|
タイ王国
Kingdom of Thailand
|
<王室>
■立憲君主制
立憲君主制のもと平時は国王は象徴的な存在である。しかし、政治的な危機にあたってはしばしば国王の直接的、または間接的な介入が見られる。近年においても1992年に発生した5月流血革命の際にプーミポン国王が仲裁に入った他、2006年の政治危機でもタクシン首相の進退問題に直接介入するなど、国王の政治や国軍への影響力は極めて大きい。
■国王の人気
伝統的に王家に対して崇敬を払うよう国民は教えられているが、実際は自主的に王家を敬うものが殆どで、国王や王妃の誕生日には国中が誕生日を祝うお祭り状態となる。日常生活においても、国民の各家庭やオフィスビル、商店や屋台に至るまで、国王の写真、カレンダーや肖像画が飾られている。
■東南アジア
Southeast Asia)とは、中国より南、バングラデシュより東のアジア地域を指し、インドシナ半島、マレー半島、インドネシア諸島、フィリピン諸島などを含む。主に、大陸部東南アジアと島嶼部東南アジアに分けられる。
■チャオプラヤー川
Chao Phrayaは、タイのバンコクなどを中心に流れる、タイ国内の大きな河川の一つである。バンコクを中心とする中央湿地帯では、農業用あるいは運搬用に運河が掘られ、世界でも有数の稲作地帯に発展した。これをチャオプラヤー・デルタ(三角州)という。
■ターピー川
タイ南部を流れる、南部における最長の川である。ナコーンシータンマラート山脈の一部であるルワン山(カオ・ルワン国立公園)を水源に持ち、北に流れバーンドーン湾に至る。
■ピン川
(Ping River)は、タイを流れる河川で、ナーン川と共に、チャオプラヤー川の主要な支流の一つである。
■ナーン川
Nan River)は、タイを流れる河川で、チャオプラヤー川の主要な支流の一つである。
■コック川
ミャンマー・シャン州およびタイ北部を流れる、メコン川水系の川である。シャン州、モンサート(ムアンサート、ムーンサート)付近に源流を持ち、タイ、チエンマイ県、メーアーイ郡に流れ込み同郡でファーン川と合流。
■インドシナ半島
中国の南、インド亜大陸の東にある東南アジアの半島である。この地域はインドシナ (仏語:Indochine) と呼ばれ、インド (indo) と中国 (Chine) に挟まれている地理的特徴からフランスによって名付けられた。
■マレー半島
Malay Peninsulaは、アジア大陸の東南端に位置する半島のことである。南北に細長く、アジア大陸の最南端箇所を有する。マレー半島の南西海岸はスマトラ島との間にマラッカ海峡で隔てられている。東沖にはボルネオ島(カリマンタン島)がある。最も狭い部分はクラ地峡である。
■コーラート台地
東南アジア・タイ、イーサーン地方(東北部)にある台地。イーサーンと言う言葉とコーラート台地と言う言葉は、基本的に同じ地域を示すが、イーサーンは地方名として、コーラート台地は地形的名称として使われる。
■クラ地峡
(Kra Isthmus)は、東のタイランド湾と西のアンダマン海に挟まれてマレー半島の最狭部を形成している陸地(地峡)である。右図のBandon Bayから半島を横切るあたり。地峡の東部はタイ、西部はミャンマー・マレーシアに属しており、クラ川とサウィ湾を結ぶ最も狭い部分はわずか44km幅しかない。最高点は75mである。
■ピーピー諸島
Koh Phi Phi、はタイ王国・南部、クラビー県にある諸島の名前。元々はいろいろあるビーチのうちの一つ選択肢でしかなかったが、レオナルド・ディカプリオ主演の映画『ザ・ビーチ』でロケ地として選ばれたことにより、内外からの観光客が激増し、カオサン通りのような無国籍な街となった。
■サムイ島
Ko Samui,はタイ南部・スラートターニー県にある島である。行政区分としては周辺の島々とともにサムイ島郡を形成しており、サムイ島はその中心である。20世紀後半まではタイ本土との交流もほとんどなかったと言われているが、20世紀後半に観光地としての開発も進み、国際空港もあり、タイ内外問わず、人気のある観光地となっている。
■パンガン島
Ko Pha Ngan)とも)はタイ、タイランド湾にある島の一つ。行政区分としては北に位置するタオ島を含みパンガン島郡である。紀元前500-100年ごろ栄えたドンソン文化の痕跡がありそのころから人間の住んだ形跡があった。
■タオ島
タイランド湾にある島の一つ。行政区分としてはスラートターニー県、パンガン島郡の管轄にあり、周辺の四つの島を合わせて一つのタムボンを形成する。タムボン全体の住民は1000人弱。
■チャーン島
バンコクから南東に310km、カンボジア王国との国境に近いタイランド湾上にあり、タイで2番目に大きな島である。島は多くの滝、珊瑚礁、熱帯雨林で名が知られている。
■クレット島
ノンタブリー県のパーククレット郡にある島。島と言ってもチャオプラヤー川の中にある中州である。クレットの意味は「小さい」ないしは「小川をつなぐ運河」と言う意味。パーククレットからクレット島行きの船が出ているのでパーククレットはパーククレット(クレット入り口)と言う。
■サメット島
Koh Samet,は、本土から6.4km沖合いのタイランド湾内に位置するタイ王国の島。ラヨーン県に属し、同県の県章にも描かれている。1830年ごろ詩人スントーン・プーがサメットの海岸を舞台にした物語プラアパイマニーを著し、有名になった。
■スコール
(squall) は、激しい天候変化(豪雨、落雷あるいは大雪など)を伴う急激な風速の増加現象である。短時間のうちに継続的に風速が増加し、激しい突風を生じる場合もある。スコールは通常、中層からの下降気流または中層での対流による冷却(冷たい大気の先端に生じた局所的な上昇気流)により発生し、局所的な下降気流を強める。
■タイ族
タイ語やラーオ語等のタイ・カダイ語族を母語とする人のこと。タイ人=タイ族、ラオス人=ラーオ族でないことに注意する必要がある。この項目ではタイ族と言った場合、特に指定がない限りラーオ族なども含ませている。タイ族の発祥はアルタイ山脈の麓あたりとされており、年代を経るにつれて南下をしていることが分かっている。
■タイの華人
タイ国内に住み、タイ国籍を持つ中国系住民である。中国系といっても、タイ国内においては混血が激しいため、極端な意見ではタイ人で華人の血が流れていない人を捜すのが難しいとも言われる。混乱を避けるためここでは、「統計上に上り、華人を自称するタイ国籍保有者」を扱う。
■モン族
Monとは東南アジアに住む民族の一つ。古くから東南アジアに居住しており、ハリプンチャイ王国を建てたことで有名で、後にビルマのペグーに移り住んだのでペグー人とも言う。ラーマンあるいはタラインと呼ばれることもある。その後一部が中国の雲南から南下してきたタイ族やビルマ人などと混血した。現在80万人程度がモン族を自称している。
■カレン族
タイ北部・西部から、ミャンマー東部・南部にかけて居住する民族である。広義にはカレンニー(赤カレン)などのカレン系諸族すべてを含み、狭義にはスゴー・カレンとポー・カレンを中心とする白カレン・グループが主なカレン族と見なされる。伝統的には半農半狩猟である。
■クメール人
カンボジアを中心とする東南アジアの民族。カンボジアの総人口の約90パーセントを占めるほか、タイ東北部、ラオス、ベトナムなどにも住む。身体的特徴では一般に、波状の頭髪や体毛の多さといった古モンゴロイドの特徴を具えた人が比較的多く見られるが、皮膚は比較的濃色である。
■タイランド湾
Gulf of Thailandとは、太平洋南シナ海にある湾の一つで、タイ王国、カンボジア、ベトナム、マレーシアがその海岸線を有する。南東方向に開けた湾であり、最北地点チャオプラヤー川河口を最奥に、ベトナムのバイブン岬からマレーシアのコタバル結ぶ範囲となっている。その面積は大雑把に320,000km2にも及ぶと言われる。また、タイ地域の旧称シャムに由来して、シャム湾という表記が用いられていたこともある。なお、タイランド湾のサッタヒープからチャアムまでを特にバンコク湾と言うことがある。
■メコン川
Mekong Riverは、東南アジアを流れる河川。チベット高原に源流を発し、中国の雲南省を通り、ミャンマー・ラオス国境、タイ・ラオス国境、カンボジア・ベトナムを通り南シナ海に抜ける。典型的な国際河川の一つで、数多くの支流がある。メコンが現在直面している2つの最も大きな問題は、ダム建設と急流を緩和する治水工事である。多くのダムが既に川の支流に建設されているが、顕著な例ではタイ・ウボンラーチャターニーのパクマンダムが、環境への被害をもたらすとともに、地域住民の生活にも悪影響を与えると批判されている。
■アンダマン海
Andaman Seaとはインド洋の縁海で、マレー半島とアンダマン諸島、ニコバル諸島との間の海。 約1200kmの海岸線、650kmの東西の幅、797,700km2の海面、平均870メートルの深さを有する。最深部は3,777メートル。風光明媚なことで知られ、周辺の島々や海岸にはリゾート地が建設され、マリン・スポーツが盛んである。著名なリゾート地としては、南東部にプーケット島やランカウイ島がある。
■ラーンナー
ラーンナー王朝とはマンラーイ王によって1259年に成立したとされるタイの王朝。首都は時代や統治形態などにもよるが現在のチエンマイとしていた。マンラーイ朝出身の人物により代々統治がなされ、南方のスコータイ王朝やアユタヤ王朝などとは全く別の覇権を築き上げた。
■ドーイ・インタノン国立公園
タイの国立公園の一つ。ドーイインタノン国立公園とも。この地域の森林保護に力を入れたチエンマイ王朝のインタウィチャヤーノン公の名前にちなんでつけられた。インタノン山国立公園の目玉は、なんと言ってもタイ最高峰であるインタノン山である。その他、鳥類・動物も多種観察することが出来、森林、滝など見所あふれる所がたくさんある。
■国家成立
タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝(1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やアンコール王朝の支配を退け成立した。
タイ国政府観光庁
<世界遺産>
■古都スコタイと周辺の古都
スコータイ王朝には数々の主要都市があり、このうちの幾つかが廃墟になりながらも現存している。
■古都アユタヤと周辺の古都
アユタヤー遺跡群は、チャオプラヤー川とその支流であるパーサック川、ロップリー川に囲まれた中州に集中している。これは、敵からの防御を考えて中心部の回りに運河を掘ったことによるものである。ワット・プラシーサンペット、ワット・ローカヤスターラームなどの寺院跡、王宮跡が残る。
■トゥンヤイ-ファイ・カ・ケン野生生物保護区
手つかずの自然が広範囲で残っていることが評価され、世界遺産への登録が1991年4月になされた。以下の二つのタイ政府に指定された野生動物保護区からなる。
■バン・チェン遺跡
バーンチエン遺跡では土器を中心に動物の骨なども見つかっており、黄河文明・メソポタミア文明とは違った、東南アジア独自の文明として注目を集めている。土器には独特の渦をもった幾何学模様をもつものがあり広く知られている。なお、紀元前数千年というタイの有史以前の時代のものであり、文明の主である民族は今のところ不明とされている。
■ドンパヤーイェン-カオヤイ森林地帯
ドンパヤーイェン-カオヤイ森林地帯は大きな森林地帯であり。その森林の濃さのために開発が遅れた地域であった。チャクリー王朝初期には開発を促すために一部の地区を免税地区に設定し入植者を促したこともある(これが現在のナコーンナーヨック(「免税の町」という意味)である)が、山岳部は鬱蒼とする森林と、その高低差のために稲作に適さなかったことから、開発が大幅に遅れた。2005年の世界遺産登録時点では、112のほ乳類、392の鳥類、200の両生類とは虫類が発見されている。インドゾウなどの東南アジアの森林では一般的な動物の個体数も多く、この地域のドライブウェイではドライブ中に何らかの野生動物がみられる可能性が高い。
■スコータイ王朝
13世紀 - 1438年)は、タイに存在した王朝。タイ族最初の王朝と言われる。雲南から南下してきたタイ族は、13世紀ごろまでは強力なアンコール王朝の支配力の下にあった。ところが、アンコール王朝のジャヤーヴァルマン7世が崩御すると、タイ人が進出していた地域におけるアンコール王朝の支配力が次第に弱まり始めた。
■アユタヤ王朝
(1351年 - 1767年)は現タイの中部を中心に展開したタイ族による王朝。創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。タイに起こった各時代の王朝同様、中国とインド、ヨーロッパ方面を結ぶ中間に位置する地の利を生かし、貿易が国の富として重要であった。アユタヤ王朝でも王家を中心として、独占的な貿易が行われた。
■トンブリー王朝
(1767年 - 1782年)は、タイの正統王朝の一つ。首都はトンブリー。中国の潮州系タイ人、鄭昭、タークシン王によって創設された。今のチャックリー王朝の前身で、アユタヤ王朝が破壊された翌年、バンコクのチャオプラヤー川西岸に建設された。その翌年の1768年8月にタークシンは、清朝に使者を派遣し冊封を求めた。
■ハリプンチャイ王国
今のタイ王国・ランプーン県にあったモン族の王国。ハリプンチャイ王国に関してはパーリ語で書かれた『ジナカーラマーリー』や『チャーマデヴィーヴァムサー』など多くの年代記があり頻繁に言及されているが、非常に史実に乏しいとされ、実体は大きく謎に包まれている。
■チャンパーサック王国
現在のラオス南部で18世紀から20世紀(1713年 - 1946年)にかけて存在していた歴史上の王朝。現在のチャンパーサック県を中心とした地域を統治していた。
■チャクリー改革
タイのチャクリー王朝・チュラーロンコーン大王(以下ラーマ5世)によって行われた一連の近代化のための改革のことである。狭義にはラーマ5世の改革のみを指すが、広義にはモンクット王(以下ラーマ4世)における近代化政策からワチラーウット王(ラーマ6世)までの一連の改革を指す。
■チャクリー王朝
1782年(タイ仏暦2325年)、乱心をきたしたタークシン王を処刑したラーマ1世によって起こされたタイの現王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝(ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。
■タイ・フランス領インドシナ紛争
1940年11月23日から1941年5月8日にかけて起きたタイ王国とヴィシー政権下のフランス植民地軍との国境紛争である。タイ王国はフランスに対し、以前フランスの軍事的圧力を受けて割譲したフランス領インドシナ(以後仏印)領内のメコン川西岸までの領土(フランス保護領のラオス王国の主権やカンボジア王国のバッタンバン・シエムリアプ両州)の返還を求めた。
■タイ料理
東南アジアのタイ王国の料理である。中国や周辺諸国の料理の影響を受けており、香辛料、香味野菜やハーブを多用し、辛味、酸味、甘味などを多彩に組み合わせた味付けに特徴がある。主食は米。インディカ種の一種であるタイ米が広く食べられている。北部や北東部では、長粒種のもち米も常食される。味付けの基本は魚醤である。タイの魚醤はナンプラーと呼ばれるが、アンチョビなどの魚を塩漬けし、発酵によって魚のタンパク質から生じるアミノ酸を豊富に含む、醤油に似た液状の調味料である。
■タイの観光
タイへの観光客は、2000年代より継続して増加しており、2007年には約1500万人となっている。この間、観光を巡る環境は良好だったわけではない。SARS(2002年)や鳥インフルエンザ(2003年)などに見舞われている。だが、タイは世界遺産などの遺跡やプーケット島などの豊かな自然といった観光資源に恵まれていることに加え、インフラストラクチャーや商業施設が開発により整ってきていることがタイの観光業へプラスの影響を与えている。
■マレー鉄道
マレーシアを縦断する鉄道路線の総称、もしくはこれを運営するマレーシア鉄道公社に対する一般的な呼称である。義にはタイの首都、バンコクからタイ国鉄南線を経由し、マレーシア=タイ国境のパダンブサールを介して、ケダ線およびウエスト・コースト線を結びシンガポールに至る、マレー半島縦断鉄道ルートを総称する名称として用いられることもある。
■インターネット
バンコクにはインターネットカフェが多数あり、その多くでは日本語に対応している。また都市部のホテルや空港では無線LANが充実している。そのうえ、近年ではブロードバンド整備が進められており、都市部ではADSLサービスが普及しつつあるが、回線が混雑することが多く速度は遅い。また地方でのインターネット接続環境の整備は遅れており、都市部、特に首都バンコクとの格差は大きい。
■宗教
仏教(南方上座部仏教)95%、イスラム教4%、キリスト教、他にヒンドゥー教、シーク教、道教など。王室を始め、タイ国内のほとんどは仏教徒で占められている。そのほとんどは上座部仏教であり、それにヒンドゥー教や、精霊信仰を加味した独特の仏教になっている。紀年法は西暦も併用されているが、現在もタイ仏暦(仏滅紀元、タイ暦)が主に使用されている。
■タイの文化
タイの文化はインド起源のバラモン文化を中心にし、それに仏教思想の影響を受けたものが多い。例えば彫刻はほとんどが仏像に限られ、建築も仏教寺院建築が主である一方、寺院の壁画にヒンドゥーの起源の説話が挿入されていたり、ヒンドゥー教の神々・生物が装飾として置かれていたりと美術面ではヒンドゥー的要素がむしろ顕著である。絵画も主なものは寺院の壁画である。古典劇及び古典文学もこれらの影響を強く受けており、伝統的タイ文学はほとんどが韻文である。
■タイの洪水
2011/11/06 バンコクの都心に向け浸水が拡大。チャオプラヤ川の東に位置する都心部を守るため政府は重さが1つ2トンの大型土嚢6000個を首都北部に並べた。日系企業20社が入った東部のバンチャン工業団地でも浸水の危機。
■リーマン・ショック
(Lehman Shock)とは、2008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズが破綻した出来事を、これが世界的金融危機の大きな引き金となったことに照らして呼ぶ表現。リーマン・クライシス(Lehman Crisis)、リーマン不況ともいう。
■東南アジア諸国連合
Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10か国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。
■アジア太平洋経済協力
Asia-Pacific Economic Cooperation、略称:APEC)は、環太平洋地域における多国間経済協力を進めるための非公式なフォーラムである。
■アッサニー・ポンラチャン
1918年9月15日 - 1987年11月28日は、ナーイピーの名で知られるタイの詩人、作家、革命家。ラーチャブリー県出身。アッサニーは、1918年9月15日ラーチャブリー県ムアンラーチャブリー郡タムボン・ナームアン バーン・ターサオで生まれる。1936年タンマサート大学政治学部入学。大学時代に文学に興味を持ち、ナーイピーのペンネームで創作を始める。卒業後、1941年12月21日三等検察補佐官としてパッタニー県へ赴任。サラブリー県、アユタヤ県などを転々とし、1952年に離職。その後、ピブーンソンクラーム政権の言論統制の中、アッサニーは反政府活動に従事しつつ、ペンネームや居住地を変え、身を隠しながら作品を世に出していった。
■アンカーン・カンラヤーナポン
1929年2月12日 - はタイの詩人。ナコーンシータンマラート県出身。アンカーンは、1929年3月26日ナコーンシータンマラート県で生まれる。幼少のころより絵や詩を得意とし、高校時代には困難な定型クローン詩も手がける。シラパコーン大学絵画・彫刻・版画学部を卒業。スワンニー・スコンターと交友し、詩作に励んだ。1972年、サティエンコーセート・ナーカティープ財団より詩人の業績を称え表彰を受けている。1986年、『詩人の決意』で東南アジア文学賞を受賞。1989年、国家芸術家の指定を受ける。
■スチット・ウォンテート
1945年4月23日 - はタイの詩人、作家、歴史家。プラーチーンブリー県出身。スチットは1945年4月23日プラーチーンブリー県シーマハーポー郡タムボン・コークピープ バーン・ダーンに生まれる。1964年シラパコーン大学考古学部に入学。1969年高校時代に同級生であったカンチャイ・ブンパーンとの合詩集『俺は天下の学生さまだ』で世間の注目を集める。1970年大学卒業後、カンチャイ・ブンパーンとともにククリット・プラーモートの主宰する日刊紙『サヤーム・ラット』に入社し、革新的ジャーナリストとして活躍。
■チット・プーミサック
1930年9月25日 - 1966年5月5日はタイの文学作家、歴史学者、考古学者、言語学者、思想家。プラーチーンブリー県、プラチャンタカーム郡出身。チットはマッタヨム(中等教育)をカンボジアの学校で始めるがこの時、タイの歴史学の研究に不可欠な古典クメール語を身につけた。チットの思想は大学時代から頻繁に発表されており、その思想は特に王政や圧政的政府を批判するものであった。この思想は、特に大学や政府を刺激し、チットは何度も停学処分に遭っている。卒業時には卒業証書を国王から渡されることを拒否。これはタイ人で初めての国王による卒業証書授与の拒否であると言われている。
■スチャート・サワッシー
1945年6月24日 - はタイの詩人、小説家、編集者。アユタヤ出身。ルン・マイ(「新世代」)の先駆的存在であり、リアリズムとシュールレアリズムの双方を駆使して広範かつ前衛的な創作活動を行なっている。1969年から1976年10月の廃刊まで『社会科学評論』誌の編集長を務め、並行して盛んに創作活動を行なう。1976年10月の軍事クーデターによって一時地下に潜伏するが、翌年の月刊文芸誌『作家界』の創刊を機に活動を再開。現在も複数の雑誌の編集長を務めつつ、詩を中心に幅広いジャンルの創作活動を行なっている。
■シリントーン
Her Royal Highness Maha Chakri Sirindhorn1955年4月2日 - は、タイ王国・君主ラーマ9世(プーミポン・アドゥンラヤデート)とシリキット王妃の間に生まれた次女(第3子)で、王位継承者の一人。シリントーン王女は1973年にチュラーロンコーン大学文学部へ進学。王室初の国内大学進学者である。タイ赤十字社の副社長、タイ王立アカデミーの歴史学部長、難民教育基金の理事を務める。またユネスコ親善大使を務め、少数民族児童文化保護及び無形文化遺産保護に努める。
■スワンニー・スコンター
Suwanni Sukhontha,1932年3月1日- 1984年2月3日は、タイ王国の作家。タイのピッサヌローク県に生まれる。中等教育のあとバンコクのシラパコーン大学の美術科を卒業。同大学で教師を勤めつつ、創作活動をはじめる。最初の長篇小説『愛の炎は消えず』(Sai Bo Yut Sane Hai)で人気を博す。
■ラーマ9世
1927年12月5日 - は、チャクリー王朝第9代のタイ国王(在位:1946年6月9日 - )。1927年12月5日に、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジに生まれる。ラーマ5世の69番目の子息、ソンクラーナカリン王子を父に持つ。学業はスイスのローザンヌ大学で修めた。学業中にいったん休学し、第二次世界大戦終結後の1945年にタイへ帰国するが、翌年の1946年6月9日に兄・ラーマ8世が怪死したため、兄王の死の12時間後にタイ国王に即位。
■インラック・シナワトラ
Yinglak Shinawatra、1967年6月21日 - は、タイ王国の政治家。第36代首相(現職)。日本ではインラック・チナワットまたはインラック・シナワットと呼称・表記されることもある。1967年6月21日、チナワット家当主のルート・チナワットの娘としてタイ王国サンカムペーンで出生。チェンマイ大学政治学部卒業後、アメリカに留学し教育を受け、ケンタッキー州立大学にて行政学修士を取得。帰国後にチナワット一族同族企業のチナワット・ダイレクトリーに入社。アドバンスト・インフォ・サービスの社長などを務めた。
■プリンス・ビラ
Prince Bira , 1914年7月15日 - 1985年12月23日は、タイ王国の王子でアジア人初のF1ドライバーである。もっとも後生まで生きたラーマ4世(モンクット)の孫でもある。1914年にタイ王国(当時はシャムと呼ばれていた)の王族、パーヌパン家の一員として、ラーマ4世の息子、パーヌパン親王とレック婦人の間に首都のバンコクで生まれた。ケンブリッジ大学在学中の1935年に、友人のプリンス・チュラ(Prince Chula Chakrabongse)からプレゼントされたライレー・インプをドライブし、ブルックランズ・サーキットで最初のレースに出場し好成績を収めたことをきっかけに、この年の暮れにERAR2B「ロムルス」を購入し、本格的にモータースポーツ活動を開始する。
■チンタラー・スカパット
Chintara Sukapatana、Jintara Sukaphatana、1965年1月22日-はタイの映画女優。出演作は70本を超え、数多くの受賞歴を持つ。タイ国内では「スクリーンの最後の女王」と称せられる国民的な映画スター。化粧品販売員として働いているところを見出され、映画界入りする。女優業のかたわらチュラーロンコーン大学に進学した1987年、米ハリウッド作品『グッドモーニング, ベトナム』で主人公が想いを寄せるベトナム人少女トリン役に抜擢され、国外にも名を知られるようになった。
■アピラック・コーサヨーティン
1961年3月30日 - は第15代のバンコク知事。アピラックは1961年にエンジニアの父と教員の母との間に生まれる。チエンマイ大学卒業後、ハーバード大学のビジネス・スクールを卒業。ビジネスマンとしてはピザハット・タイランドのアシスタントマネージャーを経験した後、タイ国内最大手のGMMグラミーのCEO、携帯電話会社TAオレンジなどのCEOを歴任した。
■マーニット・プーアーリー
1935年12月3日 - 2008年11月30日はタイの版画家。1999年にタイ王国国家芸術家(芸術部門・版画)に選出。バンコクのシラパコーン大学の美術・彫刻学部に入学する。卒業後、イタリアローマの芸術学院で研究を続けた。
■テープシリ・スックソーパー
1933年- はタイの作家、画家、挿絵作家である。スコータイ県出身。バンコクのシラパコーン大学でタイ近代美術の父シン・ピーラシー教授の指導を受ける。
■チュワン・リークパイ
Chuan Leekpai、1938年6月28日 - は、タイ王国の政治家。下院(人民代表院)議員。首相(第27・30代)、法務相、商務相、教育相、民主党党首を歴任した。トラン県の華人に家庭に生まれた。貧しいながらも苦学してタマサート大学に進学し、卒業する。後に弁護士としての活動を始めた。1969年にはトラン県選出の下院議員として政界入りする。
■シーインタラーティット
シーインタラーティット王は小タイ族を中心とするタイの最初の王で、スコータイ王朝最初の王である。年代については断定できないが、13世紀ごろにはクメール人の王朝下でバーンヤーン(現在のピサヌローク県ナコーンタイ郡)の領主をしていて、名はポークン・バーンクラーンハーオだったとされる。ラート(地名)の小タイ族領主だったポークン・パームアンとクメール人を追い出し、王国を作った。
■ラームカムヘーン
1239年?- 1299年頃(もしくは1317年[2]))はタイに存在したスコータイ王朝の3代目の王(在位1279年 - 1299年頃)。スコータイ王朝を地方の一ムアン(地方政権)から広大な領域を支配する大国に発展させた王であり、その業績からタイ史上最高の王(タイ三大王)の1人に数えられ、大王(マハーラート)の尊称で呼ばれる。
■スントーン・プー
(Sunthorn Phu、1786年 - 1855年(タイ仏暦2329年 - 2398年))はタイの詩聖と呼ばれる大詩人。1986年には生誕200周年を記念してユネスコの祝賀を受け、賞賛された。学問をためると還俗して役所の書記となった。そのうち相聞歌にこり始めたが、非常に上手く役所内では評判の物書きとなった。しかし、後宮のチャンという女性と恋仲になり、ラーマ1世の王子の怒りにふれ、二人とも牢屋に入れられた
■プレーム・ティンスーラーノン
Prem Tinsulanonda、1920年8月26日 - )はタイの軍人(陸軍大将)。政治家。タイの首相を務めた。また、枢密院議長を務めた。1920年、南部ソンクラー県の下級官僚の家に生まれた。1941年、王立陸軍士官学校(現、チュラチョームクラオ陸軍士官学校)に入学。。
■スラユット・チュラーノン
1943年8月27日 - )は、タイの政治家、軍人(陸軍大将)。枢密院顧問官。タイの首相(第32代)を務めた。軍事クーデターによる暫定憲法下で首相に就任したことから、日本の一部マスコミにスラユット暫定首相と記載された。
■ソムチャーイ・ウォンサワット
Somchai Wongsawat、1947年8月31日 - )は、タイ王国の政治家。第34代首相、下院議員(1期)。ナコーンシータンマラート県出身。タマサート大学法学部卒業後、1973年に司法試験に合格し、弁護士資格を取得した。
■ピヤポン・ピウオン
Piyapong Piew-onまたはPiyapong Pue-On、1959年11月14日 - )は、タイ出身の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者、軍人。1980年代に活躍した、タイサッカー史上に残る名FW。タイ代表での最多得点記録(103得点)を持つ。タイ王国空軍ユースチームのストライカーとしてサッカーのキャリアを始める。Kリーグ初の外国籍選手として、1984年から1986年までラッキー金星(現FCソウル)でプレイした。1985年は得点王(12得点)とアシスト王(6アシスト)を獲得して、ラッキー金星の初優勝に貢献した。
■キャティサック・セーナームアン
(Kiatisuk Senamuang、1973年8月11日 - )は、タイ出身のサッカー選手。愛称はジーコ。コンケーン県の学校でサッカーを始め、10代の頃にクルン・タイ・バンクのサッカークラブに所属、タイのジュニアユース代表、ユース代表に選出される。
■マヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム
1891年1月1日 - 1929年9月24日)はチャクリー王朝の王、ラーマ5世(チュラーロンコーン)の息子(69番目の子)で、ラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)の父親。タイに近代的医療を導入した人物として知られ、「タイの医療の父」と呼ばれる。ソンクラーナカリンは同年シリラート病院にて収容しきれず、病院から放り出され死んだ病人を目の前にして、心を痛め、本業の海軍将校の役そっちのけで同病院で医療行為を行っていた。
■ナラーティワートラーチャナカリン
1923年5月6日 - 2008年1月2日)はタイ国王、ラーマ8世(アーナンタ王)、ラーマ9世(プーミポン王)の姉である。フランス語に通じており、タイ国内の大学でフランス語文学について教鞭をとっていたこともある。また、亡きシーナカリン王太后のロイヤル・プロジェクトの多くのパトロンでもある。
■スラキアット・サティアンタイ
(Surakiart Sathirathai、1958年6月7日 - )はタイの政治家。2006年7月現在副首相を務め、外交、教育、文化などを担当している。スラキアットはバンコクにおいて生まれた。父は経済省の官僚で、母はフランス語の教師であった。タイのチュラーロンコーン大学の法律学科を卒業し、ハーバード大学ロースクールおよびタフツ大学フレッチャー法律外交大学院でそれぞれ法律と外交の修士号を得た。
■チンタラー・スカパット
Chintara Sukapatana、Jintara Sukaphatana、1965年1月22日-)はタイの映画女優。タイ、バンコク出身。出演作は70本を超え、数多くの受賞歴を持つ。タイ国内では「スクリーンの最後の女王」と称せられる国民的な映画スター。化粧品販売員として働いているところを見出され、映画界入りする。1985年、『リー村長とマー夫人』でデビュー。都会的で清楚な容姿から当初は可憐な美少女役が多かったが、1987年の『赤い屋根』では精神病患者を演じ、その後も清純な役から汚れ役まで、社会派作品からコメディまでと、幅広い作品で多様な役柄を演じ、徐々に実力ある演技派として評価を高めた。
■ラウィー・パーウィライ
1925年10月17日- )は、タイの天文学者、作家および翻訳家である。1986年のハレー彗星の接近があった際に、作品・翻訳が科学、仏教、文学や哲学の方面から注目され、タイのおける天文学の普及にも寄与した。2006年に文学部門で国家芸術家に選出されている。
|
タイ Thailand
東南アジアに位置する立憲君主制国家。東にカンボジア、北にラオス、西にミャンマーとアンダマン海があり、南はタイランド湾とマレーシアである。国土はインドシナ半島の中央部とマレー半島の北部に位置する。首都はバンコク。
■国民
タイ族75%、華人14%、その他マレー系、インド系、モン族、カレン族などがいる。深南部三県では一部のマレー系住民が以前から離反の動きを見せていたが、近年に入ってさらに状況が悪化し、パタニ解放戦線などの組織がパタニ王国の復興を大義名分にして、反政府活動を行う動きが出ている。
■バンコク
Bangkokはタイ王国の首都である。東南アジア屈指の世界都市。バンコクの歴史は1782年、ラーマ1世がタークシンを処刑しそれまでのトンブリーからチャオプラヤー川対岸に首都を移したことに始まる。ラーマ1世が遷都した理由として、トンブリーがチャオプラヤー川西岸にあり、当時チャオプラヤー川周辺に勢力を広げようとしていたビルマのコンバウン王朝(現、ミャンマー)の進入が容易だったからである。
■チャオプラヤー・エクスプレス
Chao Phraya Express Boat は、バンコク市内を流れるチャオプラヤー川を運行する高速ボート。交通渋滞の激しい道路を避け、川沿いの観光名所を見ることもできる。サートン〜バンランプー間は外国人観光客も多い。
■ムアンチエンマイ郡
ムアンチエンマイ郡はタイ・北部にある郡(アムプー)。チェンマイとも。チエンマイ県の県庁所在地(ムアン)でもある。ラーンナータイ王国の首都として、メンラーイ王により1296年4月12日建造された。王国の首都として古くから発展し、ラーンナータイ王国が廃止された現在でも北部の文化・経済の中心である。人口では東北部のナコーンラーチャシーマーを下回るが、その歴史の長さや都市の格から、一般にバンコクに次ぐタイ第2の都市とされている。
外務省:タイ王国
在タイ日本国大使館
■スワンナプーム国際空港
Suvarnabhumi International Airportはタイのバンコク中心部から32Km東方のサムットプラーカーン県バーンプリー郡にある、2006年9月28日に全面開港した国際空港である。新バンコク国際空港 (New Bangkok International Airport, NBIA) とも呼ばれている。
■ウドーンターニー国際空港
Udon Thani International Airportは、タイ王国ウドーンターニー県ムアンウドーンターニー郡にある国際空港。バンコクから約450km北東に位置する。
■チェンライ国際空港
Mae Fah Luang-Chiang Rai International Airport)は、タイのチエンラーイ県にある国際空港。
■ハートヤイ国際空港
(Hat Yai International Airport)は、タイ南部の政治経済の中心都市であるソンクラー県ハートヤイ郡にある国際空港である。
■ドンムアン空港
Don Mueang International Airport)は、タイ・バンコク中心部から北方に約20km、ドンムアン区にある国際空港である。
■フワランポーン駅
Hua Lamphong Stationは、タイの首都・バンコクパトゥムワン区にあるタイ国有鉄道の駅。タイ国有鉄道の主要幹線4路線の起点駅として位置づけられている。1894年に、タイ国有鉄道初の鉄道路線の開通に伴い、現在の位置よりやや北側(現在のタイ国鉄本社付近)に設置され、開業。その後、1910年から1916年6月25日まで6年間にわたる移転・拡張工事を経て現在の駅が開設された。
■ウボンラーチャターニー駅
タイ王国東北部ウボンラーチャターニー県ワーリンチャムラープ郡にあるタイ国有鉄道東北線・南線の駅である。
■タイ国有鉄道
State Railway of Thailand、は、仏暦2494年(1951年)にタイ国有鉄道法に基づいて設立された100%政府出資の公団で、タイ王国運輸省の下位組織である。
■バンコク・メトロ
首都バンコク主要都市部を走る地下鉄による高速鉄道網である。正式名称はMRT (Mass Rapid Transit)。建設は困難を極めた。バンコクは過去に何メートルにも及ぶ洪水を経験したこと、地下に配水管や電話線が無造作に埋まっていること、さらに、スカイトレインがあり開発には否定的な意見が多かったが、そのような中で1997年に建設が開始された。建設費は約27億ドルで、そのほとんどが日本円借款で賄われた。
■ラックムアン
市の守護神を祭るための柱である。タイの県庁所在地、都市などにおいて見ることができる。通常、サーンチャオ と呼ばれる社の中にある。信仰の対象とされ、何らかの祈願を行いに来る人がいる。ラーマ1世がおそらく最初にラックムアンを建立した人物である。トンブリーからバンコクに遷都するときラーマ1世はラックムアンを1782年4月21日午前6時45分に建立した。これがバンコク遷都後の最初の建造物であり、まだ王宮や他の建造物はなかった。
■シラパコーン大学
シラパコーン大学はタイにある国立大学の一つ。美術および考古学分野では、タイの国内で最高峰の大学である。1943年10月12日にイタリア生まれの美術教授シン・ピーラシーなどによって創設された。現在では多くの学部を持ち、7,000人の学生に教育を行っている。
■チエンマイ大学
Chiang Mai University、略称: CMUはタイ王国チエンマイ県アンプー・ムアン(チエンマイ市)に位置する大学。ステープ山の麓、Huey Kaew Road と Suthep Road の間に4平方キロメートルのメインキャンパスを構える。
■チュラーロンコーン大学
Chulalongkorn Universityとは1917年に設立されたタイ王国において最も古い歴史をもつ、権威ある国立大学である。現在18の学部と多数の研究施設があり、キャンパスはバンコク市街に位置している。
■マハーチュラロンコーンラージャヴィドゥャラヤ大学
Mahachulalongkornrajavidyalaya Universityは、タイの大学。略称はMCU。同国に二校しかない公立仏教大学の一つである。首都バンコクのワット・マハータット・ユワラジャランサリット(Wat Mahathat Yuwarajarangsarit Rajaworamahavihara)に所在する。
■シラパコーン大学
美術および考古学分野では、タイの国内で最高峰の大学である。1943年10月12日にイタリア生まれの美術教授シン・ピーラシーなどによって創設された。現在では多くの学部を持ち、7,000人の学生に教育を行っている。1942年、「国民」意識形成のために美術の重要性を認識するプレーク・ピブーンソンクラーム首相は、芸術局を教育省から格上げし、首相府に直属するように組織改編を行った。
■タンマサート大学
Thammasat University)はタイにある大学。タイが王政から民主主義体制へと移行した2年後の1934年6月27日に法学者であり首相、元老などを務めたプリーディー・パノムヨンによって創設された。タイで最も歴史のあるチュラーロンコーン大学に次ぐ歴史を有する。
■コンケン大学
Khon Kaen University、は、タイ王国コーンケン県ムアンコーンケン郡に本部を置くタイ王国の国立大学である。1964年に設置された。
■モンクット王工科大学ラートクラバン校
King Mongkut's Institute of Technology Ladkrabang)(略称:KMITL))は、バンコク都ラートクラバン区に本部を置くタイ王国の国立大学である。1964年に設置された。
■モンクット王トンブリー工科大学
略称:KMUTT、とは、タイ王国での工科大学。「バンモッド」とも言う。モンクット王工科大学トンブリ校は、タイ王国の首都バンコク都トゥンクル区にある大学である。
■マハーチュラロンコーンラージャヴィドゥャラヤ大学
Mahachulalongkornrajavidyalaya University)は、タイの大学。略称はMCU。同国に二校しかない公立仏教大学の一つである。この大学は、1887年にチュラロンコーン大王(ラーマ5世)によって、仏教僧、貴族、一般人に仏教学を中心とした高度な教育を施す研究所として設立され、1889年から授業を始めている。1896年に現在の名称となった。
■シリントーン国際工学部
(Sirindhorn International Institute of Technology,は1992年に設立されたタンマサート大学の独立高等教育機関である。一応タンマサート大学の一機関という事になっているが、その運営や経営資金などはタンマサートから独立している。名称はラーマ9世(プーミポンアドゥンラヤデート)の娘であるシリントーン内親王に由来する。
■サンカムペーン郡
サンカムペーン郡はタイ北部・チエンマイ県にある郡(アムプー)である。郡内にあるワット・チエンセーンから出た碑文によれば、1478年ごろワット・チエンセーンが建設されたとある。郡はピン川の支流の形成した平地にある。郡内の主な河川はクワン川、プワック川、オーン川などである。郡内にはメー・タクライ国立公園がある。
■プーケット県
タイ国内の県としては唯一の島である。隣接する県はないが、パンガー県と橋でつながっている。その風光明媚さから1980年代以降世界的な観光地となっており、世界各国から年間を通じ多くの観光客を集めている。島は美しいことで知られるアンダマン海に接しており、ビーチ、ダイビング、クルージングなどの観光資源に恵まれている。プーケット最大のパトンビーチを初め、美しいビーチに富み、タイ最大の国際観光地として発展してきた。
■パッタヤー
タイにある特別市。チョンブリー県内にあり、バーンラムン郡のタムボン「ノーンプルー」「ナークルア」、および「フワイヤイ」「プラーライ」の一部からなる。バンコクの東南の165キロメートル、タイランド湾に接するバンコク近郊の高級リゾート地で、ビーチやマリンスポーツが盛んである。
■プラナコーンシーアユッタヤー郡
プラナコーンシーアユッタヤー郡あるいはアユタヤ郡の名前で知られる町は、タイ・中部にある郡(アンプー)である。アユタヤ県の県庁所在地でもある。一般には『ラーマーヤナ』物語のラーマ王子の国、インドのアヨーディヤにあやかってアユッタヤーと名付けたと言われる(インドネシア・ジョグジャカルタも同じ由来を持つ)。
■ハートヤイ郡
タイ南部にある郡(アムプー)であり、ソンクラー県内に位置する。ハジャイという表記も使われる。タイ南部の中心的都市で、高層ビルが立ち並び、小バンコクとも呼ばれる。
■ムアンピッサヌローク郡
タイ北部・ピッサヌローク県にある郡(アムプー)である。ピッサヌローク県の県庁所在地(ムアン)でもある。ピッサヌロークとは「ヴィシュヌの世界」という意味である。
■ムアンヤラー郡
タイ南部にある郡(アムプー)。ヤラー県の県庁所在地(ムアン)でもある。ヤラーとはマレー語の Jolor から来た言葉で、投網を意味する。
■ムアンラムパーン郡
タイ北部・ラムパーン県にある郡(アムプー)である。ラムパーン県の県庁所在地(ムアン)でもある。ラムパーンは『ジナカーラマーリー』によれば750年頃にハリプンチャイに即位したチャーマデヴィーの2番目の息子が建設したとされ、ハリプンチャイ王国において主要都市であったことが分かっている。
■ムアンウボンラーチャターニー郡
タイ東北部・ウボンラーチャターニー県の郡(アムプー)である。同県の県庁所在地(ムアン)でもある。プラ・ター、プラ・ウォーという二人のチャムパーサック王国の兄弟が現在の1733年移り住んだ。この二人は後にヴィエンチャン王国のブンヤサーン王に攻撃され、プラ・ウォーは殺される。
■ムアンサムットプラーカーン郡
タイ中部・サムットプラーカーン県にある郡(アンプー)の一つ。同県の県庁所在地(ムアン)でもある。ラーマ2世がタークシン王が途中放棄していた港の建設を1819年に開始し、最終的には6つの港が建設された。これは、あたかも海に城壁が出来たように見えたことから、サムットプラーカーン(海の城壁)と名付けられた。
■ムアンサムットサーコーン郡
タイ中部・サムットサーコーン県の郡(アムプー)である。サムットサーコーンとは「海」という意味である。過去にはターチーンと呼ばれたがこれは「中国人の港」という意味である。
■ムアンスラートターニー郡
タイ南部にある郡(アムプー)。名称、スラートターニーは1915年、ラーマ6世(ワチラーウット王)により付けられた。意味は「よい住民の住む街」である。
■ムアンソンクラー郡
タイ南部・ソンクラー県の郡(アンプー)である。ソンクラーはシュリーヴィジャヤ王国時代から発展していたと見られサティンプラと呼ばれており、義浄が記した記録のチェーローティンがこれに当たるものであると推定されている。
■ムアンコーンケン郡
タイ東北部・コンケン県にある郡(アムプー)である。1783年ラーチャクルールワンと呼ばれる人物が330人の人民を引き連れ、現在のバーンパイ郡に移住してきたのが始まりである。この後、街の中心は現在のコンケンに移った。
■ムアンチエンラーイ郡
タイ・北部の郡(アンプー)。チエンラーイ県の県庁所在地(ムアン)でもある。また芸術家、チャルームチャイ・コーシットピパットのふるさととしても知られ、彼のデザインしたワット・ローンクンという寺院が新たな、観光スポットとなっている。
■ムアントラン郡
タイ南部・トラン県にある郡(アムプー)である。トラン県の県庁所在地でもある。長らく現在のトラン県の地域はナコーンシータンマラート王国のアンダマン海側の貿易の要所として発展していたが、現在のトランは寒村にすぎなかった。
■ムアンナコーンサワン郡
タイ・北部にある郡(アンプー)。県庁所在地(ムアン)でもある。ナコーンサワンとは「天国の都」と言う意味である。ピン川、ナーン川が合流しチャオプラヤー川を形成する地点でもあり、このため北部タイの産物の集積地となっている。市内の東側にはボーラペット湖が広がっている。
■ムアンナコーンシータンマラート郡
タイ・南部にある郡(アンプー)。ナコーンシータンマラート県の県庁所在地(ムアン)でもある。ナコーンシータンマラートとは「ダルマラージャの治める都」と言う意味である。ナコーンシータンマラートはアユタヤ王朝下ではマレー半島貿易でにぎわう一方で、度々離反するマレー系諸王朝(パタニ王国など)に対する防衛都市として機能した。
■ムアンナコーンパトム郡
タイ・中部にある郡(アンプー)である。ナコーンパトム県の県庁所在地(ムアン)でもある。ナコーンパトムとは「初めの町」と言う意味を持つ。これは町の建設が一番古い説で3世紀にさかのぼるからだといわれているほど、古い歴史を持つからである。
■ムアンナコーンラーチャシーマー郡
タイ東北・ナコーンラーチャシーマー県にある郡(アンプー)である。特に、考古学的な調査からわかっているのは現在のナコーンラーチャシーマー県にセーマー と呼ばれる都市があったこと、後にクメール王朝時代にコーラーカプラと呼ばれる街が建設されたことである。
■ムアンノンタブリー郡
タイ中部・ノンタブリー県にある郡(アムプー)。ほとんどが市街地であり、海抜0メートル程度の平坦な土地が広がっている。市内の重要な水源はチャオプラヤー川であり、人為的に作られた運河などが張り巡らされている。
■ムアンラヨーン郡
タイ王国・中部にある郡(アムプー)である。ラヨーン県の県庁所在地(ムアン)でもある。11世紀頃から、クメール王朝の支配下にありタムボン・チューンヌーンなどではクメール王朝時代の遺構も見つかっている。
■パーククレット郡
タイ中部・ノンタブリー県にある郡(アムプー)。パーククレットのパークは「入り口」、クレットとは小川と小川をつなげる運河のことである。この名前は、蛇行していたチャオプラヤー川を運河でつなげて運行距離を短くしたことに因む名前である。
1.面積:51万4,000平方キロメートル(日本の約1.4倍)
2.人口:6,338万人(2008年末)
3.首都:バンコク
4.民族:大多数がタイ族。その他、華僑、マレー族、山岳少数民族等。
5.言語:タイ語
6.宗教:仏教 94%、イスラム教 5%
7.略史:タイ王国の基礎は13世紀のスコータイ王朝より築かれ、その後アユタヤ王朝(14〜18世紀)、トンブリー王朝(1767〜1782)を経て、現在のチャックリー王朝(1782〜)に至る。1932年立憲革命。
■主要産業:農業は就業者の約40%強を占めるが、GDPでは12%にとどまる。一方、製造業は就業者は約15%だが、GDPの約34%、輸出額の約90%を占める。
■主要貿易品目(2009年)(1)輸出 コンピューター同部品、自動車・同部品、宝石・宝飾品、集積回路、精製燃料(2)輸入 原油、産業機械、電気機械・同部品、鉄・鉄鋼、化学品
■バーツ
(Baht, は、タイ王国の通貨。古く欧米ではティカル (Tical) と言う言葉で呼ばれていた。補助通貨はサタン 。バーツの発行は、タイ国立銀行が行う。 1バーツ=100サタン。
■経済
2011年のタイのGDPは約3456億ドルであり、神奈川県よりやや小さい経済規模である。2011年の一人当たりGDPは5394ドルであり、世界平均の半分程度の水準である。世界銀行によって発展途上国に分類されている。タイ統計局によると、2009年の世帯当たりの平均所得は月2万903バーツ。一人当たりの平均所得は月6319バーツ。
■アジア通貨危機
Asian Financial Crisis)は、1997年7月よりタイを中心に始まった、アジア各国の急激な通貨下落(減価)現象である。この通貨下落は米国のヘッジファンドを主とした機関投資家による通貨の空売りによって惹起され、東アジア、東南アジアの各国経済に大きな悪影響を及ぼした。
■固定相場制
各国政府間で、為替レートを固定・維持する制度。1944年に国際復興開発銀行(IBRD)と国際通貨基金(IMF)が設立され、自由貿易や資本移動の促進を目的に金1オンス=35ドルと定め、常にドルと金は交換可能とされた(ブレトン・ウッズ体制)。ここにドルを国際通貨(基軸)とするIMF体制が確立された。しかしドルの大量流失に伴い、1973年に先進各国は変動相場制へと移行した(ニクソンショック)。
■反独裁民主戦線
United Front of Democracy Against Dictatorship 英語略称:UDD)は、タイ王国の市民団体。前身団体は反独裁民主同盟(DAAD)であり、現在もこの訳で呼ばれることもある。また、「スアデーン」という名称で呼ばれることもある。
■民主市民連
People's Alliance for Democracy, "PAD"、は、タイ王国の市民団体[注釈 1]。市民民主化同盟や民主主義市民連合、人民民主連盟とも訳され、通称として黄シャツ隊、黄服軍団あるいは反タクシン派と呼ばれることもあった。
<歴史>
■国家成立
タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった[3]。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。小タイ族による最初の国家とされるスコータイ王朝(1238年 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やアンコール王朝の支配を退け成立した。
■遷都
その後、アユタヤー王朝(1350年 - 1767年)、トンブリー王朝(1767年 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782年 - )へと変遷した。
■近代化
ラーマ4世(モンクット)は、自由貿易の推進、仏教の改革などを行った。映画『王様と私』にも登場する。ラーマ7世(プラーチャーティポック)が即位したあと、プリーディー・パノムヨンやプレーク・ピブーンソンクラームら官吏よって結成された人民党によって1932年にクーデターが勃発し、絶対君主制から立憲君主制へと移行した(民主革命、立憲革命と呼ばれる)。
■第二次世界大戦
1940年11月23日に南部仏印に侵攻し、タイ・フランス領インドシナ紛争を引き起こし、1941年5月8日に日本の仲介によって東京条約をフランスと締結して領土を拡大した。タイは太平洋戦争中、東南アジア戦線では日本に積極的に協力しており、現地軍の速やかな進軍を助け、兵站、補給など重要な役割を担当している。戦後も日本に対して友好的な交流を続けており、戦争中に設けた日本への借財を割り引くなどしている。
■現在
1997年に始まったアジア通貨危機により経済は一時的に停滞したものの、その後急激な回復を見せ、中国系企業の進出も増え、現在では再び高い経済成長率を維持しており、東南アジアにおける代表的な工業国としての立場を保ち続けていた。しかし、2006年頃からの『タクシン派』と『反タクシン派』との政治的内紛が続いており、2011年現在も経済は混乱している。
■音楽
インドシナ半島の音楽の内で最も発達した音楽で、インド系・中国系・南洋系の音楽及び固有の音楽の合成である。ジャワ音楽と共に東南アジアの音楽の中心をなす。古来のカンボジア宮廷音楽とそれが民間に流れたもの、北部のラオ族、シャン族などの民俗音楽、南部のマレーの民俗音楽及び華僑の音楽に大きく別けられる。
■サヤーム・フィルハーモニック管弦楽団
サヤーム・フィルハーモニック管弦楽団は2002年にソムタウ・スッチャリッタグンSomtow Sucharitkulの指導の下で結成された。MIFA シンフォニエッタ管弦楽団(The MIFA Sinfonietta the orchestra)を前身とする。サヤーム・フィルハーモニック管弦楽団は結成当初、ハイドン、ベートーヴェン、モーツァルトの演奏から始まった。現在ではマーラー、シュトラウス、シベリウスの演奏も行うようになっている。2003年には、ハレ管弦楽団とロンドン・フィルハーモニー管弦楽団に所属するヴァイオリニストであるレオ・フィリップス(Leo Phillips)を客員コンサートマスターとして招いた。
■タイ・エレファント・オーケストラ
タイ・エレファント・オーケストラ(Thai Elephant Orchestra)は、タイのタイ国立ゾウ保護センターで飼育されているゾウたちによる音楽ユニット。アメリカ合衆国の作曲家デイヴ・ソルジャーと同センターのリチャード・ライアーによる発案で結成された。
■バンコク交響楽団
ラーマ9世の息子ワチラーロンコーン親王の庇護下にあるバンコク交響楽財団が運営するプロオーケストラ。財団ディレクターはスクム・ナワパン博士。クラシック音楽から、ポップ、タイの伝統曲に対応できる70名の所属のプロ団員を抱える。タイ国内のクラシック音楽普及、青少年への音楽教育も熱心に行っている。
■ラーマ1世
1737年3月20日 - 1809年9月7日はチャクリー王朝の初代のシャム国王(在位:1782年4月6日 - 1809年9月7日)。幼名はトーン・ドゥワン。アユタヤ王家の血を引いており、アユタヤー時代の士官、チャオプラヤー・コーサーパーンの子孫と言われる。
■タークシン
Taksin、1734年4月17日 - 1782年4月7日はタイのタークシン王朝の王。中国名は鄭昭。タクシンと表記されることがあり、元首相のタクシン・チナワットと混同されやすいが、タークシンと、タクシンとはタイ語の綴りが違い、別の名前である。潮州系中国人の子で、父親は賭博場で税徴収をしていたと言われる。
■アピシット・ウェーチャチーワ
Abhisit Vejjajiva、1964年8月3日 - は、タイ王国の政治家。2008年から2011年まで、首相を務めた。下院議員、民主党党首である。1964年、イギリスのニューカッスル・アポン・タインで生まれる。有力な華僑系貴族ウェーチャチーワ家の出身で、両親はともに医学部の教授であった。1歳の頃にタイへ帰国するが、1976年パブリックスクールイートン・カレッジへ進学、その後オックスフォード大学(セント・ジョンズ・カレッジ)へと進学し、哲学と政治学、経済学の学位(PPE)を取得、最優等(first class honours)で卒業する。
■ククリット・プラーモート
Kukrit Pramoj、1911年4月20日 - 1995年10月9日はタイの政治家、作家である。1975年から1976年にかけて首相を務めた。1985年には国家芸術家に指定された。ククリットはさまざまな分野で多くの業績を残した品格ある人物として知られており、特に文学、演劇、さらに政治の分野の業績は有名である。
■フア・ハリピタック
1910年4月22日 - 1993年10月19日はタイ王国の画家。タイ伝統文化の保全、タイ初期近代美術の導入に尽力し、1983年にマグサイサイ賞を受賞。さらに1985年、タイ王国国家芸術家に指名された。1954年から1956年の間、イタリア政府の奨学金を受け、ローマの美術学院(L'accademia Di Belle Arti) で美術の研究を行う。この期間にチョーク、色鉛筆、インク、パレットナイフなどさまざまな絵画技法を習得し、さらに抽象主義絵画、キュビズムといった芸術運動の洗礼も受けた。
■カムシン・シーノーク
1930年12月25日 - はタイ王国の小説家。東北タイ(イーサーン)の民衆の生活を題材にした農村作家。1992年に、文学部門におけるタイ王国国家芸術家の指定を受ける。カムシン・シーノークは、1930年12月25日 ナコーンラーチャシーマー県ブアヤイ郡タムボン・ノーンブアサアート、ノーンブアサアート村の農家で生まれる。チュラーロンコーン大学新聞学部に進学。大学卒業後、1952年まで日刊紙ネーウ・ナーの新聞社に勤める。
■ジム・トンプソン
(James Harrison Wilson Thompson, 1906年3月21日 - 不明)は、タイのシルクを世界に広めたことで知られるアメリカ人実業家。軍人。私財を投げ打ってタイ・シルクの復興とその売込みに没頭した結果、アメリカのファッション業界を中心に注目を浴び、ハリウッド映画『王様と私』の衣装として使用されるなど、欧米諸国でタイ・シルクの人気が上がり、その結果、トンプソンはタイ・シルクを復興させた男として欧米のみならず世界中で知られることになる。
■ラウィー・パーウィライ
1925年10月17日- は、タイの天文学者、作家および翻訳家である。1986年のハレー彗星の接近があった際に、作品・翻訳が科学、仏教、文学や哲学の方面から注目され、タイのおける天文学の普及にも寄与した。2006年に文学部門で国家芸術家に選出されている。1945年から1986年までチュラーロンコーン大学で教授として物理学を教えていた。重要な研究業績は、太陽彩層の詳細構造について、太陽放射層の構造について、太陽彩層における大気構造と振動について、太陽の大気について などである。
■タワン・ダッチャニー
1939年2月27日 - はタイ王国の画家。世界的に最も知名度の高いタイ人アーティストの一人として知られている。1939年2月27日、タイ北部のチエンラーイに生まれる。シラパコーン大学でタイ近代美術の父と言われたイタリア人画家シン・ピーラシー教授に学んだ。現代人の奥に潜む狂気や退廃、暴力、エロス、死などを、独特の仏教観に根ざした独創的な画風により表現。黒を基調とし,獣や昆虫と合体したグロテスクでエロティックな人体と、聖者としての仏がからみあう迫力ある作風アジア独自の芸術表現を築きあげ、世界に衝撃を与えた画家の一人といえる。
■ティワワット・パッタラクンワニット
Thiwawat Pattaragulwanit 1968年6月9日-はタイ王国の政治風刺漫画家、イラストレーター、挿絵画家。タイ語日刊紙『サヤーム・ポスト』などの政治漫画家を経て、現在、タイ語日刊経済紙『クルンテープ・トゥラギット』、英字紙『バンコック・ポスト』の政治漫画を描いている。タイ皇室関連書籍の挿絵も手がけている。シラパコーン大学で特別講師を努める。
■サマック・スントラウェート
Samak Sundaravej、1935年6月13日 - 2009年11月24日)は、タイの政治家。下院議員。第33代首相を務めた。王室への熱烈な忠誠心で知られた勤王家である一方で、一匹オオカミ的な行動や歯に衣着せぬ発言も目立つ個性派の政治家であった。また、料理が趣味で長年に渡り自らの料理番組で腕を披露するなど、国民の認知度も高かった。
■ティーラテープ・ウィノータイ
(Teeratep Winothai、1985年2月16日 - )は、タイ王国出身のサッカー選手。ポジションはFW。タイ・プレミアリーグ・BECテロ・サーサナFC所属。ユース時代をクリスタル・パレスFCやエヴァートンFCの下部組織で過ごし、その後タイに帰国。地元の強豪チームBECテロ・サーサナFCで実績を積み、2009年1月に当時2部に在籍していたリールセSKに移籍を果たす。
■ウドム・テーパーニット
Udom Taephanich、1968年9月1日-)はタイ王国チョンブリー県生まれのコメディアン、アーティスト、俳優。1993年、バラエティ番組『ユッタガーンカヤップンゴック』において5人グループの一人として出演したのが芸能界入りして初めての大きな仕事だった。同番組は当時の5チャンネルの中では最高視聴率を記録し、それをきっかけにウドムは芸能界において『ノート』という愛称で呼ばれるようになる。
|