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イエメン共和国
Republic of Yemen

■地理
アラビア半島の南西、北緯12度から20度に位置する。紅海、アデン湾、アラビア海に面し、北でサウジアラビア、東でオマーンと国境を接し、アデン湾を挟んでソマリアに対面する。本土以外にソマリアの沖にあるインド洋のソコトラ島(3625km2)なども領有している。地理学的には4つの地域に分けられる。紅海沿岸、西部山地、東部山地、北のルブアルハリ砂漠である。

アラビア半島
アジアとアフリカを繋ぐ場所に位置する西アジア南西の巨大な半島である。半島としては世界最大である。政治的には、サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦、カタール、オマーン王国、イエメン共和国に分かれており、カタールとサウジアラビアの沖にバーレーンがある。

インド洋
Indian Ocean、は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7340万平方km、沿海との合計面積は7410万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。インド洋は中東、アフリカ、東アジアとヨーロッパ、アメリカを結ぶ主要な海上交通路となっている。特にペルシャ湾とインドネシアからの石油および石油製品の主要な運送路となっている。

紅海
アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。南部はバブ・エル・マンデブ海峡を経てアデン湾と繋がっている。同海峡は国際海峡である。域内には大きな島嶼は無く、沿岸部に小島嶼が数多くある。エリトリアのダフラク諸島、サウジアラビアのファラサン諸島、イエメンのカマラン島などがある。

アデン
Gulf of Adenは、インド洋の北西側にあり、北はアラビア半島、南はアフリカ大陸のソマリア半島に挟まれた東西に細長い湾。湾の西側には、バブ・エル・マンデブ海峡を介して紅海が広がっている。イエメン、ジブチ、ソマリアと接している。

ソコトラ島
Suqu?ra)は、イエメンのアデン県に属するインド洋上の島。周辺の島と合わせてソコトラ群島やソコトラ諸島などと総称されることも多い。世界遺産に登録される独特の生態系と、その奇観で知られる。 紅海の入り口に位置し、ジブラルタルと並んで地政学的に重要なこともあって、第二次世界大戦やそれに類する戦争を扱った架空戦記などにもしばしば登場している。

カマラン島
紅海南東部にあるイエメン領の島。面積は約180平方キロメートル。北北東から南南東に延びた島であり、長さ約18km幅約7km。砂漠気候下にあり、植生には乏しい。島の周囲にはサンゴ礁が見られる。16世紀にはポルトガル人が来航したことは判明している。19世紀にはオスマン帝国が紅海沿岸に勢力を伸ばし、カマラン島もその勢力下に入っている。オスマン帝国はメッカ巡礼者の検疫所として島を用いている。


ワジ
アフリカ大陸やアラビア半島の砂漠気候地帯や乾燥地帯の各地にある、流水のない「涸れ川」(かれがわ)。雨季の一時的な豪雨のときのみに水が流れる。年間をとおして降水量が蒸発量より少ない高温乾燥地域にみられ、本来川になるはずの地形が普段は干上がっており雨季の一時的な豪雨のときのみに水流が出現する。


シャーフィイー学派
イスラーム教スンナ派における四大法学派のひとつ。単にシャーフィイー派とも称される。アッバース朝初期に活躍した法学者アブー・アブドゥッラー・ムハンマド・シャーフィイーを名祖とする。ハナフィー学派やマーリク学派と比べた場合、大体において啓示的法源を重視するため、地域の慣習rasm)に依拠する割合が低い傾向がある。セルジューク朝の庇護を受けたため、一時はイラン高原全域から、イラク、アナトリア、シリア、エジプトにまで勢力を拡大した。

スンナ派
イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。

シーア派
イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。

十二イマーム派
イスラム教シーア派の一派。イラン、イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、イランの国教でもある。シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多く、日本では報道などで単に「シーア派」といった場合は十二イマーム派を指すことがほとんどである。

ルブアルハリ砂漠
the Rub' al khaliは、アラビア半島南部の3分の1を占める世界最大級の砂砂漠。サウジアラビア南部、オマーン、アラブ首長国連邦(UAE)、イエメンの4カ国に広がる。ルブアルハリは、長さ1000キロメートル(600マイル)、幅500キロメートル(300マイル)。最近まで大部分が探検されていなかった。ベドウィンでさえ、その辺縁を移動するにすぎない。夏の気温は、夜は氷点下、正午には摂氏55度に達する。エッフェル塔 (324m) より高い砂丘もある。砂漠化は、この1000年間に進行した。3世紀頃までは乳香交易のキャラバンがこの地を横断していたが、砂漠化がこの地をキャラバン交易路が横切るのを困難にした、現在では不毛の荒地が広がっている。失われた都市ウバル (Ubar) もこのような交易に依存していた。

ベドウィン
砂漠の住人を指す一般名詞で、普通アラブの遊牧民族に対して使う。「アラビア半島を中心にラクダ・羊の放牧や売買をおこない、輸送や他の仕事を営むアラブ系の遊牧民」というのが、ベドウィンの一般的でゆるやかな定義である。彼らの姿は、広くサハラ砂漠の大西洋岸から、西部砂漠、シナイ半島、ネゲブ砂漠、アラビア砂漠へと伸びるほとんどの砂漠地帯で見られる。

アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラビア人」の呼称が過去には一般的であったが、アラビア人を意味する英語のarabにさらに「人」をつけ足した「アラブ人」という言い方が、本来の意味からすればおかしいものの、オイルショックの頃から使われだし、やがて定着したもの。

ハドラミー
(en:Hadhrami people)とは、南アラビア(イエメン、南イエメン)のハドラマウト地方出身者やその子孫のことである。世界中に独自のネットワークを形成している。インドネシアに400万人がいると推定されている。その他の東南アジア諸国や、インド、アラビア半島、東アフリカ諸国にも居住している。


ハドラマウト
Hadhramaut)は、南アラビアの一地域で現在はイエメン共和国領となっている。歴史的には西側のシャブワ、東側のマフラ地方や、現オマーン領のズファール地方も含む地域を指していた。アラビア半島の南端部の一角を占め、アラビア海に面する。


<歴史>
■古代
古代 - 交易の中心地、および物資集散地として繁栄。古代ギリシャや古代ローマの時代には「幸福のアラビア (Arabia a Felix)」として知られる。

古代ギリシア
一般的に、古代ローマ支配下以前のギリシアをいう。短期間に文明が発達し、東西の文明に大きな影響を与えた。紀元前2600年ころ、小アジアのトロイア周辺に青銅器文明を持つトロイア文明が栄え、紀元前2000年ころには線文字Aを持つミノア文明がクレタ島のクノッソスを中心に興る。さらに紀元前1500年ころに線文字Bを持つミケーネ文明がペロポネソス半島のミケーネ・ティリンスを中心に栄えた。

古代ローマ
Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国までになった国家の総称である。ローマ市は、帝国の滅亡後も一都市として存続し、世界帝国ローマの記憶は以後の思想や制度にさまざまな形で残り、今日まで影響を与えている。




■16世紀
オスマン帝国の支配下に入るが、イエメン人はオスマン帝国に対し抵抗。1世紀後にオスマン勢力を駆逐し、ザイード派勢力による支配を受ける。

オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。

イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。



■1918年
オスマン帝国の第一次世界大戦敗北にともない、イエメン王国が独立。

■1990年5月22日
北イエメン、南イエメンが合併し、現在のイエメン共和国が成立。成立したイエメン共和国の初代の大統領として北イエメン大統領を務めていたアリ・アブドラ・サーレハが務めることになる。




■2000年10月
旧南イエメンの首都であったアデンにあるアデン港で、イスラム原理主義勢力アルカーイダによる米艦コール襲撃事件が起こる。なお、イエメンはアルカーイダの指導者だったウサーマ・ビン・ラーディンの父親の出身地。

米艦コール襲撃事件
2000年10月12日に発生したアメリカ海軍のアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦「コール」(USS Cole, DDG-67)に対する自爆攻撃。2000年10月12日、ミサイル駆逐艦「コール」は定時燃料補給のためイエメンのアデン港に停泊中であった。09:30に係留作業を完了し、燃料補給は10:30に開始された。現地時間11:18 (08:18 UTC) に小型ボートが艦の左舷に接近し自爆した。爆発によって左舷に12m四方の亀裂が生じ、艦が大きく損傷した。

イスラム原理主義
Islamic fundamentalism)は、イスラム的な政治・国家・社会の実現を目指して行われる政治活動や諸運動やその思想。つまり、世俗法ではなくイスラム法(シャリーア)によって統治されるイスラム国家の建設を目指す政治活動や諸運動のこと。

アルカーイダ
Al-Qaeda)は、イスラーム主義を標榜するスンナ派ムスリムを主体とした国際的なネットワーク、思想、運動。アル=カーイダの起源は、アメリカ中央情報局(CIA)とパキスタン軍統合情報局(ISI)が1978年以降のソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻に対抗させるために、サイクローン作戦の名の下でムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)を訓練・育成し武装化させたことに始まる。




■2011年1月
チュニジアでのジャスミン革命、エジプトでの民衆革命に影響を受けて市民による反政府デモが発生(アラブの春、2011年イエメン騒乱)。この結果、サーレハ大統領は退陣し、ハーディ副大統領が翌年2月の暫定大統領選挙で当選。

2011年イエメン騒乱
イエメンにおいて2011年から2012年にかけて発生した大規模な反政府デモとそれに付随する事件の総称である。この結果、北イエメン時代より30年以上も政権を維持したアリー・アブドッラー・サーレハは2011年12月に大統領権限を副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーに移譲し暫定政権に移行、長期政権に事実上の幕を下ろした。


シバの女王
旧約聖書に登場する女王。シバの女王はシバ王国の支配者で、ソロモンの知恵を噂で伝え聞き、自身の抱える悩みを解決するために遠方の国家からエルサレムのソロモン王の元を訪れたとされる。シバ王国の所在については有力視される2つの説があり、エチオピア説によればその名をマケダ(あるいはマーキダ)と呼び、イエメン説によればビルキス(あるいはバルキス)と呼ぶ。ただし、両説ともこれを裏付ける考古学的発見は未だ皆無である。


シバ王国
sh'va, Sabaは、タナハ(旧約聖書)とコーランで言及されている歴史上の王国。王国の所在地については、エチオピアかイエメンかで議論がなされているが、エチオピアとイエメン双方に位置した可能性もある。旧約聖書におけるソロモン王とシバの女王の話で知られている。

アクスム王国
過去のエチオピアに栄えた交易国。一般に、アクスムは現在のイエメンに当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系のサバ(シェバ)人が中心になって建国されたと考えられている。一方、少なくとも紀元前1000年位にはセム語系民族が存在したこととサバ移民が数十年しかエチオピアに留まっていなかったことを示唆する証拠を示して 、アクスムはより古い土着のダモト(D’mtないしDa'amot) 王国の跡を継いだ者達の国である、と主張する学者もいる。


ソロモン
紀元前1011年頃 - 紀元前931年頃)は、旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエル(イスラエル王国)の第3代の王(在位紀元前971年 - 紀元前931年頃)。父はダビデ。母はバト・シェバ。エジプトに臣下の礼をとり、ファラオの娘を降嫁されることで安全保障を確立し、古代イスラエルの最盛期を築いた。


<世界遺産>
サナア旧市街
世界最古の町のひとつとされ、伝説ではノアの息子・セムによって町が創建されたとされる。エベルの息子のヨクタン(イエメンに入植したと言われる)の子孫・ウザルに因んで、サヌアは古くは「アザル」と呼ばれた。

シバームの旧城壁市街
シバームが有名なのは、ハドラマウト地方独特の高層ビルによっているところが大きく、1982年、ユネスコの世界遺産に「シバームの古代都市」の名前で登録された。シバームの住宅は全て、泥煉瓦によって構成されており、今日でも、500以上の5階から9階建ての高層建築が残っている。

古都ザビード*危機遺産
ザビードは紅海沿岸にひろがるティハーマ平野に位置し、「ワーディー・ザビード」と「ワーディー・リマア」と呼ばれる2つのワジ(涸れ川)に挟まれた都市である。14世紀後半にはザビードは4つの門を持つ全長約9kmの城壁で囲まれ、200以上のモスクやマドラサが林立する教育・宗教の一大都市となっていた。各地から人が集まり、その中には『三大陸周遊記』で知られるイブン・バットゥータのような人物もいた。

ソコトラ群島
アラビア半島の南300km、アフリカ大陸の東端アシル岬の東北東240kmに浮かぶ。大きさは東西に約100km、南北に約40km。人口42,842人。ソコトラ島は、超大陸(ゴンドワナ大陸)の分裂でアデン湾が形成した2300万年〜500万年前にアフリカ大陸から分離したと考えられている。苛酷な気象条件の下で動植物が独自の系統的進化を遂げ、イエメン本土のあるアラビア半島とは異なった生態系を形成しており、固有種率は極めて高い。


チャット
(Khat、学名:Catha edulis、は東アフリカとアラビア半島の熱帯に自生するニシキギ科の常緑樹の一種。カート、カットとも呼ばれる。和名はアラビアチャノキだが、ツバキ科のチャノキとは近縁ではない。アンフェタミンに似た覚醒作用をもたらすアルカロイドの一種カチノン(Cathinone、(S)-1-フェニル-2-アミノ-1-プロパノン)が含まれており、新芽の葉を噛むことで高揚感や多幸感が得られる他、食欲を抑制する効果もあるが、効果は非常に弱いものであり、コーヒーや酒などの刺激物を飲みなれている人間にはほとんど効かない。飲酒の禁じられているイスラム世界のうち、特にケニア、ソマリア、エチオピア、イエメンなどアラビア半島から東アフリカにかけての地域においては、酒などの代用として嗜好品として需要が高いが、イスラム世界のほとんどの国ではその特性のため麻薬として非合法となっている。


イエメン・ユダヤ人
(Yemenite Jews、はイエメンに住む、或いは比較的最近までイエメンに住んでいたユダヤ人またはその子孫をさす言葉。1949年6月から1950年9月にイスラエルによって秘密裏に実施された魔法の絨毯作戦で、事実上、ほとんどのイエメンのユダヤ人(ユダヤ教徒)は国を離れ、現在はイスラエル(少数はアメリカ合衆国)に住んでいる。ソロモンの時代にアラビア半島の先端に移住したユダヤ人がいたとされる。ソロモンはエルサレム神殿建立のために内装に使う金銀を探しにイエメンにユダヤ人の商船を派遣したとも伝えられる。


ハドラミー
(Hadhrami people)とは、南アラビア(イエメン、南イエメン)のハドラマウト地方出身者やその子孫のことである。世界中に独自のネットワークを形成している。インドネシアに400万人がいると推定されている。その他の東南アジア諸国や、インド、アラビア半島、東アフリカ諸国にも居住している。


アブド・ラッボ・マンスール・アル=ハーディー
Abd Rabbuh Mansur al-Hadi、1945年- は、イエメンの政治家。現在、同国の大統領。副大統領、国防大臣などを歴任した。軍における階級は少将。2011年イエメン騒乱において大統領宮殿が攻撃を受けた際にアリ・アブドラ・サーレハ大統領が負傷し、サウジアラビアにおいて治療を受けている間の2011年6月4日から9月23日まで大統領代行を務めた。

ムハンマド・サリム・バシンドワ
(Mohammed Salim Basindawa、1953年4月4日 - )は、イエメンの政治家。現在、同国首相。外務大臣などを歴任した。2011年の反政府運動においてポスト・サーレハ政権の首相候補として野党より5月の時点で名前を挙げられた。その後も反政府運動は続き、サーレハは11月23日に大統領権限をアブド・ラッボ・マンスール・ハーディー副大統領に委譲することに同意。

アリ・アブドラ・サーレハ
Ali Abdullah Saleh、1942年3月21日- はイエメン共和国の政治家。同国大統領(初代)を務めた。旧北イエメン共和国(イエメン・アラブ共和国)の陸軍総司令を経て北イエメン共和国大統領となり、 1990年の南北イエメン統合によって統一政府の初代大統領に選出される。北イエメン王国のアル・アフマル市に生まれる。同地はハーシド氏族の統治する地域で、サーレハ家はシーア派(ザイド派)を信仰するアラブ系イエメン人であった。

ノア
旧約聖書・『創世記』5章〜10章に登場するノアの方舟(箱船)で有名な人物。創世記の記述に従うならば、すべての人類の祖先ということになる。イスラム教においては「ヌーフ」と称され、アブラハム(イブラーヒーム)、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)、ムハンマドと共に五大預言者のうちの一人とされる。

セム
旧約聖書創世記に出てくる物語「ノアの方舟」の、ノアの3人の息子のうちの一人。他の2人はハム、ヤペテ。アジア人の先祖と言われ、ユダヤ人の先祖アブラハムの父祖として系図に登場する。ヘブライ語、アラム語、アラビア語やエチオピアの諸言語は比較言語学的に親縁関係にあることが明らかになり、アウグスト・シュレーツァーによってセムにちなみセム語と名づけられた。イエメンの首都サヌアを建設したと伝えられる。

ジョン・フィルビー
Harry St John Bridger Philby、1885年4月3日−1960年9月30日は、イギリスの植民地政治家、ヒジャーズ国王イブン・サウードの顧問、探検家、歴史家。通称はジャック。父のハリー・モンターギュがセイロンのコーヒー園経営に失敗して零落し、母は1891年からロンドンで下宿業を営み4人の子を育てる。ジョンはセイロンのバドゥラ(Badulla)で生まれ貧しい家庭の次男として育つが才能に恵まれ、奨学金によりウェストミンスター・スクールからトリニティー・カレッジへと進学した。

 

イエメン Yemen
中東・アラビア半島にある国家である。アラビア半島の南西、北緯12度から20度に位置する。紅海、アデン湾、アラビア海に面し、北でサウジアラビア、東でオマーンと国境を接し、アデン湾を挟んでソマリアに対面する。本土以外にソマリアの沖にあるインド洋のソコトラ島(3625km2)なども領有している。面積は約52万8000km2。首都はサヌア。

サヌア
アラビア半島南西にあるイエメンの首都である。サヌア県の中心ではあるが、行政上はサヌア県に属さず、Amanat Al-Asemah(サヌア市)を単独で構成している。サヌアは標高約2,300mの高原にあり首都としては世界でも高地にある。世界最古の町のひとつとされ、伝説ではノアの息子・セムによって町が創建されたとされる。エベルの息子のヨクタン(イエメンに入植したと言われる)の子孫・ウザルに因んで、サヌアは古くは「アザル」と呼ばれた。


サヌア国際空港
Sana'a International Airportは、イエメン共和国の首都サヌアにある国際空港である。 また、イエメニアの本拠地でもある。


外務省:イエメン共和国
在イエメン日本国大使館


モカ
Mochaは、イエメン共和国の港町である。アラビア半島南西端にあり、紅海に面している。イエメン共和国の首都サヌアの外港で、15世紀から17世紀にかけてコーヒー豆の積出港として栄えた。コーヒーノキの原産地はエチオピアであるが、これを世界に広めたのはアラビア半島の商人達で、モカはコーヒー発祥の地とされている。イエメン産のコーヒー豆は特に「モカ・マタリ」 (Mokha Mattari) ともいい、イエメン北西部の高地産である。コーヒーにするとさわやかな香りと強い酸味のある味わいで、かつて「コーヒールンバ」に唄われていたためか、日本でも人気が高い。「No.9」というのが、欠点豆の混入がほとんどない優良等級である。

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ティハーマ
Tihamahは、アラビア半島の紅海沿岸に位置する狭い平野地帯。ヒジャーズ地方の南にあたり、現在はサウジアラビア王国とイエメンの二カ国にまたがっている。広い定義では、ティハーマはアカバ湾からバブ・エル・マンデブ海峡に至る紅海沿岸地域のすべてを指す。

アタク
Attaqは、イエメンのシャブワ県の県都。首都サヌアの南東458kmに位置し、2004年の国勢調査時点で3万7315人が暮らす。


アデン
Adenはアラビア半島南端、アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市。現在の人口は約59万人で同国第二の都市である。1990年の南北イエメン統合まではイエメン人民民主共和国(南イエメン)の首都であった。

フダイダ
Al Hudaydah、アル=フダイダ)は、紅海沿岸に位置するイエメンの港町。ホデイダ(Hodeida)とも呼ばれる。人口およそ40万人。2007年9月30日にホデイダ沖(紅海)のタイル島で火山噴火があり、駐屯していた国軍兵士8人が犠牲になった 。

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タイズ
Taiz、は、アラビア半島南西にあるイエメンの都市である。標高約1400メートルの高原に位置し、人口は約46万人(2003年)。1918年から1962年までの間、イエメン王国の首都であった。モカ - 紅海に面したタイズ県の港町。コーヒーのブランド名として世界的に知られる。

マアリブ
(Ma'rib)は、イエメンの都市。人口16794人(2005年)。首都サヌアの東120km、ルブアルハリ砂漠の西に位置する。かつてのシバ王国の首都であったとされ、シバの女王ビルキスの居城であったとされるアルシュ・ビルキスなどの遺跡がある。

イッブ
都市の周りを山々に囲まれ、肥沃な土地に恵まれていることから「緑のイエメン」とも呼ばれる。モカの北東117km、首都サヌアの南117kmの地点に位置する。イッブは1944年までアミールにより半自治の状態にあったが、この制度は廃止された。2012年現在、街の人口は331,146人である。


■国名
公式の英語表記は、Republic of Yemen。通称Yemen。


1.面積:55.5万平方キロメートル(日本の約1.5倍弱)
2.人口:約2,358万人(2009年/ 世銀)
3.首都:サヌア
4.民族:主としてアラブ人。
5.言語:アラビア語
6.宗教:イスラム教(スンニー派及びザイド派(シーア派の一派)

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紀元前10世紀頃〜 古代イエメンの王国はインドと地中海及び東アフリカの貿易の中継地として繁栄。古代ギリシャ人,ローマ人から「アラビア・フェリックス」(幸福のアラビア)と呼ばれる。
9世紀〜 ザイド派のイマーム(宗教指導者)が支配。
16世紀〜 オスマン・トルコが北イエメン地域を支配。
1839年 英国がアデンを占領。以降南イエメン地域を保護領とした。
  北イエメン地域では,1918年オスマン・トルコからイマーム王国が独立。その後1962年には軍による共和制革命によりイマーム王制が廃止され、イエメン・アラブ共和国が成立(旧北イエメン)。
  南イエメン地域では,反英運動が激化し,1967年英国から南イエメン人民共和国が独立。1969年マルクス・レーニン主義を標榜する社会主義政権が誕生し,1970年にイエメン民主人民共和国と国名を改めたる(旧南イエメン)。
 東西冷戦構造もあり,1970年代,1980年代には南北イエメン間でたびたび武力衝突が発生したが,統一への努力は継続された。
1989年11月30日 アデン合意により南北統一への途が開かれる。
1990年5月22日 南北イエメン統合により現在のイエメン共和国が成立。

■主要産業:石油・天然ガス産業、農業、漁業
■主要貿易品目(1)輸出 石油,コーヒー豆,魚介類,天然ガス(2)輸入 食料品及び動物(食用)、機械類、化学製品


イエメン・リアル
イエメン・リアルはイエメンの通貨。イエメン中央銀行は最初に1, 5, 10, 20, 50, 100リアル紙幣が発行したが、1993年に1, 5リアル、1995年に10リアルは硬貨に置き換えられた。1996年に200リアル紙幣、1997年に500リアル紙幣、1998年に1000リアル紙幣が登場した。そして2004年に20リアル紙幣は硬貨に置き換えられた。

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国際通貨基金
International Monetary Fund、IMF)は、通貨と為替相場の安定化を目的とした国際連合の専門機関。本部はアメリカ合衆国のワシントンD.C.。2011年9月現在の加盟国は187ヶ国。


国民全体会議
General People's Congress、は、イエメンの政党。1982年8月に旧北イエメンの大政翼賛組織として成立し、第一次全国代表大会(国会)で愛国憲章を通過させた。イエメン共和国(現イエメン)成立後も、一貫して与党であり続けている。2003年4月27日に実施された最近の議会選挙では、人民代表院(国会)の定員である301議席のうち、約80%の238議席を獲得した。

イエメン社会党
イエメンの政党。社会主義政党であり、旧南イエメンでは一党独裁政党だった。南イエメンでは民族主義組織である民族解放戦線を中心に反英独立運動が起こっていたが、1967年に独立を達成。民族解放戦線は南イエメンの単独支配政党となった。そして1978年、民族解放戦線は、軍事政権が成立していた北イエメンから逃れた民主人民統一党(マルクス主義)や、国内の左派系政治組織と統合し、イエメン社会党を成立させたのである。

イエメン社会党
社会主義政党であり、旧南イエメンでは一党独裁政党だった。1940年代から1950年代にかけて、イギリス統治下の南イエメンの学生の海外留学が盛んになり、急進的な進歩主義思想が流入。それに伴い、そうした思想を持った政治組織が徐々に南イエメンでも構成されていった。

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イエメン王国
通称イエメン王国は、1918年から1962年までの間現在のイエメン北部に存在した国家。首都は当初タイズにあり、後にサナアに遷った。1947年9月30日に国際連合に加盟した際、イエメン王国はイエメン(Yemen)を代表する国家として加入した。これは、当時イエメン王国がイエメンを名乗る唯一の国家として存在していた為である。

北イエメン内戦
1962年から1970年までの間、旧イエメン王国の王党派と、イエメン・アラブ共和国政府の共和派が、北イエメンで戦った内戦。最終的に、双方の妥協によって、共和派が政府の統制力を獲得した。

北イエメン
1962年から1990年までの間現在のイエメン北部に存在した国家。首都はサナア。1918年に前身のイエメン王国がオスマン帝国から独立し、1958年にアラブ連合共和国との間でアラブ国家連合を構成するが、1961年にシリアが独立したことに伴いアラブ連合共和国が崩壊したため解消した。

南イエメン
1967年にイギリスから独立した国。独立当初の国名は南イエメン人民共和国。首都はアデン。イエメン社会党の一党独裁体制によるアラブ世界初の社会主義国で、中東やインド洋におけるソビエト連邦の足場だったが、ソ連崩壊で経済的に行き詰まり、1990年5月22日にイエメン・アラブ共和国と統合して現在のイエメン共和国となった。

イエメン内戦
1994年にイエメンで起こった内戦。イエメンは1990年に南イエメンと北イエメンが統一して成った国だが、旧南側の再分離独立を求める勢力が1994年に武装蜂起、イエメン正規軍と戦争になった。両者の間で、空軍機を使った空爆合戦やスカッドミサイルを打ち合う応酬が行なわれたものの、戦闘は終始北側が優位に立ち、国際的な支援も北側についた。2ヶ月に及ぶ戦闘の後、数万人の死者を出しながら旧南側勢力は制圧された。

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ハニーシュ群島紛争
エリトリアとイエメンの間で行われた領土紛争のことである。群島が紅海という海上交通の要衝にあること、付近に天然ガス資源が埋蔵されていることなどが紛争の背景にあったとされる。1993年 エリトリア独立、紅海上のハニーシュ群島の領有を主張。同じく領有を主張するイエメンと対立する。1996年 フランスの仲介により、仲裁裁判所の設置を合意。1998年 仲裁裁判所が、群島の帰属をイエメンと決定。

ターイフ条約
サウジアラビアとイエメン(北イエメン、南イエメン時代も含む)間で結ばれていた国境線に関する二国間条約。1932年、アラビア半島の大部分を版図に収めたサウード家は、サウジアラビアを成立させた。サウード家は、余勢をかってイエメン王国(当時)へ攻め込んだものの膠着状態となり、1934年に国境線の画定を先送りにして停戦を図った。この際にサウジアラビア西部のターイフで結ばれた条約がターイフ条約である。


■経済
一人当たりの国内総生産は2003年に800米ドル。周辺アラブ国に比べても著しく低い。2007年の失業率は40%。1980年代から石油を産出し、貿易収入は漸増傾向にはあるものの、そのほとんどは食料品や機械類などの輸入で帳消しとなる。また2007年に天然ガス田が発見され、2009年10月に生産を開始し、LNGを輸出している。コーヒー豆の生産は有名で、モカコーヒーのモカとは、この国の南部にある港湾都市の名称である。しかし国が砂漠地帯に位置するため農業は振るわず、昔ながらの遊牧生活を営むものも多い。漁業も比較的盛ん。

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モロコシ
Sorghum bicolor)は、イネ科の一年草の植物・穀物。熱帯アフリカ原産。日本国外での呼称、ソルガムをそのまま用いることもある。古くは中国での呼称であるコーリャン(高粱)とも呼ばれた。主要な栽培食物のひとつであり、穀物としての生産面積ではコムギ、イネ、トウモロコシ、オオムギに次いで世界第5位である。熱帯、亜熱帯の作物で乾燥に強く、イネ、コムギなどが育たない地域でも成長する。


■国民
人口は1994年で1267万人、アラブ人が98%でアラビア語を話す(但し出生届が十分に整備されていないため概算となる)。国民ほぼ全てがイスラム教信者で、スンニ派が5割強、シーア派が4割弱である。

イエメン・ユダヤ人
イエメン・ユダヤ人はイエメンに住む、或いは比較的最近までイエメンに住んでいたユダヤ人またはその子孫をさす言葉。1949年6月から1950年9月にイスラエルによって秘密裏に実施された魔法の絨毯作戦で、事実上、ほとんどのイエメンのユダヤ人(ユダヤ教徒)は国を離れ、現在はイスラエル(少数はアメリカ合衆国)に住んでいる。ソロモンの時代にアラビア半島の先端に移住したユダヤ人がいたとされる。ソロモンはエルサレム神殿建立のために内装に使う金銀を探しにイエメンにユダヤ人の商船を派遣したとも伝えられる。


■文化
国民の殆どがイスラム教徒であるため、生活様式にもイスラムの影響が強い。但し、イスラムの教えよりも部族内のルールを優先することがある。一般的な成人男性は腰帯にジャンビーヤと呼ばれる半月形をした短剣を差している。この短剣は、所有者の家柄や部族、貧富といった属性を表している。イスラム教で禁じられている酒の代わりに、カートと呼ばれる葉を噛む習慣が広く行われている。カートはイエメン人の社交になくてはならないものであり、街中や個人宅で何人かで寄り集まり、カートを噛みながら談笑にふける姿がよく見られる。

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アラビア語
おもに西アジア(中東)・北アフリカのアラブ諸国で用いられ、世界の言語の中でも大変広い地域で話されている言語の一つ。また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語である。イスラム教のクルアーンはアッラーが人類に与えたオリジナルであるアラビア語原典から他言語への翻訳が禁じられている。クルアーンの勉強や暗誦は敬虔なイスラム教徒の義務とされ、クルアーンを学ぶためには必然的にアラビア語を読めなくてはならず、アフリカから東南ヨーロッパ、インド、東南アジアにかけてのイスラム世界では、アラビア語が知識人層の共通語として通用している。


■音楽
イエメンの音楽界はアラブ世界に有名音楽家を多数輩出している。多くのイエメン・ユダヤ人が20世紀にイスラエルのミュージカルで活躍した。アラブ世界では、イエメンは長きに渡り文化の中心地となってきた。


■料理
イエメン料理(英語版)は広く知られている中東の料理とは全く異なり、イエメン国内でも地域ごとに微妙な差がある。イエメン料理は食習慣全般に渡って、オスマン帝国時代の影響を大きく受けている。各地域ごとに独自の食事文化があるなかで、サルタは国民食と呼べるものである。この料理のベースになるのは「マラク (maraq)」と呼ばれるトルコ起源の茶色の肉シチュー、フェヌグリークを水に漬けペースト状にしたもの、そしてサハーウィク(英語版) (唐辛子、トマト、ニンニク、ハーブをベースにして作成されたサルサソース)である。米、イモ、スクランブルエッグ、野菜は「サルタ」の材料として一般的な素材である。サルタはイエメンの薄焼きパンのマルージュに浸して手食する。

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首都で戦闘、兵士2人死亡
2011/11/26   イエメンの首都サヌアで25日、治安部隊と政権離反部隊の間で激しい戦闘があり、AP通信によると、双方の兵士計2人が死亡した。イエメン各地では、サレハ大統領の辞任と引き換えに訴追免除を盛り込んだ仲介案を批判する大規模なデモが行われた。一方、仲介案に署名した野党グループは25日、野党からの起用を定めた挙国一致内閣の首相候補にバシンドワ元外相を選出した。近くハディ副大統領が組閣を要請する見通し。(カイロ共同)毎日新聞

 

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ナジーム・ハメド
Naseem Hamed1974年2月12日 - は、アラブ系でイギリスのプロボクサー。元WBC・IBF・WBO世界フェザー級王者。フェザー級離れした強力なパンチ力と天才的かつ独創的なボクシングセンスを持ち、KO率は80%以上を誇る。イエメン国籍を持つ(育ちはイギリス)。リードブローを打たない、腕をだらりと下げガードをしない、飛び上がってパンチを打つという、近代ボクシングの禁忌をあざ笑うかのようなスタイルで相手を翻弄する。 背骨が直角に曲がるほどのスウェーバック、背面を完全に相手に見せるほどの深いダッキング、それらを瞬時かつ的確に行える反射神経と動体視力を駆使するため、避けることに関しては右に出る者がいない。ハメドのサンデーパンチは、フックともアッパーとも言えないオリジナルブローである。 まるで猫科の猛獣が獲物に飛びかかるかのように放つのだが、通常このようなパンチはテレフォンパンチと呼ばれ、 初動を見抜かれやすく、モーションに入ると中断することができないため、カウンターの餌食になるという致命的な欠点を持つ。 この無謀にも思えるパンチに、前述の人間工学を無視したような動きでフェイントを施し、相手の死角からインパクトさせるのを得意としている。

オフラ・ハザ
Ofra Haza、 1957年11月19日 - 2000年2月23日は、イスラエル出身の女性歌手。伝統的な要素をミックスした曲調と歌声で、世界的な人気を得た。テルアビブに生まれ、母からイエメンのフォークソングを学ぶ。18歳でレコード・デビューし、1980年にイスラエルの2大ラジオ局で最優秀女性シンガーに選ばれた。アルバム『Shaday』に収録された「Im nin' alu」は、ヒップホップ・アーティスト、エリックB.&ラキムの「Paid In Full-The Coldcut Remix」やM/A/R/R/Sの「Pump Up The Volume 」にサンプリング・ソースとして使用されクラブシーンに浸透した。

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フレヤ・スターク
(Freya Madeline Stark、1893年1月31日−1993年3月9日)は、イギリスの探検家、旅行作家、東洋学者。イギリス人の父とイタリア系の母の間に、パリで生まれた。両親とも画家であり、母方の祖母の家がジェノアにあるという理由で、幼少期の大半は北部イタリア(ヴェネト州アーゾロ)で過ごす。9歳の誕生日に叔母が『千夜一夜物語』を贈ってくれたことや家の近所にシリア人の宣教師が住んでいたことが、フレヤに東洋へのあこがれをかきたてた。1931年から彼女はヨーロッパ人がほとんど行っていないイラン辺境を踏査し、アラビア半島南部への危険な探検も一人で敢行した。

アブドルカーデル・バージャンマール
Abd-al-Qadir Ba-Jammal、1946年2月18日 - )は、イエメンの政治家。2001年3月31日から2007年3月31日まで同国首相(第5代)を務めた人物である。サナア出身。

アブ・バカル・バシル
Abu Bakar Ba'asyir)は、インドネシア生まれのアラブ人(ハドラミー)活動家で、インドネシア・ムジャヒディン評議会(英語)の指導者。インドネシアを拠点に活動するイスラーム主義組織ジェマ・イスラミアの精神的指導者であるともされているが、バッシール本人は関係を否定している。日本の報道ではバシル師とも呼称される。

イブン・ハルドゥーン
Ibn Khaldun, 1332年5月27日 - 1406年3月19日)は中世のイスラーム世界を代表的する歴史家、思想家、政治家。イスラーム世界最大の学者とも呼ばれる。南アラビアのハドラマウト(現イエメン共和国領の都市)出身のアラブ人ワーイル族を祖先とする。ハルドゥーン家の始祖は8世紀にアラブの征服事業の一環であるイベリア半島遠征に従軍し、以降ハルドゥーン家の人間はアンダルスに定住する。

 

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