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サウジアラビア王国
Kingdom of Saudi Arabia

■地理
アラビア半島の大部分を占め、紅海、ペルシア湾に面する。中東地域においては最大級の面積を誇る。 国土の大部分は砂漠で、北部にネフド砂漠、南部にルブアルハリ砂漠(広さ25万平方km)があり、その間をアッダハナと呼ばれる長さ1500kmに及ぶ砂丘地帯が結ぶ。鉄分を含むため赤色を呈し、衛星画像で弓状に曲がった地形が識別できる。


中東
Middle East は、狭義の地域概念では、インド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の総称。西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、おおまかに定義される地政学あるいは国際政治学上の地理区分。


西アジア
アジア西部を指す地理区分である。今日の欧米ではほぼ中東と同じ領域を指すことが多い。一般的には、中央アジアおよび南アジアより西、地中海より東で、ヨーロッパとはボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている地域を指す。一般に国家としては、アフガニスタン、イラン、イラク、トルコ、キプロス、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメン、パレスチナおよびエジプトの一部がここに属す。


アラビア半島
アジアとアフリカを繋ぐ場所に位置する西アジア南西の巨大な半島である。半島としては世界最大である。政治的には、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、カタール、オマーン王国、イエメン共和国に分かれており、カタールとサウジアラビアの沖にバーレーンがある。

紅海
Mer Rougeとは、アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、200種ものサンゴが生息するなど固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。とりわけ、エジプトがその経済的恩恵を享受している。

ペルシア湾
Khalij-e Parsは、ペルシャ湾とも呼び、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンに囲まれた細長い形状の湾。面積はおよそ240,000平方キロメートルで、長さ約1千キロメートル。平均水深50メートル、最大90メートル。ホルムズ海峡を通じ、オマーン湾そしてアラビア海へと繋がっている。20世紀初頭までは、真珠採集などが盛んであった。20世紀前半にこの地域で石油が発見され、さらに大量産出地でもあることも判明した。20世紀後半には、油田開発が活発に行われ、湾内には多くの油井が存在する。

ネフド砂漠
Sahara'an-Nefud、はアラビア半島北部内陸の砂漠。面積569,79.70km2、東西約290km、南北約230km。ルブアルハリ砂漠およびダハナ砂漠に連なる。アラビア語で砂礫の広がる地域を意味し、起伏の少ない土地に延々と三日月状の砂丘が広がるエルグという地形である。ヒジャーズに近隣した一部の低地には麦や野菜、果実が実るオアシスがある。

ルブアルハリ砂漠
the Rub' al khaliは、アラビア半島南部の3分の1を占める世界最大級の砂砂漠。サウジアラビア南部、オマーン、アラブ首長国連邦(UAE)、イエメンの4カ国に広がる。ルブアルハリは、長さ1000キロメートル(600マイル)、幅500キロメートル(300マイル)。最近まで大部分が探検されていなかった。ベドウィンでさえ、その辺縁を移動するにすぎない。にもかかわらず、この砂漠へGPSを装備したツアーを提供する旅行会社は存在する。1931年にバートラム・トマス(Bertram Thomas)が、史料に残る最初の西洋人としてこの砂漠を横断した。

ファラサン諸島
紅海南東部にある諸島。サウジアラビア領であり、ジーザーンの沖約40kmに位置する。砂漠地帯であり、植生はほとんどない。アラビアガゼルが生息しているほか、渡り鳥の飛来地となっている。最も大きな島はファラサーン島。


オアシス
Oasisとは、砂漠やステップといった乾燥地域において、淡水が存在する場所をいう。オアシスの直接的な語源は古代ギリシア語にあり(oasis)、ヘロドトスの「歴史」(第3巻 26節)に見られる。ここでは、リビア砂漠に存在した諸都市(オアシス都市)の名とされている。この語は、さらに溯って、恐らくは古代エジプト語(「オアシス」「オアシス地域」)が転訛したものと考えられている。


<歴史>
この国が現在存在する地域には長い歴史があるが、サウード王家自体は1744年に中央アラビアのナジュド地方に登場している。続く150年間、サウード家はアラビア半島の支配を巡ってエジプトやオスマン帝国そして他のアラブ部族と争い興亡を繰り返した。

■1902年
僅か22歳のアブドゥルアズィーズはサウード王家先祖伝来の本拠地リヤドをライバルのラシード家から奪回した。

■1926年1月8日
アブドゥルアズィーズはヒジャーズの王(マリク)となる。1927年1月29日にはナジュド王の称号を得た(彼の以前のナジュドの称号はスルタン)。1927年5月20日に結ばれたジッダ条約によってイギリスはアブドゥルアズィーズの領域の独立を認め、ヒジャーズ・ナジュド王国が成立。

■1932年
主要地域のハッサ、カティフ、ナジュドそしてヒジャーズが統一してサウジアラビア王国が成立した。

■1938年3月
油田が発見されるまで国は貧しい状態だった。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの、1946年には開発が本格的に始まり、1949年に採油活動が全面操業した。石油はサウジアラビアに経済的繁栄をもたらしただけでなく、国際社会における大きな影響力も与えた。

■1973年
第4次中東戦争に際してサウジアラビアはいわゆる石油戦略を用い、石油危機を引き起こした。この後、サウジアラビアを初めとする石油輸出国機構 (OPEC) が大きな国際的影響力を発揮するようになる。
■1975年
家族間抗争が一因でファイサル国王が甥のファイサル・ビン・ムサド王子により暗殺された。その後、やはり異母弟のハーリドが王位を継いだ。1979年にイラン革命に影響を受けたイスラム過激主義者によるアル=ハラム・モスク占拠事件が発生。
■1990年
イラクが隣国クウェートを侵略して湾岸危機が起こると、国土防衛のために米軍の駐留を許可した。聖地メッカのあるサウジアラビアに異教徒の軍隊が駐留することに敬虔なイスラム教徒たちは反発し、後に同国人のウサーマ・ビン=ラーディンが反米テロを組織する原因ともなった。

■2005年
ファハドが崩御し、彼の異母弟のアブドゥッラーが即位した。王太子のスルタンは前国王ファハドの同母弟(スデイリ・セブンの一人)である。


第四次中東戦争
1973年10月にイスラエルとエジプト、シリアなどの中東アラブ諸国との間で行われた戦争。第三次中東戦争(六日戦争)の時、先手を打って圧勝したイスラエルに対し、今回はアラブ側が先制攻撃をしかけた。アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用したこともあって、一時イスラエルはスエズ運河やゴラン高原にて苦戦を強いられたものの、その後イスラエルが巻き返して逆にアラブ側が苦戦することとなり、米ソ両国の提案で停戦となった。


ベドウィン
砂漠の住人を指す一般名詞で、普通アラブの遊牧民族に対して使う。アラビア半島においては、南端の農耕地帯に余剰人口が生ずるにいたり、農耕民の中で進取の気性ある者が耕作不能な土地に家畜を連れて北上したのが、ベドウィンの始まりとされる。ベドウィンを意味するヘブライ語から「アラブ」という語が導かれたという説もあり、ベドウィンが古くからアラブと呼ばれていたことは多くの碑文や史料に示されている。

ナジュド及びヒジャーズ王国
アラビア半島に存在した国家である。別々の国家であったナジュド王国がヒジャーズ王国を征服し、連合王国となる。その後連合体制をやめ、サウジアラビア王国となる。

オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。


アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラブ人」という概念は人種的存在とは言えない。むしろセム語(アラビア語)という言語を共有する人々としてであったり、聖書に伺えるある人物を始祖とするという共通概念で規定される。


ユダヤ人
Jew,とは、ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(民族集団)という2つの捉え方がある。中世以前は前者の捉え方がなされていたが、19世紀の国民国家出現以降は差別する側からもされる側からも後者の捉え方が出現した。キリスト教徒やイスラム教徒からナザレのイエスを裏切ったとして、迫害されている民族である(イエス・キリストは民族的には古代イスラエル人であるとされる)。シオニストはユダヤ教とユダヤ民族を切り離して捉えることが多いが、これはナチスの論法と同様の危険をはらんでおり、すでに多数の白人と黒人がともにユダヤ人と認められている現在、肉体的ユダヤ民族という考え方は過去のものとなりつつある。「ユダヤ人だからドイツ人(フランス人、ロシア人その他)ではない」あるいは逆に「エチオピア人だからユダヤ人ではない」という差別が戒められ、ユダヤ人はおおむね居住地民族と同化した肉体的種族とは別個の概念となっている。そのため、ユダヤ人のハーフとかクオーターとかいう形容は、まず用いられない。ドイツの文芸評論家マルセル・ライヒ=ラニツキは、自伝「わがユダヤ、ドイツ、ポーランド」(柏書房)の中で「私は、半分のポーランド人、半分のドイツ人、そして丸ごとのユダヤ人だ」と冗談めかした言い方でこのあたりの機微を突いている。


■民族
広大なアラビア半島には古来から続く無数の部族勢力が跋扈しており、サウド家による長年の中央集権化政策・部族解体政策にも関わらずサウジアラビア人という民族意識の形成は至っていない。部族社会が定住民だけでなく遊牧民から形成されていること、各地に点在する少数派宗教なども状況を難しくしている。サウード家自身、中央集権化政策が頓挫するたびに部族間・宗教間のパワーバランスを権力保持に利用している。


■言語
言語は公用語が古典アラビア語で、日常生活での共通口語は、サウジアラビアの現代口語アラビア語変種である。


フスハー
「純正なアラビア語」)とは、標準アラビア語(Standard Arabic)を指す。日本では正則アラビア語(せいそく-ご)と呼ぶこともある。具体的に指している言語は、古典アラビア語と、現代の書き言葉であるが、この2つは一般には同一視されており、区別なくアル・フスハーと呼ばれる。文語として文学・共通語に使われる、アラビア語の下位言語であり、口語としてはもはや使用されていない。ゆえに一般的な言語学の定義からすれば、ラテン語、サンスクリット語、かつてのヘブライ語同様、死語である。


■宗教
宗教はイスラム教ワッハーブ派が国教である。このため、国民が他の宗教を信仰することは禁じられており、サウジアラビア国籍の取得の際にもイスラム教ワッハーブ派への改宗が義務付けられている。西部にイスラム教の聖地であるメッカがあるため、世界各地から巡礼者が訪れることもあってイスラム世界においての影響力は最も大きい。

イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。

ワッハーブ派
18世紀にアラビア半島内陸のナジュドに起こったイスラム教の改革運動である。宗派としてはスンナ派に属するが、その下位宗派に数えられる場合もある。法学的には、イスラム法学派のうち厳格なことで知られるハンバル派に属す。創始者はムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブ(ワッハーブ)。一般にイスラム原理主義と呼ばれて知られている復古主義・純化主義的イスラム改革運動の先駆的な運動であると評価される。

ハンバル学派
スンナ派におけるフィクフつまりイスラーム法学の学派(マズハブ)の一つ。この法学派はアフマド・イブン・ハンバル(855年没)を起源とするが実質的には彼の弟子たちによって始められた。ハンバル法学は非常に厳格・保守的で、特に教義や儀式に関する問題を扱う。ハンバル学派は主にサウジアラビアで流行しているが、近年では英語圏の人々に教える授業や教科書によって西方諸国でも復活しつつある。重要なイスラームの巡礼地であるメッカとメディナでもおもな法学派である。

シーア派
イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。

アーシューラー
ヒジュラ暦におけるムハッラム月(一年で最初の月)の10日目のこと。また、そこから転じて、この日に行われる宗教行事を指す場合もある。ムハッラム月10日目がイスラム教において宗教的な位置づけを得たのは、預言者ムハンマドがマッカからマディーナに移住(ヒジュラ)した後、ユダヤ教時代から伝わる「贖罪の日」の断食の習慣を適用し、マディーナで創設されたウンマ(イスラム共同体)における断食潔斎の日と定めたことに端を発している。

ヒジュラ暦
Hijri calendar、Islamic calendar、は、主にイスラム教社会で使われている暦法および紀年法である。イスラム暦(イスラムれき)と呼ばれることも多い。ヨーロッパではラテン語: anno Hegiraeを略してA.H.と表記する。第2代正統カリフウマル・イブン・ハッターブが、預言者ムハンマドがマッカからマディーナへ聖遷(ヒジュラ)したユリウス暦622年を「ヒジュラの年」と定めヒジュラ暦元年とする新たな暦を制定した。


ザムザムの泉
サウジアラビアにある聖地マッカ(メッカ)のマスジド・ハラームにある泉である。古くからマッカの貴重な水源であり、イスラム社会においては聖なる泉とされている。ザムザムの泉から湧き出る水はザムザムの水と呼ばれイスラム教における聖水のようなものとして扱われている。巡礼に来たムスリムはウムラ (en:Umrah) の儀式が終わるとザムザムの水を飲むのが通例とされている。 この水はサウジアラビアの法律によって国外への持ち出しが禁止されているが、 巡礼者の持ち帰りは日常的に行われており巡礼者の代表的な土産物になっている。マッカの周囲にはザムザムの水を売る店が多数ある。


■水資源
サウジアラビアの水資源は古くはオアシスなどの湧水と井戸からの取水に頼ってきた。聖地メッカではザムザムの泉と呼ばれるわき水を頼りに定住生活が営まれてきた。1932年に300メートル以上の深井戸の掘削に成功すると化石水の採取により水の供給量は大幅に増加し農業生産を支えている。サウジアラビアは世界最大の海水淡水化プラント稼働国であり、20余りの主要都市に人口の80%が集中しており都市部ではオアシスや地下水だけではまったく足りないため海水淡水化プラントからの供給無しには生活できない。


クルアーン
イスラーム教(イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。「読まれるもの」を意味する。(アラビア語では定冠詞が伴い「アル=クルアーン」と呼ばれる。)欧米では古くから Coran あるいは Koran と呼ばれており、日本でも長らくそのカタカナ化した形である「コーラン」という名前で呼ばれてきた。アラビアヒジャーズ地方の町マッカ(メッカ)の商人であったムハンマドは、40歳ほどであった西暦610年頃に、迷うところがあってしばしばマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していた。ある日の瞑想中に突然、大天使ジブリール(ガブリエル)が彼のところにあらわれ、神から託された第一の啓示を与えた。


大ムフティー
スンナ派のイスラム教国におけるイスラーム法に関わる官吏の最高位者に対する称号である。 イスラム教の宗教指導者となるムフティーの最高位となる立場に当たる。

ムルタバ
(Murtabak)、は、サウジアラビア(特にヒジャーズ地方)、イエメン、インドネシア、マレーシア、タイ、シンガポール、ブルネイで主に見られるパンケーキあるいは揚げパンである。


■大衆文化
近年のサウジアラビアでは宗教指導者層の見解と庶民の生活感覚の乖離が大きくなってきている。多くの市民は建物の隙間にアンテナを建てたり、近所からケーブルを引いたりしてこっそりと視聴していることが多く、表向きは否定されながらもテレビは広く民間に広まっている。法律で酒類全てが禁止されているにもかかわらず一般人の飲酒は珍しくない。都市部では週末の夜になると酩酊者が路上などで倒れていることが多く、警察も日常茶飯事であるため逮捕というよりも酩酊者の保護に近い扱いになっており、飲酒罪についても刑事罰の罰金というよりも酩酊者保護費用の請求のような感覚になっている。


■ネット文化
インターネットの規制が厳しく、国内から海外のサイトへの接続は厳しく制限されている(ネット検閲)。 国内ではアラビア語の出会い系サイトやSNSなどが運営されている。家族以外の男女は会話をすることすら禁止されているが親族男性の代理人がメールや書き込みを行っているという設定で女性が直接書き込んでいたりして、脱法行為的にネット上での男女交際が行われることも多い。


ムタワ
イスラム教において悪徳とされる行為を禁止し、徳のある行いを推奨することを目的とした、イスラム価値観における倫理道徳的な立場から一般人に教育的指導を行なう組織である。欧米では宗教警察であると解釈されている。サウジアラビアにおいては社会的にきわめて強い影響力を持ち、勧善懲悪委員会と呼ばれており、司法警察権や裁判権は持っていないが、活動には警察官が同伴し、委員の依頼で警察が逮捕を行い、委員会の告発によって刑事裁判が行われており、実質的には司法警察権と裁判権を持っているかのような活動をしている。


ハーリド・イブン・アル=ワリード
592年 - 642年、Khalid ibn al-Walidは、イスラーム初期の正統カリフ時代の武将。アッラーの剣という異名で知られる。リッダ戦争とシリア征服戦の指揮官。初期のイスラーム拡大時の戦争において多大な功績を果たした。元はメッカのクライシュ族に従う騎兵隊長であり、初期のイスラム軍との戦いにも従軍している。625年のウフドの戦いでは200の騎兵を率いてイスラム軍の背後を突き、ムハンマドを負傷させることにも成功した。しかし628年にクライシュ族とムハンマドの間にフダイビーヤの和議が成立すると、メッカ市内にもイスラムの教えが広まり、ハーリドもこの時に改宗した。

イブン・ハンバル
A?mad ibn ?anbal, 780年 - 855年は、イスラーム法学者・ハディース学者。ハンバル学派の名祖。主著に『ムスナド』(al-Musnad)がある。780年、バグダードで生まれた。青年期にイラク、ヒジャーズ、イエメン、シリア、イラン、ホラーサーン、マグレブと遍歴して学問を続けた。ハディース(ムハンマドの言行録)を重視する立場をとり、多くのハディースを収集しまとめていった。厳格なハディース解釈を尊重するため、イスラーム神秘主義的な考え方を批判し、のちのワッハーブ運動にも影響を与えた。

アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード
Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud、1880年 - 1953年11月9日は、ワッハーブ派イマーム(在位:1902年 - 1953年)、ヒジャーズ国王(在位:1926年1月8日 - 1931年)、ナジュド国王(在位:1927年 - 1931年)、ヒジャーズ=ネジド国王(1931年 - 1932年)、初代サウジアラビア国王(在位:1932年 - 1953年)。アブドゥルアズィーズ・イブン・サウード、またはイブン・サウードの名で知られる。ワッハーブ派イマームとしてはアブドゥルアズィーズ2世、サウジアラビア国王としてはアブドゥルアズィーズ1世と呼ばれる。

アブドルアジズ・アール=アッシャイフ
1943年-とはサウジアラビアにおけるイスラム教徒の最高位の宗教指導者たる大ムフティーである。1999年に死亡したアブド・アル=アズィーズ・ビン・アブドゥッラー・ビン・バーズの後を継いで就任した。最高法官、最高ウラマー会議議長、ファトワー局長官を兼任している。

ファイサル
ラテン文字転写: Faisal bin Abdulaziz Al Saud、1906年 - 1975年3月25日)は第3代サウジアラビア国王(在位:1964年 - 1975年)。ワッハーブ派イマームとしてはファイサル2世と呼ばれる。パレスチナを国連が分割した後に、アブドゥルアズィーズ国王にアメリカとの国交断絶を呼びかけたが却下された。兄サウード国王の健康が衰えたとき、1964年3月4日に摂政に任命された。同年11月2日に即位した。

モハメド・アル=デアイエ
Mohammed Al Deayea、1972年8月2日 - )は、サウジアラビア出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはGK。国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)によって20世紀においてアジアNO.1と認定されたサウジアラビア人GK。別名「アジアの黒蜘蛛」。

マジェド・アブドゥラー
(Majid Abdullah, 1959年11月11日 - )はサウジアラビア出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはFW。砂漠のペレと称されたサウジアラビア史上最高のストライカー。変幻自在の高速ドリブル、爆発的な跳躍力など黒人選手らしい身体能力の高さが特徴である。 サウジアラビア代表としては1977年4月4日のパキスタン戦で代表デビューを飾ると、1980年代にアジアカップを2連覇する活躍でアジア全土にその名を知らしめ、1994年6月26日のアメリカW杯1次リーグベルギー戦を最後に代表を退くまで139試合67得点の記録を残している。

サイード・オワイラン
Saeed Al-Owairan、1967年8月19日 - )は、サウジアラビア出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはフォワード、攻撃的なMF。「砂漠のマラドーナ」と呼ばれ、1994 FIFAワールドカップでは、サウジアラビア初の決勝トーナメント進出に大きく貢献。同大会のグループリーグのベルギー戦では、自陣からゴールまでの約60メートルの距離を1人で駆け上がり、最終的に5人をかわしてゴールを決めるという、1986 FIFAワールドカップでのディエゴ・マラドーナの5人抜きゴールに匹敵するプレーを見せた。

マシャイル・ビント・ファハド・アル・サウード
Masha'il bint Fahd al Saud、1958年 − 1977年)は、サウジアラビアのサウード王家の女性。交際相手と駆け落ちを図り、19歳で処刑された。マシャイルは男性とともに国外逃亡することを図り、海岸で溺死したように見せかけた上で男装して密出国しようとしたが、警察に逮捕された。裁判にかけられたマシャイルはジナの罪で死刑判決を受け、公開処刑により銃殺刑に処された。交際相手の男性は斬首刑に処された。

アドナン・カショギ
Adnan Khashoggi、1935年7月25日 - )はサウジアラビアの武器商人。防衛関係商社トライアドの会長兼代表取締役である。1960年代と1970年代にアメリカの会社とサウジアラビア政府との取引を仲介し、イラン・コントラ事件やロッキード事件などに暗躍してきた武器商人として知られるようになり、その後も、中東の武器市場において様々な形で介在し、巨万の富を築いた。1997年、ダイアナ妃と共にパリで事故死したドディ・アルファイドは甥にあたる。

ウォジダン・シャハルハニ
Wojdan Ali Seraj Abdulrahim Shahrkhani、1996年2月1日 - )は、サウジアラビアの柔道選手である。シャハルハニは2012年ロンドンオリンピックにサウジアラビア代表として選出された2人の女性のうちの1人である。シャハルハニのオリンピックへの参加は、女性が国を代表してオリンピックに参加することに対するサウジアラビア国内の反発にもかかわらず決定された。

ハレド・アル・エイド
Khaled Al-Eid、1969年1月2日 - )はサウジアラビアの馬術選手。1996年のアトランタオリンピック障害飛越個人で44位、同団体で17位だった。2度目の出場となった2000年のシドニーオリンピックでは障害飛越個人で銅メダルを獲得した。これはサウジアラビアのオリンピック馬術競技史上初めてのメダル獲得である。

タラル・アサド
Talal Asad、1933年 - )は、サウジアラビア生まれの文化人類学者。ニューヨーク市立大学教授。ポストコロニアリズム、キリスト教とイスラーム教の比較研究、世俗主義が研究テーマ。オックスフォード大学で博士号取得。

サウジアラビア Saudi Arabia
サウード家を国王に戴く絶対君主制国家で、アラビア語による国名のアル=マムラカ・アル=アラビーヤ・アッ=スウーディーヤは「サウード家によるアラビアの王国」を意味する。世界一の原油埋蔵量を誇る国であり、石油(原油)を日本をはじめ世界中に多く輸出している。

リヤド
サウジアラビアの首都。 アラビア半島中央部のナジュド地方に位置する内陸都市で、都市的地域の人口は474万人である。サウジアラビア王国建国以前からサウジ王家であるサウード家の本拠地としてワッハーブ主義運動の中心になってきた。18世紀にサウード家の第一次サウード王国の支配下に入ったリヤドは、1818年にエジプトのムハンマド・アリーの軍により本拠地ディルイーヤを破壊されたサウード家が移転したことにより歴史に名が残るようになった。


キング・ハーリド国際空港
King Khalid International Airportは、サウジアラビアの首都、リヤドにある国際空港。サウジアラビアの第四代国王ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズにちなんで名付けられた。設計はアメリカのヘルムス・オバタ+カッサバウム建築事務所(Hellmuth, Obata, and Kassabaum)が担当。1983年に開港。開港時は面積(225km2)では世界一であった。

キング・アブドゥルアズィーズ国際空港
King Abdulaziz International Airportとは、サウジアラビアのジッダにある国際空港。サウジアラビアの初代国王アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードにちなんで命名された。

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キング・ファハド国際空港
King Fahd International Airportは、サウジアラビア・ダンマームにある国際空港。サウジアラビア第五代国王ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズにちなんで名付けられた。


■交通
西部にはイスラム教の2大聖地であるメッカとマディーナがあり、世界各地から巡礼者が訪れる。2007年からは非ムスリムに対しても観光ビザが発行されるようになったが、団体ツアーのみ発行され個人には発行されていない。サウジアラビアは世界で唯一、女性が自動車を運転することが禁止されている国である(運転免許の取得が法的に認められておらず、社会通念的にも運転は禁止されていると見なされる)。ただし、女性が財産として自動車を所有することは禁止されていない。このため女性が自動車を利用するには運転手を雇うか、親族男性に運転してもらうしかない。


キング・アブドゥルアズィーズ大学
King Abdulaziz University)は、サウジアラビアの紅海岸の都市ジッダにある大学。1967年にサウジアラビアの建国者アブドゥルアズィーズ・イブン=サウード国王の名を記念して設立された。人文、経済、医学、歯科学、薬科学、地球科学、気象学、海洋学、工学、理学などの学部を擁す。


■教育
イスラム教を国教とする祭政一致国家のため宗教教育が重視されるが、自然科学や実技については不十分とされる。初等教育の段階でクルアーン(コーラン)の朗誦、講義を受ける。高等教育ではコンピューターや金融など第三次産業に関わるカリキュラムが組まれる。一方、初の工科系大学であり男女共学制のサウジアラビア王立科学技術大学KAUSTが、2009年9月に100億ドルの基金で設立された。


ダンマーム
Dammam, Ad Dammamは、サウジアラビア東部州の州都である。ダンマームは東部州最大の都市で、ダンマーム港はペルシャ湾で最も大きな港の一つである。サウジアラビアの輸出入拠点としてはジッダ港に次いで2番目に大きい。1991年に湾岸戦争で徴用されたキング・ファハド国際空港がある。

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カフジ
Khafji,はクウェートとサウジアラビアが領有する中立地帯。1950年代に日本のアラビア石油がカフジ沖(ペルシャ湾)の石油採掘権を得て海底油田を開発した。人口は65000人(2005年)。住民のほとんどは石油産業関連企業の職員とその家族である。

マディーナ
アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。半島紅海側のヒジャーズ地方に位置する。現在はサウジアラビアのマディーナ州の州都で、人口は130万人ほどである。マッカの北約500kmの地にあって、ムハンマドの時代以前は名前をヤスリブと言い、アラブ人の二部族とユダヤ教徒の数部族が住む町であった。


アル・イテハド
アル・イテハド、アル・イッティハード(英語: Al Ittihad、は、サウジアラビアの都市ジッダを本拠地とするサッカークラブチーム。1928年創設のサウジアラビアのみならず、アジアを代表する強豪チーム。FIFAクラブ世界選手権2005にアジアのクラブチーム代表として出場した。

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外務省:サウジアラビア王国
在サウジアラビア日本国大使館


メッカ
サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。別名をウンム・アル=クラー町々の母)といい、マッカ・アル=ムカッラマ Makkah al-Mukarramah IPAとも言う。メッカは、イスラム教最大の聖地であり、祈りを捧げるところである。イスラム教徒は一日に五回決まった時刻になると、メッカの方向に向かって三度礼拝を行う。携帯電話のGPS機能などにより、遠くにいてもおおよそのメッカの方角を知る事が可能になっている。

ナジュド
アラビア半島の中央部にある高原地帯で、サウジアラビア王国の首都リヤドの所在地でもある。ナジュドは半島西部を貫くヒジャース山脈・アスィール山脈の東麓に始まり、標高762mから1,525mまでの岩の多い高原からなっており、西から東へなだらかに下降している。この地域は古くから遊牧やオアシスを結ぶキャラバン交易により成り立ってきた。632年、マッカからアラビア半島征服を開始した初代正統カリフ、アブー=バクルによる戦争で、ナジュドは名将ハーリド・イブン=アル=ワリードの遠征を受けて屈服した。

ジッダ
Jeddahはサウジアラビア西部のマッカ州(メッカ州)にある紅海に臨む都市で、首都リヤドに次ぐ大都市。中東有数の世界都市であり、ジェッダ(Jeddah)とも呼ばれる。人口は340万人。2010年の都市的地域の人口では317万人であり、世界第106位、同国では第2位である。もともと寂れた漁村だったが、イスラム教が興って近郊のマッカ(メッカ)が聖地になると、巡礼者の中継地点として栄えるようになった。現在では、ハッジ(大巡礼)の時期になると毎年200万人ものイスラム教徒が、ジッダを経由してマッカへ巡礼するため、ジッダ港(またはジッダ・イスラム港)や空港(キング・アブドゥルアズィーズ国際空港)は巡礼者を乗せた船や飛行機で一杯になる。

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カティフ
QatifまたはAl-Qateefは、サウジアラビアの東部州にある都市。ペルシア湾西岸に位置し、古くからオアシスとして栄える。このオアシスは北からJubail、Ras Tanura、カティフ、ダンマーム北部へとつながっている。また、カティフの西はダンマームのキング・ファハド国際空港である。カティフは同名の中心町カティフとその周りの町村から成り立っている。

ジザン
ジザンはサウジアラビア南西部に位置する都市で紅海に面しており、陸地側から見れば農業地帯の奥地に存在する都市である。海を挟んでファラサン諸島が隣接している。また、マンゴーやイチジク、パパイヤ等の果物の栽培が盛んで、進んだ技術が導入されている。

ヤンブー
(Yanbu)は、サウジアラビア西部、マディーナ州の都市。人口188,430人(2004年)。ジッダの北350km、マディーナの西160kmに位置する。紅海に面した港町であり、ヤンブーとはアラビア語で「海辺の泉」を意味する。東部のダーラン油田からのパイプラインの終着点であり、大規模な港と工業団地が造成され、ヨーロッパ諸国への原油輸出の拠点となっており、また石油精製や石油化学工場が立ち並ぶ工業都市となっている。

ブライダ
サウジアラビアのカスィーム州の都市である。カスィーム州の州都である。アラビア半島のほぼ真ん中に位置し、東のペルシャ湾と西の紅海のどちらからも等距離にある。ナーエフ・アブドゥルアズィーズ王子地方空港(旧名カスィーム地方空港)がある。

ダーラン
Dhahran)は、サウジアラビアの東部州に位置する、同国における石油産業の中枢を担う都市である。1931年に最初にダーランで油田が発見され、1935年にはスタンダード石油(現在のシェブロン・テキサコ)が油井を掘った。

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アブハ
Abhaは、サウジアラビア南西部、アスィール州の州都。人口約20万人。アシール地方の中心都市である。標高2200mの高地にあり、冬季は最低気温がマイナスになることもある。逆に夏の暑さは穏やかで、サウジの代表的な避暑地であり、サウジのみならず中東各地から避暑客が訪れる。降雨にも恵まれ、農業が盛んである。

タブーク
サウジアラビアのタブーク州の都市である。タブーク州の州都である。サウジアラビアの北西部に位置する。人口は441,351人(2004年)。歴史的記念物に、古いモスク、タブーク砦、オスマン帝国時代に建設されたヒジャーズ鉄道の跡などがある。タブーク地区には数多くの考古学的価値のある遺跡が発掘されている。

ハーイル
サウジアラビアの北中部に位置し、ハーイル州の州都である。首都リヤードの北西約700km、マディーナの北東約400kmの地にあり、付近には標高約1400mのアジャー山と標高約1100mのサルマー山がそびえる。また、歴史的に同市は、マッカへ巡礼隊商ルートにおける重要な滞在地であった。

ターイフ
サウジアラビア西部、マッカ州の都市。人口521,273人(2004年)。メッカの南東97kmに位置する。標高1500mの高地にあり、サウジでもっとも著名な避暑地である。ターイフには夏の離宮があり、夏になると涼しい気候を求めてサウジ人観光客でにぎわう。

バーハ州
面積15,000km2、人口459,200人(1999年)。サウジアラビアの南西部、メッカの近くに位置する。州都はバーハ市(英語版)。バーハ地域はバーハ市とバルジュラシを含んでいる。バルジュラシは伝統的な市場sooqe as-sabt(土曜日市場)として有名である。バルジュラシ市場は非常に古く、その正確な時代は不明である。

マディーナ州
面積173,000 km2、人口 1,310,400人(1999年)。サウジアラビアの西部、紅海沿岸に位置する。州都は聖地でもあるマディーナ。マディーナ州には、他にヤンブー(Yanbu' al Bahr)やバドル(Badr Hunayn)という都市がある。

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サウード家
サウジアラビアの王家。アラブ人のアナザ部族に属する。サウード家はサウジアラビアにおいて、ワッハーブ主義の保護者として正統性から絶大な地位を持ち、安定した政権を保ちつづけているが、ファハド前国王の即位以来、「スデイリー・セブン」と呼ばれる国内の有力豪族スデイリー部族の母を持つファハド前国王の同母兄弟が中央政界で力を持っており、異母弟である現国王アブドゥッラーなどその他の王族と微妙な関係にある。

第一次サウード王国
1744年にアラビア半島に建設された王国である。ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブが唱えるワッハーブ派の運動の普及のために、ナジュドの豪族出身であるムハンマド・イブン・サウードが軍事的・宗教的にキャンペーンを起こした。王国の性格からワッハーブ王国ということもある。主君はワッハ-ブ派イマームを兼ねる。

第二次サウード王国
1824年から1891年まで存在したイスラム国家である。1818年に第一次サウード王国がオスマン帝国とエジプト軍によって滅ぼされた後、王族トゥルキー・イブン=アブドゥッラーフがリヤドに移って1824年に建国した。第一次サウード王国同様にワッハ−ブ派イマームが国王兼帯。1891年に最後の王であるアブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウードがラシ−ド家からの実権回復に失敗してリヤドを追われたために滅亡した。その後1902年にリャド奪還に成功した、クウェートに逃れていたアブドゥルラハマーン・イブン・ファイサル・アル・サウードの子アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードにより、1932年にサウジアラビア王国が建国された。

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サウジアラビアの国旗
サウジアラビアの国旗は緑地に、聖句と剣を描いたデザイン。聖句が用いられているため、半旗掲揚をしないことなどが特徴的である。国旗のデザインは、サウジアラビアの基本統治法(サウジアラビアの事実上の憲法)第3条に規定があり、イスラム教を表す緑の地に、「アッラーフ(アラー、神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒であるというシャハーダ(信仰告白)をデザイン化した文字と、メッカおよびイブン=サウードの勝利を表している剣を白で描いたもの。


■国名
公式の英語表記は Kingdom of Saudi Arabia。通称 Saudi Arabia。リヒテンシュタインと同様に、国連加盟国でも「統治王家の名前」を国名にしている国家である。


1.面積:215万平方キロメートル(日本の約5.7倍)
2.人口:2,537万人(内外国人683万人)(2009年、経済企画省)
3.首都:リヤド
4.民族:アラブ人
5.言語:アラビア語(公用語)、英語
6.宗教:イスラム教

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■主要産業:石油(原油生産量820万B/D(2009年、石油鉱物資源省))、LPG、石油化学

■主要貿易品目(1)輸出 原油、石油製品、LPG(2)輸入 機械機器、自動車、食料品、建設資材、繊維製品


サウジアラビア・リヤル
はサウジアラビア王国で流通する貨幣単位。ISO 4217コードはSAR。補助通貨としてハララ があり、1リヤールは100ハララ。サウジアラビア通貨庁(中央銀行に相当)が発行する。リヤール紙幣としては、1, 5, 10, 50, 100, 500がそれぞれ流通している。20リヤール、および200リヤール紙幣も存在するが、あまり流通していない。また硬貨には5, 10, 25, 50, 100ハララがあり、1ハララコインは今は使われていない。米ドルと固定相場制を採っており、1ドル=3.75リヤルである。


■政治
サウード家による絶対君主制でワッハーブ主義に基づく厳格なイスラム教義を国の根幹としている政教一致。要職は王族が独占しており、ギネスブックには王族の数が世界最大と記載されている。アブドゥッラー現国王は第2世代であるが現在は第6世代まで誕生している。


イスラム協力機構
Organisation of Islamic Cooperation, は、イスラム諸国をメンバーとして構成され、国際連合に対する常任代表を有する国際機構。イスラム諸国の政治的協力、連帯を強化すること、イスラム諸国に対する抑圧に反対し、解放運動を支援することを目的とする。

ターイフ条約
サウジアラビアとイエメン(北イエメン、南イエメン時代も含む)間で結ばれていた国境線に関する二国間条約。1932年、アラビア半島の大部分を版図に収めたサウード家は、サウジアラビアを成立させた。サウード家は、余勢をかってイエメン王国(当時)へ攻め込んだものの膠着状態となり、1934年に国境線の画定を先送りにして停戦を図った。

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絶対君主制
Absolute monarchy)は、君主制の一形態で、君主が統治の全権能を持ち、自由に権力を行使する政体である。この対義語で、君主の権力が憲法などで制限されている政体は制限君主制という。絶対君主制においては貴族や諸侯、議会よりも君主の権威が優越する。その正当性の根拠が、神意に求められることがある(王権神授説)。


■司法
サウジアラビアでは宗教が法律となりコーランに基づくイスラム法(シャリーア)により統治が行われている。しかし、実際は部族的慣習がそのまま社会的慣習となっているケースが多く、数々の矛盾を孕んでいるため、他のイスラム圏では見られない独特の環境を生み出している。通常の警察とは別に勧善懲悪委員会と呼ばれる宗教警察が厳しい取り締まりを行っており、違反者は外国人であっても問答無用で逮捕される。


■人権
サウジアラビアにおいては前近代的なイスラーム法に基づく人権蹂躙が数多く報告されており、国際社会からの批判を浴びている。これはサウジアラビアでは宗教が法律と融合しイスラム教を擁護する法としてのイスラム法が規定され、それに基づいて行政が執行されているためである。このため近年は欧米諸国からのみならず他のアラブ諸国からも人権擁護を求める声が寄せられる。


女子大学
原則として女性を対象とした(原則として女性のみが入学することのできる)大学である。ただし、大学院や大学の夜間学部・通信教育部などは男性も女子大に所属して学ぶことが可能である場合がある。

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石油輸出国機構
Organization of the Petroleum Exporting Countriesは、石油産出国の利益を守るため、イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、ベネズエラの5カ国の原加盟で1960年9月14日に設立された産油国の組織。本部はオーストリアのウィーン。石油輸出国によって結成され、輸出国の利益を守ることを目的とする。1970年代には石油の価格決定権を国際石油資本より奪い、2度のオイルショックを引き起こした。1986年からは石油価格の決定権は自由市場へと移ったが、2007年においても全世界の原油生産量の42%、石油埋蔵量の3分の2を占め[2]、石油供給の鍵を握る存在である。


アル=ハラム・モスク占拠事件
Grand Mosque Seizure)は、1979年にサウジアラビアのメッカで、武装集団によってアル=ハラム・モスクが占拠された事件。当時の公式発表によれば、武装集団のうち死者75人、拘束170人で、鎮圧側の死者60人、負傷約200人である。この事件は、サウジアラビアの国家方針に少なからず影響を与えた。王家と政府(サウジアラビアでは一体であるが)は特殊部隊の育成をはじめとする国家安全保障体制の整備を急ぐ一方で、これ以降イスラム過激主義者を刺激しないようにする配慮が欠かせなくなった。西欧化や近代化の勢いがストップし、外国文化の流入をより厳しく止めるようになった。


勧善懲悪委員会
サウジアラビアにおける宗教警察の呼称の日本語訳。正式名称は「徳の奨励と悪徳の禁止の省」。これを意訳もしくは古文調で表現すると「勧善懲悪委員会」となる。現在の名称になったのは1940年であるが、組織の発足は1927年のイフワーンの反乱にまでさかのぼる。1912年ごろにアラビア半島に支配地域を確立して現在のサウジアラビアの基礎ができたころ、宗教的な取締りの役目はイフワーンが担っていたしかし、1926年にイフワーンがエジプトから来たメッカ巡礼団を異教徒として襲撃した事件が問題になり、襲撃事件がイラクやクウェートにまで越境して深刻な問題に発展したことから、イフワーンから襲撃の大義名分を奪う目的で国王の勅令により勧善懲悪委員会の前身となるムタワが設置された。

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アブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ
Abdullah bin Abdulaziz Al Saud、1924年4月1日 - は、第6代サウジアラビア国王(2005年8月1日 - )。初代サウジアラビア国王イブン・サウードの37人の息子の一人で、第5代サウジアラビア国王ファハドの異母弟。日本では「アブドラ国王」と表記されることが多い。ファハド国王が1995年に脳卒中で倒れて以来、王太子の地位にあったアブドゥッラーは事実上の摂政として、政治の実権を握ってきた。

ウサーマ・ビン・ラーディン
Usama bin Muhammad bin Awad bin Ladin, 1957年3月10日? - 2011年5月2日?)は、サウジアラビア出身のイスラム過激派テロリスト。アルカーイダの司令官(アミール)であり、アメリカ同時多発テロ事件をはじめとする数々のテロ事件の首謀者とされる。連邦捜査局(FBI)における最重要指名手配者の1人であった。身長194cm。体重約73kg。FBIの指名手配書によると肌はオリーブ色、髪と瞳はブラウンと表記されている。ウサーマ・ビン・ラーディンの父のムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンのハドラマウト地方の貧困家庭の出身で、第一次世界大戦前に家族と共に、イエメンからサウジアラビアのジッタに移住し、1930年に荷夫から身を興しサウジアラビアのジッタで建設業を起業した。ファイサル国王の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「サウジ・ビン・ラーディン・グループ(SBG)」を柱とするラーディン一族を形成した。

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イシュマエル
85歳の老齢になるまで子宝に恵まれなかったアブラハムの長男。アブラハムの妻サラの所有していたエジプト人の女奴隷ハガルとの子。カナンの地に移住したアブラハムは子宝に恵まれなかった。すでに75歳だったサラは自分には子は授からないと思って、若い女奴隷ハガルを連れてきて、夫に床入りを勧め、老齢のアブラハムが奇跡的に身ごもらせた。ユダヤ人とイスラームの伝統の間では、イシュマエルを全てのアラブ人の先祖と見ている。

サウード・ビン・アブドゥルアズィーズ
ラテン文字転写: Saud bin Abdulaziz Al Saud、1902年1月12日 - 1969年2月23日)は第2代サウジアラビア国王(1953年 - 1964年)。ワッハーブ派イマームとしてはサウード4世、サウジアラビア国王としてはサウード1世と呼ばれる。18歳よりアラブ各地の戦闘に参加し、1924年から1925年の父のヒジャーズ王国出兵時には名代としてリヤドを統治し、1930年、ナジュド知事に任命される。

ハーリド・ビン・アブドゥルアズィーズ
ラテン文字転写: Khalid bin Abdulaziz Al Saud、1912年 − 1982年6月13日)は第4代サウジアラビア国王。兄である先代国王ファイサルの暗殺のため1975年に即位し、以降1982年の病没まで在位した。なお、ワッハーブ派イマームとしてはハーリド2世と呼ばれる。

ハマド・アル=モンタシャリ
Hamad Al-Montashari、1982年6月22日-)は、サウジアラビア出身のサッカー選手。ポジションはDF(センターバック)。高い守備能力を持ち、攻撃参加も得意なサウジアラビア代表の守備の要。2005年はアル・イテハドのAFCチャンピオンズリーグ2連覇、サウジアラビアのワールドカップ・ドイツ大会出場に大きく貢献し、アジア年間最優秀選手賞に輝いた。

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ヤセル・アル・カフタニ
Yasser Al-Qahtani、1982年10月20日 - )はサウジアラビア出身の同国代表サッカー選手。ポジションはフォワード。現在はアル・アインFCに所属。「スナイパー」の異名をとるサウジアラビアのエースストライカー。2007年のアジアカップ2007では4ゴールを挙げ、高原直泰、ユニス・マフムードと共に得点王に輝いた。同年、アジア年間最優秀選手賞を受賞した。

サッターム・ビン・アブドゥルアズィーズ
Sattam bin Abdul Aziz、1941年 - )とはサウジアラビアの王族、リヤドの副知事。勧善懲悪委員会の委員を務めている。1941年に首都リヤドで初代アブドゥルアズィーズ王の王子として生まれる。アメリカのサンディエゴ大学に留学して経営学博士を取得。1968年に副知事と勧善懲悪委員会の委員に就任し現在にいたる。

ファイサル・ビン=ファハド
Prince Faisal Bin Fahd Bin Abdul Aziz, 1945年 - 1999年8月23日) はファハド国王の長男。労働大臣、青年福祉庁長官や多くのスポーツ関連団体のトップを務めた。カリフォルニア大学サンタバーバラ校で学び1971年に卒業した。同年にサウジアラビアサッカー連盟のチェアマンに就任したのを手始めに、1975年にはサウジアラビアオリンピック委員会委員長、1976年にはアラブ・ゲームズ連盟(Arab Games Federation)のチェアマンに就任。

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