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スリランカ民主社会主義共和国
Democratic Socialist Republic of Sri Lanka

アジア

■地勢
セイロン島はインド洋にあり、ベンガル湾の南西、アラビア海の南東に位置する。インド亜大陸とはマンナール湾とポーク海峡が隔てる。ヒンドゥー教の神話ではインドとはラマと呼ばれる橋で結ばれていた。アダム橋と呼ばれる所々海面に顔を出す石灰岩礁が連なり、その昔完全な天然の陸橋であったが、1480年の嵐で壊れたとのことである。海峡は狭く、インドからスリランカ海岸を望める。


インド亜大陸
インド半島ともいい、南アジアのインド・バングラデシュ・パキスタン・ネパール・ブータンなどの国々を含む亜大陸・半島。かつては独立したインド大陸であった。アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説やプレートテクトニクスによると、パンゲア大陸から分離・移動して、ユーラシア大陸に衝突し、そのためにヒマラヤ山脈が隆起したとされる。現在もインド亜大陸は北上し続けている。


インド洋
Indian Ocean、は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7340万平方km、沿海との合計面積は7410万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。北はインド、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカから、西はアラビア半島およびアフリカに接し、紅海とつながる。東はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島の線、およびオーストラリア西岸および南岸、南は遠く南極海に囲まれた海洋である。

ベンガル湾
(Bay of Bengal) は、インド洋の北東部分の湾。ベンガル湾はほぼ三角形で、南方に開けた形となっている。東にマレー半島、西にインド亜大陸、北に名前の元となったインドの西ベンガル州およびバングラデシュに面している。南端はスリランカとアンダマン・ニコバル諸島連邦直轄地に面している。

マンナール湾
Gulf of Mannar、はインド洋のラッカディブ海に存在する湾。インド亜大陸南端東岸とセイロン島西岸の間の海域を指す。湾の北部は、アダムスブリッジと呼ばれる大陸とセイロン島を繋ぐ小島と浅瀬の地形により、ポーク海峡と区切られている。

ジャフナ半島
Jaffna Peninsulaは、セイロン島の北端に位置する半島。スリランカの行政区域では北部州に位置しており、同州の州都であるジャフナが存在している。古代にはタミル系のナガ族(英語版)による王国が、中世にはジャフナ王国が存在していた。半島の大半は海に囲まれており、陸地とは途切れ途切れでしか繋がっていない。その形状は、古代の文献や伝承ではコブラの頭のようである、と表現されていた。

アダムスピーク
Sivanolipatha Malaiは、スリランカ中央部のサバラガムワ州にあり、ラトゥナプラ(英語版)北方にそびえる山である。一般にはスリー・パーダ(Sri Pada)やサマナラ・カンダ(Samanala Kanda)と呼ばれる。標高2,238m。スリー・パーダとは、サンスクリット語で、聖なる足跡という意味である。頂上付近にある1.8m大の岩にある穴が足跡に似ており、仏教徒は仏陀の足跡、ヒンドゥー教徒はシヴァ神の足跡と、イスラーム教徒は人類始祖のアダムの足跡、キリスト教徒は聖トーマスの足跡に見立てる。

マハウェリ川
Mahaweli Riverは、スリランカで最長(335 km (208 mi))の川。スリランカ島の約1/5 にあたる、島内最大の流域面積を持ち、河口はトリンコマリーからベンガル湾へ流れる。 6基の水力発電ダムは、国内必要電力の40%を賄う。

ランカー島
古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』に登場する島である。ランカーは元はサンスクリット語で「島」を表す一般名詞である。セイロン島のこととする説が有力である。現在の国家では、ランカーから名づけられたスリランカにあたる。

南アジア
インド、スリランカ、ネパール、パキスタン、バングラデシュ、ブータン、モルディブの各国を含む地域。面積は 4,480,000 km2。しばしばインド亜大陸として言及される。地形は、北ではヒマラヤ山脈とカラコルム山脈、西ではスライマン山脈とインダス川やタール砂漠、東ではプラフマプトラ川やアラカン山脈、そして半島部分はベンガル湾、アラビア海、インド洋などが存在する地域である。

ポーク海峡
Palk Straitとは、インドタミル・ナードゥ州とセイロン島(スリランカ)の間にある海峡。アダムスブリッジと呼ばれる7つの島々がある。

セイロン島
全島がスリランカ民主社会主義共和国の主要な領土となっている。セイロンの名称の由来は、紀元前5世紀に最初の王朝の初代の王になったとされるウィジャヤが、シンハ(サンスクリット語 simha。パーリ語はシーハ siha)、つまりライオン(獅子)と人間との間に生まれた親の子供であったことから、子孫をシンハラ、ライオン(獅子)の子孫といい、島の名をシンハ・ディーパ、ライオンの島(法顕の『仏国記』では師子島)と呼んだことに因む。


ラーマーヤナ
『マハーバーラタ』と並び称される古代インドの大長編叙事詩。全7巻。「ラーマ王行状記」の意味。サンスクリットで書かれており、その長さは48,000行に及ぶ。ヒンドゥー教の神話と、古代英雄であるコーサラ国のラーマ王子に関する伝説をまとめたもの。活躍する人物は全てクシャトリヤであり当時のクシャトリヤ勢力の台頭を反映している。

セイロン
Dominion of Ceylonは、かつてスリランカに存在した立憲君主制国家(英連邦王国)。1947年8月15日、ヒンドゥー教徒多数派地域がインド連邦を名乗り、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国として独立した。それを受けて、イスラム教徒多数派地域はパキスタンとして分離独立。島嶼であり、仏教徒多数派地域であるセイロンは、ビルマとともにイギリス領に残ったが、翌1948年に英連邦王国の一国として独立した。

アダムスブリッジ
(Adam's Bridge)とは、インドとスリランカの間のポーク海峡にある石灰岩でできた砂州と浅瀬の総称である。7つの小島が橋脚のように点在する。103のサンゴ礁からなり、地質学的成因は未解明である。ラーマーヤナの伝説に基づき西洋に初めて紹介されたのは9世紀で、アラブ人歴史家が「海の橋」と名付けた。18世紀のオランダの地図にも同名で記載された。


ピンナワラのゾウの孤児園
Pinnawela Elephant Orphanage、孤児院とも)はスリランカのサバラガムワ州ケーガッラにある親を亡くしたり、はぐれてしまった子ゾウを保護している施設。2008年現在、84頭ほどのゾウが保護されている。生育したゾウはその後寺院やゾウ使いの元へと引き取られていく仕組みになっている。1975年にスリランカ政府の野生生物保護局によってランブッカナのマハオヤ川沿いにある10ヘクタールほどのココナッツプランテーションに設立されたのが始まりである。


■気候
気候は熱帯性であり高温多湿で、海岸部・低地では年平均気温27〜28 °Cであるが、高地の気候は冷涼である。ヌワラエリア(標高約1890m)では年平均気温22 °Cと一年中常春のような気候である。気候の特色はモンスーンの影響が強いことで、年二回の季節風である南西モンスーンと北東モンスーンに伴い、季節に応じて降雨量が変化する。


グラモダヤ民族芸術センター
Gramodaya Folk Art Centerはスリランカの西部州スリジャヤワルダナプラコッテにある芸術センター。1988年に当時の大統領だったラナシンハ・プレマダーサが、伝統芸術の保護を目的に建てられた施設。中では、レース編み、宝石加工などの11のスリランカの伝統芸能が若者に教えられている。作品は政府により買い上げられているほか、即売所もある。


■言語
シンハラ語とタミル語は国語にして公用語であり、連結語として英語も憲法上認められている。日常的にはほとんどの国民がそれぞれの民族語(シンハラ人はシンハラ語、タミル人はタミル語)を使っている。この他にバーガー人(英語版)やユーラシアンと呼ばれる英語を母語にする人が国民の一割いる。


シンハラ語
スリランカで話されているシンハラ人の言葉。インドヨーロッパ語族インド・イラン語派インド語派に属す。基本語順はSOV型であり、pro脱落言語としての特徴や語順、発音など、多くの日本語と共通した特徴がある。シンハラ語とタミル語はスリランカの公用語である。シンハラ (Sinhala) という語は、この言語を指すサンスクリットの単語であり、ウィジャヤ王 の「シンハラ国」建国後、シンハラ国の外部 (サンスクリットを話す人々) からは彼らの言語を「シンハラ語」と呼んだことに由来する。

サンスクリット
Sanskrit)は古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。現在の母語話者は少ないが死語ではなく、インドでは憲法で認知された22の公用語の一つである。宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語であり、その権威は現在も大きい。

ブラーフミー文字
近代以前のブラーフミー系文字の一種である。ブラーフミー文字で書かれた最も有名な碑文としては、紀元前3世紀頃の石に刻まれたアショーカ法勅(英語版)がある。これは長い間、ブラーフミー文字の最初期の使用例であると考えられてきた。ブラーフミー文字は、ほとんどの研究者によって、同時期にアケメネス朝の支配下にあった北西インドの一部で発生したカローシュティー文字と同様、帝国アラム文字のようなセム系文字から生じた、あるいは少なくともその影響によって生じたと考えられている。

パーリ語
paliは多量の文献を持つ南伝仏教経典(原始仏典)で主に使用される言語。中期インドにおけるアーリヤ系言語、プラークリットを代表する言語である。使用歴は長く、パーリ語で書かれた偈の歴史は紀元前3世紀ころまで遡る。さらに、パーリ語で書かれた経典の散文やその注釈は、5-6世紀以後にまで及び、その後も今日までスリランカ(セイロン島)を中心として、パーリ語を使用した新しい文献がある。

スリランカの仏教
南伝仏教とも呼ばれるスリランカの仏教は、分別説部(赤銅鍱部)の流れを汲み、パーリ語経典を奉じる上座部仏教と称する仏教であり、シンハラ人を中心に信仰を集める。ミャンマー・タイなど東南アジアに広まった上座部仏教は、このスリランカの仏教が起源である。比丘サンガのシステムが堅持されており、出家者は比丘の戒律(具足戒)を守り、瞑想修行を通じて、涅槃への到達を目指す。

仏教
Buddhismは、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、あるいはガウタマ・シッダールタ)を開祖とする宗教である。キリスト教・イスラム教と並んで世界三大宗教の一つ(信仰のある国の数を基準にした場合[1])で、一般に仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる。

上座部仏教
Theravada Buddhism)は、仏教の分類のひとつ。上座仏教、テーラワーダ仏教、テーラヴァーダ仏教、南伝仏教、小乗仏教とも呼ばれる。ただし、小乗仏教の呼称は大乗仏教側から見た差別的意味を含むとされる。仏教を二つに大別すると、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国やチベット、日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部と大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいると言われるものが、現在の上座部仏教である。

マハーヴィハーラ
(Mahavihara、パーリ語で「大きな寺」の意) はかつて、数世紀にわたってスリランカにおける上座部仏教の中心地であった場所である。デーワーナンピヤ・ティッサ王 (en、紀元前247−207年) が当時首都であったアヌラダープラに開かせたのが始まりである。上座部仏教は、マハーヴィハーラで仏音 (ぶっとん、ブッダゴーサとも。en) などの僧侶たちによって確立されたのが起源であるとされている。

ヒンドゥー教徒
人数はキリスト教徒、ムスリムにつづく。しかし、地域的には著しい偏りがあり、ヒンドゥー教徒の大半は南アジアに暮らしている。これはヒンドゥー教がインドに土着の信仰に由来するためであり、ヒンドゥー教と結びついたカースト制度がインドの外では受け入れられにくいためである。インドでは、近年もムスリムなどの異教徒とヒンドゥー教徒の暴力的な争いがしばしば発生している。

シヴァ
ヒンドゥー教の3最高神の一柱。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌに対してシヴァ神は破壊を司る。シヴァ神を信仰する派をシヴァ教という[1]。ヴェーダ神話に登場する暴風雨神ルドラを前身とし、『リグ・ヴェーダ』では、「シヴァ」はルドラの別名として現われている。暴風雨は、破壊的な風水害ももたらすが、同時に土地に水をもたらして植物を育てるという二面性がある。

チョーラ朝
845年頃〜1279年頃は、南インドを支配したタミル系のヒンドゥー王朝。チョーラ朝の名が付く南インドの地方政権は、シャンガム文献と呼ばれるタミル古典文学にも記述があって、1〜3世紀頃にカーヴェリ河畔のタンジャーヴールよりやや上流のウライユールに首都をおき、全インドを征服したとかセイロン島遠征をして多くの捕虜を連れ帰ったというカリカーラ王の伝承で知られているが、一般的にはパッラヴァ朝の封臣であったヴィジャヤラーヤ(位846〜71)がタンジャヴールに興した王朝のことを指す。

マハーワンサ
Mahavamsa,はスリランカの王についての物語をパーリ語で詠んだ叙事詩である。成立の最初期には、古代のベンガル西部のラール地方からウィジャヤ王が紀元前543年にスリランカに来たことに始まり、マハーセーナ王の死までが含まれている。マハーワンサの印刷、製本および英語への翻訳は1837年にジョージ・ターナー (歴史家でセイロン政府の公務員でもあった)によってなされた。

ディーパワンサ
Dipavamsa、はスリランカで最古の歴史の記録である。基本的にアッタカター からの翻案であると考えられており、紀元3〜4世紀頃の他の記録も含まれているが、マハーワンサと合わせてスリランカおよびインドの多くの歴史的事項についての重要な一次資料であり、加えて仏教徒の活動記録、およびパーリ語の文章としても重要性が高い。

クーラバムサ
Chulavamsa、パーリ語で「小さな年代記(Lesser Chronicle)」は、シンハラ人仏僧によって編集された4世紀から1815年までのスリランカの君主についての記録。 6世紀に僧マハナマによって記述された『マハーワンサ (Mahavamsa)』に続く年代記とされる。

アヌラダープラ
Anuradhapura、スリランカ・北中部州にある古都である。1982年に、世界文化遺産として登録された。年代記の『マハーワンサ』(大史。6世紀初頭)や『チューラワンサ』(小史)によれば、紀元前5世紀から紀元11世紀に至る長い間、北部を根拠地としたシンハラ人を主とする王朝の王都として繁栄した。


東方見聞録
マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、ルスティケロ・ダ・ピサが採録編纂した旅行記である。日本においては一般的に『東方見聞録』という名で知られており、『世界の記述』("La Description du Monde")とも呼ばれる。また、写本名では、『イル・ミリオーネ』("Il Milione"、100万)というタイトルが有名である。これは、マルコ・ポーロがアジアで見た物を数えるときいつも「100万」と言ったことに由来する。


旅行記 (イブン・バットゥータ)
『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』)は、イブン・バットゥータによる書物。通称リフラ(Rihla)と呼ばれる。日本では『大旅行記』、『三大陸周遊記』、『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈り物』などの呼称もある。14世紀の世界を知るうえで資料的価値があると評価されている。約30年をかけて旅を行ったイブン・バットゥータが、当時のマリーン朝の君主の命令を受けて、イブン・ジュザイイ(英語版)のもとで口述を行い、1355年に完成した。マグリブ人としての視点からさまざまな事物について語っており、19世紀にヨーロッパにも紹介されたのちに各国語に翻訳されて広く読まれている。


文化
スリランカには2500年の歴史に裏づけされた文化が存在する。それは主に仏教とヒンドゥー教の影響を受けたものである。しかし他にも、例えばイスラムの伝承ではエデンの園を追放されたアダムとイヴがこの島を訪れたとしている。この島の主な文化としては、古都キャンディやアヌラーダプラを中心とするシンハラ人の文化と、ジャフナを中心とするタミル人の文化、二つの伝統文化が根付いている。さらに現代では、イギリスの植民地文化にも大きな影響を受けている。また、スリランカには民主主義の伝統も宿っているとされる。


スリランカ料理
南アジアのスリランカの料理である。スリランカの豊富な食材と新鮮な香辛料を多用した、スパイシーな料理が多い。地理的に南インドに隣接し、国民の2割弱がタミル人であることから、南インド料理との共通点も多い。


スリランカの教育
スリランカの教育は2000年以上の長い歴史を持ち、今日ではその憲法(英語版)においても教育の基本的な権利が保障されている。スリランカの識字率は92.5%で、これは他の第三世界の国々と比べて極めて高い数字であり、南アジアでは最も高く、アジア全体で見ても高い数字である。最初の教育は紀元前543年に始まったとされるが、近代的な教育システムが登場したのはイギリスの植民地支配下にあった19世紀のことである。


<世界遺産>
聖地アヌラーダプラ
スリー・マハー・ボデーィ(Sri Maha Bodhi)と呼ばれている菩提樹があり、仏教徒の崇拝対象になっている。『マハーワンサ』(第19章)によれば、インドのブッダガヤ(ブッダ・ガヤー)で正覚(悟り)を得たとされるゴータマ・シッダールタが座って瞑想していた金剛座の背後に繁る菩提樹から、アショーカ王の妹のサンガミッターが小枝を瓶に入れて当地にもたらしたとされる。

古代都市ポロンナルワ
Polonnaruwa, はスリランカ北中部州にある中世の古都。1017年から1255年までスリランカの首都であった。今日、古都ポロンナルワはスリランカ随一の考古学上の史跡として維持され、シンハラ王の治世をしのぶものとなっている。ポロンナルワは現在、北中部州第二の都市で、スリランカで清潔で美しい町として知られる。自然に囲まれた環境や古都の建築、パラークラマ・サムドゥラ(パラークラマ海)等が観光客を集めている。

古代都市シギリヤ
シギリヤ岩は火山マグマが固まった岩頸である。形状は楕円柱、高さは370m、全方位垂直或は、上部が張り出している。

シンハラジャ森林保護区
スリランカ低地雨林のエコリージョンに属している丘の原生雨林は、その近づきにくさのゆえに商業的理由による伐採を受けつつも、最悪の事態を免れてきた。森林保護区は東西21km、南北は最大でも 7km という小規模なものだが、樹木、昆虫、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類などの固有種の宝庫である。

聖地キャンディ
仏教の聖地として、1988年に、「聖地キャンディ」の名前で、ユネスコ世界遺産に登録された。仏陀の犬歯があるとされる仏歯寺(ダラダー・マーリガーワ寺院)がある。年代記の『チューラワンサ(小史)』によれば、仏歯は4世紀にインドのカリンガ国からもたらされたとされ、アヌラーダプラのダンマチャッカ(法輪堂)におさめられて祀られ、王権の権威を保証する証となった。

ゴール旧市街とその要塞化都市
16世紀にポルトガル人がこの土地にやって来た頃、町はセイロン島の主要港であり、"Gimhathiththa" と呼ばれていた。オランダ植民地時代の18世紀に大きく発展した。ゴールは、ヨーロッパ人が南アジアや東南アジアに建設した城塞都市の典型的な例であり、ヨーロッパ建築と南アジア地域の伝統が混在している。

ダンブッラの黄金寺院
ダンブッラの黄金寺院とは、1991年にUNESCOの世界遺産に登録された石窟寺院である。コロンボの148キロメートル東方、キャンディの72キロメートル北方に位置する。スリランカにおいて、最も保存状態がよい石窟寺院として知られている。

スリランカの中央高地
スリランカの顕花植物の固有種の半分と脊椎動物の固有種の51%が、このエコリージョンに結びついており、哺乳類については5種の厳正な固有種と8種のニア・エンデミックが、鳥類については5種の厳正な固有種と20種のニア・エンデミックが生息している。


タミル・イーラム解放のトラ
Liberation Tiger of Tamil Eelam、LTTEは、スリランカで、武装闘争を行っていたタミル人のテロ組織である。タミル・タイガーとも表記される。スリランカ北部と東部にタミル族の独立国家タミル・イーラム(『イーラム』はスリランカを意味するタミル語)を建国し、スリランカからの分離独立の獲得を主張して設立された。

タミル
Tamilは、主に南インドのタミル・ナードゥ州に住み、タミル語を話す人々。インドには約5000万人、スリランカには200万人居住する。移民としては、マレーシア、ミャンマー、シンガポール、アフリカ東部・南部、モーリシャス、フィジー、イギリス、アメリカ合衆国におり、総人口数は6000万人を越える。

タミル語
ドラヴィダ語族に属する言語で、南インドのタミル人の言語である。同じドラヴィダ語族に属するマラヤーラム語ときわめて近い類縁関係の言語だが、後者がサンスクリットからの膨大な借用語を持つのに対し、タミル語にはそれが(比較的)少ないため、主に語彙の面で隔離されており意思疎通は容易でない。インドではタミル・ナードゥ州の公用語であり、また連邦レベルでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語のひとつであるほか、スリランカとシンガポールでは国の公用語の一つにもなっている。世界で18番目に多い7400万人の話者人口を持つ。

ヴェッダ人
(Vedda)は、スリランカの山間部で生活している狩猟採集民。正確にはウェッダーと発音するが、侮蔑語である。自称はワンニヤレット(Vanniyalatto,Wanniyala-Aretto)で「森の民」の意味である。人種的にはオーストラロイドやヴェッドイドなどと言われている。身体的特徴としては目が窪んでおり彫りが深く、肌が黒く低身長であり広く高い鼻を持つ。 記録は、ロバート・ノックス『セイロン島誌』(平凡社、1994。原題:Knox,Robert.,An Hiatorical Relation of the Island Celylon in the East Indies,1681)に遡る。


■経済
主要な産業は、農業と繊維産業である。主要な農作物として、米、茶、ココナッツ、天然ゴムなどが生産されている。近年工業化の進展と共に繊維産業が発達し、衣料品が最大の輸出品目となっている。古くから「宝石の島」(ラトゥナ・ドヴィーパ)として知られ、ルビー、サファイアなどの産出で名高い。


■国民
シンハラ人には敬虔な仏教徒が多く、五戒を守り、ポヤと呼ばれる満月や新月の日には仏教寺院に参拝する。慎み深く教養が深い人々が多い。小学校、中学校は学費が無料で、識字率も高い。観光地化されて久しく、南西海岸は欧米からサーファーやヒッピーが集まるリゾート地になっている。しかし、1983年以来の民族対立の激化により、観光客は減少した。

■民族構成
1981年の統計(1983年以降は民族対立の激化で正確な統計はとられていない)では、総人口1484万人で、シンハラ人は1098万人(74%)、タミル人は270万人(18%)、マラッカラ(ムーア人)104万人(7%)、混血のバーガー人(Burghers)とユーラシアンが39000人、その他に含められる先住民のヴェッダ人などとなっていた。


ソロモン・バンダラナイケ
(Solomon West Ridgeway Dias Bandaranaike、1899年1月8日 - 1959年9月26日)は、セイロン(現スリランカ)の政治家。第4代首相を務めたが、1959年に仏教僧により暗殺された。妻は同じく政治家のシリマヴォ・バンダラナイケ、娘はチャンドリカ・クマーラトゥンガ。

マヒンダ・ラジャパクサ
(Percy Mahendra 'Mahinda' rajapaksa, 1945年11月18日 -)はスリランカの政治家、第13代目スリランカ首相(2004年-2005年)、第6代目スリランカ大統領(2005年-)。ラージャパクセはハンバントタ郊外の町でシンハラ人仏教徒の両親の息子として生まれた。彼の父はスリランカを代表する政治家で独立運動の指導者のひとりであった。

アントニー・ホーア
(Sir Charles Antony Richard Hoare、もしくはトニー・ホーア(Tony Hoare), 1934年1月11日 - )はイギリスの計算機科学者。1960年にクイックソートを開発したことで最もよく知られる。これは世界で最も広く使われているソートアルゴリズムであり、恐らくあらゆる種類のアルゴリズムの中でも、世界で最も広く使われているものであろう。彼はスリランカのコロンボにてイギリス人の両親の元に生まれた。1956年にオックスフォード大学にて古典文学の学士号を取得。

鄭和
鄭 和(てい わ、Zheng He, 1371年 - 1434年)は、中国明代の武将。永楽帝に宦官として仕えるも軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。本姓は馬、初名は三保で、宦官の最高位である太監だったことから、中国では三保太監あるいは三宝太監の通称で知られる。鄭和の船団は東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。

アリヤラトネ
(Ahangamage Tudor Ariyaratne、1931年11月5日 - )はスリランカの社会活動家・仏教徒で、サルボダヤ・シュラマダーナ運動の創始者である。サルボダヤ運動とは、世界から飢餓・病気・無知・争いをなくすことをめざす、アジア地域最大級のNGO団体を基礎とした社会活動である。有機農業を軸にした持続可能な第一次産業の活性化を通して、子どもや母親への支援(保育園の設立、給食など)、村民の保健衛生に関する活動(井戸・トイレづくりなど公衆衛生の設備、伝染病予防などの医療対策、家族計画など)、収入向上活動(手工芸品の作成、集乳など)等を行い、世界の民衆の自立を目指して、活発な活動を行っている。

アレクサンドル・フロポーニン
Alexander Gennadyevich Khloponin、1965年3月6日 - )は、ロシアの実業家、政治家。ロシア連邦副首相兼北カフカース連邦管区大統領全権代表。スリランカのコロンボ出身。財政学の学位を有する。ノリリスク・ニッケル社取締役会長を経て、2001年タイミル自治管区知事に就任する。選挙戦は同じく実業家のアレクサンドル・ウースとの間に行われ、48パーセントを獲得し当選した。

アルボムッレ・スマナサーラ
(Alubomulle Sumanasara 1945年-)はスリランカ出身の僧侶[1]。日本で活動しているスリランカの上座部仏教(テーラワーダ仏教)の長老(指導僧)であり、スリランカ上座仏教シャム派の日本大サンガ主任長老、日本テーラワーダ仏教協会長老、スリランカのキリタラマヤ精舎住職である。

アントニー・ホーア
(Charles Antony Richard Hoare、1934年1月11日 - はイギリスの計算機科学者。通称はトニー・ホーア(Tony Hoare)またはC・A・R・ホーア。1960年に26歳でクイックソートを開発したことで最もよく知られる。これは世界で最も広く使われているソートアルゴリズムであり、恐らくあらゆる種類のアルゴリズムの中でも、世界で最も広く使われているものであろう。スリランカのコロンボにてイギリス人の両親の元に生まれた。1956年にオックスフォード大学にて西洋古典学の学士号を取得。 その後オックスフォード大に1年残って大学院相当の統計学を学ぶ。

ウィジャヤ
(Vijaya) は、パーリ語による古代スリランカの複数の年代記において、スリランカの最初の王とされている人物である。タミル語の文献にも見られる。その治世は紀元前543年から505年であろうと考えられている[1]。ヴィジャヤに関する最も古い記録は『ディーパワンサ』および『マハーワンサ』に見られるが、その他の史料は少なく、現存の記述は史実と伝説が混ざったものと見られているため、正確な史実は未だ明確ではない。

ジャヤンタ・ダナパラ
(Jayantha Dhanapala、1938年12月30日 - )はスリランカの外交官で、国連職員。2006年現在は軍縮問題担当の事務次長を務めている。2007年からは、 パグウォッシュ会議の会長。ダナパラは1938年12月30日にスリランカで生まれた。彼の家族はBadullaの裕福な家の出身である。ダナパラはスリランカにおける代表的な最高学府であるキャンディのトリニティ・カレッジで教育を受けた。学校では多彩な才能を発揮し、1956年のThe Ryde Gold Medalを受賞している。

スサンティカ・ジャヤシンゲ
(Susanthika Jayasinghe、1975年12月17日 - )は、スリランカの陸上競技短距離選手で、専門は100mと200m。彼女はコロンボの60キロ北に位置する小さな村の貧しい家で育った。家は月給がスパイクより安いくらいで、ちゃんとした設備やコーチも持たなかった。だが、このような恵まれない状況にも関わらず、オリンピックと世界陸上の両方でメダルを取れるレベルまで成長した。

チンタナ・ヴィダナゲ
Chinthana Vidanage、1981年12月31日-)はスリランカの男子重量挙げ選手。北中部州ポロンナルワ出身。2006年にメルボルンで開催されたコモンウェルスゲームズに出場、男子重量挙げ62キロ級で金メダルを獲得した。コモンウェルスゲームズのウェイトリフティング競技でスリランカがメダルを獲得したのは初めてで、この大会の唯一のスリランカのメダルでもあった。

マイケル・オンダーチェ
(Michael Ondaatje, OC, 1943年9月12日 - )は、スリランカ生まれのカナダの詩人・小説家である。英連邦王国セイロンのコロンボに生まれ、11歳で母親と共にイギリスに移住。その後カナダに移り、トロント大学とクイーンズ大学で学んだ。カナダの市民権を得ている。1971年から1983年までトロントのヨーク大学で教鞭をとった。『イギリス人の患者』で1992年の英国ブッカー賞を受賞。この作品はアンソニー・ミンゲラ監督によって映画化(『イングリッシュ・ペイシェント』)され、第69回アカデミー賞で作品賞・監督賞など9部門を受賞した。

マヒンダ・ラジャパクサ
(Percy Mahendra 'Mahinda' rājapaksa, 1945年11月18日 -)はスリランカの政治家、第13代目スリランカ首相(2004年-2005年)、第6代目スリランカ大統領(2005年-)。ラージャパクセはハンバントタ郊外の町でシンハラ人仏教徒の両親の息子として生まれた。彼の父はスリランカを代表する政治家で独立運動の指導者のひとりであった。

ムティア・ムラリタラン
(Muttiah Muralitharan、1972年4月17日 - )は、スリランカのキャンディ出身のクリケット選手。ムラリ(Murali)というあだ名で呼ばれており、2002年にウィズデン・クリケッターズ・アルマナック(Wisden Cricketers' Almanack)より最も偉大なボウラーの一人評価された。彼はテストクリケット一試合平均で6ウィケッツを記録しており、現在最も成功している選手の一人であり、歴代のスリランカ選手の中で見ても屈指のボウラーである。

ラナトゥンゲ・カルナナンダ
(Ranatunge J. K. Karunananda、1936年5月21日 - 1974年)は、セイロン(現スリランカ)の元陸上競技選手である。彼はセイロン代表として1964年の東京オリンピックに出場し、男子10000メートル走で3周遅れになりながらも完走を果たして有名になった人物である。5000メートル走に先立って10月14日に実施された10000メートル走では、カルナナンダは5000メートル通過時の記録が16分43秒0で、先頭で走っていたアメリカ代表のビリー・ミルズから既に2分半以上遅れていた。他の28選手が全てゴールし終わった後も、脇腹を押さえながら走り、国立霞ヶ丘陸上競技場のトラックを3周してゴールした。最初は笑い混じりでその姿を観ていたスタンドの人々の様子は、次第に驚きと感動に変わり、やがて優勝者にもまして大きな拍手がカルナナンダの健闘を讃えて送られた。

スリランカ Sri Lanka
南アジアのインド亜大陸(インド半島)の南東にポーク海峡を隔てて位置する共和制国家。首都はスリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ(シュリー・ジャヤワルダナプラ・コーッテ)。人口は約2022万(2006年)である。島国で、現在もこの国が占める主たる島をセイロン島と呼ぶ。

紀元前5世紀にシンハラ人の先祖にあたる人々が北インドから移住して王国をつくったとされる。王都はアヌラダープラにおかれた。紀元前3世紀、アショーカ王の王子マヒンダが仏教を伝えたとされ、これ以後上座部仏教(小乗仏教)を主体として仏教が興隆し、その中心地となって、シンハラ人の多くは現在までその信仰を守ってきた。

スリジャヤワルダナプラコッテ/Sri Jayewardenepura Kotte
スリランカの首都。名称が長いため、コッテ(Kotte)と略されることもある。「スリ・ジャヤワルダナプラ・コーッテ」と表記することもある。1372年、コッテ王国の都となった。この頃は、「ジャヤワルダナ」(勝利をもたらす、の意)と称されていた。その後、ポルトガル、オランダ、イギリスの植民地支配を受けた。植民地時代は「コッテ」と称されていた。1977年、コロンボから首都機能をコッテへ移転する計画が示され、1983年に国会議事堂が完成した。当時のジャヤワルダナ大統領が、かつての都の名称と自分の名前が同じだったため、旧名を復活させた。そのため、街の正式名称が「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」(聖なる・勝利をもたらす都市・コッテ)とされた。


バンダラナイケ国際空港
Bandaranaike International Airportは、スリランカのコロンボから35キロ北方、カトゥナーヤカにある国際空港。シンハラ語の発音ではバンダーラナーヤカ国際空港となる。


スリランカの鉄道
インドやセイロンを植民地にしていたイギリス(大英帝国)が、1858年に島内におけるコーヒー・紅茶などの農産物輸送を目的に敷設を開始したのが創始である。その後、山岳地帯や海岸地帯への路線も建設され、2005年現在の総延長は約1500kmとなっている。だがそのうちいくつかの路線は、「タミル・イーラム解放のトラ」などによる国内紛争の影響で運休になっている。


コロンボ
Colomboはスリランカのかつての首都である。同国の最大都市であるとともに、経済的な中心都市である。2001年の人口は642,163人(コロンボ都市圏の人口2,234,289人)。コロンボは2000年前からローマやアラブ、中国と交易を持っていた。ムスリム商人は8世紀には使節を置き、シンハラ王国と外部の交易の大半を支配下に置いた。16世紀にポルトガル人が到来し、香辛料交易のために砦を築いたが、17世紀にはオランダに占領された。1802年にイギリスのセイロン植民地の首都となった。

キャンディ
Kandyはスリランカ中部州の州都。人口約11万人。シンハラ人のウダラタ王国 (1474−1815) の最後の都であり、現在でもスリランカ中部における中心的な都市である。セイロン島の中央に位置するキャンディは、スリランカの仏教の聖地であり、またシンハラ人による最後の王朝の都である。


外務省:スリランカ共和国
在スリランカ日本国大使館


ロイヤル・コロンボ大学
The Royal College Colombo 通称ロイヤル)は1835年開学のスリランカにおける国立の教育機関である。初等教育と中等教育を担う。英国統治下においてジョセフ・マーシュ提督によってセント・ポール教会付属の私立学校、ヒル・ストリート・アカデミー (Hill Street Academy)として上流階級の子弟の教育の為に1835年、設立された。

ペラデニア大学
University of Peradeniyaは、スリランカの大学の一つ。日本の政府開発援助や歯科大学の協力により、歯科医療教育の抜本的な改革を行ったことで知られる。スリランカにおいては、口腔癌の発生比率が全癌腫に占める約40%と言われており、人的・物的な医療の拡充が急務であった。そこで、日本の政府開発援助として、歯学部の建設と歯科医療従事者の育成を目的とした大規模なプロジェクトが行われ、日本から多数の歯科医師が現地に赴き、歯科医療の改革に従事した。

モラトゥワ大学
University of Moratuwa)は、スリランカのモラトゥワ市(Moratuwa)のBolgoda湖に近いKatubeddaにある大学である。1972年創設され、教職員500人、学部生4,000人、大学院生 500人、大学のモットー「Vidyaiwa Sarwadhanam」は、サンスクリット語で「知恵は、全ての富である」である。


ジャフナ
Jaffnaは、スリランカの都市。北部州の州都。スリランカ内戦においては反政府組織タミルイーラム解放のトラの支配地域で、事実上の首都であった。

トリンコマリー
Trincomalee、は、スリランカ北東部の港湾都市。キャンディからおよそ110マイル北東部に位置する。トリンコマリーは半島部に所在し、湾を内湾と外湾に分ける。スリランカにおけるタミル語文化の中心地の1つである。トリンコマリー湾は陸に囲まれている。インド洋の他の湾と比べてその大きさと安全さで有名である。海岸ではサーフィン、スクーバダイビング、釣りやホエールウォッチングなどが楽しめる。

ゴール
Galle, は、スリランカの南西の先端である都市で、南部州の州都である。ゴール城壁は世界文化遺産に指定され、ヨーロッパの支配者により建設され、現在も残る城壁の中ではアジア最長である。2004年12月26日に起きたスマトラ島沖地震の津波で被害を受け、ゴールの街だけで数千人が命を落とした。

デヒワラ・マウントラビニア
Dehiwala-Mount Lavinia)は、スリランカの西部州コロンボ県の都市である。スリランカ最大の都市コロンボの南側に隣接しており、コロンボ郊外の一地域として同市と強く結びついている。市内には都市化が進んだデヒワラとビーチリゾートのマウントラビニアという二つの地域が含まれる。2001年時点の人口は209,787人。デヒワラ地区には国内最大の動物園であり、アジアで最大級の規模を持つデヒワラ動物園が存在している。

ペター
Pettah)、スリランカの都市コロンボの一地域。市の中心フォート地区の東に位置する。ペターは特にバザールとマーケットの町として有名である。スリランカで最も活発な商業地区であり、多数の店舗やビルディング、それに多くの商業組織の中心地となっている。

ハンバントタ
Hambantota)はスリランカの南海岸沿いの町であり、南部州ハンバントタ県(英語版)の県都である。ハンバントタはスリランカの2012年現在の大統領マヒンダ・ラジャパクセの元での選挙区である。現在、中国の支援で港が建設されており、総工費の85パーセントを中国が支出している。2010年に一部が開港し、全てが完成すれば33隻の船が入港できる南アジア最大の港となる。


中部州
Central Province、は、スリランカのセイロン中央山脈に位置する州。仏教の聖地キャンディと、ヌワラ・エリヤ(英語版)はこの州にある。コーヒーのプランテーションが大規模な病気で壊滅してから、1860年代にイギリス人によって植えられた紅茶(セイロンティー)を多く産出している。州都はキャンディ。

東部州
Eastern Province、は、スリランカの東海岸に位置する州。州都はトリンコマリー。 住民は、タミル人、ムーア人(英語版)、シンハラ人に分かれる。

北中部州
North Central Province、は、スリランカの西部に位置する州。州都のアヌラダープラはスリランカの古都。

北部州
Northern Province、は、スリランカの最北部に位置する州。スリランカの中でも、シンハラ人が多数派を占めない2つの州のうちのひとつである。州都はジャフナ。州の西部は、2009年の内戦終結までタミル・イーラム解放の虎の勢力圏で、政府の実効支配が及んでいなかった。

北西部州
North Western Province、は、スリランカの北西部に位置する州。人口218万人(2005年)、面積7,888平方キロ。ワヤンバ (Wayamba) という名でも知られている。州都はクルネーガラ(英語版)。住民の大多数はシンハラ人である。プッタラム(英語版)周辺には、少数民族のスリランカ・ムーア人が居住する。主な産業は漁業、エビの養殖、ゴムノキのプランテーションである。

西部州
Western Province、は、スリランカの西部に位置する州。同国で最も人口密度が高い州であり、法律上の首都スリジャヤワルダナプラコッテと、行政と経済の中心地コロンボが存在する。州都はコロンボ。

サバラガムワ州
Sabaragamuwa、は、スリランカの中央山脈南西側に位置する州。スリランカの多数民族集団であるシンハラ人の居住地域のウダ・ラタ(高地)とパハタ・ラタ(低地)の中間部にあたり、文化も双方が混淆している。

南部州
Southern Province、は、スリランカの南岸に位置する州。農業及び漁業が主な産業である。 州都はゴール。ヤラ国立公園、ウダワラウェ国立公園というの動物保護区がある。


ウバ州
Uva、 は、スリランカのセイロン中央山脈東側に位置する州。シンハラ語の発音にあわせ、ウーワと表記することもある。標高1200m以上の地域は、高地高級茶であるウバ紅茶の産地として知られる。州都はバドゥッラ。

ウバ (紅茶)
ウバ(Uva)は、スリランカのウバ州の高地で生産される高級茶であり、ダージリン、キーマンと並び、世界の三大紅茶の一つに数えられる。セイロンティー(スリランカ産の紅茶)において、最も標高の高い地域で栽培されるハイグロウンティーに区分され、中でも、香りと風味がしっかりしたウバ茶はその代表格をなすものである。


アハンガマ
Ahangama)は、スリランカの南部州に位置する町。海中に立った棒に捕まり、魚を引っ掛けて取る釣法、ストルトフィッシングで知られる。

ストルトフィッシング
(Stilt fishing)はスリランカ南部の伝統的釣法。浅瀬に立てた一本の棒の上に捕まり、魚を引っ掛けて取る釣法。現在ではこの釣法は廃れているものの、観光客向けに行い写真を撮らせてお金を請求することもある。


アンバランゴダ仮面博物館
(Ambalangoda Mask Museum)はスリランカの南部州アンバランゴダにある私営博物館。アンバランゴダは悪魔払いの仮面で知られる都市であり、伝統の悪魔払いの仮面の他、民衆劇で使われる仮面などの展示もしている。

イスルムニヤ精舎
(Isurumuniya Vihara)はスリランカ北中部州アヌラダープラに位置する精舎。紀元前3世紀ごろ、当時の王デーワーナンピヤ・ティッサ王が仏教の保護を目的にこの地に建設した。現在は当時の僧院の一部残ったものを修復し現在公開されている。本堂には横たわった巨大な仏像がおり、その色鮮やかな色は日本の浅草寺による援助でいろの塗り替えを行っている。

ラトゥナプラ国立博物館
Ratnapura National Museum)はスリランカのサバラガムワ州ラトゥナプラにある国立博物館。宝石の町であるラトゥナプラの博物館のため、多くの宝石やアクセサリーが展示されている。また、宝石発掘の際に一緒に発掘された先史時代の遺物や、化石なども一緒に展示されている。


■国名
公式の英語表記は Democratic Socialist Republic of Sri Lanka。通称 Sri Lanka。日本語の表記はスリランカ民主社会主義共和国。通称はスリランカ。漢語ではセイロン島を錫蘭とも書き、略語は「錫」である。仏典では、人口の多数を占めるシンハラ人にちなんで、島名をシンハ・ドヴィーパ(ライオンの島。獅子の島)といったことから、「師子国」とも記されている。


1.面積:6万5,607平方キロメートル(北海道の約0.8倍)
2.人口:約2,063万人(2010年央推計)
3.首都:スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ
4.民族:シンハラ人(72.9%)、タミル人(18.0%)、スリランカ・ムーア人(8.0%)(一部地域を除く値)
5.言語:公用語(シンハラ語、タミル語)、連結語(英語)
6.宗教:仏教徒(70.0%)、ヒンドゥ教徒(10.0%)、イスラム教徒(8.5%)、ローマン・カトリック教徒(11.3%)(一部地域を除く値)

紀元前483年 ヴィジャヤ王子(シンハラ族の祖といわれる)スリランカ上陸。シンハラ王朝建設
紀元前250年 仏教伝来
紀元1505年 ポルトガル人来航(海岸地帯を植民地化)
1658年 オランダ人来航(海岸地帯を植民地化)
1802年 アミアン条約によりスリランカは英国植民地となる
1815年 キャンディー王朝が滅亡し、全島が英国の植民地化
1948年 英連邦内の自治領として独立
1956年 バンダラナイケ首相就任。シンハラ語のみを公用語とする公用語法成立。
1972年 国名をスリランカ共和国に改称(英連邦内自治領セイロンから完全独立)
1978年2月 ジャヤワルダナ大統領就任(実権のある大統領制の発足)
1978年9月 国名をスリランカ民主社会主義共和国に改称
1983年7月 大騒擾事件、LTTEとの内戦本格化
1987年7月 スリランカ、インド和平合意成立、インド平和維持軍(IPKF)がスリランカへ進駐
1987年11月 憲法改正(シンハラ語及びタミル語を公用語と規定。州評議会制度を導入)
1989年1月 プレマダーサ大統領就任
1990年3月 IPKF完全撤退
1991年5月 ラジブ・ガンディー印元首相暗殺
1993年5月 プレマダーサ大統領暗殺、ウィジェートゥンガ大統領就任
1994年11月 大統領選挙、クマーラトゥンガ大統領就任
1999年12月 大統領選挙、クマーラトゥンガ大統領再選
2001年12月 総選挙で野党統一国民党(UNP)が大勝、ウィクラマシンハ首相就任
2002年2月 政府とLTTEとの停戦合意成立
2002年9月 政府とLTTEとの和平交渉開始
2003年4月 LTTEによる和平交渉の一時中断の表明
2003年6月 スリランカ復興開発に関する東京会議
2004年4月 総選挙で野党統一人民自由連合(UPFA)が勝利。ラージャパクサ首相就任。
2004年12月 スマトラ沖大地震及びインド洋津波により、スリランカ北西部を除く全ての沿岸が被災し、3万人以上が犠牲。
2005年8月 ガディルガマール外務大臣暗殺事件
2005年11月 ラージャパクサ大統領就任
2006年2月 政府とLTTEとの「停戦合意の実施に関する直接協議」
2006年7月 東部水門閉鎖問題を契機に戦闘激化
2006年10月 政府・LTTEによる直接協議
2007年7月 政府、東部をLTTEより解放
2008年1月 停戦合意失効
2009年5月 政府軍、北部LTTE支配地域を全て奪取。内戦終結。
2010年1月 大統領選挙、ラージャパクサ大統領再選。
2010年4月 総選挙で与党統一人民自由連合(UPFA)が圧勝。


スリランカ・ルピー
国際通貨コード (ISO 4217) はLKR。補助単位はセント。1ルピーが100セントである。2012年現在発行されている硬貨は、2005年12月14日のデノミネーションにより切り替えられたものである。法的には1, 2, 5それに10セント硬貨も存在するが、流通しておらず一般向けには発行もされていない。


<スリランカ内戦>
■1983年から2009年
スリランカ政府とタミル・イーラム解放のトラ (LTTE) による内戦。スリランカ政府軍がLTTE支配地域を制圧して26年にわたる内戦は終結した。1983年7月、ジャフナ近郊のティンネウェリでLTTEが政府軍を襲撃し13人が殺害された。これに対してコロンボ市内で反タミル人暴動が勃発、シンハラ人によるタミル人虐殺が市内各地で発生した。
■1990年6月7日
停戦崩壊から始まる戦い。和平交渉の失敗により戦闘が再燃した。LTTEはこの間、1991年5月21日には平和維持軍派遣を決めたインドの元首相ラジーヴ・ガンディーを、1993年5月1日にはスリランカ大統領のラナシンハ・プレマダーサ(英語版)を暗殺している。
■1995年4月19日
停戦崩壊から始まる戦い。この戦いでは、LTTEのスティンガーミサイルにより政府軍機が撃墜されるなどした。また2001年7月24日にはバンダラナイケ国際空港襲撃事件が発生している。
■2006年1月26日
スリランカ空軍によるLTTEキャンプ空爆から始まる戦い。マヒンダ・ラジャパクセが第6代大統領に就任し、当初はLTTEとの和平を模索したがLTTEが停戦の破棄を宣言したことから武力制圧に傾斜した。2009年5月18日に政府軍がLTTE側の支配地域全域を制圧、LTTE側も戦闘放棄を発表したため、内戦終結が宣言された。


南アジア地域協力連合
South Asia Association for Regional Cooperation、略称SAARC)は、南アジアの福祉増進と生活水準向上を図り経済的成長社会進歩、文化発展を進めるため1985年に創設された地域協力組織。7ヵ国で発足した。その後アフガニスタンが加盟した。本部はネパールのカトマンズにある。

東南アジア諸国連合地域フォーラム
ASEAN Regional Forum、略称ARF)は、アジア・太平洋地域の政治と安全保障を対象とする対話のフォーラムとして、1993年7月にシンガポールで開催された東南アジア諸国連合(ASEAN)拡大外相会議で新設に基本合意し、1994年7月にバンコクで第一回会合が開催された、ASEANを中核とする国際機関である。通常、ASEAN拡大外相会議と前後して開かれる。


■政治
共和制。大統領制と議院内閣制が混合した体制となっている。国会(スリランカ)は総議席数225の一院制で、ラジャパクサ大統領が率い、農村部や労働者階級を基盤とするスリランカ自由党を中核とする与党連合が144議席、知識人や上流階級を基盤とする統一国民党が60議席、タミル人の民族主義政党、タミル国民連合(英語版)は14議席、共産主義政党で、かつては武装闘争も展開した人民解放戦線 (JVP) が7議席。


スリランカ自由党
(Sri Lanka Freedom Party)は、スリランカの政党。1951年ソロモン・バンダラナイケによって結成され、1956年初めて政権を握り、以来2大政党の一つとなった。スリランカ自由党は当初マルクス主義政党であったが、1970年代以降は社会民主主義と非同盟主義を主張し、各国の社会主義政党と強固な関係を持つ。イラクのバアス党とは同盟があった。

統一国民党
The United National Party、略称:UNP、はスリランカの中道右派政党。国際民主同盟に加盟。現在の党首はラニル・ウィクラマシンハ。かつては国政与党として大統領や首相を輩出していたが、2004年4月2日に行われた直近の選挙では、統一国民党も参加する中道右派政党連合「統一国民戦線」が、225議席中、選挙前の109議席を大きく割り込む82議席を獲得するに留まり、大勝した中道左派政党連合「統一人民自由同盟」に与党の座を明け渡す。

スリランカ人民解放戦線
People's Liberation Frontは、スリランカの左翼政党。共産主義、マルクス・レーニン主義、そしてスリランカ多数派シンハラ人の民族主義を掲げる。当初は毛沢東主義を掲げる極左組織で、1971年には政府にたいして武装蜂起を起こし、それによって大弾圧を受けた。


■農業
水田稲作中心で、南部では天水農業、北部では溜池灌漑、ジャフナ半島では井戸水灌漑で栽培する。農耕の生産暦では南部では雨に合わせてヤラ期は4月に播種、7〜9月に刈り取る。マハ期は8月〜10月にかけて播種し、2〜3月に刈り取る。植民地時代のプランテーションの影響が残り、低地の標高200メートル程度まではココナッツ、標高500メートルまではゴム、それ以上の標高では茶の生産が盛んである。茶の生産量では世界第3位であり、セイロンティーと呼ばれ、名産品である。


■宗教
仏教が70%、ヒンドゥー教が15%、キリスト教が8%、イスラム教が7%となっている。シンハラ人とタミル人の中にはキリスト教徒もいる。特にシンハラ人の漁民は、仏教の不殺生戒を守ることが出来ないので、キリスト教に帰依しているものが多い。


ガールガイドスリランカ連盟
(The Sri Lanka Girl Guides Association、SLGGA)は、1917年に設立されたスリランカのガールガイド(ガールスカウト)組織で、1951年には正式に「ガールガイド・ガールスカウト世界連盟(WAGGGS)」に加盟している。加盟者数は23,133名(2003年現在)。


シンハラ人/Sinhala
スリランカの総人口のうち約7割を占める民族集団で、大半は仏教徒(上座部仏教Theravada)であるが、一部にはキリスト教徒もいる。シンハラとはシンハラ語で「ライオン(獅子)の子孫」の意味である。

スリランカの音楽と舞踊
スリランカの伝統的な舞踊は、「ローカントリー」(低地)と「ハイカントリー」(高地) と呼ばれる2つのタイプに大別されています。スリランカ舞踊の音楽には、様々な太鼓が使用されます。 スリランカの太鼓の音楽は、非常に洗練されています。 古代から使用されている太鼓は約33種類がありますが、今日では約10種類が使用されています。


シリマヴォ・バンダラナイケ
(Sirimavo Ratwatte Dias Bandaranaike、1916年4月17日 - 2000年10月10日)は、スリランカの政治家。夫で首相だったソロモン・バンダラナイケ(正式名:バンダーラナーヤカ)暗殺後、政界に身を転じた。世界初の女性首相であり、1960年-1965年、1970年-1977年、1994年-2000年の3度首相に登板した。外交政策は親ソ連であった。

チャンドリカ・クマーラトゥンガ
Chandrika Bandaranaike Kumaratunga、1945年6月29日 - はスリランカの政治家。同国の第5代大統領(在任1994年-2005年)。母親のシリマヴォ・バンダラナイケは世界初の女性首相で、2000年10月10日に死亡。父ソロモン・バンダラナイケはスリランカ自由党創立者で1959年に、夫であるヴィジャヤ・クマーラトゥンガも1988年にそれぞれ暗殺された。パリ大学で開発経済学、政治学を学んだ。1974年、スリランカ自由党(SLFP)婦人連盟執行委員に、1986年にはスリランカ人民党(SLMP)総裁にそれぞれ就任。1994年8月に首相に就任し、世界初の「母娘首相」誕生となった。

ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ
(1906年9月17日 - 1996年11月1日)は、かつて1978年から1989年までスリランカ大統領を勤めた。彼は英国統治下のセイロンで頭角を現し、独立後、内閣で要職を務めた。1977年から1978年まで首相だった。サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席。「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して日本に対する賠償請求を放棄する演説を行い、日本が国際社会に復帰する道筋を作った。

ジョージ・ターナー
Honorable George Turnour, 1799−1843, CCS) はイギリスの歴史家。イギリス植民地時代のスリランカで、セイロン政府直轄の部署に所属し、マハーワンサの英語への翻訳を行い1837年に出版した。ロイヤル・コロンボ大学には、彼の名にちなんだターナー賞 がある。

釈迦
釈迦(釋迦、しゃか、紀元前463年? - 紀元前383年?)は、仏教の開祖である。本名(俗名)は、パーリ語形 ゴータマ・シッダッタ(Gotama Siddhattha)釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の原資料の確定が困難で仏典の神格化された記述から一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった。釈迦は紀元前5世紀頃、シャーキャ族王・シュッドーダナ(漢訳名:浄飯王 じょうぼんのう)の男子として現在のネパールのルンビニで誕生。王子として裕福な生活を送っていたが、29歳で出家した。35歳で正覚(覚り)を開き、仏陀(覚者)となったことを成道という。

アショーカ王
在位:紀元前268年頃 - 紀元前232年頃は、マウリヤ朝の第3代の王である。漢訳音写では阿育王と書かれる。インド亜大陸をほぼ統一した。釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。

ウィジャヤバーフ1世
(Vijayabahu I, Kitti、在位 1055−1110年)は、スリランカの王。 王家に生まれ、インド南部チョーラ王朝のスリランカへの侵略期に育つ。 1070年、17年間の軍事行動によりチョーラ朝を駆逐. スリランカ仏教を立て直す。

マルコ・ポーロ
Marco Polo、1254年9月15日 - 1324年1月8日は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』(写本名:『イル・ミリオーネ (Il Milione)』もしくは『世界の記述 (Divisement dou monde)』)を口述した冒険家でもある。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが[3]、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。

イブン・バットゥータ
Ibn Battuta、1304年2月24日 - 1368年は、マリーン朝(現モロッコ)のタンジェ生まれのイスラム法学者・旅行家。1325年、21歳のときにメッカ巡礼に出発し、エジプトを経てマッカ(メッカ)を巡礼し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、キプチャク・ハン国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経て中国に達し、泉州・大都を訪問したとされる。1349年故郷に帰還したのちも、さらにアンダルシア(イベリア半島)とサハラを旅し、1354年にマリーン朝の都フェスに帰った。特にイスラームの境域地帯(スグール)を広く遍歴した。

マヒンダ・ラジャパクサ
(Percy Mahendra 'Mahinda' rajapaksa, 1945年11月18日 -)はスリランカの政治家、第13代目スリランカ首相(2004年-2005年)、第6代目スリランカ大統領(2005年-)。ラージャパクセはハンバントタ郊外の町でシンハラ人仏教徒の両親の息子として生まれた。彼の父はスリランカを代表する政治家で独立運動の指導者のひとりであった。成長したラージャパクセはゴールのリッチモンド・カレッジ、コロンボのサースタン・カレッジとナランダ・カレッジに学んだ。若い頃にはシンハラ語の映画に出演した経験がある。

ヴェルピライ・プラバカラン
1954年11月26日 - 2009年5月18日?は、スリランカのタミル人活動家。スリランカからの分離独立を図り、シンハラ人政府に対して武装闘争を行ったタミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の指導者。ヴェルピライ・プラバカランは、タミル人が居住するジャフナ半島、北部沿岸の小都市ヴェリヴチットフライに生まれた。四男。中学校では、極普通の中学生だった。彼は内気で、読書を非常に愛した。数少ないインタビューにおいて、ナポレオン・ボナパルトとアレクサンドロス大王について様々な書物を読んだと語っている。

アントン・ウィッキー
(Anton Wicky、1940年9月26日 - )は、スリランカ生まれで日本在住の国際比較学者、外国人タレント。国立セイロン大学卒。血液型はB型。1961年に文部省の国費留学生として来日。東京大学農学部大学院で海洋生物学を学び、1969年に博士号を取得。1979年より、日本テレビ「ズームイン!!朝!」のコーナー「ウィッキーさんのワンポイント英会話」を担当し、全国的な知名度を得た。肌の色から黒人と思われがちだが、スリランカ人である。

ウパーリ・ラジャカルナ
(M. Upali Rajakaruna、1975年1月6日 - )は、スリランカのアヌラーダプラ出身の車いすテニス選手、元軍人。スリランカ国内の最高の車いすテニス選手で自己最高ランクはシングルスが2008年9月22日に記録した68位で、ダブルスは2008年1月30日に記録した113位である。兵士を務めていた1997年にウェリオヤでタミル・イーラム解放のトラからの大砲の砲撃を受けて左足を失った。その後の2002年にはスリランカテニス協会の実施するトレーニングプログラムによって車いすテニス選手となった。

エディリシンゲ・セナナヤケ
(Edirisinghe Mudiyanselage "E. M." Senanayake、1970年2月14日 - )は、スリランカの軍人(軍曹)、射撃選手。中部州キャンディのウドゥドゥンバラ近くの僻村ハンダナパワの中流階級の家出身。1998年に結婚しており、2人の息子がいる。国内選手権では1999年、2001年から2007年の8回の優勝を誇っており50mのフリーとエアピストルの国内記録も保持している。2006年にはオーストラリアのメルボルンで開催された2006年コモンウェルスゲームズに出場した。

ダンカン・ホワイト
(Duncan White、1918年3月1日 - 1998年7月3日)は、スリランカ(旧イギリス領セイロン)の陸上競技選手。1948年ロンドンオリンピックの銀メダリストである。ホワイトは、1918年、イギリス植民地セイロンのコロンボ南方の町のラスパンドゥラに、4人兄弟の2番目の子として誕生した。セイロン島中部の都市キャンディにあるトリニティ・カレッジに進学。優秀な陸上選手であったが、些細な理由から退学している。

ティライヤムパラム・シヴァネサン
Thillaiyampalam Sivanesan、1963年10月16日− 2009年5月18日)は、スリランカのタミル人によるテロ組織タミル・イーラム解放のトラの海上部隊、シー・タイガーの司令官。ソーサイ大佐の名前で知られている。2009年5月18日、スリランカ政府により2時間の銃撃戦の末に彼の乗っている装甲車にロケットランチャーが命中し、彼が死亡したことが確認された。


バーニー・ヘンリクス
(Barney Henricus、1915年6月22日 - 2007年5月7日)は、スリランカの男子ボクサー。コロンボ出身。1938年にシドニーで開催されたブリティッシュエンパイアゲームズ(現在のコモンウェルスゲームズ)のフェザー級に出場し、決勝でスコットランドのジェームズ・ワトソンを倒し金メダルを獲得した。

パヌサンタ・クレンティラン
(Panushanth Kulenthiran、1990年7月26日 - )は、スリランカの北部州ジャファナ出身のサッカー選手。ユース時代よりイタリアのUSチッタ・ディ・パレルモに所属しており、2008年シニア登録された。だが同年出場がないままレガ・プロ・セコンダ・ディヴィジオーネのUSヴィボネーゼ・カルチョへとローン移籍が決まった。

ベヴェリィー・クレィヴァン
(Beverley Craven)は、イギリスの女性シンガーソングライター。 1963年7月28日にスリランカの首都、コロンボに生まれる。  国籍はイギリス。 1991年に彼女の唯一のメガヒット、プロミス・ミー (Promise me)により、イギリスのトップ5に入る。 現在は3女児の母。 20年連れ添ったシンガーソングライターと2010年12月に別生活を始めることを表明。

リザナ・ナシカ
(Rizana Nafeek、1988年2月4日 -)は、スリランカのタミル人のメイドで、サウジアラビアの死刑囚。サウジアラビアにおける不平等な裁判が国際問題となった。スリランカの貧しい家庭の次女で両親と兄と二人の妹との6人家族で暮らしていた。斡旋業者の紹介を受けてサウジアラビアへ出稼ぎに出る。彼女はスリランカからサウジアラビアに出稼ぎに来てメイドの仕事をしていた。2005年5月に乳児の世話をしていたところ、ミルクを気管に詰まらせ、死亡する事件が発生した。彼女がサウジアラビアに入国してわずか2週間後のことであった。

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