■地理
元々の国土はパキスタン北部まで広がっていたが、平野部はイギリスにより引きちぎられ、現在は山岳地帯が大部分を占めている。北部や南西部には若干平野部がある。最も標高の高い地点は、海抜7,485m のノシャック山である。国土の大半は乾燥しており、真水の入手できる場所は限られている。
■中東
Middle East または Mideast)は、狭義の地域概念では、インド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の総称。西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、おおまかに定義される地政学あるいは国際政治学上の地理区分。
■南アジア
インド、スリランカ、ネパール、パキスタン、バングラデシュ、ブータン、モルディブの各国を含む地域。面積は 4,480,000 km2。しばしばインド亜大陸として言及される。上記の各国は南アジア地域協力連合(South Asian Association for Regional Cooperation、略称SAARC)を結成。現在はアフガニスタンも加盟しておりイランはオブザーバーとして参加している。
■ヒンドゥークシュ山脈
主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。クシュは山や山地を指すのでさらに山脈をつけるのは日本語の翻訳地名によくある慣例である。また、ヒンドゥークシュはペルシャ語で「インド人殺し」を意味する。
■アムダリヤ川
パミール高原・ヒンドゥークシュ山脈に源を発するパンジ川とヴァクシュ川が合流し、北西へ向かって流れる。元々はアラル海に注いでいたが、現在は河口部ではほぼ干上がっている。延長は2,400km。
■ヘルマンド川
(Helmand River)とは、アフガニスタンの川。ヒンドゥークシュ山脈に端を発し、アフガニスタン内を南西に流れ、イランとの国境付近の湿地帯に注ぐアフガニスタン最長の川である。総延長は約1,130km、イランに入ってヘルマンド湖となる。
■アララト山
トルコ共和国の東端にある標高5,137mの山(成層火山)。『旧約聖書』にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされる山と目されて、12世紀以降にヨーロッパ人により命名された。
■バクトリア
バクトリア(Bactria)は、バクトリアーナ(バクトリアナ)、トハーリスターン(トハリスタン)とも呼ばれ、ヒンドゥークシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域の古名。現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。かつてその領域にはグレコ・バクトリア王国などが栄えた。
■アフガニスタンの歴史
アフガニスタンの考古学調査が行われてきているが、先史時代のことで分かったことは比較的少ない。しかし、旧石器時代と新石器時代に、この地域に広く人が住んでいたことは分かっている。紀元前10万年、旧石器の文化があった。紀元前7000年、新石器の文化があった。紀元前3000年〜紀元前2000年は、四大文明が起こり、都市文化が生まれつつあった。その背景には農耕文化の発展があった。紀元前2000年〜紀元前1800年、青銅器時代。ムンディガク遺跡、デー・モラシ・グンダイ遺跡が見つかっている。また、バクトリア地方から出土した数体の石製女性像が見つかっている。アフガニスタンは、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった。
■バーラクザイ朝
19世紀中盤から1973年までアフガニスタンに存在した王朝。首都はカブール。1826年、ドゥッラーニー部族連合バーラグザイ部族の長ムハメッド・アジムの弟、ドースト・ムハンマド・ハーンがドゥッラーニー朝から独立してハン国を建国。1835年には国王の称号をアミールに変え、アフガニスタン首長国となった。
アフガニスタンは多民族国家
■多民族国家
複数の民族から構成される国家のことである。対義語は単一民族国家である。地球規模での交通が発達し、国家間の行き来が盛んになった現在、純粋な単一民族国家というのは存在しえず、すべての国家が多民族国家であるということもできる。
多民族国家の代表例としては、支配民族が拡張の過程で周辺民族の居住地域を取り込んだ中華人民共和国・ロシア連邦などの帝国、国民の大半が移民によって成り立っているアメリカ合衆国やブラジル・アルゼンチン・オーストラリアなどの移民国家、古くから多くの民族が共存し支配的な民族が存在しないインド、レバノンなどのモザイク国家、近隣地域からの移民がまとまって居住する地域があるスリランカ・マレーシア、ヨーロッパからの移民が先住民族を征服した後に打ち立てられ、独立後もかつての支配者と多数派の先住民族が併存しているボリビア、南アフリカなどが挙げられる。
■パシュトゥーン人
アフガニスタン内で最大の人口を持つ民族。北パキスタンのペシャーワルと南アフガニスタンのカンダハールは、パシュトゥーン人の伝統的な主要な中心都市である。 パシュトゥーン人は、パシュトー語またはパフトー語を話し、ダリー語とともにアフガニスタンの公用語の一つである。
■タジク人
タジキスタンを中心に、アフガニスタン北部、ウズベキスタン東部、中国領新疆ウイグル自治区の西部などに居住するイラン系民族を指す近現代的民族区分。現在タジク民族とされている人々は、バクトリア人、ソグド人、サカ人等、中央アジアの歴史に名を留める多くの民族の系譜を引いている。
■ハザラ人
アフガニスタンに住むイラン系の民族で、人種的には、モンゴロイドに少しコーカソイドが混じる。宗教は、シーア派のイスラーム。アフガニスタン中部バーミヤーン周辺に分布。彼らが話すペルシャ語類似のダリ語にはモンゴル語起源の単語が多いため、13世紀、チンギス・ハーンに率いられてアフガニスタンにやってきたモンゴル人の末裔だと言われている。アフガニスタンに国を建てたことはないが、宗教的な関係から隣国のイランと友好関係にある。
■ウズベク人
西トルキスタン南部、ホラズム地方からフェルガナ地方にかけてに広がって居住し、中央アジアで最大の人口を抱えるテュルク系民族。民族国家として、中央アジアでもっとも人口の集中したトランスオクシアナ地方の大半を領土とするウズベキスタン共和国を持つほか、中国の新疆ウイグル自治区とアフガニスタンの北部マザーリシャリーフ周辺にもそれぞれ数十万人が住む。
■トルクメン人
中央アジアのカスピ海東南岸に居住するテュルク系民族。トルクメニスタンを中心にイランの北東部(ホラーサーン地方)やアフガニスタンの北部に分布する。テュルク諸語のトルクメン語を話し、伝統的には遊牧とオアシス地帯での農耕に従事してきた。
■ソグド人
sogdは、中央アジア、ゼラフシャン(ザラフシャン)川流域地方に住んでいたイラン系のオアシス灌漑農耕民族。また、商業を得意とし、あまり定住にこだわらず、シルクロード周辺域で多様な経済活動を行った。近年の研究では、シルクロードを経済的に支配していたと言われている。
<主要民族> (2003年推計)
■パシュトゥーン人 45%、言語パシュトー語、宗教ハナフィー派スンニー
■タジク人 32%、言語ダリー語、タジク語、宗教ハナフィー派スンニー、イスマイール派シーア(北部の若干)
■ハザラ人 12%、言語ハザラギ語(ダリー方言)、イマーム派シーア、イスマイール派シーア、スンニー(極少数)
■ウズベク人 9%、言語ウズベギ語、トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
■トルクメン人、言語トルコ語方言、宗教ハナフィー派スンニー
■言語
パシュトー語 30%。ダリー語ペルシャ語 55%以上。大体のアフガニスタン人は皆ダリー語(ペルシア語)を理解する。テュルク諸語 11%
■パシュトー語
アフガニスタン、またパキスタンの西部に住むアフガン人(パシュトゥーン人)の話す言語である。インドヨーロッパ語族のイラン語派の東語群に属す。話者はアフガニスタンの主に東部、南部1200万人、パキスタンの西部に2800万人。
■ダリー語
アフガニスタンの公用語の一つ。タジク語と同じく基本的にはペルシア語であるが、発音・語彙を中心にいくらかの違いがある。語彙の大半はペルシア語と同じだが、ダリー語にはパシュトー語やウルドゥー語からの借用語が多い。
■ペルシア語
イランを中心とする中東地域で話される言語。ペルシャ語、ファルシ語ともいう。漢語による省略形は波語。言語学的にはインド・ヨーロッパ語族−インド・イラン語派−イラン語群に分類される。ペルシアという語は現代のファールス地方に相当する「パールサ」に由来する。
■宗教
スンナ派 85%。シーア派 14%。その他 1%。その他には、シーク教徒、ヒンドゥー教徒、キリスト教徒が存在する。
■スンナ派
ラテン文字転写:Ahl as-Sunnah は、イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。
■シーア派
ラテン文字転写:ash-Shi‘ah)は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。
■シク教
Sikhism)は、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。シク(スィク)とはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。
■グレコ・バクトリア王国
(紀元前255年頃 - 紀元前130年頃)とは、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バクトラを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。
■サーサーン朝
226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。しばしばササン朝ペルシア、ササン朝ペルシャとも呼ばれる。単にペルシア帝国またはペルシャ帝国といった場合は、サーサーン朝かアケメネス朝を指すことが多い。
■クシャーナ朝
中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。貴霜翕侯の存在を示す最も古い証拠はヘラウスと言う名の支配者が発行したコインである。これには「クシャーナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解釈などについては諸説紛々たる状態であり、このクシャーナ「最初」の支配者についての具体像は全くわかっていない。
■エフタル
Hephthalite、は、5世紀〜6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家。5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力(キダーラ朝)を滅ぼしてトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。
■ガズナ朝
Ghaznaviyan)は、現在のアフガニスタンのガズナ(ガズニー)を首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝(955年/977年 - 1187年)。
■ホラズム・シャー朝
アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。コラズム朝とも呼ぶ。
■シャイバーニー朝
Shaybanid Dynasty、は、15世紀 - 16世紀にかけて中央アジアに存在したテュルク系イスラム王朝。ジョチ・ウルスの系譜を引く遊牧集団ウズベクによって建てられたため、ウズベク・ハン国,ウズベク・ウルスとも呼ばれるが、ブハラを首都としたため、続くジャーン朝,マンギト朝とともにブハラ・ハン国とも呼ばれる。
■ドゥッラーニー朝
18世紀にアフガニスタンに存在した王朝。首都はカンダハール。サドザーイー朝とも言う。1747年にイラン系遊牧民パシュトゥン人がアフシャール朝から独立して建国。清がジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。
■タラス河畔の戦い
751年5月から9月にかけて、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で行われた戦闘である。唐とアッバース朝の中央アジアの覇権を巡る天下分け目の戦い、製紙法が西方に伝播した戦いとして有名である。
■月氏
呉音:がちし、漢音:げっし、は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。19世紀以来、テュルク系,イラン系,チベット系,モンゴル系,カッシートと、多くの説が唱えられており定説は無かったが、近年は月氏はイラン系であるという説が有力だった。
■アイ・ハヌム
(Ai-Khanoum, Ay Khanum)は、アフガニスタン北部のクンドゥズ州にあったギリシャ人による古代都市で、アレクサンドロス3世による征服後の紀元前4世紀に作られたグレコ・バクトリア王国の主要都市。アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus) に比定され、後のエウクラティディア (Eucratidia) の可能性もある。
■リグ・ヴェーダ
古代インドの聖典である。サンスクリット語で書かれている。中国語では「梨倶吠陀」と表記され、日本語文献でも用いられた事がある。古代以来長らく口承され、のち文字の発達と共に編纂・文書化された数多くあるヴェーダ聖典群のうちのひとつで、最も古いといわれている。
<世界遺産>
■ジャームのミナレットと考古遺跡群
ジャームのミナレットはアフガニスタンのゴール州、ハリー・ルード川とその支流ジャーム川の合流点のほとりにあるミナレット(尖塔)。ゴール朝(グール朝)のスルターン、ギヤースッディーン・ムハンマド(在位1163年 - 1202年)が築いたとされる世界第2の高さを持つミナレットである。このミナレットは八角形の土台の上に60mの高さを持ち、褐色の煉瓦と、青色のタイル装飾、ブハラで発展を遂げた幾何学模様、クーフィー体アラビア文字の刻印などを特徴とする。このミナレットはゴール朝の最盛期であり、滅亡寸前でもあった12世紀末頃に建てられており、ゴール朝における建築技術の最高峰とも言われる。
■バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群
バーミヤン渓谷は古代以来の都市であるバーミヤーン(バーミヤン)の町を中心とするヒンドゥークシュ山脈山中の渓谷地帯で、標高2500mほどの高地に位置する。古代から存続する都市バーミヤーンの近郊には、1世紀からバクトリアによって石窟仏教寺院が開削され始めた。石窟の数は1000以上にものぼり、グレコ・バクトリア様式の流れを汲む仏教美術の優れた遺産である。
2001年2月26日にターリバーンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてバーミヤンの大仏(磨崖仏)を破壊すると宣言した。この声明に対して世界中の政府および国際機関に加え諸外国のイスラム指導者たちからも批判が寄せられた。ターリバーンの指導者のひとりによると、日本政府は破壊を防ぐために秘密裡の交渉を行い、大仏の国外への移転や視認できないように隠すことを提案していた。タリバンは批判を無視して3月12日に2体の大仏を破壊した。
ターリバーンの文化財保護に対する意識の欠如が強く批判される一方で、内戦中に多くの餓死者が出ていたアフガニスタンに対して国際社会が無関心であったことを批判する者もいる。イランの映画監督であるモフセン・マフマルバフの作品『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』においてマフマルバフは、百万の餓死者よりも一つの仏像の破壊が世界に注目されたことへの苛立ちを表明している
■アフガン戦争
Afghan Warsは、近現代にアフガニスタンを舞台に起こった諸戦争のうち、特に19世紀から20世紀初頭に行われたアフガニスタンとイギリスの間の三次にわたる戦争のこと。アングロ・アフガン戦争ともいう。第一次(1838年 - 1842年)と第二次(1878年 - 1881年)のアフガン戦争は19世紀に繰り広げられたグレート・ゲームの一環として、中央アジアに進出したロシア帝国がインドへと野心を伸ばしてくることを警戒したイギリスが、先手を打ってアフガニスタンを勢力圏に収めるために行った軍事行動であり、第二次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンを保護国とした。アフガン戦争は狭義にはこの二度の戦争を指す。第三次アフガン戦争(1919年)は第一次世界大戦直後に行われた戦争で、アフガニスタンがイギリス領インド帝国に攻め込んで独立を認めさせた戦争である。
■アフガニスタン紛争
1979年からソビエト連邦が行った軍事介入、アメリカ合衆国と有志連合と北部同盟によるターリバーン攻撃はいずれも「アフガニスタン戦争」もしくは「アフガニスタン侵攻」と呼ばれることがある。しかしいずれの場合も、国家同士の戦いという「国際法上の戦争」の定義に当てはまらず、国際法上の戦争には当たらない。このため、「アフガニスタン戦争」という言葉が正式な用語として使われることはない。
■ターリバーン
Talibanは、パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラム主義運動。1996年から2001年11月頃までアフガニスタンの大部分を実効支配し、アフガニスタン・イスラーム首長国(ターリバーン政権)を樹立した(国際的には一部国家を除いて承認されず)。日本では通常タリバン(またはタリバーン)と表記される。ターリバーンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年〜1988年)後の長年の内戦の中から生まれた武装勢力。パシュトゥーン人の割合が多い。
■イスラム原理主義
Islamic fundamentalismは、イスラム的な政治・国家・社会の実現を目指して行われる政治活動や諸運動やその思想。つまり、世俗法ではなくイスラム法(シャリーア)によって統治されるイスラム国家の建設を目指す政治活動や諸運動のこと。一般に認識されている「イスラム原理主義」という言葉は、クルアーンの無謬を信じて厳密に字義どおり解釈し、ムハンマドの時代のウンマ(イスラム共同体)を復興させようとする運動のことである。
■イスラム国家
islamic state)は、イスラームによって統治される国家。即ち唯一全能の神(アッラーフ)が預言者ムハンマドに下した神勅たるクルアーン、預言者の言行録たるハディース、そしてそれらを基礎として成立したイスラーム法(シャリーア)に基づきムスリムの指導者が統治を行い、ムスリムの同胞としての緊密な結合とすべての政治や社会秩序はイスラームに基づくという理念によりアッラーフの祝福が永久に約束されるとする国家のこと。
■アルカーイダ
Al-Qaedaは、イスラーム主義(イスラーム原理主義)と反米・反ユダヤを標榜するスンニ派ムスリムによるイスラーム過激派国際ネットワーク。アルカーイダの起源は、アメリカ中央情報局(CIA)とパキスタン軍統合情報局(ISI)が1978年以降のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に対抗させるために、サイクローン作戦の名の下でムジャヒディーン(イスラム義勇兵)を訓練・育成し武装化させたことに始まる。
■アフガニスタン女性革命協会
アフガニスタンの女性たちの解放と世俗主義国家の樹立を求めて1977年に結成されたムスリムの女性人権団体である。創設者ミーナ以来多くのメンバーが狂信的イスラーム主義者によって殺害された。いわゆるリベラル・ムスリムの活動組織の一部。非暴力的な戦略を支持している。創設以来現在までパキスタン国内の難民キャンプ及びアフガニスタン国内で女子教育や人権侵害を受けた女性の保護を行っている。ソ連軍とアメリカのアフガニスタン侵攻、タリバン、北部同盟などの狂信的イスラム原理主義者に対する強い反抗の姿勢でも知られている。
■ハーミド・カルザイ
1957年12月24日 ‐ は、アフガニスタンの政治家。アフガニスタン・イスラム共和国大統領(初代)。カンダハール州カルツ出身のパシュトゥーン人。アフガニスタン暫定行政機構議長、アフガニスタン・イスラム移行政権大統領を歴任。ターリバーン政権で誕生当初は同じパシュトゥーン人勢力として支持し、1996年、ターリバーンの駐国連代表に任命された。しかし、次第にターリバーンにパキスタンやアラブ諸国の影響力が強まったため、反ターリバーンに転じた。父親がターリバーンに殺害されている。
■ドースト・ムハンマド・ハーン
(1793年 - 1863年6月9日)は、アフガニスタンの国王(在位1835年 - 1863年)。カブールの統治者だったムハメッド・アジムの弟。バラクザイ部族ドゥランニ族出身。1826年、ハーンを宣言して国家を建て、1835年からは国王(アミール)となった。イギリスは、ロシアに対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求したが、ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャワールの回復という対価を要求した。
■ラシッド・ドスタム
(Abdul Rashid Dostum, 1954年前後- )はアフガニスタンの軍人で国防次官、参謀総長。同国のウズベク人で最大派閥を形成。ウズベク人主体の政党『イスラーム民族運動』の元党首。『ドスタム将軍』として知られる。1970年代初め、ジャラーラーバード市の空挺部隊に召集。1978年の4月革命まで、アフガニスタン北部のジューズジャーン州の州都シバルガンの採油労働者だった。1979年から、アフガニスタン人民民主党党員となりパルチャム派に属した。1979年、地方の自衛隊に勤務。1980年代、ムハンマド・ナジーブッラー政権で軍務に就き、第53歩兵師団長となった。この間タシケントで、ソ連KGBの3ヶ月間の将校課程を受けている。
■ムハンマド・オマル
Muhammad Umar 、1959年? ‐ )は、イスラーム主義勢力ターリバーンの最高指導者。初代アフガニスタン・イスラム首長国首長。「オマル」は「ウマル」とも表記される。日本の報道では「オマル師」と表記することが多い。オマルはパシュトゥーン人であり、アフガニスタン南部カンダハール近郊の出身である。生年は1959年頃とされる。一家は極貧の雇われ百姓であり、オマルの生誕前に父親を亡くし、生計はオマルが支えたとされる。パキスタンカイバル・パクトゥンクワ州のイスラーム神学校(マドラサ)に学び、ソ連のアフガニスタン侵攻でムジャーヒディーンとしてゲリラ戦を行い、ムハンマド・ナジーブッラー政権と戦った。オマルは対ソビエト軍の戦いで4度負傷したとされる。
■バーブラーク・カールマル
(Babrak Karmal, 1929年1月6日 - 1996年12月3日)は、アフガニスタンの政治家、共産主義者で第3代革命評議会議長。カブール大学法学部の学生時代から共産主義に傾倒し、政治運動に参加。左翼政党のアフガニスタン人民民主党の創設メンバーとなり、王政期の1965年から1973年までは下院議員として活動した。
■ヌール・ムハンマド・タラキー
(1917年6月15日 - 1979年9月17日)は、アフガニスタンの政治家、初代革命評議会議長。ガズニ州ナワ郡カライ村の裕福な農家に生まれた。ムクル市の小学校を卒業し、ボンベイで夜間英語学校に通った。カブール大学で学士、コロンビア大学で修士、ハーバード大学で博士号取得。
■アブドゥル・マリク
アブドゥル・マリク・パフラワン(1963年 - )は、アフガニスタンの政治家、軍人。大将。ラシッド・ドスタムが率いるアフガニスタン民族イスラム運動の有力者だったが、アフガニスタン内戦中に裏切った。ファーリヤーブ州シリンタガブ郡出身。父のシャムス・パフラワンは、ウズベク人で、村の長老、母はカンダハール出身のパシュトゥーン人。マリク自身は、自らをウズベク人と考えている。
■ザーヒル・シャー
Muhammad Zahir Shah、1914年10月15日 - 2007年7月23日は、アフガニスタン国王(在位:1933年11月8日 - 1973年7月17日)。共和制への政変が起こってのちも王党派の支持を集めた。バーラクザイ朝を中興したムハンマド・ナーディル・シャー国王の子として生まれた。青少年時代にはフランスに留学し、パリのリセ、パステルとモンペリエの大学で学んだ。
■ウサーマ・ビン・ラーディン
Usama bin Muhammad bin Awad bin Ladin, 1957年3月10日? - 2011年5月2日?)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。アルカーイダの司令官(アミール)であり、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされる。父のムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンのハドラマウト地方の貧困家庭の出身で、第一次世界大戦前に家族と共に、イエメンからサウジアラビアのジッタに移住し、1930年に荷夫から身を興しサウジアラビアのジッタで建設業を起業した。ファイサル国王の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「サウジ・ビン・ラーディン・グループ(SBG)」を柱とするラーディン一族を形成した。
■ザヒラ・ザヒル
(Zahira Zahir)は、アフガニスタン出身で、アメリカ合衆国ワシントンのウォーターゲート・ホテルで理髪店『ザヒルサロン』を経営する理容師であり、アフガニスタン女学生支援団体「ザヒル学校の友人たち」の総責任者[4]。アフガニスタン下院議長、アフガニスタン国務総理を歴任したアブドル・ザヒルの娘として生まれた。裕福な家庭で不自由の無い生活を送り、外交官と結婚する。1975年、夫が国連本部アフガニスタン副大使に任命されたことを契機に、ニューヨークへ移り住み、この地で美容とファッションの分野に興味を示し、後の理容師としての素地を育んだ。
■モハマッド・ムサ・シャフィク
(Mohammad Musa Shafiq、1932年 - 1979年)は、アフガニスタンの政治家。王政最後の首相。カブール出身。パシュトゥーン人。モハマッド・イブラヒム・カマヴィ師の息子。ダル=ウリ=オリュメ・シャリーア・マドラサを卒業し、1955年、カイロのアル=アズハル大学でイスラム法の学士号を取得。
■ファズルリハク・ハレキヤル
Fazal Haq Khaliqyar、1934年 - )は、アフガニスタンの政治家。ムハンマド・ナジーブッラー政権の首相。アフガニスタン民主共和国英雄。ヘラートの大地主の家庭に生まれる。タジク人。ヘラートの貴族学校、1958年にカブール大学経済学部を卒業し、アメリカに留学した。1990年4月、ムジャーヒディーン部隊のムハンマド・ナジーブッラー政権への帰順式典時、テロ攻撃により重傷を負う。1990年5月8日〜1992年、首相。
■スルタン・アリー・ケシュトマンド
Sultan Ali Keshtmand、1935年 - )は、アフガニスタンの政治家。共産政権の首相。カーブル州チャルデヒ郡出身。ハザーラ人。父は、店のオーナー。カーブルのハビビア貴族学校を卒業し、1956年〜1961年、カブール大学経済学部で学んだ。1965年1月、アフガニスタン人民民主党第1回会議代表となり、同党中央委員会委員に選出された。パルチャム派。
■グルブッディーン・ヘクマティヤール
Gulbuddin Hekmatyar 1947年 - )は、アフガニスタンの政治家。軍閥・ヘクマティヤール派、ヘズブ・エ・イスラミ・グルブッディーン(Hezb-e-Islami Gulbuddin, HIG)の創設者で、ラッバーニー政権下でアフガニスタン・イスラム国の首相(1993年6月17日 - 1994年6月28日、1996年6月 - 1996年9月)を2度務める。パシュトゥーン人でギルザイ部族連合のハロチ部族に属する 。 |
アフガニスタン Afghanistan
中東・南アジアに位置する共和制国家。内陸国であり、分離したパキスタンが南及び東に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端(ワハーン回廊)は中華人民共和国に接する。首都はカーブル。世界で一番国民の平均寿命が短い国である(2011年現在)。
■カーブル
Kabul カーブル、カブルは、アフガニスタンの首都、カーブル州の州都。日本の主だった報道機関各社は「カブール」という呼称を用いているが、学術的にも一般的にも「カーブル」が妥当である。現地語での発音も「カーブル」に近い。ヒンドゥークシュ山脈の南縁、カイバル峠の麓のカーブル川沿いの狭小な丘陵に位置する標高約1,800mの町。商業が非常に活発であるほか、皮革・家具・ガラス工業、テンサイ糖の生産なども行われる。3000年以上の歴史を持ち、古くから"文明の十字路"と呼ばれた。現在、数十年続いた戦災からの復興の途上にある。カトマンズと並び、ヒッピーの聖地と言われていた時期もある。
■カーブル大学
Kabul University)はアフガニスタンの首都、カーブルにある大学。内戦、タリバン政権時の影響から建て直す必要があり、基礎的なレベルの機能を取り戻す為には6400万ドル必要だと思われている。再建プログラムの一巻としてパードゥー大学 を含む4大学と提携を結んでいる。
■カーブル国際空港
Kabul International Airportは、アフガニスタンのカーブル市北部にある国際空港である。アフガニスタンで最大の国際空港であったが、1970年代以降の度重なる戦火によって破壊された為、現在は日本を含めた国際社会の援助により、機材の整備や空港ターミナルビルの建設が行われ、2008年11月6日に新しいターミナルビルがオープンした。
■カンダハール
Kandaharは、アフガニスタンの都市。アルガンダブ川渓谷に位置する同国南部の主要都市でカンダハール州の州都。人口は450,300人 (2006年の公式推計)で、カーブルに次いでアフガニスタン第2の都市である。
■マザーリシャリーフ
アフガニスタンの都市。近現代におけるアフガニスタン北部の最重要都市で、現在はバルフ州の州都。国内第4位の人口 (300,600人) を擁する (2006年の公式推計)。2007年現在、ハーミド・カルザイ大統領率いるアフガニスタン中央政府によって、マザーリシャリーフは完全に掌握されている。国際治安支援部隊(ISAF)も市内外に展開し、政府を援助している。
■ヘラート
アフガニスタンの都市。ハリー・ルード川の河谷に形成された肥沃なオアシスに位置し、古にはワイン生産地として名高かった。国内第3の人口を擁する (2006年の公式推計で349,000人) 同国北西部の最重要都市で、現在はヘラート州の州都である。ヘラートが文字上の記録に現れるのはきわめて古く、紀元前5世紀にアケメネス朝のダレイオス1世がペルセポリスに残した碑文に既に、ハライヴァという名前であらわれる。ハライヴァは、現在のヘラートを中心とするオアシス都市国家を形成していた。
■クンドゥズ
アフガニスタン北部の都市で、クンドゥズ州の州都幹線道路によって、西のマザーリシャリーフ、南のカーブル、北のタジキスタン国境と結ばれている。古代にはドラプサカとして知られ、アレクサンドロス大王がバクトリア遠征の際に訪れた地でもある。パシュトゥーン人のギルザイ部族長シェール・ハーン・ナシェールの統治の下で、20世紀初頭にはクンドゥズはアフガニスタンで指折りの豊かな地域に成長した。
外務省:アフガニスタン・イスラム共和国
在アフガニスタン日本国大使館
■ガズニー
(Ghazni,はアフガニスタンの都市。ガズニー州の州都。古代の地理学者プトレマイオスも、この街を「ガザカ」として記録している。また、唐僧の玄奘が著した『大唐西域記』にも「鶴悉那」として言及が見られる。ガズニに現存する重要な遺跡には、ガズナ朝の皇帝マフムードの廟や、アブー・ライハーン・アル・ビールーニーの墓などが挙げられる。
■ラシュカルガー
(Lashkar Gah)アフガニスタン南部のヘルマンド州の州都。ヘルマンド川とArghandab川の間に位置している。荒涼とした乾燥地帯であるが、農業が行われている。今日のラシュカルガーの町は、アメリカのテネシー川流域開発公社をモデルに1950年代に始まったヘルマンド川流域開発公社(HVA)で働くアメリカ人技術者のために建設されたのが始まりである。
■ジャラーラーバード
アフガニスタン東部の都市である。カーブル川とクナル川に隣接する、ナンガルハール州の州都である。630年、玄奘三蔵がインドに向かう途中に立ち寄った。7世紀にアラブの支配を受けるまではガンダーラ文化の中心地の1つだった。10世紀に入るとガズナ朝のマフムードのインド侵攻を受け、その版図となる。
■バダフシャーン州
アフガニスタン北東部の州である。ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川に囲まれており、タジキスタン(ゴルノ・バダフシャン自治州)とアフガニスタンにまたがるバダフシャーン地域の一部を成している。莫大な鉱物資源の埋蔵量を誇る。それにも関わらず、バダフシャーンは世界で最も開発の遅れた地域となっている。
■ゴール州
ヒンドゥークシュ山脈の西端に位置する山岳地帯で、ヘルマンド川、ハリー川 (ハリー・ルード) など多くの川の上流が穿った渓谷地帯と分水嶺の山脈が連なる。西にはホラーサーン地方の大都市ヘラートがあり、東に抜ければカブールと中央アジアを繋ぐ交通の要衝バーミヤーンである。
■バーミヤーン州
アフガニスタンのほぼ中央部に位置する。一帯はヒンドゥークシュ山脈の山中に位置する渓谷地帯で、東西に細長い盆地をなし、バーミヤーン渓谷と呼ばれる。バーミヤーン市は古代から存続する都市で、1世紀からは郊外の断崖に北のバルフを都とするバクトリアによって仏教寺院が開削され始めた。バーミヤーン渓谷には通算で1000を超える石窟が掘られ、すぐれた仏教絵画が壁画として描かれた。
■ラグマーン州
ヒンドゥークシュ山脈の南側に位置する小さな州である。州都はメタルラム (Mehtar Lam)。人口386,400人で、メタルラム県をはじめ5県を擁する。アレクサンドロス大王の東方遠征の時代には、この地域はランパカと呼称された。7世紀には、玄奘三蔵がこの地を訪れている。現在カーブル博物館に収蔵されている、ラグマーンで発見された1969点のアラム語の碑文によって、この地がインドからパルミラに通じる交易路の中継地であったことが分かる。
■ファラー州
アフガニスタンで4番目に大きな州であるが、人口は少ない。面積48,471km2、人口438,000人。州都は、地域の商業と農業の中心地ファラー。古代の城塞の遺跡が多く残ることで知られている。2005年2月、同州北部で援助機関の職員がターリバーンに殺害され、知事の暗殺未遂事件も発生した。治安状況が悪いヘルマンド州とウルーズガーン州に隣接しているため、ターリバーンをはじめ非合法組織が域内を頻繁に通過し、時には州内の地域を占拠するという事件が何度か起こっている。
■ナンガルハール州
アフガニスタン東部にある州である。州東部、パキスタン国境には重要な交通の要衝カイバル峠(Khyber Pass)があり、アジアハイウェイ1号線(ベトナムホーチミン市〜イラン・トルコ国境アララット山附近間)が通っている。かつては黄金の三日月地帯として知られたアフガニスタンの主要なケシ生産地であったが、2005年には生産量が最盛期から95%も減少し、麻薬撲滅プログラムにおけるサクセスストーリーを体現した。
■ヌーリスターン州
アフガニスタン東部にある州である。2001年にラグマーン州とクナル州の北部から分離、新設された。ヒンドゥークシュ山脈の南側に位置し、4,000m以上の険しい山々が連なり、住民は渓谷沿いに居住している。1890年代まで、この地域はカフィリスタン (ペルシア語で『不信仰者の地」の意)として知られていた。民族的に他地域とは異なる、アニミズムを信仰する約60,000人のヌーリスターン人 (ヌーリスターン語派話者) が居住していたからである。しかし1895年 - 1896年にこの地はアブドゥッラフマーン・ハーンに征服され、住民はイスラム教に強制的に改宗させられた。
■パンジシール州
アフガニスタン北東部にある州である。この州は2004年4月13日にカーピーサー州の北部から分離して新設された。州都はバザラック。面積は3,610km2、人口133,200人である。本州の中心地、パンジシール渓谷はアフマド・シャー・マスードの根拠地として知られた。マスードの指揮の下、パンジシール渓谷はソビエト連邦にもターリバーンにも制圧されなかった唯一の地域であった。
■パルヴァーン州
アフガニスタン中央部の州である。首都カーブルの北に位置する。人口573,100人。アレクサンドロス大王が紀元前329年に建設した古都、人口153,500人 (2006年) のチャーリーカール (Charikar) が州都。
■鉱業
古くからアフガニスタンには世界最大規模の各種金属、希少金属、貴金属、宝石を含有する豊富な鉱脈が数多く存在することが知られており、インフラの整備や権益の開発が進めば資源企業に莫大な富をもたらすと考えられている。もっとも歴史のあるのは紀元前から採掘が続いた青色の宝石ラピスラズリである。有機鉱物資源では北部の天然ガス(4300兆ジュール、2003年)が主力、石炭(3万5000トン)も採掘されている。金属鉱物資源ではクロム(6364トン)がある。アイナック銅鉱山 (Aynak Copper) は1970年代初めに発見され、1978年に旧ソ連が中央鉱区と西部鉱区の地質探査を終えている。総資源量は鉱石量7億500万トン、平均銅品位1・56%、銅含有金属量1100万トンの超大型の銅鉱床である。
■天然ガス
natural gas)は、一般に天然に産する化石燃料である炭化水素ガスのことを指す。広義には、地下に存在するガス、または地下から地表に噴出するガス一般のことであり、この中には化石燃料ガス(可燃性ガス)だけでなく、窒素や酸素、炭酸ガス、水蒸気、硫化水素ガス、亜硫酸ガス、硫黄酸化物ガスなどの不燃性ガスも含まれる。これら不燃性ガスの多くは火山性ガスである。
■クロム
chromium, は原子番号24の元素。元素記号は Cr。クロム族元素の1つ。金属としての利用は、光沢があること、固いこと、耐食性があることを利用するクロムめっきとしての用途が大きい。また、鉄とニッケルと10.5 %以上のクロムを含む合金(フェロクロム)はステンレス鋼と呼ぶ。ステンレス鋼ではクロムが不動態皮膜を形成するため、ほとんど錆を生じないので車両や機械といった重工業製品から流し台、包丁などの台所用品まで幅広い用途がある。
■ラピスラズリ
(lapis lazuli) は、方ソーダ石グループの鉱物である青金石(ラズライト)を主成分とし、同グループの方ソーダ石・藍方石・黝方石など複数の鉱物が加わった類質同像の固溶体の半貴石である。和名では瑠璃(るり)といい、サンスクリット語のヴァイドゥーリャないしパーリ語のヴェルーリヤの音訳である。深い青色から藍色の宝石で、しばしば黄鉄鉱の粒を含んで夜空の様な輝きを持つ。
■アフガニスタンの国旗
アフガニスタンの国旗は、黒、赤、緑の縦三色の中央に国章を配した旗。中央の紋章にはイスラム教の五行のひとつであるシャハーダ(信仰告白)「アッラーのほかに神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒」とモスクなどが描かれ、それらを麦の穂と剣で囲んでいる。
■国名
公式の英語表記は、Islamic Republic of Afghanistan。通称Afghanistan。日本語の表記は、アフガニスタン・イスラム共和国。通称アフガニスタン。漢字表記は亜富汗斯坦。
1.面積:652,225平方キロメートル(日本の約1.7倍)
2.人口:3,000万人(2008年:国連アフガニスタン支援ミッション)
3.首都:カブール
4.人種:パシュトゥーン人、タジク人、ハザラ人、ウズベク人等
5.言語:公用語であるダリー語、パシュトゥー語の他、ハザラ語、タジク語等
6.宗教:イスラム教(主にスンニー派のハナフイ学派であるが、ハザラ人はシーア派)
7.略史:長年の他民族による支配の後、1747年ドゥラーニー王朝成立。バラクザイ王朝(1826〜1973年)下の1880年、英国の保護領となるが、1919年独立を達成。1973年7月共和制に移行後、1978年4月軍部クーデターにより人民民主党政権成立。1979年12月ソ連の軍事介入のもとカルマル政権成立。1986年5月ナジブラが書記長就任。1989年2月ジュネーブ合意に基づき、駐留ソ連軍の撤退完了。1992年4月ムジャーヒディーン・ゲリラ勢力の軍事攻勢によりナジブラ政権が崩壊し、ムジャーヒディーン政権が成立するが、各派間の主導権争いにより内戦状態が継続。1994年頃から、イスラムへの回帰を訴えるタリバーンが勢力を伸ばし、1996年9月に首都カブールを制圧、1999年までには国土の9割を支配するに到った。2001年10月より、米国同時多発テロ事件を機とする米・英等によるアル・カーイダ及びタリバーンに対する軍事行事が行われ、12月には北部同盟等がタリバーン支配地域を奪還した。アフガニスタン各派の代表は今後の和平プロセスに関する合意を達成し(ボン合意)、2002年6月にはこの合意に基づき緊急ロヤ・ジェルガが開催され、カルザイ暫定政権議長を大統領とする移行政権が成立した。憲法制定ロヤ・ジェルガの開催により、2004年1月に新しい憲法が制定された。同年10月9日に第一回大統領選挙が行われ、カルザイ大統領が当選(12月7日、大統領就任式典)。その後、2009年8月に第二回大統領選挙が実施され、カルザイ大統領は当選の要件である過半数の得票に届かなかったものの、対立候補が決選投票を辞退したために再選(同年11月19日大統領就任式典)。
■主要産業:農業(小麦、大麦、ジャガイモ、米、アーモンド、サトウキビ等)(2008年アフガニスタン中央統計局 Afghanistan Statistical Yearbook)
■主要貿易品(輸出)アーモンド、レーズン、ピスタチオ、スモモ、ザクロ、ブドウ、リンゴ等(輸入)自動車、ガソリン、鉄鋼、自動車部品、サラダ油、ポリエステル繊維(2008年アフガニスタン中央統計局 Afghanistan Statistical Yearbook)
■アフガニ
Afghani)はアフガニスタンの通貨単位。ISOコードはAFN。 2004年1月現在、1ドル=42.785アフガニ。補助通貨単位はプル (pul) で、1アフガニ=100プル。ただし現在、プルは流通していない(流通している最低単位は1アフガニである)。
■国際治安支援部隊
International Security Assistance Forceは、国際平和活動のひとつ。アフガニスタンの治安維持を通じアフガニスタン政府を支援する目的で、2001年12月5日のボン合意に基づく2001年12月20日の国連安保理決議1386号により設立された。当初は有志国の集まりからなる多国籍軍により構成されていたが、現在は北大西洋条約機構(NATO)が統括する。略称はISAF(アイサフ)。
■国連アフガニスタン支援ミッション
United Nations Assistance Mission in Afghanistanは、国際連合が行う 国際平和活動。国連がアフガニスタンで展開する政治ミッションのひとつで、国連の各機関、北大西洋条約機構(NATO)率いる国際治安支援部隊(ISAF)のほか、国際機関(IGO)及び非政府組織(NGO)等と連携して、アフガニスタンにおける人道開発支援事業を統括する。 本部はカブールにあり、イスラマバードとテヘランに連絡事務所を置く。略称はUNAMA(ユナマ)。
■南アジア地域協力連合
South Asia Association for Regional Cooperation、略称SAARC)は、南アジアの福祉増進と生活水準向上を図り経済的成長社会進歩、文化発展を進めるため1985年に創設された地域協力組織。7ヵ国で発足した。その後アフガニスタンが加盟した。本部はネパールのカトマンズにある。
■国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション
United Nations Good Offices Mission in Afghanistan and Pakistan,UNGOMAP)は国際連合平和維持活動(PKO)の一つ。和平協定に基づくアフガニスタン駐留ソ連軍の撤退の検証や難民の帰還支援などを任務とする。
■ボン合意
Agreement on Provisional Agrrangements in Afghanistan Pending the Re-establishment of Permanent Government Institutions, The Bonn Agreement)は、アフガニスタン戦争における大規模戦闘が収束に向かいはじめた2001年11月、国際連合がドイツのボンで招集したアフガニスタンにおける和平と復興推進のための国際会議(ボン会議、英: UN Talks on Afghanistan)において、2001年12月5日に締結された政治的なロードマップ合意の名称。
■腐敗問題
BBCやNHKの報道によると、カルザイ政権発足以降政府高官や公務員による汚職が急増している。アフガン政府の腐敗にアフガン国民が失望し、そのためアフガン国民は政府ではなくターリバーンを頼るようになり、ターリバーンが復活する一因となったという。
■人権問題
純然たるイスラム国家であったターリバーン政権が崩壊した後、カルザイ政権下でアフガニスタンにおける世俗化は一定程度進んだとされる。しかし現在でもアフガニスタンはイスラーム法およびその強い影響下にある世俗法に基づく統治が行われ、イスラム国家としての色彩が強い。
■政治の現状
憲法により複数政党制が認められているが、アメリカやそれに従属するカルザイ政権による制限があり、また政党政治が根付いていないアフガニスタンでは、政党の活動は低調である。それでも比較的有力なものとして、かつてアフマド・シャー・マスードが率い、現在はブルハーヌッディーン・ラッバーニー元大統領の指導するイスラム協会(タジク人中心)、アブドゥラシード・ドスタム率いるウズベク人勢力のイスラム民族運動、ハザラ人主体のイスラム統一党がある。また、これらの政党は政党連合統一国民戦線(単に国民戦線とも)を結成し、無党派のカルザイ政権に対する野党として活動している。アフガニスタンの主要民族であるパシュトゥーン人による旧政権ターリバーンやヘクマティヤール派等の反政府活動も存在し、南部の一部を実効支配している。
■アフガニスタン人民民主党
共産政権時代にアフガニスタンの政権党であった政党である。1965年、ヌール・ムハンマド・タラキーにより創設された。党内には2つの派閥が存在した。派閥名はそれぞれの機関紙名にちなみ、パルチャムは旗を、ハルクは人民を意味する。パルチャム派は、大中地主、インテリ、高級官僚及び軍人等、富裕層を統合した。
■北部同盟
1996年9月のターリバーンのカーブル制圧ののち、反ターリバーン政権として北部アフガニスタンを統治した勢力。正式名称をアフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線といい、パキスタンによって「北部同盟」と呼称されたものが外国のマスメディアに浸透し、もっぱら北部同盟と呼ばれるようになった。
■ロヤ・ジルガ
パシュトー語で大会議を意味する。何世紀もの間、ロヤ・ジルガは、アフガニスタンにおいて、新国王を選出し、憲法を採択し、その他の重要な政治問題を解決するために召集された。伝統により、ロヤ・ジルガには、部族長と長老が参加し、現地会議(シューラー)がカーブルに派遣された。
■子どもの情景
2007年製作のイラン映画。イラン・イスラーム共和国とフランス共和国の合作である。アフガニスタンを舞台にした、ハナ・マフマルバフ監督による初の長編作品である。ハナ・マフマルバフは、彼女の父であるモフセン・マフマルバフの影響を受け、この映画を世に送り出した。
■カンダハール
Safar e Ghandeharは2001年制作のイラン映画。主人公のナファスを演じたニルファー・パズィラは実際にアフガニスタンからの難民で、この作品は彼女の実体験にフィクションを交えて描かれている。
■アフガン零年
『アフガン零年』(Osama) は2003年製作のアフガニスタン、日本(NHK)、アイルランド合作映画。セディク・バルマク監督。アフガニスタン復興後はじめての映画である。出演者は俳優ではなく、監督が一般の人々の中から見つけた。
■カーレド・ホッセイニ
Khaled Hosseiniは、1965年生まれのアフガニスタン出身の小説家、医者。タジク人。現在はアメリカ合衆国の市民権を取得している。■君のためなら千回でも:原題:The Kite Runnerは、アフガニスタンのカーブル出身のカーレド・ホッセイニによる小説。及びそれを原作とした2007年のアメリカ映画。
■ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
Mu?ammad 570年頃 - 632年6月8日は、イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島西中部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。ムハンマドは大変な猫好きであったといわれ、ムエザという猫を飼っていたと伝わっていて、猫にまつわるさまざまな逸話がある。 ある日ムハンマドが外出しようとすると、着ようと思っていた服の上で猫が眠っていた。ムハンマドは猫を起こすことを忍びなく思い、服の袖を切り落とし片袖のない服で外出したという。
■アフマド・シャー・マスード
Ahmed Shah Massoud1953年9月2日- 2001年9月9日は、アフガニスタンの政治家。パンジシール渓谷ジュンガラック村の王国陸軍大佐ドースト・ムハンマドの三男として生まれる。フランス語で教育が行われたカブールの貴族高等中学校「イスチクリャリ」で学んだ。1975年、帰国してパンジシール渓谷に本拠地を築き、1979年のソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後は反ソ連軍ゲリラの司令官となり、ソ連軍にしばしば大きな打撃を与えた。ソ連軍の大規模攻撃をも撃退し、「パンジシールの獅子」と呼ばれた。1988年7月、マスードはソ連軍捕虜を自発的に解放し、ソ連軍の撤退を妨害しないことを約束した。このことはマスードに対するソ連側の心象を良くし、後にロシアが北部同盟を支援する動機ともなった。大の読書家で、1997年時には、寝る間も惜しみ読書に時間を割いていたため、1日の睡眠時間はおよそ2時間程度だった。1996年のタリバーンの攻勢により、事前に首都から撤退したが、その際マスードは約3000冊の蔵書を持ち出している。「国を解放したら、国民が信頼できる政治家に後は任せて、大学で建築学を勉強しなおしたい」(1983年のソビエト軍第六次攻勢を撃退後、自分の将来の展望を聞かれて)
■ムハンマド・ナーディル・シャー
1883年4月10日 - 1933年11月8日)は、アフガニスタン国王(在位:1929年10月15日 - 1933年11月8日)。ザーヒル・シャーの父。パシュトゥーン人ムハンマドザイ部族出身。ムハンマド・ユースフ・ハーン将軍の息子。ナクシュバンディー教団(英語版)の指導者。1929年10月15日、アフガニスタンの国王(アミール)を宣言した。1930年9月、ロヤ・ジルガにおいて彼の称号が承認された。その後、国王の称号をシャーに変えた。
■ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
1940年 - 2011年9月20日は、アフガニスタンの政治家。タジク人。イスラーム主義系政治組織ジャマーアテ・イスラーミーの最高指導者。初代アフガニスタン・イスラム国大統領(1992年 - 2001年)。日本ではブルハヌッディン・ラバニと表記されることもある。ナジーブッラーの共産主義政権の崩壊にともなってラッバーニーは帰国、暫定指導評議会議長となり、1992年6月28日にアフガニスタン・イスラーム国の大統領に就任した。しかし、有名無実の首相グルブッディーン・ヘクマティヤール率いるヒズベ・イスラーミー(ヘクマティヤール派)とジャマーアテ・イスラーミーとの深刻な確執をはじめ、各派の争いは瞬く間に激化し、アフガニスタンは内戦状態に陥いった。各派による内戦の間にカーブルは壊滅的な打撃を被った。
■ハーフィズッラー・アミーン
(1929年8月1日 - 1979年12月27日)は、アフガニスタンの政治家、第2代革命評議会議長。カブール刑務所長の息子。パシュトゥーン人、ギルザイ部族連合ハルティ(ハロティ)部族出身。カブール近郊のパグラムに生まれる。父は獄長。高等教育学校を卒業し、カブール大学で理学士号を取得する。大学卒業後、カブールの貴族学校「イブン・シーナ」の講師、副校長、校長となった。
■シブガトゥッラー・ムジャッディディー
Sibghatullah Mojaddedi、1926年 - は、アフガニスタンの政治家。長老議会(上院)議長。アフガニスタン・イスラム国大統領(臨時)を歴任。カブール出身。ナクシュバンディー教団の指導者の子孫、ムジャッディディー氏族の長。1944年、カブールのマドラサを卒業し、カブール大学で学んだ。1948年〜1953年、エジプト、カイロのアル=アズハル大学で学び、学士号を取得した。エジプトで、ムスリム同胞団と関係したため、1954年に国外追放された。
■ムハンマド・ダーウード
(1909年7月18日 - 1978年4月28日)は、アフガニスタンの政治家、大統領。旧王族の一人で、ザーヒル・シャーの従兄弟。1953年9月から1963年まで首相。首相在任時、ムハンマド・ダーウードは、国軍の近代化を重要な任務と考え、ソ連に援助を要請した。1956年から、ソ連の軍事援助がアフガニスタンに提供され、アフガン軍にはソ連の軍事顧問団が駐在し、アフガン軍将校はソヴィエトに留学した。
■ムハンマド・ナジーブッラー
(Mohammad Najibullah, 1947年8月6日 - 1996年9月27日) は、アフガニスタンの政治家、共産主義者で元革命評議会議長(1986年 - 1987年)、元大統領(1987年-1992年)。パシュトゥーン系のギルザイ部族連合アフマザイ部族出身で、部族長の孫としてカーブルで生まれた。青年時代は、怪力のため「牛」の渾名(あだな)が付けられた。ナビブッラー高校を卒業した後、カブール大学で医学を学んだ。
■アブドゥール・ラフマン
Abdul Rahman, 1953年 - 2002年2月14日)は、アフガニスタンの政治家。反ターリバーンの北部同盟の政治家として活躍し、2001年12月22日にアフガニスタン暫定行政機構のハーミド・カルザイ暫定政権下で航空観光大臣に就任した。2002年2月14日、インドのデリーへ向かう為に、カブール国際空港に駐機していたアリアナ・アフガン航空のエアバスA300型機に搭乗していたところ、サウジアラビアのメッカへ向かう便が立て続けに欠航した事に憤慨し暴徒化したイスラム教徒の巡礼者に取り囲まれて撲殺され、遺体を滑走路に投げ捨てられた。この事件は世界各国で報道され、衝撃を与えた。
■ザルメイ・ハリルザド
(Zalmay Khalilzad、1951年3月22日 - )は、アメリカ合衆国の官僚、外交官、政治家。アフガニスタン生まれ。マザーリシャリーフ市出身。父はハリルッラー(パシュトゥーン人)、母はタジク人。1968年、ガジ貴族学校を卒業し、レバノンのベイルート・アメリカン大学でBAとMA取得後、1979年、シカゴ大学で政治学博士号取得。1979年から1989年までコロンビア大学国際行政大学院で助教授を務めた。
■マウルヴィ・ナジル
Maulvi Nazir、1975年 - 2013年1月2日)は、パキスタン・ターリバーン運動の指導者の1人。パキスタンとアフガニスタンの二重国籍を有する。パキスタンとアフガニスタン両国に居住するカカヘル(Kakakhel)部族、アフメドザイ・ワジル(Ahmedzai Wazir)氏族に属する。ターリバーン運動結成以前、ナジルは、パキスタン統合情報局(ISI)の支援を受けていたグルブッディーン・ヘクマティヤールのアフガニスタン・イスラム党と協力していた。その後、ターリバーンに加わる。
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