|
モンゴル国
Mongolia
|
ウランバートルの位置するトーラ川流域は、古くからモンゴル高原を支配する遊牧民の政権が置かれた地域のひとつである。この地域は16世紀に現在のモンゴル国の大多数を占めるモンゴルのハルハ諸部が支配するようになり、17世紀にハルハの人々が尊崇するチベット仏教の活仏、ジェブツンダンパ・ホトクトの支配地になった。
■モンゴル語
mongGul keleは、モンゴル諸語に属する言語であり、モンゴル国の国家公用語である。モンゴル諸語は、テュルク諸語及びツングース諸語とともにアルタイ諸言語と呼ばれることがある。モンゴル国の憲法第8条はモンゴル語をモンゴル国の国家公用語として規定している。モンゴル国では、行政・教育・放送のほとんどがモンゴル語によって行われるが、バヤンウルギー県では学校教育をカザフ語で行なうことが認められている。
■チベット仏教
チベット仏教は、根本説一切有部の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマ[1]を尊崇することから、かつては一般に「ラマ教」(喇嘛教、Lamaism)と呼ばれ、ややもすると、仏教とは異質な宗教と見なす向きもあったが、その実態が一般の認識を得るにつれ、ラマ教という呼称は不適切だとして、現在では使用されなくなっている。
■遊牧民
人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。似た概念に移牧民があるが、こちらは季節ごとに移動しても定住地を持つ点が異なる。英語では、ノマド(nomad)がほぼ相当する言葉だが(語源はギリシア語のノマデス)、牧畜以外の生業を取る移動型の人々(ジプシー等)を含んでいる。
■地理
東アジアの北西部に位置し西には標高4,300mのアルタイ山脈と標高3,500mのハンガイ山脈(英語版)がそびえ、東には1,000 - 1,500mの高原が広がり北東には針葉樹林が広がる。あとの国土は高山砂漠とステップの植生が南の海抜平均1,000mのゴビ砂漠まで続いている。国土の5分の4を占める草原ステップは牧草地に使用されている。重要な河川はバイカル湖に注ぐセレンゲ川とアムール川を経てオホーツク海(太平洋)にそそぐヘルレン川がある。
■モンゴル高原
モンゴル高原は、モンゴリア(Mongolia)とも言い、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、南部を南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南(ばくなん)と言って、歴史的・政治的に2地域に分かれている。
■サヤン山脈
ロシア連邦・シベリア南部にある山脈。アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する褶曲山地である。大きく東サヤン山脈と西サヤン山脈に分けられる。東サヤン山脈はバイカル湖西側(海抜約3500mの最高峰がある)から北西に、ミヌシンスク盆地の東側まで延びる。西サヤン山脈は東サヤン山脈の西部から南西に連なり、アルタイ山脈につながる。エニセイ川上流部が西サヤン山脈を貫いている。最高峰はムンクサルディク山である。
■アルタイ山脈
西シベリアとモンゴルにまたがる山脈。モンゴル語で「金の山」を意味する。東はウプサ・ノール、キルギス・ノールなどの湖が点在する北西モンゴル台地に接する。雪線はアルタイ山脈の東部分で1875m、西の方では北側約2010m、南側約2340mであり、雪線を越す峰は多い。
■ゴビ砂漠
中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万km2で、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在した。
■セレンガ川
モンゴル国およびロシア連邦を流れる全長992kmの川である。古称は娑陵水(さりょうすい)。モンゴル中北部のハンガイ山脈に源を発するイデル川とデルゲルムルン川の合流地点を起点とし、オルホン川などの諸河川を合わせバイカル湖に注ぐ。
■アムール川
ユーラシア大陸の北東部を流れる川である。中国では別に黒河、黒水などとも呼ばれる。上流部の支流を含めた全長4,368kmは世界8位、流域面積は185万5500km2で世界10位である。アムール川はモンゴル高原東部のロシアと中国との国境にあるシルカ川とアルグン川の合流点から生じ、中流部は中国黒竜江省とロシア極東地方との間の境界となっている。
■オルホン川
モンゴル国を流れるモンゴルで一番長い川である。オルホン川には、幅10m、高さ20mのウラーン・ツタガラン滝が有り、人気の観光地となっている。流域には古代遺跡、オルド・バリクとカラコルムがある。オルホン渓谷は、ユネスコの世界遺産として登録されている。
■トール川
Tuul River)は、モンゴル国の中部から北部にかけて流れる川である。資料によってはトーラ川(トラ川、Tola River)ともいう。トール川は、大都市ウランバートルや川沿いの集落が出す生活排水のほか、トゥブ県のザーマル地区などで開発される金鉱から出る重金属の排水などで汚染されている。
■オノン川
モンゴル国ヘンティー山脈のブルカン山を源流とする黒竜江(アムール川)の支流である。モンゴルのチンギス・カンは、流域内のデリウン=ボルダク(現モンゴル国北東部)にて誕生したとされ、彼による1206年(太祖1)のクリルタイ・第二次即位(モンゴル帝国建国)もこの川の源で行われた。
■ヘルレン川
ユーラシア大陸の北東部を流れる川で、モンゴル東部のヘンティー県から中華人民共和国北部(内モンゴル自治区)にかけて流れている。ヘルレン川は首都ウランバートルからは北東へ180キロメートルほど離れた、ヘンティー山脈南麓のハン・ヘンティー厳正保護区内にある、チンギス・ハンの生まれ故郷とされるボルハン・ハルドン(ブルカン山)の近くに発する。
■エニセイ川
Yeniseiは、ロシアを流れる河川である。北極海に流れ込む最大の水系で、世界でも第5位の長さである。(オビ川を5,570kmとした場合には世界第6位)。モンゴルから北へ流れ、シベリア中央部を貫き、北極海の一部であるエニセイ湾に注ぐ。
■ヘンティー山脈
モンゴル国ヘンティー県とトゥブ県にまたがる山脈。チンギス・ハーンの生誕地および墓所があるとされる聖なる山ブルカン岳が含まれる。太平洋と北極海(バイカル湖経由)へ流れる川(および中央アジアへの内陸河川)の分水嶺となっており、オノン川、ヘルレン川、トール川の水源となる。
■ブルカン・カルドゥン
モンゴル国ヘンティー県にあるヘンティー山脈の山。モンゴル族発祥の聖地であり、チンギス・カンの故郷にして墓所であるといわれ、神聖視される。『元朝秘史』冒頭の伝説によると、チンギス・カンの先祖でモンゴル族の遠祖であるボルテ・チノとその妻コアイ・マラルが大湖(tenggis)を渡ってやって来た時、オノン川の源のこのブルカン・カルドゥンに住まいし、そこで最初の子であるバタチカンが生まれたという。
■アルヒ
モンゴル製のウォッカを指す。「酒」を表す普通名詞である。38度が多い。モンゴリアン・ウォッカとも呼ばれる。アルヒはその原材料により、2種類に大別できる。 ひとつは家畜乳由来のアルヒでシミーン・アルヒと呼ばれ、もうひとつは穀物由来のアルヒでツァガーン・アルヒと呼ばれるものである。
■突厥文字
突厥文字(とっけつもじ)は突厥によって古テュルク語の表記に5世紀から用いられたアルファベットであり、代表的なものとしてオルホン碑文に書かれたものがあるため、オルホン文字とも呼ばれる。のちにウイグル帝国でも用いられた。またこの系統に属すと考えられる文字としてエニセイ文字(9世紀)、タラス文字、ロヴァーシュ文字(古ハンガリー文字:10世紀)が、モンゴル・シベリアからバルカン半島に至る広い範囲で見つかっている。
■アルタイ諸語
Altaic Languagesは、比較言語学上たがいに関係が深いとされる言語のグループのひとつ。 北東アジアから中央アジア、アナトリアから東欧にかけての広い範囲で話されている諸言語である。
■モンゴル族
中華人民共和国が、国民を民族識別工作によって民族別に区分した際、領内のモンゴル系の諸集団の多くを包含して成立させたカテゴリー。 ダグール族、トゥー族のように、伝統的に自身をモンゴルの一員と認識していながら、蒙古族とは別個の民族として識別されてしまった例もある。55の少数民族の一つとして位置づけられている。蒙古族の人口は、581万3947人(2000年)でありモンゴル国の人口は275万1314人である。これはまたブリヤート人やカルムイク人よりも遥かに多く、一国内のモンゴル系民族集団としては世界最大である。
■ダウール族
アルタイ系で、モンゴル系の民族。中国領内の内モンゴル自治区北部のホロンバイル市、黒竜江省等が元来の居住地であり、また清代の乾隆年間(18世紀後半)には新疆に駐屯兵が派遣され、その末裔数千人が旧駐屯地(現在のタルバガタイ地区)に分布している。人口は約13万2千人。
■トゥ族
中国のモンゴル系少数民族。中国政府が認定する民族である。人口の大半は青海省・甘粛省全般に居住している。人口は中国政府が2000年に行った国勢調査で約24.1万人。トゥ族の言語は文字を持なかったが1979年から漢語のピンイン文字を基にしたラテン文字による表音文字化を進めている。また、トゥ族の約85%はモンゴル系の言語であるモングォル語を使用している。
■オロチョン族
Orochon,Oroqinはアルタイ諸語のツングース系の言葉を話す民族(ツングース系民族)。主に北東アジアの興安嶺山脈周辺で中国領内の内モンゴル自治区、その近隣のロシア領内に居住する。人口は約7千人。もともとは狩猟をしながら移動していたが、現在は定住化が進んでいる。
■オイラト
(Oirad、Oyirad、は、モンゴル高原の西部から東トルキスタン(新疆)の北部にかけて居住する民族。オイラト人と呼ばれる人々は、15世紀から18世紀にモンゴルと並ぶモンゴル高原の有力部族連合であったオイラト族連合に属した諸部族の民族である。彼らは近代中華人民共和国、モンゴル国の一部になった後、モンゴル民族の一員とみなされている。ロシア連邦ではカルムイク人と呼ばれ独立した民族とされている。現在の人口はおよそ20万人から30万人。
■カザフ
Kazakhsは、中央アジア西北部のカザフステップに広がって居住するテュルク系民族。カザフスタンにおよそ800万人が住んで同国人口の半数を占める他、中国の新疆ウイグル自治区北西部に約130万人が住む。モンゴル国では最西部のアルタイ山脈周辺に分布し、バヤンウルギー・アイマク(Bayan-Olgii Province)はカザフ人の自治州となっている。
■エヴェンキ
Evenks、はツングース系民族の一つで、主にロシア国内のシベリア連邦管区にあるエヴェンキ自治管区に居住する。ほか、ロシア国内ではサハ共和国などにも居住し、中国国内でも興安嶺山脈周辺の内モンゴル自治区・黒竜江省などに居住している。「エベンキ」とも表記される。民族を代表する生業は狩猟とトナカイ遊牧で、狩猟では皮革採取や肉・内臓の食用のために鹿類、テンなどが捕獲の対象である。
■ハルハ
近世モンゴルの一部族であり、現在のモンゴル国の多数派民族である。中国の内モンゴル自治区にもハルハの一部が住む。ハルハの起源は、元朝の左翼五投下であるジャライル国王の所管にさかのぼり、その名称はハルハ川に由来する。
■トゥバ族
エニセイ川源流域に居住するテュルク語系言語であるトゥバ語を母語とする民族である。古くは北史・鐵勒伝、隋書あるいは舊・新唐書にみられる「都播」や「都波」は、このトゥバ人、もしくはトゥバを自称するトファラル人やコイバル人のことであると考えられている。
■ブリヤート人
ロシア連邦やモンゴル国、中華人民共和国に住むモンゴル系民族。ロシア連邦内の人口は445,175人で、とりわけブリヤート共和国には全人口の約4分の1が居住している。古来からメルキト族と同様に元来はウラル語派(諸語)に属する南サモイェード諸族であり、シベリアから南下してテュルク化し、最終的にはモンゴル化したという。そういう意味では現在もテュルク諸族に属するヤクート(サハ)人に近いといえる種族といえる。
■バルガ族
バルガ族は、モンゴル人を構成する部族の一つ。 伝統的な分布領域および人口の大部分は現在、中華人民共和国内蒙古自治区に属する。清代、旧バルガ(ホーチン・バルガ)・新バルガ(シネ・バルガ)に大別される。旧バルガは、黒龍江将軍の管轄下でエヴェンキ、オロチョン、ダウールなどの諸部族とともに「索倫(ソロン)八旗」を構成していた。
■タタール
Tatarlar、は、北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。タタールと呼ばれる人々の実態は多様であり、その名が用いられる時代と場所によって指し示す民族は異なる。
■モンゴル帝国
モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス (Yeke Mong?ol Ulus)すなわち「大モンゴル国」と称した。モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。
■ボグド・ハーン政権
1911年から1924年まで断続的にモンゴルを支配した政権。国号をモンゴル国と称し、活仏ジェプツンダンバ・ホトクト8世(ボグド・ハーン)を皇帝(ハーン)として戴いた君主国である。1924年にジェプツンダンバ・ホトクト8世が死去するとモンゴル人民政府は君主制を廃止し、政治体制を人民共和国へと変更してモンゴル人民共和国が成立した。ソビエト連邦に次ぐ世界で2番目の社会主義国となったモンゴルは、その後ソビエト連邦と歩調を合わせ、その衛星国となった。
<世界遺産>
■ウヴス・ヌール
モンゴル国最大の湖。日本ではウヴス湖とも表記される。海抜753 m、面積3350 km2 。湖岸の最大の集落は、オブス県の県庁所在地オラーンゴムである。この塩分の濃い浅い湖は、かつて数千年前にこの一帯にも海が広がっていたときの名残である。ウヴス・ヌールは、およそ700000 km2 に渡って広がるウヴス・ヌール盆地の中心に位置しており、ユーラシア大陸において、自然のままのステップが良好に保存されている地域となっている。同時に、世界で最も北にある砂漠と、世界で最も南にあるツンドラが並存する場所ともなっている。この盆地には、ウヴス・ヌール以外にも、ウレグ・ヌール(ウレグ湖、海抜1450m)をはじめとするより小さな湖がいくつかある。これらの湖が中央アジアの内海の北にあることは、渡り鳥にとって重要である。
■オルホン渓谷
オルホン渓谷はステップの王者の座所と見なされてきた。その最初の徴は、8世紀の突厥(とっけつ、とっくつ)のビルゲ・カガンによってこの渓谷に立てられた『オルホン碑文』である。この石柱の北方約40キロメートル(約25マイル)には、聖なる森に覆われたウテュケン山のすぐ近くに、オルド(Ö囃dü筱 遊牧民の拠点)が有った。契丹(きったん、キタイ)人がこの渓谷を支配していた時には、石柱は契丹の権力者の偉業を記録しておくために、3つの言語で刻み直された。
カラ・バルガスン遺跡
カラ・バルガスン遺跡(Qara Balγasun)は、8世紀のウイグル可汗国(回鶻)時代に建設されたオルド・バリク城址を中心とする遺跡群。カラ・バルガスン(ハル・バルガス、ハラ・バルガスン)とはモンゴル語で「黒き都市、廃墟の都市」を意味する。位置は北緯47度24-26分・東経102度38-39分、モンゴル国のオルホン川西岸にある。
カラコルム
カラコルム (Qaraqorum) は、モンゴル高原中央部のモンゴル国首都ウランバートルから西へ400km、アルハンガイ県のオルホン河畔に位置する都市。カラコルムとはテュルク語・モンゴル語で「黒い砂礫」を意味する。「黒い砂礫」の名前の通り、カラコルムの遺跡周辺は現在でも安山岩や玄武岩などの黒い河原石が一面に転がっており、雨水などで濡れると地面が黒っぽく見えると言う。1260年に書かれたペルシア語資料『世界征服者史』によれば、カラコルムの名前の由来は都市の近くにある「カラコルム山」という黒色の石材が取れる山の名前に由来していると伝えられている。
■ジェプツンダンバ・ホトクト
Jebtsundamba Khutuktuはモンゴルにおける活仏の名跡である。尊称として、「お聖人さま」を意味する「ボグド・ゲゲーン」があり、1911年から1924年にかけてはモンゴルの元首として「聖なる王さま」を意味する「ボグド・ハーン」の称号も使用された。
■ダライ・ラマ
チベット仏教において最上位に位置する化身ラマの名跡。また17世紀(1642年)に発足したチベット政府の長として、チベットの元首としての地位も保有。チベット動乱の結果、1959年に発足した「チベット臨時政府(のちチベット亡命政府)」においても引き続き元首としての位置づけを受けている。
■朝青龍明徳
朝青龍 明徳(あさしょうりゅう あきのり、1980年9月27日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身の元大相撲力士、第68代横綱。現在は実業家、タレント、コメンテーター、評論家、映画俳優、慈善家としてマルチに活躍している。本名はドルゴルスレンギーン・ダグワドルジ[1]貴乃花および白鵬とともに「平成の大横綱」と呼ばれる。四股名は高校在学時に世話になったという高知県土佐市の青龍寺に由来している。また「明徳」という名は出身校の明徳義塾高等学校にちなんで名づけられた。
■グーシ・ハーン
1582年 - 1654年、は、17世紀中頃のオイラト八部のひとつホシュート部の部族長。チベットに遠征し、ダライ・ラマの権威の下にグシ・ハン王朝を樹立した。
■ボグド・ハーン
Bogd Khan、1869年 - 1924年4月17日は、モンゴル国のハーン(皇帝、在位1911年 - 1919年、1921年 - 1924年)。ロシアの代表的モンゴル学者ポズドネエフによれば、1870年初めに出生したとされる。しかしチベット語で著された早い時期の伝記によれば、1869年の旧暦8月にチベットのラサの近くで生まれたという記述がある。
■ドグソミーン・ボドー
Dogsomyn Bodoo、1885年 - 1922年8月31日は、モンゴルの政治家。1921年から1922年まで首相を勤めた。ラマ僧からモンゴル民族主義者、革命家となり、モンゴル人民革命党を結成した「最初の7人」の一人。1921年4月16日から1922年1月7日まで暫定政権の首相に就任したが、1922年に権力闘争に破れ処刑された。
■ソリーン・ダンザン
Soliin Danzan、1885年 − 1924年は、モンゴルの革命家、政治家。モンゴル人民革命党議長。官僚から革命家を経て、モンゴル人民革命党を結成した「最初の7人」の一人。税関職員として勤務した後、1919年秘密革命組織ズーン・フレー・グループ(東庫倫グループ)を結成する。1921年3月、モンゴル人民党(後のモンゴル人民革命党)第1回党大会で議長に選出された。
■ホルローギーン・チョイバルサン
Khorloogiin Choibalsan、1895年2月8日 - 1952年1月26日は、モンゴルの革命家、軍人、政治家。自国民を大量粛清したモンゴルの独裁者として知られる。遊牧民の子として生まれ、幼くしてチベット仏教の僧院に入るも脱走した。クーロン(庫倫、現ウランバートル)のロシア領事館付属学校に入学し、1914年にロシアのイルクーツクに留学。
■ユムジャーギィン・ツェデンバル
Yumjaagiin Tsedenbal、1916年9月17日 - 1991年4月20日)は、モンゴル人民共和国の政治家。1940年、24歳の若さで、モンゴル人民革命党第1書記に就任。チョイバルサンの死後、ソビエト連邦でのスターリン批判の影響によりチョイバルサン批判・チンギス・ハーン批判を行う。1960年、憲法改正を行い、国民の権利を幅広く認める反面、社会主義体制を支持する義務を国民に科した。また、ダルハン市を建設した。
■ジャムビィン・バトムンフ
1926年3月10日 - 1997年4月14日は、モンゴル人民共和国の政治家。モンゴル人民革命党元書記長。「モンゴルのゴルバチョフ」と呼ばれる。1974年 ツェデンバルが党第1書記を辞任し、人民大会議幹部会議長に就任。バトムンフが首相の座を得る。1984年 ツェデンバルが更迭され、党書記長に就任。
■ラシードゥッディーン
生没年1249年 - 1318年はイルハン朝後期、第7代君主ガザンから次代オルジェイトゥ、アブー=サイード治世のもとで活躍した政治家。ガザンとオルジェイトゥの命によって編纂されたペルシア語による世界史『集史』の編纂責任者であったことでも知られている。イラン中西部ハマダーンのユダヤ教徒系の家系に生まれ、医師としてイラン各地を遊学した後、アバカの時代にイルハン朝の宮廷で典医として出仕した。
■ノロヴバンザド
1931年 - 2002年12月21日は、モンゴルの女性歌手。モンゴル民謡オルティンドー歌手。 モンゴル国ドントゴビ県で遊牧民の子として生まれる。1957年モスクワで開かれた世界青少年音楽祭で金メダルを獲得。1978年には国際交流基金主催の「アジア伝統芸能の交流」のために初来日。1993年には福岡アジア文化賞を受賞した。オルティンドー歌手として天性の素質と洗練された芸術的な表現力は、モンゴル国内でも100年に一人の歌手として評される。世界でも評価は高く、日本の音楽家にも彼女のファンは多いと言われる。
■サランマンドホ
1974年6月 - は、中国内モンゴル出身の女性歌手。モンゴル民謡オルティンドー歌手、ホビス奏者。 内モンゴル・シリンゴル大草原で遊牧民の子として生まれる。1990年にプロデビュー、1993年よりシリンゴル盟ソニド右旗オランムチル(歌舞団)で歌手として活躍。1997年に中国中央テレビでオランムチル成立40周年記念番組に出演。
■オユンナ
OYUNAA、1975年11月10日 - はモンゴル国の首都ウランバートル出身の女性シンガーソングライター。年に2回、2カ月くらいずつ、名古屋市の大学に通う妹の部屋に寝泊まりしながら、名古屋市内の小学校やライブハウスなどでコンサートをしているという。音楽活動以外にも、母国モンゴルの子どもたちを支援する「オユンナ基金」を設立し、社会福祉活動にも尽力している。
■ドブドイ・バヤル
Bayar Dovdoi 、 1946年 - 2010年は、モンゴルの考古学、歴史学の学者、ドイツ考古学研究所のメンバーと、ボクサーだった。彼の研究の主な成果は、長い間チュルク像として考えられてきたモンゴル東部に存在する石の彫刻に関して包括的な研究を行い、これらはVI-VIII世紀のチュルクではなく、XIII-XIV世紀のモンゴルに関連する彫刻であると強力な証拠を使用し、主張し、ユーラシア考古学研究の中で"モンゴルの石の彫刻"という新コンセプトを持ち出した。
■エレゼンギーン・チョイドグ
Eregzengiin Choidog、1926年 - 1988年は、モンゴルの作曲家。センビーン・ゴンチグソムラーやロブサンジャムツィーン・ムルドルジとともに、ピョートル・チャイコフスキーやグスタフ・マーラーの影響を受けた「19世紀欧州楽派」とみなされる[1]。彼のもっとも著名な作品は1962年にモスクワ放送交響楽団のために作曲した序曲『友情』である。
■マイダルジャヴィン・ガンゾリグ
Maidarzhavyn Ganzorig1949年2月5日-は、ツェツェルレグ出身のモンゴルの科学者である。1978年にソビエト連邦のインターコスモスプログラムに参加し、ソユーズの宇宙飛行訓練を受けた。ガンゾリグは、1975年にキエフ工科大学を卒業し、1978年にジェクテルデミット・グラグチャのバックアップとしてソユーズ39号の訓練を受けた。
■ドジョーギーン・ツェデブ
(Dojoogiin Tsedev、1940年 - )は、モンゴルの作家、文学者、詩人。1977年から1990年まで、モンゴル作家同盟議長。1992年から1996年まで、東京外国語大学客員教授。モンゴル国立大学卒。モンゴル言語学、モンゴル文学専攻。同大学で博士号取得。『この世の素晴らしき人』『傷つくことなき心』『草原の小道』
■チンバット・アノン
Chinbatyn Anun、1985年 ‐ は、モンゴルのウランバートル出身のミス・モンゴリア2008年に選ばれた人物。このことより南アフリカのヨハネスブルクで開催されたミス・ワールド2008にはモンゴル代表として出場した。
|
モンゴル Mongolia
アジア北部に位置する国家。東と南を中華人民共和国(中国)・内モンゴル自治区と、西を中国・新疆ウィグル自治区と、北をロシア連邦とそれぞれ接する内陸国。首都はウランバートル。東アジアの北西部に位置し西には標高4,300mのアルタイ山脈と標高3,500mのハンガイ山脈がそびえ、東には1,000 - 1,500mの高原が広がり北東には針葉樹林が広がる。あとの国土は高山砂漠とステップの植生が南の海抜平均1,000mのゴビ砂漠まで続いている。
■ウランバートル
モンゴル国の首都。同国中部、トーラ川沿岸の標高約1,300mの場所に位置する都市。人口は約100万人(2004年統計)で、同国の人口のおよそ半数近くが集中する極端な一極集中となっている。名実ともにモンゴルの政治・経済の中心地で、中国からロシア(欧州)に至る国際鉄道の主要な中継地。主産業は鉱物、食肉加工、製粉、製乳。旧名ウルガ。
人口だけ見ると100万都市ではあるが、土地や道路が広い。行政的には「首都特別区」と呼ばれ、県と同等の地位を与えられている。特別区はさらに、ナライハ区・バガノール区・バガハンガイ区という3つの郊外区を含む9つの区に分けられている。郊外区は、行政的には都心と陸続きではあるが、そこへ行くためには何もない草原地帯を通過するため、実質的には飛び地のようなイメージである。
都市計画は、政府・党関係の公共機関とソビエト式アパート、広い道路などが計画的に配置された完全なソ連式だが、中心部の道路は上空から見ると、差し込む太陽の光とゲルをデザインしたユニークな構成となっている。ソ連式都市計画の特徴として、いわゆる繁華街というものが存在しない構造になっているが、市場経済以降後は土地の占有権(最近は郊外にかぎり所有権も)が解禁されたこともあり、建物の1階部分を改造しての商業化が行われている。
■内モンゴル自治区
英語:Inner Mongoliaは、中華人民共和国が1947年にモンゴルの南部に設置した省級の自治体。中国領土の北沿に位置する自治区。内モンゴル自治区と名のつくものの、中華人民共和国建国以来60年間にわたる漢民族移入によって漢民族が人口の80%以上を占めるにいたっており[1]、その他モンゴル族・ダウール族・エヴェンキ族・オロチョン族・回族・満洲民族・朝鮮族などが居住している。
■スフバートル広場
モンゴル国の首都ウランバートルに位置する広場。中央にある広場の名前にもなっている、ダムディン・スフバートルの像は彼が1921年に中国からの独立を宣言してから25周年を記念して、彫刻家チョインボル (Choimbol) が造ったものである。彼の像にはその独立宣言時の発言が刻まれている。
■ウランバートル駅
モンゴル鉄道の旅客、貨物を扱う中核で最大の駅である。モンゴル縦貫線はモンゴル国内の列車だけでなく、モスクワ、北京、フフホトへの国際列車が発着する。ナライフ支線は貨物専用線である。なお、駅内での写真撮影は基本的に禁止されている。
■チンギスハーン国際空港
Chinggis Khaan International Airportとは、モンゴル国の首都ウランバートルから南に10kmのほどのところにある国際空港。MIAT モンゴル航空がこの空港を焦点空港としている。
■モンゴル国立大学
National University of Mongolia、は、1942年設立、モンゴル最古の国立大学。
■ウランバートル大学
モンゴル国の首都ウランバートルにある私立大学。韓国系のミッションスクールで、韓国語を教えるのではなく、韓国語でキリスト教を教えている。
■人文大学
モンゴル国の首都・ウランバートルにある国立大学。社会科学部(情報管理学科・観光学科・心理学科)・外国語学部(ロシア語学科・英語学科・フランス語学科・ドイツ語学科・日本語学科・韓国語学科・中国語学科)がある。
■モンゴル教育大学
モンゴル国のウランバートルにある教育学部単科大学。1951年開設の国家教師研究所が前身。大学の前にはバスターミナルがあり、ウランバートル随一の人の賑わいを見せている。通行人を当て込んだ乞食の子どもも多い。
■ウリヤスタイ
モンゴルの都市。首都ウランバートルの西1115kmに位置する、ザブハン県の県都である。人口は1万6240人(2006年推計)で、全国16位の人口規模。2000年の国勢調査では国内10位の2万4276人であった。近郊の旧ウリヤスタイ空港には未舗装の滑走路2本がある。2002年、市街から西へ約25kmのところにドノイ空港(新ウリヤスタイ空港)が開港し、ウランバートルとの間に定期便が就航した。
外務省:モンゴル国
在モンゴル日本国大使館
■エルデネト
モンゴル北部の都市。オルホン県の県都で、国内第三位の人口を有する。ウランバートルの北西240km、セレンガ川とオルホン川にはさまれた盆地に位置する。首都との道路距離は371kmある。アジアで最大、世界でも四番目に大きい銅鉱の開発のため、1975年に建設された。モンゴルとロシアの合弁企業「エルデネト鉱業株式会社」は、モンゴルの国家財政におけるハードクレンシー収入に一役も二役も買っている。
■ホブド
モンゴル西部の都市。ホブド県の県都である。17世紀、いまのエルデネビュレン・ソムの河岸にジュンガルのガルダン・ハーンが建設した。郊外では東トルキスタンや中央アジアの虜囚が持っていたノウハウを生かし、園芸学が発展。清の支配下に入ると、ブヤント川のほとりに市街まるごと移転させられたが、1912年8月7日にモンゴルの豪族連合からなる軍勢が解放した。兵営は破壊され、清朝の間接統治体制は廃止された。
■ゾーンモド
モンゴル中央部の都市。首都ウランバートルの南30kmに位置する、トゥブ県の県都である。市域は19.18平方キロ[1]、人口は1万4660人(2006年)。ウランバートルから43kmのところにあるボグド・ハーン山の南麓にあたる。市は1942年に県の中心地として設立された。これ以前はウランバートルがトゥブ県の県都であった。
■チョイバルサン市
モンゴル国東部の都市。1941年に革命家のホルローギーン・チョイバルサンをたたえて、それまでのバヤン・トゥメン から改称された。ドルノド県の県都で、行政上の正式名称はヘルレン郡(ソム)である。総面積281平方キロ。ヘルレン川河畔の標高747m地点に位置する。ノモンハン事件の英雄のゲオルギー・ジューコフ将軍を記念した博物館がある。
■サインシャンド
モンゴル国の都市で、ドルノゴビ県の県都である。ゴビ砂漠の東部にあたり、モンゴル縦貫鉄道が通る。人口は1万9548人(2006年推計)、2万5210人(2000年国勢調査)。市内にはハマリーン・ヒードという僧院や、19世紀のチベット仏教ニンマ派の指導者ダンザンラブジャーを記念した博物館がある。
■チョイル
モンゴル国の都市。ゴビスンベル県の県都、ならびにスンベル郡の中心地である。ソビエト連邦時代、チョイルは軍事基地であった。1989年にソ連の対空ミサイル部隊が撤退。市街の北25kmに位置するモンゴル最長の滑走路も閉鎖され、当時の遺物と化している。1992年の憲法で、軍営は県の支配権のおよぶ所となった。モンゴル人初の宇宙飛行士・ジェクテルデミット・グラグチャを記念する像が駅の近くにある。
■ダルハン市
Darkhanは、モンゴル北部、セレンゲ県のほぼ中央に位置するダルハン・オール県の中心市で、モンゴル第2の都市。セレンゲ県からは独立している。人口約12万。露蒙中鉄道が市内を通り、工業都市と位置付けられる。
■オラーンゴム
モンゴル国西部の都市で、オブス県の県都。ウヴス・ヌール湖岸の南西26km、ロシア国境の南120kmに位置し、ハルヒラー山を望む。市内にはロシアのトゥヴァ共和国の総領事館がある。トゥヴァ共和国の首都クズルにも、オブス県の駐在館事務所が置かれている。
■ダルンザドガド
Dalanzadgadは、モンゴル国ウムヌゴビ県の県庁所在地である。ダルンとは、モンゴル語で「70」との意味。首都ウランバートルから南へ540キロメートル、海抜1,470メートルに位置する。人口は14,000人(2006年)。ダルンザドガド空港があり、ウランバートルとの定期便が運行されている。
■オルホン県
Orhon aymagは、モンゴル国の地方行政区画。県庁所在地はエルデネト。元はボルガン県に属していた地域であるが、1970年代にソビエト連邦の援助で露天掘りの大規模な銅山とエルデネト市が建設されたことにより、それらの周辺だけがオルホン県として分離した。
■オブス県
Uvs Provinceは、モンゴルの県(アイマグ)。2008年時点での人口は77,184人。同国の西部に位置し、首都のウランバートルからは1336km離れている。首府のオラーンゴムは海抜936m地点に位置する。県はモンゴル最大の湖であるウヴス・ヌールにちなんで名付けられた。
1.面積:156万4,100平方キロメートル(日本の約4倍)
2.人口:278万800人(2010年、モンゴル国家統計委員会(以下「NSC」))
3.首都:ウランバートル(人口115万1,500人)(2010年、NSC)
4.民族:モンゴル人(全体の95%)及びカザフ人等
5.言語:モンゴル語(国家公用語)、カザフ語
6.宗教:チベット仏教等(社会主義時代は衰退していたが民主化(1990年)以降に復活。1992年2月の新憲法は信教の自由を保障。)
1911年 辛亥革命、中国(清朝)より分離、自治政府を樹立
1919年 自治を撤廃し中国軍閥の支配下に入る
1921年7月11日 活仏を元首とする君主制人民政府成立(人民革命)
1924年11月26日 活仏の死去に伴い人民共和国を宣言
1990年3月 複数政党制を導入、社会主義を事実上放棄
1990年9月 大統領制に移行、初代大統領にP.オチルバトを選出
1992年2月12日 モンゴル国憲法施行(国名を「モンゴル国」に変更)
1992年6月28日 第1回総選挙(人民革命党の圧勝)
1996年6月30日 第2回総選挙(民主連合の大勝)
2000年7月2日 第3回総選挙(人民革命党の圧勝)
2004年6月27日 第4回総選挙(与野党伯仲で大連立政権発足)
2008年6月29日 第5回総選挙(人民革命党(現、人民党)が過半数)
■主要産業:鉱業、牧畜業、流通業、軽工業
■主要貿易品目(1)輸出 鉱物資源(石炭、銅精鉱、蛍石)、原油、牧畜産品(カシミア、皮革)(2)輸入 石油製品、自動車、機械設備類、日用雑貨、医薬品
■コミンテルン
Cominternは、1919年から1943年まで存在した、共産主義政党による国際組織である。別名第三インターナショナル。1919年3月に結成され、1935年までに7回の大会を開催した。第七回大会には65ヶ国の党と国際組織の代表が出席した。前身の組織として第一インターナショナル、第二インターナショナルが存在する。
■経済
2010年のモンゴルのGDPは約58億ドルであり、日本の都道府県の中で最も人口が少ない鳥取県の4分の1程度の経済規模である[4]。毎年の予算編成は、東京都世田谷区と同等の金額である。1日2ドル未満で暮らす貧困層は115万人と推計されており、国民の40%以上を占めている。主に畜産業と鉱業が中心でモリブデンは世界屈指の埋蔵量を持っている。現在、モンゴル政府は金鉱や銅鉱、モリブデン、石炭等の開発を推進している。
■マンホールチルドレン
ソ連崩壊による経済的混乱及び寒波により、都市部には数千人規模のホームレスとなった孤児がいる。冬は気温が-40°Cを下回ることもあるウランバートルなどでは路上で生活することが出来ず、孤児はマンホールから地下に潜って、生き延びているという。
■モンゴル人民党
モンゴル国の政党。略称はМАНだが、英語名 Mongolian People's Party のイニシャルをとってMPPとも略される。1918年から1919年頃に形成されたモンゴルの二つの革命グループ、すなわち民族主義者ボドーらを中心とする「領事館の丘」グループと、ダンザン、ドクソムらを中心とする「東庫倫」グループが1920年春に合体しモンゴル人民党を結成したものが前身。
■ノモンハン事件
1939年(昭和14年)5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件。満州国軍とモンゴル人民共和国軍の参加もあったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト労農赤軍の主力の衝突が勝敗の帰趨を決した。当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境紛争に過ぎないというものであったが、モンゴル国のみは、人民共和国時代よりこの衝突を「戦争」と称している。
■ナーダム
モンゴル国において、年に数回行われる国民行事である「民族の祭典」である。ブフ(モンゴル相撲)・競馬・弓射の3つの競技が行われる。ナーダムはモンゴル各地で行なわれるが、最も大きいものが国家主催の国家ナーダムと呼ばれるもので、毎年7月11日の革命記念日にちなんで、7月11日 - 13日の3日間にわたって首都・ウランバートルの中央スタジアムで開催される。
■ブフ
モンゴルに古来より伝わる伝統的な立技組技系格闘技である。その起源は紀元前3世紀頃とされ馬を早く走らせること、力強く組み合うこと、弓を射ることが人々の間に広まりこの3種目を力で競い合うことから派生してきたとされる。また宗教的な奉納儀式として、さらに軍事訓練的な要素も持っていたといわれる。
■ゲル (家屋)
gerは、主にモンゴル高原に住む遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居のこと。日本では、中国語の呼び名に由来するパオ(包)という名前で呼ばれることも多い。ゲルは円形で、中心の柱(2本)によって支えられた骨組みをもち、屋根部分には中心から放射状に梁が渡される。これにヒツジの毛でつくったフェルトをかぶせ、屋根・壁に相当する覆いとする。
■モリンホール
Morin khuurは主にモンゴル国や中国の内モンゴル自治区あたりで使われている、弦の本数が二本の擦弦楽器。モリンホールとは「馬の楽器」という意味である。モリンホールはヴァイオリンや二胡等と同じ擦弦楽器で、モンゴルを代表する弦楽器である。特徴として先端が馬の形を模した棹、四角い共鳴箱に2本の弦から構成される。弦を支える駒が上下にあり、音程の微調整にも利用される。
■ホーミー
アルタイ山脈周辺民族の間に伝わる喉歌と呼ばれる歌唱法のうち、西部オイラト諸族(モンゴル国西部と中国新疆ウイグル自治区北部に居住)に伝わるものの呼称。一般に、緊張した喉から発せられる笛のような声のことを指す。喉歌の確実な記述は、Pallasによる18世紀中旬のものがおそらく最古である。アルタイ山脈周辺の地域では、浪花節のような喉を詰めた声で歌う叙事詩や賛歌が発達しており、喉歌はその叙事詩を装飾する目的で発達してきたと考えられる。
■日本・モンゴル民族博物館
兵庫県豊岡市にある博物館。1996年に開館。2000年に増築が行われ伝承文化体験交流館が開館した。モンゴルの民族資料を中心に収蔵・展示し、その歴史と文化を紹介する博物館である。館内は、シルクロードと名付けた廊下で巡るよう構成されている。
■インターネット
都市部では、至るところにインターネットカフェがある。夕刻のインターネットカフェには母国と連絡を取る外国人が集い、目の前にいた東洋人が日本人であることも珍しくない。ただし、日本語対応機種は高価なようで、日本語対応機種があるかどうかは、入店時に確認が必要。
■センビーン・ゴンチグソムラー
1915年2月18日 - 1991年2月25日は、モンゴルの作曲家。バヤンホンゴル出身。ウランバートルとイルクーツクで学んだ後、故郷で教師、通訳、獣医として働いた。1943年から1950年までモスクワ音楽院で作曲と指揮を学び、帰国後の1960年にウランバートル国立劇場の音楽監督に任命された。またモンゴル作曲家連盟の議長も務めた。作品にはオペラ、バレエ、交響曲、ピアノ曲などがある。
■ビレギーン・ダムディンスレン
1919年 - 1992年は、モンゴルの作曲家。モンゴルのクラシック音楽の基礎を築いた一人とみなされており、モンゴル民謡を取り入れたオペラ『悲しみの三つの丘』の作曲者として知られる。『悲しみの三つの丘』はモンゴルで最も有名なオペラである。またロブサンジャムツィーン・ムルドルジとともにモンゴルの国歌を作曲した。
■チンギス・カン
1162年頃? - 1227年8月18日頃は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国北部・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服して、最終的には当時の世界人口の半数以上を支配するに致る人類史上最大規模の世界帝国、『モンゴル帝国』の基盤を築き上げた。
■クビライ
(Qubilai, Khubilai, 1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。在位は1260年5月5日 - 1294年2月18日。クビライは、1215年にチンギス・カンの四男トルイの子として生まれた。母はケレイト部族出身のトルイの正夫人ソルコクタニ・ベキで、トルイがソルコクタニとの間に設けた4人の嫡出子のうちの次男にあたり、兄に第4代皇帝となったモンケ、弟にイルハン朝を開いたフレグ、クビライとモンゴル皇帝(カアン)位を争ったアリクブケがいる
■ツァヒアギーン・エルベグドルジ
(Tsakhiagiin Elbegdorj、1963年3月30日 - )は、モンゴルの政治家。第4代モンゴル国大統領(モンゴル人民革命党に所属した経験のない人物としては初)。モンゴル民主化運動の指導者の一人。 また、モンゴルの首相を二度務めた。1963年3月30日、 モンゴル・ホブド県の遊牧民の家庭に8人兄弟の末っ子として生まれる。ホブド県で幼少期を過ごした後、16歳の時に家族とともにオルホン県エルデネトに移動し、1981年に同市の公立高校を卒業。エルデネト鉱山に工員として勤務する。
■スフバータル・バトボルド
1963年6月24日 - は、モンゴルの政治家。2011年現在、モンゴルの首相、モンゴル人民党書記長。ウランバートル生まれ。母は医師。モスクワ国際関係大学に留学し、経済学を専攻した。卒業後、モンゴル・インペクス・ネグデル(協同組合)の輸出担当局長に就任した。2010年10月には来日し、朝青龍の断髪式に出席、ハサミを入れている。
■ダムディン・スフバートル
(Damdin Sukhbaatar、1894年2月2日 - 1923年2月22日)は、モンゴルの革命家、軍人。社会主義のモンゴル人民共和国時代では、その軍事的功績と、革命の早い時期に病死(或いは暗殺)したため、チョイバルサンと共に人民革命の功労者として高い評価を受けていた。社会主義崩壊後の今日では革命時の軍の最高指導者と、相対的に低い評価を受ける一方、共産主義者としてよりは民族主義者として独立運動を展開していたとの評価もある。
■オゴデイ
Ogedei. 1186年 - 1241年12月11日 在位1229年9月13日 - 1241年12月11日)はモンゴル帝国の第2代モンゴル帝国皇帝(カアン、大ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。父・チンギスに従ってモンゴル統一や金遠征、大西征に従った。特に大西征においてはホラズム・シャー朝の討伐で戦功を挙げ、その功績によりナイマン部の所領を与えられた(オゴデイ・ウルス)。
■カイドゥ
(Qaidu, Khaidu, ? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・ハーンの三男オゴデイの五男カシの子。漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてカイドゥあるいはハイドともいう。30年以上にわたってモンゴル皇帝(大ハーン)、クビライ率いる大元朝と対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」(カイドゥの乱)と呼ばれる。
■ナンバリーン・エンフバヤル
(Nambaryn Enkhbajar、1958年6月1日 - ) は、モンゴル国の政治家。第3代モンゴル国大統領。学位は文学士(ゴーリキー文芸大学)。ウランバートルの医師の息子として生まれる。ソ連のゴーリキー文芸大学を卒業したあと外国文学翻訳家として多数の文学作品をモンゴルに紹介。文化相、首相、国会議長を歴任したあと、2005年の大統領選挙でモンゴル人民革命党から出馬し、モンゴル民主党のエンフサイハン候補を破り当選。
■マルザン・シャラブ
Marzan Sharav、1869年-1939年、はモンゴルの画家。マルザンとは『ひねくれ者』の意味である。『モンゴルの一日』と『馬乳酒の祭り』といった作品で知られ、モンゴルにおける近代絵画の先駆けとして評価されている。
■日馬富士公平
(はるまふじ こうへい、1984年4月14日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身で伊勢ヶ濱部屋(入門時は安治川部屋)所属の現役大相撲力士、第70代横綱(2012年11月場所〜)。隆の山に次いで幕内で2番目に軽量の力士。尊敬している力士は、同じく軽量だった初代貴ノ花。稽古熱心な力士として知られており、ビデオで初代貴ノ花の相撲を研究している。
■サンジャースレンギーン・オユーン
1964年 - は、モンゴル国の政治家。市民のゾリク議長。1998年から国民大会議(大フラル)議員。兄は元政治家のサンジャースレンギーン・ゾリク。ウランバートル出身。女優の娘として生まれる。1987年、チェコスロバキアのプラハ・カレル大学卒。専攻は、地理学。大学卒業は多国籍資源企業リオ・ティントに入社し、セレンゲ県やヘンティー県で地理学の知識を生かして働いた後、ハーバード大学から、地理学博士号を得る。
■ロブサンジャムツィーン・ムルドルジ
Luvsanjambyn Mordorj、1919年 - 1996年は、モンゴルの作曲家。1950年代から1960年代にかけてのモンゴル楽壇の牽引役の一人。1955年に作曲された交響曲『我らが祖国』[1]はモンゴル初の交響曲であった。また彼はビレギーン・ダムディンスレンとともにモンゴルの国歌を作曲した。
■ジェクテルデミット・グラグチャ
1947年12月5日 - は、モンゴル人初の宇宙飛行士で、アジア人としても2番目の宇宙飛行士である。2000年から2004年の間はモンゴル国の国防大臣を務めた。モンゴルのグルワンブラグ(Gurvanbulag)で生まれた。ウランバートルで学び、航空宇宙技術者となった。空軍に入り少将に昇格した。1978年3月1日、ソビエトのインターコスモス計画の宇宙飛行士に選ばれ、1981年3月22日、ソビエト人宇宙飛行士ウラジーミル・ジャニベコフとともに、バイコヌール宇宙基地から打ち上げられた。
■ベグズィーン・ヤボーホラン
Begziin Yavuukhulan1929年 - 1982年は、モンゴル国の詩人。日本では明石書店より出版された『モンゴル文学への誘い』にて『私がこの世に生まれたわけ』と『私はどこに生まれたのか』が阿比留美帆訳で紹介されている。
|