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レバノン共和国
Republic of Lebanon
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<歴史>
■古代オリエント世界
現在のレバノンに相当する地域は、古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地中海を渡り、現チュニジアのカルタゴ[2]・バルセロナ・マルセイユ・リスボンなど各地に植民地を形成した。その後フェニキアの勢力は弱体化し、紀元前10世紀アッシリア帝国に飲み込まれた。
■レバノンのアラブ化
レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となり、キリスト教のマロン派、イスラム教のドゥルーズ派の信徒らがレバノン山地に移住して、オスマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。
■フランス委任統治領時代
現代レバノン史は1918年のフランスの占領とともに始まった。1919年ヴェルサイユの講和会議でアメリカ・イギリスの関係者とマロン派大司教のグループや「シリア中央委員会」(海外レバノン人の団体)との間で主張が異なったが、1920年4月、連合国の最高評議会はシリアとレバノンの委任統治をフランスに要請することを決めた。第一次世界大戦後、サイクス・ピコ協定に基づきフランスの委任統治下に入り、キリスト教徒が多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから切り離されて、現在のレバノンの領域にあたるフランス委任統治領レバノンとなった。
■独立後のレバノン
委任統治は1941年6月8日、フランスによってシリア、レバノンの独立宣言とともに終了した。第二次世界大戦中の1941年9月27日にシリアが、同年11月26日にレバノンが独立を布告した。しかしPLOの流入によって微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が発生し、足かけ17年に及んだ(レバノン内戦)。隣国シリアの軍が平和維持軍として進駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。
■1982年
レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍は南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した(レバノン戦争・ガリラヤの平和作戦)。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。
■1990年
シリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下に置かれた。シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたものの、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけた。
■1996年
イスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは非難された。
<現代のレバノン>
■1992年10月末
ヘラウィ大統領がラフィーク・ハリーリーの組閣を要請した。その後反シリア派のラフィーク・ハリーリーが首相としてレバノン経済を立て直した。経済復興の努力が始まり、国家緊急再建計画として主要インフラ整備の総費用30億ドルをとりまとめた。
■2006年7月
ヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(参照:レバノン侵攻 (2006年))。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリリ国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。
■2008年8月13日
ミシェル・スライマーン大統領とシリアのバッシャール・アル=アサド大統領が会談し、国交正常化に合意した。
■西アジア
アジア西部を指す地理区分である。今日の欧米ではほぼ中東と同じ領域を指すことが多い。一般的には、中央アジアおよび南アジアより西、地中海より東で、ヨーロッパとはボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている地域を指す。一般に国家としては、アフガニスタン、イラン、イラク、トルコ、キプロス、シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、サウジアラビア、クウェート、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーン、イエメン、パレスチナおよびエジプトの一部がここに属す。
■中東
Middle East または Mideast)は、狭義の地域概念では、インド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の総称。西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、おおまかに定義される地政学あるいは国際政治学上の地理区分。中東は、19世紀以降にイギリスなどがインド以西の地域を植民地化するに当たって考え出された概念である。元来はイラン・アフガニスタンおよびその周辺を指す概念であり、現在の中東に含まれる地中海沿岸地域は、バルカン半島とともに近東と称されていた。しかし、中東と近東の概念を混同した中近東という概念の登場を経て、第二次世界大戦中にイギリス軍によってはじめて現在の中東の概念が使用されるようになった。
■フェニキア
フェニキア(英語: Phoenicia)は、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。フェニキア人は、エジプトやバビロニアなどの古代国家の狭間にあたる地域に居住していたことから、次第にその影響を受けて文明化し、紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始めた。
■アッシリア
(Assyria)は、メソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域、またはそこに興った王国・世界帝国。首都は、初期はアッシュールで、後にニネヴェに遷都した。南側にバビロニアと隣接する。チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え、後にメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いた。
■カナン
地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。現代のカナンに関する知識の多くは、1928年に再発見された都市ウガリットの発掘調査によってもたらされた。
■ローマ帝国
Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。
■イスラム世界
イスラム教(イスラーム)とそれを信仰・実践する人々であるムスリム(イスラム教徒)が社会の中心に立って活動する地域を指し、イスラム法(シャリーア)の用語に言うダール・アル=イスラーム(「イスラムの家」)とほぼ等しい概念を意味する語である。歴史的な対象を指すのにしばしば使われるが、イスラム世界の中に法としてシャリーアを用いない国も少なくない現代を指しては、イスラム圏(イスラーム圏)、イスラム諸国などの言葉を用いることも多い。
■歴史的シリア
大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。
■オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。
■レバノン内戦
レバノンで1975年に起こった内戦。その規模などから第五次中東戦争とも呼ばれる。歴史的にキリスト教徒の多いレバノンは、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て周辺アラブ国が独立すると中東では数少ないキリスト教徒が中心の国家となった。きっかけは1975年4月13日、ベイルート郊外南部のアイン・ルンマーネ地区のキリスト教会でファランヘ党[1]による集会が行われていた際、同じく集会を終えて帰宅しようとしていたPLO支持者達のバスが教会を通りかかり、興奮していたPLO支持者が教会に発砲。ファランヘ党側もこれに応戦して銃撃戦に発展し、27名が死亡た。この事件は地名を取ってアイン・ルンマーネ事件と呼ばれ、不毛の内戦の始まりであった。戦闘そのものはライフル・機関銃・ロケット弾等による散発的なものであった。むしろ、マロン派とイスラム教・PLO双方の民兵組織は対立する宗派の国民を次々に誘拐・拷問・処刑するという残虐行為を繰り広げた。
■レバノンの地理
レバノンは、中東の国家でありながら、砂漠がなく、豊富な水が存在する。地形的には、海岸地帯、レバノン山脈、ベッカ高原、アンティ・レバノン山脈の4つの地域に分けられる。海岸地帯は、幅の狭い地中海東海岸地帯で、夏は暑く、高気温、冬は温暖多雨。
■ベッカー高原
レバノンのレバノン山脈とアンチレバノン山脈との間に広がる高原である。オロンテス川が北へ、リタニ川が南へと流れている。バールベックが代表的な遺跡であり、多くの観光客が訪れる。歴史・政治・軍事においては要衝であり、レバノン内戦中の1976年から終結後の2005年までレバノン駐留シリア軍の主力部隊が進駐していた。
■地中海
the Mediterranean Seaは、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた海である。海洋学上の地中海の一つ。正確には、西をジブラルタル海峡で大西洋と接し、東はダーダネルス海峡とボスポラス海峡を挟んでマルマラ海と黒海につながる海をいう。マルマラ海を地中海に含めることもあるが、黒海を含めることはしない。19世紀に掘削されたスエズ運河を介して、現在は紅海を経由してインド洋につながる。
■レバノン山脈
レバノンの中央を南北に走る全長約160kmの山脈。ジェベル・エル・ガールとも呼ばれる。中東であるのに関わらず、標高3,000m級の山々には雪が積もるため、アラム語で「白」を表すラバンがレバノンの語源となった。最高峰はカーネット・アッサウダー山の3,086mである。レバノンの山脈にはかつてレバノン杉が鬱蒼と繁っていたが、腐りにくいのと頑丈であることから、古代エジプトのピラミッド製造に大量伐採され、保護地区に僅かに残るのみである。
■クルナ・アッサウダー山
クルナ・アッサウダー山は標高3,088mのレバノン最高地点である。レバノン山の1,800m以上の地点は一年の内4ヶ月雪が積り、2,500m以上では6ヶ月となる。
■ヘルモン山
レバノンとシリアの国境にあるアンチレバノン山脈の最高峰で、最高点の標高は2,814mである。最高点はシリアが支配しているが、南部の稜線にあたるゴラン高原は1967年の第3次中東戦争以降イスラエルの支配下にある。ヘルモン山は、新約聖書の「主イエスの変容」、すなわち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を伴って祈りのために高い山にはいったというくだりの、「山」かもしれないとされる場所のひとつである。ここでイエスは輝くように白くなり、モーセとエリヤが現われて、イエスと語り合ったとされる。
■アンチレバノン山脈
Anti Lebanon Mountains)=アラビア語でレバノン東部山脈(Jibal lubnan esh-Sharqiya)は、レバノンとシリアの国境となっている山脈である。
■オロンテス川
オロンテス川はレバノン山脈とアンチレバノン山脈の間にある谷間・ベッカー高原の東側にあるラブウェ(Labweh)の泉に発する。泉の近くには南へ流れるリタニ川の水源の泉もある。オロンテス川は北へ、地中海岸と並行して、落差600mの岩の多い渓谷を流れシリアに入る。
■リタニ川
(Nahr al-Litani)は、レバノンのベッカー高原から流れ出し、ティルスの北部で地中海に至る川である。この川はレバノンの国内だけを流れていて、レバノンで1番長い。
■宗教
国民の約40%がキリスト教、約55.7%がドゥルーズ教徒以外のイスラム教の信者。キリスト教の内訳はマロン派(東方典礼カトリック教会の一つ)が多数派だが、正教会、プロテスタント、ラテン典礼のカトリックなども存在する。正教会信者はパレスチナやシリアなど他のアラブ諸国にも多数存在していた事から、内戦時には左派としてマロン派と対峙した。
■マロン派
マロン派は、レバノンを中心に信者を擁する東方典礼カトリック教会の一派。アラビア語もしくはシリア語によって典礼を行う。同派の名前の由来は、4〜5世紀のアンティオキアで活動した宣教師マールーン(en:Maron)に由来するといわれる。レバノン国内では人口のおよそ3割程度を占め、古くから重要な政治ポストを占める最大宗派である。
■ドゥルーズ派
レバノンを中心に、シリア・イスラエル・ヨルダンなどに存在するイスラム教(イスラーム)系の宗教共同体。レバノン内戦時は、マロン派と激しく対立した。歴史的にはシーア派の一派イスマーイール派から分派したものだが、教義からみてシーア派の枠内に収まるかは微妙で、イスラム第三の宗派と呼ばれることもある。
■正教会
Orthodox Church)は、キリスト教の教派のひとつ。ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる。また、文脈によっては「東方教会」(とうほうきょうかい)の語が正教会を指している場合もある。
■シーア派
ash-Shi‘ah)は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。
■スンナ派
Ahl as-Sunnahは、イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。
■アラウィー派
al-‘Alawiya) は、イスラム教(イスラーム)の一派。主にシリアの山岳地帯に分布する。アラウィーはアラビア語で「アリーに従う者」に意味し、9世紀のシーア派の活動家イブン・ヌサイルの名からヌサイリー派とも言う。
■カトリック
Catholic)とは、公同、普遍、普公とも訳される、キリスト教の概念の一つ。教会論の中で、豊富な歴史と、幾つかの意味がある。公同を奉じる主義思想は カトリシズムと呼ばれる。
■プロテスタント
Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではローマ・カトリック(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。
■アルメニア教会
Armenian Apostolic Church)はアルメニア、ならびに世界各地にあるアルメニア人コミュニティで信仰されているキリスト教・非カルケドン派の教会。約500万人の信者を擁する。使徒教会の名は、伝承に十二使徒がアルメニアにキリスト教を伝えたとあることに由来する。アルメニア正教会(Armenian Orthodox Church)とも呼ばれる。
■ギリシャ正教
シリア社会民族主義者党(SSNP) 大シリア主義を掲げ、シリア及びレバノンで活動する。1932年にアントン・サアーデによってレバノンで結成された。ドイツのナチズムに強い影響を受けた国家社会主義政党であった。しかし、レバノンで活動禁止となり、さらにシリアにおいてはバアス党との闘争に敗れ、1950年代以降、シリア当局によって活動が禁じられた。
■イスラム教スンニ派
ナセリスト運動(ムラビトーン) 世俗主義であり、汎アラブ主義国家樹立を主張する。レバノン内戦前はドルーズ派の進歩社会党と共に代表的左派政党として知られ、内戦中はドルーズ派やPLOと連帯していた。内戦中は西ベイルートとサイーダを拠点としていたが、レバノン戦争によってPLOが西ベイルートから追放されると、前者はヒズボラやアマルといったシーア派の進出によって失われた。
■バラマンド我等の女宰修道院
Monastery of Our Lady of Balamandは、アンティオキア総主教庁が管轄する正教会の修道院。トリポリから8kmほど南に離れた、地中海を望む場所にある。第2回十字軍の失敗後の1157年に、カトリック教会のシトー会の修道士らによって、東ローマ帝国の廃墟が残っていた場所に修道院が建設された。
■ハーシム家
The Hashemites)は、イスラムの家系、または王朝の名前である。イスラム教の預言者ムハンマドの曽祖父ハーシム(西暦500年頃没)の一門。クライシュ族に属する。アッバース朝もこの一門から出た。ハーシムの息子アブドゥル=ムッタリブにはアブドゥッラーフ、アブー=ターリブ、アッバースら息子たちがいた。
■ヒラム
ヒラムは旧約聖書に登場する港湾都市ティルス(現レバノン)の王(在位:紀元前969年−936年)。フラムともいわれる。ヒラムはイスラエルに対して友好的で、ダビデ王の王宮建造にあたっては古代から有名だったレバノン杉や木工・石工の職人を派遣した。ダビデの後をソロモンが継いだあとも友好関係は続いた。ソロモンがエルサレム神殿建築を行ったときも、ヒラムはソロモンの要請にこたえて大量のレバノン杉と糸杉を供給している。フリーメイソンでは、青銅職人のヒラムは単なる青銅職人ではなく、エルサレム神殿建築を指揮した親方とされている。
■ユーピテル
Jupiter, Joveはローマ神話の主神である。また最高位の女神であるユーノーの夫である。 時として女性化・女体化して女神となり、その姿がディアーナであるという言い伝えもある。長母音を省略してユピテルとも表記され、英語読みのジュピターでも呼ばれている。
■ウェヌス
(Venus)は、ローマ神話の愛と美の女神。日本語では英語読み「ヴィーナス」と呼ばれる事が多い。本来は囲まれた菜園を司る神であったが、後にギリシア神話におけるアプロディーテーと同一視され、愛と美の女神と考えられるようになった。
■バックス
(Bacchus)またはバッコスはローマ神話のワインの神である。ギリシア神話のディオニューソスに対応する。ディオニューソスの異名バッコスがラテン語化してバックスとなったもの。日本ではしばしば英語読みのバッカスで言及される。
<世界遺産>
■アンジャル
レバノンの東部、ベカー高原にあるレバノン唯一の城塞都市遺跡。アンジャルは、ベイルートの東、約50km、レバノン山脈の麓にある。ウマイヤ朝のワリード1世の命により、8世紀に建設されたといわれている。
■バールベック
ベカー高原の中央にある古代遺跡である。1世紀頃、ローマ帝国の手により最初の神殿が築かれたと考えられている。2世紀から3世紀に入り、ジュピター神殿・バッカス神殿が建てられる。中庭や柱廊などの造成もこのころのことと考えられている。ベカー高原の中央にある古代遺跡である。1世紀頃、ローマ帝国の手により最初の神殿が築かれたと考えられている。2世紀から3世紀に入り、ジュピター神殿・バッカス神殿が建てられる。中庭や柱廊などの造成もこのころのことと考えられている。
■ビブロス
Byblosは、レバノンの首都であるベイルートの北方約30kmにある地中海沿岸の都市。古代にはフェニキア人の都市として栄えた。「ビブロス」はギリシャ人がつけた呼び名で、本来は「グブラ」のちに「ゲバル」。現在はジュベイル(Jbeil)と呼ばれている。ビブロスは、フェニキア人の発祥の地として有名。アルファベットの元になったフェニキア文字もこの地で生まれた。このことからアルファベット発祥の地と言われることもある。
■ティルス
ティルスは、現在小さな漁村であるスールの位置にかつてあった都市である。都市の起こりは紀元前2500年ごろといわれている。紀元前2500年、ビブロスやベイルートと共に、フェニキア人の都市として成立。 紀元前11世紀から紀元前9世紀に最盛期。ティルスの植民都市としてカルタゴを建設。 紀元前9世紀から紀元前8世紀にアッシリアの強大化によって勢力を失い、他のフェニキア諸都市と同様にアッシリアに従属する。現在は、ローマ帝国支配時代の遺跡があまり風化せず数多く残るが[2]、都市としての面影は無い。周辺地域にてスールやアナーといった小さな村が点在するだけである。
■カディーシャ渓谷/聖なる谷と神の杉の森
レバノン山脈のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷は、レバノンで一番の景観とも言われている。カディーシャ渓谷は、レバノン杉が2004年現在も自生している地でもある。レバノン杉は、紀元前にフェニキア人の繁栄の原点になったことでも有名である。フェニキア人は、当時レバノン山脈全域に自生していたレバノン杉からガレー船を始め、船舶の建造材として使用。また、木材や樹脂をエジプトなどに輸出していた。
■ミシェル・スライマーン
Michel Suleiman 1948年11月21日 -はレバノンの現職の大統領である。1948年に山岳レバノン県アムシートで生まれる。1967年、19歳でレバノン軍に入隊し、同時にレバノン大学に入学し経営学と政治学を学ぶ。在学中にワファ・スレイマーンと結婚し、3人の子をもうけている。また、アラビア語はもちろん、英語、フランス語にも長けている。
■エミール・ラフード
1936年1月12日 - は、レバノンの軍人・政治家。第16代大統領(1998年11月24日 - 2007年11月24日)。レバノン独立運動の指導者の一人、ジャミル・ラフード将軍の息子としてベイルートに生まれる。1959年にレバノン軍に入隊し、以後軍歴を積む。レバノン内戦(1975年 - 90年)でもレバノン軍の下で軍務に就くが、1989年にアラブ連盟がターイフ宣言をまとめ上げたと見るや、上官でシリア軍への徹底抗戦の構えを見せていたミシェル・アウン将軍と袂を分かち、シリア軍が支配する西ベイルートに赴く。
■シャルル・ダッバス
1885年 - 1935年、ラテン文字表記でCharles Debbas、は、レバノン共和国初代大統領である。ダッバス自身は、レバノン国内では少数派の東方正教会の信徒であった。1926年9月1日に大統領に選出され、任期を1期延長し、1934年1月2日まで任期を勤め上げた。ダッバスの治世は、フランスの委任統治に基づいて、外交はフランスに完全に依存しながらも、内政には多くの自由が与えられた時代であった。
■ファイルーズ
Fayrouz、フェイルーズとも記す、1935年11月21日 - はレバノン出身の歌手。「分厚いベルベット」に例えられる独特の美しい歌声で、一世代前の大歌手ウム・クルスームらとともに、アラブ内外で最も知られ愛されている歌手である。10歳のころ、彼女は既に学校中で美声の持ち主であることが知られ、学園祭などで歌っていたという。その姿がレバノン国立音楽学校の教授ムハンマド・フレイフェルの目にとまり、学費免除などの援助を受けて1950年に音楽学校に入学した。フレイフェルは彼女にクルアーン朗誦や声楽の基礎知識などを教えた。
■オマール・カラミ
(Umar Abdul Hamid Karami,1934年9月7日 - )は、レバノンの政治家。同国首相を二度務めた。兄はレバノン首相を八度務め1987年に暗殺されたラシード・カラミである。ウマル・カラーミーは弁護士としての教育を受け、兄の暗殺後に政界入りした。彼は1991年以降トリポリ代表の国民議会議員であった。彼は隣国シリアとの緊密な関係を持つ。
■マリオ・カサール
(Mario Kassar、1951年10月10日 - )は、レバノンのベイルート出身の映画プロデューサー・実業家。アンドリュー・G・ヴァイナと頻繁に活動している。彼は主にコロンビア映画とトライスター・ピクチャーズの下で働き、1981年の『勝利への脱出』から始まるいくつかの映画の製作を担当した。1976年には、ヴァイナと共にカロルコ・ピクチャーズを設立し、『ランボー』から始まって、『トータル・リコール』、『ターミネーター2』、『スターゲイト』などのSF映画を含む多くの超大作映画の製作責任者を務めた。
■シャノン・エリザベス
Shannon Elizabeth, 1973年9月7日 - は、アメリカ合衆国の女優。テキサス州ヒューストンで、シリア系およびレバノン系の父親とチェロキー、イングランド、アイルランド、ドイツの家系を汲む母親の間にて生まれた。主にウェイコで育つ。父親の影響でアラビア語を話すことができる。幼少よりバレエ、タップダンス、ジャズダンスなどを習っていた。
■ウマル・カラーミー
(Umar Abdul Hamid Karami, Karame, 1934年9月7日 - )は、レバノンの政治家。同国首相を二度務めた。日本のメディアでは「オマル・カラミ」と表記されることが多い。カラーミー家はトリポリのスンナ派の名家。ウマルは弁護士としての教育を受け、兄の暗殺後に政界入りした。彼は1991年以降トリポリ代表の国民議会議員であった。彼は隣国シリアとの緊密な関係を持つ。
■カミール・シャムーン
Kamil Sham'un、1900年4月3日 - 1987年8月7日)は、レバノンの政治家。同国大統領(第9代:1952-1958)を務めた。フランス植民地時代から頭角を現し、独立後の長きに渡りキリスト教徒を指導したがレバノン内戦(1975-1990)の間に政治的影響力を失った。「カミール・シャムウーン」と表記されることもある。シャムーンは、1900年4月3日に、デイル・エル=カマールでマロン派の家庭で、生まれた。フランスへ留学し、弁護士となった。
■フアード・シニオラ
Fouad Seniora)は、レバノン共和国の政治家。同国首相などを歴任。2005年7月19日、ナジーブ・ミーカーティーから引き継ぐ。日本のメディアでは「シニオラ」のほか「シニョーラ」、稀に「セニョーラ」とも表記される。 |
レバノン Lebanon
西アジア・中東に位置する共和制国家。北から東にかけてシリアと、南にイスラエルと隣接し、西は地中海に面している。首都はベイルート。
■ベイルート
Beirutは、レバノンの首都であり、ベイルート県の県都でもあり、同国最大の都市である。また、地中海に面した同国第一の海港である。ベイルートは、この地域における商業、銀行業及び金融の中心地であり、約180万人が居住している。住民は、キリスト教徒(マロン派、ギリシャ正教、アルメニア正教 、アルメニアカトリック 、ローマ・カトリック、プロテスタント)、イスラム教徒(スンナ派、シーア派)、さらにはドゥルーズ派のような少数派に分かれている。この為に中東で最も文化的に多様な都市の一つである。
■ベイルート・アメリカン大学
American University of Beirut はレバノン、ベイルートにある無宗派の大学。アメリカの宣教師団 (Dr. Daniel Bliss など) により、1866年にSyrian Protestant Collegeとして設立された。1920年11月18日に、現在の名称に改名している。人文科学系、医学、工学の諸学部を運営している。1870年6月〜2002年末時点で、66,107人の卒業生がおり、中東各地から多くの学生を集め、世界各地に優秀な人材を輩出している。
■ラフィク・ハリリ国際空港
Beirut Rafic Hariri International Airportは、レバノンの首都ベイルートにある国際空港である。以前は単純に「ベイルート国際空港」と呼ばれていたが、2005年に暗殺されたレバノン元首相のラフィーク・ハリーリーにちなんで改称された。
外務省:レバノン共和国
在レバノン日本国大使館
■トリポリ
(Tripoli)は、東地中海沿岸に広がるレバノンの第二の都市であり、北レバノン県の県都でもある。古くから東地中海有数の富裕な港として栄え、十字軍による破壊以前は「ダール・アル=イルム」(知識の館)という大図書館を有していた。第1回十字軍の際に陥落し、十字軍国家のトリポリ伯領となり、1289年マムルーク朝に滅ぼされ破壊されるまで数度にわたる十字軍の上陸・補給拠点として、またイタリア商人らによる通商の場として利用された。
■サイダ
(Saida)=シドン(Sidon)は、レバノン第3の都市で、南レバノン県の県都である。シドンはアラビア語で「漁場」「漁師」を意味する。ギリシャ人は「花に富む街」と呼んだ。古くはフェニキアの主要都市国家シドンとして繁栄しており、遺跡も発掘されている。紀元前5世紀にフェニキア人が建てたエシュムーン神殿遺跡がある。この遺跡の帯状彫刻には、酔った男達の姿、薄着をまとった神々の様子が生き生きと描かれており、フェニキア時代の人々の生活を知ることができる。
■ザーレ
レバノン第五の都市で、ベッカー県の県都である。首都のベイルートから東へ52kmの場所に位置している。車で約1時間強かかる。 人口は約8万人で、ほとんどの住民はクリスチャンである。ザーレはベッカー谷の橋と呼ばれている。澄んだ空気とリゾート地として名が知られている。
■カナ
Qanaは、ティルス南東の村である。レバノン方言ではアナーと発音する。イスラエル軍により、2回の空爆が行われた。1996年4月18日、イスラエル軍による対ヒズボラ軍事行動である “怒りの葡萄作戦” の戦渦で、村にいた国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)フィジー部隊がイスラエル砲兵隊の爆撃を受け市民106人が死亡、116人負傷、4人のUNIFIL兵士が重傷を負った。2006年7月30日、カナ空爆 2006。イスラエルはイスラエル・レバノン紛争にて150発以上のミサイルがカナからイスラエルの町へと発射されたと宣言し2回の空爆を実施。居住ビルの倒壊により多数の負傷者が出た。当初、犠牲者は子供37人を含む56人とされたが、28人に訂正された。
■ナバティーエ県
Nabatiye Governorate)は、レバノンの南部にある県である。面積は1,058km2。県都はナバティーエ (Nabatiye) である。ナバティーヤ県とも表記される。この地域はシーア派人口が多い。
■ベイルート県
Beirut、は、レバノンの首都でもあるベイルート市から成っている。面積は19.8km2でその小さい面積にも関わらず、政治的、経済的、文化的、社会的にレバノンの最も重要な地域である。また交通やメディアでも重要な位置付けをされている。
■ベッカー県
Beqaa Governorate)は、レバノンの北東部にある県である。県都はザーレである。県の人口は750,000人、面積は4,429 km2である。レバノンのおける農業の中心地である。リタニ川とアシ川の2つの川が流れ、ベッカー谷を取り囲んでいる。ベッカー高原には世界文化遺産のバールベックがある。
■北レバノン県
(Liban-Nord)は、レバノンの北部にある県である。東にレバノン山脈、西に地中海が面し、気候も温暖。古くからフェニキア人が住み始め、魅力があるがゆえに他民族の征服が何度も繰り返され、支配国の入れ替わりが激しかった。そのために数多くの遺跡を見受け、また発掘されている。
■南レバノン県
(South Governorate)は、レバノンの南部にある県である。県都はサイダである。県の人口は360,000人、面積は2,000 km2である。標高は0〜1000mと起伏に富んでいる。住民は、イスラム教シーア派、スンニ派、東方正教、カトリック、プロテスタント、アルメニア正教と様々である。柑橘類やバナナの栽培が盛んである。
■山岳レバノン県
(Jebel Lubnan)は、レバノン中部山岳地域の県である。首都ベイルートを見下ろす形になっており、レバノン内戦当時は、軍事的に重要な地域であった。県都はバアブダー(Baabda)。
■レバノンスギ
Cedrus libani)は、マツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹である。名前に「スギ」が付いているがスギは同目ではあるもののスギ科スギ属であり、近縁ではない。レバノン、シリアなどの高地が原産。高さは40 mほど。古代においては中近東一帯に広く自生していたが伐採利用が大規模に進んだ結果、レバノンスギの森は消滅し現在においてはレバノン等のごく一部の地域に小規模に残存するのみとなり、保護扱いされている。
1.面積:10,452平方キロメートル(岐阜県程度)
2.人口:約410万人(2009年世銀)
3.首都:ベイルート
4.民族:アラブ人(95%)、アルメニア人(4%)、その他(1%)(2009年CIA The World Factbook)
5.言語:アラビア語(仏語及び英語が通用)
6.宗教:キリスト教(マロン派、ギリシャ正教、ギリシャ・カトリック、ローマ・カトリック、アルメニア正教)、イスラム教(シーア派、スンニ派、ドルーズ派)等18宗派
16世紀 オスマン・トルコの支配下に入る
1920年 仏の委託統治領となる
1943年 仏より独立
1975年 レバノン内戦始まる
1978年 イスラエルのレバノン侵攻
1989年 ターイフ合意(国民和解憲章)成立
1990年 内戦終結
2000年 イスラエル軍南レバノンから撤退
2005年 シリア軍レバノンから撤退
■主要産業:金融業、観光業、食品加工業等
■貿易(1)輸出 34億8,400万ドル(2009年 UN data) 主要輸出品=卑金属、化学製品:主要輸出先=シリア、UAE、サウジアラビア、スイス
(2)輸入 162億4,200万ドル(2009年 UN data)主要輸入品=石油製品、自動車、医薬品:主要輸入元=仏、米、シリア、伊、中、独
■レバノン・ポンド
(Lebanese pound)は、レバノンの通貨。通貨の補助単位はピアストル(カルシュ)だが、現在は使われていない。第一次世界大戦まではオスマン帝国領であったため、この地域ではトルコ・リラが使用された。大戦中にイギリスに占領されるとエジプト・ポンドが流通したが、大戦後にフランスの委任統治領となるとシリア・ポンドの発行が始まり、1ポンド=20フランス・フランの固定相場制をとった。
■経済
19世紀以降、産業として興隆したのが養蚕業、すなわち生糸生産である。レバノンはまず農業国として成立したが、第二次世界大戦以降は第三次産業が活況を呈した。第二次世界大戦以降、レバノン政府は他国と異なる経済政策、すなわち保護貿易ではなく自由経済体制を採った。このため、石油取引に由来する膨大な資金が流入し、中東地域における金融セクターとしての地位を確立した。
■言語
公用語はアラビア語である。全人口の約95パーセントがアラブ人でアラビア語を話す。他にフランス語と英語も広く通用する。フランス語は、かつてレバノンの宗主国であったフランスの言語である。
■レバノン人離散
遥か昔から多くのレバノン人が紛争などの理由でアメリカ大陸、ヨーロッパ、アフリカなど世界中に離散しており(レバノン人のディアスポラ)、各地で影響をあたえている。特にブラジルにはレバノンの総人口より多くのレバノン系ブラジル人が住んでいる。
■教育
主な高等教育機関としてはベイルート・アメリカン大学(1866年)、レバノン大学(1951年)などが挙げられる。 ベイルートのような国際都市では、宗教・宗派別の学校群が存在し、これに加えて外国人向けの学校も出現となる。
■社会的少数者
その社会の権力関係において、その属性が少数派に位置する者の立場やその集団を指す。 欧米の「マイノリティグループ」(minority group)の考え方を輸入したものであるが、日本語では単に「マイノリティ」と呼ばれることも多い。多くの場合、そのグループの一員であることによって社会的な偏見や差別の対象になったり、少数者の事情を考慮していない社会制度の不備から不利益を被ることを前提とした呼称であり、「社会的弱者」にも近い概念であるといえる。 対義語はマジョリティであり、これは多数派、あるいは強い立場を意味し、まとめて世論を形成しやすい群というふうにも言える。
■汎アラブ主義
Pan-Arabism)は、中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動。パンアラブ主義、アラブ民族主義ともいう。起源は、第一次世界大戦期、ヨーロッパ列強による植民地支配やオスマン帝国の支配に抗して起こった、民族自決運動のひとつである。この時期にイギリスに支援されたアラブ反乱が起き、1940年代に、シリアで汎アラブ主義のバアス党が結成される。
■パリ講和会議
Paris Peace Conference)は、1919年1月18日から開会され、第一次世界大戦における連合国が中央同盟国の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際体制構築についても討議された。「ヴェルサイユ会議」と呼ばれることもあるが、実際の討議のほとんどはパリのフランス外務省内で行われており、ヴェルサイユ宮殿を会場に使ったのは対独平和条約(ヴェルサイユ条約)の調印式のみであるため正確ではない。
■サイクス・ピコ協定
Sykes-Picot Agreement)は、第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国(トルコ)領の分割を約した秘密協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクス (Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ (Francois Georges-Picot) によって原案が作成され、この名がついた。
■ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件
レバノン内戦中の1983年にレバノン・ベイルートにあるアメリカ海兵隊の兵舎が車爆弾を使用した自爆テロで狙われた事件である。アメリカ海軍・アメリカ陸軍の兵士も含め241人が死亡した。1日の死者としてはアメリカ海兵隊の歴史上、太平洋戦争の硫黄島の戦いに次ぐ犠牲者数となった。 この事件の2分後、同じく国際平和維持部隊を構成していたベイルートにあるフランス陸軍の空挺部隊の兵舎も同じように自爆テロで攻撃され、58人のフランス軍兵士が死亡した。こちらもアルジェリア内戦以来の死者数だった。
■アラブ連盟
League of Arab States)は、アラブ世界の政治的な地域協力機構。第二次世界大戦末期の1945年3月22日創設。本部はカイロにある。加盟は22(21カ国と1機構)。 現在の連盟事務局長はエジプト前外相のナビール・エル=アラビー。参加各国の代表からなる理事会が最高決定機関で、その下に実行機関である事務総局や常任委員会、共同防衛理事会、社会経済理事会、ほか専門の諸機関がある。
■レバノンの政治
レバノンの政治はレバノン憲法に基づき、大統領を元首とした共和制国家。 1970年代半ばから1992年まで、内戦のため選挙権を事実上排除されていた。 キリスト教とイスラム教の併せて18ものの宗派が混在しているため、モザイク国家と言われている。内閣への行政権移譲など大統領権限縮小でキリスト教徒の不満も根強く、宗派に基づく政治システムの欠陥を指摘する声もある。
■ゲリマンダー
Gerrymander)は、選挙において特定の政党や候補者に有利なように選挙区を区割りすることをいい、本来的にはその選挙区割りが地理的レイアウトとして異様な場合を指していう。1812年、アメリカ合衆国マサチューセッツ州の当時の知事エルブリッジ・ゲリーが、自分の所属する政党に有利なように選挙区を区割りした結果、幾つかの選挙区の形が奇妙なものとなった。そのうちのひとつがサラマンダーの形をしていたことから、ゲリーとサラマンダーを合わせた造語・ゲリマンダーが生まれた。
<レバノンの政党>
■レバノン軍団
Lebanese Front:LF)は、レバノンにおけるキリスト教マロン派の民兵組織・右派政党。レバノン内戦中の1976年9月に、ファランヘ党の若手指導者であったバシール・ジェマイエルにより、同党の青年部隊、同党との権力闘争に敗れたレバノン国民運動の民兵組織「タイガーズ」、さらには「レバノン杉の警備隊」等の中小の民兵組織、マロン派教会の武装部隊(若手の神父や修道士らが参加)を合同させて成立した。
■アマル
レバノンの政党・民兵組織。党の正式名称はレバノン・レジスタンスの派遣(Afwaj al-Muqâwmat al-Lubnaniyya)で、各単語のアラビア文字の頭文字を取ってアマル(Amal、アラビア語で「希望」の意)と通称される。1975年春にレバノンのシーア派指導者(イマーム)、ムーサー・アッ=サドルが率いる「シーア派イスラーム評議会」(HSIC)の軍事部門として結成された。イスラーム教シーア派(十二イマーム派)の住民が支持母体である。
■ヒズボラ
Hizb Allah)は、レバノンの政治組織。レバノン内戦へのイスラエル軍侵攻を受けて1982年に結成された。レバノンを中心に活動している急進的シーア派イスラーム主義組織で、イラン型のイスラム共和制をレバノンに建国し、非イスラム的影響をその地域から除くことを運動の中心とする。反欧米の立場を取り、イスラエルの殲滅を掲げている。
■バアス党
Hizbul-Ba'ath ヒズブ・ル=バアス)は、シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党。「バアス」とはアラビア語で「使命」を意味し、党名への採用にあたり「かつて東は中国から西はスペインに及ぶ広大な領土を勢力下に置き、化学や医学など様々な学術・技術で世界をリードしていたアラブの栄光を取り戻す」という意を込めている。
■ファランヘ党
Hezb al-Kata’ib al Lubnaniyya)は、レバノン共和国におけるキリスト教マロン派系の極右政党・民兵組織。正式名称はレバノン社会民主党(Lebanese Social Democratic Party)である。現在の党首はアミーン・ジュマイエル。
■未来運動
未来運動、未来潮流、ムスタクバル潮流 (Tayyar Al Mustaqbal)(Future Movement)はレバノンの政党。党首のサアド・ハリーリー氏は2005年に暗殺されたラフィーク・ハリーリー元首相の次男。
■音楽
レバノンは中東音楽の伝統を守りつつ、フランスとの繋がりから西欧の音楽の影響も受けた独自の音楽シーンを形成している。中東の歌姫として名高いファイルーズを始め、「パレスチナ人の中のパレスチナ人」と言われユネスコのArtist for Peaceを受賞したマルセル・ハリーファなどが有名である。その他の傑出したアーティストとしてはジュリア・ブトロス、マジダ・エル・ルウミ、サバー、ワディー・エル・サフィー、修道女であり歌手であるマリー・ケイルーズ、ナンシー・アジュラムなどの名が挙げれる。
■文学
20世紀に入るまでに、ベイルートは多くの新聞、雑誌、文学社会などにより、近代アラブ思想の中心としての地位をカイロと争っていた。文学においては、バシャーリに生まれたハリル・ジブラーンは特に『預言者』で知られ、この本は20以上の言語に翻訳された。さらにその他の国際的な成功を達成したレバノンの作家としては、エリアス・フーリー、アミン・マアルーフ、ハナン・アル=シェイクなどの名が挙げられる。
■美術
美術においては、ムスタファ・ファルークが20世紀レバノンのもっとも傑出した画家の一人である。ローマとパリで学び、芸術家としての生涯を通してパリやニューヨークやベイルートで個展を開いた。彼の作品はレバノンにおける真の生活、国の姿、人々、習慣を表現しているたことにより喝采を浴びた。
■レバノン料理
レバノン料理の特徴として、ゴマ、レモン、オリーブオイル、ハーブ類、ヨーグルトを使った料理が多く見られる。シナモンやオールスパイスが好んで使用されるが、香辛料の使用量はそれほど多くはない。シリア料理とは酷似しており、隣国の料理(イスラエル料理、パレスティナ料理、ヨルダン料理)ともファラフェルやフムスなどレバノン料理と共通した料理が多くある。
■ワジディ・ムアワッド
ワジディ・ムアワッド(Wajdi Mouawad)は劇作家・演出家・俳優。1968年、ベイルート(レバノン)に生まれ、8歳で家族とともにフランスに亡命。その後滞在許可証の更新が拒否されたため、83年にケベック州(カナダ)に移住。91年、カナダ国立演劇学校を卒業後、劇団「テアトル・オ・パルルール」を創立。
■ザハ・ハディッド
Zaha Hadid。1950年10月31日−は、イラク・バグダッド出身、イギリス在住の女性建築家。世界的に活動する建築家で、現代建築における脱構築主義の旗手の一人でもある。ベイルートのアメリカン・ユニバーシティで数学を学び、さらにロンドンの私立建築学校英国建築協会付属建築専門大学(Architectural Association School of Architecture、通称AAスクール)で建築を学んだ。彼女は、ロシア構成主義の建築や美術の強い影響を受け、コンセプチュアルで空想的なものを現実空間に出現させ、見学・利用者に驚きを与えている。
■ハリール・ジブラーン
Khalil Gibran、1883年1月6日 - 1931年4月10日はレバノン出身の詩人、画家、彫刻家。英語読みからカリール・ジブランとも呼ばれる。キリスト教マロン派教徒。オスマン帝国時代末期に現在のレバノン北部ブシャッレ(ブシャッリ)で生まれ、少年期の1895年アメリカ合衆国へ移住、ニューヨーク市で没した。
■ナンシー・アジュラム
Nancy Nabil Ajram は、レバノンの歌手である。2007年の時点で、累計3千万枚を売り上げ、レバノンの歴史上3番目に売り上げ枚数の多い歌手となっている。これまでに7枚のアルバムを発売し、数多くの音楽ビデオ・クリップやコマーシャル・クリップに出演してきている。
■アブデル・ラーマン・エル=バシャ
Abdel Rahman El Bacha, 1958年10月23日 - は、アラブ系レバノン人のピアニスト・作曲家。ベイルートにて芸術家の家庭に生まれる。母親は民謡歌手、父親は西洋音楽にも造詣の深いポピュラー音楽の作曲家。おじは有名な画家であるという。1967年にツヴァルト・サルキシアン(Zvart Sarkissian)にピアノを師事。サルキシアンはパリ音楽院でマルグリット・ロンやジャック・フェヴリエに学んだアルメニア人のピアニストであった。10歳でクラウディオ・アラウに将来を嘱望され、1974年よりフランスやソ連、イギリスの各国政府より奨学金を授与するとの申告を受ける。少年時代よりフランス語学校に通ってフランス文化に親近感があったことから、パリ音楽院に入学、ピアノ科のほかにピエール・サンカンの作曲科にも学び、ピアノ、室内楽、和声法、対位法の4科で首席をとった。
■アミン・マアルーフ
Amin Maalouf、1949年2月25日 - はレバノン出身、フランス・パリ在住の作家・ジャーナリスト。1949年ベイルートに生まれた。彼がフランス語で書いた著作は多くの言語に翻訳されており、小説『Rock of Tanios』(Le Roche de Tanios 、タニオスの岩)で1993年のゴンクール賞を受賞した。両親の祖先はレバノンの山地にある Ain el Kabou の村の出身で、父ラシュディ(Ruchdi)と母オデット(Odette)は1945年にカイロで結婚した。マアルーフの小説は内戦や難民の経験が強く反映されている。主な登場人物は異なる国、言語、宗教の間を渡り歩く者や旅する者となっている。
■ナジブ・ミカティ
Najib Mikati、1955年11月24日 - は、レバノンの政治家。2011年7月7日現在、同国首相。2005年に3ヶ月間だけ務めて以来、2度目の登板である。1943年以降の全ての首相(暫定的に就任した二名を除き)の例に漏れず、スンニ派イスラム教徒である。フォーブス誌による2011年の世界長者番付において409位にランクインしており、その資産は28億ドルであると推定されている。
■ラフィーク・ハリーリー
Rafic Baha El Deen Al-Hariri、1944年11月1日 - 2005年2月14日は、レバノンの実業家、政治家。レバノンの首相を三度に渡って務めたが、最後の首相退任の後に暗殺された。サード・ハリーリー第65代首相は次男。首都ベイルートの大学で学んだ後、レバノンを出国してサウジアラビアに移り、教師として働いたのち、当地の土木建設会社で働いた。その後1971年(1969年とも)に自ら建築会社「シコネスト」を設立、実業家として活動をはじめる。会社は原油価格上昇の影響で空前の建築景気に沸いた1970年代のサウジアラビアで急速に成長し、数年でハリーリーはサウジアラビア建築業界の有力者となった。
■アーザール・ハビブ
Azar Habib, 1945年11月28日 - 2007年11月15日はレバノン中南部、マルジャアユーン出身のアラブ演歌歌手。首都ベイルートに移ってから、地元のラテン音楽風バンドに参加し、後にソロとして活動する。「愛しい人」の字義をもつハビブの名にふさわしく、恋愛バラード、そしてアラビア伝統音楽にモダンな西洋のポップスをミックスした音楽で知られる。
■エリッサ・ザカリア・コーリー
Elissar Zakaria Khoury)(1972年10月27日- は、レバノンの歌手である。アラブ世界で最も大きなセールスを記録する女性歌手で、3度のワールド・ミュージック・アワードを含む多くの賞を獲得している。エリッサはレバノン人の父とシリア人の母の下に生まれ、1992年にレバノンの音楽オーディション番組『Studio El Fan』で銀メダルを獲得した。2000年に発表した 2ndアルバム『W'akherta Ma'ak』は、160万枚以上のセールスを記録した。
■キアヌ・リーブス
(Keanu Charles Reeves, 1964年9月2日 - )は、レバノン出身のカナダ人俳優。父はハワイ出身のアメリカ人地質学者で、イングランド、ハワイアン、ポルトガル、中国の血を引いている。母はイングランド人の元ダンサー、デザイナーである。彼の幼少期は世界各地を転々としながら母親の再婚相手と共に生活するという不安定なものであった。実の父はキアヌが3歳の頃に妻と家族を捨てたため、現在に至るまでキアヌは彼と一切の縁を切っている。
■トニー・シャルーブ
(Tony Shalhoub, 1953年10月9日 - )はアメリカ合衆国の俳優である。一見、普通のおじさんであるが、コメディからシリアスまで自在に演じ分ける。ウィスコンシン州グリーンベイ出身。レバノン系。イェール大学で演技を学んだ。マサチューセッツの劇団に4シーズン参加した後にニューヨークに移り、1985年にブロードウェイ・デビュー。翌年からテレビ・映画にも出演しはじめる。
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