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ベトナム社会主義共和国
Socialist Republic of Viet Nam
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■地理
ベトナムの国土は南北1,650km、東西600kmに広がる。インドシナ半島の太平洋岸に平行して南北に伸びるチュオンソン山脈(アンナン山脈)の東側に国土の大半が属するため、東西の幅は最も狭い部分ではわずか50kmしかない。細長いS字に似た国土の形状を、ベトナムでは米かごを吊るす天秤棒に例えている。天秤棒の両端には大規模なデルタが広がり、人口の7割が集中する。
■石器文化
今からおよそ30 - 40万年前の地層から人類の歯がハノイの北方タムハイのタムクエン洞窟(ランソン省)で発見されている。最終氷期が終わり、地球規模で温暖化が始まった約1万年前から4000年前の人類の遺物や洞窟が発見されている。
■青銅器文化
紀元前から北部ベトナムの紅河(ホンハー)流域一帯には東南アジア最古の青銅器文化として知られる東山(ドンソン)文化が広がり、原始的な部族国家群を形成していた。これがいわゆる古越人(後のベト族)である。
■越人王朝の形成
唐末五代の混乱で中国の支配が後退すると939年に最初の民族王朝呉朝が成立、以後越人の王朝「大越」が続く。1471年以降大越黎朝(1428年 - 1788年)及びその諸侯である広南阮氏がこれらを各個撃破して南進し、広南阮氏は更に17世紀にカンボジア領であったメコン川流域まで併合して今日のベトナム領土が完成した。
■クメール人
カンボジアを中心とする東南アジアの民族。カンボジアの総人口の約90パーセントを占めるほか、タイ東北部、ラオス、ベトナムなどにも住む。身体的特徴では一般に、波状の頭髪や体毛の多さといった古モンゴロイドの特徴を具えた人が比較的多く見られるが、皮膚は比較的濃色である。
■チャム族
主にカンボジア及びベトナム中南部に居住する民族。2世紀から17世紀の間は独立した海洋国家、林邑国及び占城国(チャンパ王国)を持っていた。19世紀のベトナム阮朝は中部チャム族を占尼人、南部チャム族を藍人と呼んで区別した。
■モン族
中国南部の貴州省や雲南省、タイ、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住むミャオ族 の支系のモン族(Hmong) 。タイのランプーンに、ハリプンチャイ王国(11〜13世紀)を建て、その後にタイ南部やミャンマーに移住したモン族 (Mon)。
■タイ族
タイ・カダイ語族のうち南西タイ語(South-Western Tai、タイ語やラーオ語等)を母語とする人のこと。タイ人=タイ族、ラオス人=ラーオ族でないことに注意する必要がある。タイ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりとされており、年代を経るにつれて南下をしていることが分かっている。
■ミャオ族
中国の国内に多く居住する民族集団で、同系統の言語を話す人々は、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住んでいる。中国では55の少数民族の一つである。
■ヤオ族
ヤオ族(-ぞく、瑶(よう)族)は中国湖南省から雲南省、東南アジア北部の主に山地に広く住む中国の少数民族である。古代中国の王女と犬の間に生まれた12姓のヤオ族を始祖とするという民族の伝承を有し、この伝承が史記に取り入れられ、後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。
■チャンパ王国
Cham Pa, 192年 - 1832年は、ベトナム中部沿海地方(北中部及び南中部を合わせた地域)に存在したオーストロネシア語族を中心とする王国。その主要住民の「古チャム人」は今日のベトナム中部南端に住むチャム族の直接の祖先とされる。中国では唐代まで林邑と呼び、一時環王国と自称したが、宋代以降は占城と呼んだ。
■ドンソン文化
Dong Son cultureは、ベトナム北部の紅河流域を中心に成立した東南アジア初期の金属器文化。ドンソン文化は紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃にかけて続いたといわれる。タインホア省(清化省)タインホアのマー川右岸にはドンソン文化の遺跡が存在し、指標になっている。遺跡は1920年代、フランス極東学院の考古学者らによって発見され、特徴的な銅鼓が有名になった。
■インドシナ半島
中国の南、インド亜大陸の東にある東南アジアの半島である。中国語では中南半島(ちゅうなんはんとう、中国の南の半島)あるいは中印半島という。この地域はインドシナ (仏語:Indochine) と呼ばれ、インド (indo) と中国 (Chine) に挟まれている地理的特徴からフランスによって名付けられた。具体的には、ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国に加え、タイとミャンマー両国のマレー半島の部分を除く地域がインドシナと呼ばれる。
■南シナ海
中国、台湾、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアに囲まれた海域の名称。200以上の島と礁が知られており、大部分は南沙諸島にある。同諸島は810kmと900kmの広さに及び、最大の島はタイピン島(イトゥアバ)で、長さ1.3km、最高海抜3.8mである。
■メコン川
Mekong River、は、東南アジアを流れる河川。チベット高原に源流を発し、中国の雲南省を通り、ミャンマー・ラオス国境、タイ・ラオス国境、カンボジア・ベトナムを通り南シナ海に抜ける。典型的な国際河川の一つで、数多くの支流がある。
■メコンデルタ
Mekong Delta)は、ベトナムを構成する地方の一つであり、ベトナムの南部に位置している。また、メコン川下流の三角州を指す。領域はメコン川とその支流を中心として広がっており、面積はおよそ3万9000平方キロメートルである。19世紀のフランス植民地時代に水田面積が一気に広がった。輸出米のほとんどがこのデルタ地帯で生産される。作付面積の拡大のため水路の整備や栽培技術の進歩に力を注いでいる。
■紅河
インドシナ半島北東部を流れる川。全長 1,200 キロメートル。水中に含まれる酸化鉄のため水の色が赤い。中国雲南省から発し南東流とハノイ北西で並行するソンボー川とともに紅河デルタを形成し、トンキン湾に注ぐ。世界的な米の産地で多期作が広く行われ、運河も発達している。
■紅河デルタ
Red River Delta)は、ベトナムを構成する地方の一つであり、ベトナムの北部に位置している。トンキン・デルタまたはソンコイ・デルタと呼称されることがある。デルタ地域には約150haの水田があり、田畑や宅地等を囲むように堤防が築かれている。堤防は水田から7〜8Mの高さで築かれているが、雨季にはその堤防の高さ一杯にまで水が流れる為、堤防が決壊すると洪水による甚大な被害が発生する。
■フーコック島
タイランド湾に浮かぶベトナム最大(561km2)の島で、ベトナム本土より40km沖合いにある。島の南部よりアントイ諸島の小島が連なる。魚醤ヌックマムの産地として有名で、年間600万リットルが生産されている。また、胡椒の産地であるとともに漁業が盛んであり、特にイカ漁が行われ、観光客向けにもイカ釣りのツアーがある。
■ホアンキエム湖
ベトナムのハノイにある湖の1つである。ハノイの主要な景観スポットでもある。伝説では、黎利が湖の宝剣を手にし、その剣によって明との戦いに勝利した。その後、黎利は湖の上で金の大亀 (Kim Qui) から平和になったので持ち主である竜王に剣を返すように啓示され、湖の中心近くにある小島で剣を返した。それゆえ、湖は現在の名前で呼ばれるようになった。この物語は水上人形劇で観ることができる。
■アンナン山脈
アンナン山脈(チュオンソン山脈(長山山脈)) は、インドシナ半島東部をラオスからベトナムにかけて、走る山脈。 全長:約1,100km(700マイル)。 ベトナムの海岸線とほぼ平行に位置する。
■ファンシーパン山
Fansipanは、ベトナム北部のラオカイ省(老街省)にある山。同国最高峰で、標高は3,143メートル。高峰であることから「インドシナの屋根」と呼ばれることがある。外国からの登山観光客が多い。
■南沙諸島
南沙諸島(なんさしょとう、スプラトリー諸島、Spratly Islands)は、南シナ海に浮かぶ約100の小さな島々。諸島全体は大変小さな島々で構成され、互いの距離は十数キロメートルから数十キロメートル程度で位置している。一般の人が普通に居住できる環境ではなく、島そのものにはほとんど価値が無いが、海洋・海底資源が見込める。そのためベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、中華民国、中華人民共和国が領有権を主張している。
<世界遺産>
■フエの建造物群
ベトナム中部の都市、トゥアティエン・フエ省の省都。フランス語風にユエと呼ばれることもある。市内は香江を挟んで旧市街と新市街に分かれ、中心は新市街にある。旧市街は碁盤の目状の方形都市であり、その南側に世界遺産の王宮南門、宮殿と帝廟がある。一部には園宅(ニャーヴオン)と呼ばれる旧貴族・皇族の住宅が残っており、首里城や京都御所のような佇まいがある。
■ハー・ロン湾
ベトナム北部、トンキン湾北西部にある湾。漢字表記は下竜湾。クアンニン省のハロン市の南に位置し、カットバ島のほか大小3,000もの奇岩、島々が存在する。伝承では、中国がベトナムに侵攻してきた時、竜の親子が現れ敵を破り、口から吐き出した宝石が湾内の島々になったと伝えられている。彫刻作品のような島々の景観は、太陽の位置によって輝きが変化し、雨や霧によってまた趣のある雰囲気を醸し出す。
■古都ホイアン
チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されるとその外港となった。ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。1770年代には西山(タイソン)党の乱によって町は完全に破壊されたが、やがて再建され、19世紀まで繁栄した。しかし、ホイアンと海を結ぶトゥボン川に土砂が堆積して浅くなり、港の繁栄はダナンに移った。一方で、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。
■ミーソン聖域
ミーソン聖域はサンスクリットによる正式名称をシュリーシャーナバドレーシュヴァラといい、チャンパ王国の宗教(ヒンドゥー教シヴァ派)の聖域であり、聖山マハーパルヴァタを望むクアンナム省ズイスエン県ミーソン圏谷にある。建造物はグプタ様式や先アンコール期の影響が見られる。建造物にはセメントや漆喰などの接着剤を使った形跡が無く、チャンパ人の当時の技術力の高さを物語っている。チャム族の伝承によれば、チャンパの彫刻工人、建塔工人の多くは徴用労働者として動員された山岳民族である。
■フォンニャ-ケバン国立公園
大小約300の洞窟がある。これらはまだ詳しく調査されていないが、フォンニャ洞、ティエンソン洞、ヴォム洞など一部が開発されている。フォンニャ洞窟はベトナム最大の洞窟で、2億5千年前に形成された。フォンニャとは「歯の洞窟」という意味である。多くの観光客が訪れる。9 - 10世紀にチャム族が仏教の聖域として利用し、1990年に英国の探検隊が地下及び水中の地図を作成し、総延長を計測した。ベトナム戦争中は、武器庫または病院として利用され、アメリカ軍の爆撃の標的となった。
■ハノイのタンロン皇城の中心区域
2003年からベトナムの首都、ハノイで発掘された遺跡群。
■胡朝の城塞
タインホア省で発掘された遺跡群。
■ドンホー版画
Dong Ho Paintingは、ベトナム北部のバクニン省(北寧省)ドンホー村(東胡村)で製作されている伝統的な絵が描かれた版画。ベトナムの生活、風物詩、風刺などが描かれ、ベトナム語で現在は使われない漢字の言葉が添えられることがある。昔、貧しかった庶民が正月だけは華やかにしたい、また将来の幸福を願って作られたのがこのドンホー版画といわれ、現代ではめでたいもの、新年を祝賀する縁起物として旧正月(テト)の時期に家庭で飾られる。
■農業
コーヒーは、現在ではブラジルに次ぎ、世界第2の生産量(99万トン、2003年)に達している。大部分がインスタントコーヒー、缶やペットボトル入りの清涼飲料、製菓用途で使われる安価なロブスタ種(カネフォラ種)であるが、レギュラーコーヒーに使われる高級品のアラビカ種の栽培も始まっている。
■鉱業
ベトナムは石炭・石油を中心とした有機鉱物資源、スズを中心とした金属鉱物資源に恵まれている。北部ハロン(ホンゲイ)から産出する石炭は上質の無煙炭であり、19世紀末からホンゲイ炭として採掘が始まっている。輸出品目の第一位は石油であり、2002年時点では全輸出額の19.6%を占めた。天然ガスの採取量は126千兆ジュール。
■民族構成
住民はベト人(越人、京人、キン族)が85%から90%、その他に華族 (華人)3%、タイ人(ターイ族、タイー族)、クメール人(クメール族)、ムオン族、メア族、モン族(ミャオ族)、ザオ族、チャム族などの53の少数民族がいる。
■ベトナム料理
ベトナムは古来から、中国文化の影響を強く受けてきたため、ベトナム料理にも中華料理の影響が色濃く現れている。また、19世紀から20世紀にかけてフランスの植民地統治を受けていたため、他のインドシナの国々同様、フランスの食文化の影響も多く残されている(バゲットやコーヒー、プリンなどが日常の食生活の中に定着しているといったような点はその例である)。
■アオザイ
正装として着用するベトナムの民族衣装。アオ(襖)は上衣の一種を意味する中古音で、ザイはベトナム語で「長い」を意味する形容詞。「アオザイ」はベトナム北部方言の発音であり、南部方言では「アオヤイ」と発音する。女性用アオザイの美しさは世界的に認知されており、土産物としても人気が高いが、オーダーメイドが基本のため購入には手間がかかる。
■ベトナム戦争
Vietnam Warは、インドシナ戦争後に、ベトナムの南北統一を巡って起こった戦争である。ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長上にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説あり、ベトナム人同士の統一戦争という観点からは、南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム政府軍に対する武力攻撃を開始した1960年12月という説が一般的であるが、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦争という観点からは1965年2月7日の北爆を開戦とする説もある。1975年4月30日のサイゴン陥落時が終戦である。
■ヴィシー政権
Regime de Vichy)は、第二次世界大戦中のフランス南部の政権(1940年 - 1944年)。フランス中部の町、ヴィシーに首都を置いたことからそう呼ばれた。「ヴィシー政府」、「ヴィシー・フランス」ともいい、この政権下の体制を「ヴィシー体制」と呼ぶ。
■パリ協定
1973年1月27日、パリにてベトナム民主共和国(北ベトナム)、ベトナム共和国(南ベトナム)、南ベトナム共和国臨時革命政府、アメリカ合衆国の間で調印されたベトナム戦争終結を約した協定。ベトナム和平協定とも呼ばれる。
■第一次インドシナ戦争
Guerre d'Indochineは、1946年から1954年にベトナム民主共和国の独立をめぐってフランスとの間で戦われた戦争。インドシナは1941年のヴィシー政権成立以降、フランス領インドシナ総督との間で協定を結んだ日本軍が進駐し(仏印進駐)、占拠状態にあった。ヴィシーフランスに対抗していたシャルル・ド・ゴールの自由フランスは、ブラザヴィル会議(fr:Confé薗ence de Brazzaville)で植民地の協力と引き替えに戦後の自治拡大を約束した。しかし、フランスの世論は基本的に植民地保持派が多数を占めており、独立を容認する考えはなかった。1945年8月15日に大日本帝国政府がポツダム宣言を受諾し降伏、それに伴って日本軍が降伏すると、8月18日から8月28日にかけてベトミンが指導する蜂起がベトナム全土で起こった。
■大東亜共栄圏
Greater East Asia Co-Prosperity Sphere)は、欧米諸国(特に大英帝国・アメリカ合衆国)の植民地支配から東アジア・東南アジアを解放し、東アジア・東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようという、第二次世界大戦における日本の構想である。
■ベトミン
1941年5月19日に正式に結成され、フランス植民地からの独立を求め第一次インドシナ戦争を戦ったベトナムの独立運動組織である。ホー・チ・ミンが結成して主席となり、ヴォー・グエン・ザップおよびファム・ヴァン・ドンがともに指導した。ベトミンは、当初ベトナムを支配するフランス軍を敵としたが、1940年に日本軍がフランスとの合意の下に仏印に進駐した後は、日本軍も敵と見なし、ゲリラ戦を展開した。ベトミンは、日本と交戦中であったアメリカ合衆国および中華民国から資金援助を受けた。
■ベトナム帝国
1945年3月11日から同年9月2日までの半年間、ベトナムに存在した国家。日本の傀儡国家であるとの見方もある。第二次世界大戦の末期、フランスのペタン政権との合意の下でフランス領インドシナへ進駐していた日本軍は、近々予想される連合国軍のベトナム上陸に対する危機感を募らせていた。日本軍は、連合国軍上陸の際、フランス植民地軍が日本軍と共にこれを迎え撃つことへの同意を求めたがフランス軍はこれを拒否し、1945年3月9日に両軍の間で戦闘が始まった。約3万の日本軍は、警察部隊も含めると9万と言われたフランス軍に勝利した(明号作戦、仏印処理)。これにより、インドシナは、200年近くも続いたフランスによる支配から解放され、代わりに日本の支配下に入った。
■ベトナム八月革命
1945年8月17日に始まった、ベトミンが総蜂起してベトナム帝国(阮朝)を倒した革命である。この革命の結果、ベトナム民主共和国が成立したが、日本軍(枢軸国)に勝利したフランス軍(連合国)によるインドシナ再植民地化によって血みどろの抗争となり、第一次インドシナ戦争にもつれ込んだ。フランスによる植民地支配からの解放を目指すインドシナ共産党は、第二次世界大戦勃発やフランスの対独降伏によって動揺するインドシナ植民地政府に対する人民蜂起を指導したが、いずれも失敗した。やがて、ヴィシー政権と結んだ日本軍の仏印進駐が行われた。インドシナ共産党は、日仏両国からの解放を目指した。
■ジュネーヴ協定
第一次インドシナ戦争を終結させるために1954年スイスのジュネーヴで開かれた和平会談によって合意された休戦協定。この協定はベトナムの南北分断の原因となった。なお、戦時捕虜の扱いを記述しているのは『ジュネーブ条約』である。
■ベトナム共和国
1955年から1975年までベトナム南部に存在した国家である。ベトナム国に続き、北緯17度線以南の地域を領土としていたことから、南ベトナムと略称される。分断国家の一つであり、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と対峙して反共産主義的な立場をとっていた。
■ベトナム民主共和国
1945年のベトナム八月革命によって、ベトナムに成立した、東南アジア最初の社会主義国家。第一次インドシナ戦争の結果、1954年以降は暫定的に、「北緯17度線」以北のベトナムのみを統治したため、北ベトナムと別称される。1976年に南ベトナムを吸収併合したことで、ベトナム社会主義共和国として発展的に消滅した。
■南ベトナム解放民族戦線
南ベトナムで1960年12月に結成された反サイゴン政権・アメリカ・反帝国主義を標榜する統一戦線組織。略して解放戦線と呼ばれたが、越南共産(ベトナムコンサン)を略したベトコンと通称されることも多い。1950年代後半のベトナム共和国は政情が不安定であり、貧富格差の問題や政権腐敗、仏教徒に対する弾圧などが生じていた。ゴ・ディン・ジエム大統領に反発する勢力も増加していた。また、北ベトナムはジュネーヴ協定に基づく統一選挙が実施されなかったため、武力闘争によるベトナム統一を検討し始めた。
■サイゴン陥落
ベトナム戦争の末期、1975年4月30日に北ベトナムによって南ベトナムの首都サイゴンが接収された出来事。これによって、共産主義陣営によるベトナム統一が決定的となった。因みに、「陥落」という表現は主にアメリカ側で使われる表現であって、当時ベトナム共産党はこれを「サイゴン解放」と呼んだ。
■カオダイ教
1919年、ゴ・ミン・チェンによって唱えられたベトナムの新興宗教である。五教(儒教、道教、仏教、キリスト教、イスラム教)の教えを土台にしたことから、カオダイ=高台と名付けられた。ホーチミン(胡志明)から北西約100kmのタイニン(西寧)に総本山がある。信徒数は約100万から300万と言われ、タイニン省の人口の7割あるいは3分の2がカオダイ教の信者だと言われる。
ベトナム情報サイト/ベトナムの音楽
今、ベトナムで親しまれている音楽には、ニャック・チェーと言われるポピュラー音楽と、 ニャック・クェ・フンと呼ばれる、二つの種類の歌謡があります。ニャック・チェーとは「若者音楽」 といった感じの言葉で、いわゆるポピュラー音楽です。一方、ニャック・クェ・フンは、「故郷の音楽」と いった意味です。故郷の美しさや若者たちの純愛などをテーマに、ゆったりと したリズムに独特の節回しで歌われます。一方、ベトナム音楽の歴史を振り返ってみると、中国の影響下、様々な種類の宮廷音楽が ある一方、ザンカ(民歌)と呼ばれる民謡があります。
金沢21世紀美術館
1925年、フランス・インドネシア領であったハノイに設立されたインドシナ美術学校の一期生である彼は、西洋の造形技法と東洋の平面的な画法を組み合わせた全く新しい技法を開拓し、ベトナム近代絹絵というジャンルを創出しました。グエン・ファン・チャンは、絹地に水彩絵の具で描いては水で洗い流し、また描く作業を何度も繰り返すという独特の手法を用い、戦渦の厳しい時代においても前向きな気持ちを失わず、村に暮らすベトナムの女性たちの姿を見つめ、描き続けました。
■チュオン・タン・サン
1949年1月21日 - はベトナムの政治家。現在、第5代ベトナム社会主義共和国主席、ベトナム共産党政治局員兼書記局員を務める。党内序列は第2位。第9期、第10期、第11期、第12期国会議員。法学士。南ベトナムのロンアン省ドゥックホア県ミーハン村に生まれる。ベトナム共和国の支配に反して学生運動に参加し、1969年12月20日、ベトナム労働党(後の共産党)に入党。1975年のサイゴン陥落後は労働組合工作に従事した。
■グエン・タン・ズン
1949年11月17日 - は、ベトナムの政治家。現在、第6代ベトナム社会主義共和国首相を務める。キン族出身。南部のカマウ省に生まれる。ズンの出生時、故郷はフランスを宗主国とするベトナム国の支配下にあった。その後、ベトナム国はベトナム共和国(南ベトナム)にとって代わられたが、ズンは若くして祖国統一・民族解放運動に加わっていく。
■チャン・ドゥック・ルオン
1937年5月5日 - は、ベトナムの政治家。第3代ベトナム社会主義共和国主席を務めた。ベトナム中南沿海地方のクアンガイ省に生まれる。学校を卒業した後、1955年にハノイに移り住んだ。地質学を学んだルオンは、卒業後、地図製作者としての職を得て、地質総局に勤務した。この間、1959年、ベトナム労働党(後のベトナム共産党)に入党。
■グエン・フー・チョン
1944年4月14日 - はベトナムの政治家。第6代ベトナム社会主義共和国国会議長を務めた後、現在は第7代ベトナム共産党中央委員会書記長を務め、同国の最高指導者の地位にある。長らくベトナム共産党の理論・思想分野で活躍し、保守派に属している。ハノイ市に生まれる。ベトナム戦争中の1963年から1967年にかけて、ハノイ総合大学で文献学を学ぶ。大学卒業後の1968年12月19日、ベトナム労働党(後のベトナム共産党)に入党。
■ゴ・ディン・ジエム
1901年1月3日 - 1963年11月2日は、ベトナムの政治家、ベトナム共和国(南ベトナム)初代大統領(在任1955年10月 - 1963年11月)。フエの貴族の家に1901年に生まれた。1933年にバオ・ダイ帝の「親政」開始に伴い、フランス領インドシナの保護国であった阮朝宮廷の内相に就任するが、フランスの支配には不満を感じていた。1945年3月、仏印処理(明号作戦)によりベトナム駐留フランス軍が武装解除され、日本軍が実権を握った時、阮朝宮廷政府の新内閣組閣を請われるがこれを断って外国で亡命生活を送る。
■ズオン・バン・ミン
1916年2月16日 - 2001年8月5日は、ベトナム共和国(南ベトナム)の軍人・政治家。同国最後の大統領職を務めた。当時仏領インドシナと呼ばれていたメコン・デルタの仏教徒の家に生まれ、サイゴンの植民地学校で学ぶ。同窓にはノロドム・シハヌークがいた。解放戦線と北ベトナム軍がサイゴンへ侵攻する寸前の1975年4月28日、チャン・バン・フォン大統領の辞任に伴い、大統領に就任。チュー政権関係者の追放を要求する解放戦線側とのパリ和平協定に基づいた停戦交渉のための人選であった。
■グエン・カオ・キ
1930年9月8日 - 2011年7月23日は、ベトナム戦争当時のベトナム共和国(南ベトナム)の政治家。南ベトナム首相、副大統領、空軍司令官。フランス領インドシナのサイゴンに生まれる。宗主国であったフランス軍によって飛行機の操縦訓練を受けた後、1954年にベトナム国に戻り、翌年のベトナム共和国(南ベトナム)の建国後に同国空軍に入隊し、ズオン・バン・ミン大統領の下で空軍将校となり、軍人としては少将まで昇進した。
■グエン・ミン・チェット
1942年10月8日 - は、ベトナムの政治家。第4代ベトナム社会主義共和国主席。キン族。フランス領インドシナ時代の1942年、ビンズオン省ベンキャット地区に生まれた。サイゴン大学で数学を専攻[1]。大学在籍中の1960年、反南ベトナム政府学生運動に係わり、革命運動に参加する。その後、サイゴンを中心に活動し、1965年3月30日、ベトナム労働党(現在のベトナム共産党)の南部組織に入党。
■グエン・ヴァン・フン
1958年11月 - はベトナム系オーストラリア人の人権活動家。カトリック教会の神父でもある。現在は中華民国の台湾在住。グエンはベトナム共和国の平綏省 (Binh Tuy province) の下位中産階級の家庭に生まれ育ち、兄弟2人、姉妹5人を持つ。グエンの父親は漁師であったが、病気の末に死んだ。そのためベトナム北部出身でカトリック信者の母親が一家の稼ぎ手となった。グエンは母親の影響を受けてカトリックに傾倒し、幼い頃から貧しい人に対して献身的であった。彼はアッシジのフランチェスコを崇拝し、家の食事をこっそりと持ち出して貧しい人に分け与えたりしていた。
■グエン・ゴック・トゥ
1976年 - は、ベトナムの作家。ベトナム最南端のカマウ省に生まれる。1997年から創作活動を始め、ホーチミン市が主宰する短編コンクールで1等賞を受賞する。短編集『果てしなき大地』を発表し、2006年にベトナム作家協会賞を受賞。ベトナム戦争後に生まれた世代の作家として注目されている。
■グエン・ズー
1765年 - 1820年はベトナムの詩人。初期の阮朝に仕えながら、中国の小説『金雲翹伝』をチュノムに翻案し、『トゥイ・キォウの物語』を書いた。
■チャン・バン・フォン
1902年 - 1982年は、南ベトナム(ベトナム共和国)の政治家。首相職と大統領職を歴任した。メコン・デルタビンロン省の貧農の家庭に生まれ教師を長く勤めた。1954年にサイゴン市長を選出されるも、1960年にゴ・ジン・ジェム政権批判の容疑で逮捕・投獄される。大統領就任からわずか一週間後の4月28日、解放戦線側のチュー政権関係者排除要求により、チャン・バン・フォンは大統領を辞任し、ベトナム共和国の降伏活動を管轄していたズオン・バン・ミン司令官に大統領職を引き渡した。直後のサイゴン陥落に際しても亡命せず残留する。その後は自宅軟禁下に置かれ余生を送る。
■ピニョー・ド・ベーヌ
(Pierre Joseph Georges Pigneau, 1741年11月2日 - 1799年10月9日)は、フランスのカトリック宣教師。1769年に迫害を逃れて一時インドのポンディシェリへ行きアドラン司教に任ぜられる。1775年河仙に戻り、西山運動によって追放の身となったグエン・アイン(阮福映)と会い積極的に援助。
■徴姉妹
徴 姉妹(ちょう しまい、ベトナム語: Hai Ba Tr?ng ハイ・バ・チュン、とは、1世紀に当時後漢の支配下にあったベトナム(当時は交州)で起こった反乱を首謀した徴側(ちょうそく、の姉妹を指す。「ベトナムのジャンヌ・ダルク」とも称される。いずれにせよ、徴姉妹の支配は3年に過ぎなかったが、その後も徴姉妹はベトナムの英雄として語り継がれ、彼女らを祀る寺院も数多く造られている。また、ハノイやホーチミンをはじめとするいくつもの都市に「ハイ・バー・チュン」を称する大通りもある。
■黎利
黎利(れい り、1385年 - 1433年)は、ベトナムの後黎朝大越国の初代皇帝(在位: 1428年 - 1433年)。もとベトナム中部タインホアのラムソン(藍山)の豪族であった。1406年の明の永楽帝によるベトナム侵攻とその後の支配に抵抗。1416年、のち重臣となるグエン・チャイ(阮薦)らとともに、ラムソンで挙兵に及ぶ(藍山起義)。
■陳興道
陳興道(ちん こうどう、チャン・フン・ダオ、1228年 - 1300年)は、大越陳朝の王族・武将。1257年、モンゴル軍が侵攻してきた時も、大越軍を率いて蒙古軍を大いに破り、逆に蒙古軍を追撃するまでの大勝を収めた。1282年からクビライが建てた元による侵攻を受けると、陳興道は大越軍の総司令官に任じられ、巧みなゲリラ戦を繰り広げて元軍に大勝した。
■アレクサンドル・ドゥ・ロード
(Alexandre de Rhodes, 1591年3月15日-1660年11月5日)はフランス出身のカトリック司祭、イエズス会宣教師。ベトナム宣教に大きな足跡を残すだけでなく、ベトナム語のラテン文字表記の方法を考案したことでも知られる。1619年に宣教師としてインドシナに赴いた。ベトナムでのイエズス会の宣教活動は1615年に始められたばかりであった。1620年にハノイ入りしたドゥ・ロードは以後10年にわたってベトナムの王宮で仕えた。
■イ・バン
Y Ban, 1961年 - )は、ベトナムの作家、ジャーナリスト。ナムディン省に生まれる。1982年、ハノイ総合大学生物学科を卒業し、1989年から1992年にかけてグエン・ズー作家学校で創作法を学ぶ。『オウコーに送る手紙』で、雑誌「軍隊文芸」賞を受賞し、本格的に創作活動を始める。以後は雑誌記者をつとめながら、短編小説を中心に発表している。
■レ・コン・ビン
1985年12月10日 - )は、ベトナム・ゲアン省出身のサッカー選手。ベトナム代表でT&Tハノイに所属するストライカー。ソンラム・ゲアンでプロデビュー。2009年にT&TハノイからポルトガルのレイションイスSCに4ヶ月のレンタル移籍をした。 2009年10月6日、ウニオン・レイリア戦で先発デビューし、ポルトガル1部リーグでプレーする初のベトナム人プレーヤーとなった。
■バオ・ニン
(BAo Ninh、1952年1月18日 - )は、ベトナムの小説家。ゲアン省出身。ベトナム戦争の従軍体験を元に書いた小説『戦争の悲しみ』で国際的な評価を得て、ドイモイ文学の代表的な作家とされる。ハノイで大学に通いながら、いくつかの職を経験し、1987年にグエン・ズー文芸学校に入学、短編小説の執筆を始める。1989年に短編集『「7人の小人」農場』を出版。1990年に長編小説『戦争の悲しみ』を書き上げ、草稿をベトナム作家協会に提出、題名を『愛の行方』に変えることを条件にベトナム作家協会賞を受賞し、1991年に出版された。 |
ベトナム Viet Nam
東アジア・東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和制国家。国土は南北に長く、北に中華人民共和国と、西にラオス、カンボジアと国境を接し、東は南シナ海に面し、フィリピンと対する。首都はハノイ。
■ハノイ
ベトナム北部に位置する同国の首都。ホーチミン市に次ぐ同国第2の都市。地名の「河内」は当時の街(現在のホアンキエム・バーディン・ドンダー・ハイバーチュンの4区にほぼ相当)が紅河とトーリック川(蘇瀝江)とに囲まれていたことに由来する。2010年は、1010年に李太祖がハノイに遷都して1000年目にあたることから様々な記念行事が行なわれた。同年10月10日には軍事パレードも行なわれている。
■ダナン
Da Nang Cityとは、ベトナム中部の中央直轄市。ベトナムの主要な港湾都市である。行政的には7区に分かれる。仏領インドシナ時代にはトゥーラン(Tourane)と呼ばれ、中国語では峴噌舛噺討个譴襦16世紀には広南政権の首府フエの外港はホイアンであり、ダナンは小漁村に過ぎなかった。 しかし、18世紀になると河口にあるホイアン港が砂の堆積によって次第に使用できなくなったため、ダナンが港として成長し始めた。
■フエ
ベトナム中部の都市、トゥアティエン・フエ省の省都。フランス語風にユエと呼ばれることもある。フエは化の漢字音 hOa の変化したものといわれる。漢名順化(トゥアンホア)は中国語として現在も用いられている。
■ノイバイ国際空港
Noi Bai International Airportは、ベトナム北部の首都ハノイ(Ha Noi)にある国際空港。ハノイ都心部から北に約45km離れた場所に位置している。都心と空港を結ぶエアポートタクシーがある。約250,000ドンの料金と、40分の所要時間が掛かる。
■フバイ国際空港
Phu Bai International Airportは、ベトナム社会主義共和国トゥアティエン・フエ省の省都フエにある国際空港。
■タンソンニャット国際空港
Tansonnhat International Airportは、ベトナム南部のホーチミン郊外のタンビン区にある国際空港。IATAコードは「SGN」であり、ホーチミンの旧名サイゴンが由来である。ホーチミン市街中心部より北方約8kmの位置にある。かつてはサイゴン国際空港とも呼ばれた。2010年現在、高速鉄道や高速道路によるアクセスは整備されていないものの、前述のとおりホーチミン市中心部より8kmの好立地であり、市街地の中に空港があると言ってもよい事もあり、バスやタクシーで中心部まで30分程度でアクセスが可能である。
■カントー空港
ベトナムのカントーにある空港。IATAコードは「VCA」。クイニョン市北西に位置する。
■カムラン国際空港
Cam Ranh International Airportは、ベトナム社会主義共和国カインホア省のカムラン湾にある国際空港。
■カマウ空港
Ca Mau Airport)は、ベトナム社会主義共和国中部、カマウ省のカマウ市にある空港。
■ドンホイ空港
Dong Hoi Airport)は、ベトナムのクアンビン省ドンホイ市にある空港。建設は2004年に始まり、2008年に竣工。 ハノイからの第一便は2008年5月18日に就航した。
■フーカット空港
Phu Cat Airport)は、ベトナム社会主義共和国ビンディン省クイニョン市にある空港。IATAコードは「UIH」。クイニョン市北西に位置する。
■ホーチミン市国家大学
Ho Chi Minh City National University)は、ベトナム社会主義共和国のホーチミン市にある国家大学である。 1995 年にホーチミン市百科大学, ホーチミン市経済大学, ホーチミン市人文社会科学大学, ホーチミン市自然科学大学, ホーチミン市農林大学 と合併して現在に至る。ホーチミン 第一区にある。
■ホーチミン音楽院
ベトナムのホーチミン市にある音楽大学。初等から大学レベルまでの音楽教育を行う。クラシック音楽学科とベトナム伝統音楽学科の2つがある。ベトナムに3つある音楽大学の1つである(残り2つはハノイとフエにある)。
■ホーチミン市建築大学
The University of Architecture of Ho Chi Minh Cityは、ベトナムホーチミン市にある国立大学。
■フエ大学
Hue Universityは、ベトナムフエにある国立の総合大学。
■ダナン大学
The University of Da Nangは、ベトナムダナン市にある国立の総合大学。
■カントー大学
Can Tho Universityは、ベトナムカントーにある国立大学。1966年 ベトナム共和国の大学として設立。2003年 医学部をカントー医科大学として分離。
■ベトナム国家大学ハノイ校
Vietnam National University, Hanoiは、ベトナムハノイにある国家大学。略称はĐHQGHN。日本ではハノイ大学・ハノイ国家大学の呼称もよく使われている。国家大学は、通常の国立大学が教育部の管轄下にあるのに対して、首相に直属している。
■ハノイ建築大学
Hanoi Architectural University は、ベトナムハノイにある国立大学。
■ホーチミン市
ベトナム最大の都市。東南アジア有数の世界都市でもある。人物のホー・チ・ミンと区別するため、ホーチミン市またはホーチミン・シティとも呼ぶ。旧名はサイゴン(越:Sai Gon/ 柴棍、中:西貢)であるが、現地では今なお『サイゴン』という表現が使われており、サイゴンでも都市名として十分通じる。ホーチミン市はプレイノコールとして知られる小さな漁村として出発した。今では市街地が広がっている一帯は、もともとは沼地であり、ベトナム人が入ってくる何世紀も前からクメール人が住んでいた。
■ディエンビエンフー
ベトナム北西部のラオス国境に近い、ディエンビエン省の省都。盆地の町である。ディエンビエンフーはムアン・タン渓谷(英語版)の中に位置しており、その盆地は長さ20キロメートル、幅6キロメートルの、南北に細長いハート型をしている。
■チョロン地区
ベトナムのホーチミン市にあるベトナム最大の中華街である。ベトナムにいながら中国の雰囲気が楽しめるのが大きな魅力である。中華料理店や上座部仏教の寺院などがあるが、どれもどこか中国とベトナムをミックスさせたような雰囲気を持っている。西部にはビンタイ市場という市場が形成されている。市場の北側にはチョロン・バス・ターミナルがあり、メコン・デルタをはじめとする地方都市との間を結んでいる。
外務省:ベトナム社会主義共和国
在ベトナム日本国大使館
■カントー
ベトナム南部のメコン・デルタ最大の都市である。カントーは、メコン川最大の支流であるハウザン川の南岸にあり、ベトナム最大の都市であるホーチミン市の西約 160 キロメートルに位置する。メコン・デルタはベトナムの穀倉と呼ばれ、米の全国生産量の50%以上を産出する。カントーは、農村地帯へのグリーン・ツアーで有名な観光地である。
■ニャチャン
ベトナム南部、カインホア省の省都。風光明媚なビーチや島々があり、リゾート地としても有名である。ホーチミン市から北東へ約450km。面積251km2、人口350,375人(2005年)。チャンパ王国時代には良質の漁港としてにぎわっていた。フランス領インドシナ時代には、フランス系の政府の要人用のリゾートとして開発された。
■ミトー
Me Sorはメコン・デルタ地帯にあるベトナムの都市で、ティンザン省の省都。ミートーはかつてクメール王朝に属していて、現在もも多数のクメール人が住んでいる。人口は約16万人。ホーチミンからシンカフェやキムカフェなどの日帰りツアーがあるメコン川クルーズの観光地として人気がある。
■ランソン
ベトナム北東部、中国国境の町。ハノイから鉄道で約150km、南寧と広州を結ぶ交通と商業と軍事上の要地。西のラオカイとともに古来中国軍の侵入路であった。国境付近にボーキサイト鉱脈が多く発見された。
■ハイフォン
ベトナム北部の都市。ハノイ、ホーチミン市と並ぶ中央直轄市で、ベトナム北部最大の港湾都市である。1964年以降しばしば米軍の猛烈な空襲を受けて破壊され、戦争末期には航空機による機雷封鎖によって大きな被害を受けたが、戦後工業都市として再建された。
■バンメトート
(Buon Ma Thuot) はベトナムの中部高原地域に位置するダクラク省の省都。人口は約30万。中央高原地域で最大の都市で、コーヒーの街として有名。ヨックドン国立公園に近く、トレッキングのベースとしても利用される。
■ダラット
Dalat)は、ベトナム中南部の都市。フランス植民地時代に、避暑地として開発された。標高1475メートルの街はダーラット湖沿いに開けている。2009年の人口は約20万人。
■ハロン市
ベトナム北部、クアンニン省の省都。ハノイの北東約160kmに位置している。狭い海峡を挟んで東のホンガイ坊(Hòn Gai)と西のバイチャイ坊(Bãi Chay)の地区に分かれる。ホンガイ地区は行政、経済の中心であり、バイチャイ地区は観光地区である。
■モンカイ
北ベトナムの中国の東興に接する国境にある都市。人口約78,000人。それは、ベトナムで他の若干の地域とともに一世帯あたりの平均収入が20,000米ドルを上回っている最も裕福な都市のうちの1つとして知られる。これらの地域のうちのもう1つは、チャン・フー区である。
■ナムディン
ナムディン省の省都である。ベトナム北部のデルタ地帯に位置する都市。トンキン湾沿岸まで最短で35キロ程度。デルタ地帯で生産される穀物の集散地であり、水上の物流において重要な役割を果たしている。
■タイニン
ベトナム南西部のタイニン省の省都。ホーチミン(胡志明)から北西約100キロ。カンボジア国境近くの街で、カオダイ教(高台教)の総本山がある。ホーチミンからシンカフェやキムカフェなどを利用して、日帰り観光ができる。
■サパ
ベトナムのラオカイ省(老街省)サパ県に属する町。中国との国境に近い。標高1,600mに位置し、夏の気温は適度だが雨が多く、冬はやや冷たく霧が多い。サパに最初に定住したのは、タイ族やGiay族と共に、高地少数民族のミャオ族とヤオ族の可能性が高い。
■南北線
ベトナムのハノイからホーチミンまでを結ぶベトナム鉄道の本線。「統一鉄道」と親しみを込めて呼ばれる。ハノイ駅とサイゴン駅を結ぶ、特急に相当する定期列車が毎日数本設定されている。所要時間は、いずれも30時間弱-40時間超と車中泊を2回行うものであり、3時間弱で同区間の移動を可能とする旅客機と比較して、ビジネスユースには向いていない。
■ベトナム人
ベトナム社会主義共和国の国籍を持つ人(ベトナム語:Cong dan Viet Nam, 漢字:公民越南)、またはベトナム人口の80%強を占める民族。ベトナム国民の人口は、現在(2005年)は84,238,000人。このほか海外に在住する国籍放棄者に対しても、政府は越僑という枠組みを設定して「外国人」とは別の扱いをしている。民族としてのベトナム人は、キン族と言い、ベトナムの総人口の80%強を占める。他に同系の民族が中国、タイ、ラオス、カンボジアなどの隣国を始め、アメリカ合衆国、カナダなどの北アメリカ、アジア系移民の受け入れに積極的なオーストラリアにも分布しているほか、植民地支配を受けたフランス、社会主義時代に労働移出された東ドイツなどの東欧、ロシアにも多くの移住者が生活している。
■在台ベトナム人
台湾に住むベトナム人のことである。広義にはベトナム戦争後の難民や出稼ぎ労働者、配偶者として台湾へ定住する人々を指す。2005年(民国94年)現在で在台外国人は約51万人のうち、在台ベトナム人は約15万人と30%を占める(民国94年の台湾の内政部統計処調べ)。出身地では出稼ぎ労働者が主に北ベトナム出身者が多いのに対し、配偶者では主に南ベトナム女性の出身者が多い。
■キン族
ベトナムの主要民族で、狭義におけるベトナム人である。別名、ベト族、アンナン族とも呼ばれる。キン族はベトナムの他、ベトナムの周辺国(中国、ラオス、カンボジア、タイ)でも、少数民族として暮らしている(中国語普通話では、日本語表記するとジン族に近い発音で読む)。また、ベトナム戦争によって発生した難民が、アメリカ、香港、オーストラリアなどに多数亡命している。
■国名
式の英語表記は "Socialist Republic of Vietnam" 、略称は "Vietnam"、または "SRV"。日本語表記は「ベトナム社会主義共和国」、通称は「ベトナム」。一部文献等では「ヴェトナム」の表記もみられる。漢字では「越南」(えつなん)であり、越国と書くこともある。
1.面積:32万9,241平方キロメートル
2.人口:約8,579万人(2009年4月1日時点国勢調査) 人口増加率:1.2%(過去10年平均)
3.首都:ハノイ
4.民族:キン族(越人)約86%、他に53の少数民族
5.言語:ベトナム語
6.宗教:仏教(80%)、カトリック、カオダイ教他
紀元前207年 南越国の成立
紀元前111年 前漢、ベトナム北部に交趾郡を置く
938年 呉権(ゴー・クエン)、白藤江で南漢軍を破る(中国からの独立)
1009年 李王朝の成立
1010年 首都をタンロン(現在のハノイ)に定める
16世紀 ホイアンの日本人町が栄える
1884年 ベトナムがフランスの保護国となる
1930年2月 ベトナム共産党結成
1940年9月 日本軍の北部仏印進駐(1941年南部仏印進駐)
1945年9月2日 ベトナム共産党ホーチミン主席、「ベトナム民主共和国」独立宣言
1946年12月 インドシナ戦争
1954年5月 ディエンビエンフーの戦い
1954年7月 ジュネーブ休戦協定、17度線を暫定軍事境界線として南北分離
1965年2月 アメリカ軍による北爆開始
1973年1月 パリ和平協定、アメリカ軍の撤退
1973年9月21日 日本と外交関係樹立
1976年7月 南北統一、国名をベトナム社会主義共和国に改称
1979年2月 中越戦争
1986年 第6回党大会においてドイモイ(刷新)政策が打ち出される
1991年10月 カンボジア和平パリ協定
1992年11月 日本の対越援助再開
1995年7月 アメリカとの国交正常化
1995年7月 ASEAN正式加盟
1998年11月 APEC正式参加
2007年1月 WTO正式加盟
2007年10月 国連安保理非常任理事国(2008年〜2009年)に初選出
■主要産業:農林水産業、鉱業、軽工業
■主要貿易品目(2010年)(1)輸出 縫製品、履物、水産物、原油等(2)輸入 機械機器(同部品)、鉄鋼、石油、布等
■ドン (通貨)
dong/銅)は、ベトナム社会主義共和国の通貨単位。国際通貨コード (ISO 4217) はVND。通貨記号は?であらわす。補助単位はハオ(hao, 毫)と、シュウ(xu, 樞)であり、1ドン=10ハオ=100シュウである。現在はどちらの補助単位も使われていない。ベトナム語でドンは、銅もしくは青銅を意味する。フランスに植民地化される前は銅貨が流通しており、通貨単位はこれからとられている。
■政治
ベトナム共産党(ベトナム戦争中は「ベトナム労働党」)による事実上の一党独裁政治が行なわれている。名目的に存在した民主党、社会党は1980年代末に解散され、複数政党制から単独政党制に移行した。現在でも、しばしば政治の民主化を望む人々が逮捕されることがある。現在、ベトナム共産党とその衛星政党以外の政党の結成は一切禁止されている。
■ベトナム共産党
ベトナムの政党。マルクス・レーニン主義やホー・チ・ミン思想を国の指導理念として掲げ、共産主義の実現を目指す一方、現在では市場経済を容認・推進しつつある。ベトナム社会主義共和国憲法において「国家・社会の指導的勢力」と規定され、一党独裁を敷いている。
■ベトナム社会主義共和国憲法
ベトナム社会主義共和国の憲法。最新版は1992年4月15日に国会により制定され、2001年12月に改正された。1992年制定の現行憲法は、2001年の改正を含め、前文および各章で、政治体制、経済体制、文化・教育・科学・技術、国防、国民の権利と義務、国会、国家主席、政府、人民委員会、司法、国旗・国章、憲法改正などについて規定している。
■ドイモイ
1986年のベトナム共産党第6回党大会で提起されたスローガンであり、主に経済(価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上)、社会思想面において新方向への転換を目指すものである。市場メカニズムや対外開放政策が導入され、経済面では大きな成果をあげてきた。ただし、共産党一党支配体制は堅持されている。
■ディエンビエンフーの戦い
1954年3月から5月にかけてベトナム北西部のディエンビエンフーで起こった、第一次インドシナ戦争中最大の戦闘。ベトナム軍とフランス軍合わせて約1万人の戦死者を出した。2万人強のフランス軍部隊のうち、少なくとも2,200人が戦死し、1万人以上が捕虜となった。10万人以上とみられる人民軍のうち、8,000人が戦死し、15,000人が負傷した。
■ソンミ村虐殺事件
Son My massacre、My Lai Massacre)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日、アメリカ軍兵士が非武装のベトナム民間人を虐殺した事件。ソンミの虐殺はベトナム反戦運動のシンボルとなり、また国外でも大きな批判の声が起こってアメリカ軍が支持を失うきっかけとなった。
■トンキン湾事件
Gulf of Tonkin Incident,1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件。これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入、北爆を開始した。1971年6月ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者が、報告書『ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年』こと“ペンタゴン・ペーパーズ”を入手、トンキン湾事件はアメリカが仕組んだものだったことを暴露した。
■軍事境界線 (ベトナム)
Vietnamese Demilitarized Zone)とは、南ベトナム(長年に亘りベトナム共和国)と北ベトナム(ベトナム民主共和国)を分けていた場所。第一次インドシナ戦争の停戦ラインであり、1954年7月21日のジュネーブ協定により発効した。ほぼ北緯17度線に沿っていたことから、朝鮮半島の「38度線」と比して「17度線」と呼ばれることもある。
■東南アジア諸国連合
Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10か国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。域内の人口は6億人を超えており、約5億人の人口を抱える欧州連合(EU)より多い。2010年の加盟国の合計のGDPは1兆8000億ドル(約145兆円)であり、日本のGDPの約30%の規模である。
■自由貿易協定
Free Trade Agreement、FTA)は、物品の関税、その他の制限的な通商規則、サービス貿易等の障壁など、通商上の障壁を取り除く自由貿易地域の結成を目的とした、2国間以上の国際協定である。
■アジア太平洋経済協力
Asia-Pacific Economic Cooperation、略称:APEC[2])は、環太平洋地域における多国間経済協力を進めるための非公式なフォーラム[3]である。「アジア太平洋」という概念が最初に打ち出されたのは、1967年発足の太平洋経済委員会(PBEC)という産業団体の設立時であるとされるが、具体的にこうした地域概念が政府レベルの協力枠組みに発展する萌芽は、1978年、日本の大平正芳総理大臣が就任演説で「環太平洋連帯構想」を呼びかけたことにある。
■世界貿易機関
World Trade Organization、略称WTO)は、自由貿易促進を主たる目的として創設された国際機関である。常設事務局がスイスのジュネーブに置かれている。GATT(ガット)ウルグアイ・ラウンドにおける合意によって、世界貿易機関を設立するマラケシュ協定(WTO設立協定)に基づいて1995年1月1日にGATTを発展解消させて成立した。
■ホー・チ・ミン
漢字: 胡志明, 1890年5月19日 - 1969年9月2日は、ベトナムの革命家、政治家。植民地時代からベトナム戦争まで、ベトナム革命を指導した。ホー・チ・ミンは、フランスの植民地(フランス領インドシナ)であったベトナム中部のゲアン省の、貧しい儒学者グエン・シン・サックの子として生まれた。父の影響を受けたホー・チ・ミンは幼少から論語の素読を学んで中国語を習得した。父が阮朝の宮廷に出仕するようになると、ホー・チ・ミンも父とともに都のフエに移り、ベトナム人官吏を養成する国学でフランス語も学ぶようになった。しかし、在学中に農民の抗税運動(賦役納税に反対する運動)に携わったため、フランス当局に目を付けられて退学処分となった。その後、ラミラル・ラトゥーシュ=トレヴィル号という船の見習いコックとして採用されたホー・チ・ミンは、1911年6月5日、サイゴンを出帆してフランスへと向かった。
■ヴォー・グエン・ザップ
漢字: 武元甲, 1911年8月25日 - は、ベトナムの軍人、政治家。ベトナム共産党政治局員。ベトナム人民軍 (QDND) 総司令官。大将。優れた軍事戦術家であったザップは、フランスの植民地支配からベトナムを解放し、ベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。その名采配から、「赤いナポレオン」と呼ばれた。クアンビン省出身。1924年、当時の首都フエの国学(国立アカデミー)に入校した。1926年、学生組織を組織したことで除籍され、3ヶ月間刑務所に入れられた。
■ファン・チュー・チン
1872年 - 1926年3月24日は、20世紀初頭のベトナムの民族運動家。フランスによるベトナムの植民地支配終焉に尽力し、暴力革命と、他国への支援要求に反対し、国民教育及びフランスの民主主義原理への訴えによるベトナム解放を主張した。ファン・チュー・チンは1872年、ベトナム中部クアンナム省の学者でもある地主の子に生まれた。彼の父親は知識人の反乱に参加した一人であったが、1885年、他の反乱指導者に反逆の疑いを掛けられて殺害された。ファン・チュー・チンは13歳で孤児となったものの、彼の兄は、彼に古典語の教育を受けさせ、1901年には高度の北京官話を習得した。その後科挙に合格し、首都フエの阮朝宮廷に仕えていたが、官僚の腐敗に失望し、1905年に自らその座を退いた。
■グエン・ヴァン・カオ
1923年11月15日 - 1995年7月10日は、ベトナムの作曲家で、同国国歌である進軍歌の作詞、作曲を手掛けたことで有名である。
■ヴォー・ティ・ハーオ
1956年 - は、ベトナムの作家。ゲアン省に生まれる。詩に親しみながら幼少期をおくり、1985年から創作活動を始める。1995年に創作コンクールで受賞し、小説や映画シナリオを発表する。小説『この世との絆』ではベトナム戦争で兵士だった男の苦悩、『神がかった呪文』では国際援助をめぐる腐敗を寓話的に描いている。
■ダン・タイ・ソン
1958年7月2日 - はベトナム・ハノイ出身のピアニスト。現在はカナダのモントリオール在住。1980年にアジア人で初めてショパン国際ピアノコンクールの覇者となった。ダン・タイ・ソンの栄光の裏では、イーヴォ・ポゴレリチの評価をめぐって審査員が紛糾し、マルタ・アルゲリッチがポゴレリッチの排除に異議を唱えて退席するという騒動があった。
■グエン・カーン
1927年11月8日 - は、ベトナム共和国(南ベトナム)の軍人、政治家である。南ベトナム解放民族戦線との戦闘に注力しないズオン・バン・ミンに反発し、アメリカのロバート・マクナマラ国防長官などの強力な支持のもとで南ベトナムの指導者となるべく1964年にクーデターを乱発し、同年1月30日に大統領に就任した。しかし、クーデターを乱発し内政を混乱させたことが南ベトナム社会の不安定化を招き、皮肉にも南ベトナム解放民族戦線の勢力を伸張させる要因となった。
■ズオン・トゥー・フォン
1947年 - は、ベトナムの作家。ターイビン省(太平省)に生まれる。1982年、党や知識人を告発した内容のシナリオが検閲に掛かり、以後3年もの間、執筆活動を制限される。1987年、初の長編小説『愛と幻想のハノイ』を発表。2006年現在、ハノイ(河内)在住。
■チン・コン・ソン
1939年2月28日 - 2001年4月1日はベトナムの国民的作曲家(ソングライター)。グエン・ヴァン・カオやファム・ズイとともに現代ベトナム音楽家の大家として知られている。反戦歌を中心に600以上の歌を書き、「ベトナムのボブ・ディラン」とも呼ばれる。ダクラク省バンメトートに生まれ、フエで育つ。1958年、サイゴン大学在学中に創作活動を開始する。1960年代に著名なシンガーソングライターとなり、反戦歌などを作曲する。
■ファン・ティー・キム・フック
1963年4月2日 - は、ベトナム系カナダ人(ベトナム人)。一般にはキム・フックと呼称される。母国ベトナムを代表する国際的な反戦運動家で、キム財団を創設し、カナダ・ヨーク大学名誉法学博士、ユネスコの親善大使を務めている。キム・フックはベトナム戦争当時、タイニン省(西寧省)チャンバンで暮らしていた。1972年6月8日、チャンバンにおいて南ベトナム軍と北ベトナム軍が交戦、南ベトナム軍の空軍機がナパーム弾を投下し、キム・フックが暮らすチャンバンは空襲を受けた。
■ファン・ボイ・チャウ
Phan Boi Chau、漢字:潘佩珠、1867年12月26日 - 1940年10月29日)はベトナムの民族主義運動の指導者。10代の頃から反仏独立運動に参加するようになる。1904年、阮朝皇族のクォン・デを盟主として「ベトナム維新会」を結成し、武器援助を求めるべく1905年に来日した。亡命中の梁啓超を通じて知り合った犬養毅らから人材育成の必要を説かれたことから、ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動(トンズー運動)を興した。
■ティック・クアン・ドック
1897年 - 1963年6月11日は、ベトナムの僧侶である。1963年6月11日に、当時南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権が行っていた仏教徒に対する高圧的な政策に対して抗議するため、サイゴン(現・ホーチミン)のアメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺した。彼は支援者たちが拝跪する中、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続け、一切苦悶の表情や声を出さず、絶命するまでその姿を崩さなかった。その姿はカメラを通じて全世界に放映された。この衝撃的な事件が世界中に放映され、国内の仏教徒に大きな影響を与えることとなった。
■リュウ・ソン・ミン
1974年 - は、ベトナムの作家。ハノイに生まれる。ハノイ医科大学に在学していた19歳当時に着想を得て、短編小説『この世の渡し』を執筆する。この作品は、兵士となった男、男の元恋人、男の母の三人の視点からひとつの出来事を多声的に描いており、その表現方法が一元的な社会主義リアリズムへのアンチテーゼともなった。
■レ・リュー
レ・リュー (Le Luu) はベトナムの作家である。1942年にベトナム北部の農村に生まれ、新聞記者などの職を経て1964年に作家としてデビューした。はるか遠い日(訳:加藤則夫 出版: めこん)
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