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パキスタン・イスラム共和国
Islamic Republic of Pakistan
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■地理
国土の北部には世界の屋根カラコルム山脈とヒンズークシ山脈が連なり、K2(標高8611m)とナンガ・パルバット(標高8126m)がそびえる。国の中央を南北に走るのはスライマン山脈である。アフガニスタン国境はカイバル峠、インドとの国境には大インド砂漠(タール砂漠)が広がり、その南にはカッチ大湿地が分布する。北部高地からアラビア海(インド洋)に流れ出すインダス川は流域に主要な平野(北のパンジャブ、南のシンド)を形成する。
■南アジア
インド、スリランカ、ネパール、パキスタン、バングラデシュ、ブータン、モルディブの各国を含む地域。面積は 4,480,000 km2。しばしばインド亜大陸として言及される。
■カラコルム山脈
パキスタン・インド・中国の国境付近に横たわる山脈である。アジアの大きな山塊の一部としてヒマラヤ山脈などと同一のものとして語られることもあるが、独立した山脈である。氷河の多くが瓦礫に覆われている。カラコルムとはトルコ語で「黒い砂利」という意味である。
■ヒンドゥークシュ山脈
主にアフガニスタン国内を北東から南西に1200kmにわたって延びる山脈。一部はパキスタン西部にも広がる。クシュは山や山地を指すのでさらに山脈をつけるのは日本語の翻訳地名によくある慣例である。また、ヒンドゥークシュはペルシャ語で「インド人殺し」を意味する。
■カイバル峠
パキスタンとアフガニスタンの間にある峠。古来より文明の交差点として重要な役割を果たし、南アジア世界と中央ユーラシア世界を結ぶ交通の要衝であった。ハイバー峠、カイバー峠などとも表記される。標高は約1070メートル。パキスタンの北西端に位置しており、パキスタンのペシャワールに近い。インド世界はヒマラヤ山脈、スレイマン山脈、大インド砂漠(タール砂漠)などに囲まれた地域であり、外部からの侵入は容易ではない。
■ティリチミール
パキスタンにある山。標高は7690mで、ヒンドゥークシュ山脈の最高峰である。初登頂は、1950年にノルウェー隊により成し遂げられた。この山は、チトラルから望むことができ、中央市場からも容易に見える。またアフガニスタンからも見ることができる。地元の伝説によると、山の上に住むジン(精霊)、悪魔、魔女、妖精のために登ることができない山という。
■タール砂漠
Great Indian Dessertともいうは、インド・ラージャスターン州、パキスタン東部にある砂漠で、インダス川が砂漠の西に沿って流れ、流域はインダス文明が栄えた。アラビア海との間にカッチ大湿地がある。南北640km、東西360km、面積は273,000km2。年間降水量は300mm以下。点在するオアシスにジョードプル、ビーカーネール、ジャイサルメールなどの都市が発展している。 1970年代から石油の採掘が始まり、開発が進みつつある。
■アラビア海
インド洋北西部の海域で、アラビア半島とインドとの間にある海。最大深度はおよそ5,000メートルである。主な注ぎ込む川はインダス川がある。その北側にはオマーン湾があり、ホルムズ海峡を通じてペルシャ湾に繋がっている。西側にはアデン湾がある。アラビア海に面する国はインド、パキスタン、オマーン、イエメン、ソマリアである。
■カッチ大湿地
Great Rann of Kutchはインド北西部グジャラート州からパキスタンのシンド州インダス河口に及ぶ湿地で、広さ3万平方km。一部でパキスタンとの領土問題が残る。Rannとはヒンディー語で塩沼を意味する。Kutchはその場所の地名である。
■インダス川
インド亜大陸を流れる主要河川。 チベット自治区のマナサロワール湖の近くのチベット高原から始まり、ジャンムー・カシミール州のラダックを通る。その後、ギルギット・バルティスタン州を通り、パキスタンを南に抜け、パキスタンの港都市カラチの近くのアラビア海に注いでいる。
■サトレジ川
Sutlej River)はインダス川の主要支流である。中国チベット自治区のカイラス山付近(ラクシャスタル湖)に源を発して、インドのヒマチャル・プラデシュ州を通過し、インドとパキスタンの国境も流れてからパキスタンに入り、カーンプル(en:Khanpur)近くでインダス川に合流する。
<歴史>
■独立と第一次インド・パキスタン戦争
1947年8月14日、イギリスより独立を果たしてパキスタンが成立した。インドとは別に独立という形になり、ムスリム多住の地域を中心に構成された。その領域は、現在のパキスタンのほか、ベンガル地方の一部(現在のバングラデシュ。後述。)を含むものであった。また、国家体制としてはイギリス国王を元首に戴く英連邦王国だった。
■軍政への移行
この印パ戦争の最中、「建国の父」としてパキスタンを率いたジンナー総督が、1948年9月に死去した。さらに、リヤーカト・アリー・ハーン首相が1951年に暗殺されたことで、政局は不安定な状態へと向かっていた。こうした中、1958年には軍事クーデタによってアユーブ・ハーンが独裁政権を樹立した。
■バングラデシュの分離独立
1960年代後半になると、軍事独裁への批判などから反政府運動が高まった。その結果アユーブ・ハーンは失脚するが、引き続きヤヒヤー・ハーンが実権を握ったため軍政は続いた。1970年11月、東パキスタンを大規模なサイクロンが襲い、30〜50万人もの死者を出す大惨事となった。この際西パキスタンによる災害救助の動きが極めて鈍かったことから東パキスタンでは政権不信が爆発し、同年12月〜翌1971年1月に実施されたパキスタン初の普通選挙でムジブル・ラフマン率いるアワミ連盟が東パキスタンにて地滑り的圧勝を収め(169議席中167議席)、国会全体(313議席)でも単独過半数を制した。ところがヤヒヤー・ハーンがこの結果を認めない姿勢を見せたため、東パキスタン(ベンガル地方)で反政府運動が高まった。政府がこれに対し武力鎮圧を図ったことから、パキスタンは内戦状態に陥り(バングラデシュ独立戦争)、更にインドによる軍事介入を招いて第3次印パ戦争が勃発した。
■国家のイスラーム化
ヤヒヤー・ハーン政権の崩壊後、1973年に議院内閣制に立脚する憲法が採択され、パキスタンは民政へと移行した。第三次インド・パキスタン戦争における戦後処理も進み、インド・パキスタン間の交流も再開へと向かった。1976年には国交が回復された。しかし、パキスタンの民政は長く続かなかった。
■1977年
選挙で勝利したズルフィカール・ブットー率いる人民党に対して、選挙の不正を指摘した野党が大規模な抗議運動を展開した。これが暴動などの混乱を引き起こすと、ジアウル・ハック陸軍参謀長が軍事クーデタで政権を掌握し、自ら大統領に就任してしまった。まもなくブットーを処刑し、それから約10年間軍部独裁が続くことになった。
■1979年
パキスタンの北西に位置するアフガニスタンにソ連軍が侵攻した。1970年代には「デタント」と称される米ソ融和が進んでいたものの、ソ連軍侵攻によりアメリカ合衆国とソ連の関係は急激に悪化し、80年代のいわゆる「新冷戦」へと突入した。この際、アフガニスタンのソ連軍を牽制するため、合衆国はパキスタンの軍事政権に大規模な援助を与え続けた。
■1990年
パキスタンに核開発疑惑が浮上した。政府はこの疑惑を否定したが、原子力発電所建設をめぐりフランスと交渉を行い、さらに同国から原子力潜水艦を購入するなど、その疑惑が晴れることはなかった。
■1998年
インドで人民党(ヒンドゥー至上主義的な政党)が政権を奪取すると、そうした傾向は一層助長され、同政権下で核実験も行われた。これに対抗してパキスタンも核実験を行い、両国の対立は核戦争の懸念まで含む深刻なものとなった。こうした状況下で、1999年にパルヴェーズ・ムシャラフによって軍事クーデターが起こされ、パキスタンは再び軍事政権に戻ることになった。
■2001年
同時多発テロ事件を契機とする合衆国のアフガニスタン侵攻は、イスラーム化したパキスタンに難題を提示することになった。政教一致のイスラーム政権を標榜するパキスタンは、従来、「イスラーム原理主義」に立脚したタリバーン政権を承認する姿勢をとっていたが、インドへの対抗上、合衆国との関係悪化を避ける必要があり、合衆国の軍事侵攻を支持することを余儀なくされた。
<世界遺産>
■モヘンジョダロの遺跡
モヘンジョ=ダロの地名は現地の言葉で「死の丘」を意味するものであり、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代に生きたであろう得体の知れない死者が眠る墳丘として, 地元民に代々伝えられる禁忌の領域であった。
■タキシラ
パキスタン・パンジャーブ州にあるガンダーラ時代に始まる遺構である。その歴史は紀元前6世紀まで遡ることが可能であり、六派哲学の一つであるヴェーダーンタ学派、また、インドの仏教の中心の役割を果たしてきた。
■タフテ・バヒーの仏教遺跡
紀元前1世紀に遡ることができる仏教遺跡である。パキスタン・カイバル・パクトゥンクワ州の都市であるマルダーンから約15km、ペシャーワルからは北西80km離れた場所にある。
■タッターの文化財
ジャーマー・モスクを含むタッターの文化財は、1647年から1649年にかけて、シャー・ジャハーンの手によって建設され、釉薬が掛かったタイルを特色とする。タッターの中心地には、シャー・ジャハーンが建設したバードシャーヒー・モスクがある。このモスクは101のドームによって構成され、拡声器などの道具なしでもこのモスクの随所でイマームの声が届くように設計されている。
■ラホールの城塞
パキスタン・パンジャーブ州ラホールにある歴史的建造物。市街の北西に位置し、城内にはシーシュ・マハル、アーラムギーリー門、ノウラーカー・パビリオン、モーティー・マスジドといった有名な遺跡が存在する。
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シャーリーマール庭園
1641年にムガル帝国皇帝シャー・ジャハーンによって建設が開始され翌年完成した、ラホール市内にある歴史的建造物である。
■ロータス城塞
シェール・シャーによって建設された要塞。周囲は約4キロメートルに達し、パシュトゥーン建築とヒンドゥー建築の両様式が絶妙に融合した最初期の事例である。
■ムスリム
Muslim)は、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のことである。かつて、イスラム教はキリスト教よりはるかに多様な民族の間で信仰されていた。しかし、近代以降、西方のキリスト教会が世界中に布教を行いその分布を広げたため、それに比較すると、イスラム教を信仰する民族は限られている。
■パンジャーブ人
(Punjabis)とは、南アジアのパンジャーブを中心に生活している民族。パキスタン最大の民族でもある。1947年のインド・パキスタン分離独立の時にはインドからイスラム教、パキスタンからヒンドゥー教とシク教のパンジャーブ人が移動した。現在、パキスタンのほとんどのパンジャーブ人はイスラム教徒であるという。
■パシュトゥーン人
(Pashtun)は、アフガニスタン内で最大の人口を持つ民族。パフトゥーン(Pakhtun)、パターン(Pathan)、アフガン(アフガーン (Afghan))など様々な名で知られ、アフガニスタン(アフガーニスターン (Afghanistan))は、ペルシア語・ダリー語で「アフガン人(パシュトゥーン人)の国」という意味。
■ハザラ人
アフガニスタンに住むイラン系の民族で、人種的には、モンゴロイドに少しコーカソイドが混じる。宗教は、シーア派のイスラーム。アフガニスタン中部バーミヤーン周辺に分布。彼らが話すペルシャ語類似のダリ語にはモンゴル語起源の単語が多いため、13世紀、チンギス・ハーンに率いられてアフガニスタンにやってきたモンゴル人の末裔だと言われている。アフガニスタンに国を建てたことはないが、宗教的な関係から隣国のイランと友好関係にある。
■タジク人
タジキスタンを中心に、アフガニスタン北部、ウズベキスタン東部、中国領新疆ウイグル自治区の西部などに居住するイラン系民族を指す近現代的民族区分。
■バローチー語
主にイランやパキスタンなどにまたがるバローチスタン地方においてバローチ人(英語版)によって話される言語。イランには約150万人、パキスタンには約500万人、アフガニスタンには80万人ほどの話者がいる。
■シンド語
Sindhi languageは、パキスタンのシンド州の公用語。シンディー語、スィンディー語とも呼ばれる。パキスタンに1850万人、インドに280万人の話者がいて、インド憲法の第8付則に定められた指定言語に含まれている。パキスタンのシンド語話者のほとんどはシンド州にすんでいる。
■パンジャーブ語
Punjabi、は、インドとパキスタンにまたがるパンジャーブ地方の言語である。パンジャービー語とも称される。インド・ヨーロッパ語族のインド語派に属する。語順はSOV型である。
■サライキ語
Saraikiはインド語派に属する言語である。サライキ語は3つの短母音、7つの長母音、6つの鼻母音がある。
■ウルドゥー語
インド・ヨーロッパ語族インド語派に属する言語の一つ。ヒンドゥスターニー語の方言。パキスタン、インド北部を中心に、世界で20番目に多い6100万人の話者人口を持つ。パキスタンの国語になっている。表記には、ペルシア語のアラビア文字に特殊な音を表すためにいくつかの文字を加えたものである「ウルドゥー文字」を用いる。
■ドラヴィダ語族
Dravidianは、主にドラヴィダ人と総称される人々が使用する言語の語族 (ごぞく) であり、およそ26の言語が含まれる。ドラヴィダ語は、主として南インドとスリランカで話されているが、また、パキスタン、ネパール、そして東部及び中央インドの特定の地域でも話されている。 ドラヴィダ語族の話者人口は 2億人を越える。
■ブラーフーイー語
ブラーフイー語はドラヴィダ語族の北部ドラヴィダ語派に分類される言語の1つ。主に、パキスタンのバローチスターン州北東部および、アフガニスタンのカンダハール州南部に話者がいる。イランの一部にも少数の話者がいるといわれる。
■宗教
イスラム教97%(国教)、ヒンドゥー教1.5% 、キリスト教1.3%、ゾロアスター教0.2%など、ほかにアミニストも存在している。
■ヒンドゥー教徒
(Hindu)は、ヒンドゥー教の信者。人数はキリスト教徒、ムスリムにつづく。しかし、地域的には著しい偏りがあり、ヒンドゥー教徒の大半は南アジアに暮らしている。これはヒンドゥー教がインドに土着の信仰に由来するためであり、ヒンドゥー教と結びついたカースト制度がインドの外では受け入れられにくいためである。
■シク教徒
インドではヒンドゥー教徒に比べて、圧倒的に少数派だが、富裕層が多く社会的に活躍する人が多い。イギリスでは、ターバンをするため、バイクの運転の時、ヘルメットを免除されている。ヒンドゥー教が生来から帰依するものであるのに対して、シク教は改宗宗教であることから、異教徒やインド人以外に対しても布教が行われる。アメリカにも教徒がいるが、これは3HOという団体がアメリカで布教しているためと思われる。
■シク教
Sikhismは、16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。スィク教、スィック教、あるいはシーク教とも呼ぶ。シク(スィク)とはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒達はグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。
■ゾロアスター教
Zoroastrianismは、古代ペルシアを起源の地とする善悪二元論的な宗教である。『アヴェスター』を根本経典とする。ゾロアスター教の起源は古く、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが成立したときには、すでに王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であった。
■パキスタン地震
2005年10月8日午前8時50分(現地時間(UTC+5)、日本時間午後0時50分)にパキスタン北東部カシミール地方・インド国境近くで発生した地震である。マグニチュード7.6で、パキスタン、インドなど周辺で被害が広がった。パキスタンの首都イスラマバードでも被害がでている。
■ベーナズィール・ブットー
Benazir Bhuttoは、パキスタンの政治家、元首相(1953年6月21日 - 2007年12月27日)。イスラム諸国家における初の女性首相であり、後に暗殺された。植民地独立後のイスラム諸国家における初の女性首相である。父であるズルフィカール・アリー・ブットー元首相が設立したパキスタン人民党(PPP)の総裁(党首)となり、1988年と1993年の2度、首相に選出されているが、いずれも汚職などを理由に解任されている。2007年12月27日に、政界復帰を目指して、国会議員選挙運動中に暗殺された。
■ユースフ・ラザー・ギーラーニー
Makhdoom Syed Yousaf Raza Gillani、1952年6月9日 - は、パキスタンの政治家。首相、パキスタン人民党(PPP)の副総裁。日本の報道では ギラニ首相 と表記される場合が多い。ブットー暗殺後の2008年の国民議会総選挙で反ムシャラフ派の野党連合が多数を占めたため2008年3月24日、パキスタンの首相に選出され、翌25日に正式に就任した。
■ズルフィカール・アリー・ブットー
Zulfikar Ali Bhutto, 1928年1月5日 - 1979年4月4日は、パキスタンの政治家で、1971年から1973年まで大統領、1973年から1977年まで首相を務めた。パキスタン人民党(PPP)の創立者。娘にはパキスタン首相を務め2007年に暗殺されたベーナズィール・ブットーがいる。彼は社会主義的政策を進めたが、政権末期には批判が集中し、1977年にムハンマド・ジア=ウル=ハク将軍によるクーデターで失脚した。
■ムハンマド・ジア=ウル=ハク
Muhammad Zia-ul-Haq、1924年8月12日 - 1988年8月17日は、パキスタンの軍人、政治家、大統領。クーデターで権力を握り独裁的軍事政権を樹立した。大統領在任中はイスラム化を推し進めるとともに経済再建を行った。この間ソ連・アフガン戦争での抵抗運動へ直接関与し、これに伴う西側からの援助もあって経済は安定した。その後政治が不安定化する中で事故死した。
■パルヴェーズ・ムシャラフ
Pervez Musharraf、1943年8月11日 - は、パキスタンの軍人、政治家。パキスタン陸軍参謀総長・兼・統合参謀本部議長に在任中の1999年10月、時の首相だったナワーズ・シャリーフとの確執からクーデターを敢行し、行政長官(Chief Executive、最高行政官、首相に相当)として最高権力者となった(2001年までタラル大統領が国家元首として続投)。その後、パキスタンの大統領に就任した (2001年6月20日 - 2008年8月18日)。
■アブドゥル・カディール・カーン
Abdul Qadeer Khan、1936年4月1日 - は、パキスタンの技術者である。1970年代以降、核技術の地下ネットワーク(核闇市場)の構築に力を注ぎ、1998年にはパキスタンの原子爆弾実験を成功させたことから、パキスタンの「核開発の父」と呼ばれる。イラン・リビア・北朝鮮などに核兵器の製造技術を密売し、核拡散を進めた。カーンが構築した地下核ネットワークの全貌は明らかでなく、パキスタン政府の関与が疑われるが、パキスタン政府は関与を否定する。
■イブン・ジュバイル
(Ibn Jubayr, 1145年 - 1217年)は、12世紀から13世紀にかけて活躍したムスリムの旅行家。彼によって記された旅行記は、文学作品としてのみならず、当時の状況を知る史料としても重要な価値を有している。1145年、現在のスペインの都市バレンシアで生まれた。グラナダでイスラーム神学など諸学を修め、一時はムワッヒド朝に仕えた。1183年より第1回のメッカ巡礼を行い、その旅行記であり美文体で記された『リフラ』は、優れた紀行文としてのみならず、当時の十字軍、両シチリア王国などについての状況を知る貴重な史料としても評価されている。 |
パキスタン Pakistan
南アジアの国家で、イギリス連邦加盟国である。東はインド、北東は中華人民共和国、北西はアフガニスタン、西はイランと国境を接し、南はインド洋に面する。国土の中心部を流れるインダス川の流域に国民の80%以上が住み、人口の増加が著しい国の一つである。
■イスラマバード
slamabadは、パキスタンの首都。南アジア有数の世界都市であり、2008年にはイギリスのシンクタンク「グローバリゼーションと世界都市研究ネットワーク」によって第3級世界都市と評価された。1951年の人口は約9万4千人であったが、2009年には約120万人となり、パキスタンで10番目の人口の都市に成長した。
■ベナジル・ブット国際空港
Benazir Bhutto International Airportとは、パキスタンの首都、イスラマバードにある国際空港である。2008年6月20日、暗殺されたベナジル・ブット元首相にちなみ、旧名称のイスラマバード国際空港から改名された。
■カラチ
Karachiはパキスタン南部、アラビア海沿岸にあるパキスタン最大の都市。インダス川河口の西に位置する。シンド州の州都であり、世界有数のメガシティである。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は1,308万人であり、世界第20位である。
■ペシャーワル
Peshawarは、パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州の州都である。また、連邦直轄部族地域(トライバルエリア、FATA)の行政上の中心地である。人口122万人(2007年現在)。ペシャーワルは、カイバル峠からわずか50kmという地理的条件から古代より多くの民族の支配を受けてきた歴史を持つ。紀元前6世紀にはガンダーラの王国の支配を受けた。また、ハラッパーを中心とするインダス文明やバクトリア地方とを結ぶ結節点の役割を果たしてきた。
■ラホール国際空港
Lahore International Airportとは、パキスタン,ラホールにある国際空港である。パキスタン航空の2ヶ所ある本拠地空港の内の1ヶ所である。
■クエッタ国際空港
Quetta International Airportはパキスタン・イスラム共和国バローチスターン州の州都クエッタにある国際空港。
■ムルターン国際空港
(Multan International Airport)は、パキスタンのムルターンにある国際空港
■ジンナー国際空港
Jinnah International Airport)は、パキスタン・イスラム共和国シンド州の州都カラチにある国際空港で、パキスタン国際航空の本拠地ハブ空港である。空港名は独立パキスタンの初代総督であるムハンマド・アリー・ジンナーから付けられた。
■パキスタンの鉄道
元々、現在のインド・パキスタン・バングラデシュ・ミャンマー・スリランカはイギリス(大英帝国)の植民地インド帝国となっており、それらが独立する際に民族や宗教の違いで分裂(インド・パキスタン分離独立も参照)したため現在の形に成った経緯がある。このパキスタンの鉄道も、元々は隣国インドのそれと同様、イギリスの植民地経営の一環として建設された。
■ムルターン
Multanはパキスタン第6の都市にあたる。インダス川支流のチャナーブ川の東に位置し、カラーチーから陸路で966 km,地理的にはだいたいパキスタンの中心部にあり,道路,鉄道,空路などの集まる交通の要衝である。ムルターンは、南アジアの中でも最古の都市のひとつである。これまでの考古学調査からムルターンは、モヘンジョ・ダロあるいはハラッパーなどと同時期に興った都市の1つであると考えられている。
外務省:パキスタン・イスラム共和国
在パキスタン日本国大使館
■ラホール
Lahore、 は、パキスタン北部のパンジャーブ地方、ラーヴィー川の岸辺に位置するインドとの国境付近にある都市。面積1,772 km2、2010年の都市的地域の人口では711万人である。ムガル帝国の遺産を多く残しているため、「ムガルの庭園」「庭園都市」などと称される。
■アボッターバード
Abbottabad、は、パキスタン北部、カイバル・パクトゥンクワ州に位置する都市。同州アボッターバード県の県都である。市は北緯34度9分21秒東経73度13分10秒、首都イスラマバードの北東約50km、州都ペシャワールの東約150kmに位置する。学校が多く集まる街で、特に医学関係と軍関係の学校が多い。
■ラーワルピンディー
パキスタン北部パンジャーブ州北端にある都市。ポトワール高原にあり、イスラマバードの南約10kmに位置する。地元では短くピンディとも呼ぶ。ラーワルピンディーの北西35kmに世界遺産の仏教遺跡のタキシラがある。この地は5世紀にエフタルの進入を受け、その後は荒廃したままだった。10世紀にガズナ朝のマフムードがこの地に入るが脚光を浴びることは無かった。
■チトラル
パキスタン、北西辺境州の都市。チェトラル(Chetrar)とも表記される。チトラル地区の中心地で、クナール川(チトラル川)の西岸、ヒンドゥークシュ山脈の最高峰であるティリチミールの麓に位置する。チトラルへの最も容易なアクセスルートはアフガニスタンのジャラーラーバードからクナール渓谷を通るルートである。このルートは一年中利用でき、カブールへも直接アクセスできる。
■クエッタ
Quetta、は、パキスタンのバローチスターン州 の州都である。クエッタという地名は、「城砦」という意味のパシュトー語「kwatta」が語源といわれる。また,クエッタはメロンなどの豊かな産地で「パキスタンの果樹園」としても名高い。アフガニスタンとの国境に近い谷に位置し,北西のカンダハールと道路によって結ばれている。
■ファイサラーバード
Faisalabadは、パキスタンの都市である。 パンジャーブ州にあり、パキスタンの第3の都市である。 人口260万人(2006年)。
■パンジャーブ
Panjab、パンジャブとも)は、インド北西部からパキスタン北東部にまたがる地域。インド・パキスタンの分割の際に、インド側とパキスタン側に分割されている。パンジャーブの語源は、ペルシア語で「5つの水」を意味するパンジュ・アーブ (panj ab) で、インダス川とその4つの大きな支流、ジェーラム川、チナーブ川、ラーヴィー川、サトラジ川に由来する。
■カシミール
Kashmir、とは、インド、パキスタン、中国の国境付近に広がる、山岳地方の名称である。標高8000m級のカラコルム山脈があり、中国との国境には世界第2の高峰K2がそびえる。カシミール紛争を抱える地域である。パキスタンの実効支配地域は、ギルギット・バルティスタン州及びアザド・カシミールと呼ばれている。
■バローチスターン州
Balochistan、は、パキスタンの最大の面積を持つ州であり、歴史的なバルチスタンの大部分を域内に含む。州名のバローチスターンとは、「バローチ人(英語版)の居住する土地」という意味である。バローチスターン州はイラン高原の東端に位置し、西南アジア、中央アジア、南アジアの境にある。
■カイバル・パクトゥンクワ州
Khyber Pakhtunkhwa)は、パキスタンの州の1つ。州都はペシャーワル。同国の北西部にある。北西はアフガニスタンと国境をなす。イラン高原に位置しヒンドゥークシュ山脈が南アジアへと傾斜していく地形である。そのためカイバル峠がアフガニスタンに通じ、古来より南アジア世界と中央ユーラシア世界を結ぶ文明の交差点となってきた。
■シンド州
(Sindh)はパキスタン南部の州。人口4237万8千人(2008年推計)、面積140,914km。紀元前3千年頃インダス文明が始まり、シンドにも有名な遺跡モヘンジョダロがある。その後アーリア人の移住によりシンドも古代インド文化圏に入った。しかしその後もしばしば西方からの侵入・支配があり、それらが混合して文化が形成されていった。
■パンジャーブ州
Punjabはパキスタンの州。インドのパンジャーブ州とともにパンジャーブ地方に含まれる。人口は79,429,701人(2003年)、面積205344km2。州都はラホール。パンジャーブとはインダス川とその支流を指す「五つの川」を意味し、農業が盛んであるが、タール砂漠などの砂漠地帯もある。北部はヒマラヤへ連なる山地となる。
■キャラバンサライ
kervansarayは、ペルシア語で「隊商宿」の意味。隊商のための取り引きや宿泊施設を指す。バザールやスークに隣接して建てられた。アラビア語では、ハーン(khan)、カイサリーヤ、フンドゥクとも呼ばれた。
■デュアランド・ライン
デュアランド・ラインはおよそ2,640kmに及ぶパキスタンとアフガニスタンの国境線である。デュアランド・ラインは1893年にイギリス領インド帝国の外相であったモーティマー・デュアランド(Mortimer Durand)とアフガニスタン国王のアブドゥッラフマーン・ハーンの間で調印されたデュアランド・ライン条約の結果、生まれたもので、この地域での大英帝国の勢力圏を示すものであった。この地はアレクサンドロス3世の時代からパシュトゥーン人が生活していた地帯であった。7世紀、アラブ人が侵攻し、パシュトゥーン人にイスラム教をもたらした。
■エフタル
6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地のホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系の鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。
■国名
公式の英語表記は Islamic Republic of Pakistan。通称は Pakistan。国名「パキスタン」は、ペルシア語起源の言葉で「清浄な国」を意味するパーキスターン「パーク」がペルシア語で「清浄な」を意味、〜イスターンについてはこちら→「スターン」)に由来するとともに、パキスタンを構成する五大地域であるパンジャーブのP、カイバル・パクトゥンクワ州(旧・北西辺境州)に住むアフガーン人のA、カシミールのK、シンドのS、バローチスターンのTANを表すともされる。
1.面積:79.6万平方キロメートル(日本の約2倍)
2.人口:1億7,351万人(2010年)(年人口増加率2.05%)
3.首都:イスラマバード
4.民族:パンジャブ人、シンド人、パシュトゥーン人、バローチ人
5.言語:ウルドゥー語(国語)、英語(公用語)
6.識字率:57.0%(2007/2008年)
7.宗教:イスラム教(国教)
1947年 英領インドより独立、第1次印パ戦争
1948年 「建国の父」ジンナー死去
1952年 日パ国交樹立
1956年 「パキスタン・イスラム共和国憲法」(議院内閣制)公布・施行
1958年 アユーブ・カーン陸軍大将によるクーデター
アユーブ・カーン陸軍大将、大統領に就任
1962年 「パキスタン共和国憲法」(大統領制)公布・施行
1965年 第2次印パ戦争
1969年 アユーブ大統領辞任
ヤヒヤー陸軍参謀長、大統領に就任
1970年 初の総選挙実施
1971年 第3次印パ戦争(東パキスタンがバングラデシュとして分離独立)
Z・A・ブットー人民党(PPP)党首、大統領に就任
1973年 「パキスタン・イスラム共和国憲法」(議院内閣制)公布・施行
Z・A・ブットー大統領、首相に就任
1977年 総選挙実施
ハック陸軍参謀長によるクーデター
1978年 ハック陸軍参謀長、大統領に就任
1979年 ハック大統領、「イスラム化政策」開始
1985年 総選挙実施、ジュネージョ首相就任
「憲法第8次修正」成立
1988年 ハック大統領、ジュネージョ首相を解任
ハック大統領、軍用搭乗機の墜落事故によって死去
G・I・カーン上院議長、大統領に就任
総選挙実施、B・ブットー首相就任(第1次B・ブットー政権)
1990年 G・I・カーン大統領、B・ブットー首相を解任
総選挙実施、シャリフ首相就任(第1次シャリフ政権)
1993年 G・I・カーン大統領、シャリフ首相を解任
総選挙実施、B・ブットー首相就任(第2次ブットー政権)
1996年 レガーリ大統領、B・ブットー首相を解任
1997年 総選挙実施、シャリフ首相就任(第2次シャリフ政権)
「憲法第13次修正」成立
1998年 パキスタン核実験
1999年 カルギル紛争
ムシャラフ陸軍参謀総長によるクーデター
ムシャラフ陸軍参謀長、行政長官に就任
2002年 総選挙実施
2007年 大統領選挙実施、ムシャラフ大統領再選
非常事態宣言発出
2008年 総選挙実施、ギラーニ内閣発足
ムシャラフ大統領辞任、ザルダリ大統領就任
■主要産業:農業、繊維産業
■主要貿易品目(1)輸出 繊維製品、農産品、食料品(2)輸入 石油製品、原油、機械類、鉄金属、食料品、パーム油
■パキスタン・ルピー
Pakistani rupee)は、パキスタンで現在使われている通貨。単位記号は?あるいはRs。ISOコードの略称はPKR。また補助単位としてパイサ(Paisa、略称はp)が使われており、1Rs=100p。また、1Rs=約1円。パキスタン国立銀行(State Bank of Pakistan)が発行する。
■パキスタン人民党
Pakistan People's Partyは、パキスタンの中道左派政党。略称PPP。1967年、ズルフィカール・アリー・ブットー(後に大統領・首相)を中心として創設された。その後イスラーム圏初の女性首相を経験したベーナズィール・ブットー(2007年暗殺)を党首とした。
■経済
IMFの統計によると、2010年のパキスタンのGDPは1747億ドルであり、静岡県よりやや小さい経済規模である。 主要産業は、農業や綿工業。特にパンジャーブ地方で小麦の生産が盛んで世界生産量第4位である。輸出品としては米がトップで輸出の11.2%を占め、ついで綿布、ニット、ベッドウェア、綿糸、既製服といった繊維製品が続く。
■国際連合アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション
United Nations Good Offices Mission in Afghanistan and Pakistan,UNGOMAP)は国際連合平和維持活動(PKO)の一つ。和平協定に基づくアフガニスタン駐留ソ連軍の撤退の検証や難民の帰還支援などを任務とする。
■ワジリスタン紛争
有志連合諸国のアフガニスタン侵攻以降に、パキスタン北西部のワズィーリスターン(ワジリスタン)を含む連邦直轄部族地域および北西辺境州やアフガニスタン・パキスタン国境のデュアランド・ライン地帯で発生した、パキスタン政府及びアメリカ合衆国を始めとする不朽の自由作戦参加の有志連合諸国と、ワジリスタンに潜伏するターリバーンやアル・カーイダやそれを支持する現地部族勢力のパキスタン・ターリバーン運動等との戦いの総称。
■人口
2005年に1億6千万人を超えた。2003年以降の人口増加が顕著なのは、戦闘が続く隣国アフガニスタン他からの移民が急増したためと見られる。その数は累計で凡そ600万人と言われる。また出生率も高く、国連の推計では2050年には約3億5千万人にまで増加し、インドネシア(2050年に約2億9千万人と推定)を抜き、中国・インド・米国に次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されている。
■民族構成
パンジャーブ人56%(60%とも)、パシュトゥーン人16%(13%とも)、シンド人13%、 バローチー人4%など
■文化
著名な遺跡として世界遺産になっているモヘンジョ・ダロ遺跡とクシャーナ朝時代に繁栄したタキシラの都市遺跡がある。ほかにインダス文明の遺跡として標式遺跡となったハラッパー遺跡がある。古典音楽は北インドと同じヒンドゥースターニー音楽。イスラム神秘主義の宗教歌謡カッワーリー(qawwali)の大歌手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは、パンジャーブ地方で生まれている。
■ヒンドゥースターニー音楽
その源流は13世紀から15世紀に高い水準の文化を誇った、デカン高原のヴィジャヤナガル王朝の古典音楽であり、南インド古典音楽もこれに端を発している。13世紀のイスラム王朝のデリー宮廷では、トルコ人とインド人の混血の宮廷詩人ハザラト・アミール・フスロウなどの記述によれば、ペルシアや中央アジアの音楽も演奏されていた。
■ムハンマド・アリー・ジンナー
Muhammad Ali Jinnah, 1876年12月25日 - 1948年9月11日)は、インド・ムスリム連盟の指導者、独立パキスタンの初代総督。1896年にリンカーンズ・イン法律協会に入った。そこで弁護士資格を取得した。19歳のインド人弁護士の誕生は当時最年少の記録であった。ほぼ同じころ、ジンナーは政治への関心を持ち始めた。今日では、ジャラール・アーイシャの著作、あるいは約30年間(1988年まで、30ページ分)の出版が、封印されていたモウラーナー・アーザードの"India Wins Freedom"(Orient Longman, 1957)が公刊され、ジンナーに対する評価は見直されてきた。
■ヌスラト・ファテー・アリー・ハーン
Nusrat Fateh Ali Khan, 1948年10月13日 − 1997年8月16日は世界的に著名なパキスタンのミュージシャンで、イスラム教神秘主義スーフィズムにおける儀礼音楽カッワーリーの歌い手である。ヌスラトは、卓越したカッワーリ演奏家であるウスタード・ファテー・アリー・ハーンを父として 1948 年にパキスタン・パンジャーブ州・ファイサラーバードに生まれた。ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンは西洋の多数の聴衆の前で公演した南アジアで最初の歌手のひとりでもある。 ピーター・ガブリエルとの交友とともに、マーティン・スコセッシ監督の映画『最後の誘惑』のサウンドトラック『パッション』(1988年)を含むいくつかのアルバムやサウンドトラックに参加し、これらは西洋や日本での知名度を上げるのに役立った。
■アースィフ・アリー・ザルダーリー
Asif Ali Zardari, 1955年7月22日 - は、パキスタンの政治家。大統領、パキスタン人民党の共同総裁。パキスタン初の女性首相で暗殺されたベーナズィール・ブットーの夫。シンド州の有力政治家ハーキム・アリー・ザルダーリーの息子。同じく有力政治家ブットー家との結婚は一族同士の見合い結婚であったとされる。ザルダーリー家はシーア派の有力一族で、ザルダーリーはカラチに生まれ、パキスタンでも最も裕福な家庭の1つで育った。
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