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マレーシア
Malaysia
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■地理
マレー半島南部とボルネオ島北部を領域とする。隣接国はタイ、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピンである。一般的にはマレー半島の部分が「マレーシア半島 (地区)」 (Semenanjung Malaysia)、ボルネオ島の部分は「東マレーシア (地区)」 (Malaysia Timur) と呼ばれる。また、マレー半島とボルネオ島間の往来は、マレーシア国民であってもパスポートを必要とする。
■マレー半島
Malay Peninsula、マライ半島ともは、アジア大陸の東南端に位置する半島のことである。南北に細長く、アジア大陸の最南端箇所を有する。マレー半島の南西海岸はスマトラ島との間にマラッカ海峡で隔てられている。東沖にはボルネオ島(カリマンタン島)がある。最も狭い部分はクラ地峡である。
■マラッカ海峡
Strait of Malacca、マレー語:Selat Melakaは、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡と併せて太平洋(南シナ海)とインド洋(アンダマン海)を結ぶ主要航路の一つとなっている。年間の通過船舶数は5万隻を超え、タンカー・コンテナ船など経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行きかう。
■東インド諸島
East Indies, スペイン語 Indias Orientales)は、かつて東南アジアの島嶼地域を呼んだ名。およそ、現在のインドネシア(ニューギニア島を除く)、フィリピン、マレーシアのカリマンタン島部分、シンガポール、ブルネイ、東チモールに当たる。「東インド」という名称は、大航海時代にアメリカ大陸に到達したヨーロッパ人が、当初その地をインドと信じたものの、のちに本来のインドとは異なることに気づき、アメリカ大陸を「西インド」、本来のインドとその近隣地域を「東インド」と呼称したことによる。
■アンダマン海
Andaman Seaとはインド洋の縁海で、マレー半島とアンダマン諸島、ニコバル諸島との間の海。 約1200kmの海岸線、650kmの東西の幅、797,700km2の海面、平均870メートルの深さを有する。最深部は3,777メートル。風光明媚なことで知られ、周辺の島々や海岸にはリゾート地が建設され、マリン・スポーツが盛んである。著名なリゾート地としては、南東部にプーケット島やランカウイ島がある。
■キナバル山
Mt.Kinabalu)は、ボルネオ島北部、マレーシア領のサバ州にある山である。標高 4,095.2mはマレーシアの最高峰である。キナバルとは、マレー語でキナは中国、バルは未亡人の意味。キナバル山付近には、中国の王子とその未亡人の伝説も残っている。
■ボルネオ島
Pulau Borneoは、東南アジアにあり、グリーンランド島、ニューギニア島に次いで世界で3番目(4番目といわれる場合もある)に面積の広い島(面積 725,500 km2、日本の約1.9倍)。南シナ海(西と北西)・スールー海(北東)・セレベス海とマカッサル海峡(東)・ジャワ海とカリマタ海峡(南)に囲まれている。世界で最も多くの国の領地がある島である。
■ペナン島
Pulau Pinang, Penang, 檳島は、マレー半島の西方、マラッカ海峡に位置する島である。対岸のマレー半島部分バタワースと合わせてマレーシア・ペナン州を構成している。マレー半島とは長さ12キロメートルのペナン・ブリッジによって結ばれているほか、フェリーが頻繁に往来している(所要時間は20分ほど)。マレーシアの首都クアラルンプールからは北西に約350キロメートル離れている。
■ランカウイ島
Pulau Langkawiとは、マレーシア北西部のアンダマン海にある島。地元の言葉でランは鷹、カウイは大理石を意味する。クダ州に属し、この周辺の98の島々を含めてランカウイ群島と呼ぶ。数多くの伝説が語り継がれていることから、伝説の島と呼ばれている。
■ティオマン島
Pulau Tiomanとは、マレーシアのジョホール州メルシンから、北東へ約56km、南シナ海に浮かぶ、パハン州に属する島である。島自体は南北約39km、東西約12kmと比較的大きな島だが、集落が少しあるだけで、島のほとんどが手付の大自然に覆われている。透き通る海とサンゴ礁、ホワイトサンドのビーチが最大の魅力で、世界でも有数のダイビング・スポットとして人気が高い。
■キャメロンハイランド
Cameron Highlands, 中国語: 金馬侖高原は、マレーシア、イポーの北約20km、クアラルンプールの北約150kmパハン州にある高原リゾート。標高が1,500mを超えるため、年間を通じて気温が20℃前後と涼しい。 タイのシルク王として知られたジム・トンプソンが謎の失踪をとげた場所としても有名。
■ダヤク族
DayakまたはDyakは、ボルネオ島に居住するプロト・マレー系原住民の総称。関連民族毎に細分化され、カヤン・ダヤク、クニャー・ダヤク、ヌガジュ・ダヤク、海ダヤク、陸ダヤクなどと複合名称として用いられることが多い。カヤン川上流に起源を持つ民族で、バハウ族とも呼ばれる。18世紀以降にサラワク州へと移住した。農耕、採集、漁撈などを営み、重い耳飾による耳たぶの変容に特徴を持つ。世襲制の首長と貴族に統治された双系の階級社会を持つ。
■マレー人
本来はマレー半島、スマトラ島東海岸、ボルネオ島沿岸部などに住んでマレー語を話し、マレー人と自称する人々(民族)のことを指し、マレー語ではムラユ Melayu と呼ぶ。漢字では馬来人と表記した。移住により南アフリカの人種構成にも影響を与えた。
■ジョホール・シンガポール・コーズウェイ
Johor-Singapore Causeway, マレー語: Tambak Johor)は、ジョホール海峡を横断してシンガポールのウッドランズ(シンガポール島北部)とマレーシアのジョホール州州都であるジョホールバルを橋(en:Box girder bridge)で結ぶ道路である。
■ジョホール州
Johor, マレーシアの半島部最南部に位置する州である。ジョホール海峡を挟んだ隣国シンガポールとはジョホール・シンガポール・コーズウェイ(Causeway)で結ばれているが、交通渋滞が激しいため、ジョホール・バル郡西部のタンジュン・クパンからもシンガポール西部と結ぶ橋(マレーシア・シンガポール・セカンドリンク)が1998年に完成。
■ケダ州
Kedah, は、マレーシアの行政区画 (州) の一つである。カタカナでは、クダ州の表記も用いられる。半島部マレーシアの北部西岸に位置しており、州の北側にはプルリス州があり、北東にタイ南端(ヤラー県、ソンクラー県)と国境を接し、南側にはペナン州とペラ州と接している。州都はアロー・スター。
■クランタン州
Kelantan, は、マレーシアの行政区画 (州) の一つである。クランタンは15世紀には独立した王国(スルターン国)であった。明史に「急蘭丹」として記録が残っている。
■ムラカ州
Melaka, マレー半島西海岸南部に位置し、州都はムラカ(マラッカ)である。スマトラ島のパレンバンの王子パラメスワラが1396年頃マラッカ王国を建国した。彼はパレンバンを統治していたシュリヴィジャヤ国の内乱に乗じて独立を企てたが失敗、テマセック(シンガポール)に逃亡。王を殺し、王座に着いたがタイに追われ、ジョホールからマラッカへ退避。国を建国する。
■ヌグリ・スンビラン州
Negeri Sembilan,首都クアラルンプールの南側に位置し、一部をマラッカ海峡に面する。人口はおよそ88万人。マレー語で「九つの州」という意味。事実、かつてはマレー人の首長が支配する9つの独立した地域によりて構成されていた。
■パハン州
Pahang, 州の大半を熱帯雨林に覆われており、マレーシアで最も有名な国立公園・タマン・ネガラのジャングルは1億3000万年前から形成され、無数の動植物が棲息している。
■ペナン州
Pulau Pinangは南北24キロメートル、東西15キロメートルのペナン島、東洋屈指の長大橋ペナンブリッジで結ばれる対岸のマレー半島部分のスブランプライにて構成される。
■ペラ州
(Perak,州都イポーは、もともとスズ鉱山で発達した都市のため、人口の約75パーセント以上を中国系が占める。中国系の広東人と客家人が多いため共通語は広東語(広府話)になっている。
■プルリス州
Perlis,マレーシア最北端に位置し北側はタイ(サトゥーン県、ソンクラー県)と国境を接し、南側はクダ州と接する、最も小さな州。人口はおよそ20万人。
■セランゴール州
Selangor、首都郊外という立地の良さと、実体経済に支えられた分厚い中流層が多く存在するため、小売業も好調。例えば、イオン系列のショッピングモールとしては東南アジア最大にして世界第3位の規模を誇るイオンブキティンギショッピングセンターもセランゴール州に位置している。
■トレンガヌ州
Terengganu,マレー半島東海岸における北部に位置し、西をクランタン州、南をパハン州に隣接する。東岸は南シナ海に面している。レダン島(Pulau Redang)、プルフンティアン島(Pulau Perhentian)、カパス島(Pulau Kapas)もこの州の一部である。
■サバ州
Sabah, ボルネオ島東部、ブルネイとインドネシアに隣接している。現在はマレーシア領であるが、かつてフィリピンが同地域の領有権を主張したこともある(スールー王国参照)。なお、1963年にマレーシアが領有する前はイギリスの保護国(北ボルネオ)であり、 北ボルネオ会社が設立し当初は経営もしていた。
■サラワク州
Sarawak, マレーシアの国土の37.5%を占める。ボルネオ島の海岸線750kmに渡り、島の相当部分のインドネシア領とは中央山脈で隔てられる。サラワク、サリバス、ラジャン等の川が南シナ海に注ぐ。
■多民族国家・民族構成
三つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成が極めて複雑な国の一つであり、多民族国家である。単純な人口比では、マレー系 (約 65 %)、華人系 (約 25 %)、インド系 (印僑) (約 8 %) の順で多い。
■宗教
イスラム教が国教であり、マレー系を中心に広く信仰されている。中国系は仏教、インド系はヒンドゥー教徒が多い。また、イギリス植民地時代の影響でキリスト教徒もいる。東アジアの非イスラム教国に住むムスリム (イスラム教徒) は、一般にマレーシアの見解に従うことが多い。
■言語
国語および公用語は「マレーシア語(Bahasa Malaysia バハサ・マレーシア)」である(1967年まで英語が公用語)。マレー語は広義ではインドネシア語などを含む場合があり、政府が「マレーシアの国語としてのマレー語」を「マレーシア語」と表記することを定め、2007年より正式に使われている。
■ジャウィ文字
ジャウィ文字(マレー語: Jawi)とは、マレー語(インドネシアでの呼称はインドネシア語)やジャワ語を表記するのに使われるアラビア文字。東南アジア島嶼部(マレー半島や現在のインドネシア中・西部の島々から成る地域)にイスラームが普及した14世紀頃から使用され始めた。
■マレー語
Bahasa Melayu,は東南アジアのマレー半島周辺に分布するマレー人によって話されるオーストロネシア語族の言語である。マレー語はオーストロネシア語族・西オーストロネシア語派に属する言語であり、マレーシア、シンガポールおよびブルネイの国語として話されている。また文法・語彙ともにインドネシア語と共通する部分が多く、言語学的には同一言語の中の方言である。両者の違いは植民地時代の宗主国の違いと、それによる借用語の来歴に多くを拠っている。
■ジョホール王国
Johor Empire))は1528年に成立したマレー半島南部を本拠とする港市国家で、マラッカ海峡両岸(現在のマレーシア、シンガポールおよびインドネシア)におよぶ海上帝国を築いた。マラッカ王国を継承したマレー人による国家でイスラーム教を奉じ、18世紀前半の政変を経て、王都はリアウ諸島のビンタン島(現インドネシア・リアウ諸島州)に遷された。
マレーシア観光局公式サイト
東南アジアの中心に位置するマレーシアは、マレー半島とボルネオ島の一部・サバサラワク州から成り立っています。国土面積はマレー半島部分とボルネオ島部分を合わせ、33万338平方キロメートル。日本の面積の9割弱の広さの土地に、日本の16%の人口が住んでいることになります。そして国土の約60%が熱帯雨林で覆われています。人口約2830万人のマレーシアは、マレー系・中国系・インド系、そして多数の部族に分けられる先住民族で構成される多民族国家です。それぞれの民族が持つ宗教、生活習慣の融合は独特な文化を生み、マレーシアの魅力の魅力を創り出しています。また、のんびりとくつろぐことの出来る砂浜、南国の熱帯雨林、魅力的な島々、神秘的で荘厳な山々など自然美に溢れる国です。
■マルチメディア・スーパーコリドー
(Multimedia Super Corridor, MSC)はマレーシア政府によって指定された情報と知識の開発を促進するための地域のことである。おおよそ首都、クアラルンプールのペトロナス・ツイン・タワーからクアラルンプール国際空港にかけての15×50kmがこのMSCの範囲であり、プトラジャヤおよびサイバージャヤなどの新興都市が含まれる。
■ブミプトラ政策
マレーシアの経済政策。「ブミプトラ」bumiputeraとは、サンスクリット(bhumi putra, から移入された語彙で「土地の子」、丸く言えば「地元民」を意味する言葉である。マレーシアではモンスーン貿易が盛んで、中国やインドからの移民が昔から多かった。さらに、イギリス植民地時代には、宗主国のイギリスによって中国やインドなどから外国人労働者が連れてこられたため、多民族社会化がさらに進んだ。
■ルックイースト政策
Look Eastは、日本・韓国の集団主義と勤労倫理を学べという、マレーシアの政策である。もともとは、1981年7月16日にマレーシアの第4代首相に就任したマハティールが同年の12月15日に提言した内容がそのように呼ばれるようになった。
■天然資源
マレーシアの鉱業はスズ鉱の採掘が中核となっている。2002年時点の採掘量は4215トンであり、世界シェア8位 (1.7%) を占める。主な鉱山は、クダ州、ヌグリ・スンビラン州に点在する。スズ以外の鉱物資源としては、金鉱(サラワク州、パハン州)、鉄鉱、ボーキサイト鉱(ジョホール州)、などが有力である。有機鉱物資源では、石炭、原油、天然ガスを産し、石炭以外は世界シェアの1%を超える。いずれもブルネイ・ダルサラーム国に近いサラワク州北部の浅海から産出する。日本が輸入する天然ガスの約20%はマレーシア産である。
<世界遺産>
マラッカ海峡の歴史的都市群:
■マラッカ
マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する港市であり、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。
■ジョージタウン
200年前はジャングルであったが、マラッカ海峡の入口にあたるところから、シンガポールと共に、イギリスによるマレー支配 である海峡植民地のひとつとなった。この地名はイギリスの当時の国王ジョージ4世に因んだもの。
■キナバル公園
ボルネオ島のマレーシア領内、北端部のサバ州にあるキナバル山を含む、3つの山を中心とした山域の保護を目的とした自然公園。マレーシアの国立公園である。
■グヌンムル国立公園
ムル山は、標高2,377m。山頂を含め、カルスト地形となっている。地下には、総延長が約175kmあるクリアウォーター洞窟系や、約50kmあるベナラット洞窟系など、巨大かつ長大な洞窟群が広がっている。洞窟群にはコウモリやアナツバメが生息。ディア・ケイブと呼ばれる洞窟は、世界最大の空洞のひとつ。夕刻になるとこのディア・ケイブから数百万のコウモリが雲のように飛び立つ風景を見ることができる。
■音楽
西欧の現代音楽シーンとは係わり合いがなさそうに思えるが、21世紀以降、タズル・イザン・タジュッディン、キー・ヨン・チョン、アエノン・ジャエン・ルー、ジィ・アーヴィなどの新世代は海外で積極的に評価され、国際的にトップレベルの水準に達していることで知られる。
■食文化
イスラム国家ではあるが、華人や外国人は飲酒も可能、豚肉も食べたりと非常に食の自由度が高い (マレー系はムスリムであり、酒や豚肉を口にしない)。特に中華系移民の間から発祥したマレーシアでしか味わえない食べ物もある。中でも肉骨茶 (バクテー) は人気が高い。南国なのでフルーツは非常に多彩であるが、多くが国外からの輸入である。マレーシアの食料自給率は高いとはいえない。有名なドリアンは最もポピュラーな果物の一つであり、屋台などでも容易に購入できる。
■プロトン (自動車)
Proton は1980年代に当時のマレーシアのマハティール首相の国産車構想の元、政府のバックアップによって設立された国策自動車メーカーである。名称はマレー語のPerusahaan Otomobil Nasionalの略。イギリスの著名なスポーツカーメーカー・ロータスを傘下に持つ。
■アブドラ・バダウィ
Abdullah bin Haji Ahmad Badawi、1939年11月26日 - はマレーシアの政治家。前首相で内務大臣・大蔵大臣を兼任。信仰心厚く、温厚にして誠実、清廉な政治家として「Mr.Clean」と呼ばれる一方、国民に対しても開かれた態度で人気が高く、「Pak Lah(ラーおじさん)」と呼ばれ親しまれている。2005年に亡くなったEndon Mahmood前夫人の母親はマレーシア生まれの日本人である。 2007年5月には明治大学から名誉博士の学位が贈られている。
■ナジブ・ラザク
Mohd Najib bin Tun Haji Abdul Razak、1953年7月23日 - はマレーシアの政治家。第6代首相。前政権では2004年1月7日より副首相を務め、2009年4月3日にアブドラ・バダウィより政権を引き継いだ。ナジブは統一マレー国民組織(UMNO)の党員で、現総裁でもある。
■トゥンク・アブドゥル・ラーマン
Tunku Abdul Rahman Putra Al-Haj ibni Almarhum Sultan Abdul Hamid Shah、1903年2月8日 − 1990年12月6日は、「マレーシア独立の父」であり、1947年に結成され1957年に独立したマラヤ連邦の初代首相である。1963年にマラヤ連邦がサバ州、サラワク州、シンガポールを加えてマレーシアに発展解消した際に、マレーシア初代首相に就任した。
■蔵原惟繕
蔵原 惟繕(くらはら これよし、1927年5月31日 - 2002年12月28日)は、日本の映画監督。文芸評論家・蔵原惟人はいとこおじ、映画監督・蔵原惟二は実弟にあたる。ボルネオ島のサラワク王国クチン市(現・マレーシアのサラワク州クチン)にて出生、後に日本へ戻る(そのため、プロフィールでは出身地を東京都としているものもある。日本大学芸術学部映画学科在学中に本多猪四郎の紹介で、山本嘉次郎の家に書生として住み込む。
■キー・ヨン・チョン
キー・ヨン・チョンは、マレーシア出身の中国人の現代音楽作曲家。現在はブリュッセルに住む。ブリュッセル音楽院を首席で卒業。ICOMS国際作曲コンクール第1位受賞後次々と国際コンクールを制し、現在では20以上の受賞歴がある。第2回ソウル国際作曲コンクールと第4回パヌフニク国際作曲コンクールをともにグランプリで獲得などしたころより、頭角を現す。現在もブリュッセルにピアニストの妻と一人娘と住み、ヨーロッパの楽壇からの委嘱に応える。ワルシャワの秋出品時のパンフには、「親の仕事を継ぐのに反対して音楽家になることを決意したが、ベルギーで皿洗い」をするなど苦渋の生活であったと本人からのコメントがある。
■ナジブ・ラザク
Mohd Najib bin Tun Haji Abdul Razak、1953年7月23日 - はマレーシアの政治家。第6代首相。前政権では2004年1月7日より副首相を務め、2009年4月3日にアブドラ・バダウィより政権を引き継いだ。ナジブは統一マレー国民組織(UMNO)の党員で、現総裁でもある。父親は第2代首相アブドゥル・ラザク。
■アブドゥル・ラザク
Tun Abdul Razak bin Haji Dato' Hussein Al-Haj 、1922年5月11日 - 1976年1月14日は、マレーシア第2代首相(1970年から1976年)である。出生は、パハン州のプラウ・クラディ。第6代首相のナジブ・ラザクは長男。「マレーシア発展の父」(Bapa Pembangunan)と死後、呼ばれている。マレー大学クアラ・カングサール校を卒業した後、1940年にシンガポールのラッフルズ大学で勉強するために奨学金を取得した。彼のシンガポールの留学は、第2次世界大戦の勃発とともに停止を余儀なくなれた。戦争中は、彼は、パハン州でのレジスタンス組織を援助した。
■ジェームズ・ブルック
Sir James Brooke, 1803年4月29日 - 1868年7月11日は、イギリスの探検家。ボルネオ島北部に存在した白人王国「サラワク王国」の初代藩王(在位1841年-1868年)。イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物として知られている。インドのベナレスのイギリス人居留地で裁判官の子として生まれた。12歳で本国の学校に入学するが問題児だったうえに15歳の時に寄宿舎から脱走して放校処分になった。1842年にブルックは、ブルネイのスルタンのもとに直接おもむき正式にラジャ(藩王)に任じられ”白人王 “の称号を与えられた。
■フセイン・オン
フセイン・ビン・ダトー・オン(1922年2月12日 - 1990年5月29日)は、マレーシアの第3代首相である。就任期間は、1976年から1981年である。UMNO創設者でもあるダトー・オンを父に持ち、ジョホールバルで生まれた。初等教育をシンガポールで受け、ジョホール・バルの英語大学を卒業している。その後、1940年に、士官候補生としてジョホール軍に参加し、インド陸軍学校に派遣された。
■マハティール・ビン・モハマド
Mahathir bin Mohamad、1925年7月10日/12月20日 - は、マレーシアの政治家、医師。マレーシア第4代首相。マレーシアの首相の中では最長の22年間を務め上げた。開業医から政治家に転じ、欧米諸国ではなく、日本の経済成長を見習おうというルックイースト政策をはじめ、長期に及ぶ強力なリーダーシップにより、マレーシアの国力を飛躍的に増大させた。
■ジム・トンプソン
ジェームズ・ハリソン・ウィルソン・トンプソン(James Harrison Wilson Thompson, 1906年3月21日 - 不明)は、タイのシルクを世界に広めたことで知られるアメリカ人実業家。軍人。私財を投げ打ってタイ・シルクの復興とその売込みに没頭した結果、アメリカのファッション業界を中心に注目を浴び、ハリウッド映画『王様と私』の衣装として使用されるなど、欧米諸国でタイ・シルクの人気が上がり、その結果、トンプソンはタイ・シルクを復興させた男として欧米のみならず世界中で知られることになる。1967年3月26日に、休暇で訪れていたマレーシアの高級別荘地、キャメロン・ハイランドにある友人の別荘『ムーンライト・コテージ』で忽然と姿を消し、マレーシア軍や警察、現地の住人などのべ数百名を動員した大規模な捜索活動にも拘らず、その姿は二度と発見されることはなかった。
■シェイク・ムザファ・シュコア
Sheikh Muszaphar Shukor、1972年7月27日 - はマレーシア生まれの整形外科医、宇宙飛行関係者。初めて宇宙へ行ったマレーシア人であり、宇宙でラマダーン(断食月)を過ごした初のイスラム教徒でもある[1]。アンカサワン宇宙飛行計画(Angkasawan spaceflight program、Angkasawanはマレー語で宇宙飛行士を表す)とは、マレーシア人の宇宙飛行士を養成し宇宙へ送り込まんとする、マレーシアの国家計画である。
■レース・ウォン
Race Wong、本名:?婉佩、1982年9月7日 -は、香港で活動しているマレーシア出身の女優、元2Rのメンバーである。身長は160cm。体重は42kg。星座はおとめ座。2002年から2007年までユニバーサルミュージックに所属していた。
■蔡明亮
蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)は台湾で活動する映画監督・脚本家。マレーシアで生まれ20歳のときに台湾に渡る。中国文化大学演劇科で映画・演劇を学び、脚本家として活動するかたわらテレビドラマの脚本・監督を手がける。『青春神話』(1992) で映画監督デビュー。同作品で台湾の中時晩報(新聞)主催の映画賞で最優秀作品賞を受賞するとともに、東京国際映画祭ヤングシネマ部門ブロンズ賞に輝く。2作目の『愛情萬歳』(1994)はヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に出品され、グランプリ(金獅子賞)を受賞。
■リー・チョンウェイ
(李宗偉、Lee Chong Wei, 1982年10月21日 - )は、マレーシアの男子バドミントン選手。身長174cm。北京オリンピックの銀メダリスト。強力なスマッシュと速いフットワークで確実にポイントを重ねる。着実に世界大会で勝ち星を重ねている。基本に忠実な彼のプレーをお手本にするジュニア選手は非常に多い。 |
マレーシア Malaysia
東南アジアのマレー半島南部とボルネオ島北部を領域とする連邦立憲君主制国家で、イギリス連邦加盟国である。 タイ、インドネシア、ブルネイと陸上の国境線で接しており、シンガポール、フィリピンと海を隔てて近接する。ASEANの一員。
クアラルンプール/Kuala Lumpur
東南アジア有数の世界都市。マレー半島南部の丘陵地帯にある。一般的にKLと略して称される。クアラルンプールはマレー語で「泥が合流する場所」という意味があり、市中心部にある代表的なモスク「ジャメ・モスク」の付近で、ゴンバック川とクラン川が合流していることが基になっている。面積:243.6平方キロメートル
人口:約160万人。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は583万人であり、世界第47位。
■プトラジャヤ
プトラジャヤ(Putrajaya)はマレーシアの行政新首都として開発中の連邦直轄領で、首都クアラルンプールの南方約25kmに位置する。人口はおよそ7万人(2010年)。ほとんどが政府機関で働く職員とその家族である。プトラジャヤの建設はマレーシア最大の国家プロジェクトとして、マレーシアの建設会社の手によって1995年8月に始まった。建設費は81億米ドルを見込んだ。1997年のアジア通貨危機によって工事は遅れ、1999年に首相官邸の機能の一部がプトラジャヤに移転を開始、2001年2月にはクアラルンプールとラブアンに次いでマレーシアで3番目の連邦直轄領となった。
■ジョホールバル
Johor Bahruは、マレー半島最南端に位置する、マレーシア・ジョホール州の州都で、首都クアラルンプールに次ぐ第二の都市。
コタキナコのKINAKO'S BLOG
東マレーシア・ボルネオ・サバ州政府観光局・オフィシャルブログ
外務省:マレーシア
在マレーシア日本国大使館
■マラヤ大学
Universiti Malayaは、マレーシア最初の大学。首都クアラルンプールの南西に750エーカー (3.0km sq) のキャンパスが位置する。マレーシア最高学府として知られている。
■マレーシアサインズ大学
Universiti Sains Malaysiaは、マレーシア, ペナン州に本部を置くマレーシアの公立大学である。1969年に設置された。
■クチン国際空港
Kuching International Airport は、マレーシアのサラワク州クチンにある国際空港である。3階建てになっており、出発ホール・到着ホールに道路が接続されている。サラワク州は独自の入出国審査を実施している。したがって、サラワク州以外のマレーシアとの発着にもサラワク州の入出境審査が行われる。
■ランカウイ国際空港
(Langkawi International Airport) は、マレーシアのケダ州ランカウイにある国際空港である。ランカウイ中心部のクアタウンから西へ約18kmに位置する。
■コタキナバル国際空港
Kota Kinabalu International Airportとは、マレーシアのサバ州コタキナバルにある国際空港である。
■スナイ国際空港
Senai International Airportとは、マレーシアのジョホール州ジョホール・バルにある国際空港である。正式名称は、スルタン・イスマイル空港(英語: Sultan Ismail Airport)である。ジョホール・バル中心部から北北東へ約22 キロメートルの位置にある。シンガポールに近いことから、シンガポール在住者の利用も多い。
■ラブアン空港
Labuan Airportは、マレーシアの連邦直轄領ラブアンにある空港である。ラブアン中心部から北へ約5kmに位置する。
■スルタン・アズラン・シャー空港
Sultan Azlan Shah Airportは、マレーシアのペラ州イポー (Ipoh) にある国際空港で、ペラ州の空の玄関口である。
■ミリ空港
ミリ空港(Miri Airport)は、マレーシアのサラワク州ミリにある空港である。
■ペナン国際空港
(Penang International Airport) とは、マレーシアのペナン州ペナン島にある国際空港である。
■ジョージタウン
George Townは、マレーシアのペナン州の州都であるペナン島市の中心部の地区である。ジョージ・タウン地区の人口は約40万人。近年は住宅・商店・ホテル・病院・官公庁などの都市基盤もしっかりしており、マレーシアでは首都クアラ・ルンプールに次ぐ第二の都市となっている。
■イポー
Ipohは、マレーシアペラ州の州都。首都クアラルンプールから南北高速道路で約200キロメートル北に位置する。19世紀に成長著しい錫鉱業によりマレーシアの主要都市へと発展した。英国の植民地時代に、マレーシア第二の都市となった。鉄道駅や町役場など、英国植民地時代の顕著な建築物がいくつか残されている。イポーの人口の七割が中国系の住民である。
■コタキナバル
Kota Kinabaluは、マレーシア・サバ州の州都で、 東マレーシア(ボルネオ島のマレーシア領地域)で最大の都市、人口は約47万人。現在はサバ州の政治経済の中心であると共に、マリンリゾートやキナバル自然公園(キナバル山)への玄関口としても知られている。
■クアラトレンガヌ
Kuala Terengganuは、マレーシアにあるトレンガヌ州の州都である。マレーシア半島東岸、南シナ海に面する位置にある。市の名前は、トレンガヌ川の河口にあるため、文字通り「トレンガヌの河口」という意味。市街には、中華街、中央市場、スルタンの王宮、トレンガヌ州博物館などがある。
■バターワース
(Butterworth)はマレーシアのペナン州に所在する町。マレー鉄道の駅がある。ペナン島とは海を挟んだ対岸にある。ペナン島とは間に架橋された長さ12キロメートルのペナン・ブリッジによって結ばれているほか、フェリーが頻繁に往来している(所要時間は20分ほど)。 フェリーターミナルと駅は連絡橋で結ばれている。
■アロースター
(Alor Setar) は、マレーシアのケダ州の州都である。タイ国境の南約 45 km に位置し、タイのハジャイから、マレーシア最北端のブキット・カユ・ヒッタム(Bukit Kayu Hitam)経由で西マレーシアへ入国後の最初の大きな町である。バターワースの北約 93 km に位置する。
■クチン
(Kuching) は、マレーシア サラワク州の州都であり、クチン省の省都である。ボルネオ島の南シナ海に面しサラワク川の河口に位置する。中心部は内陸のサラワク川岸にある。人口は約58万人(2005年)。
■コタバル
(Kota Bharu) は、マレーシアの都市。マレー半島北東部のクランタン州の州都で、南シナ海・タイランド湾に面する。2005年の人口は425,294人、総面積 394km2。コタ・バルとはマレー語で「新しい町」または、「新しい城」を意味する。
■ラブアン
(Labuan) は、マレーシアの連邦直轄領の一つで、サバ州の沖合い南シナ海に浮かぶ島。島の中心はバンダル・ラブアン (Bandar Labuan) で、首都のクアラルンプールやボルネオ島最大の都市コタ・キナバルと国内線やフェリーで結ばれている。
■ミリ
Miri、は、ボルネオ島のサラワク州にある、ブルネイと接するサラワク州最小の都市。20世紀初頭から油田が発見され、以降オイルタウンとして成長してきた。ミリは市に該当し、州都のクチンに次いで人口約21万人の都市。 旅行者にとってはグヌン・ムル国立公園やニア国立公園へのゲートウェイとして知られている。
■クルアン
(Kluang、は、マレーシア・ジョホール州のほぼ中央にある都市および郡。ジョホールバルから北へ、バトゥパハッ(Batu Pahat)から南東へメルシンから西へ、セガマッ(Segamat)から南へ、それぞれ約110kmのところに位置する。
■タイピン
(Taiping) とは、マレーシアのペラ州にある都市である。タイピン市は雨城の愛称で呼ばれている。マレー半島の平均年間降水量は約2,000〜2,500ミリメートルであるがタイピン市の平均は、4,000ミリメートルほどになる。降水量に恵まれて、肥沃な庭園の湖と素晴らしいコレクションの植物が多く見られる。
■経済
IMFによると、マレーシアの2011年のGDPは2786億ドルであり、神奈川県よりやや小さい経済規模である。一人当たりのGDPは9,699ドルであり、シンガポールには遠く及ばないものの、タイの2倍近くの水準である。イギリスの植民地時代からのゴムのプランテーションや錫の採掘、天然ガスの掘削など、特定の農作物や鉱物の生産が盛んであるが、マハティール・ビン・モハマド首相の指導の下、従来の農作物や鉱産物の輸出、観光業に依存した体質からの脱却を果たし、2020年に先進国入りするとの目標「ワワサン(マレー語でvisionの意)2020」を掲げた。
■東南アジア諸国連合
Association of South‐East Asian Nations)は、東南アジア10か国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。略称はASEAN(アセアン)。本部はインドネシアのジャカルタに所在。
■マレーシア料理
マレーシアの民族それぞれに料理があり、複数の民族から影響を受けた料理も多く、マレーシアの多文化的要素の反映となっている。調理する食材は同じだが、地域によって違なる調理法があり、それにより異なる味や盛り付けがもたらされている。
■鉄道
マレー鉄道がタイ国境 (西線。東線は国境付近まで) からシンガポール (マレー鉄道のシンガポール国内区間はマレーシアの権益) まで縦断している他、クアラルンプール周辺では高架電車や近郊通勤列車、モノレールが整備されている。
■マレー鉄道
Malayan Railwaysとは、マレー半島南部を占める国マレーシアを縦断する鉄道路線である。シンガポールにも鉄路を伸ばしている。
■マラッカ王国
Malacca Sultanateは、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家(1402年 - 1511年)。漢籍史料では満刺加と表記される。16世紀初頭にマラッカに滞在し、『東方諸国記』を著したポルトガル人トメ・ピレスによれば、「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとされている。
■マラヤ連邦
Federation of Malaya、Persekutuan Tanah Melayuは、11州によって構成されるマレー半島の連邦。1948年1月31日にマレー半島9州とペナン、マラッカによって結成された。1946年から1948年にかけて、この地域はマラヤ連合としてイギリスの直轄支配を受けていた。しかし、この連合がムラユ人(マレー人)の地位低下をもたらすものだったため、ムラユ人の民族主義的な反対が高まった。ムラユ連合は解体され、マレー各州の象徴的な君主(スルターン)がその地位を回復させ、マラヤ連邦へと再編された。
■サラワク王国
ボルネオ島北部(現在のマレーシア・サラワク州とブルネイ)に存在した白人王国。ジェームズ・ブルック(James Brooke 1803年 - 1868年)が建国し、ブルック王朝3代が統治した。19世紀半ばのブルネイでは原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイのスルターンは1839年にサラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼。ブルックは、英国海峡植民地政庁の協力で鎮圧に成功し、褒賞としてサラワクを割譲させ、ラージャ(藩王)に任じられた。
■北ボルネオ会社
British North Borneo Companyは、北ボルネオ(現在のサバ州)を統治するために、1881年8月に設立されたイギリスの特許会社。北ボルネオが大英帝国の保護領(イギリス領北ボルネオ)となり、1946年まで国内問題は、北ボルネオ会社によって治められた。1882年、北ボルネオ会社はガヤ島(Pulau Gaya)の居住区に創設され、1年後に本国よりサバ州統治の委任を受けた。しかし1897年にサバの部族によって襲撃されて焼け落ち、以後再建されることは無かった。
■ムラカ
Malaccaは、マレーシアの港湾都市。マレー半島西海岸南部に位置し、東西交通の要衝マラッカ海峡に面する港市であり、ムラカ州(マラッカ州)の州都である。スマトラ島のパレンバンの王子パラメスワラが、1396年頃マラッカ王国を建国した。彼はパレンバンを統治していたシュリーヴィジャヤ王国の内乱に乗じて独立を企てたが失敗、テマセック(シンガポール)に逃亡。王を殺し、王座に着いたがタイに追われ、ジョホールからマラッカへ退避。国を建国する。
■サンダカン
Sandakanはマレーシア・サバ州にある都市で、州都コタキナバルに次ぐ第二の商業都市である。中国語には山打根と表す。周囲にはマングローブ林やオランウータンの保護区が存在する。サンダカンには当時娼館の女将が造った日本人墓地があり、明治から大正にかけて生活のために身を売られてきた海外売春婦(からゆきさん)が葬られている。
■統一マレー国民組織
United Malays National Organization、略称はUMNOは、マレーシアの最大政党で、与党連合・国民戦線(Barisan Nasional)の創立メンバーである。マレー系住民の政党。1945年、現在のマレーシアと呼ばれている地域(マラヤ)は、第二次世界大戦終了後、再び、イギリスの植民地(マラヤ連邦)となった。しかし、マラヤ連邦は、数多くの反対に直面する。1946年5月11日、ジョホールバルにて、ダトー・オンを党首に迎え、UMNOが発足する。
■マレーシア華人協会
Malaysian Chinese Association, MCAは、マレーシアの政党。中国系住民のうち経済界および中産階級の権益を中心に代表する。独立後、マレー系の統一マレー国民組織(UMNO)およびマレーシア・インド人会議(MIC)と連携し一貫して連立与党の地位にあり、現在も与党連合である国民戦線(BN)における第2勢力である。
■マレーシア・インド人会議
Malaysia Indian Congress、略称MIC。インド系住民の利益を専門に代表する唯一の議会政党。独立後はマレー系の統一マレー国民組織(UMNO)およびマレーシア華人協会(MCA)と組むことで一貫して連立与党の地位にあり、現在も与党連合である国民戦線(BN)に加盟している。
■全マレーシア・イスラーム党
Parti Islam Se Malaysia、略称:PAS)は、マレーシアにおけるイスラーム政党である。PASは自らをクルアーンやスンナといったイスラーム法源に基づく「マレーシア・イスラーム国家」を設立することに置く。
■国名
公式の英語表記は Malaysia。マレーシアとは「『ムラユ (Melayu)』の国」の意味だが、この「ムラユ」という言葉自体は、サンスクリット語で「山脈のある土地」を意味する「マラヤドヴィパ (Malayadvipa)」を語源としている。古代インドの時代には、交易商たちがマレー半島を指すときに使う言葉であった。その後、7世紀から13世紀にかけてスマトラ島に存在した王国 (ムラユ王国) の名として継承され、近代に入ってからフランス人の探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルによってマレーシアという言葉が生み出される。
1.面積:約33万平方キロメートル(日本の約0.9倍)
2.人口:2,840万人(2010年統計局)
3.首都:クアラルンプール
4.民族:マレー系(66%)、中国系(約25%)、インド系(約8%)(注:マレー系には中国系及びインド系を除く他民族を含む)
5.言語:マレー語(国語)、中国語、タミール語、英語
6.宗教:イスラム教(連邦の宗教)、仏教、儒教、ヒンドゥー教 、キリスト教、原住民信仰
15世紀初め マラッカ王国成立
16世紀〜17世紀 ポルトガル、オランダ東インド会社によるマラッカ支配
1824年 英蘭協約によりマレー半島及びボルネオ島西北部が英国の勢力範囲下となる。イギリスによる植民地支配。
1942年〜1945年 日本軍による占領
1948年 英領マラヤ連邦形成
1957年 マラヤ連邦独立
1963年 マレーシア成立(シンガポール、サバ、サラワクを加える)
1965年 シンガポールが分離、独立。
■主要産業:製造業(電気機器)、農林業(天然ゴム、パーム油、木材)及び鉱業(錫、原油、LNG)
■貿易品目(2010年)(1)輸出:電気製品、パ−ム油、化学製品、原油・石油製品、LNG、機械・器具製品、金属製品、科学光学設備、ゴム製品等(2)輸入:電気製品、製造機器、化学製品、輸送機器、金属製品、原油・石油製品、鉄鋼製品、科学光学設備、食料品等
■リンギット
Ringgit)はマレーシアの通貨単位で、MYRまたはRMで記される。マレーシア・ドルとも呼ばれるが、マレー語の公式名称であるリンギットが一般的。補助単位はセン(マレー語: sen)で、1リンギット=100セン。
■ハリマオ (映画)
『ハリマオ』は、1989年制作の日本映画。昭和初期、太平洋戦争のころのマレー半島に実在した“マレーの虎・ハリマオ”こと谷豊を描いた映画。かつてマレー半島はイギリスの植民地であった。イギリス人、マラヤ人、華僑が基盤を築くマラヤの世界とは別に、昭和初期から入植した日本人たちは自分たちのコロニーを築き、その一つ「クアラトレンガヌ」には小さな理髪店を営んでいた谷家の姿もあった。徴兵年齢になった豊は祖国へ渡るが、軍国主義の社会では外の空気を吸ったよそ者は冷遇の対象でしかなかった。徴兵検査に落ち傷心の豊がマレーに戻ったそのころ、大陸では満州事変が勃発。日本の中国侵略に抗議する華僑たちは排日運動を起こし義妹の千鶴子が暴徒と化した不良華僑に殺されるが、反日のイギリス警察は犯人の華僑を野放しにする。日本からもマレーからも受け入れられない惨めさを味わった豊は仲間と共に盗賊に身を落とし、暗い社会のお尋ね者になる道を選ぶ。華僑とイギリス人から金品を奪い、タイとマレーを飛び回る神出鬼没ぶりは“ハリマオ”(虎)と呼ばれる。
■アブドラ・バダウィ
Abdullah bin Haji Ahmad Badawi、1939年11月26日 - はマレーシアの政治家。前首相で内務大臣・大蔵大臣を兼任。信仰心厚く、温厚にして誠実、清廉な政治家として「Mr.Clean」と呼ばれる一方、国民に対しても開かれた態度で人気が高く、「Pak Lah(ラーおじさん)」と呼ばれ親しまれている。2005年に亡くなったEndon Mahmood前夫人の母親はマレーシア生まれの日本人である。 2007年5月には明治大学から名誉博士の学位が贈られている。
■サイドシラジュディン・サイドプトラ・ジャマルライル
1943年5月17日 - は、第12代マレーシア国王(在位:2001年12月13日 - 2006年12月12日)。マレーシア北部のプルリス州スルターン(2000年4月17日 - )。マレーシアの国王は他国で一般的に見られる一家系の世襲制による王位継承ではなく、国土13州のうち、ペナン州・ムラカ州・サバ州・サラワク州を除く9つの州に存在する世襲制のスルターンの互選(事実上輪番制)であり、任期は5年である。
■ニン・バイズーラ
Ning Baizura, 1975年6月28日-は マレーシアのポップス及びリズム・アンド・ブルースの歌手、女優。マレーシア語、英語、日本語、イタリア語、フランス語、中国官話、広東語で歌うことができるため、世界的な活動を展開している。9歳の時、国立ユース交響楽団で、第1バイオリンを演奏するなど早くから音楽の才能を発揮とされる。
■陳平
1924年 - はマラヤ共産党書記長、本名王文華 (ONG Boon Hua) である。中国において、策謀家として著名な人物「陳平」の名を借りた。マラヤの陳平と呼ばれるアジア現代史の怪人の一人。現在は亡命先のタイにおいて、故郷への帰還を願っているが、マレーシア国内では陳平による武力闘争を記憶している者や傷つけられた者も多く、反対勢力の関係から、難しいとされる。
■ミシェール・ヨー
Michelle Yeoh Choo-Kheng, 1962年8月6日 - は、香港、ハリウッドで活躍する女優。中国系マレーシア人。マレーシアのイポーに生まれる 。バレリーナになるため、ロンドンのロイヤル・アカデミー・オブ・ダンスでプリマ・バレリーナを目指したが、怪我が元で断念し、振付を学んで卒業。マレーシアに戻り、ミス・マレーシアに選ばれた。1997年公開の『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』では中国の情報部員役でボンドガールを務め、ハリウッドデビューを果たした。以後、ハリウッド作品の出演も増えてきている。
■ジュール・デュモン・デュルヴィル
(Jules Sebastien Cesar Dumont d'Urville, 1790年5月23日 - 1842年5月8日)はフランスの軍人・探検家。ギリシャ遠征中(1819-20)、エーゲ海のメロス島でミロのヴィーナスを交渉して買い入れフランス政府に保管させる。一生のうちに3度の世界周航を成し遂げた(1822-25、1826-29、1837-1840)。主に南太平洋やポリネシアを探検。
■トーマス・ラッフルズ
(Sir Thomas Stamford Raffles、1781年7月6日 - 1826年7月5日)はイギリスの植民地建設者、シンガポールの創設者である。14歳の時からロンドンの東インド会社で職員として働き始め、1805年当時プリンス・オブ・ウェールズ島と呼ばれていたマレー半島のペナン島に赴任し、マレー語を習得する。1811年、ナポレオン戦争当時フランスの勢力下にあったジャワ島へ英領インドから派遣された遠征軍に参加し、ジャワ準知事(lieutenant-governor)に任命され、統治に当る。このとき、ジャワ島の密林に眠るボロブドゥール遺跡を発見する。
■ウィリアム・ライト
(William Light、1786年4月27日 - 1839年10月6日)は、イギリス人都市計画家。技術将校(測量技師)で最終の階級は大佐。シャムのクアラ・ケダー(現在はマレーシア領)に生まれ、ペナン州で育った。イギリスの南オーストラリア入植地アデレードを建設したことで知られる。アデレードに残る彼の銅像は、アデレード中心部に向けて立っている。またその周囲には、さらに多くの記念碑が加えられている。
■トゥンク・アブドゥル・ラーマン
(Tunku Abdul Rahman Putra Al-Haj ibni Almarhum Sultan Abdul Hamid Shah、1903年2月8日 − 1990年12月6日)は、「マレーシア独立の父」であり、1947年に結成され1957年に独立したマラヤ連邦の初代首相である。1963年にマラヤ連邦がサバ州、サラワク州、シンガポールを加えてマレーシアに発展解消した際に、マレーシア初代首相に就任した。
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