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ヨルダン・ハシミテ王国
Hashemite Kingdom of Jordan
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■地理
東部は乾燥した森林高原で、オアシスと季節的な川の流れがあり、灌漑されている。西部は農地が発達し、地中海性の常緑樹が広がる。国の最高地点はウムアルダミ山(Jabal Umm al Dami)で海抜1854m、頂上は雪で覆われる。西部渓谷を除いた国の大部分は海抜300m以上である。
■紅海
Mer Rouge)とは、アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、200種ものサンゴが生息するなど固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。
■アラビア半島
アジアとアフリカを繋ぐ場所に位置する西アジア南西の巨大な半島である。半島としては世界最大である。紅海、アカバ湾、アラビア海、アデン湾、ペルシア湾、オマーン湾等に囲まれており、北の付け根はイラクとヨルダンにあたる。半島の南東方面にはルブアルハリ砂漠が広がっている。
■アカバ湾
Gulf of Aqabaは紅海の北奥、シナイ半島の東側にある、南北に細長く伸びる湾。チラン海峡より北側にある。両岸はエジプトとサウジアラビアであるが、最奥部にはイスラエルのエイラト、ヨルダンのアカバの各港があり、4ヶ国の国境が集中している。
■死海
アラビア半島北西部に位置する塩湖。西側にイスラエル、東側をヨルダンに接する。湖面の海抜はマイナス418mと、地表で最も低い場所である。海水の塩分濃度が約3%であるのに対し、死海の湖水は約30%の濃度を有する。1リットルあたりの塩分量は230gから270gで、湖底では428gである。この濃い塩分濃度のため、湖水の比重が大きくなり、結果、浮力も大きいので、人が死海に入って沈むことは極めて困難である。
■ヨルダン川
中東の国際河川。「下降する川」を意味する。ヘルモン山(標高2,814メートル)などの連なるアンチレバノン山脈やゴラン高原(シリア高原)などに端を発し、途中ガリラヤ湖となって北から南へと流れ、ヤルムーク川・ヤボク川・アルノン川などの支流をあわせて死海へと注ぐ延長425キロメートルの河川である。
■ザルカ川
ヨルダン西部を流れる川でヨルダン川の支流。険しく深い渓谷をなし、ヤルムーク川、アルノン川などと並ぶヨルダン川東岸の大きな支流の一つ。ザルカ川とは「青い川」の意味であるが、ダマスカスとメッカを結ぶ道の途中にあるザルカの砦の近くを通るからともされる。ヤボク川はイスラエル十二支族のうちのルベンおよびガドの領土と、アモン人の領土との間の境界であった(民数記21章24節、申命記2章37節と3章16節、ヨシュア記12章2節)。またアムル人の王シホン(Sihon)の領土はアルノン川からヤボク川まで広がっているとも書かれている(民数記21章24節)。
■ヤルムーク川
ヨルダン川最大の支流で、シリア・ヨルダン・イスラエルの三カ国を流れている。ヨルダン川には、ガリラヤ湖と死海の間で東から三本の大きな支流が流入し、それぞれが大きな険しい渓谷を形成している。北から順に、ヤルムーク川、ヤボク川(ザルカ川、Jabbok/Zarqa)、アルノン川(ワジ・ムジブ、Arnon/Wadi Mujib)である。
■ネボ山
Mount Nebo,は、現在のヨルダン西部に位置する海抜817mの高い尾根である。山頂からは、聖地の全景と、北にヨルダン川渓谷の一部が展望できる。通常、エリコの西岸地区の町が頂上から見え、よく晴れた日であればエルサレムも見える。
■ギレアド
ギレアド(Gilead)はヨルダン川東の山地の名称である。ラバンとヤコブが契約を結んだ証拠(エードゥ)として、立てられた石塚(ガル)である、石塚の証拠(ガルエデ)に由来している。荒々しい岩山によって成っているので、「固い」ことを表すアラビア語の(Ja'ad)に由来しているという説もある。
■大地溝帯
Great Rift Valley)は、主にアフリカ大陸を南北に縦断する巨大な谷で、プレート境界の一つである。大地溝帯の谷は、幅35 - 100km、総延長は7,000kmにのぼる。正断層で地面が割れ、落差100mを超える急な崖が随所にある。東リフト・バレーは、エチオピアから北に続き、ジブチで紅海とアデン湾に分かれる、アファール三重点を形成し、紅海からシナイ半島、アカバ湾、ヨルダン渓谷を通り、陸上の最低点である死海へと連なっている。
■デカポリス
(Decapolis)は新約聖書の福音書のみに登場するガリラヤ湖南方のヨルダン川両岸(主に東岸)の広大な地域に存在するパレスチナにおけるギリシアの10の植民地の町の総称である。「10の町」という意味である。
■王の道 (パレスチナ)
ヨルダン川の谷と死海の東を南北に走る幹線道路で、アカバ湾岸のエラテからディボン、ヘシュボン、ラバテ・アンモン、ラモテ・ギルアデ、アシュタロテなどの町をへてダマスコに至る道。旧約聖書にも登場する。王の道の周辺には、青銅器時代からすでに住居や要塞が発見されているので、この道路は前23世紀から20世紀の間には使用されていたと考えられる。
■気候
夏の平均気温は30度C、冬は1度Cまで下がる。11月から3月の冬季は西部の降雨が大きく、アンマン(標高約1000m)では雪が降る。
■ヨルダン渓谷
国土の西部には大地溝帯の北端でもあるヨルダン渓谷がある。ここには死海もあり、標高が極めて低い。この地域は冬でも温暖であり、近年の灌漑技術の発達により、野菜や果物の一大生産地に変貌した。
■ヨルダン高原
ヨルダン渓谷の東側に位置する高原地帯。アンマンやカラクなどもこの高地帯に位置する。南部にはヨルダン最高峰のラム山(1,754m)もある。
■砂漠
国土の80%は砂漠地帯に属する。
■ヨルダンの歴史
19世紀に入ると、当時この地方を支配していたオスマン帝国は、ロシアから逃亡してきたチェルケス人をシリア地方の人口希薄地帯に住まわせるようになり、次第に活気付き始めた。中東戦争はイスラエルに占領された地域から大量のパレスチナ人の流入をもたらした。加えて1990年代以降には民主化に伴い王室は近代化路線をとり、1994年にヨルダン・イスラエル平和条約に調印し、1979年のエジプトに続き、イスラエルを正式に承認した二番目のアラブ国家となった。
■申命記
Deuteronomy)とは旧約聖書中の一書で、モーセ五書のうちの一書で5番目に置かれてきた。『申命記』は、伝承では死を前にしたモーセがモアブの荒れ野で民に対して行った3つの説話をまとめたものであるとされている。日本語の『申命記』という言葉は漢語訳聖書の名称から来ており、「繰り返し命じる」という意味の漢語である。
■約束の地
Promised Land) は、ヘブライ語聖書に記された、神がイスラエルの民に与えると約束した土地。この約束は、アブラハムに最初に与えられ(創世記15:18-21)、次いでその息子イサクに、さらにイサクの息子でアブラハムの孫であるヤコブにも与えられた(創世記28:13)。約束の地は、「エジプトの川」からユーフラテス川までの領域とされ(創世記15:18-21、出エジプト記23:31)、出エジプトの後、約束をされた者の子孫に与えられるとされた(申命記1:8)。
■ユダヤ人
Jews)とは、ユダヤ教を信仰する者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(民族集団)という2つの捉え方がある。中世以前は前者の捉え方がなされていたが、19世紀の国民国家出現以降は差別する側からもされる側からも後者の捉え方が出現した。キリスト教徒やイスラム教徒からナザレのイエスを裏切ったとして、迫害されている民族である(イエス・キリストは民族的には古代イスラエル人であるとされる)。
■オリーブ
Olea europaea)は、モクセイ科の植物。果実がオリーブ・オイルやピクルスを作るときに利用されている。種子の油は、オリーブ核油 olive kernel oil といい、オリーブ油よりも品質が劣る。オリーブの枝は、ハトとともに平和の象徴とされることが多い。これは『旧約聖書』の「神が起こした大洪水のあと、陸地を探すためにノアの放ったハトがオリーブの枝をくわえて帰ってきた。これを見たノアは、洪水が引き始めたことを知った。」との一節に基づいている。
■ラクダ
(駱駝)は、哺乳類・ウシ目(偶蹄目)・ラクダ科・ラクダ属 Camelus の動物の総称。西アジア原産で背中に1つのこぶをもつヒトコブラクダ Camelus dromedarius と、中央アジア原産で2つのこぶをもつフタコブラクダ Camelus ferus の2種が現存する。砂漠などの乾燥地帯にもっとも適応した家畜であり、古くから乾燥地帯への人類の拡大に大きな役割を果たしている。
■カナン
Canaanとは、地中海とヨルダン川・死海に挟まれた地域一帯の古代の地名である。聖書で「乳と蜜の流れる場所」と描写され、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地であることから、約束の地とも呼ばれる。現代のカナンに関する知識の多くは、1928年に再発見された都市ウガリットの発掘調査によってもたらされた。カナンという名称の起源は不明であるが、文献への登場は紀元前3千年紀とたいへん古い。シュメール人の都市マリの紀元前18世紀の残骸で発見された文書では、政治的な共同体として明瞭に見いだされる。
■オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。
■ナバテア王国
ナバテア王国は紀元前2世紀前半頃にペトラ(現在のヨルダン西部)を中心に栄えたナバテア人の王国。紀元前63年にローマの属国となり、106年にアラビア属州に併合という形で滅亡した。ナバテア人は元来北アラビアを起源とする遊牧民族であり、羊の放牧や盗賊稼業、貿易などを行いながら、当時エドム人が居住していたペトラを拠点に生活していた。
■イスラーム
ムハンマドがアッラーフの啓示を受けたとして創始した、ムスリムの信仰生活を、第一聖典クルアーン(コーラン)と第二聖典ハディースによって規定する体系をさす。回教とも呼ばれ、またかつてはフイフイ教とも呼ばれた。この語は、全知全能の唯一絶対神(アラビア語でアッラーフ)に絶対的に帰依する事、唯一神に完全・完璧に服従すること、またその状態を意味する。この帰依・服従のこと自体が一般に言われる「イスラム教」のことである。
■十字軍
crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。
■シュメール
Sumer, Shumer, Sumeria, Shinarは、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。
■ヘブライ語
アフロ・アジア語族のセム語派に分類される言語。古代にパレスチナに住んでいたヘブライ人(ユダヤ人)が母語として用いていた言語古典ヘブライ語(または聖書ヘブライ語)と、現在イスラエル国で話される現代ヘブライ語がある。現代ヘブライ語はヘブライ語で「イヴリート(イヴリット)」と呼ばれ、古代の聖書ヘブライ語は "Lashon HaKodesh" あるいは「聖なる言葉」すなわち「神の言語」という名前で知られていた。
■ムスリム同胞団
Muslim Brotherhoodは、エジプトのスンナ派のイスラム主義(イスラム原理主義)組織で、非合法だが同国の事実上の最大野党[1]。世俗法ではなくイスラーム法(シャリーア)によって統治されるイスラム国家の確立を目標としている。2010年以降の総指導者兼党首はムハンマド・バディーウ。イスラム主義組織としては20世紀最古にして最大の影響力を有し、中東に広がるスンナ派の代表的な社会運動・宗教運動組織となっている。
■スンナ派
ラテン文字転写:Ahl as-Sunnah は、イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。スンナ派は、イマームの指導を重視するシーア派に対して、預言者の言行(ハディース)を通じてスンナの解釈を行うことで預言者の意思を体現しようとする。
■汎アラブ主義
Pan-Arabismは、中東における国家を超えたアラブ民族の連帯をめざす思想運動。パンアラブ主義、アラブ民族主義ともいう。起源は、第一次世界大戦期、ヨーロッパ列強による植民地支配やオスマン帝国の支配に抗して起こった、民族自決運動のひとつである。この時期にイギリスに支援されたアラブ反乱が起き、1940年代に、シリアで汎アラブ主義のバアス党が結成される。
■歴史的シリア
大シリア、シリア地方ともいわれ、現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域の歴史的な呼称。西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原などの山地をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じる。
■ヨルダン川西岸地区
ヨルダンとイスラエルの間に存在し、現在パレスチナ自治区の一部を形成するヨルダン川より西部の地域のこと。1948年の第一次中東戦争後半に、ヨルダンによって占領され、1950年には、ヨルダンから東エルサレムを含む地域を併合という形にされた。同地区は1967年までヨルダンの一部を構成していたが(国際的には認められていなかった)、1967年の第三次中東戦争でイスラエル軍によって占領される。ヨルダンは1994年領有権を放棄した。
■ヨルダンの歴史
19世紀に入ると、当時この地方を支配していたオスマン帝国は、ロシアから逃亡してきたチェルケス人をシリア地方の人口希薄地帯に住まわせるようになり、次第に活気付き始めた。第一次世界大戦後の枢軸国側であったオスマン帝国は解体される。1920年、イタリアで開かれた連合国の会議で、現在のレバノン・ シリアの地域はフランスの委任統治領へ、ヨルダンを含むパレスチナはイギリスの委任統治領に組み込まれることが決定した。
<歴史>
■およそ50万年前の旧石器時代から人類が住み着いていた
紀元前8000年紀には人類最古級の農業が営まれた。西アジアに文明が発達すると交易の中心地として栄え、紀元前13世紀頃からはエドム人が住み着き、アンマンには旧約聖書に登場するアンモン人の国があった。紀元前1世紀頃には南部にペトラ遺跡を残したナバテア王国が発展するが、紀元1世紀から2世紀にローマ帝国に併合された。
■7世紀にはイスラム帝国の支配下に入る
アラビア語とイスラム教が浸透してアラブ化・イスラム化が進んだが、ダマスカスに都したウマイヤ朝が滅びイスラム世界の中心がシリア地方から離れると、その辺境として都市文明も次第に衰えていった。
■19世紀
当時この地方を支配していたオスマン帝国は、ロシアから逃亡してきたチェルケス人をシリア地方の人口希薄地帯に住まわせるようになり、次第に活気付き始めた。第一次世界大戦後の1919年にイギリス委任統治領パレスチナに組み入れられ、
■1923年
ヒジャーズ王国の王族アブドゥッラー・ビン=フサインが迎え入れられてトランスヨルダン王国が成立した。この政府に対するイギリスの代表者は最初はT・E・ロレンス、ついでジョン・フィルビーであり、パレスチナの高等弁務官の管轄下にあった。
■トランスヨルダン王国は第二次世界大戦後の1946年に独立
1949年に国名をヨルダン・ハシミテ王国に改めた。1950年には、エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を領土に加えたが、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに奪われる。
■中東戦争
イスラエルに占領された地域から大量のパレスチナ人の流入をもたらし、加えて1990年代以降には、民主化に伴い王室の近代化主義に反対する保守派やイスラム主義派が台頭して国内の不安定要因となっている。
■オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)の帝室オスマン家を皇帝とする多民族帝国で、現在のトルコの都市イスタンブルを首都とし、最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、ハプスブルク帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させるその主要原因となった。
■ナバテア王国
紀元前2世紀前半頃にペトラ(現在のヨルダン西部)を中心に栄えたナバテア人の王国。紀元前63年にローマの属国となり、106年にアラビア属州に併合という形で滅亡した。ナバテア人は元来北アラビアを起源とする遊牧民族であり、羊の放牧や盗賊稼業、貿易などを行いながら、当時エドム人が居住していたペトラを拠点に生活していた。紀元前4世紀前後には1万人弱だったナバテア人の人口は紀元前2世紀頃になると20万人近くに膨れ上がり、深刻な人口増加問題を抱えるようになる。もはや遊牧生活では立ち行きが難しくなったナバテア人はその頃から定住生活に移行を始め、エドム人の住むペトラに腰を落ち着けるようになり、ナバテア王国が誕生した。
■モアブ
モアブとは、古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、死海の東岸、アルノン川(現ヨルダン・ハシェミット王国のワディ・アル・ムジブ)以南からゼレド川以北(現ヨルダンのワディ・アル・ハサ)の高原地帯に広がる地域を指す。この地域は、現在のヨルダン・ハシェミット王国のカラク高原地域(カラク県)にほぼ等しい。 なおモアブと呼ばれた地域は、中世イスラム期にはマアブ(Maaр)と呼ばれていたことが、9世紀のアラブ人地理学者ヤクービ(al-Yaqubi)の記述から分かる。
■アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラビア人」の呼称が過去には一般的であったが、アラビア人を意味する英語のarabにさらに「人」をつけ足した「アラブ人」という言い方が、本来の意味からすればおかしいものの、オイルショックの頃から使われだし、やがて定着したもの。
■エドム人
エドム人は古代パレスチナに居住したセム系民族。現在はエジプト人。エドムはアカバ湾から死海にかけての地名であった。
■アルメニア人
アルメニアの主要民族。インドヨーロッパ語族に属するアルメニア語を使用している。アルメニア人の7割はアルメニア共和国外在住である。古代から国家を建設し、世界で初めてキリスト教を国家宗教とした。また中世の東ローマ帝国ではアルメニア系の王朝が建てられたことがある。なお、アルメニア人は非カルケドン派であるアルメニア使徒教会の信者がほとんどである。
■チェチェン人
Chechenets)は、北カフカースの民族。カフカス山脈中央から東部の北斜面に広がって居住するチェチェン人は、イスラム教のスンナ派シャーフィイー学派を信仰し、カフカス諸語のナフ諸語(英語版)と呼ばれるグループに属するチェチェン語を話す。
■アブハズ人
Abkhazians)は主にアブハジアに住むカフカースの民族。19世紀後半、ロシア帝国がカフカーズ戦争によって北カフカースを併合すると、ロシアの植民地的支配を嫌った多くのアブハズ人がオスマン帝国に移住し、現在でも数万〜数十万人のアブハズ人がトルコに住んでいる。
■ヘブライ語
古代にパレスチナに住んでいたヘブライ人(ユダヤ人)が母語として用いていた言語古典ヘブライ語(または聖書ヘブライ語)と、現在イスラエル国で話される現代ヘブライ語がある。現代ヘブライ語はヘブライ語で「イヴリート(イヴリット)」と呼ばれ、古代の聖書ヘブライ語は "Lashon HaKodesh" あるいは「聖なる言葉」すなわち「神の言語」という名前で知られていた。
■イギリス委任統治領パレスチナ
British Mandate for Palestineは、国際連盟によりパレスチナに創設された、イギリスが統治を行う委任統治領である。パレスチナは、16世紀以来この地を治めていたオスマン帝国から、第一次世界大戦後にイギリスの委任統治下に入った領土である。イギリスは1918年にこの地の占領統治を開始し、1920年から高等弁務官による民政を開始して実質的に植民統治を開始していた。
■ヒジャーズ王国
1916年から1932年の間、アラビア半島に存在した国家である。1925年のハーシム家支配終焉をもってヒジャーズ王国滅亡とすることが多いが、実際はヒジャーズ王国の国名はその後しばらく存在し、サウジアラビアの一部を構成。ヒジャーズ王国の創始者はフサイン・ビン・アリーであり、彼はイスラム教の創始者であるムハンマドの子孫に当たり、13世紀からヒジャーズ地域をエジプトやオスマン帝国の属国として支配してきたハーシム家の一族である。
■アヴァール
(Avars)は、 5〜9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。フンが姿を消してから約1世紀の後、フンと同じく現在のハンガリーの地を本拠に一大遊牧国家を築いたのがアヴァールである。フンほどの強大さはなく、またアッティラほど傑出した指導者がいたわけでもなく、さらに周辺民族による記録が少なかったためにアヴァールの歴史はよく知られていない。
<世界遺産>
■ ペトラ
ルートヴィヒ・ブルクハルトによる紹介以降、20世紀の頭から発掘調査が行われ始めた。2004年現在でも続いている。2000年の調査段階でも、未だ遺跡の1%程度しか完了していないと推定されている。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味する。1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。2007年7月、新・世界七不思議に選出。
■ アムラ城
ヨルダンにある浴場施設を中心としたウマイヤ朝時代の城館遺跡である。クサイル・アムラ(Qu?air 'Amra)ともいう。1985年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。現存するイスラーム帝国以降の浴場(ハンマーム)施設としては最古の部類に入る。ドームやヴォールト部分をふくめ建物全体がほぼ完全に原形を保っており、また後期ヘレニズム様式の影響が残るフレスコ画は美術史の上でも貴重な資料でもある。
■ ウム・アル=ラサス(ラサス地域の遺跡)
ウム・アル=ラサスは、ローマ帝国の占領時からイスラム教の王朝が支配した3世紀末から9世紀に都市を形成していたと考えられる。最初は、ローマ軍の軍事基地であったといわれている。ローマ時代のキリスト教会跡がいくつか残る。
■ジョン・フィルビー
Harry St John Bridger Philby、1885年4月3日−1960年9月30日は、イギリスの植民地政治家、ヒジャーズ国王イブン・サウードの顧問、探検家、歴史家。通称はジャック。二重スパイだったキム・フィルビーの父。母方の縁者にバーナード・モントゴメリー将軍がいる。ジョンはセイロンのバドゥラ(Badulla)で生まれ貧しい家庭の次男として育つが才能に恵まれ、奨学金によりウェストミンスター・スクールからトリニティー・カレッジへと進学した。在学中にインド文官試験に合格し、1908年からインドに赴任して家計を助けている。特に語学に優れドイツ語・フランス語を始めとして就職後はウルドゥー語・ペルシャ語・パンジャビー語・バルチー語・アラビア語を習得した。
■トーマス・エドワード・ロレンス
Thomas Edward Lawrence、1888年8月16日 - 1935年5月19日は、イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。1907年、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。1907年と1908年の夏には長期に渡ってフランスを自転車で旅し、中世の城を見て回った。1909年の夏にはレバノンを訪れ、1600キロもの距離を徒歩で移動しながら、十字軍の遺跡調査をしている。1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイ[2]を運転中、自転車に乗っていた二人の少年を避けようとして事故を起こし意識不明の重体になった。事故から6日後の5月19日に死去。46歳だった。
■ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ
Muhammad、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラーム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島西中部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラーム教では、モーセ、イエス・キリストその他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラーム国家を打ち立てた。
■アミール・ハッターブ
(Ibn Al-Khattab、1969年4月14日 - 2002年3月20日)は、チェチェン独立派テロリストであり、チェチェン東部地区の野戦指揮官であった。ヨルダン国籍。アンマンの裕福なアラブ人の家庭に生まれた。母はチェルケス人。アンマンの士官学校で学び、フセイン国王のチェルケス親衛隊に勤務。その後、16歳で出国し、アフガニスタン、タジキスタン、チェチェンで戦った。彼自身によれば、アフガニスタンでウサーマ・ビン=ラーディンに会ったが、その後音信は途絶えたという。
■ラーイヤ・ビント・アル=フセイン
Raiyah bint Al Hussein、1986年2月9日 - )は、ヨルダン王国の王女。1986年、ヨルダン国王フセイン1世・ビン・タラールとヌール・アル=フセイン王妃の間に二女として生まれた。アトランティック・カレッジで国際バカロレア資格を取得。英国のエジンバラ大学で国際関係学を学んだ。日本文化や日本語に興味を持ち、2005年には学習院女子大学に4か月の短期留学をし、日本語と日本文化を勉強した。2011年1月から国際協力機構(JICA)東京本部でインターンシップを行っている。
■アドナーン・バドラーン
Adnan Badran、1935年12月15日 - )は、ヨルダンの科学者、政治家。2005年4月7日から11月27日まで首相を務めた。ヨルダンのジャラシュに生まれ、1966年と1986年にミシガン州立大学から理学修士号と博士号を取得。ヨルダンの数箇所の大学で生物学の教授となり、教科書を数冊と多くの論文を著して早くも学界の指導者となった。1990年代にはアラブ科学アカデミー総裁とフィラデルフィア大学学長になり、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)の副事務局長も務めた。
■ハテム・アケル
(Hatem Aqel、1978年6月21日 - )は、ヨルダン出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。現在はサウジアラビアのアル・ライドに在籍している。ヨルダン代表のキャプテンとしてカタールで開催されたAFCアジアカップ2011に臨んだが、初戦の日本戦で負傷をしてしまい、残り試合の欠場を余儀なくされた。
■スレイマン・アル=サルマン
Suleiman al-Salman 、1987年6月27日 - )は、ヨルダンのサッカー選手。ポジションはDF。ヨルダン・リーグのアル・ラムタに所属している。2010年よりヨルダン代表に選ばれており、AFCアジアカップ2011代表である。鉢巻をつけてプレーすることが多い。 |
ヨルダンJordan
中東・西アジアに位置する立憲君主制国家。首都はアンマン。イスラエル、パレスチナ暫定自治区、サウジアラビア、イラク、シリアと接する。イスラエル・パレスチナ暫定自治区とはヨルダン川と死海が境である。ハシミテは、預言者ムハンマドの曽祖父ハーシムの子孫の家系であるハーシム家を指す英語をカタカナ化したもので、ヨルダン・ハシミテ王国は、ハーシム家の王国ヨルダンを意味する。
■アンマン
Ammanは、ヨルダンの首都。人口はおよそ120万人でヨルダンの全人口の4分の1ほどにも及び、ヨルダンの政治、経済の中心都市となっている。2010年の近郊を含む都市的地域の人口では252万人であり、世界では146位である。中東有数の世界都市である。アンマンは近代的なビルが立ち並ぶ近代都市である一面で、昔ながらの市場(スーク)のあるダウンタウンを抱えている。ヨルダン川にも比較的近く、イエスが洗礼を受けたとされるワディ・ハラール(Wadi Kharrar)まで車で45分ほどであるため、多くのキリスト教徒が訪れる。
アンマンの地は新石器時代の9000年前以来の定住地で、古代エジプトの統治を受けた時代に、アメン神の名を冠したアンモンという名の都市が建設されたと伝えられる。聖書ではアンモン人の主要な都市として、ラバ、もしくはラバトの名で登場する。
■アジュルン
ヨルダン北部の都市でアジュルン県の県都。首都アンマンからは北西へ76kmの位置にある丘の多い町である。12世紀の城の印象的な廃墟(アジュルン城)が有名。アジュルン城またはカラート・アル=ラバド、はかつて修道院のあった丘の上に建てられている。1184年、サラーフッディーンの部下である将軍イッズ・アッディーン・ウサマにより、ダマスカスとエジプトを結ぶ道をカラクの十字軍による攻撃から守るための城として建てられた。
■アカバ
Aqabaは、ヨルダン南部の港湾都市。人口62,773人 (1994年)。ヨルダン唯一の港湾として、戦略的な要地である。ヨルダンの南端にあり、アカバ湾に面し、紅海を経てインド洋に通じる。サウジアラビアとイスラエル、エジプトを結ぶ海上交通の要所。海洋貿易の一大拠点。また、温暖な気候で、雨も少ないためリゾート地としても有名。 2004年現在は、ヨルダンとイスラエルとの関係改善によるイスラエルからの旅行者も増加している。
■クィーンアリア国際空港
Queen Alia International Airportは、ヨルダンのアンマンにある国際空港。この空港名称は、1977年に飛行機墜落事故で死去したアリア王妃(現国王アブドゥッラー2世の父、フセイン1世の3番目の妻)にちなんで名付けられた。 ロイヤル・ヨルダン航空がハブ空港として使用している。
■アカバ空港
Aqaba King Hussein International Airportは、ヨルダン・ハシミテ王国アカバにある国際空港。この空港の半径15マイル以内には、エジプト、サウジアラビア、イスラエルがあり、非常に政治的に微妙な立地にある。
外務省:ヨルダン・ハシェミット王国
在ヨルダン日本国大使館
■アラブ・オープン大学
Arab Open University、は、バーレーン、エジプト、ヨルダン、クウェート、レバノン、サウジアラビア、オマーンに本部を置くアラブ諸国の私立大学である。2002年に設置された。
■ヒジャーズ鉄道
オスマン帝国によって建設されたヒジャーズ鉄道(ヒジャーズてつどう、Hejaz railway)は、シリアのダマスカスから現在のサウジアラビアの聖地マディーナ(メディナ)までの区間を、シリア、ヨルダン、およびアラビア半島西部のヒジャーズ地方を縦断して連絡した鉄道である。総延長は1,308km、軌間は1,050mmで、オスマン帝国の鉄道網の一部をなしており、当初の計画では聖地マッカ(メッカ)を終着駅にしていた。
■カラク
Al-Kerakはヨルダン中部の都市でカラク県の県都かつ最大の街。人口は20,000人ほど。かつては十字軍国家の一つ・エルサレム王国の一部であり、十字軍の建てた城塞の遺跡で知られる。カラクは首都アンマンの南140kmの位置にある。カラクの街と十字軍のカラク城は、標高1,000mの丘の上にある。死海を見下ろす丘は、上の台地が三角形の形をしており、三方を深い谷間に囲まれ、三角形の南端にカラク城がそびえている。三角形の底辺にあたる部分には市街地が集中し、19世紀末のオスマン帝国の時代に遡る家・レストラン・ホテルなどの建物が多い。
■ジェラシュ
ヨルダン北部の都市でジェラシュ県の県都。首都アンマンからは北へ48kmの位置にある。ジェラシュ県の風土は多様で、標高が1,100mを超える高く寒冷な山地から、標高300mほどの肥沃な谷間などがあり、農耕が盛んである。ジェラシュの町は標高600mの丘にある。ジェラシュはギリシャ・ローマ風の都市ゲラサ(Gerasa、別名・クリュソロアスのアンティオキア、「金の川沿いのアンティオキア」、Antiochia on the Chrysorhoas)の廃墟があることで知られる。ゲラサはローマ時代、デカポリス(十都市連合)と呼ばれた東部辺境の都市群に含まれていた。ジェラシュの産業は観光業が主で、遺跡を訪れる観光客に大きく依存している。また県内にはオリーブの木が125万本あり、これらの農産物の集散や加工も行っている。1981年以来ジェラシュは「ジェラシュ・フェスティバル」を開催しており、夏の3週間にわたり舞踊、音楽、演劇の公演などが続く。
■タフィラ
はヨルダン南西部の小都市でタフィーレ県の県都。人口はおよそ35,000人。首都アンマンの南方180kmにあり、オリーブやイチジクやブドウなどの茂る庭園で知られている。またタフィラ郡内には360以上の泉が湧く。自然保護区に指定されエコツーリズムも行われる緑豊かなダナ渓谷(Wadi Dana)では泉からの水が天然の貯水湖をなす。
■ザルカ
ヨルダン西部の都市でザルカ県の県都。首都アンマンの北東25kmに位置する。人口は約792,665人(2000年)でヨルダン第2位の大都市であり、ヨルダンの人口の15.5%を占める。ザルカは「青色」を意味する。1940年代以降ザルカにはパレスチナ人難民など人口が流入し市街地は拡大を続けている。特に、第三次中東戦争(六日間戦争)によりヨルダン川西岸地区から逃げてきた人々が人口の5割以上を占める。
■マアーン
ヨルダン南部の都市でマアーン県の県都。首都アンマンの南218kmに位置する。人口は1992年の国勢調査では22,989人で、2007年の推計では27,573人。マアーンの街は、少なくとも紀元前2世紀から紀元1世紀のナバテア王国の時代に存在した。現在のマアーンは古代都市の北と西に広がっている。リベラル的なヨルダンではあるが、マアーンでは敬仰なイスラム教徒が多く住む。
■マダバ
Madabaはヨルダン西部の都市でマダバ県の県都。首都アンマンの南西35km、死海の東の台地上に位置する。人口は約60,000人でヨルダンでは第5位。東ローマ帝国時代およびウマイヤ朝時代のモザイクが残ることで知られており、特に東ローマ帝国時代のパレスチナおよびナイル川デルタを描いた、モザイクでできた大きな地図(マダバ地図)が有名。マダバ周辺には新石器時代以来人が住み続けた。マダバの街は青銅器時代中期に遡り、かつてはモアブの境にある町で、旧約聖書の民数記21章30節およびヨシュア記13章9節では「メデバ」の名で登場する。
■サルト
Salt, As-Saltはヨルダン中西部の中心都市でバルカ県の県都。古代から農業などで栄えた街で、アンマンとエルサレムとを結ぶ古い街道の半ばにある。サルトの街は海抜790mから1,100mのバルカ高原に位置し、ヨルダン川渓谷に近い3つの丘にまたがっている。現在のヨルダンの首都アンマンからは北西へ車で1時間ほどで、サルトに入ると、長いアーチ窓が特徴的なオスマン帝国末期からの石造建築が並ぶ古い街が広がる。
■ジェラシュ
ヨルダン北部の都市でジェラシュ県の県都。首都アンマンからは北へ48kmの位置にある。ジェラシュ県の風土は多様で、標高が1,100mを超える高く寒冷な山地から、標高300mほどの肥沃な谷間などがあり、農耕が盛んである。ジェラシュの町は標高600mの丘にある。ジェラシュは20世紀の間に劇的に成長した。これはヨルダン北部の中心に位置し戦略的に重要であること、観光地としての価値が高まったことが原因に挙げられる。ジェラシュの遺跡は今日、ペトラ遺跡に次ぎヨルダンで二番目に人気のある観光客の訪問先となっている。
■マフラク
Al-Mafraqはヨルダン北西部の都市でマフラク県の県都。首都アンマンの北方のシリア・ヨルダン国境近くにあり、北のシリア方面への道と東のイラク方面への道が分かれている。
■アカバ
Aqaba)は、ヨルダン南部の港湾都市。人口62,773人 (1994年)。ヨルダン唯一の港湾として、戦略的な要地である。ヨルダンの南端にあり、アカバ湾に面し、紅海を経てインド洋に通じる。サウジアラビアとイスラエル、エジプトを結ぶ海上交通の要所。世界でも貴重な黒バラの咲く土地でもある。王家の花として保護されている。
■アジュルン県
ヨルダンを構成する県(ムハーファザ)の1つである。県都はアジュルーン。アジュルーン山地の海抜は最高で1,250mに達し森が多く、冬には雪も見られる。
■アンマン県
首都アンマンおよびその郊外都市を抱える。サハーブ(Sahab)、アル=ムワッカル(Al-Mwwqqar)、アル=ジーザ(Al-Jiza)などの郡は、東部に広大な砂漠を管轄する。
■アカバ県
南部には県都であり紅海のアカバ湾に面した港湾・リゾートでもあるアカバ市があるが、それ以外にもペトラ遺跡、荒々しい谷間であるワディ・ラム(ワーディー・ラム、Wadi Rum)などの観光地がある。
■ジェラシュ県
ヨルダンの県の中で最も面積が小さいが人口は多く、イルビド県に次ぐ人口密度の高い県である。県内は海抜1,000メートル以上の寒冷な山地から、農業などが営まれる肥沃な谷間などの地形がある。オリーブ栽培の盛んな農業県でもある。
■マアーン県
アカバ県、タフィラ県、カラク県などの東にあり、サウジアラビアとの国境の砂漠地帯を管轄しており、ヨルダンの県の中で最も広い面積を持つ。県都はマアーン。県内にはヨルダンでももっとも標高の高い山岳部がある。またセム系諸王国の遺跡や、シュバク城やモンレアル城などの十字軍遺跡も抱える。
■マダバ県
県都は、東ローマ時代のモザイクが残ることで知られるマダバ。県の西方には死海があるほか、旧約聖書にも登場する地名や遺跡が数多くある。
■ザルカ県
県都は、首都アンマンの郊外都市であるザルカ。その他の都市にはアンマンから東へ100キロメートル離れたオアシス都市アズラク(Azraq)がある。アズラク周辺には古代の城や湿地帯もある。
■ハーシム家
英The Hashemitesは、イスラムの家系、または王朝の名前である。イスラム教の預言者ムハンマドの曽祖父ハーシム(西暦500年頃没)の一門。クライシュ族に属する。アッバース朝もこの一門から出た。ハーシムの息子アブドゥル=ムッタリブにはアブドゥッラーフ、アブー=ターリブ、アッバースら息子たちがいた。この内、アブドゥッラーフの息子ムハンマドは男児に恵まれぬまま末娘ファーティマとその夫でアブー・ターリブの息子のアリーとの間にのみ血統が残ったため、実質、ハーシム家はアリー家を含むアブー・ターリブ家とアッバース家に大きく分けることができる。
■国名
公式の英語表記は、 Hashemite Kingdom of Jordan。通称 Jordan。ヨルダンの名称は、国土の西を流れるヨルダン川の名に由来する。ヨルダン川は、ヘブライ語起源の河川名で聖書に名が現われ、アラビア語ではウルドゥン、ヨーロッパ諸言語ではヨルダンあるいはジョルダンとなる。ヨルダン川の名前が国名となったのは、この国が第一次世界大戦後に成立したイギリスの委任統治領トランスヨルダン(ヨルダン川の向こうの意)を前身とするためである。
1.面積:8.9万平方キロメートル(日本の約4分の1)
2.人口:595万人(2009年)
3.首都:アンマン(Amman)
4.言語:アラビア語(英語も通用)
5.宗教:イスラム教 93%、キリスト教等 7%
6.国祭日:5月25日(独立記念日)
7.略史:7世紀よりイスラム諸王朝の支配を受け、16世紀からはオスマントルコの支配下に入る。
1919年 英の委任統治領となる
1923年 トランスヨルダン王国建国
1946年 トランスヨルダン王国として独立
1950年 ヨルダン・ハシェミット王国と改称
■主要産業:製造業、運輸・通信業、金融業
■貿易品目(1)輸出 衣料品、燐鉱石、カリ、化学肥料、医薬品(2)輸入 原油、自動車・車両、機械類、電気機器
■ヨルダン・ディナール
補助通貨単位はディルハム(1/10)、ピアストル(1/100)とフィルス(1/1000)。1949年より発行が開始された。ヨルダン・ディナール導入以前は、英語とアラビア語とヘブライ語の3か国語で記載されていた英国委任統治領時代のパレスチナ・ポンドが使用されていた。
■湾岸協力会議
Gulf Cooperation Council、英文略称:GCC、は、中東・アラビア湾岸地域における地域協力機構である。2009年12月15日、第30回湾岸協力会議の首脳会議がクウェート市において二日間の日程で開かれた。採決された最終コミュニケは、各国は通貨同盟の設置、域内の経済・軍事協力、テロ対策、地球温暖化問題への対応、イラン核問題の平和的解決、イエメン内紛問題でのサウジアラビアへの支援を確認した。
■パレスチナ問題
パレスチナの地を巡るイスラエル(シオニスト・ユダヤ人ら)とパレスチナ人(パレスチナ在住のアラブ人)ととの関係から生じた紛争を一個の政治問題として扱った呼称。パレスチナ・イスラエル問題と表記することもある。古称は「フル」、「カナン」という。パレスチナあたりはペリシテ人の土地で、パレスチナという言葉はペリシテという言葉がなまったものと考えられている。紀元前13世紀頃にペリシテ人によるペリシテ文明が栄えていた。しかしペリシテ民族は完全に滅亡した。その後は紀元前10世紀ごろにイスラエル民族によるイスラエル王国がエルサレムを中心都市として繁栄した。
■パレスチナ
地中海東岸の歴史的シリア南部の地域的名称。西アジア・中東に位置する。民族宗教ユダヤ教の聖典旧約聖書では、パレスチナの地は神がイスラエルの民に与えた約束の地であると説かれ、このためヘブライ語では「イスラエルの地(エレツ・イスラエル、Eretz Yisraë褐)」とも呼ばれるようになった。のちにユダヤ教から分かれてキリスト教が興ると、その聖地として世界中の信徒から重要視されるようになった。さらに、ユダヤ教・キリスト教から分かれてアラビア半島に興ったイスラム教も当然エルサレムを聖地としたため、諸宗教の聖地としてエルサレムを擁するパレスチナは宗教的に特別な争奪の場となった。
■ジャスミン革命
Jasmine Revolution、2010年から2011年にかけてチュニジアで起こった革命(民主化運動)。一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモが国内全土に拡大し、軍部の離反によりザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した事件である。ジャスミンがチュニジアを代表する花であることから、このような名前がネットを中心に命名された。
■経済
IMFの統計によると、2011年のヨルダンのGDPは約292億ドルであり、日本の島根県とほぼ同じ経済規模である。現在農業従事者は18万人おり、おもに果実を中心に栽培している。 畜産業としてはラクダや牛、馬や鶏をそだて、牛乳や卵をとっている。 なによりヨルダン経済を支えているのはリン鉱石と天然ガスで、リン鉱石は256万トン、天然ガスは9.6千兆ジュールを産出している。
■天然資源
東部砂漠のRishaガス田を1987年に発見、埋蔵量はそれほど多くはないが、ヨルダン全体の発電量の1割を支えている。南部には世界第3位を誇るリン鉱石埋蔵量があり、採掘された鉱石は鉄道でアカバ港へ運ばれ輸出される。ウラン鉱石は世界の2%の埋蔵量がある。最近注目されているのがオイルシェールで、400億トンの石油の存在が推定される。ロイヤル・ダッチ・シェルとの間で開発契約が締結された。
■リン鉱石
rock phosphate)は、工業原料として利用可能なリンを採取できる、リン酸塩鉱物を主成分とした鉱石である。世界中に分布するリン鉱石であるが、価格が極めて安価であったことから、大規模な開発により生産コストを低減させる必要があった。このため、特定の国の巨大鉱床に依存することが多い。
■天然ガス
natural gas)は、一般に天然に産する化石燃料である炭化水素ガスのことを指す。広義には、地下に存在するガス、または地下から地表に噴出するガス一般のことであり、この中には化石燃料ガス(可燃性ガス)だけでなく、窒素や酸素、炭酸ガス、水蒸気、硫化水素ガス、亜硫酸ガス、硫黄酸化物ガスなどの不燃性ガスも含まれる。これら不燃性ガスの多くは火山性ガスである。
■オイルシェール
oil shaleとは、油母 (ケロジェン、en:kerogen) を多く含む岩石である。これらを化学処理して液状もしくはガス状炭化水素とすることができる。油母を熱分解することで、合成石油にすることができる。すなわちオイルシェールを加熱すると、油の蒸気や可燃性のガス(オイルシェールガス。シェールガスとは異なる)が発生するので、これを回収して使用する。オイルシェールを発電や暖房目的で直接燃やすこともあり、化学産業の原料として使うこともある。
■イルビド
首都アンマンの北70kmにあり、ヨルダン川東岸の険しい台地ギレアド(ギレアデ、Gilead)の北の縁に位置し、シリアとの国境の近くにある。イルビドは古代はアラベラ(アルベラ、Arabella)と呼ばれていた。1992年の国勢調査によれば人口は208,329人であるが、2007年の推計では327,543人となっており、ヨルダンでもアンマン、ザルカに次ぐ第3の都市である。またイルビド県も、ヨルダンでは2番目に人口の多い県である。イルビドの住民にはパレスチナ人難民も多い。イルビド周辺にはいくつかの大学があり、そのうちヨルダン科学技術大学とヤルムーク大学が重要な存在である。
現在のイルビドは喧騒に満ちた中東風の都市の側面と、若者が夜も行き来する学園都市の側面とがある。イルビドはペラ、ウム・カイス、ベイト・ラス、アジュルンなどヨルダン渓谷北部の古代遺跡めぐりの拠点であり多くの外国人観光客も訪れる。
■アラブ世界
アラビア語を話す人々であるアラブ人が主に住む地域。現代政治的にはアラブ連盟の加盟諸国とみなされることが多く、アラブ諸国(en:Arab states)とも言う。ただし、アラブ連盟加盟国の中には、ジブチ・ソマリアなどアラブ人が少数派を占めるにすぎない国々もある。
■アラブ連盟
League of Arab States)は、アラブ世界の政治的な地域協力機構。第二次世界大戦末期の1945年3月22日創設。本部はカイロにある。加盟は22(21カ国と1機構)。 現在の連盟事務局長はエジプト前外相のナビール・エル=アラビー。
■イスラム協力機構
Organisation of Islamic Cooperation, は、イスラム諸国をメンバーとして構成され、国際連合に対する常任代表を有する国際機構。イスラム諸国の政治的協力、連帯を強化すること、イスラム諸国に対する抑圧に反対し、解放運動を支援することを目的とする。
■ヨルダン内戦
1970年にヨルダン・ハシミテ王国において発生した、ヨルダン政府とパレスチナ解放機構(PLO)との内戦。9月に発生したことから黒い九月事件(ブラック・セプテンバー事件)と呼ばれることもある。ヨルダンは中東において比較的穏健的現実路線を取っていた王国であったが、ヨルダン川西岸地区を占領するイスラエルと対立しており、国内に多数のパレスチナ難民を抱えていた。ヨルダンにとって3日間で敗北を喫した第三次中東戦争終結後、ヨルダン政府はPLOを支援してヨルダン川を越境攻撃したが失敗、以後ヨルダンはイスラエルに対して強硬手段をとることを諦め、現実路線に移ろうとした。一方、首都アンマンのPLO指導部は、寝返ろうとしているヨルダン政府を転覆し、新生パレスチナ国家を樹立するべく各地でヨルダン政府軍・警察と戦闘を繰り広げ始めた。さらに、資金集めと称して銀行を襲撃したり、パレスチナ難民から不当な税金を取り立てたりと、次第にヨルダン人からもパレスチナ難民からも嫌悪される存在に堕ちていた。しかし、ヨルダン国王フセイン1世が激怒し、PLO排除を決意したのは、1970年9月6日に発生したPLOの過激派PFLPによる連続ハイジャック事件だった。
9月14日、フセイン国王は国内に戒厳令を敷き、国王親衛隊のベドウィン部隊を中心とする政府軍がアンマンに進出し、PLO部隊への攻撃を開始した。戦闘はヨルダン各地に波及し、圧倒的な軍事力を持つ政府軍にPLOは敗走を重ねる。しかし、PLO支援に積極的だったシリアは陸軍をヨルダンに侵入させ、PLOに加勢した。結局、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセル大統領がヨルダン・シリア・PLOの仲介に入り、PLOは受け入れを表明したレバノンへ本部を移転させることとなり、ヨルダン政府軍、PLOとシリア軍は停戦した。この結果、PLOは指導部と主力部隊をレバノンに移した。
■中東戦争
ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家との間での戦争である。1948年から1973年までの間に大規模な戦争が4度起こっており、それぞれが第一次から第四次に分類されている。アメリカ・イギリス・フランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対して支援や武器供給を行っていることから、代理戦争の側面も含んでいる。ただしイデオロギーよりは中東地域による利権や武器売買などの経済的な動機が重きを占めていた。そのため初期にイスラエルに支援や武器供給を行なっていたイギリス・フランスは第3次中東戦争以降は石油政策などからアラブ側に回り、さらに中華人民共和国やイラン革命後のイランが武器供給や軍事支援においてアラブ側に入り込むなど、大国や周辺諸国の思惑の入り混じる戦争でもある。
■アモン人
アモン人は古代パレスチナのセム系民族の一つである。アモン人は聖書ではモアブ人の兄弟民族であり、先祖がロトであることからアブラハムの子孫であるイスラエルとは従兄弟に当たる民族とされている。ヨルダン川東岸のギレアデ地方に国家を築いており、イスラエルとは敵対的関係にあった。後にダビデ王に依り征服されイスラエルの属国となり、ユダヤ人に吸収される。その首都はラバ(Rabbah)と呼ばれた。後にヘブライ語でラバト・アンモーン(Rabbath Ammon)と呼ばれ、現在はヨルダンの首都アンマンとなっている。
■住民
ほとんどアラブ人である。わずかにアルメニア人、チェチェン人、チェルケス人、アブハズ人、アディゲ人、アヴァールなどがいる。1967年の第三次中東戦争以降流入したパレスチナ難民の人数は、2002年6月現在、7割を越えている。
■言語
公用語がアラビア語。宗教はイスラム教スンナ派がほとんど。その他にキリスト教なども信仰されている。
■マンサフ
伝統的なヨルダン料理(英語版)のひとつ。発酵させた乾燥ヨーグルトのソースで羊肉を調理した肉料理で、米かブルグァ(火にあぶり乾燥させた麦を砕いたもの)と一緒に供する。マンサフはヨルダンの国民食である。マンサフはヨルダン川西岸地区の一部にも見られる。マンサフという名称は、「大きな皿」を意味する表現に由来する。別の説では、「手で食べる」という意味であるともいう。
■アブドゥッラー2世
1962年1月30日 - はヨルダン国王(在位:1999年2月7日 - )。イスラム教開祖ムハンマドの血筋を引くハーシム家の出身。1962年1月30日、国王フセイン1世と2番目の妻・ムナー・アル=フセイン王妃との間に長男として生まれる。
生後間もなく王太子に指名されるが、1965年に叔父のハッサンに王位継承権が移る。1966年、4歳のときにイギリスに留学し教育を受け、1981年にサンドハースト英陸軍士官学校卒業。1983年にはオックスフォード大学で国際政治学を聴講。1987年 - 1988年にはアメリカのジョージタウン大学大学院修士課程(国際関係論)。
■アブドゥッラー1世
Abdullah al-Auwal bin al-?usain、1882年2月 - 1951年7月20日)は、ヨルダン国王(1921年4月11日 - 1951年7月20日)。メッカの大首長であるフサイン・イブン・アリーの次男としてメッカで誕生した。現実主義な政治家であったという。1916年のアラブの反乱に参加。1920年にシリアのダマスカスでのアラブ民族会議でイラク国王に、弟のファイサルはシリア国王に選出されるが、同年6月フランスのダマスカス占領及び弟のファイサルのシリアからの追放が起こり、これに対して、ファイサルのシリア王権を支持するために軍を率いて北上した。
■アリー・イブン・アビー・ターリブ
600年頃 - 661年1月27日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム。預言者ムハンマドの父方の従弟で、彼の母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。
■ファーティマ
イスラーム教の開祖ムハンマドとその最初の妻ハディージャの娘。メッカに西暦614年(シーア派伝)、または606年(スンナ派伝)に生まれ、ムハンマド死後まもなく632年メディナで没する。後世、彼女は女性が見習うべき理想の女性と称賛されている。スンナ派とシーア派とでは彼女の人物像に対する説明が異なってくる。例えばスンナ派の歴史によれば、ファーティマはハディージャとムハンマドの末娘として生まれ、若くして病死する。一方シーア派によれば、彼女はムハンマドの唯一の娘であり、末娘というのは夫アリーの正当性を貶めるためにスンナ派が広めたものとする、といったものだ。これらは、最初口承によって伝えられ、文章化されたのは100年以上後のことなので、どちらがより正確な事実なのかを判断するのは難しい。
■フサイン・イブン・アリー
1853年 - 1931年6月4日はマッカのシャリーフ(在位:1908年 - 1916年)でオスマン帝国からのアラブ独立運動の指導者。のちヒジャーズ王国の国王(在位:1916年 - 1924年)、カリフ(在位:1924年)。第一次世界大戦中の1915年、イギリスのカイロ駐在の高等弁務官・マクマホンと書簡を交換し、オスマン帝国に反旗を翻すときに支援するという協定「フサイン=マクマホン協定」を結んだ。そして、4人の息子と共に「アラブの反乱」を起こして1916年、独立を果たす。
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