|
イラク共和国
Republic of Iraq
|
■地理
イラクの国土はいびつな三角形をなしており、東西870km、南北920kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にあり、シリア、ヨルダンとの国境(北緯33度22分、東経38度47分)である。北端はトルコとの国境(北緯37度23分、東経42度47分)で、クルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口(北緯29度53分、東経48度39分)。南端はネフド砂漠中にあり、クウェート、サウジアラビアとの国境(北緯29度3分、東経46度25分)の一部である。イラクの地形は3つに大別できる。 国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる二本の大河、南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側は、シリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており、不毛の土地となっている。
■中東
Middle East または Mideast)は、狭義の地域概念では、インド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の総称。西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、おおまかに定義される地政学あるいは国際政治学上の地理区分。
■西アジア
アジア西部を指す地理区分である。今日の欧米ではほぼ中東と同じ領域を指すことが多い。一般的には、中央アジアおよび南アジアより西、地中海より東で、ヨーロッパとはボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている地域を指す。
■メソポタミア
(Mesopotamia、ギリシャ語で「複数の河の間」)は、チグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野であり、過去のペルシアの一部、現在のイラクにあたる。メソポタミア文明 はメソポタミアに生まれた文明を総称する呼び名で、世界最古の文明であると言われていた。文明の初期の中心となったのはシュメール人であるが、シュメール人は民族系統が不明である。
■シュメール
(Sumer, は、メソポタミア(現在のイラク・クウェート)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。
■ザグロス山脈
Zagros Mountainsは、イランの南西部からイラク、トルコそれぞれの国境線となる山脈である。ザグロス山脈は、イラン西部からペルシャ湾のホルムズ海峡まで全長1,500キロメートルに及んでいる。
■ネフド砂漠
アラビア半島北部内陸の砂漠。面積569,79.70km2、東西約290km、南北約230km。ルブアルハリ砂漠およびダハナ砂漠に連なる。アラビア語で砂礫の広がる地域を意味し、起伏の少ない土地に延々と三日月状の砂丘が広がるエルグという地形である。ヒジャーズに近隣した一部の低地には麦や野菜、果実が実るオアシスがある。
■チグリス川
トルコを源流とし、イラクをほぼ南北に縦断してペルシア湾に流れる川。河口近くでユーフラテス川と合流し、シャットゥルアラブ川と名前を変える。全長約1900キロメートル。多くの支流を持つ。
■ユーフラテス川
(Euphrates)は、トルコ北東部の山地を源流としてシリアを通過し、イラクでチグリス川と合流してシャットゥルアラブ川となり、最終的にペルシア湾に注ぐ国際河川である(河口付近はイランとイラクの国境になっているが、国境線の位置をめぐって紛争になっている)。全長2780キロメートル。数千年前、この川と隣のチグリス川の水は、いわゆる「肥沃な三日月地帯」を形成し、中東最初の文明を構築することに貢献した。
■シリア砂漠
Syrian Desert, はシリア、ヨルダン、イラク各国の内陸部にまたがる砂漠地帯。ステップと砂漠の複合した植生の荒地である。西はシリアのオロンテス川渓谷、東はシリアからイラクへ流れるユーフラテス川渓谷に及ぶ。北はシリア北部の肥沃な草原・森林へ至り、南はネフド砂漠などアラビア半島内陸の砂漠へとつながる。
■ペルシア湾
イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンに囲まれた細長い形状の湾。面積はおよそ240,000平方キロメートルで、長さ約1千キロメートル。平均水深50メートル、最大90メートル。ホルムズ海峡を通じ、オマーン湾そしてアラビア海へと繋がっている。
■シャットゥルアラブ川
チグリス川とユーフラテス川の合流によって形成され、イランとイラクの国境地帯を流れながらペルシャ湾に注ぐ。長さは200km。イラク領のバスラ、イラン領のホラムシャハル、アーバーダーンなどの港湾都市が川沿いに連なり、両国の重要な航路となっている。
■肥沃な三日月地帯
Fertile Crescent)とは、古代オリエント史の文脈において多用される歴史地理的な概念である、その範囲はペルシア湾からチグリス川・ユーフラテス川を遡り、シリアを経てパレスチナ、エジプトへと到る半円形の地域である。
<歴史>
■メソポタミア
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。
■イスラム帝国
西暦634年、ハーリド・イブン=アル=ワリードの指揮のもと約18,000人のアラブ人ムスリム(イスラム教徒)からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍は、その兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが、東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れ、メソポタミアはムスリムによって征服された。
■オスマン帝国
1258年にバグダードがモンゴルのフレグ・ハンによって征服されると、イラクは政治的には周縁化し、イラン高原を支配する諸王朝(イルハン朝、ティムール朝など)の勢力下に入った。16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、オスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服、1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世が奪還した。
■イギリス帝国
19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、バグダードとバスラ、モースルをそれぞれ州都とする3つの州として統治していた。第一次世界大戦末になって、イギリスとフランスは、交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配する協定(サイクス・ピコ協定など)を結び、現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められた。
■王政・独裁・戦争
ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成したが、同年7月14日、カーシム准将とアーリフ大佐率いる自由将校団のクーデターによって倒され、共和制となった。
■1984年
イラクはアメリカと国交を回復した。アメリカは、1988年に至るまでサッダーム・フセイン政権に総額297億ドルの兵器供給を行った。
■1990年
石油資源を求め隣国のクウェートに侵攻、多くの日本人が人質になった、国連の決定による1991年の湾岸戦争でアメリカを中心とする多国籍軍との戦いに敗れて、周辺国からも国際社会からも孤立した。
■湾岸戦争後
兵器購入や研究を困難にするための経済制裁によって市民は圧政に喘いだ(イラク武装解除問題)。この経済制裁によって、イラクのインフラは壊滅的な打撃を受け「湾岸危機以後、イラクにおける児童死亡率は世界で最も高く、誕生した幼児の23%は未熟児で、5歳児の4人に1人が栄養失調になり、国民の41%だけが飲料水を正常に得ており、83%の学校が修繕を必要としてる」と1999年3月に国際連合安全保障理事会に任命された委員会は説明した。
■フセイン政権崩壊と新政府
2003年3月、国連決議に反してフセイン政権が大量破壊兵器を保有していると主張するアメリカが主導し、多国籍軍がイラクに攻め込みイラク戦争が勃発しフセイン政権は崩壊し、フセイン大統領もアメリカ軍に拘束されたが、大量破壊兵器は結局見つからなかった。
■2005年1月30日
イラクで初めての暫定議会選挙を実施し、3月16日に初の暫定国民議会が召集された。
■2006年4月22日
シーア派政党連合の統一イラク同盟がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足した。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足であった。
■2007年以降
治安状況も改善し、外国軍の撤退も行われてきている。2010年8月7日〜8日にかけて、南部のバスラなどの全国各地でテロが相次ぎ、60人が死亡し、185人が負傷した。2010年8月19日までに駐留アメリカ軍戦闘部隊の撤退が行われ、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍部隊も2011年末に撤退した。
■2011年12月26日
バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりある。
■ジャズィーラ
メソポタミア北部、ユーフラテス川上流からチグリス川上流にかけての地域を指すアラビア語の地方名。今日のイラク北部からシリア北部、トルコ南東部にかけての地域にあたる。トルコ南部の山地から発するハブール川とその支流がこの地域を貫いており、ジャズィーラ地方の南部で一本にまとまり南のユーフラテス川に向かって流れている。
■アッバース朝
中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1258年)。アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。
■アディアバネ王国
Adiabeneは、メソポタミア北部、現代のイラク領エルビル(アルベラ)を中心にした王国。パルティア、サーサーン朝時代にその従属王国であったが、ローマの侵攻をたびたび受けた。イザテス2世の時代にはパルティアの王位継承にも介入するなどかなりの重要性を持った国であった。
■イラク王国
1921年から1958年にかけて、現在のイラクに存在した国家。シリア・アラブ王国、ヨルダン・ハシミテ王国とともにハーシム家の王国であった。現在のイラク領域はアッバース朝のころに、チグリス川中流にバグダードが建設され、イスラム帝国が発展するに伴い「前代未聞の繁栄」を遂げる。しかし、アッバース朝のカリフの権威が失墜し、イスラム世界に王国が樹立されると、イラク地域はイスラム圏の中心の地位を失った。
■イスラム帝国
イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。イスラム国家の帝国的な支配体制のうち、アッバース朝において実現された、ムスリム(イスラム教徒)であれば平等に支配される国家体制のこと。ヨーロッパの歴史家が長らく正統カリフからアッバース朝までのイスラム国家に対する呼称として用いてきた「サラセン帝国」を、サラセンは他称で誤りであるという観点から、機械的にイスラムと言い換えたもの。イスラム世界の中心的な王朝を漠然とイスラム帝国と呼ぶもの。
■マンダ教
グノーシス主義のひとつとされる宗教である。マンダ教徒の使うマンダ語はセム系言語で、「マンダ(manda)」とはその言語で「知識、認識」を意味する。日常的にはアラビア語を用いているが、宗教文書は全てマンダ語で書かれている。最大の教典は『ギンザー(財宝)』と呼ばれるが『ヨハネの書』、典礼集『コラスター』というのも存在する。文書に描かれる象徴画は独特の感じを受けさせるものである。
■農業
世界食糧計画(WFP)の統計(2003年)によると、イラクの農地は国土の13.8%を占める。天水では農業を継続できないが、ティグリス・ユーフラテス川と灌漑網によって、農地を維持している。13.8%という数値はアジア平均を下回るものの世界平均、ヨーロッパ平均を上回る数値である。
■工業
イラクの工業は自給的であり、食品工業、化学工業を中心とする。食品工業は、デーツを原料とする植物油精製のほか、製粉業、精肉業、皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製、及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1%から2%に達する(2002年時点で1.6%)。
<世界遺産>
■ハトラ
ハトラはイラク共和国北部のモースル州の南西約100km、サルサル・ワジ川のほとりの砂漠地帯に残る歴史的な都市遺跡。二重構造の城壁の外側の壁は、東西1.9km、南北2kmにわたる直径2kmのほぼ円形で、粘土質のブロックが組み上げられて構成されている。内側の壁は2mの高さの石の壁で、内壁と外壁の間には300mから500m幅の深い濠がある。壁は163もの防衛塔を持っており、その間隔は決して35m以上開かないようになっている。4つの門は防御が容易く、北門の保存状態がもっともよい。
■アッシュール(カラット・シェルカット)
アッシリアの最初の首都となったチグリス川西岸の都市、及びそれを中心とする地域、あるいはその主神。現在のイラクのカラット・シェルカットに位置する。
■サーマッラーの考古学都市
サラーフッディーン県に属するイラクの都市。20世紀に、チグリス川の氾濫を防ぐダムが建設されると、洪水が減って人口が増加し、現在およそ20万人の人口を擁する。アッバース朝の時代に、カリフのムータスィム(位833年-842年)が、バグダードからサーマッラーに都を遷した。その後、約50年間にわたって首都として繁栄し、壮麗な宮殿や巨大なモスクが建造された。
■バビロン
メソポタミア地方の古代都市。市域はバグダードの南方約90kmの地点にユーフラテス川をまたいで広がる。語義はアッカド語のバビリムBab-ilim(神の門)に由来し、マルドゥクを守護神とした。二重構造の城壁で囲まれており、内側の塁壁は二列に並んでいて内側の壁は厚さ6.5メートル、外側の壁は厚さ約3.5メートルでその外には南と北にユーフラテス川から水を引いた堀があり、城門が八つあったという。
■バベルの塔
旧約聖書の「創世記」中に登場する巨大な塔。神話とする説が支配的だが、一部の研究者は紀元前6世紀のバビロンのマルドゥク神殿に築かれたエ・テメン・アン・キのジッグラト(聖塔)の遺跡と関連づけた説を提唱する。
■ジッグラト
(Ziggurat)とは古代メソポタミアにおいて日乾煉瓦を用いて数階層に組み上げて建てられた聖塔である。「高い峰」という意味がある。シュメール起源と考えられており、その後のメソポタミアの諸都市は神殿を中心に形成された。旧約聖書の『創世記』に記されているバベルの塔は、バビロンにあったジッグラトが伝説化されたものと考えられる。
■バビロン捕囚
新バビロニアの王ネブカドネザル2世により、ユダ王国のユダヤ人たちがバビロンを初めとしたバビロニア地方へ捕虜として連行され移住させられた事件を指す。紀元前597年、ネブカドネザル王はエルサレム市街に入城し(en:Siege of Jerusalem (597 BC))、住民のうちもっとも有力な若い者をユダヤ人の王エホヤキムとともに殺害し、約3,000人(『エレミヤ書』によると3,023人)の有力者を捕虜としてバビロンに拉致した。
■ギルガメシュ叙事詩
古代メソポタミアの文学作品。実在していた可能性のある古代メソポタミアの伝説的な王ギルガメシュをめぐる物語。主人公のギルガメシュは、紀元前2600年ごろ、シュメールの都市国家ウルクに実在したとされる王であるが、後に伝説化して物語の主人公にされたと考えられる。最古の写本は、紀元前二千年紀初頭に作成されたシュメール語版ギルガメシュ諸伝承の写本。シュメール語版の編纂は紀元前三千年紀に遡る可能性が極めて高い。
■楔形文字
言語の表記に用いられた文字としてはヒエログリフ(紀元前3200年-400年)と並んで最も古いものの一つである。楔形文字という名称は、1712年にエンゲルベルト・ケンペルが日本事情をヨーロッパに紹介した本の中で使われてから一般でも使用されるようになったとされている。
■ボルシッパ
シュメールの重要な古代都市。現在のイラク中部の考古遺跡ビルス・ニムルド(Birs Nimrud)にあたる。バビロンの南西20キロメートルのユーフラテス川の東側にあり、市の北から西にかけては湖があった。湖の湾がつののように小さく切れ込んでいることから、「海の角」という名になったとされる。この遺跡には「舌の塔」と呼ばれるジッグラトが残っており、現存する古代メソポタミアのジッグラトの中でも最も鮮明に当時の様子が分かるジッグラトとなっている。これはタルムードやアラブ人の文化の中ではバベルの塔の跡地とされている。
■キシュ
(Kish)は、古代メソポタミアの都市、またはそこに起こった国家。現代名はテル・アル・ウハイミル。バビロン遺跡の東に位置する。20世紀初頭の発掘によって宮殿跡やジッグラト、墓、書記学校の跡が発見されている。古代メソポタミア時代の初期において特殊な意味合いをもった。キシュ市に人が住み始めたのは紀元前6千年紀のことである。初期の歴史を知ることはできないが、紀元前3千年紀に入るとシュメール人やセム人達にとって特別な地位を持った都市として歴史に登場する。
■ウル
(Ur) は、ウリム (Urim) ともいい、古代メソポタミアにあったシュメール人の都市及び都市国家、またはその遺跡。元来はチグリス川とユーフラテス川のペルシア湾への河口近くに位置していた。現在はイラク領にあり、ユーフラテス川南方の北緯30°95'、東経46°5'に位置する。ウルに人が居住を始めたのは紀元前5千年紀半ばである。ウバイド式土器やウバイド時代の墓などが発見されているが、都市が本格的に拡張を始めるのは紀元前4千年紀に入ってからである。
■ウルク
(Uruk)は古代メソポタミアの都市、又はそこに起こった国家。古くはウヌグ(Unug)と呼ばれた。古代メソポタミアの都市の中でも屈指の重要性を持つ都市である。都市神はイナンナ。イラクという国名の由来ともいわれている。イラク南部のサマーワにあるワルカ遺跡がウルクである。旧約聖書にはエレクとして登場する。19世紀半ばに発見されて以来長期にわたって継続的に調査がされてきたが、地下水位の高さが問題となり最初期の層は本格的調査をされていない。
■イラクの文化
イラクは世界でも有数の古い文化の歴史を持つ。イラクは古代メソポタミア文明が興った場所であり、その遺産は旧世界の文明の発展に大きな影響を与えた。文化的に見て、イラクは非常に多くの遺産を持つ。イラクは詩や絵画、彫刻においてアラブ世界でも屈指の質の高さを誇り、それらの幾つかは世界でも屈指のものである。
■エリドゥ
古代メソポタミアの都市、又はその都市を拠点とした国家。ウルから南東方向に約10キロメートルの距離にある。シュメールおよび南部メソポタミアの都市国家郡の南端に位置し、数多くの寺院がある。シュメール王名表では人類最初の王権が成立した都市とされている。1,000年以上にわたる神殿の拡張工事の跡が考古学的に発見されていることでも有名である。
■ウンマ
(Umma) は、古代シュメール文明の都市国家の一つ。元首はエンシ(ensi、王または知事)と称した。市の守護神とされるのは、ウサハラ神・イナンナの息子シャラ神など。ダムキナ女神・ニサバ女神も崇拝された。征服者ルガルザゲシを生んだことで有名である。
■シッパル
(Sippar、シュメール語:ジンビル(Zimbir)は古代メソポタミアの都市、およびそこに興った国家。現代のイラク南部にあるアブ・ハッバ遺跡がシッパルに同定されている。19世紀半ばに発見され、数度にわたる調査が行われた後しばらくの間手が付けられていなかったが、1970年代から再び調査対象となり、イラクやベルギーの調査隊によって発掘がなされた。シッパルへの最初の居住は紀元前4千年紀に始まった。シュメール王名表によれば、伝説的な大洪水以前に王権が降り立った5つの都市のうちの1つがシッパルとなっている。
■ニップル
(Nippur)は古代メソポタミアの都市。紀元前6千年紀頃から居住が始まりシュメール時代には最高神エンリルを都市神としたことから宗教的中心地となっていた。その後もメソポタミア世界における宗教的中心地として大国の激しい争奪が繰り広げられた。ニップル遺跡はバグダッドの南東約160キロの位置にある。古代メソポタミアの都市遺跡の中でも多くの遺構が残っている遺跡である。
■マリ
(Mari、現在のシリア領内のテル・ハリリ Tell Hariri)は、ユーフラテス川中流の右岸(西岸)にあった古代シュメール(シュメル)およびアムル人の都市国家。現在のシリアの町アブ・カマル(Abu Kamal)の北西11km、デリゾールの南東120kmに位置する。紀元前5千年紀には住居があったとみられるが、都市として繁栄したのは紀元前2900年頃から紀元前1759年にかけてのことで、その後ハンムラビによって破壊された。
■ラガシュ
ラガシュ(Lagash)は、古代メソポタミアの都市、またはその都市を拠点とした都市国家。シュメール初期王朝時代に繁栄し、現代にメソポタミア最大級の都市遺跡を残している。都市神はニンギルス。現代のイラク南部に存在する。現代名はテル・アル・ヒバ。その面積は6平方kmに達し、19世紀に発見されて以来大規模な発掘調査が繰り返されてきた。ラガシュ王の碑文の多くが20kmほど北西にあるテルローで発見されたため、かつてはテルロー遺跡がラガシュ市であると推定されていたが、現在ではテルロー遺跡は古代のギルスであったことが確認されている。
■イヤード・アッラーウィー
1945年 - は、イラクの政治家。イラク暫定政権において実務を統括する首相を務める。報道等では一般にイヤド・アラウィと表記される。政党連合「イラク国民運動」の代表。サッダーム・フセイン政権倒壊以前、親米派反体制政党の代表格であり、現在はイラク共産党系のイラク国民リストに参加するイラク国民合意の指導者でもある。
■ガーズィー・ヤーワル
1958年 - は、イラクの政治家。かつてイラク暫定政権の大統領、イラク移行政府の副大統領を務める。報道等ではガジ・ヤワルの表記が多い。2004年6月に連合国暫定当局から主権を移譲され、2005年1月30日に実施されたイラク国民議会選挙に伴って移行政府が発足するまで政権を担当したイラク暫定政権において正式の国家元首とされていた。
■ムハンマド・バーキル・ハキーム
1939年 - 2003年8月29日は、イラクのシーア派(12イマーム派)指導者で、反サッダーム・フセイン組織のひとつイラク・イスラム革命最高評議会(SCIRI)の指導者。1950年代の終わりごろからイスラム主義政治運動に携わり、その指導者ムハンマド・バーキル・サドルに従った。1970年代に入ると彼らシーア派法学者の政治グループはバアス党政権によって弾圧を受けはじめ、1977年に逮捕されて終身刑の判決を受けた。
■ハワル・ムラ・モハメド
(Hawar Mulla Mohammed Taher Zebari、1981年6月1日 - )は、イラク・モースル出身のサッカー選手。ポジションはウィンガー、ウィングバック。現在はイランのエステグラル・テヘランに在籍。2008年8月にキプロス王者のアノルトシスに移籍すると、同年9月16日に行われたUEFAチャンピオンズリーグのブレーメン戦で途中投入され同大会における初のイラク人選手となった。
■ナシャト・アクラム
Nashat Akram、1984年9月12日 - )はイラク出身の同国代表サッカー選手。ポジションはMF。足元の技術やパスセンスに優れた攻撃的なセントラルミッドフィールダー。アテネ五輪で4位入賞したイラク黄金世代のひとりである。アル・シャバブでの活躍により、2005-06シーズンのサウジ・プレミアリーグ最優秀外国人に選ばれる。AFCアジアカップ2007ではオーストラリア戦、サウジアラビア戦でマンオブザマッチに選ばれるなど活躍し、同年のアジア年間最優秀選手賞で3位となった。
■アーメド・ラディ
( Ahmad Radhi Amaiesh Al-Salehi、1964年3月21日 - )は、イラク出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはFW。1988年度のアジア年間最優秀選手賞受賞者、日本ではドーハの悲劇の時の対戦相手としても知られる。1983年4月28日のエジプト戦で代表デビューを飾るとその試合で代表初得点を記録、以降1984年のロサンゼルス五輪、1986年のメキシコW杯に中心選手として出場した。
■ユニス・マフムード
Younis Mahmoud Khalef, 1983年3月2日 - )は、イラク出身の同国代表サッカー選手。アル・ワクラSC所属でポジションはフォワード。イラク黄金世代(アテネ五輪4位)の背番号10。キャプテンを務めたアジアカップ2007では高原直泰、ヤセル・アル・カフタニと並び4ゴールで得点王を獲得し、イラク初優勝の立役者としてMVPを受賞した。
■イッザト・イブラーヒーム
1942年7月1日 - )は、イラクの政治家で、元革命指導評議会副議長、元バアス党地域指導部副書記長。日本語の報道では「イブラヒム (元) 副議長」とされることが多い。 別名「アブー・ブライス」。 現在も逃亡中の旧政権大物幹部の一人である。
■リヴァーベンド
リヴァーベンドは、2003年8月17日に開設されたブログ『バグダード・バーニング』(『バグダッド炎上 リヴァーベンドの日記』)執筆者のハンドル(いわゆるペンネーム)である。ボランティアによる日本語のブログと出版では、リバーベンドと表記される。米国によるイラク戦争とイラク政策を強く批判している。
■ムンタゼル・アル=ザイディ
Munta?ar az-Zaydī、1979年11月12日 - )は、イラクのジャーナリスト。2008年12月14日、イラクのバグダードで行なわれたブッシュ米大統領の記者会見中、「これはイラク人からの別れのあいさつだ。夫を失った女性と親を失った子どものためだ。犬め!!」などと叫びながら、履いていた左右の靴を大統領に投げつけた。
■アフマド・チャラビー
(1944年10月30日 - )は、イラクの政治家。イラク国民会議代表。MIT、シカゴ大学大学院で数学を学び、1969年博士号を取得。イラク戦争後にイラク統治評議会議長やイラク副首相を務めた。サッダーム・フセイン政権時代は国外に亡命していた。ネオコンとのつながりがあり、戦争前にイラク国内の大量破壊兵器に関する情報を提供していたが、不正確な情報だったためアメリカ国防総省から見切りをつけられてイラク暫定政権のメンバーから漏れた。
■イッズッディーン・サリーム
1943年 - 2004年5月17日、本名アブドゥッザフラー・オスマーン・モハンマドは、イラクの政治家。シーア派(十二イマーム派)に属し、シーア派系のイスラム主義政党ダアワ党系の政党、ダアワ・イスラム党の党首であるとともに、哲学者、思想家、政治運動家としても知られ、イスラムの学問を修めたウラマーでもあった。
■アブドゥルアズィーズ・ハキーム
1953年? - 2009年8月26日は、シーア派(十二イマーム派)に属するイラクの政治家。シーア派系政治組織イラク・イスラム革命最高評議会の指導者で、イラク人による暫定統治を担うイラク統治評議会の議員。
■イブン・アル・ハイサム
(Ibn al-Haitham、は、イスラム圏の数学者、天文学者、物理学者、医学者、哲学者、音楽学者(965年 - 1040年)。西洋ではアルハゼン、アルハーゼン(Alhacen 、Alhazen)の名で知られていた。また彼はイラクの都市バスラ出身であったことからアル=バスリ(al-Basri)とも呼ばれていた。イブン・アル=ハイサムは光学の諸原理の発見と科学実験手法の発展に対し重要な貢献をした人物である。また彼が残した光学に関する書物、レンズや鏡を使った屈折や反射の実験などから「光学の父」ともみなされている。
■マーシャーアッラー
740年頃 − 815年は8世紀のペルシャで活躍したバスラ出身のユダヤ系の占星術者、天文学者、科学者である。占星術などに関する著書は12世紀に翻訳されヨーロッパにひろまった。ヨーロッパでは、マシャルラー、マーシャッラー、メッサハラ」などの名でも知られている。占星術によって歴史を解釈し、説明しようと試みたといわれている。宮廷占星術師カンカフと同時代の人である。
|
イラク Iraq
中東・西アジアの連邦共和制国家である。首都はバグダード(バグダッド)で、サウジアラビア、クウェート、シリア、トルコ、イラン、ヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり、世界で3番目の原油埋蔵国である。
現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせて「肥沃な三日月地帯」として知られている。
■バグダード
イラクの首都で同国最大の都市。また、バグダード県の県都でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではカイロ、テヘラン、イスタンブルに次ぐ大都市である。2005年の人口はおよそ590.4万人。バグダードは、イラク共和国の中央やや東寄りにあり、メソポタミア平原のほぼ中央、ティグリス川中流の河畔に位置する。その西を流れるユーフラテス川は同市付近でもっとも接近し、バグダードの南西約40キロメートルを南東方向にむけ流下している。
バグダードの歴史は古代メソポタミア文明にさかのぼる。すでに紀元前3000年代のシュメール人の都市国家の時代、あるいはアッカド王国の時代から集落の存在が確認されており、ハンムラビ王の時代の紀元前1800年ごろの記録には「バグダドゥ」の名もあらわれる。また、バグダードの周辺にはバビロン、セレウキア、クテシフォン、アカルクーフなど古代の首都遺跡が数多く分布する[4]。紀元前8世紀ころにはアラム人が集住を開始しており、やがて、年ごとの定期市を開くことが慣例になったものと考えられる。
■モースル
イラク北部に位置する、古代のニネヴェの遺跡と世界有数の石油生産で知られる大都市である。バグダードの396km北西にあり、北緯36度22分、東経43度07分。市街はチグリス川の両岸に広がり、五つの橋で結ばれている。ニーナワー県の県都。薄地の織物モスリンはもともとこの街で作られ、名前もモースルの名に由来している。その他歴史的に重要な輸出産品は大理石である。
■バグダード国際空港
Baghdad International Airportは、イラクの首都、バグダードにある国際空港である。イラク戦争以前は当時の大統領サッダーム・フセインにちなみ「サッダーム国際空港(Saddam International Airport)」の名称であった。
■バスラ国際空港
イラクバスラ県バスラにある国際空港である。
■アルビール国際空港
Arbil International Airportはイラク・クルド自治区の都市アルビールにある国際空港である。この空港は1970年代初期にイラク軍の軍事基地として建設された。2003年のイラク戦争後はクルド自治政府がその管理を引き継いだ。
■モースル大学
University of Mosulは、イラク共和国モースルに位置する公立大学。 中東で最大の教育・研究機関のひとつ。
外務省:イラク
在イラク日本国大使館
■バグダード鉄道
(独: Bagdadbahn)は、19世紀末から20世紀初めにかけてドイツ国の3B政策として国際的な注目をあびた鉄道。最終的にはエスキシェヒル〜コンヤ線を延長し、終点の海港はバスラとする計画線に基づいて建設が進められたが、バグダード鉄道会社による建設は第一次世界大戦のため未完に終わり、ドイツは敗戦によってその利権を失った。第一次世界大戦後はオスマン帝国から独立した国々で建設が進められ、1940年に全通した。
■ティクリート
Tikrit は、チグリス川沿い、バグダッドの北西140kmの位置にあるイラクの都市。スンニー・トライアングルの一角をなす。都市の名称は、チグリス(ティグリス)川にちなむ。人口約25,0000。2002年に サラーフッディーン県の県都になる。イラク元大統領サッダーム・フセインの出生地であることで有名。サッダーム政権時代には有力政治家や高級官僚・高級軍人の多くがティクリート出身者から抜擢され、市内には大統領宮殿やモスク等の施設も建設された。
■バスラ
al-Basrahは、イラク南東、シャトル・アラブ川(Shatt al-Arab)の右岸にある港湾都市。イラク南部の中心となる同国第2の都市で、バスラ県の県都である。石油パイプラインの終点で、石油製品の積出港。
■サマーワ
報道などではNHKを除きもっぱらサマワと表記されるが、アラビア語は表記上母音の長短を厳密に区別するため、サマーワとした方が原語綴りに近い。世界最古の文明とされるシュメール時代はウルクがあった。
■ナーシリーヤ
バグダードの約360キロメートル南東のユーフラテス川のほとり、古代都市ウルの近くにある。ジーカール県の県都。人口は2003年に概算で560,200人。ナースィリーヤとも表記する。ナーシリーヤにある博物館はシュメール・アッシリア・バビロニア・アッバース朝に関する大きなコレクションを有する。ウルとラルサの遺跡が近くにある。
■カルバラー
KarbalAは、イラク中部の都市で、イスラム教シーア派の聖地。カルバラとも表記される。首都バグダードの南にあり、ユーフラテス川に面す。2003年の人口は572300人。サッダーム・フセイン政権では、シーア派のイラン人の入国が厳しく制限されていたが、イラク戦争でフセイン政権が崩壊した後は年間100万人の巡礼者が来るようになった。
■ナジャフ
Najafあるいはアン=ナジャフ(al-Najaf)は、イラク中南部の都市。ナジャフは、バグダッドのおよそ160km南、ユーフラテス川の西岸に位置する。2003年の人口は585,600人。第4代カリフでシーア派の初代イマームであるアリーの墓廟がある。
■ドホーク
イラクのドホーク県の都市である。クルド語では、ドゥホク或いはディホクという。イラク北部にあり、クルディスタン地域にあるドホーク県の県都である。人口はおよそ50万人で、クルド人とアッシリア人が大多数を占める。
■アルビール
イラク北部の都市であり、アルビール県の県都。古くはアルベラ(Arbela)と呼ばれ、紀元前331年にアレクサンドロス大王がダレイオス3世率いるアケメネス朝を破ったガウガメラの戦いの合戦場となった。また、紀元1世紀にはユダヤ教を受容したアッシリア人の国家アディアバネ王国の都が置かれた。
■キルクーク
キルクーク県に属するイラクの都市。バグダードの北方236kmで、モスルの南東149kmにある。イラク北部の石油工業の中心である。パイプラインは、キルクークから出てトルコの地中海岸のジェイハンに達する。このパイプラインは、1991年の湾岸戦争以降のイラクにとって主要な2つの原油輸出ルートのうちの一つだった。
■ヒッラ
Al Hillah)は、イラクのバービル県の都市である。バービル県の県都である。イラク中央部のユーフラテス川沿いに位置し、バグダードの南100kmの距離に位置する。古代都市バビロン、ボルシッパ、キシュなどの近くでもある。
■ドホーク
イラクのドホーク県の都市である。クルド語では、ドゥホク或いはディホクという。イラク北部にあり、クルディスタン地域にあるドホーク県の県都である。人口はおよそ50万人で、クルド人とアッシリア人が大多数を占める。
■ファルージャ
al-Falluja)は、ファッルージャとも表記されるイラクの中部の都市。人口は約28万5000人。首都バグダードのおよそ70km西に位置し、イラクとヨルダンを結ぶ幹線道路が通過する。スンナ派(スンニー派)の信徒が多く、200以上のモスクが存在するモスクの都市として知られる。
■クーファ
バグダードから南へ170キロメートル、ナジャフから北東10キロメートルに位置するイラクの都市。人口約11万人。ユーフラテス川沿岸の交易と農業の都市として古くから栄えたが、本格的な発展はイスラム教徒がこの地を征服した後であり、一時は首都が置かれたこともあった。
■クルディスタン地域
イラクの北部に設けられたクルド人の自治地域。Iraqi Kurdistanイラク領クルディスタン、クルド人自治区、クルド自治区、クルディスタン自治区などともいう。1970年3月11日にバアス党政権とムスタファー・バルザーニ率いるクルディスタン民主党の間で成立した協定にもとづいて設置された。
■イラクの国旗
現在の国旗は2008年1月22日の国旗法改正により制定されたもので、1991年制定の国旗からバアス党のスローガンであった「統一、自由、社会主義」を表す三つの星を削除すると共に「アッラーフ・アクバル(アッラーフは偉大なり / ???? ????)」の文言をサッダーム・フセイン元大統領の直筆とされる筆記体からクーフィー体に変更したデザインとなっている。
■国名
公式の英語表記は、Republic of Iraq(リパブリック・オブ・イラーク)。通称、Iraq。イラク南部に位置する古代メソポタミアの都市ウルクが国名の由来。また、アラビア語で「豊かな過去をもつ国」の意味。
(1) 首都:バグダッド(人口約500万人〜600万人)
(2) 面積:約43.74万平方キロメートル(日本の約1.2倍)
(3) 人口:約2,710万人(2004年推定:世銀)
(4) 言語:アラビア語、クルド語(共に公用語)他
(5) 民族:アラブ人(シーア派約6割、スンニー派約2割)、クルド人(約2割)、トルクメン人、アッシリア人等
(6) 宗教:イスラム教(スンニー派、シーア派)、キリスト教他
(7) 政体:共和制
(8) 元首:ジャラール・タラバーニー大統領(2010年11月11日選出)
(9) 政府:2010年3月7日の国会選挙を受け、2010年12月21日、国会において閣僚名簿が承認され、新政権は発足(任期4年)。
(10)国会:2005年12月15日に国会選挙実施。2006年3月16日に初会合開催。
2010年3月7日に国会選挙実施。
(11)GDP:821億ドル(2010年推定値、IMF)
(12)所得水準(一人あたりGDP):2,563ドル(2010年推定値、IMF)
(13)確認石油埋蔵量:1,150億バレル(2010年:BP統計、世界第4位)
■イラク・ディナール
ISO 4217の通貨コードはIQD。通貨の補助単位として1000分の1ディナールのフィルスがあるが、インフレーションの影響によりフィルスは現在使用されていない。2003年のイラク戦争によるサッダーム・フセインの失脚後、イラク統治評議会と復興人道支援室はマネーサプライを維持するため新通貨の導入が可能になるまでの暫定措置として戦前の紙幣を造幣していたが、2003年10月15日から2004年1月15日にかけて連合国暫定当局から「イラク全土で使用され、また国民の日常生活において使い勝手のよい単一統合通貨とするため」[3]に新イラク・ディナールの硬貨と紙幣が発行された。
■バアス党
シリア・イラクなどのアラブ諸国で活動する汎アラブ主義政党。公式名称はアラブ社会主義復興党。日本では慣用としてバース党とも表記するが、実際のアラビア語の発音では「バアス」と発音・表記する。バアス党は、ハンナ・バタートゥによればソ連型社会主義(スターリン主義)の影響は濃いものの、初代首相のカーシムが1958年から1959年の間政権を握りイラク共産党寄りになると、イラクのバアス党がクーデターをおこしたと言われる(ただし、カシーム政権は共産党と距離を置き始めた時期にあり、アル=バクル政権下はさらにソ連寄りの傾向を強めて、入閣もさせている)。
■イスラム美術
ムハンマドと共に生まれたイスラームはムハンマドの死後1世紀の間に後継のカリフたちの下で急速に版図を拡大し、西はイベリアから東はサマルカンドに至るまでの広大なイスラーム帝国が成立した。
■サイクス・ピコ協定
Sykes-Picot Agreementは、第一次世界大戦中の1916年5月16日にイギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国(トルコ)領の分割を約した秘密協定。イギリスの中東専門家マーク・サイクス (Mark Sykes) とフランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ (François Georges-Picot) によって原案が作成され、この名がついた。
■セーヴル条約
第一次世界大戦後の1920年8月10日に連合軍とオスマン帝国との間に締結された講和条約。フランス・パリ郊外のセーヴルで締結された事からこの名が付く。1918年10月30日に結ばれたムドロス休戦協定を受けての講和条約である。オスマン帝国はこの条約によって広大な範囲の領土を失った。
■教育
イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。
イラク戦争
2003年3月20日よりアメリカ合衆国が主体となり、イギリス、オーストラリアに、工兵部隊を派遣したポーランドなどが加わる有志連合が、イラク武装解除問題の進展義務違反を理由としてイラクに侵攻したことで始まった戦争である。2010年8月31日にオバマ米大統領によって正式にイラク戦争の終結が宣言された。
イラク攻撃にはフランス、ドイツ、ロシア、中華人民共和国などが強硬に反対を表明し、国連の武器査察団による査察を継続すべきとする声もあったが、それを押し切った形での開戦となった。これら国々の反対の裏には人道的な反対というより、フセイン政権との関係やイラクの石油利権に絡んでいるとする意見もある。アメリカ国内の世論は武力介入には高い支持を与えたものの、国連の支持なしの攻撃には必ずしも国論は一致していないとされた。
一方、かねてよりフセイン政権と対立していたイスラエルは、2002年4月にネタニヤフ元首相が訪米して「フセイン大統領は核兵器を開発中である」とその脅威を訴えたのを皮切りに、同年5月にペレス外相がCNNの取材に「サッダーム・フセインは(米同時多発テロ事件首謀者とされる)ビン=ラーディンと同じくらい危険」と答えた。シャロン首相も、イラクへの早期攻撃を求めた。また、ヘブライ大学のシュロモ・アヴィネリ教授は、『ロサンゼルス・タイムズ』にイラク戦争反対派を1930年代ナチス・ドイツへの宥和政策になぞらえて非難する論文を発表。宥和政策の否定は開戦支持派の有力な主張となった。
■劣化ウラン弾
Depleted uranium ammunition、略称DUとは、弾体として劣化ウランを主原料とする合金を使用した弾丸全般を指す。劣化ウランの比重は約19と大きく、鉄の2.5倍、鉛の1.7倍である。そのため合金化して砲弾に用いると、同速度でより大きな運動エネルギー(質量に比例する)を得られるため、主に対戦車用の砲弾・弾頭として使用される。ウランは化学的な毒性を持つ重金属である。
■エネルギー
原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90%が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000本に過ぎないと推定。 2003年時点の総発電量295億kWhの98.5%は石油による火力発電でまかなっている。残りの1.5%はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。
■原油
油田から採掘したままの状態で、精製されていない石油をいう。採掘後、ガス、水分、異物などを大まかに除去したものが原油である。黒くて粘り気のある液体であり、様々な分子量の炭化水素の混合物が主成分である。原油は古くから日常生活に利用されてきた。例えば紀元前3000年ごろのエジプトのミイラには防腐剤としてアスファルトが用いられている。このほか、薬剤、建築物の詰め物のほか、一時的な灯火としても利用された。
■交通
イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線(バグダード鉄道)はドイツによって建設されている。
■民族
国連の統計によれば、住民はアラブ人が79%、クルド人16%、アッシリア人3%、トルコマン人(テュルク系)2%である。ユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて、国外に追放され、大半がイスラエルに亡命した。
■アッシリア人
アラム語の1つ現代アラム語を話しキリスト教を信仰する中東の少数民族。古来からアラブ人、トルコ人、クルド人、トルクメン人などの異民族との競合や迫害を受けながらも、強固な民族意識により伝統的な文化を継承している。
■クルド人
Kurdsは、中東のクルディスタンに住む山岳民族。トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布し、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である。人口は2500万〜3000万人といわれている。中東ではアラブ人・トルコ人・ペルシャ人(イラン人)の次に多い。
■言語
アラビア語、クルド語が公用語である。その他アルメニア語や現代アラム語(アッシリア語)なども少数ながら使われている。
書き言葉としてのアラビア語(フスハー)は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからだ。しかし、話し言葉としてのアラビア語(アーンミーヤ)は地域によって異なる。
■アラビア語
世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、サハラ砂漠以北のアフリカ北部の領域を中心に(非独立地域を含めて)27か国で公用語とされており、また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語でもある。
■クルド語
トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニア、アゼルバイジャンなどのクルド人の間で話されている言語。言語学的にはインド・ヨーロッパ語族イラン語派に属している。バローチ語、ギラキ語、タリシュ語に特に近く、ペルシア語にも近い。
■食文化
イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。
■音楽
伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、バイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。現代のイラク人は西洋のロック、ヒップホップ、およびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおり、ヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。
■マカーム
アラビア語で「留まるところ」を意味し、「場所」「壇」「地位」などの意味で使われる普通名詞だが、中近東の音楽では特に音楽理論用語として使われ、「旋法の体系、システム」を意味する語である。音楽理論用語としてのマカームは、「旋法の体系、システム」といったようなものである。「アラブ音楽の『音階』」と説明されることも多い。旋律や音楽様式、楽曲体系そのものを指すときもある。マカームは、旋律型の集合体、旋律の型・パターンの集まりでもある。
■宗教
イスラームが国民の95%を占め、次いでキリスト教4%、マンダ教である。歴史的にはユダヤ教徒も存在したが、現在は数百人以下だとされている。住民の分布と宗教の分布には強い関係がある。イスラム教徒の最大派はアラブ人シーア派の50%。アラブ人スンナ派の25%、クルド人スンナ派の20%が続く。キリスト教(カトリック、東方正教会、アッシリア東方教会等)はアッシリア人と少数民族に限られている。
■シーア派
イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。アリーの子孫のみがイマームとしてイスラム共同体を率いることができるという主張から始まったシーア派は、その後のスンニ派による歴代イマームに対する過酷な弾圧、そしてイマームの断絶という体験を経て、スンニ派とは異なる教義を発展させていった。
■スンナ派
イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。イスラームという宗教が生まれて間もない初期のころ(正統カリフ時代)に、預言者の後継者(ハリーファ(カリフ))を誰にするかという問題において、ムハンマドの従兄弟かつ娘婿であるアリーとその子孫のみがイマームとして後継者の権利を持つと主張したシーア・アリー(「アリーの党派」の意。後に略されて「シーア」、すなわちシーア派となる)に対し、アブー=バクル・ウマル・ウスマーンのアリーに先立つ三人のカリフをも正統カリフとして認めた大多数のムスリム(イスラーム教徒)がスンナ派の起源である。
■イスラーム
イスラームは、ムハンマドがアッラーフの啓示を受けたとして創始した、ムスリムの信仰生活を、第一聖典クルアーン(コーラン)と第二聖典ハディースによって規定する体系をさす。回教とも呼ばれ、またかつてはフイフイ教とも呼ばれた。
■クルアーン
あるいはコーランとは、イスラーム教(イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。「読まれるもの」を意味する。(アラビア語では定冠詞が伴い「アル=クルアーン」と呼ばれる。)
■ジャラル・タラバニ
イラクのクルド人政党のクルディスタン愛国同盟議長、2005年にイラク共和国大統領に就任。活発な政治活動を続け、旧サッダーム・フセイン政権の弾圧にさらされながらクルド民族主義運動を率いてきた「英雄」の一人。政治、武装闘争の双方に練達したスタイルは「クルド政界のキツネ」といわれクルド人からはジャラルおじといわれている。 2005年クルド人初のイラク大統領に。
■ヌーリー・マーリキー
1950年6月20日 - は、イラクの政治家、首相、暫定国防相、暫定内相。イスラム教シーア派であり、イスラーム・ダアワ党書記長。政党連合「法治国家連合」を率いる。2003年にサッダーム政権崩壊後のイラクへ帰国し、バアス党員の公職追放とともに新憲法の草案作りに携わった。2005年イラク移行政府にジャアファリー首相の側近として加わる。
■ファイサル1世
1883年5月20日 - 1933年9月8日は、第一次世界大戦期に起こったオスマン帝国に対するアラブ反乱の指導者であり、シリア国王(在位:1920年3月11日 - 1920年7月25日)、初代イラク国王(在位:1921年8月23日 - 1933年9月8日)。1921年5月のカイロ会議で、イラク王国創設とファイサルの国王即位が決定され、当時36歳の彼はいくつかの留保とともにイラク王の立場を受け入れた。同年6月にイラクに上陸し、数週間のうちに偽りの「国民投票」で96%の支持を得て、8月23日に即位する。
■アフマド・ハサン・アル=バクル
Ahmed Hassan al-Bakr 、1914年7月1日 - 1982年10月4日は、イラクの政治家・軍人。イラク共和国大統領(1968年7月17日 - 1979年7月16日)。最終階級は陸軍元帥。サッダーム・フセインと同じティクリートのアルブ・ナースィル一族の家に生まれる。1932年、師範学校を卒業し、教師として働く。1938年〜1941年、士官学校で学ぶ。1941年に起こったラシード・アリー・ガイラーニー率いる軍事クーデターにも参加し、投獄された経験がある。
■サッダーム・フセイン
Saddam Hussein 、1937年4月28日 - 2006年12月30日は、イラク共和国の政治家。スンナ派のアラブ人であり、イラク共和国の大統領、首相、革命指導評議会議長、バアス党地域指導部書記長、イラク軍最高司令官を務めた。軍階級は元帥。イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。10歳の時から、母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。8歳の時に、ハイラッラーの娘で従姉妹にあたるサージダ・ハイラッラーと婚約している。サッダームの敵に屈しない性格とイラク・ナショナリズム思想(ワタニーヤ)は、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。
■マーサルジャワイヒ
(Masarjawaih, Messer Jawait, はイラクのユダヤ人の医学者。バスラに生まれる。883年頃バスラに住んだことが知られている。アレクサンドリアのキリスト教聖職者のアハルーン Ahrun によるギリシア語医学書に基づくシリア語訳本を、さらにアラビア語に翻訳した。
■オースティン・ヘンリー・レヤード
(Sir Austen Henry Layard GCB, 枢密顧問官、1817年3月5日 - 1894年7月5日)はイギリスの旅行家、考古学者、楔形文字研究者、美術史家、美術品収集家、作家、政治家、外交官であり、ニムルドの発掘でよく知られている。レヤードは少年時代の大部分をイタリアで過ごし、学校にも通い、美術への造詣を深め、旅を好むようになった。他にもイングランド、フランス、スイスで学校に通っている。
■ハーリド・イブン・アル=ワリード
Khalid ibn al-Walidは、イスラーム初期の正統カリフ時代の武将。アッラーの剣という異名で知られる。リッダ戦争とシリア征服戦の指揮官。初期のイスラーム拡大時の戦争において多大な功績を果たした。元はメッカのクライシュ族に従う騎兵隊長であり、初期のイスラム軍との戦いにも従軍している。625年のウフドの戦いでは200の騎兵を率いてイスラム軍の背後を突き、ムハンマドを負傷させることにも成功した。
■フレグ
1218年-1265年は、イルハン朝(フレグ・ウルス)の創始者である(在位1260年-1265年)。アバカの父。チンギス・ハーンの子のトルイと、ケレイト族出身の正室ソルコクタニ・ベキの間の三男として生まれた。
|