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ミャンマー連邦
Union of Myanmar

アジア

■地理
ミャンマーは北緯10度から28度の間に位置し、南北に伸びる長い国土が特徴である。陸では中国・タイ・ラオス・インド・バングラデシュと国境を接し、境界線の総延長距離は約4,600kmに達する。 海側はマルタバン湾・ベンガル湾・インド洋と面しており、海岸線の全長は約2,000kmである。


インドシナ半島
中国の南、インド亜大陸の東にある東南アジアの半島である。この地域はインドシナ (仏語:Indochine) と呼ばれ、インド (indo) と中国 (Chine) に挟まれている地理的特徴からフランスによって名付けられた。具体的には、ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国に加え、タイとミャンマー両国のマレー半島の部分を除く地域がインドシナと呼ばれる。

フーコン渓谷
フーコン渓谷とは、ミャンマー(旧ビルマ)北部、カチン州にある渓谷である。チンドウィン川の源となっている。フーコン渓谷はコハクや金の産地としても知られる。2006年にはここで産出されたコハクから、これまでで最古のハチの化石が発見された。Melittosphex burmensis との学名が与えられたこのハチは白亜紀中期、約 1億年前のものとされている。コハクについては古くから知られており、その採掘の歴史は長い。一方、金が注目されるようになったのは比較的最近であり、現在のフーコン渓谷は一種の「ゴールド・ラッシュ」である。

アンダマン海
Andaman Seaとはインド洋の縁海で、マレー半島とアンダマン諸島、ニコバル諸島との間の海。 約1200kmの海岸線、650kmの東西の幅、797,700km2の海面、平均870メートルの深さを有する。最深部は3,777メートル。風光明媚なことで知られ、周辺の島々や海岸にはリゾート地が建設され、マリン・スポーツが盛んである。著名なリゾート地としては、南東部にプーケット島やランカウイ島がある。

マルダバン湾
(Gulf of Martaban)は、ミャンマー南部のマルダバン近郊のアンダマン海に位置する湾。サルウィン川、シッタン川が同湾に注いでいる。

ベンガル湾
(Bay of Bengal) は、インド洋の北東部分の湾。ベンガル湾はほぼ三角形で、南方に開けた形となっている。東にマレー半島、西にインド亜大陸、北に名前の元となったインドの西ベンガル州およびバングラデシュに面している。

エーヤワディー川
(Ayeyarwady)は、ミャンマー中央を流れる川。ミャンマーで最も重要な川であり、パテイン他多くの河川港を擁する水運の要である。ヒマラヤ山脈の南端を源泉として、ミャンマーを北から南に縦断し、9本に分かれて広大なデルタ地帯を形作りマルタバン湾に流れ込む。鉄道や道路が整備される前の植民地時代には、「マンダレーへの道」と呼ばれていた。

チンドウィン川
(Chindwin Myit)は、ミャンマー(旧ビルマ)の川で、エーヤワディー川(旧イラワジ川)の最大の支流である。フーコン渓谷に発し、マンダレー近郊でエーヤワディー川に合流する。その流域の多くが森林に覆われた山岳地帯で、居住環境ではないことや、インドとの国境に近く軍事的緊張の高い地域もあるため、知られていることは少ない。

サルウィン川
Salweenはチベットを源流とし、中国雲南省を流れ、ミャンマー(ビルマ)北東部のシャン台地にあるカヤー州・カレン州を南下してモールメイン湾(アンダマン海)に注ぐ川。一部ミャンマーとタイの国境を成す。長さは2,400kmにおよぶ。

ポッパ山
(Mount Popa)は、ミャンマーのマンダレー管区にある玄武岩の火山(標高1518m)で、バガン南東の平原に位置する。 寄生火山の岩頸であるタウン・カラット(標高737m)にはミャンマーの土着信仰である精霊ナッ信仰の総本山があり、多くの参拝客を集める。登山道には多くのみやげ物店があり、また猿が多く生息している。

ラムリー島
ベンガル湾の北東部沿岸にあるミャンマー領の島である。面積ではミャンマー最大の島にあたる。第二次世界大戦中には、日本軍によって一時占領された。大戦末期の1945年1月に、イギリス軍を中心とした連合国軍がマタドール作戦で奪還のため上陸、ラムリー島の戦いが発生した。21世紀初頭になって、中華人民共和国のエネルギー資源計画にもとづき、大規模な開発が始まった。


黄金の三角地帯
東南アジアのタイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯で、ミャンマー東部シャン州に属する。別名「ゴールデン・トライアングル (Golden Triangle)」といい、アフガニスタン・パキスタン・イラン国境付近の黄金の三日月地帯(Golden Crescent) と並ぶ世界最大の麻薬・覚醒剤密造地帯であった。


バガン(パガン)の考古地域と建造物群
カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつと称されており、イラワジ川中流域の東岸の平野部一帯に、大小さまざまな仏教遺跡が林立している。バガンとは広くこの遺跡群の存在する地域を指し、ミャンマー屈指の仏教聖地である。


アヴァ王朝
Ava Kingdomは、14世紀半ばから16世紀半ばにかけて現在のミャンマー北部(上ビルマ)に存在したシャン族の国家(1364年 - 1555年)。シャン族がビルマに建てた王朝の中では最大のものであるが、実質的に王朝を支えていたのはビルマ族であった。

パガン王朝
現在のミャンマーに存在した、ビルマ族最初の王朝である。ビルマ語による年代記(ビルマ語王統史)での雅称はアリー・マッダナ・プーラ(征敵の都)である。首都はパガン。「パガン」とは「ピュー族の集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛したものと考えられている。

コンバウン王朝
Konbaung Dynastyは後にミャンマーとなるビルマ最後の王朝(1752年 - 1886年)。第二次タウングー王朝が衰退すると、下ビルマのモン族は上ビルマに侵入、モーソーボ(現在のシュエボー)の首長アウンゼーヤがこれを撃退してアラウンパヤーと名乗った。

タウングー王朝
14世紀頃から1754年まで存在したビルマ人の王朝。タウングーは先行のパガン王朝の時代は小さな村に過ぎなかったが、パガン王朝の首都パガンが陥落すると、ビルマ難民が流れこみ始め、その後も次々とシャン族の王朝が割拠したので、その圧迫を逃れるため、次々と難民が流れ込んできた。タウングー王朝の最初の王、ティンカバー(在位・1347年 - 1358年)はこの地に王宮を建設し、パガン陥落以来、ビルマ人の王朝を再興した。


精霊ナッ信仰
ミャンマーの民間信仰・土着信仰である。同地においては仏教と並存している。4か所の聖地をもつが、そのうちバガン南東の平原にあるポッパ山を総本山とする。「ナッ神」を信仰する。歴史は古く、モン族あるいはビルマ族が同地に王国を形成する以前から存在した。


ビルマ族
ミャンマー人口の約7割を占める民族。人種はモンゴロイドに属す。チベット・ビルマ語族に属するビルマ語を話し、おおよそ9割が上座部仏教を信仰する。主にイラワジ川中流以南、シッタン川流域、ミャンマー海岸部に居住し、農業を営んでいる。

シャン族
インドシナ半島に広がっているタイ系諸族の一つで、タイ国のタイ人を構成する小タイ族(シャム人)などと同系の民族である。一般にはミャンマーのシャン州の平地に住んでいるシャン人をさしている。

モン族
Monとは東南アジアに住む民族の一つ。古くから東南アジアに居住しており、ハリプンチャイ王国を建てたことで有名で、後にビルマのペグーに移り住んだのでペグー人とも言う。ラーマンあるいはタラインと呼ばれることもある。その後一部が中国の雲南から南下してきたタイ族やビルマ人などと混血した。現在80万人程度がモン族を自称している。

カレン族
カレン族(英: Karen、中: 克倫族、ビルマ語ではカイン)は、タイ北部・西部から、ミャンマー東部・南部にかけて居住する民族である。広義にはカレンニー(赤カレン)などのカレン系諸族すべてを含み、狭義にはスゴー・カレンとポー・カレンを中心とする白カレン・グループが主なカレン族と見なされる。伝統的には半農半狩猟である。

カレンニー族
Karenniは、カレン族の分派集団。カレンニー族の「ニー」とはビルマ語で「赤」を意味をするので、この呼称は総じて「赤カレン族」という意味になる。カレンニー族が赤カレン族とされるのに対し、スゴーやポーなどは白カレン族に分類される。カレンニーの母集団がカヤー族であるため、カレンニーとカヤーは同義に扱われることがある。

タロン族
ミャンマーの少数民族。成人しても身長が110〜130センチメートルほどであり、世界で最も小さい種族といわれ有名である。険しい山岳地帯で狩猟や雑穀の栽培などをして生活していた。大地震による被災が原因で人口が急減、それを補うために同族内婚姻を繰り返したため、生まれた子供の多くが早死した。身体的特徴を残した純粋なタロン族は現在、男性一人(ダウィ)・女性三人の兄弟しか残っておらず、絶滅は避けられないとの見方が強い。

チンプオ族
またはカチン族(Kachin)は主にミャンマーのカチン州、中華人民共和国雲南省に住む民族。水田耕作、焼畑耕作を主とするミャンマーのカチン州およびシャン州、中国雲南省、インドのアッサム州などに分布するチベット・ビルマ語族。

コーカン族
Kokang people、はミャンマー(ビルマ)の民族集団。中国から移住した漢民族(華人)で、中国語北方方言の西南官話を話し、主にミャンマー東北部のシャン州コーカン地区に居住する。なお、コーカン族にはヤンゴンなど他の都市部や地域に住む華人は含まれていない。


パーリ語
多量の文献を持つ南伝仏教経典(原始仏典)で主に使用される言語。バーリ語とも。なお日本における仏教関連の辞典や書物では pl などと略称される。中期インドにおけるアーリヤ系言語、プラークリットを代表する言語である。使用歴は長く、パーリ語で書かれた偈の歴史は紀元前3世紀ころまで遡る。さらに、パーリ語で書かれた経典の散文やその注釈は、5-6世紀以後にまで及び、その後も今日までスリランカ(セイロン島)を中心として、パーリ語を使用した新しい文献がある。


上座部仏教
Theravada Buddhismは、仏教の分類のひとつ。上座仏教、テーラワーダ仏教、テーラヴァーダ仏教、南伝仏教、小乗仏教とも呼ばれる。ただし、小乗仏教の呼称は大乗仏教側から見た差別的意味を含むとされる。仏教を二つに大別すると、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国やチベット、日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部と大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいると言われるものが、現在の上座部仏教である。


<歴史>
遺跡からビルマ民族の存在が確実視されるのはパガン朝(11世紀 - 13世紀)以降である。ビルマ族は10世紀以前にはまだエーヤワディー川(イラワジ川)流域に姿を現していなかった。ビルマ族の起源は中国青海省付近に住んでいたチベット系の氐族と考えられている。

■ビルマ王朝
ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人(ドイツ語版)が驃国(ドイツ語版)を建国した。 832年、驃国は南詔に滅ぼされ、モン族とピュー族は南詔へ連れ去られた為、エーヤーワディー平原(ミャンマー)は無人の地となり、200年間に渡って王朝が無かった。

■ビルマ族の南下
1044年、南詔支配下にあったビルマ族がエーヤーワディー平原へ侵入してパガン王朝を樹立した。パガンは最初小さな城市であった。1057年、パガン王朝によってタトゥン王国が滅亡した。1752年、アラウンパヤー王が即位し、モン族・シャン族を破ってビルマを再統一した。これがコンバウン王朝である。

■イギリス統治時代
コンバウン朝ビルマは、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする英緬戦争で敗れて、1885年に滅亡する。1886年に、イギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となる。ティーボー・ミン国王と王の家族はインドのゴア州ムンバイの南に近いラトナギリに配流され、その地で死亡した。1937年、インドから独立してイギリス連邦内の自治領となった。1942年、アウンサンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し(ビルマ戦役の始まり)、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国された。

■独立
1948年にイギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立するが、直前の1947年7月19日にアウンサンは暗殺された。初代首相には、アウンサンを継いでAFPFL(パサパラ)を率いるウー・ヌが就任した。独立直後からカレン人が独立闘争を行い、ビルマ共産党は政権を離脱するなど、政権は当初から不安定な状態にあった。

■軍事政権時代
ネ・ウィン将軍は1958年から1960年の選挙管理内閣期を経て、1962年に軍事クーデターを起こす。 ビルマ社会主義計画党(BSPP、マ・サ・ラ)の最高指導者となり、ビルマ式社会主義を標榜した。1974年にビルマ連邦社会主義共和国憲法が制定され、ネ・ウィンは大統領に就任。1989年6月18日に軍政側はミャンマー連邦への国名の改名を行った。1990年5月の総選挙ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。

■選挙と民主化
前首相の死去に伴い、軍出身のテイン・セインが2007年10月首相に就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始される。 2008年新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになる。2011年3月テイン・セインはミャンマー大統領に就任。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。


スー・チー氏、国政選挙への出馬表明
2011/11/30  ミャンマー・ネピドー(CNN) ミャンマー(ビルマ)の民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーさんは30日、来年に予定されている上下両院の補欠選挙に立候補する意向を正式に表明した。


キン・ニュン
Khin Nyunt、1939年10月11日 - は、ミャンマーの軍人。階級は大将。軍事政権の序列3位として国家平和発展評議会(SPDC)第1書記および首相を務めた。シャン州において長らく対立関係にあったビルマ共産党が内部クーデターで崩壊後、ワ州連合軍など分裂した後身の私兵組織と次々に休戦協定を結んだ。2002年9月、大将に昇格。2003年8月から首相を務め、穏健派・国際協調派で柔軟派かつ軍政きっての切れ者として知られた。

チョウ・ディン
Kyaw Din、1900年6月 - 没年不詳は、ビルマ出身の元サッカー指導者。名をモン・チョー・ディンとする資料もある。イギリスの実質支配下にあったビルマにおいて、幼少期からサッカーに親しんでいたとされる。大正時代に、日本の東京高等工業学校に留学した。この頃、早稲田大学のグラウンドで陸上競技の練習をしている最中に、偶然早稲田高等学院サッカー部の練習を見かけて指導を始めた。彼の指導によって、早稲田高等学院は全国高等学校ア式蹴球大会(インターハイ)2連覇を成し遂げた。

ウー・ヌ
U Nu, 1907年5月25日 − 1995年2月14日は、20世紀のビルマにおける主要なナショナリストかつ政治家。1907年にワケマで生まれ、1929年にラングーン大学卒業。翌年にタキン党に加入、日本軍のビルマ占領後、1943年にバー・モウ政権下で外相・宣伝相に就任。戦後は反ファシスト人民自由連盟、通称(AFPFL)の副総裁。制憲議会議長となる。

アラウンパヤー
(1711年 - 1760年5月15日、在位1752年 - 1760年)はコンバウン王朝の創設者。あるイギリス人の報告によれば当時としては大柄な180cm近くの体を持ち、天然痘の痕が顔中に残っていたといい、加えて、1760年アユタヤ(現在のタイ王国)遠征時の道中で地元の住民に加えた残虐行為がかさなり、タイ族のみならずビルマ人や配下の官吏までおびえ上がらせたという。

タン・シュエ
Than Shwe、1933年2月2日 - は、ミャンマーの軍人、政治家。階級は最高の上級大将。同国の国家元首、前国家平和発展評議会(SPDC)議長などを歴任した。1992年4月23日より同国の軍事政権トップとして独裁的地位にあり、60歳の定年に達した時、終身国家元首に就任することが決定した。

ネ・ウィン
1911年5月14日 - 2002年12月5日は、ビルマ(現ミャンマー)の政治家、軍人。本名:シュ・マウン。独立運動の功労者であり、独立後、軍参謀総長、革命評議会議長、大統領、ビルマ社会主義計画党 (BSPP) 議長を務めたが独裁者として非難された。日本名は「高杉晋」。

アノーヤター
(1014年 - 1077年、在位1044年 - 1077年)はビルマ族の最初の王朝であるパガン王朝の最初の王とされる人物。伝説によればソーヤハンと呼ばれるビルマ人の王がいたが、これを暗殺し王に就いたチャウンビューという男がいたという。アノーヤターはチャウンビューの息子とされる。アノーヤターは、ソーヤハンの息子がチャウンビューを殺し、王位に就いたのを見て、逆にこれを暗殺し王位に就いたという。

チャンシッター
1041年 - 1113年、在位:1084年 - 1113年)は、パガン王朝の第3代の国王。パガンに最盛期をもたらした王として評価されている。日本語ではチャンジッタとも表記される。名前の語源はチャン・シッ・ター(探索から生き延びた者)、あるいは下級役人を表す単語「カラン」を短縮化した「チャン」と兵士を意味する「シッター」の二語を合成したと考えられている。

タビンシュエーティー
1517年 - 1551年、在位:1531年 - 1551年)はビルマ人の王朝、タウングー王朝の王の一人。父王・ミンチーニョが1503年に手に入れていたチャウセーの土地がタビンシュエーティーの即位までに国土を潤わしていたため、タビンシュエーティーは即位後その力を存分に発揮し、ビルマ人の代表的な王の一人となった。

クン・サ
中国名:張奇夫, 1934年2月17日 - 2007年10月26日)はタイ・ミャンマー国境の少数民族シャン族開放組織モン・タイ軍の指導者であり、黄金の三角地帯を作り上げた麻薬王である。クン・サ本人の経歴は明らかでないが、成人後、国民党残党と袂を分かち、アメリカ合衆国の支援のもとシャン族・モン族の独立運動を大義名分とする兵力2000のモン・タイ軍(MTA)を結成。この期間に麻薬ビジネスを大々的に展開し、黄金の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)と呼ばれる世界最大の麻薬密造地帯を形成した。

ミャンマー Myanmar
東南アジアに位置する共和制国家。1989年までの名称はビルマだった。インドシナ半島西部に位置し、北東に中華人民共和国、東にラオス、南東にタイ、西にバングラデシュ、北西にインドと国境を接する。首都はネピドー(旧首都はヤンゴン)。

ミャンマー南部の地は古くからモン族が住み、都市国家を形成して海上交易も行っていた。北部では7世紀にピュー人が驃国を建国したが、モン族とピュー族の城砦は9世紀に南詔に滅ぼされ、南詔支配下にあったチベット・ビルマ語系のビルマ族が無人の地となったエーヤーワディー平原(ミャンマー)に侵入してパガン王朝を樹立した。

ネピドー
ヤンゴンに代わり建設されたミャンマーの首都。2003年夏より、ピンマナの西数キロの軍用地だった場所にミャンマーの新行政首都が建設された。ミャンマー国家平和発展評議会は省庁・政府機関のヤンゴンからピンマナへの移転を2005年11月7日より開始し、トラックによる大移動が行われた。2006年初頭にはほとんどの政府庁舎がそろうことになっていたが、学校の不足から政府職員の家族はヤンゴンに残留したり往復したりする者もいる。

ヤンゴン
1983年の統計によると人口は 2,458,712 人を数え、国内最大都市である。1989年にラングーン(Rangoon)から改称された。名前は「戦いの終わり」を意味する。エーヤワディー川のデルタ地帯に位置している。

マンダレー
ミャンマー(以前のビルマ)でヤンゴンに次ぐ第2の都市であり、人口は 927,000 人(2005年人口調査)、都市圏人口は 2,5000,000 人[要出典]に上る。マンダレーは、ミャンマーにおける仏教文化と信仰の中心であり、無数の僧院と700を超えるパゴダがある。マンダレー丘のふもとには、世界最大の本としても知られる、世界の公式「仏典」がクドードーパゴダの中にある。

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サウン・ガウ
サウン・ガウ(saung-gauk)とは、ビルマ(ミャンマー)で用いられる民族楽器。単にサウン(saung)とも呼ばれる。「曲がった琴」を意味しており、ボートのような湾曲した形状に特徴がある。


外務省:ミャンマー連邦共和国
在ミャンマー日本国大使館


マンダレー国際空港
Mandalay International Airportはミャンマー連邦共和国マンダレー市の南方約40kmにある国際空港。

ヤンゴン国際空港
Yangon International Airportは、ミャンマーの旧首都、ヤンゴンにある国際空港。


泰緬鉄道
泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、第二次世界大戦中にタイとビルマ(ミャンマー)を結んでいた鉄道である。日本軍によって建設・運行されたが、戦後連合国軍によって部分的に撤去され、現在はナム・トク(Nam Tok)で途切れている。存置部分は、タイ国鉄南部線の支線、ナム・トク線として運行されている。深い自然の中を通っているため風光明媚であり、「チョンカイの切り通し」や「タム・クラセー桟道橋」(アルヒル桟道橋)など見所も多いため、観光客に人気の路線となっている。


パテイン
旧称はバセイン(Bassein)。エーヤワディ管区の州都に定められており、エーヤワディー川の支流であるパテイン川のほとりに位置する。ヤンゴンに次ぐ、ミャンマー第二の港湾都市に位置付けられている。

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ダウェイ
Daweiは、ミャンマー南東部の都市で、タニンダーリ管区の中心都市。以前はタヴォイ(Tavoy)と呼ばれた。首都ヤンゴンから南におよそ600km、ダウェイ川の北岸に位置する。近郊のマウンマガン村にはミャンマーでも人気のビーチがあり、植民地時代にはイギリス人の避暑地となっていた。

バゴー
Bagoは、ミャンマー(ビルマ)の都市。バゴー管区の中心都市。以前はペグーと称された。人口は約22万人。言い伝えによると、西暦573年にタトーン(英語版)からやってきた二人の王女がバゴーを創設した。年代記に、8年間の説法の後、仏陀が弟子と共に、東南アジア諸国を回ったと記述されていた。

モーラミャイン
(Mawlamyaing)は、ミャンマーの都市。モン州の州都。人口は約30万人で、ミャンマー第三の規模を有する。アンダマン海のモッタマ湾(マルダバン湾)に近い。サルウィン川沿岸にあり、対岸のモッタマ(マルダバン)へはフェリーが運航している。

ミッチーナー
ミッチーナー (Myitkyina)は、ミャンマー北部のカチン州の州都である。エーヤワディー川の河畔にある。人口約14万人。第二次世界大戦中、日本ではミイトキーナと呼ばれた。ビルマの戦いの戦場となったことで知られる。

ピンマナ
Pyinmana) は、ミャンマーのマンダレー管区にある都市。同管区の砂糖精製の中心地で、材木取引の町。人口10万人(2006年)。国土のほぼ中心に位置し、ミャンマーの最大都市であるヤンゴンの約320キロメートル北にある。ピンマナはかつて太平洋戦争中、日本軍に支援されたビルマ独立軍(後にビルマ国軍に改称)が基地をおき、士官の養成や練兵を行っていた地である。

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バガン
Baganはミャンマー・マンダレー管区にある地名で、旧名はパガン。カンボジアのアンコール・ワット、インドネシアのボロブドゥールとともに、世界三大仏教遺跡のひとつと称されており、イラワジ川中流域の東岸の平野部一帯に、大小さまざまな仏教遺跡が林立している。

タニンダーリ管区
Tanintharyi Division、旧名テナセリムは、ミャンマーの行政区画である。それはクラ地峡上での、国土の細長い南部をおおっている。それは、西にアンダマン海と、東にタイと接している。北はモン州である。区都はダウェイ(旧称: タヴォイ)で、他の主要都市はベイ及びタイとの国境の町カウタウン(旧称「ビクトリア・ポイント」)である。


サイクロン・ナルギス
(Cyclone Nargis)は、2008年4月27日にベンガル湾中央部で発生した、発達したサイクロンである。最も勢力の大きい時点でのシンプソン・スケールはカテゴリー4だった。5月2日にミャンマーのエーヤワディー川デルタに上陸し甚大な被害をもたらし、5月3日にミャンマーとタイの国境付近で消滅した。


ラングーン事件
1983年にビルマのラングーンで発生したテロ事件。「ラングーン爆破テロ事件」、「アウン・サン廟爆破事件」などとも呼ばれる。事件は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の工作員により、ビルマを訪問中であった大韓民国(韓国)の全斗煥大統領一行の暗殺を狙って引き起こされた。

ビルマ国民軍
Burma National Army, BNAは、第二次世界大戦中に、日本の指導下で「ビルマ国」の国軍として編成された軍事組織である。ビルマの戦いにおいて日本軍に協力することが期待されたが、枢軸国が劣勢になるとビルマ国政府に対して反乱を起こし、日本軍とも戦闘した。戦後のミャンマー軍の前身とみなされている。

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ビルマの戦い
Burma Campaign)は、太平洋戦争(大東亜戦争)の局面の1つ。イギリス領ビルマとその周辺地域をめぐって、日本軍・ビルマ国民軍・インド国民軍と、イギリス軍・アメリカ軍・中華民国国軍とが戦った。戦いは1941年の開戦直後から始まり、1945年の終戦直前まで続いた。


1.面積:68万平方キロメートル(日本の約1.8倍)
2.人口:5,322万人(ミャンマー政府 Statistical Year Book 2004)
3.首都:ネーピードー
4.民族:ビルマ族(約70%)、その他多くの少数民族
5.言語:ミャンマー語
6.宗教:仏教(90%)、キリスト教、回教等
7.国祭日:1月4日独立記念日
8.略史:諸部族割拠時代を経て11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝(パガン王朝、1044年〜1287年)が成立。その後タウングー王朝、コンバウン王朝等を経て、1886年に英領インドに編入され、1948年1月4日に独立。

■主要産業:農業
■主要貿易品目(1)輸出 天然ガス、豆類、宝石類(2)輸入 原油、機械部品、パームオイル、織物


チャット (通貨)
ミャンマー(ビルマ)の通貨単位である。国際通貨コード(ISO 4217)は、MMK。補助通貨単位のピャー(Pya)は、100分の1チャット。しかし、極度のインフレーションのため、ピャーは使われていない。流通している紙幣の種類は、1、5、10、15、20、35、45、75、50、90、100、200、500、1,000、5,000チャットの13種。

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在日ミャンマー人
日本に一定期間在住するミャンマー国籍の人々である。在日ビルマ人(ざいにちビルマじん)と呼ぶこともある。2010年7月末現在、日本で外国人登録されているミャンマー人は8366人。東京都新宿区高田馬場周辺では、「リトル・ヤンゴン」と呼ばれる日本最大のミャンマー人コミュニティを形成している。


■政治
2011年1月31日、ネピドーで総選挙後初の連邦議会が開幕。3月30日、テイン・セインはミャンマー大統領に就任。軍事政権発足以来ミャンマーの最高決定機関であった国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、権限が新政府に移譲された。これにより軍政に終止符が打たれた形となったが、新政府は軍関係者が多数を占めており、実質的な軍政支配が続くともみられた。軟禁状態を解かれたアウンサンスーチーは、政治活動の再開をめぐり政府との軋轢もあったが、7月になり両者の対話が実現、国家の発展のため協力し合うことで合意。


■議会
2008年に制定された新憲法により、二院制の連邦議会が創設された。連邦議会は上院(民族代表院、Amyotha Hluttaw)と下院(国民代表院、Pyithu Hluttaw)の2つで構成されている。議員は両院とも任期5年。議席数は上院が224議席、下院が440議席。各議院の議席のうち、4分の1は国軍司令官による指名枠となっており、残りの4分の3は国民による直接選挙で選出される。

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国民民主連盟
National League for Democracy、NLDは、ミャンマー(ビルマ)に存在した政党。現在は後述の理由により軍事政権時代に解散を命じられている。軍事政権、並びにその流れを継ぐ現在の政権の施策に抵抗している点で、ミャンマー最大の反政府組織といえる。党としての議長はアウン・シュエ、副議長はティン・ウ、書記長はアウンサンスーチー。

連邦団結発展党
Union Solidarity and Development Party、 USDPは、ミャンマー軍事政権の翼賛団体である連邦団結発展協会の後継組織。代表はテイン・セイン同国大統領。本部は首都ネピドーのDekkhinathiri地区に置かれている。

国民民主勢力
National Democratic Force、略称NDF、United Democratic Front としても知られる)は、ミャンマーの政党。解体を命じられた国民民主連盟(NLD)のメンバーのうち、2010年ミャンマー総選挙に出馬することを選択した勢力によって結成された。

国家平和発展評議会
State Peace and Development Council、略称:SPDCはミャンマーの軍事政権の最高決定機関。1988年9月、旧ビルマ軍のクーデターにより国家法秩序回復評議会(State Law and Order Restoration Council、略称:SLORC)が全権を掌握して以来、同国では2011年3月30日まで軍事政権が続いた。このSLORCが1997年11月に改組されたのが国家平和発展評議会である。

ビルマ共産党
Communist Party of Burma、CPB、緬共)は、ビルマ最古の政党。最盛期には兵力1万人を擁し、40年に渡ってビルマ政府と抗争したが、1989年に勢力下の少数民族の反乱によって指導部は放逐された。しかし、40年に渡って独立状態を保った統治機構は、そのまま少数民族の地方政権に引き継がれ、現在に至っている。

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ビルマ社会主義計画党
ビルマ社会主義計画党は、ビルマ(現ミャンマー)の旧政党名。マサラとも呼ばれる。ネ・ウィン将軍による軍事独裁政権に正当性を持たせるため、1962年に成立された。マルクス主義と仏教双方に影響されたビルマ式社会主義を先導する政党とされ、党議長にはネ・ウィン自身が就いた。

ビルマ式社会主義
Burmese Way to Socialismと呼ばれ、1960年代から1980年代にかけてビルマ(ミャンマー)で提唱された、社会主義の一潮流である。1962年にビルマ(ミャンマー)でネ・ウィンがクーデターを起こして政権を掌握し、社会主義路線を採った。科学的社会主義を否定し、(ビルマ族の主要宗教である)仏教を社会主義の根幹に据えた。

シャン諸民族民主連盟
Shan Nationalities League for Democracy; SNLD)は、少数民族であるシャン族の権益追求を代行するミャンマーの政党。1990年実施の国民議会(国会)総選挙で勝利をおさめ、492議席中の23議席を獲得した。ただし、国家平和発展評議会(軍事政権)が召集を拒否し続けたため、国民議会は一度も開かれることなく2010年総選挙を迎えた。


カレン民族解放軍
ミャンマー(ビルマ)の反政府組織カレン民族同盟の軍事組織。1994年12月、仏教徒グループが民主カレン仏教徒軍(DKBA)を称し軍事政権側へ離反。1995年1月に、DKBAとミャンマー軍の攻撃を受けてマナプロウは陥落、2月には最後の要衝コムラも陥落し、残存勢力はミャンマーとタイの国境地域を遊弋しながら解放闘争を継続している。

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アウンサンスーチー
Aung San Suu Kyi、1945年6月19日 - は、ミャンマーにおける非暴力民主化運動の指導者。国民民主連盟中央執行委員会議長。1991年、ノーベル平和賞受賞。ビルマの首都だったラングーンに生まれた。1960年に母親のキンチーがインド大使に着任すると、アウンサンスーチーはデリーで学ぶことになる。1962-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。2012年1月10日、国民民主連盟中央執行委員会議長に選出。

ジョージ・オーウェル
George Orwell、1903年6月25日 - 1950年1月21日は、イギリスの作家、ジャーナリスト。生誕地はイギリス植民地時代のインド。1922年にイギリスを離れ、マンダレーでインド警察の訓練所に入所し、その後5年間各地で勤務することになるが、帝国主義の片棒を担ぐ警官の仕事を激しく嫌うようになっていたオーウェルは、1927年に休暇をもらった折にイギリスに帰り辞表を出すと、2度とビルマには戻らなかった。ビルマ時代の体験を基にして1934年に出版した『ビルマの日々』では、現地人を見下すイギリス人の姿が登場人物のレイシスト、エリスを通じて端的に描かれている。

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ウ・タント
U Thant、1909年1月22日 - 1974年11月25日は、第3代国際連合事務総長(任期1961年 - 1971年)、教育者。イギリス領インド帝国ビルマ(現・ミャンマー) のパンタナウ出身。パンタナウのNational High School(高校)で学ぶ。ヤンゴン大学(ラングーン;現ヤンゴン)で歴史学を専攻。卒業後、パンタナウの高校で教鞭をとる。25歳の若さで校長に就任。

テイン・セイン
Thein Sein、1945年5月11日 - は、ミャンマーの政治家、現在、同国大統領(軍事政権後初代・国家元首通算第10代)、「連邦団結発展党」党首。軍事政権内での序列は4位。同国首相などを歴任。他の軍高官とは違い、利権や汚職などのスキャンダルに見舞われず、国民にはクリーンなイメージを持たれているとされる。また野心がなく、上官の命令に逆らうことはない官吏タイプとも評されている。

ティーボー
1859年1月1日−1916年12月19日 在位1878年−1885年はコンバウン王朝の最後の国王。1885年11月25日、彼とスパラヤット王妃、4人の王女たち(長女・Hteiksu Myatpayagyi、次女・Hteiksu Myatpayalat、三女・Hteiksu Myatpaya、四女・Hteiksu Myatpayalay)は、わずかな付き人と共にボンベイの南にあるラトナギリに追放された。

アウンサン
Aung San、1915年2月13日 - 1947年7月19日は、ビルマ(のちのミャンマー)の独立運動家。「ビルマ建国の父」として死後も敬愛を集めている。民主化運動指導者と呼ばれるアウンサンスーチーは長女。1915年、ビルマ中部、現在のマグウェ管区ナッマウ(Natmauk)の町に生まれる。生家は独立運動家として有名で、1886年にビルマを英領インドに併合したイギリス軍に抵抗していた。ラングーン大学(英語版)に進学し、英文学、近代史、政治学を専攻。在学中ラングーン大学の学生会最高委員会に立候補、機関誌 "Oway (Peacock's Call)" の編集者になった。

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ソー・ウィン
(Soe Win,1948年? - 2007年10月12日)は、ミャンマーの第13代首相、大将。軍事政権の最高実力者である国家平和発展評議会(SPDC)議長 タン・シュエの懐刀で、2003年5月に民主化運動指導者 アウンサンスーチーが身柄を再拘束された時の司令官といわれる。

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