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イラン・イスラム共和国
Islamic Republic of Iran

■地理
イランは北西にアゼルバイジャン、アルメニアと国境を接する。北にはカスピ海にのぞみ、北東にはトルクメニスタンがある。東にはパキスタンとアフガニスタン、西にはトルコとイラクと接し、南にはペルシア湾とオマーン湾が広がる。イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山(標高5,604m)を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。


西アジア
アジア西部を指す地理区分である。今日の欧米ではほぼ中東と同じ領域を指すことが多い。一般的には、中央アジアおよび南アジアより西、地中海より東で、ヨーロッパとはボスポラス海峡、アフリカとはスエズ運河によって隔てられている地域を指す。


ペルシア湾
イラン、イラク、クウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦、オマーンに囲まれた細長い形状の湾。面積はおよそ240,000平方キロメートルで、長さ約1千キロメートル。平均水深50メートル、最大90メートル。ホルムズ海峡を通じ、オマーン湾そしてアラビア海へと繋がっている。

オマーン湾
オマーン湾はインド洋の一部であり、アラビア海とペルシア湾とを結ぶ海域である。アラビア海の北東にあり、沿岸国として北にイランとパキスタン、西にオマーンとアラブ首長国連邦がある。ペルシア湾とは湾の北西のホルムズ海峡を通じて結ばれており、そのため石油などを輸送するタンカーの通行も多い。

カスピ海
中央アジアと東ヨーロッパの境界にある塩湖。世界最大の湖である。古代には「ハザール海」と呼ばれたが、これは7世紀から10世紀にカスピ海からコーカサスや黒海にかけて栄えたハザール王国に由来する。

ホルムズ海峡
Strait of Hormuz、ペルシア湾とオマーン湾の間にある海峡である。北にイラン、南にオマーンの飛び地に挟まれている。最も狭いところでの幅は約33km。イラン本土近傍のゲシュム島やホルムズ島をはじめとして、複数の島が海峡内にある。

イラン高原
Plateau of Iranは、中東イランの北部一帯の高原である。ペルシア高原またはペルシャ高原とも呼ぶ。カビール砂漠が広がるが、首都テヘランの南にはナマク湖(Daryacheh-ye Namak) という塩湖がある。 イラン中部から東はアフガニスタン、パキスタンにまたがる盆地状の高原が広がっている。

カヴィール砂漠
Great Salt Desertは、イラン北部、イラン高原にある砂漠である。長さ800km、幅320km。南東にはそのままルート砂漠が続き、アフガニスタン、パキスタン、インドへと砂漠地帯が広がっている。古来からマルコ・ポーロなど旅人が通商路として横断していた。

ザグロス山脈
Zagros Mountainsは、イランの南西部からイラク、トルコそれぞれの国境線となる山脈である。山脈内には古代オリエントを統一したアケメネス朝の首都、ペルセポリスの遺跡がある。また、イブン・バットゥータの『大旅行記』には、ザグロス山脈を越える14世紀の隊商の記述がある。

アルボルズ山脈
Alburz Mountains、は、イラン北部のカスピ海を臨む山脈である。ヨーロッパ語経由でエルブルズなどと転訛して表記することもある。最高峰はダマーヴァンド山(Mt. Damavand、ペルシャ語ラテン表記でQolleh-ye Damavand)の標高5,610mはイランで最も高い。

ダマーヴァンド山
イランにある火山(現在は休火山だが、噴気孔が活動している)。アルボルズ山脈中部にあり、標高は5,610m。イランの最高峰であり、中東全体の最高峰でもある。カスピ海の南岸、テヘランの北東66kmに位置する。

オルーミーイェ湖
イランの北西にある塩湖。イラン最大の湖で、面積はおよそ5,960 km2である。最も深いところは深さ16 m。湖の中にはいくつかの島があり、渡り鳥の休憩地となっている。流入する河川でのダム整備の影響で20年前から水位の低下が目立ち、現在では湖の半分が干上がって湖底が露出。乾燥して塩分が堆積し、周辺農地の塩害や大気汚染による健康被害が懸念される事態となっている。

シャットゥルアラブ川
南西アジアを流れる川。チグリス川とユーフラテス川の合流によって形成され、イランとイラクの国境地帯を流れながらペルシャ湾に注ぐ。長さは200km。イラク領のバスラ、イラン領のホラムシャハル、アーバーダーンなどの港湾都市が川沿いに連なり、両国の重要な航路となっている。

カールーン川
(Karun)は長さが720kmに達するイラン最長の川。イランで最も水量が豊かで旅客船が航行可能な唯一の河川である。ザグロス山脈のイラン国内の最高峰ザルド・クーフ山(Zard Kū蜑蛻。巻548m)から流れ出し南西に向かい、フーゼスターン州の州都アフヴァーズを通ってペルシャ湾に向かい、シャットゥルアラブ川(イランでの呼称はアルヴァンド川)との間にアーバーダーン島を形成し、最後にホッラムシャフルにシャットゥルアラブ川に合流する。


■歴史
イランの歴史時代は紀元前3000年ころ原エラム時代にはじまる。アーリア人の到来以降、王朝が建設されやがてハカーマニシュ朝(アカイメネス朝)が勃興、紀元前550年キュロス大王がペルシアを征服し、まもなくハカーマニシュ朝のペルシア帝国を受け継ぐアルシャク朝(パルティア)がおこり、サーサーン朝が続いた。


アーリア人
(Aryan)はイラン北部からトゥーラーンにかけてを出自とし、主にインド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派(アーリア語派)に属する言語を話していた人々。イラン周辺集団(イラン・アーリア人)とインド集団(インド・アーリア人)がいた。その後はテュルク・モンゴル民族の勃興と中央アジア・北部インド・西アジア 支配によりさらに細かい複数の集団に別れ、それぞれが次第に独自の文化を形成していった為、民族集団としてのアーリア人はほぼ消滅した。

アゼルバイジャン人
Az?rbaycanlı電東癇もしくはアゼリー人とは、アゼルバイジャン共和国とイラン北西部を中心として、その周辺地域であるグルジアやアルメニア、イラク北部、トルコ、ロシア連邦内のダゲスタン共和国などに居住しているテュルク系民族。トルクメン人やトルコ人の兄弟民族であり、アゼルバイジャン・トルコ人と呼ばれることもある。

ロル族
イラン南部に居住する遊牧民。サファビー朝での有力な政治集団を形成していたロル族は1155年にホルシーディー朝をつくる。その後、デズ川を境にして内部分裂を起こし、川北の小ロル(バフティヤーリー族)、川南の大ロル(クーフギールーエ族)に分かれた。19世紀後半には小ロルがカビール山脈とキャルハ川を挟んでさらに東西に分裂した。今日、一般にロル族を指す場合、カビール山脈東部のピーシュクーフ地域に居住する遊牧民を指す言葉となっている。


原エラム
Proto-Elamite periodとは、スーサ(後にエラムの首都となる)がイラン高原の文化から影響を受け始めた、紀元前3200年から紀元前2700年までの時代である。考古学の用語では、これはBanesh期後期に相当する。この文明はイラン最古であると認識されており、およそ紀元前3500年に始まった世界最古のシュメール文明と隣接し、ほとんど同時期に始まった。


アヴェスター
(Avesta)とは、ゾロアスター教の根本教典である。アヴェスター語という言語で記されている。口承伝持で長らく伝えられた後、 3世紀頃に発明されたアヴェスタ文字で書物に記された。 しかし、イスラム教の迫害などを受けて散逸し、現存するテキストは、 当時の1/4に過ぎないという。

ゾロアスター教
Zoroastrianism、は、古代バルフの地に始まる宗教である。バルフは現在のアフガニスタン北部にあり、ゾロアスター教の信徒にとっては、始祖ザラスシュトラが埋葬された地として神聖視されてきた。ゾロアスター教は、善と悪の二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている宗教である。創造された「この世界」を舞台とした二つの勢力の戦いが、歴史であるという把握は、キリスト教の初期の神学者であるアウグスティヌスの歴史観に先行する世界史観とも言える。

アフラ・マズダー
(Ahura Mazda)は、ゾロアスター教の最高神である。宗教画などでは、有翼光輪を背景にした王者の姿で表される。 その名は「智恵ある神」を意味し、善と悪とを峻別する正義と法の神であり、最高神とされる。ゾロアスター教の神学では、この世界の歴史は、善神スプンタ・マンユと悪神アンラ・マンユらとの戦いの歴史そのものであるとされる。 そして、世界の終末の日に最後の審判を下し、善なるものと悪しきものを再び分離するのが アフラ・マズダーの役目である。 その意味では、彼は善悪の対立を超越して両者を裁く絶対の存在とも言える。


スプンタ・マンユ
(Sp?nta Mainyu) は、ゾロアスター教に於いて崇拝される善神アムシャ・スプンタの筆頭で、「創造」を司るとされる。その名はアヴェスター語で「聖なる霊」を意味する。創世神話によれば、世界の始まりの時、スプンタ・マンユはもう一人の創造神アンラ・マンユと出会ったという。そして、スプンタ・マンユは世界の二大原理のうち「善」を、アンラ・マンユは「悪」を選択し、それぞれの原理に基づいて万物を創造した。我々が存在しているこの現実世界は、スプンタ・マンユとアンラ・マンユの被造物が混じり合い、互いに戦い合う「善と悪との戦場」である。

アンラ・マンユ
Angra Mainyu, は、ゾロアスター教に登場する悪神。ヴェンディダード (Vendidad) 第1章によると、アフラ・マズダーが光の世界を創造するとすかさずアンラ・マンユは対抗すべく冬、病気、悪などの16の災難を創造したという。黙示録の赤い竜や善悪二元論、最後の審判といったキリスト教の要素にはゾロアスター教からの影響が見てとれる。キリスト教のサタンも旧約聖書のヨブ記を見る限りは神の僕であり、試練を与える天使という位置付けであったが、新約聖書のサタンは完全に敵対者である。


ペルシア語
イランを中心とする中東地域で話される言語。おもにイラン・タジキスタン・アフガニスタン・グルジアおよびインドの一部やパキスタンの一部で話され、母語話者は4600万人を超えるとされている。イランでは公用語。

ギラキ語
イラン北部から西部における枝分れの言語である。 話者人口は33万人程で、アラビア文字を使って表記する。周辺の言語が混合って出来たと思われ、タリシュ語やトルコで話されているザザキ語の影響が強い。

メディア王国
Media、紀元前715年頃 - 紀元前550年頃)は、現在のイラン北西部を中心に広がっていたメディア人の王国である。首都はエクバタナで、アッシリアが紀元前612年頃崩壊し、その後影響力を拡大したエジプト、リュディア、新バビロニア(カルデア)とともに当時の大国となった。また、イラン高原北西部の地方名としても「メディア」という語が使われた。

アケメネス朝
紀元前550年 - 紀元前330年は、古代イランにおこったとされる王朝・帝国。近年の研究によって、王朝の創始者であるキュロス2世の直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪したことがほぼ明らかになっている。つまり連綿と続く王朝ではなく、キュロスの王朝とダレイオスの王朝に二分されているというのが実相であった。

サファヴィー朝
16世紀から18世紀前半にかけて現在のイランを中心に支配したイスラム王朝(1501年 - 1736年)。ホラーサーンからメソポタミアに至る歴史的イラン地域を支配した王朝としては初めてシーア派の一派十二イマーム派を国教とし、現在のイランとアゼルバイジャン、イラク南部で十二イマーム派が住民の大多数を占める状況を導いた。

ガージャール朝
前近代ペルシア語ではカージャール朝は、18世紀末から20世紀初にかけて現在のイランを中心に支配したトゥルクマーン系ガージャール部族連合によるイスラム王朝(1796年 - 1925年)。首都はテヘラン。サファヴィー朝滅亡後のイランを統一して、めまぐるしく移り変わる群雄割拠の時代に終止符を打った。しかし、ガージャール朝の時代は内憂外患に悩まされ、イランの暗い時代として記憶されている 。

パフラヴィー朝
1925年から1979年までイランを統治した、イラン最後の王朝である。カージャール朝ペルシア帝国がイギリスとロシアによる半植民地化に苦しむ中、ペルシア・コサック旅団の軍人レザー・ハーンは1921年にクーデターを起こした後、1925年にレザー・シャーとして皇帝に即位し、カージャール朝に代わってパフラヴィー朝が成立した。


<世界遺産>
チョーガ・ザンビル
古代エラム人が、現在のイラン・フーゼスターン州に作った複合遺跡である。メソポタミア地方以外では数少ないジッグラトが存在する。

ペルセポリス
現在知られている限りペルセポリスの名がはじめて歴史に登場するのは、古代ギリシアの歴史家クレイタルコスの著した『アレクサンドロス伝』であったといわれている。この書が後世多くの学者によって引用されたためにペルセポリスの名もアケメネス朝の王都の名として広く知られるようになった。

イスファハンのイマーム広場
まわりを青を基調とした精密なアラベスク模様のタイルで覆われた荘厳なモスクや宮殿によって囲まれていることから、かつては「ここには世界の半分がある」とも言われた。

タフテ・スレイマーン
タフテ・スレイマーンは、渓谷の中にある史跡であり、テヘランの西400km離れた沃野の真ん中にある。遺構は直径約100メートル、水深約100メートルの活動を停止した火口湖を中心に建てられており、主にサーサーン朝時代に建造された宗教施設郡やフレグ・ウルス時代に建造された宮殿遺跡群も含む。

パサルガダエ
パサルガダエはペルセポリスの北東87キロメートルに位置し、現在のファールス州にある。パサルガダエは、ペルシャ帝国の最初の首都であり、紀元前546年に、キュロス2世の手によって建設が開始された。しかし、その建設は途上に終わった。というのも、紀元前530年前後の戦争中に、キュロス自身が死亡したからである。ダレイオス1世がスーサに遷都するまで、パサルガダエは、ペルシャ帝国の首都として機能した。

バムとその文化的景観
2003年12月26日、現地時間の午前5時26分(日本時間では午前10時56分)に、遺跡の地下を走る活断層「バム断層」で地震(バム地震)が発生した。米国地質調査所はマグニチュード6.5と発表した。BBCは「近代都市バム」の70%が破壊されたと報じ、犠牲者の数は4万人を越え、一帯で人口の3分の1が失われた。

ソルターニーイェ
イルハン朝第8代君主オルジェイトゥの命によって建設された都市遺跡である。テヘランの北西240kmのザンジャーン州東部にあり、かつて14世紀には、フレグ・ウルスの都であった。ソルターニーイェの遺跡群の中核は、1302年から1312年にかけて建設されたオルジェイトゥ廟である。8基のミナレットを備えるこの廟は、青タイルで覆われた高さ約50mの2重構造のドームを持ち、これは世界最古のものである。イスラーム世界におけるこの廟の重要性は、ブルネレスキの屋根建築と比較される。

ベヒストゥン
アケメネス朝ペルシアの王ダレイオス1世が、自らの即位の経緯とその正当性を主張する文章とレリーフを刻んだ巨大な磨崖碑。イランのケルマーンシャー州にある。楔形文字にとってのこの碑文の重要性は、エジプト神聖文字にとってのロゼッタ・ストーンに比せられ、古代文字の判読に貢献している。同じ内容のテキストを、エラム語、古代ペルシア語、アッカド語(新バビロニア語)という3つの異なった言語と書体で書いた翻訳を含んでいる。イギリス軍武官のヘンリー・ローリンソンが1835年に古代ペルシア語の部分を、1843年にアラム語とバビロニア語の部分を解読することができた。

イランのアルメニア人修道院建造物群
イラン北西部(いわゆる古代アルメニアの地域)に位置するこの地域は、キリスト教の揺籃期より、キリスト教(アルメニア使徒教会)を受容してきた地域である。アルメニア人は、キリスト教を世界で最初に国教としたことで知られており、その信仰の中心地として、修道院が建設されてきた。しかし、地質学的に地震が多い地域であることから、世界遺産に登録されている3つの物件は、大地震のあとに再建されたものである。聖ステファノス修道院の再建は、15世紀に実施されている。当時のイランを統治していたサファヴィー朝はアーザルバーイジャーン地方やアルメニアをめぐって、オスマン帝国と覇権を争っており、サファヴィー朝はアルメニア教会を保護する目的もあり、再建を支援した。

シューシュタルの歴史的水利施設
イラン・フーゼスターン州にある古代以来の要塞都市である。州都アフヴァーズより約 92 km 離れたところに位置しており、2005年現在の人口は約9万人である。この名前は、アケメネス朝の首都であったスーサにも関連しており、スーサよりも立派な都市を意味する。サーサーン朝時代になると、シューシュタルはカルン川 (en) に浮かぶ中州となり、サーサーン朝における夏の首都に選ばれた。シューシュタルの周辺に張り巡らされた水利網を Ghanat と呼び、河川とため池や建物とを結び、シューシュタルの町に水を供給した。


イランの芸術
この地域は現在のイラン・アフガニスタン・タジキスタン・アゼルバイジャン・ウズベキスタンとその周辺にまたがり、世界史上もっとも豊かな芸術遺産を残す地域のひとつである。そこでは建築・絵画・手織物・陶芸・書道・金属工芸・石彫などの分野で技芸の修養が続いている。


■経済
IMFの統計によると、2011年のGDPは4824億ドルであり、一人当たりのGDPは6,359ドルである。イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と、農村部の農業および小規模な商業、ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。政府は以前から引き続いて市場化改革を行い、石油に依存するイラン経済の多角化を図っており、収益を自動車産業、航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業、核技術など他の部門に振り分け投資している。


天然ガス
natural gas)は、一般に天然に産する化石燃料である炭化水素ガスのことを指す。広義には、地下に存在するガス、または地下から地表に噴出するガス一般のことであり、この中には化石燃料ガス(可燃性ガス)だけでなく、窒素や酸素、炭酸ガス、水蒸気、硫化水素ガス、亜硫酸ガス、硫黄酸化物ガスなどの不燃性ガスも含まれる。これら不燃性ガスの多くは火山性ガスである。


■文化
イランは文化、すなわち美術、音楽、建築、詩、哲学、思想、伝承などの長い歴史があり、イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。


イランの芸術
世界史上もっとも豊かな芸術遺産を残す地域のひとつである。そこでは建築・絵画・手織物・陶芸・書道・金属工芸・石彫などの分野で技芸の修養が続いている。なお『イラン』は、この文化圏の中心に現在位置する一国家とその主要民族の名称であるが、ペルシア帝国時代より現代まで伝わりこの地域に共通の基盤をもつ文化を叙述するさいには現在でもイランではなく『ペルシア』を冠する場合がある。

サファヴィー建築
(Safavid architecture)は、イスラーム国家サファヴィー朝で形成された建築である。オスマン建築とともに、近世のイスラーム建築の一角を担う。アッバース1世のもと、サファヴィー建築は比較的短期間に開花し、初期の段階でモスクの形式を洗練させたが、その後は細部の技巧に執着する傾向を示し、現代のイスラーム建築にまで影響を与えるような新しい動きはほとんどなかった。


■文学
ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ、文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け、中世の『ライラとマジュヌーン』のニザーミー、『ハーフェズ詩集』のハーフィズ、『ルバイヤート』のウマル・ハイヤーム、『シャー・ナーメ』のフィルダウスィー、『精神的マスナヴィー』のジャラール・ウッディーン・ルーミーらのように、イラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。


ライラとマジュヌーン
(Layla and Majnun)は、中東の古典的悲恋物語。ライラという美女に恋い焦がれてマジュヌーン(ジンに取り憑かれた人のこと、すなわち狂人)となった青年カイスの物語。数多くの詩人に詠まれ、ニザーミー作のものが特によく知られる。

ルバイヤート
11世紀ペルシア(イラン)の詩人ウマル・ハイヤームの四行詩集の題名。ウマル・ハイヤームが存命していた時代のルバーイーは、アンサーリーに代表される通り基本的にスーフィズム的思潮の濃いものが大半を占めていた。世の無常観や飲酒への讃美、時には神へのアイロニカルな心情を吐露するウマル・ハイヤームのルバーイーは、(ジャーヒリーヤ時代のアラブの飲酒詩や世の無常を嘆くニヒリスティックな詩の伝統を組むものとも理解出来るが)当時のルバーイーの傾向からすると、やや特異な位置づけにあるものと言える。


シャー・ナーメ
叙事詩人フェルドウスィーがペルシア語で作詩したイラン最大の民族叙事詩。約6万対句にも及ぶ大作である。『王書』とも訳される。サーマーン朝支配のペルシアの詩人フェルドウスィーが980年頃より作詩に着手したといわれ、30年以上の年月をかけて1010年に完成した。


■食文化
米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる魚料理に、鳥・羊・牛などの他、駱駝等も用いる肉料理、野菜料理などは種類豊富。もっともポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。


■通信とメディア
イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘラン・ラジオに遡り、テレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後、現在の放送メディアは国営放送のイラン・イスラム共和国放送(IRIB)に一元化されている。新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し、朝刊紙で発行部数が多いのは『ハムシャフリー』であり、『イーラーン』、『ジャーメ・ジャム』、『アフバール』などが続き、夕刊紙で有力なのは『ケイハーン』、『エッテラーアート』などである。イランでは全メディアが当局による直接・間接の支配を受けており、文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが、若年層のあいだで情報へのアクセス、自己表現の手段として爆発的な人気を呼び、イランは2005年現在、世界第4位のブロガー人口を持つ。


■宗教
大部分のイラン人はムスリムであり、その90%がシーア派十二イマーム派(国教)、9%がスンナ派(多くがトルクメン人、クルド人とアラブ人)である(詳細はイランのイスラームを参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり、主なものにバハーイー教、ゾロアスター教(サーサーン朝時代の国教)、ユダヤ教、キリスト教諸派などがある。


ウラマー
イスラームにおける知識人のこと。イスラム教における実質的な聖職者(建前としては異論が多い)。アラビア語の「知る」(alima)の能動分詞「知る者」(alim)の複数形である。通常、集団として扱うため術語として原語、欧米語、日本語とも複数形のウラマーを用いる。日本語ではイスラム法学者と訳される場合も多い。


十二イマーム派
イスラム教シーア派の一派。イラン、イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、イランの国教でもある。シーア派諸派の中では最も信者の数が多い最大派であり、そのために外部の観察者からはシーア派の主流派と見られることも多く、日本では報道などで単に「シーア派」といった場合は十二イマーム派を指すことがほとんどである。

ムスリム
Muslim)は、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のことである。ムスリムになるためには、証人となるムスリムの前で信仰告白の手続きを取ることが必要である。 父親がムスリムであるものは自動的にムスリムとなるとされている。

シーア派
イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。

バハーイー教
19世紀半ばにイランでバハーウッラーが創始した一神教である。イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラク、トルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカ(現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日ではイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つ。信徒数は公称600万人、189ヶ国と46の属領に広がっており、ブリタニカ百科事典によると現在布教国数でキリスト教に続き世界で二番目に広がりを見せている宗教である。


民族
一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体をいう。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となるが、普遍的な客観的基準を設けても概念内容と一致しない場合が多いことから、むしろある民族概念への帰属意識という主観的基準が客観的基準であるとされることもある。


ペルシア人
Persian)とは、現代のイランを中心とした地域に住み、ペルシア語系の言語を話す人々を指し示す民族名称である。ペルシャ人とも呼ぶ。もっとも広義には、歴史的なイラン地域および中央アジア方面に住み、主にペルシア語を語る人びとのことを漠然と指す。

クルド人
Kurds)は、中東のクルディスタンに住む山岳民族。トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である。人口は2500万〜3000万人といわれている。


ルーホッラー・ホメイニー
1902年9月24日 - 1989年6月3日は、イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。1979年にパフラヴィー皇帝を国外に追放し、イスラム共和制政体を成立させたイラン革命の指導者で、以後は新生「イラン・イスラム共和国」の元首である最高指導者(師)として、同国を精神面から指導した。「生きることの本義は簡素、自由、公共善にあり」という信念を確かなものとし、自分の人生においてもこれを実践するとともに人々に呼びかけた。シーア派法学者は品格、勤勉さ等の人格が非常に重視されるため、革命のシンボルとして国民から認められた理由にこのことが挙げられる。

サアディー
Saadi、1184年? - 1291年?は、イランの詩人。30年に亘りインドや北アフリカを放浪した後、1256年にシーラーズに帰り、詩作を始める。この頃からその名を知られるようになる。サアディーの作品は教訓、警句、逸話の内容を持ち、現在でもイラン文学史上の最高傑作といわれる。

モハンマド・レザー・パフラヴィー
Mohammad Reza Shah Pahlavi、1919年10月26日 - 1980年7月27日はパフラヴィー朝イランの第2代にして最後の皇帝(シャーハンシャー、在位:1941年9月26日 - 1979年2月11日)である。パフラヴィー2世とも呼ばれる。亡命前後の日本の報道ではパーレビ国王と呼ばれることが多かった。多趣味で知られ、ヨットや飛行機の操縦を行い、イラン空軍の次期主力戦闘機導入の際には自ら候補機の操縦桿を握り、最終的にアメリカのグラマンF-14戦闘機の導入を決定した。

マフムード・アフマディーネジャード
Mahmud Ahmadinezhad1956年10月28日ーはイラン・イスラーム共和国の第6代・現職の大統領。保守派政治団体の連合体イスラーム・イラン建設者同盟(英語版)(アーバードギャラーン連合)の中心的政治指導者。貧困層を出自とする技術者・研究者で、イスラーム革命後、ホメイニーに忠実な路線をとる学生運動団体を統括する団結強化本部(英語版)に参加した。1956年10月28日、イラン帝国セムナーン州ギャルムサールで雑貨商アフマド・サボージアンの子として生まれる。父アフマドは雑貨商の他に鍛冶師や理髪師など幾つもの仕事を掛け持ちして家族を養っていたという。

フェルドウスィー
934年 - 1025年は、サーマーン朝およびガズナ朝時代に活躍したペルシャ詩人である。イランのホラーサーン中部トゥースの地主階層(デフカーン)の出身で、12世紀初期の『4つの講話』の作者ニザーミー・アルーズィーによれば、トゥース近郊のタバラーン地区のバージュという大村で生まれたという。ペルシャ歴代の王や英雄を詠った叙事詩『シャー・ナーメ』(王の書)がその代表作で、30年以上の歳月を費やし約6万対句(バイト)の大作としてヒジュラ暦400年(西暦1009年、1010年)に完成した。

シーリーン・エバーディー
1947年6月21日 - は、イランの弁護士で、人権活動家、民主運動家。2003年10月10日に、ノーベル平和賞を授与されており、ノーベル賞を受賞する最初のイラン人で、最初の女性イスラム教徒(ムスリマ)である。テヘラン大学で法学を学ぶ。1975年にイラン初の女性裁判官となり、テヘランの裁判所に勤務するが、1979年のイラン革命により失職。のちに弁護士として法曹界に復帰した。イスラム法学者が指導するイスラム共和国体制下で、イスラム法(シャリーア)の厳格な施行のもとで女性や子供の地位が制限されていることを訴え、現代の人権思想に適合した法改正を訴えて活動。欧米の短絡的なイスラム観にも批判的な立場を取っている。

フォルーグ・ファッロフザード
Forugh Farrokhzad、1936年1月5日 - 1967年2月13日は、イランの詩人・映画監督。イラン現代文学における最も優れた女性詩人の一人とみなされている。フォルーグは1935年にテヘランで生まれた。9年生まで学校に通い、その後女子のための学校で絵画と手芸を学んだ。16歳で著名な風刺作家のパルヴィーズ・シャープールと結婚し、絵画と手芸の勉強を続けながら、夫と共にアフヴァーズへ移り住んだ。フォルーグは大胆に女性の声を主張する詩を書いたため論議を呼び、否定的に評価されたり、あからさまに批判されたりもした。

サミラ・マフマルバフ
(Samira Makhmalbaf, 1980年2月15日 - )は、イラン・テヘラン出身の映画監督。父親は同じく映画監督のモフセン・マフマルバフ。妹のハナも映画監督。14歳で学校を去り、5年の間父親の作った映画学校で学ぶ。初監督作品『りんご』は17歳の時の作品である。2000年の『ブラックボード 背負う人』でカンヌ国際映画祭の審査員賞を、2003年の『午後の五時』では同じくカンヌ審査員賞とエキュメニック賞を受賞している。

ジャファール・パナヒ
Jafar Panahi, 1960年7月11日 - はイランの映画監督。テヘランで映画製作を学び、アッバス・キアロスタミ作品の助監督となる。1995年、キアロスタミが脚本を書いた『白い風船』で監督デビューし、カンヌ国際映画祭カメラ・ドールを受賞。また、2000年の『チャドルと生きる』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞し、世界的に高い評価を得た。さらに2006年には『オフサイド・ガールズ』でベルリン国際映画祭審査員グランプリも受賞している。しかし、『チャドルと生きる』『オフサイド・ガールズ』ともにイランの現体制を批判する内容であるとして、イラン国内では公開禁止となっている。

バフマン・ゴバディ
(Bahman Ghobadi, 1969年2月1日 - )はクルド人の俳優・映画監督・脚本家。イラン出身。イランの大学で映画製作を学び、卒業後は写真家となる。その後8mmで短編映画を製作するようになる。アッバス・キアロスタミ作品の『風が吹くまま』に助監督・俳優として参加。2000年に『酔っぱらった馬の時間』で映画監督としてデビュー。この作品でカンヌ国際映画祭カメラ・ドール等を受賞。2004年の『亀も空を飛ぶ』ではシカゴ国際映画祭やベルリン国際映画祭などにおいて多くの賞を獲得している。

マルジャン・サトラピ
Marjane Satrapi), 1969年11月26日 - は、イラン北部、ラシュト出身のフランスの漫画家、イラストレーター。首都テヘランのカージャール朝の流れを汲む(マルジャンの曽祖父がカージャール朝最後のシャーであるアフマド・シャーである)進歩的な上流階級の家庭に育ち、少女時代に当時のパーレビ国王の失脚とイラン革命、そしてイラン・イラク戦争を、技術者の父らと共に市民の側から目撃した。1983年、両親の意向によってオーストリアの首都ウィーンのフランス語学校に留学。しかし、「自由の落とし穴」に陥り、自堕落な生活と故郷から切り離されたことによる不安のため、イランに帰国し、大学で美術を学ぶ。

フワーリズミー
アル=フワーリズミーは、9世紀前半にアッバース朝時代のバグダードで活躍したイスラム科学の学者である。アッバース朝第7代カリフ、マアムーンに仕え、特に数学と天文学の分野で偉大な足跡を残した。バグダードに出てカリフのマアムーンに仕え、数学、天文学、さらに地理学、暦学などの分野で様々な研究を行った。計算の手順を意味するアルゴリズム (Algorithm) やオーグリム (augrim) という言葉はこの書の冒頭 Algoritmi dicti (アル=フワーリズミーに曰く) に由来する

アーラシュ
1977年4月23日テヘラン - は、イラン出身のミュージシャンである。歌手、プロデューサー、作曲家などとして、スウェーデンを中心に活躍している。ペルシア語の他、ロシア語の歌詞の曲も歌う。カレッジ時代、彼は音楽に強く魅せられ作詞や作曲を始めた。彼は足繁くスタジオへ通った。「音楽こそが我が人生、人生こそが我が音楽」というのが彼のモットーであった。。

アリー・ハーメネイー
1939年7月15日 - は、イラン・イスラム共和国の第2代最高指導者。第3代イラン・イスラム共和国大統領。1979年のイラン・イスラム革命後、革命会議議員、国防次官、イスラム革命防衛隊司令官、大統領、最高国防会議議長を歴任した。1989年6月3日、イランの最高指導者に選出された。小学校卒業後、父に秘密で中学校に通った。その後の勉学は、まずマシュハドの神学校でイスラーム諸学、特にアラビア語に向けられた。1958年にイラクのナジャフに赴き、2年間神学を学んだ。その後、コム市に赴き、ホメイニー師のもとで1964年までイスラーム法学を学んだ。

モハンマド・モサッデク
1882年5月19日 - 1967年3月5日は、イランの民族主義者、政治家。イラン首相(1951 - )となり、1951年に石油国有化政策を行った。テヘランで、ガージャール朝の縁戚にあたる名家に生まれる。留学しソルボンヌ大学卒業を経て、スイス・ヌーシャテル大学で法学博士号を取得。帰国後にイラン立憲革命に参加、国会議員となりアフマド・カバム内閣で財務大臣となる。

レザー・パフラヴィー
1878年3月16日 - 1944年7月26日は、パフラヴィー朝イランの初代皇帝(在位:1925年12月15日 - 1941年9月16日)。即位前はレザー・ハーンと称された。1878年、カスピ海南岸のマーザンダラーンの名門の家に生まれた。若くして軍人となり、ペルシアのコサック師団の将校となる。1921年に、2500の兵を率いてクーデターを起こしてテヘランを奪う。1924年から1925年の間はイラン国軍の司令官、首相となり、1919年に結ばれていたイギリス・イラン協定を破棄して治外法権の撤廃に成功した。

ニザーミー
1141年-1209年はペルシア人の詩人。10世紀から15世紀末にかけてのペルシア語文学古典時代における最も著明な詩人のひとりであり、ペルシア語ロマンス叙事詩において恋愛・悲恋文学に神秘主義詩の要素を織込み独自の境地を開拓した。

ウマル・ハイヤーム
1048年5月18日? - 1131年12月4日?は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人。ニーシャープール(現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)出身。数学・天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルタンであるマリク・シャーに招聘され、メルヴの天文台で暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるジャラーリー暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであった。また、無常観が言葉の端々に表れるペルシア語によるルバーイイ(四行詩)を多数うたい、詩人としても高い評価を得ていた。彼のルバーイイを集めた作品集は『ルバイヤート』として、故地イランのみならず、各国で翻訳され出版されている。

ジャラール・ウッディーン・ルーミー
1207年9月30日 - 1273年12月17日はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。イスラムの神学者、スーフィズムの重要な人物のひとり。1207年にホラーサーン地方の主要都市の一つバルフ(現アフガニスタン)において高名な説教師でもあった神学者バハーウッディーン・ムハンマド・ワラドの息子として生まれた。1219年頃にモンゴル帝国のホラズム・シャー朝遠征にともない、家族とともに戦火を避けて郷里のバルフを去り西方へ移住した。

イブン・スィーナー
980年 - 1037年)は、ペルシアを代表する知識人で、哲学者・医者・科学者であった。ラテン名アウィケンナ(Avicenna、英語読みのアヴィセンナも普及している)。中央アジアのブハラ出身で、イランの各地で活動した。当時の世界の大学者であると同時に、中世ヨーロッパのスコラ学に多大な影響を与えた。幼いころからあらゆる分野の学問に天分を発揮し、10歳でコーランを暗誦し、16歳で医学を修めるなど、エリートの道を順調に歩んだ。10代の間彼は、ファーラービーの著作に触れて哲学を学ぶ一方、医学の分野においてもサーマーン朝の君主ヌーフ2世の治療に当たるなど事績を積み、やがて「18歳にしてほとんどの学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至った。

シーリーン・エバーディー
1947年6月21日 - は、イランの弁護士で、人権活動家、民主運動家。2003年10月10日に、ノーベル平和賞を授与されており、ノーベル賞を受賞する最初のイラン人で、最初の女性イスラム教徒(ムスリマ)である。テヘラン大学で法学を学ぶ。1975年にイラン初の女性裁判官となり、テヘランの裁判所に勤務するが、1979年のイラン革命により失職。のちに弁護士として法曹界に復帰した。イスラム法学者が指導するイスラム共和国体制下で、イスラム法(シャリーア)の厳格な施行のもとで女性や子供の地位が制限されていることを訴え、現代の人権思想に適合した法改正を訴えて活動。欧米の短絡的なイスラム観にも批判的な立場を取っている。

アブー・ヌワース
Abu-Nuwas、756年 - 814年)は、ペルシアのアフヴァーズで生まれ育ち、バグダードを中心に活躍した詩人。アラビアで最も偉大な詩人のひとりとされる。『千夜一夜物語』にも登場する。アラブ人の軍人の父とペルシア人の織工の母の間に生まれる。若い頃はバスラの食品店で働いていたという。文学を志してバグダードへ渡り、ユーモラスな詩で有名になる。風刺や性的な作品で名高かった。また、イスラム教が禁じているものに関して大っぴらに書くことで世間を驚かせることを好んだ。過激な作風のために追放を受け、エジプトへ逃亡することを余儀なくされた時期もあり、809年にバグダードへ戻った後も投獄されることがあったという。

ザラスシュトラ
紀元前13世紀?〜紀元前7世紀?は、ゾロアスター教の開祖である。近年の研究では、前10世紀から前11世紀にかけて活躍したといわれるが、研究者によって異なる。たとえば、前1750年から前1500年にかけて、また前1400年から前1200年にかけて、イランの伝統では前570年頃、パールシー教では前6000年より以前ともされる。ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の影響から「ツァラトゥストラ」として有名だが、これはペルシア語での呼称をドイツ語読みしたものである。

ルーホッラー・ハーレギー
Ruhollah Khaleghi、1906年 - 1965年11月12日は、イランの作曲家。ケルマーン近郊のマハン出身。音楽好きな家に生まれ、最初はタールを習ったが、後にヴァイオリンを学習するようになった。やがてアリ・ナギ・ヴァズィーリーが音楽学校を開くと、ハーレギーはそれまでの学校をやめてヴァズィーリーの学校に入学し、8年間学んだ。後にはヴァズィーリーの助手となり、音楽理論を講義した。さらにテヘラン大学に入学し、ペルシア語とペルシア文学の学位をとった。

ナスィールッディーン・トゥースィー
1201年2月18日 −1274年6月25日はシーア派を代表するペルシャ人の神学者である。またイブン・スィーナーら系譜に連なる逍遥学派の中興の祖と目される哲学者であり、数学者、天文学者であり、13世紀のイスラーム世界を代表する偉大な学者である。1272年に惑星の位置を計算し、恒星の名を記した天文表『イルハン天文表』を作成した。2つの円運動から直線状の動きを得る、トゥースィーの対円 (Tusi-couple) と呼ばれる惑星モデルを考え、クラウディオス・プトレマイオスの惑星運行モデルの難点の一つであったエカントの除去に成功した。

ナーシャ・ジベリ
(Nasir Gebelli、1957年 - )はコンピューターゲームのプログラマ。イラン出身。『とびだせ大作戦』、『ハイウェイスター』、『ファイナルファンタジーシリーズ(I〜III)』、『聖剣伝説2』などをプログラムする。渡米して情報科学を学ぶ。1980年に友人とApple II用のゲームを製作するen:Sirius Softwareを立ち上げるが、1981年に退社。

バハーウッラー
1817年11月12日 - 1892年5月29日)は、バハーイー教の預言者・教祖である。イランのカージャール朝に仕える高級官僚の家系の一員としてテヘランに生まれる。1844年にセイイェド・アリー=モハンマド(称号はバーブ)によってバーブ教が起こされると、その信徒になった。政府によるバーブ教弾圧が始まると、逮捕されるが、この獄中生活の最中に、最初の啓示を受け取ったとされる。

セイイェド・モフセン・サイードザーデ
(Seyyed Mohsen Saidzadeh) はイラン・イスラーム共和国の改革派ウラマー。位階はホッジャトル・エスラーム。ジェンダー平等論を含めたクルーランとハディースのリベラルな解釈で知られている。サイードザーデはジェンダーについて過度に本質主義的な解釈を避け、その可変性を認める立場をとっている。

モハンマド・ナスィーリー
Mohammad Nassiri、1945年7月31日 - ) は、イランのテヘラン出身の男子重量挙げ選手。メキシコシティオリンピックの56キロ級重量挙げ金メダリスト。キャリアの中で18度世界記録を破った。世界選手権5度優勝。1995年に国際ウエイトリフティング連盟の殿堂入りに選出された。

ホセイン・レザザデ
Hossein Rezazadeh、1978年5月12日 - ) は、イランのアルダビール出身の男子重量挙げ選手。シドニーとアテネオリンピックの105キロ超級重量挙げ金メダリスト。世界選手権4度優勝。ジャーク、トータル共世界記録保持者。

ジャマールッディーン・アフガーニー
1839年-1897年5月9日)は、19世紀に活躍したイスラーム活動家の一人であり、汎イスラム主義を唱えた。イスラーム世界に外国の統治が及ぶのを拒絶し、オスマン帝国やガージャール朝の専制体制を批判した。

イラン Iran
西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。またペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。

1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。 世界で最初に石油の開発が行われた国である。

テヘラン
Tehranは、西アジア、イランの首都でありかつテヘラン州の州都。人口11,050,000人。テヘランはイランの文化的中心でもあり、多数の博物館、美術館、宮殿、文化センター、高等教育機関を擁する。宗教的中心でもあり、モスクのみならず、キリスト教の教会やユダヤ教のシナゴーグも各所にみられる。住民の大多数はシーア派イスラム教徒。この町の起源ははっきりはしていないが発掘調査からは紀元前6000年の住居跡が見つかっている。9世紀には村があったが、近郊のレイ(Rey)がもっとも栄えた都市であり、テヘランは何ら注目を浴びていなかった。

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テヘラン大学
1,500名の教授、3,500名のスタッフ、32,000名の生徒が学ぶイランでも最大規模で最も古い大学である。 多くの著名人・政治家を輩出している。テヘラン大学は、1934年の開学であるが、その際には既存の高等教育機関も一部取り込んでいるので学部の中には大学よりも古い伝統を持っているものもある。医学部は1851年に創立されたダーロルフォヌーン、さらに造形芸術及び建築学部、農学部、法学部については1899年から1918年にヨーロッパの学者たちによって創立されたさまざまな高等教育機関の流れを汲んでいる。

イスラーム自由大学
イランの私立大学群。1982年設立、本部をテヘランにおく。現在の在籍学部生数は130万人で、巨大大学に分類される。イスラーム自由大学はイラン学生通信と同様の通信社、アーザード通信を運営している。


外務省:イラン・イスラム共和国
在イラン日本国大使館


エマーム・ホメイニー国際空港
テヘランの南約30kmにある国際空港である。現在市域内となってしまっているメヘラーバード国際空港を代替する目的で建設された。

メヘラーバード国際空港
テヘランの中心空港であったが、大部分の国際線は2004年に完成したエマーム・ホメイニー国際空港へ移された。メヘラーバード空港はエマーム・ホメイニー国際空港と比べて、テヘラン都心にはるかに近い。

シャヒード・ベヘシュティー空港
Shahid Beheshti Airportとは、イラン・エスファハーンにある空港である。エスファハーン市街地から北に約20kmに位置している。

キーシュ国際空港
イラン・ホルモズガーン州キーシュ島の空港。革命以前にはエールフランスの超音速旅客機コンコルドが飛来したことがある。

シーラーズ国際空港
Shiraz International Airportは、イラン・シーラーズにある国際空港。シャヒード・ダシュトガーエブ空港とも呼ばれ、ファールス州の主要国際空港として利用されている。

オルーミーイェ空港
イラン・西アーザルバーイジャーン州の都市オルーミーイェの空港。

タブリーズ国際空港
Tabriz International Airport)は、イラン北部の東アゼルバイジャン州タブリーズにある国際空港。

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アミール・キャビール工科大学
イラン・テヘランの 男女共学の公立研究大学。以前はテヘラン・ポリテクニークと称した。同大学はイラン最初の工科大学として設立され、自然科学、工学、技術における国内最高の教育機関である。

アルザフラー大学
イラン・テヘラン州・テヘランのヴァナクに所在する国立女子大学。同大学は1964年、女子高等教育学校と称する私立学校として設立され、のちにシャー・モハンマド・レザー・パフラヴィー皇后ファラフ・パフラヴィーの名にちなんで、ファラフ・パフラヴィー大学と改称された。イラン・イスラーム革命ののちに公立化。

イマームホセイン大学
イラン、テヘランの大学。同大学は1986年に開校。同大学には工学、科学学部、社会科学、軍事科学の学部が置かれている。


■教育
2002年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は77%(男性:83.5%、女性:70.4%)である。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された。主な高等教育機関としては、テヘラン大学(1934)、アミール・キャビール工科大学(1958)、アルザフラー大学(1964)、イスラーム自由大学(1982)などの名が挙げられる。


ファールス州
州都はシーラーズ。面積は122,400km2。ペルシア人の故地であり、1996年現在、人口は380万人、そのうち58%が都市に、42%が農村部に居住している。シーラーズ空港は州内唯一の国際空港である。ラールおよびラマルドにもシーラーズ、テフラーンと連絡する空港がある。シーラーズはテフラーンから南部イランへの入り口である。

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シーラーズ
イラン南西部の都市。ファールス州の州都。人口は1,050,000人(1996年)。ザグロス山脈中に位置し、海抜1486m。言い伝えによるとシーラーズの町はタフムーラスによって創建されたという。ファールス州は紀元前700年ごろから栄えた強大なアケメネス朝ペルシア帝国の中心地であった。約2500年前の都ペルセポリスの遺跡が、シーラーズ市から北東に60kmのところに残る。


ヤズド
Yazdはイラン中央部、ヤズド州の州都。イランにおいて古い歴史をもつ都市の一つで、ゾロアスター教文化の中心地である。エスファハーンの南東約280kmに位置する。人口は2005年の推計で433,836人、2006年で505,037人。世代をこえた砂漠環境への適応のため、ヤズドは建築学的にも独特の表情を持つ都市である。ヤズドには砂漠型の伝統的ペルシア建築における優れた例となる建物が複数存在する。

ラシュト
Rashtはイラン北西部の都市でギーラーン州の州都。バンダレ・アンザリー経由のカフカズ・ロシアとイラン間の交易における中心地の1つであり、観光の中心ともなっている。ラシュトの人口は2005年の統計で560,123人である。ギーラキー語の話者300万人以上のほとんどがギーラーン州に住む。ギーラキーは、インド・ヨーロッパ語・イラン語派のうち北西イラン語に属する。

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マシュハド
Mashhadはイラン第二の都市でシーア派の聖廟都市のひとつ。テヘランの東、約850kmに位置し、ラザヴィー・ホラーサーン州の州都である。2006年現在の人口は約250万人。マシュハドは長らく宗教教育の中心地であるとともに、世俗的にも芸術・科学の中心地であった。ペルシア語詩人の巨人フェルドウスィーの名を冠した大規模なマシュハド・フェルドゥスィー大学はこの地にある。


ハマダーン
古代ペルシア語:Hagmatana、古代ギリシア語:Ecbatana)は、イランのハマダーン州の都市である。ハマダーン州の州都である。人口は、550,284人(2005年推計値)である。イラン最古の都市であり、世界的にも最古の都市のひとつである。かつてのメディア王国の首都、エクバタナ(ハグマターナ)である。

タブリーズ
Tabrizはイラン北西部の都市。東アーザルバーイジャーン州(東アゼルバイジャン州)の州都。人口は約140万人でイラン第4位。テヘランから約600km。サハンド山(3,710m)の北側、標高1350mに位置する。アゼルバイジャン地方[1]の中心都市で、住民の多くはアゼルバイジャン人である。

エスファハーン
エスファハーン州の州都。テヘランの南約340kmに位置し、二宮書店発行のデータブック・オブ・ザ・ワールドによると、人口は160.2万人(2006年現在)で、イランで3番目に大きい都市である。サファヴィー朝の時代に首都に定められ発展した。有名なイマーム・モスクなどがあるイマーム広場は、ユネスコにより世界遺産に登録されている。

エクバタナ
(Ecbatana、エクバターナ)は、古代ペルシアにあった都市の名。現在のハマダーン(イラン・ハマダーン州)にあたる。古代ペルシア語ではハグマターナ(Haŋ頬枚轣tana)と呼ばれ、原義は「集いの場所」となる。エクバタナはメディア王国の首都と考えられているほか、その後のアケメネス朝やパルティアの夏の王都(夏営地)にもなった。

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ラームサル
Ramsarはイラン・マーザンダラーン州の都市。また同名の郡(シャフレスターン)。カスピ海沿岸に位置する。ラームサルは温泉、アルボルズ山脈の森林、モハンマド・レザー・シャーの宮殿などを併せ持つ海岸リゾートで、パフラヴィー朝期にはイランを訪れるアメリカ人に良く知られた保養地であった。今日でも多くのイラン人の訪れる観光地である。

アルダビール
Ardabilはイラン北西部の歴史的都市。アルダビールの名はおそらくゾロアスター教の聖地を意味する「アルタヴィル」に由来する。アルダビール州の州都であり、人口は340,386人。アルダビールはカスピ海から70km、タブリーズから210kmの位置にある。カスピ海とアゼルバイジャン共和国に近接し、都市として政治的経済的重要性を持つ。アルダビール州はサバラーン山(4,811m)の東麓の平均1,500mの高地に所在し、春の末まで寒冷な地域である。

アーバーダーン
イラン南西部、フーゼスターン州にある都市。シャッタルアラブ川(西側)とカールーン川(東側)が作り出すアバダーン島に位置する。ペルシャ湾からは53km。人口415,139人(2006年)。

アフヴァーズ
Ahvazは、イランの都市の一つ。フーゼスターン州の州都で、人口は841,145人(2006年)。フーゼスターン州の最大の都市で、州中央部、カールーン川の岸辺にある。カールーン川の右岸は市の産業の中心で、左岸は昔の町並みが残る住宅地である。

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オルーミーイェ
イラン北西部の都市で、西アーザルバーイジャーン州の州都。また同名のシャフレスターン(郡)。トルコ国境に近いオルーミーイェ湖西岸に位置する。人口は2005年の概算で602,403人。オルーミーイェは民族的に多様な都市である。アゼリー、クルド人および離散集団としてのアルメニア人、アッシリア人などから構成される。都市で話される主要な言語はアゼリー語であり、すべての民族集団がアゼリー語およびペルシア語を聞き話すことができる。しかし、学校や政府組織における公用語はペルシア語である。

アラーク
Arakはイラン・マルキャズィー州の州都。旧名はソルターナーバード。人口は2006年の統計で521,166人。アラークはダスケラと呼ばれる小さな町の廃墟のうえに建設されている。これはモンゴル軍のペルシア侵入期に破壊されたものである。現在のアラークの歴史は比較的新しく2世紀程度に過ぎない。建設されたのはガージャール朝の時代である。


ガズヴィーン
Qazvin、はイラン・ガズヴィーン州最大の都市で州都。人口は2005年の統計で331,409人。ガズヴィーンはイラン・ガズヴィーン州の都市でテヘランの北西約150kmに位置する。標高は海抜約1800m、気候は冷涼乾燥。アルボルズ山脈南麓の岩がちな地帯である。ガズヴィーンには約9000年前にさかのぼる考古学的遺跡をはじめとする諸遺跡が所在し、近郊には23にのぼるニザール派の城址が残る。


ケルマーン
Kermanはイランの都市。ケルマーン州の州都である。首都テヘランの南東1076km、広大な平原上に位置する。人口は2005年の推計で53,3799人。ケルマーンははやくも3世紀、サーサーン朝を開いたアルダシール1世によって創建されたと考えられている。イスラーム期にはイランにおける重要な文化的中心地のひとつとなっている。

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ザンジャーン
Zanjanはイラン北西部ザンジャーン州の州都。テヘランから北西方面にタブリーズおよびトルコ国境に向かう高速道路経由で298kmの地点にあって、またカスピ海からは125kmの位置にある。ザンジャーンはナイフやチャリーグおよびマリーレと呼ばれる伝統的サンダルなど美しい手工芸品で知られる。

シーラーズ
Shirazはイラン南西部の都市。ファールス州の州都。人口は1,050,000人(1996年)。ザグロス山脈中に位置し、海抜1486m。1750年から1794年まで、ザンド朝ペルシアの首都であった。気候は温和であり、ブドウや柑橘類、綿、米などが栽培されている。

シャフレ・コルド
Shahr-e Kordはイラン西部、チャハール=マハール・バフティヤーリー州の州都。エスファハーンの西南107km、テヘランからは同じく西南521kmに位置する。シャフレ・コルドでは伝統的にレンガ、モザイク、米粉、織布の生産地である。また熱気発電所とマイクロ波中継局、電信局が置かれており、複数の大学が所在する。

ダマーヴァンド
(Damavand)はイランのテフラーン州にある人口9万人の都市。ダマーヴァンドは歴史遺産が豊富な街であり、37の墳墓遺構、27の城砦跡、23の重要な伝統的家屋、18の伝統的浴場(複合施設)、六つの洞窟、五つの歴史的橋梁、三つのモスク、三つのキャラバンサライがある。

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ニハーヴァンド
イラン西部の地名で、ハマダーン州ニハーヴァンド郡に属する都市。アケメネス朝のダレイオス一世により建設された。 642年、クテシフォンを奪って東方に進出したムスリム(イスラム教徒)のアラブ人は、この地で起こった「ニハーヴァンドの戦い」でサーサーン朝軍を破り、壊滅させた。

ハマダーン
Hamadan、イランのハマダーン州の都市である。ハマダーン州の州都である。人口は、550,284人(2005年推計値)である。イラン最古の都市であり、世界的にも最古の都市のひとつである。かつてのメディア王国の首都、エクバタナ(ハグマターナ)である。

ビールジャンド
Birjandはイラン東部・南ホラーサーン州の州都。同州はホラーサーン州分割以前はビールジャンドあるいはクーヘスターンと呼ばれるホラーサーン州の一部であった。ビールジャンドの人口は2006年現在、218,783人。サフラン、メギ、手織り絨毯・敷物の産地として知られる。気候は乾燥し、昼夜の寒暖差が大きい。急速な発展により、イラン東部においてマシュハド、ザーヘダーンに次ぐ主要都市となりつつある。

ブーシェフル
Bushehrはイラン南西部ペルシア湾岸の都市で、人口は2005年に165,377人。ブーシェフル州の州都で、イランの主要海港でもある。産業では漁業、熱気発電があり、おなじくブーシェフルと呼ばれる後背地にあってはシーラーズ種の葡萄、金属細工、絨毯ほか織物、セメント、肥料などがある。イラン海軍は同地に基地を保持している。ロシアとの協力によって建設されている原子力発電所用地はブーシェフルから12kmの地点にある。

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ブーシェフル原子力発電所
Bushehr Nuclear Power Plant)は、イラン南西部のブーシェフル郊外、ペルシャ湾岸にある同国初の原子力発電所である。1974年、ドイツ企業シーメンスの設計により建設が始まったが、1979年2月のイラン革命で中断した。1980年代にイラン・イラク戦争の際の空爆によって大きく破壊された。1995年にロシアの国営原子力企業ロスアトムの援助で軽水炉建設が再開され完成した。


バンダレ・アッバース
Bandar-e ?Abbas)は、イラン南部の都市。ホルモズガーン州の州都である。ホルムズ海峡北岸に位置する港町であり、2005年の人口は約35万2千人。「アッバースの港」の意。 8世紀頃に海上交易路と陸上交易路の交点として、存在していたが、16世紀に一時ポルトガルが支配した。

ゴム
Ghom)は、イランの都市で、ゴム州の州都。20世紀末以降のゴムは、それまで十二イマーム派の教学の中心であったイラク南部がサッダーム・フセイン政権のもとでシーア派信仰を抑圧されたこともあって、世界的な十二イマーム派のセンターとしての性格を帯びた。

イスラム共和制
Islamic Republicとは、近代から現代にかけての中東およびアフリカのイスラム圏に広がる、共和制を布くイスラム国家の政体である。君主ではなく、人民が選出した代表が統治を行う共和制という概念を基調とするが、国法がイスラームの教えに基づく、もしくはシャリーア(イスラーム法)そのものを法として扱うなど、政治にイスラームが深く根付いた体制のことを指す。

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イランの国旗
1980年7月29日に制定された。国旗は、上から緑、白、赤の3色の横帯から成り、中央にイランの国章が描かれている。緑色はイスラム教を、白色は平和を、赤色は勇敢さを象徴している。白帯の上下には、「アッラーフ、アクバル」のフレーズが上に11、下に11、計22個書かれている。22の数字は、イラン暦の11月22日にイラン・イスラム革命が帝政を打倒したことから選ばれた。

■国名
公式の英語表記はIslamic Republic of Iran、通称Iran。日本語の表記は「イラン・イスラム共和国」、通称イランであり、漢字表記は伊蘭・義蘭を用いる。イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできたが、西洋では古代よりファールス州の古名「パールス」にちなみ「ペルシア」として、中国では「波斯」として知られた。


1.面積:1,648,195平方キロメートル(日本の約4.4倍)
2.人口:7,042.3万人(2006年10月)(イラン政府発表)
3.首都:テヘラン
4.民族:ペルシャ人(他にアゼリ系トルコ人、クルド人、アラブ人等)
5.言語:ペルシャ語、トルコ語、クルド語等
6.宗教:イスラム教(主にシーア派)、他にキリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教等
7.略史:アケネス朝ペルシャ(紀元前5世紀)、ササン朝ペルシャ(紀元3世紀)時代には大版図を築く。その後、アラブ、モンゴル、トルコ等の異民族支配を受けつつもペルシャ人としてのアイデンティティーを保持し、1925年にパフラヴィ(パーレビ)朝が成立。1979年、ホメイニ師の指導のもと成就したイスラム革命により現体制となる。イラン・イラク紛争(1980年〜1988年)及びホメイニ師逝去(1989年6月)後、1989年にハメネイ大統領が最高指導者に選出され、ラフサンジャニ政権(2期8年)、ハタミ政権(2期8年)を経て、2005年8月にアフマディネジャード政権が発足。来年6月、次期大統領選挙が実施予定。

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■主要産業:石油関連産業

■主要貿易品目(1)輸出 原油(2)輸入 機械、車両、鉄鋼


イラン・リヤル
Iranian rial、ISO 4217 code IRR)とは、イランの法定通貨である。補助単位はディナールで、1リヤル=100ディナールであるが、インフレーション進行により、現在は流通していない。


イランの経済
政府は歳入を石油に依存する状況からの脱却をめざし、自動車製造業、航空宇宙産業、家電製造業、石油化学工業、核技術など、他分野への投資をおこない産業の多角化を試みている。またイランは鉱業、観光業、情報通信技術産業分野で大きな潜在的可能性をもつ。

混合経済
mixed economy)とは計画経済と市場経済の混合システムである。自由放任の政治経済の思想に対し、多くの国営企業が市場に参入したり、政府が経済政策などを通したりして社会経済に多くの影響力を行使するものである。


イラン革命
イラン・パフラヴィー朝において1979年2月に起こった革命である。亡命中であったルーホッラー・ホメイニーを精神的指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者たちを支柱とする国民の革命勢力が、モハンマド・レザー・シャーの専制に反対して、政権を奪取した事件を中心とする政治的・社会的変動をさす。民主主義革命であると同時に、イスラム化を求める反動的回帰でもあった。

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イラン立憲革命
1906年から1911年にかけてイランで発生した革命。ガージャール朝専制に反対 し憲法と議会の獲得と維持を主要な目標とし、国内の広範な集団を糾合した運動と、これを巡る一連の政治変動を指す。なお、イラン革命は1979年のイラン・イスラーム革命を指す語として定着しつつあるが、1980年ころまでは立憲革命を指した。

白色革命
White Revolutionは、イランの第2代国王(シャーハンシャー)モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)が、1963年にイランの近代化、西欧化を提唱して発動した広範囲にわたる改革の総称である。白色革命は上(つまり王の命令)からの革命を意味するが、その強引な手法は、旧来の伝統を色濃く残していた当時のイラン社会に大混乱をもたらした。

イラン・イラク戦争
イランとイラクが国境をめぐって行った戦争で、1980年9月22日に始まり1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦を迎えた。この戦争は、数次に渡る中東戦争、湾岸戦争などと並んで中東地域の不安定さを示す材料であるとされる。中東における不安定要因は、ユダヤ教のイスラエルとイスラム諸国の対立という図式で考えられることも多いが、この戦争はイスラム教内のシーア派とスンナ派の歴史的対立や、アラブとペルシアの歴史的な対立の構図を現代に復活させたことに於いて、非常に興味深い事件であるといえる。また、イスラム革命に対する周辺国と欧米の干渉戦争と捉えることもできる。

イスラム革命防衛隊
イランの軍隊のひとつ。
1979年のイラン・イスラム革命後、旧帝政への忠誠心が未だ残っていると政権側から疑念を抱かれた従来の正規軍であるイラン・イスラム共和国軍への平衡力として創設されたイラン・イスラム共和国の軍事組織。

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監督者評議会
イラン・イスラーム共和国において憲法に定められた上院にあたる機能をもつ会議。憲法の規定によれば、監督者評議会はイスラーム法学者6名および一般法学者6名のあわせて12名から構成される。前者6名のイスラーム法学者は「現況の必要と問題に意識を持つ者」が最高指導者によって指名され、後者6名の一般法学者は「他の(イスラーム法以外の)法学分野に熟達した法律家を司法権長が指名し、その中からマジュレス(国会)が選出」する。

イランの国際関係
イランの外交政策は1979年のイラン・イスラーム革命以降、アーヤトッラー・ホメイニー体制のもと、欧米との関係を中心にモハンマド・レザー・シャー期のそれから劇的に変化した。しかし革命後の初期は理念的・強硬な外交政策が追求されたものの、イラン・イラク戦争を経て、現実的・合理的な外交政策がとられるようになっている。

イランの核開発問題
イランは医療用アンソトープの生産を行うテヘラン原子炉の稼働の為、20%高濃縮ウランの自国製造を進めている。欧米などの孤立化政策に対してイランは反発している。一方でトルコ、ブラジル、ベネズエラ、キューバ、エジプトなどはイランの平和的核エネルギー開発を支持している。

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専門家会議
イランの最高指導者を選出するムジュタヒド86名から構成される合議体であり、また同時に最高指導者の活動を監察する。議員の任期は8年で、普通直接選挙によって選出される。イラン・イスラーム共和国憲法によれば、専門家会議は最高指導者の監督、罷免、選出を担当する。最高指導者はイスラーム的学識、公正、敬虔、政治的社会的見識、分別、勇気、行政能力、十分な指導力などの資格を満たす者を選出しなければならない。


イラン・イスラーム共和国における人権
国連総会や国連人権委員会がイランにおける人権侵害に対して、出版された評価やいくつかの解決策の中で非難してきたにもかかわらず、イランの人権活動家や多くの作家、そして NGO が人権の侵害を訴えて続けている。


イランの最高指導者
イランの国家元首。原語に近い発音をカタカナ表記してラフバルともいう。イスラム共和制の理念に基づき、高位のイスラム聖職者から選ばれる。最高指導者は、ルーホッラー・ホメイニーの唱えた「法学者による統治論」(ヴェラーヤテ・ファギーフ)を具現化したものである。すなわち、イスラム共和制のイランはシーア派教徒の共同体であり、そこでは救世主が出現するまでの間、シャリーアの最高解釈者が「神(アッラーフ)の意思に従う」というかたちで国家を指導する責務を負う。


■映画
イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932)だった。イラン革命以前のパフレヴィー2世に治世下ではハリウッド映画やインド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。

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サーデグ・ヘダーヤト
Sadegh Hedayat、1903年2月17日 - 1951年4月9日は、イランの小説家・翻訳者。イラン現代文学の偉大な人物の一人とみなされている。1925年にヨーロッパへの留学生として選ばれた。はじめはベルギーで工学を学び、数年後に建築を学ぶためにフランスへと移ったが、後に建築を断念し、歯科に変更した。この時期にヘダーヤトはテレーズというパリの女性との恋愛を経験した。1927年にマルヌ川での入水自殺を試みるが、釣り船に救出された。その後もフランスとベルギーで4年間暮らしたが、結局学位を得ることもなく学業はあきらめて、1930年に母国へと戻った。その後ヘダーヤトは生涯、西洋文学やイランの歴史・民話を研究した。ライナー・マリア・リルケ、エドガー・アラン・ポー、フランツ・カフカ、アントン・チェーホフやギー・ド・モーパッサンなどを最も好んだ。

パルヴィーン・エーテサーミー
Parvin E'tesami 、1906年3月16日 - 1941年4月5日は、イラン立憲革命後の女流現代詩人。タブリーズの名家に生まれる。イランでは10世紀のラービア・グズダーリー、12世紀のマフサティー、19世紀のクッラトル・アインと並ぶ20世紀における最大の女流詩人として、ペルシア4大女流詩人の一人に数えられている。

ハーフェズ
フワージャ・シャムスッディーン・ムハンマド・イブン・ムハンマド・ハーフェズ・シーラーズィー1325年 - 1389年)は、イランの詩人。生年は1326年、没年は1390年という説もある。ハーフェズの存在は、その抒情詩とともに、ペルシア語圏では知らない人はいない「聖なる存在」として人々の生活に深く根付いている。ハーフェズの詩についてゲーテは「ハーフェズの詩を理解するには 魂まで一汗かく必要がある」と語ったという。恋と酒と自然の美などを主題とした作品が多く、民衆に広く愛され、現代でも「コーランなくとも各家庭にはハーフェズ詩集あり」とまで言われている。

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■音楽
クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家として『ペルセポリス交響曲』などイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレ・オッセンや、指揮者であり、ペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダー・ラハバリらの名が特筆される。


アンドレ・オッセン
Aminoullah Andre Hossein、1905年 - 1983年8月9日は、イランの新ロマン主義音楽の作曲家、タール奏者。サマルカンド生まれ。母はタジク人で、父はアゼルバイジャンからイランに移住した人だった。イランで数年間過ごした後、学問の研究のために国を離れた。最初にロシアに留学し、さらにドイツのシュトゥットガルト音楽学校に出席し、1934年から1937年にかけてベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)で学んだ。そしてパリ国立高等音楽・舞踊学校のポール=アントワーヌ・ヴィダルに個人的に師事し、パリで後半生を過ごすこととなった。

アレクサンダー・ラハバリ
Alexander Rahbariの名で世界的に著名なイラン出身の指揮者。作曲家としても活動している。イラン国立音楽院でヴァイオリンと作曲を学ぶ。17歳で、恩師ホセイン・デフラヴィーの指揮する芸術省管弦楽団の首席ヴァイオリニストに選ばれる。国立音楽院を卒業後、イラン文化芸術省より奨学金を得てオーストリアに留学。ウィーン音楽アカデミーでゴットフリート・フォン・アイネム、ハンス・スワロフスキー、カール・エスターライヒャーらに師事。1979年は、招かれてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮、生涯でもっとも重大な転機となる。1980年にザルツブルク音楽祭では、ヘルベルト・フォン・カラヤンの助手を務めた。

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■映画
イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによる『ロルの娘』(1932)だった。イラン革命以前のパフレヴィー2世に治世下ではハリウッド映画やインド映画が流入した一方で、『ジュヌーベ・シャフル』(1958)で白色革命下の矛盾を描いたファッルーフ・ガッファリーや、『牛』(1969)でヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。現代の著名な映画監督として、『ホームワーク』、『友だちのうちはどこ?』のアッバース・キヤーロスタミー(アッバス・キアロスタミ)とモフセン・マフマルバーフ、『駆ける少年』のアミール・ナーデリー、『風の絨毯』のキャマール・タブリーズィー、『ハーフェズ ペルシャの詩』のアボルファズル・ジャリリなどの名が挙げられる。


アッバス・キアロスタミ
Abbas Kiarostami, 1940年6月22日 - はイランの映画監督・脚本家・写真家。テヘランに生まれ、テヘラン大学芸術学部で学んだ。1970年より映画監督の道に入り、現代イラン映画を代表する多くの作品を撮影。1997年には『桜桃の味』でカンヌ国際映画祭・パルム・ドールを、1999年には『風が吹くまま』でヴェネツィア国際映画祭・審査員賞などを受賞した他、映画祭での受賞作品は数多い。

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アボルファズル・ジャリリ
1957年6月29日 - は、イランの映画監督。1970年頃 - 13歳で、自作の絵や書を売り生計を立てる。1979年 - IRIB(イラン・イスラム共和国放送)に入社。短編ドキュメンタリーなどを手がけ、独自の手法を確立していく。1987年 - 『かさぶた』が批評家の注目を集める。1992年 - 『ダンス・オブ・ダスト』が国内外を問わず、上映禁止となる。1995年 - 『7本のキャンドル』がヴェネツィア国際映画祭で金のオゼッラ賞受賞。1996年 - 『トゥルー・ストーリー』がナント三大陸映画祭でグランプリを獲得。1998年 - 『ダンス・オブ・ダスト』の上映が解禁される。

マジッド・マジディ
1959年4月17日 - はイラン・テヘラン出身の俳優・映画監督。モフセン・マフマルバフの映画『ボイコット』に出演し、映画界に入るきっかけを得る。『運動靴と赤い金魚』が1997年のモントリオール世界映画祭でグランプリを受賞。『すずめの唄』(The Song of Sparrows) が2008年度アカデミー賞外国語映画部門のイラン代表に選ばれた。公式サイトhttp://www.cinemajidi.com/

モフセン・マフマルバフ
Mohsen Makhmalbaf, 1957年5月29日 - はイランのテヘラン出身の映画監督・脚本家・映画プロデューサーである。10代半ばでイスラム主義に傾倒し、15歳で当時の体制を倒すための地下活動に参加し逮捕され、17歳より4年半獄中生活を送る。1979年にイラン革命が起きて短期間で出所。釈放後は政治から遠ざかり、作家となり1982年より映画監督としても活躍。イランでも最も人気のある監督の1人。

ハナ・マフマルバフ
Hana Makhmalbaf, 1988年9月3日 - は、イラン・テヘラン出身の映画監督。映画監督のモフセン・マフマルバフの娘としてテヘランに生まれる。姉のサミラ・マフマルバフも後に映画監督となる。ハナも幼少のころから映画に浸りきって育ち、父モフセンや姉サミラ、義母のマルズィエ・メシュキニのスクリプターや撮影技師として働いた。

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ショーレ・アグダシュルー
Shohreh Aghdashloo, 1952年5月12日 - は、イランの女優。テヘラン出身。主に舞台で活動。中東出身の俳優として初めてアカデミー賞候補となった人物である。20歳の時、舞台役者としてキャリアをスタート。着実に俳優としての成長を続けた彼女は、25歳のときに出演したアッバス・キアロスタミ監督の『Gozaresh』の演技により、モスクワ映画祭の批評家賞に輝く。そして、1978年の『Sooteh-Delan』の演技において、彼女はイラン全土を代表する女優の1人としての地位を確立することとなる。

モナ・マフムードニジャード
(1965年6月18日 - 1983年) はイラン出身のバハーイー教徒である。彼女はバハーイー教徒であるという理由により、他の9人のバハーイー教徒の女性とともに死刑を宣告され、シラーズで絞首刑に処された。モナ・マフムードニジャードは子供たちにバハーイー教に関する授業を行った件で逮捕され、追及された。イラン政府は彼女と他の逮捕された女性たちに、彼女たちの宗教を捨てるよう拷問を加えて要求した。 しかし彼女たちが棄教を拒否すると、死刑が宣告された。彼女たちへの判決に対しては、当時のアメリカ大統領であったレーガンが寛大な判決を出すよう要請していたが、しかし彼女たちは1983年の6月18日に絞首刑に処された。

マンスール・バーラミ
Mansour Bahrami, 1956年4月26日 - は、イラン・アラーク出身の男子プロテニス選手。当地が生んだ最高のテニス選手で、1989年の全仏オープン男子ダブルス準優勝者になった人である。彼はイランの選手という困難な境遇もあり、大規模なトーナメントの出場機会に恵まれなかったが、現役選手時代は“コートの魔術師”と呼ばれた。バーラミはイランの貧しい家庭で育ち、テニスのボールボーイ(球拾い)の仕事がきっかけでこのスポーツに親しみ始めた。彼には自分のラケットを買うお金もなかったため、家のフライパンを回したり、ごみ箱を漁って自分でラケットを作りながら、独学でテニスを覚えたという。後にプロ選手として見せた華麗な技術は、このような創意工夫から生まれたものである。

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ロトフィ・ザデー
Lotfi Asker Zadeh, 1921年2月4日 - はアゼルバイジャン・バクー生まれの情報工学者。ファジィ理論の提唱者。イランで育ち、アルボルズ・ハイスクール、テヘラン大学で学ぶ。1946年にMITより電気工学修士号を、1949年にコロンビア大学より同じく電気工学の博士号を取得。1949年から1959年までコロンビア大学で教え、1957年に教授に昇格した。1959年から1992年までカリフォルニア大学バークレー校教授。

アーレフ・ガズヴィーニー
Abolqassem Aref Qazvini, 1880年 − 1933年1月21日)は作家でありイランの国民詩人。またペルシア伝統音楽の作曲家であり歌手でもあった。1880年ガズヴィーン生まれ。13歳から音楽をHaji Sadeq Kharraziに師事する。声が美しいことで評判になり若くして賞賛を集め、かなり若い時から作曲も始めている。イスタンブールのDar Al Alhanにて学ぶ。イランに戻り、当初は音楽学校を設立するつもりでいたが、当時の状況によりその希望は実現されることはなかった。1906年から1911年のイラン立憲革命が始まるにつれ自由主義派に加わり、彼の歌と楽曲は多くの支持を集めた。

モッラー・サドラー
(年1572−1640年)はイランのシーア派イスラーム哲学者、神学者、ウラマー。17世紀イランの文化的ルネサンスを主導した。イスラーム哲学・ユダヤ哲学・東洋哲学を研究しているオリヴァー・リーマンによれば、モッラー・サドラーは最近の四世紀間では最も重要で影響力のある哲学者だと言えるという。モッラー・サドラーによれば、「実存は本質に優先する。そのため何かあるものは本質を獲得する以前に存在しなければならないので、実存こそが第一のものである。」

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ファーテメ・バラガーニー
1814-20年 - 1852年8月31日はイランの著名詩人でバーブ教神学者。バハーイー教徒、アザリー派双方から優れたバーブ教徒の一人として崇敬を受け、しばしばバハーイー文学で女性の権利を求める戦いの中で示された勇気の例として言及される。処刑の際に出生記録は抹消されたため、生年月日はよくわかっていない。

アリ・ダエイ
1969年3月21日 - )は、イラン出身の元サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。イランスポーツ界の英雄的存在であると共に1990年代のアジアを代表する名ストライカー。149試合に出場した国際Aマッチにおける通算109得点は世界記録である。アゼルバイジャン国境近くの町アルダビールに生まれ、少年時はディフェンダーとしてもプレー。フォワードへ専念後1993年6月6日にイラン代表デビューを果たすと、1994年アメリカワールドカップ予選や1996年アジアカップ(得点王)において活躍

レザ・ホセイニー
Seyed Reza Hosseini Nassab、1960年 - )は、イランのシーア派ウラマー。位階は大アーヤトッラー。ヤズド生まれ。現在はカナダ在住で、現地のシーア派のリーダーを務めている。

モハマドレザ・ミルザエイ
(Mohammadreza Mirzaei、1986年 - )は、数ある世界の若い写真家の中でも、才能あふれるイラン人写真家の一人として知られている。彼は、15歳のとき、テヘランのIRIBアートスクールで、グラフィックデザインを学び、写真の歴史、現代的な表現技法の感性を迅速に習得した。ミルザエイの写真は、生活のの中の異なった局面を鮮やかに再現している。

シャフナーズ・パフラヴィー
1940年10月27日 テヘラン - )は、パフラヴィー朝イランの王女。最後のイラン皇帝モハンマド・レザー・シャーの長女で、現在のイラン皇帝家家長クロシュ・レザー・パフラヴィーの異母姉。1979年のイラン革命で家族と共に国外に脱出し、スイスに移住した。

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セイイェド・アリー・モハンマド
Seyyid Ali Muhammed、1819年10月20日 - 1850年7月9日)は、イスラーム教12シーア派の宗教改革者、後にバーブ教の開祖、預言者となる。バーブ教を引き継いだバハーイー教でも預言者、開祖ホセイン=アリーの師として崇敬されている。

グイティー・ノーヴィン
(Guity Novin, 1944年 - )は、イラン生まれのカナダの画家。現在はブリティッシュコロンビア州バンクーバーに在住。トランスプレッシュニズム(Transpressionism)と呼ばれる芸術運動の創始者である。

アブドッラ・モバヘッド
Abdollah Movahed、1940年3月20日 - ) は、イランのレスリング選手。メキシコシティオリンピックレスリングフリースタイル70キロ級の金メダリスト。世界選手権5度優勝。2004年に国際レスリング連盟の殿堂入りに選出された。マーザンダラーン州バーボルサル出身。

マーハン・カリミ・ナセリ
1988年8月8日以来フランスのシャルル・ド・ゴール空港の出発ロビーで生活をしていたことで知られる、イラン国籍の難民。メフラーン・ナーセリーは1942年、イランの南西フーゼスターン州のマスジェデ・ソレイマーンで、アングロ・ペルシアン石油会社に勤めるイラン人の医師の子として誕生した。よく「15年以上ずっと空港に滞在しつづけた」と語られるが、彼が空港にやってきてから15年余りの間に、空港内でのアルバイトで貯めた資金でチケットを買い、ロンドンまで飛行機で赴いた事や(ただし、ビザがないためイギリス当局に入国を拒否されシャルル・ド・ゴール空港へ強制送還された)空港の制限区域内から無断で出たためにフランス当局に拘束され刑務所に一時収監されたりと、空港の敷地外に出たことも何度かある。

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