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インドネシア共和国
Republic of Indonesia
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■地理
インドネシアとその周辺では、ユーラシアプレートやオーストラリアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートなどがせめぎあっており、環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部を構成している。全土に無数と言っていい数の火山があり、クラカタウ大噴火に代表されるように古くから住民を脅かすと共に土壌の肥沃化に役立ってきた。スマトラ島のクリンチ火山が最高峰(3805m)である。スメル山はジャワ島の最高峰(3676m)で、世界で最も活動している火山の一つである。 また、地震も多く2004年のスマトラ島沖地震、及び2006年のジャワ島中部地震は甚大な被害を与えた。
■オランダ東インド会社
Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOCは、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。
■スマトラ島
Pulau Sumatera)はインドネシア共和国、大スンダ列島に属する島。マラッカ海峡に臨み東西交通の要衝であるため、古代からシュリーヴィジャヤ王国などの諸王朝が興った。古くはヒンドゥー教、仏教が優勢だったが、14世紀初めからイスラム勢力が進出した。
■ジャワ島
Javaは、インドネシアを構成する島の一つ。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。首都ジャカルタが存在する。人口は約1億2400万人で、インドネシア一のみならず、世界第一位の人口を有する島である。人口密度も981人/km2と高い。
■バリ島
Pulau Baliは、東南アジアのインドネシア共和国に属する島で、首都ジャカルタのあるジャワ島のすぐ東側に位置する。周辺の諸島と共に、第一級地方自治体 (Daerah Tingkat I) であるバリ州を構成し、2010年の人口は約389万人である。バリ島の面積は5,633km2。島の北部を東西に火山脈が走り、バリ・ヒンドゥーにおいて信仰の山とされるアグン山(標高 3,142 m)やキンタマーニ高原で知られるバトゥール山(標高 1,717 m)など多くの火山を有している。1930年代のバリは「バリ・ルネッサンス」の時代を迎え、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴン、ケチャ等)、絵画の様式が確立することとなった。この中心にいたのは、ウブドの領主であるチョコルダ・スカワティ一族に招待されたドイツ人の画家で音楽家であるヴァルター・シュピースである。
■ロンボク島
(Pulau Lombok) は、インドネシア中部の小スンダ列島に属し、バリ島の東隣にある島である。人口約270万人、行政区分は西ヌサ・トゥンガラ州。ロンボク島の北部にはリンジャニ山 (3726 m) がそびえ、南麓には広いサバンナが展開している。
■ニューギニア島
Nuginiは、太平洋南部に位置する島であり、インドネシアとパプアニューギニア、この2カ国の領土である。面積は約77万km2で日本の国土の約2倍の大きさである。世界の島の中では、グリーンランドに次ぐ面積第2位の島であり 、大陸を含めても8番目に広い陸塊である。
■マラッカ海峡
Strait of Malacca、は、マレー半島とスマトラ島(インドネシア)を隔てる海峡。南東端で接続しているシンガポール海峡と併せて太平洋(南シナ海)とインド洋(アンダマン海)を結ぶ主要航路の一つとなっている。年間の通過船舶数は5万隻を超え、タンカー・コンテナ船など経済的に重要な物資を運ぶ大型貨物船が海峡を行きかう。経済的・戦略的に見て、スエズ運河・パナマ運河・ホルムズ海峡と並び世界のシーレーンの中でも最重要な場所である。
■セレベス海
(Celebes Sea)は、フィリピン南部ミンダナオ島、インドネシアのカリマンタン島、スラウェシ島に囲まれた海である。海は6,200mもの深さに達する。南北に675km、東西に837km、総表面積は280,000km2である。カリマンタン島とスラウェシ島の間のマカッサル海峡でジャワ海につながる。
■ジャワ海
(Java Sea)はインドネシア・スマトラ南東部、ジャワ島、小スンダ列島西部、ボルネオ南部(カリマンタン)等に囲まれる東西に細長い海。深度は一般的に浅く、大部分は50m以下。カリマタ海峡を通じて南シナ海とスンダ海峡を通じて、インド洋と通じており、東はフロレス海に繋がる。
■トミニ湾
トミニ湾はインドネシア・スラウェシ島北部にある湾。本島とミナハサ半島に囲まれた湾であり、東に開けモルッカ海と結ばれている。東西約300km、南北約150kmの広さを持つ、湾口の幅は約70kmであり、湾奥の方が広い。湾内の南部にはトギアン諸島がある。湾岸の主要な町として、北岸にゴロンタロ、南西岸にポソがある。
■スラウェシ島
Sulawesiは、インドネシア中部にある島。植民地時代はセレベス(英語:Celebes)島と呼ばれたが、インドネシア独立後は一般的にはスラウェシ島と呼ばれる。
■アンボン島
Ambon Islandはインドネシア東部にある島。バンダ海の北側に位置し、セラム島の南西に位置する。モルッカ諸島の一部であり、面積は775平方キロメートル。火山島でもあり、最高所の標高は1,225m。東西方向に長い陸地が二つ並び結ばれた形状をしており、島の長さ約50kmに対し、約2kmの地峡で二つの陸地が結ばれている。
■トギアン諸島
(Togian Islands)はインドネシアにある諸島。スラウェシ島北部のトミニ湾南部にあり56個の島からなる。行政面には中部スラウェシ州に属する。火山活動によって形成された島である。赤道直下の熱帯気候に位置するため、植生は熱帯雨林で覆われている。海岸ではウミガメなどが観察される。
■サモシール島
(Samosir,Pulau Samosir) はインドネシア・スマトラ島北部のカルデラ湖であるトバ湖に浮かぶ火山島である。面積は約630km2。湖と共に約7万5,000年程前に起きた巨大火山(スーパーボルケーノ)の噴火によって誕生した。サモシール島は風光明媚な観光スポットとして人気がある。
■テルナテ島
Ternate)はインドネシアのモルッカ諸島にある島である。ハルマヘラ島の西海岸沖合10kmにあり、面積は106km2。人口は95,921人(2002年)。中心都市はテルナテで島の東海岸にある。テルナテ島は丁子の数少ない産地として知られ、ヨーロッパ人が到達する以前から中国人やマレー人の商人が訪れていた。現在まで48代続くスルタンの家系は13世紀にマレー人によって建国されたといわれている。
■モロタイ島
(Morotai Island)は東インドネシア・モルッカ諸島(マルク諸島とも)の島の一つ。ハルマヘラ島の北に位置し面積1,800km2。北マルク州の一部であり、インドネシアの最も北寄りの島の1つである。15世紀から16世紀にかけて、モロタイ島はイスラム教のテルナテ王国(Ternate)の勢力圏下にあった。16世紀なかば、この島にポルトガルのイエズス会が進出した。テルナテとハルマヘラのイスラム教国家の人々は、改宗活動のための移住に憤り、1571年に島から宣教師たちを追放した。
■コモド島
(Pulau Komodo) は、インドネシアの小スンダ列島にある島である。近隣の大きな島は西のスンバワ島と東のフローレス島で、行政的には東ヌサ・トゥンガラ州に属する。野生のコモドオオトカゲが生息することで特に知られており、ダイビングでも人気がある。
■クラカタウ
Krakatoaとは、インドネシアのジャワ島とスマトラ島の中間、スンダ海峡にある火山島の総称であり、ランプン州に属する。全体がウジュン・クロン国立公園の一部である。535年の大規模な噴火はインドネシアの文明に歴史的な断絶を引き起こし、世界各地に異常気象をもたらした。1927年、ラカタ島北部(旧ダナン付近)の海中で噴火が始まり、火山島アナク・クラカタウ(インドネシア語版)(クラカタウの息子)が誕生した。現在も噴火活動を続けており、21世紀初頭には海抜400m以上になっている。
■トバ湖
Danau Tobaは、インドネシアのスマトラ島北部にある世界最大のカルデラ湖である。長さ100km、幅は約30km、最大水深530mで、面積は1,000km2に及ぶ。湖中にあるサモシール島は湖面からの比高が450mある火山性のドーム(再生ドーム)である。
■カプアス川
インドネシアの西カリマンタン州を流れる川である。全長約1,143 kmでインドネシア最長であり、ボルネオ西部の主要な河川である。また、島の川としては世界最長である。
■ソロ川
(Bengawan solo、Bengawanはジャワ語で大河の意)は、インドネシアのジャワ島中部ジャワ州、東ジャワ州を流れる全長の約540kmのジャワ島最長の河川である。その水流は、ジャワ島の東部および北部地域の農地を潤している。また流域は、ジャワ原人の化石が発見された場所であり、ガルーダインドネシア航空421便の事故現場でもある。
■ムシ川
インドネシアのスマトラ島南部を流れる川。全長はおよそ750kmであり、流域は南スマトラ州の大部分を占める。州都パレンバンを通過した後、Banyuasin川などと合流して、スンサン付近でデルタを作り海に注ぐ。
■シナブン山
Mount Sinabungは、インドネシア北スマトラ州カロ県のブラスタギ近郊にある活火山である。標高2,460m。2010年8月27日頃から噴煙が観測されていたが、同年8月29日未明、410年ぶりに噴火。噴火口から噴煙と火山灰が約1,500mの高さに上昇したことが観測された。
■ムラピ山
Gunung Merapi)は、インドネシアジャワ島中央部の火山である。インドネシアでも最も活動的な火山で、ほぼ1年中噴煙を上げ、1548年以来68回噴火をしている。名称は「火の山」の意味。メラピ山とも書かれる。スマトラ島中部にも同名の火山がある。1006年死者数千人、1672年死者3、000人、1872年4月(VEI4)死者1,400人、1930年(VEI3)死者1,300人、1966年死者64人、1994年には60人が犠牲になっている。
■トラジャ族
(Toraja)は、インドネシアのスラウェシ島にある南スラウェシ州および西スラウェシ州の山間地帯に住むマレー系の先住少数民族。総人口約65万人のうち約45万人はタナ・トラジャ県(「トラジャの地」の意)に居住している。彼らは、その特徴的な家屋や壮大な死葬儀式だけでなく、コーヒーのブランドにも使われる民族名からも知られている。
■ブギス族
(Bugis)はインドネシアのセレベス島南西に居住する民族。現地のブギス語ではウギ(Ugi)と呼称される。同島南端のマカッサル族とは言語的・文化的な親和関係にあり、包括してブギス・マカッサル族とも呼称される。
■バタック人
(Batak) は、主にインドネシアのスマトラ島北部の高地に居住している民族集団である。 メダンの西に位置するトバ湖を故郷としている。 バタック人は、その言語や習慣に関連性はあるが、いくつかの異なるグループに分けられる。
■ササク人
(Sasak) は、主にインドネシアのロンボク島に住む民族。バリ・ササク諸語のうちササク語を使う。歴史的にロンボク島は、18世紀にバリ島の王国により支配を受け、さらにオランダによる植民地が続き、ササク人の多くは現在も非常に貧しい生活をしている。
■ミナンカバウ人
Suku Minangkabau、あるいは、ミナン人やパダン人の名前でも知られている)とは、インドネシア・西スマトラ州の高地に住んでいる民族集団である。ミナンカバウ人は母系社会として有名であり、財産や土地は、母から娘に相続される。いっぽう、宗教的儀式や政治の中心を担うのは、一部で女性が重要な役割を果たすとはいえ、男性が中心となって行われている。西スマトラ州を中心に400万人が居住していると考えられているが、300万人以上が、インドネシアやマレーシア半島部の都市に居住している。
■スンダ語
Bahasa Sundaはインドネシアのジャワ島で話されている言語である。オーストロネシア語族のマラヨ・ポリネシア語派の西語群に属する。話者は2700万人でインドネシアの人口の15%に当る。
■ジャワ原人
ウジェーヌ・デュボワが1891年にオランダ領であったインドネシアジャワ島トリニールで発見した化石人類に対する通称である。2012年現在はヒト属に変更され、Homo erectus(ホモ・エレクトス)の亜種の一つ Homo erectus erectus(ホモ・エレクトス・エレクトス)となっている。
■シュリーヴィジャヤ王国
Kerajaan Sriwijaya/Srivijaya、スリウィジャヤ)はインドネシアやマレー半島、フィリピンに大きな影響を与えたスマトラ島のマレー系海上交易国家。漢文では「室利仏逝」と音訳表記される。王国の起源ははっきりしないが、7世紀にはマラッカ海峡を支配して東西貿易で重要な位置をしめるようになった。
■クディリ王国
Kerajaan Kediri)、クディリ朝(-ちょう)とは、10世紀初頭まで続いた古マタラム王国以後、13世紀のシンガサリ朝以前にインドネシアのジャワ島東部に繁栄していたヒンドゥー教を奉ずる古代王朝。
■シンガサリ王国
Kerajaan Singhasariは、1222年にケン・アンロク(ラージャサ)によってクディリ王国(クディリ朝)をたおして建国され、1292年にクディリ王家の末裔と考えられるジャヤカトワンによって滅ぼされるまでジャワ東部を本拠に栄えたインドネシアの王朝。ラージャサ王朝とも呼ばれることもある。
■マジャパヒト王国
Kerajaan Majapahit は13世紀末から16世紀始め頃までジャワ島中東部を中心に栄えたインドネシア最後のヒンドゥー教王国。最盛期にはインドネシア諸島全域とマレー半島まで勢力下に置いたとの説がある一方、実際にはジャワ島中東部を支配したにすぎないとする説もある。
■ジョホール王国
ジョホール・リアウ・リンガ(Johor-Riau-Lingga)、公式にはジョホール帝国(ジョホールていこく、英語: Johor Empire))は1528年に成立したマレー半島南部を本拠とする港市国家で、マラッカ海峡両岸(現在のマレーシア、シンガポールおよびインドネシア)におよぶ海上帝国を築いた。
■ヒンドゥー教
Hinduism、ヒンズー教は、インドやネパールで多数派を占める民族宗教である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて世界で第3番目の宗教である。「ヒンドゥー」の語源は、サンスクリット語でインダス川を意味する「スィンドゥ」が、古代ペルシアで「ヒンドフ」に転訛したもの。ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。三神一体(トリムルティ)とよばれる近世の教義では、中心となる3大神、すなわちブラフマー:宇宙の創造を司る神、ヴィシュヌ:宇宙の維持を司る神、シヴァ:宇宙の寿命が尽きた時に世界の破壊を司る神、は一体をなすとされている。
<世界遺産>
■ ウジュン・クロン国立公園
開発の進むジャワ島において貴重な生物の棲息地帯でもある。絶滅が危惧されているジャワサイやバンテン(野生牛)、カニクイザル、インドクジャクなどの生息地である。
■ コモド国立公園
コモド国立公園自体は173.5km2の面積を有する。小スンダ列島に位置し、世界最大のトカゲであるコモドオオトカゲが棲息していることで有名である。
■ プランバナン寺院遺跡群
プランバナン寺院群はヒンドゥー教の遺跡としてはインドネシア最大級で、仏教遺跡のボロブドゥール寺院遺跡群と共にジャワの建築の最高傑作の一つとされる。
■ サンギラン初期人類遺跡
サンギランは、ジャワ島の東側中央辺りにある町ソロの近くにある。1936年の発掘調査で、ジャワ原人の頭蓋骨、歯、大腿骨の化石が発見された。
■ ロレンツ国立公園
ロレンツ国立公園はインドネシアのイリアンジャヤ州(ニューギニア島西部)に位置する。未開の地と言われどのような種が住んでいるか未だにすべて確認されていない。
■ ボロブドゥル寺院遺跡群
ボロブドゥール遺跡は、中部ジャワの中心都市ジョグジャカルタの北西約42kmに所在し、巨大なムラピ火山に囲まれた平原の中央に立地する。遺跡総面積はおよそ1.5万m2。高さはもともと42mあったが、現在は破損して33.5mになっている。ボロブドゥールは、寺院として人びとに信仰されてきた建造物であるが、内部空間を持たないのが際だった特徴となっている。最も下に一辺約120mの基壇があり、その上に5層の方形壇、さらにその上に3層の円形壇があり、全体で9層の階段ピラミッド状の構造となっている。この構造は、仏教の三界をあらわしているとされる。
■ スマトラの熱帯雨林遺産
スマトラの熱帯雨林遺産は東南アジア独特の種や、ここでしか見られない種などを抱える非常に大きな国立公園群である。スマトラ島の生物の進化を伝える跡も残る。
<歴史>
■王国時代
のちにインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は、紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。
■オランダ統治開始
16世紀になると香辛料貿易の利を求めてポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航し、17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。
■独立運動
オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識がめばえた。ジャワ島では、1908年にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上をはかる活動に取り組んだ(その設立日である5月20日が「民族覚醒の日」と定められている)。
■大日本帝国軍政
オランダの植民地支配が1942年の日本軍の東インド一帯への侵攻によって瓦解し、東インドは日本陸軍の今村均中将率いる軍政下に置かれ、台湾支配のノウハウをインドネシアに応用した。
■独立
1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し、念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日、ジャカルタのプガンサアン・ティムール通り56番地で独立を宣言した(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)。しかし、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。
■スカルノ時代
オランダからの独立後、インドネシアは憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた(1955年に初の議会総選挙を実施)。1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。スカルノの「指導される民主主義」は、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。
■スハルト時代
1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復、スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru) 」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。
■ハビビ政権
1998年、アジア通貨危機に端を発するインドネシア経済崩壊のなかでスハルト政権は崩壊、インドネシアは民主化の時代を迎えて今日に至っている。スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。
■メガワティ政権・ユドヨノ政権
闘争民主党のメガワティ政権が発足した。現在は、2004年4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代ユドヨノが2009年に60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にある。
■バリ・ヒンドゥー
バリ・ヒンドゥーとは、バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教が習合した信仰体系であり、バリの人びとの90%以上がこれにしたがった生活を送っている。
■カヤンガン・ティガ
カヤンガン・ティガ(バリ語:Kahyangan Tiga)とは、バリ島の村(デサ)ごとにみられる三寺院の総称である。バリ人の方位観にしたがって、プラ・プセー、プラ・デサはデサの山側(カジャ)の聖なる場所に、プラ・ダルムはデサの海側(クロッド)の穢れた場所に建てられている。この寺院の配置によって、デサ・アダットは三界の構造をもつ小宇宙として表象されているのである。
■バリ語
バリ語は、インドネシア・バリ島で使用されている言語である。およそ、インドネシアの人口の2.1%にあたる380万人の話者を持つ。ジャワ島でも使われている。Matur suksma マトゥール・スクスマ - ありがとうございます。Rahajeng semeng ラハジャン・スマン - おはようございます。Rahajeng wengi ラハジャン・ウンギ - こんばんは。Omswasti asutu オムスワスティアストゥ - 幸運を(身分を気にせず誰にでも使用できる無難な挨拶)
■ワヤン・クリ
Wayang Kulitとは、インドネシアのジャワ島やバリ島で行われる、人形を用いた伝統的な影絵芝居、またそれに使われる操り人形のことである。人形を操る人をダランと呼ぶ。芝居はヒンズー寺院での祭りなどで行われ、インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などが主な演目である。白いスクリーンを貼り、その裏から、石油ランプを当てる。間にワヤン・クリの人形を置いて、芝居を行う。観客は石油ランプや人形の反対側から鑑賞する。人形は牛の皮で出来ており、部分的に細かく穴がうがってある。これにより、人や動物の形は単に全体が陰なのでなく、体の各部分の輪郭も表される。
■ネカ美術館
バリ島のウブド地区の北西のサンギンガンにある美術館で、著名な絵画コレクターのステジャ・ネカによって建設され、1976年に開館した。カマサンスタイル、バトゥアンスタイル、ウブドスタイルなどの伝統的なバリ絵画を集めた展示館やバリ島在住のオランダ人アリー・スミットの作品を集めた展示館、現代インドネシア絵画を集めた展示館などが中庭の休憩所を取り囲むように配置されている。
■クタイ王国
Kerajaan Kutaiは、5世紀初め頃、カリマンタン島東部、マハカム川下流のクタイ周辺に栄えたヒンドゥー王国。クタイ王国の様子については、ムアラカマン遺跡から出土したユパと呼ばれる7つの石柱碑文で知られる。クタイの王であるムーラヴァルマンが動物などの犠牲を捧げた儀式を記念して建てたこれらの碑文は、主としてサンスクリット語で刻まれた。なお、勅令(ピアグム)などを石の記念碑(プラサスティ)に刻むという習慣はインドネシア独特のものであり、「巨石伝統」と呼ばれ現在も形を変えて続いている。
■タルマヌガラ王国
Kerajaan Tarumanagaraは、インドネシア、ジャワ島西部のボゴール付近に5世紀初頭頃に栄えたヒンドゥー王国。タルマ国(タールマ国)とも呼ばれる。スンダ海峡の東岸に位置しているので、その交通路を支配してその交易の利によって繁栄したと推定される。タルマヌガラ王国について刻んだプラサスティ(石碑)は、7つ知られており、5つはボゴール周辺のチャルトゥン、クボンコピ、ジャンプ、パシルアゥイ、ムアラ・チアンテンで発見されている。
■スハルト
Haji Muhammad Soeharto 1921年6月8日 - 2008年1月27日はインドネシアの軍人、政治家。第2代大統領(1968年 - 1998年)。30年以上在任し、開発独裁政権として同国の工業化を推し進めたが、アジア通貨危機後の政治不安、社会不安を沈静化できず、大統領職を辞任した。植民地(オランダ領東インド)時代のインドネシアの中部ジャワ州、ジョグジャカルタ近郊の農村、ゴデアン村に生まれる。父親は村の水利役人、母親はジョグジャカルタのスルタン夫人の遠縁にあたる女性だった。
■ユスフ・ハビビ
(Bacharuddin Jusuf Habibie, 1936年6月25日 - )は、インドネシアの技術者、政治家である。スハルト政権末期の副大統領を務め、スハルト辞任後、同国の第3代大統領に昇格し、翌年まで務めた(在任1998年-1999年)。政治家になる前はドイツの航空機メーカー・メッサーシュミットの副社長を務めていた。スラウェシ島(南スラウェシ州パレパレ)出身。幼少の頃、当時南スラウェシ派遣軍司令官としてスラウェシ島に赴任していたスハルトの知遇を得る。
■アブドゥルラフマン・ワヒド
(Abdurrahman Wahid, 1940年9月7日 - 2009年12月30日)は、インドネシアの宗教指導者、政治家である。スハルト政権時代、インドネシア最大のイスラーム組織ナフダトゥル・ウラマー(NU)議長をつとめ、同政権崩壊後は、国民覚醒党(PKB)を創設、同国の第4代大統領に就任した(在任期間1999年10月20日 - 2001年7月23日)。1940年、東ジャワ州ジョンバン生まれ。祖父は1926年にナフダトゥル・ウラマー(NU)を創設したハシム・アシュアリとビスリ・シャンスリ、父は独立インドネシアの初代宗教大臣をつとめたワヒド・ハシムという、高名なイスラーム指導者(ウラマー)の家系に生まれる。
■ガジャ・マダ
(Gadjah Mada/Gajah Mada、?−1364年)は、14世紀のジャワ島にあったマジャパヒト朝の宰相を務めた人物。ハヤム・ウルク王を補佐して王国の全盛期を築いた。初めは禁軍の1将校に過ぎなかったが、1319年に当時のジャヤナガラ王の危機を救ったことから地方の知事に抜擢されて治績を挙げた。1331年にサデン人の反乱を鎮圧したのを機に中央に召されて宰相に就任した。1342年にバリ島を征服したほか、周辺地域を次々と征服し、南海諸王朝の歴史の中で最大の版図を築いた。名宰相の誉れ高く、現在のインドネシアには彼の名を取ったガジャ・マダ大学が存在する。
■クリフォード・ギアツ
Clifford Geertz, 1926年8月23日 - 2006年10月30日は、アメリカ合衆国の文化人類学者。マックス・ウェーバーおよびタルコット・パーソンズの社会学による行為と意味の概念、アルフレッド・シュッツの現象学的社会学などに拠りつつ,象徴解釈学的、意味論的人類学を築きあげ、人類学のみならず、広く社会科学全般に大きな影響を及ぼした。また、インドネシア、バリ島をフィールドとして、『ジャワの宗教』から『ヌガラ――19世紀バリの劇場国家』まで数多くの著作を生み、「インボリューション」論、「劇場国家」論などを展開し、第三世界を扱う政治学・経済学等の分野にまで広く影響を与えた。
■ウィリアム・ペン・デュボア
(William Pene du Bois、1916年5月19日 - 1993年2月5日)はアメリカ合衆国の児童文学作家である。代表作は1947年の長編『二十一の気球』(Twenty-One Balloons)。第二次世界大戦では1941年から陸軍に入って従軍した。戦後も活動を続け、クラカタウの火山大噴火と気球を絡めたスチームパンク的長編『二十一の気球』(1947年)でニューベリー賞を受賞した。
■ウジェーヌ・デュボワ
(Marie Eugene Francois Thomas Dubois, 1858年1月28日 - 1940年12月16日) はオランダの解剖学者、人類学者。オランダ南東部リンブルフ州エイスデン (Eijsden) に生まれる。デュボアは軍医として当時蘭領であったインドネシアに渡り、1891年にジャワ島トリニールで、原始人類(猿人)の頭蓋骨、顎骨、頚骨、2本の臼歯、左大腿骨の化石を発見、ピテカントロプス・エレクトゥス(「直立歩行ができる猿人」の意、ジャワ原人)と名づけた。
■デヴィ・スカルノ
(Dewi Sukarno、1940年(昭和15年)2月6日 - )は、日本生まれでインドネシア国籍のタレント。インドネシアのスカルノ元大統領第3夫人。NPO法人アースエイドソサエティ総裁。株式会社デヴィーナ・ソサエティ代表取締役。本名・インドネシア名:ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(Ratna Sari Dewi Sukarno)、旧名・日本名:根本 七保子(ねもと なおこ)、通称はデヴィ夫人。
■アイルランガ王
インドネシア、ジャワ島に繁栄したクディリ王国(イサナ朝)の君主で、初代ムブ・シンドク王の孫、マクサワンサワルダナの娘のマヘンドラダッタとバリ王ウダヤナの間に生まれた。義父ダルマヴァンシャ王(位991年 - 1016年)が彼の結婚式に、地方領主の一人ウラウリ王の反乱によって殺害されたことを機にイサナ朝の王国再建と東部ジャワの再統一を志すことになる。
■コルネリス・ファン・フォレンホーフェン
(Cornelis van Vollenhoven, 1874年5月8日 - 1933年4月29日)は、オランダの法学者。ライデン・アダット法学派(ライデン学派)の確立者として知られる。インドネシア各地のアダットは、それまでも研究者の注目を浴びていたが、彼によって初めて学問的に体系化された。1918年に大著『オランダ領東インドの慣習法』第1巻が完成し、それまでのオランダ植民地政庁が推し進めていた法体系の一元化、西欧化の再検討とともにアダットの多様性を認めるよう主張。
■スカルノ
(Sukarno、旧正書法ではSoekarno、1901年6月6日 - 1970年6月21日)は、インドネシアの植民地時代(オランダ領東インド時代)から民族主義運動、独立運動において大きな足跡を残した政治家である。Sukarnoでフルネーム。独立宣言後、同国の初代大統領となり、雄弁な演説とカリスマ性によって、大衆の民族意識を鼓舞した。1965年の「9月30日事件」によって失脚した後は不遇の晩年を送ったが、いまなお国民には「ブン・カルノ」(カルノ兄さん)と呼ばれ、国父(建国の父)として敬意をもって愛され続けており、現在再び紙幣(最高額面の10万ルピア)に肖像が使われている。
■タウフィック・ヒダヤット
(Taufik Hidayat、1981年8月10日 - )は、インドネシアの男子バドミントン選手。バンドン生まれ。2005年に出場したアナハイム世界選手権では、五輪後に幾つものトーナメントで優勝していたランキング1位の林丹を決勝で下して初優勝。男子シングルスの選手として初めてオリンピックと世界選手権の両タイトルを獲得した選手となった。マレーシアのリー・チョンウェイ選手との親交が深く、2011年3月11日に日本で発生した震災と津波の被災者のためにリー・チョンウェイ選手が開催したチャリティー・イベントにも積極的に協力している。
■ダルマヴァンシャ王
Dharmawangsa)は、インドネシア、ジャワ島に繁栄したクディリ王国(イサナ朝)の君主(位991年〜1016年)で、初代のムプ=シンドク王からは曾孫にあたる。孫にあたるマクサワンサワルダナの娘でバリ王ウダヤナに嫁いだマヘンドラダッタの兄弟かあるいは姉妹の夫、つまりマクサワンサワルダナの義理の息子と考えられている。
■メガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ
(Diah Permata Megawati Setiawati Sukarnoputri、1947年1月23日 - )は、インドネシアの政治家である。同国の第5代大統領(2001年7月23日 - 2004年10月20日)。所属政党はインドネシア闘争民主党。初代大統領スカルノと第一夫人ファトマワティの長女として、中部ジャワのジョグジャカルタに生まれる。幼少期は大統領宮殿で過ごしていた。
■タン・マラカ
Tan Malaka, 1987年 - 1949年2月19日は、オランダ領東インド期から独立革命期にかけてのインドネシアで活動した革命家である。草創期のインドネシア共産党を牽引し、共産主義とイスラームの両立と、東南アジア全体からオーストラリアの熱帯部までを含む広域的な社会主義共同体「アスリア(Aslia)」を構想するなど、そのスケールの大きな独自の革命思想は、インドネシアの近現代史において異彩を放っている。
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インドネシア共和国 Indonesia
東南アジア南部に位置する共和制国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ。5,110kmと東西に非常に長く、また世界最多の島嶼を抱える国である。赤道をまたがる1万8,110もの大小の島により構成されるが、この島の数は人工衛星の画像から判別したものであり、正確な島の数はインドネシア政府すら把握していない
■ジャカルタ
Jakartaはインドネシアの首都であり同国最大の都市。2010年の近郊を含む都市的地域の人口は2,200万人であり、世界第2位である[1]。世界屈指のメガシティであり、東南アジア有数の世界都市でもある。東南アジア諸国連合 (ASEAN) の事務局を抱える。ジャカルタはもともと、16世紀はじめまで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町、スンダ・クラパ (Sunda Kelapa) として発展した。
■ジョグジャカルタ特別州
Daerah Istimewa Yogyakarta)はインドネシア共和国ジャワ島中部南岸に位置する州。州都はジョグジャカルタ市。
■ジョグジャカルタ市
Yogya、 Jogjakarta)は、インドネシアのジョグジャカルタ特別州の州都。ジョグジャカルタ市は、伝統的なジャワ美術の中心地で、バティック、ラーマヤナバレエ、ドラマ、音楽、詩、ワヤン・クリ(人形の影絵芝居)などの文化があることで有名。
■マリオボロ通り
インドネシア語:Jalan Malioboro、ジャランは通りと意)はインドネシアのジョグジャカルタ市の繁華街である。ジョグジャカルタ最大の観光地区で、レストランとホテルが多く立ち並ぶ。昼間は通りの両側の歩道で観光客の目当てに様々な物売りが露店を開く。暗くなると、地面にマット広げた屋台の「レセハン」が現れ、グドゥッなどのジョグジャカルタ伝統料理を売る。
■スカルノハッタ国際空港
Jakarta International Soekarno-Hatta Airportは、インドネシアの首都のジャカルタ郊外のバンテン州タンゲランにある国際空港である。1985年4月に開港。名称は、同国の「独立宣言書」に署名した初代大統領スカルノと同副大統領モハマッド・ハッタの名からとられた。
■ポロニア国際空港
Polonia International Airportとは、インドネシアのスマトラ島の東北部に位置するメダンにある国際空港。
■フセイン・サストラネガラ空港
Husein Sastranegara Airportは、インドネシアのジャワ島、西ジャワ州の州都バンドンにある空港である。
■アジスチプト国際空港
Bandar Udara Adi Sutjipto、英語: Adisucipto International Airport)は、インドネシア、ジャワ島の中部南岸のジョグジャカルタ特別州にある国際空港である。
■デンパサール国際空港
Denpasar International Airport、は、インドネシアのバリ島デンパサール付近にある国際空港である。
■ロンボク国際空港
(Bandar Udara Internasional Lombok, Lombok International Airport)は、インドネシアの西ヌサ・トゥンガラ州ロンボク島にある国際空港。
外務省:インドネシア
在インドネシア日本国大使館
■バンドン工科大学
Institut Teknologi Bandung, ITBはインドネシアにある理工系の国立大学。今日、インドネシアにおける最も優れた理工系大学と評価されるようになっている。国立大学に入学するには統一大学入学試験を受けて合格するか、高校卒業時の全国試験結果に基づく推薦を受けなくてはならない。
■アイルランガ大学
Airlangga Universityは、東ジャワ州スラバヤ市東スラバヤ区に本部を置くインドネシアの国立大学である。1954年に設置された。
■インドネシア大学
Universitas Indonesiaは、Depokに本部を置くインドネシアの国立大学である。1950年に設置された。12の学部を持つ総合大学。
■ガジャ・マダ大学
Universitas Gadjah Madaは、ジョグジャカルタに本部を置くインドネシアの国立大学である。1949年に設置された。1949年に設置されたインドネシアのジョグジャカルタにある国立大学。18の学部を持つ総合大学。校名はマジャパヒト朝の宰相を務めたガジャ・マダに由来している。
■ボゴール農科大学
Institut Pertanian Bogorは、Darmagaに本部を置くインドネシアの国立大学である。1963年9月一日に設置された。
■バンダ・アチェ
Kota Banda Aceh)はインドネシア共和国のスマトラ島北端に位置するアチェ州の州都であり、最大の都市である。人口約35万人。 バンダ・アチェのバンダはペルシャ語のバンダール(Bandar)、港に由来する。
■デンパサール
Kota Denpasar は、インドネシアの都市であり、「北(デン)の市場(パサール)」という意味である。旧名はバドゥン。バリ島の南部に位置し、バリ州の州都。
■スマラン
Kota Semarangは、インドネシアの中部ジャワ州の州都である。 人口約139万人(2003年)。 インドネシアの五大都市の一つとされる。
■スラバヤ
Kota Surabayaはインドネシア第2の都市であり、東ジャワ州の州都である。ジャワ島北岸のマス川河口に位置する。人口約300万人。天然の良港タンジュン・ペラック港を中心に、オランダ植民地時代から貿易の中心として栄えた。 現在はインドネシア最大の港湾で、最大の軍港である。
■マカッサル
Kota Makassarは、インドネシアの都市。旧名はウジュン・パンダン(Ujung Pandang)。スラウェシ島の南部に位置し、南スラウェシ州の州都である。街は南スラウェシの主要な港で、定期的な国内および国際的な輸送路を有している。 定期的な長距離配送のためのピニシ船 (Pinisi boat) を呼ぶ重要港として国内では知られている。
■マナド
Kota Manadoは、インドネシアのスラウェシ島のミナハサ半島最北端に位置する、北スラウェシ州の州都である。マカッサルに次ぐスラウェシ島第二の都市である。マナド湾の沖、8kmにブナケン島があり、世界中のダイバー憧れのダイビングスポットである。
■パダン
Kota Padangは、インドネシア、西スマトラ州の州都であり最大の都市である。Samudra 通りから Puruih までの間にあるパダンビーチ (Taplau / Tapi Lauik) は、美しい日没と数百の食べ物屋台によって知られている。パダンの南にある Bungus 湾は水泳とボートに適している。
■ポンティアナック
Kota Pontianakは、インドネシア・カリマンタン島に位置する西カリマンタン州の州都。カプアス川のデルタ地帯にあり、面積は107.82 km2。赤道直下の都市では最大で、緯度0度のモニュメントが建っている。
■バンジャルマシン
(Banjarmasin)は、インドネシアの南カリマンタン州の州都である。バリト川とマルタプラ川の合流地点近く、三角州の島にあり、"川の都市"という愛称がある。時に、「バンジェルマシン」とも呼ばれた。
■パレンバン
Kota Palembangはインドネシアのスマトラ島の南側にある都市。南スマトラ州の州都である。この都市はかつてはシュリーヴィジャヤという仏教徒の王国の一部で古代の首都だったが、1025年にインド南部のチョーラ朝からの海賊の襲撃を受けたことによって次第に勢力を失っていった。オランダ統治時代、当地で石油資源が発見され油田開発が行われた。パレンバン油田での1年間の産油量は当時の日本の年間石油消費量を上回るほどであったため、太平洋戦争における蘭印作戦では日本軍の最重要攻略目標となった。
■バンドン
Kota Bandungは、インドネシアのジャワ島西部にある都市(市)である。西ジャワ州の州都であり、また、インドネシアでジャワ人に次いで人口の多い種族であるスンダ人が生活し、スンダ語が話される「スンダ地方」の中心地である。
■メダン
Kota Medan)は、インドネシア・スマトラ島東北部に位置する都市である。北スマトラ州の州都であり、かつ、デリ・セルダン県の県庁所在地となっている。スマトラ島最大の都市で、人口規模からいえば、ジャカルタ(首都)、スラバヤ(東ジャワ)、バンドゥン(西ジャワ)に次ぎ、インドネシア第四の都市である。面積265km2、人口約210万人。
■プカンバル
(Pekanbaru)は、インドネシアのスマトラ島中部リアウ州の都市である。リアウ州の州都である。マラッカ海峡に注ぐシアク川の岸辺に位置し、忙しい海峡へ直接アクセスでき、貿易港として知られてきた。都市の名前は、インドネシア語で"新しい市場"または"新しい町"の意味である。
■タンジュン・ピナン
Tanjung Pinang、または、Tanjungpinangは、インドネシアのリアウ諸島州における最大の都市であり首府である。人口は約19万人である。リアウ諸島の交易港である。ビンタン島に位置し、バタン、シンガポールやジョホールバルとフェリーやスピードボートで往来できる。
■マタラム
Kota Mataramは、インドネシアのロンボク島にある都市。西ヌサ・トゥンガラ州の州都であり、州で最大の都市である。マタラム市は、アンペナン、マタラム、チャクラヌガラのそれぞれ異なった3地区から成り立っている。アンペナンは広く、空港周辺にある中規模の古い港町で、国立マタラム大学(1963年創立)がある。
■サマリンダ
(Samarinda)は、インドネシアのボルネオ島の東カリマンタン州に位置し、同州の最大の都市で、州都でもある。マハカム川の岸辺に位置する。人口579,933人(2004年2月6日)、面積718平方キロメートル。
■ゴロンタロ
Kota Gorontalo)は、インドネシアのミナハサ半島の中央にあるゴロンタロ州の州都。トミニ湾に面する。面積64.79 km2 で人口は約200,000人。イスラム教徒が95%を占める。
■ジャヤプラ
Kota Jayapuraは、インドネシア共和国パプア州の州都。ニューギニア島中北部にある。太平洋戦争中には激戦地となった。1944年当時、ここは旧日本軍の拠点で一時は陸海軍計約14,000人の兵士がいた。
■アンボン
Kota Ambon)は、インドネシア・アンボン島の主要都市。港湾都市であり、西に開けた入り江の南岸にある。インドネシア東部の最大の都市の一つで、マルク州の州都でもある。人口は275,888 人(1990年)。
■ゴルカル
(Golkar)は、インドネシアの政治団体、政党である。立党原則を、パンチャシラ(建国5原則)と1945年憲法に置いている。なお「ゴルカル」は「ゴロンガン・カルヤ Golongan Karya」(職能集団)の略称である。旧スハルト政権下で実施された総選挙では圧倒的な得票率をあげて勝利し、同政権を支える「与党」として機能してきた。ただし、「政党とゴルカルについての法律(1975年)」及び「同改正法(1978年)」(以後、一括して「政党・ゴルカル法」と略)は、ゴルカルを政党ではなく「職能団体」であると規定していた。
■インドネシア民主党
Partai Demokrasi Indonesiaは、インドネシアの政党である。スハルト体制期に存続を許されていた2野党のうちの一つ。政党のシンボルカラーは赤、シンボルマークは野牛。略称はPDI。以下、本論ではPDIと略す。
■闘争民主党
Partai Demokrasi Indonesia-Perjuanganは、インドネシアの政党である。自由主義に立脚した中道左派。インドネシアの初代大統領スカルノの娘であり、インドネシア第5代大統領となったメガワティ・スカルノプトリを領袖とする政党である。政党のシンボルカラーは赤、シンボルマークは牡の闘牛。略称はPDI-P。
■ナフダトゥル・ウラマー
(Nahdlatul Ulama、略称NU)とは、インドネシアのイスラーム系組織である。オランダ領東インド時代の1926年、東部ジャワのスラバヤで、ウラマーたちを中心に、ヒッタ(Khittah、闘争の基本的方針などの意味)を定めて創設された。名称は、インドネシア語で、「ウラマーの復興」を意味する。
■インドネシア独立戦争
1945年 - 1949年)は、日本が第二次世界大戦で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)。4年5ヶ月の戦争で80万人が犠牲になった。
■郷土防衛義勇軍
Tentara Pembela Tanah Air、略称PETA「ペタ」)とは、太平洋戦争期、1943年10月、日本軍政下におかれた東インド(現在のインドネシア)のジャワで、民族軍として結成された軍事組織である。同様の組織は、バリ島、スマトラ島にも結成された。日本の敗戦後、1945年8月19日付で解散されたが、この郷土防衛義勇軍出身のインドネシア人が、その後のオランダとの独立戦争(インドネシア独立戦争)で、インドネシア側の武装勢力で中心的な役割を担った。
■国名
正式名称は Republik Indonesia (インドネシア語: レプブリク・インドネシア)、略称は RI(インドネシア語: エル・イー)。国名インドネシア(Indonesia)のネシア(nesia)は諸島を意味する接尾辞。ギリシャ語で島を意味するネソス (nesos) の複数形ネシオイ (nesioi) に由来する。1920年代に定着した。
1.面積:約189万平方キロメートル(日本の約5倍)
2.人口:約2.38億人(2010年政府推計)
3.首都:ジャカルタ(人口959万人:2010年政府推計)
4.民族:大半がマレー系(ジャワ、スンダ等27種族に大別)
5.言語:インドネシア語
6.宗教:イスラム教 88.6%、キリスト教 8.9%(プロテスタント 5.8%、カトリック 3.1%)、ヒンズー教 1.7%、仏教 0.6%、儒教 0.1%、その他 0.1%(インドネシア中央統計局統計)
7.貿易品目(1)輸出 石油・ガス(17.8%)、鉱物性燃料(11.9%)、動物・植物油(10.3%)(2)輸入 石油・ガス(20.2%)、一般機械機器(14.8%)、機械・電機部品(11.5%)(2010年、インドネシア政府統計)
7世紀後半〜 スマトラに仏教国スリウィジャヤ王国が勃興。
8世紀 中部ジャワに、仏教国シャイレンドラ王朝が興り、ボロブドゥール等の有名な仏跡を残す。
13世紀 イスラム文化・イスラム教の渡来。北スマトラのアチェ地方に最初のイスラム小王国が現れる。ジャワにマジャパイト王国が勃興し、ジャワ以外にも勢力を伸長。
1596年 オランダの商船隊、西部ジャワのバンテン港に渡来。
1602年 オランダ、ジャワに東インド会社を設立。
1799年 オランダ、東インド会社を解散、インドネシアを直接統治下におく。
1942年 日本軍による占領(〜1945年)。
1945年 8月17日、スカルノ及びハッタがインドネシアの独立を宣言。スカルノが初代大統領に選出。オランダとの間で独立戦争(〜1949年)。
1949年 ハーグ協定によりオランダがインドネシアの独立を承認。
1955年 バンドンで「アジア・アフリカ会議」開催。
1965年 軍部と共産党との緊張の高まりを背景に「9月30日事件」が発生。翌1966年3月11日、スカルノ大統領は権限をスハルトに一部委譲。
1968年 スハルト大統領就任(第2代大統領)。
1998年 アジア通貨危機をきっかけに、ジャカルタを中心に全国で暴動が発生。民主化運動も拡大し、スハルト大統領は辞任。ハビビ大統領就任(第3代大統領)。
1999年 住民投票により東ティモールの独立が決定。
ワヒッド大統領就任(第4代大統領)。
2001年 メガワティ大統領就任(第5代大統領)。
2004年 国民による初の直接投票によりユドヨノが大統領に選出。ユドヨノ大統領就任(第6代大統領)。
2005年 ヘルシンキ和平合意(独立アチェ運動(GAM)との和平成立)。
2009年 ユドヨノ大統領再任。
■ルピア
(Rupiah)は、インドネシアで使用されている通貨。ISO 4217の通貨コードはIDRである。補助通貨はセン。1ルピアは100センである。ルピアという名前は、インドの通貨のルピーから来ている。
■国是
インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」というスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、20世紀初頭からはじまった民族主義運動の歴史の中で、さまざまな民族主義者たちによって鍛え上げられてきた。
■アダット
(adat)とは、インドネシア、マレーシア、ブルネイなどで慣習、慣行、慣習法を意味するインドネシア語およびマレーシア語。アダットの内容は地域ごとに非常に異なるが、大きな意味では「慣習」ないし「慣行」と訳すことができる。その地の住人にとって「常識」的なニュアンスが強いが、慣習、掟、文化的価値観、組織制度などが基となっており、超自然的な力に対する畏怖や祖先崇拝なども含まれている。アダットを初めて研究対象としたのは、20世紀初頭のオランダ・ライデン大学の法学者・ファン・フォレンホーフェンである。
■経済
IMFによると、2010年のインドネシアのGDPは6950億ドル(約60兆円)であり、世界第18位である。インドネシアは基本的に農業国である。農林業ではカカオ、キャッサバ、キャベツ、ココナッツ、米、コーヒー豆、サツマイモ、大豆、タバコ、茶、天然ゴム、トウモロコシ、パイナップル、バナナ、落花生の生産量が多い。
■人口
2004年の人口は2億3,845万人で世界第4位。2050年の推計人口は約3億人。全国民の半分以上がジャワ島に集中しているため、比較的人口の希薄なスマトラ島、カリマンタン島、スラウェシ島に住民を移住させるトランスミグラシと呼ばれる人口移住政策を行ってきた。
■民族
大多数がマレー系で、彼らがインドネシア人の直系の祖先であり、原マレー人と新マレー人の2種類に分けられる。原マレー人は、紀元前1500年頃に渡来した。原マレー人は先住民よりも高度な文化を持っていた。しかし、後から来た新マレー人によって追われていくが、ダヤック人、トラジャ人、バタック人として子孫が生存している。
■言語
公用語はインドネシア語であり、インドネシアの国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。
■宗教
インドネシアは憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているものの、これはイスラム教を国教としているという意味ではない。インドネシアは多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。
■アルクトドロ教
東南アジア、インドネシア、スラウェシ島の中南部の高地に住むトラジャ族(トラジャ人)の伝統宗教あるいは民間信仰。精霊崇拝とも言われる。天にいる最高神の下、大地や水牛など崇拝対象ごとに神がいる。
■文化
インドネシアの宗教・文化は島ごとに特色をもつが、日本ではバリ島のガムランなどのインドネシアの音楽や舞踊が知られる。またワヤン・クリと呼ばれる影絵芝居や、バティックと呼ばれるろうけつ染めも有名である。ガムランとは、青銅製の大小の銅鑼、鉄琴などのアンサンブルである。インドネシア国内ではジャワ島・バリ島のものが特に有名であるが、類似のアンサンブルは東南アジア全域に分布している。
■インドネシア文化
インドネシア文化は土着の習慣に外国からの影響を受けて長年の間に発展した。インドネシアは東アジアと中東を結ぶ古代通商航路の要衝であり、長い間の文化交流の結果、ヒンドゥ教、仏教、儒教、イスラム教などの強い影響を受けた文化がうまれた。元々の土着文化とは全く異なる複雑な文化が生まれた。
■インドネシアの音楽
インドネシアの伝統的な音楽において、その特徴の1つを挙げるとすれば、銅鑼や鉄琴といった楽器類を使用することであろう。ガムランとは、青銅製の大小の銅鑼、鉄琴などのアンサンブルである。インドネシア国内ではジャワ島・バリ島のものが特に有名であるが、類似のアンサンブルは東南アジア全域に分布している。
■ガムラン
gamelanとは、東南アジアのインドネシアで行なわれている大・中・小のさまざまな銅鑼や鍵盤打楽器による合奏の民族音楽の総称である。広義では、インドネシア周辺のマレーシア、フィリピン南部スールー諸島などの地域の類似の音楽をも含める場合がある。 欧米や日本などでは、ガムラン音楽、Gamelan music などとも呼ばれる。
■インドネシアの声
Voice of Indonesia)はインドネシアの公共ラジオ放送局であるRRI(en:Radio Republik Indonesia)が運営する国際放送サービス。略称はVOI。
■インドネシア料理
インドネシアの多民族文化を反映し、バリ料理、ジャワ料理、スンダ料理、マカサル料理、マナド料理、パダン料理、バタク料理などの各民族の料理を包含する。日本でよく知られているナシゴレンの他、インドネシアで発想された料理、サテ(sate)やルンダン(rendang)、サンバル(sambal)などはマレーシアやシンガポールでも知られている。
■グスティ・ングラライ
Gusti Ngurah Rai、1917年1月30日 - 1946年11月20日は、バリ州バドゥン県のインドネシア独立戦争の英雄。インドネシア独立戦争では、バリ島においてゲリラ戦術で8ヶ月間戦い抜いたが物資や武器を使い果したため、ウァグニン警察司令官が率いてタバナン県のオランダ軍補充部隊の兵舎を襲撃して成功を収めた。しかし、その数日後にングラライの率いる部隊は、オランダ軍と遭遇し、オランダとバドゥン県マルガの戦闘で、人民治安部隊を率い96名が降伏勧告を拒否し壮絶に戦って玉砕(バリではププタンという)した。この時、ングラライがオランダ軍に送った返答文書の最後には「Merdeka atau mati!(自由か死か)」と書かれていた。
■グスティ・ニョマン・レンパッド
Gusti Nyoman Sudara Lempad、1862年 - 1978年4月24日は、インドネシアバリ島の画家。ウブド近郊の村に生まれ、ウブドのスカワティ王家に彫刻士として仕える。文盲であったが幼少より芸術性に富み、絵を死ぬまで描き続けた。彼は叙事詩ラーマヤナやバリ民話をモチーフにした作品を描いた。彼の作品には独特の緻密な線描画が多い。彼は絵に対して実利を求めずファンに対しては快く気持ちで接し作品を渡したりした。
■プラムディヤ・アナンタ・トゥール
Pramoedya Ananta Toer, 1925年2月6日 - 2006年4月30日は、インドネシアの小説家である。スハルト政権下では同国の9月30日事件に関与したとして長く流刑生活を余儀なくされたが、同政権の崩壊後に釈放された。執筆活動の再開を期待されたが、2006年に死去した。オランダ領東インド時代の中部ジャワのブロラの生まれで、学校教師の父親、敬虔なムスリムの母親のあいだに、9人兄弟の長男として生まれた。その後、次々と小説を発表するが、1965年の9月30日事件後、インドネシア共産党(PKI)との関係を疑われたため、政治犯の烙印を押され、流刑の島・ブル島に送られた。文明社会から隔絶された流刑生活は10年以上に及んだが、創作意欲は衰えず、同国文学史上の最高傑作ともされる大河歴史小説「ブル島4部作 The Buru Quartet 」(『人間の大地』など)を完成させた。
■ユディスティラ・ANM・マサルディ
Yudhistira ANM Massardi, 1954年 - はインドネシアの作家。1954年2月28日、西部ジャワのスバン生まれ。初等教育を終えると家族とともに古都ジョグジャカルタに移り、そこで創作活動を始めた。成人するとジャカルタにてジャーナリストとして働きはじめ、その傍らで詩・戯曲・小説などの創作活動を続ける。
■ヤティ・マルヤティ・ウィハルジャ
Yati Maryati Wiharja、1943年5月31日 - 1985年5月4日はインドネシアの作家。チアミスのスカジャディ村の出身。高等学校の学生時代に新聞に寄稿をはじめ、卒業後はスンダ語の雑誌に小説を発表し、やがてインドネシア語での創作をはじめる。37冊の作品を発表し、長篇第1作『鏡のごとく清らかな』は映画化をされた。日本語に訳された長篇『ニ・ポロック』では、バリ島に実在したレゴンの踊り手の生涯を自伝風に描いている。
■クリス・ジョン
Chris John、男性、1979年9月14日 - は、インドネシアのプロボクサー。現WBA世界フェザー級スーパー王者。本名はヨハネス・クリスチャン・ジョン(Yohannes Christian John)。バンジャルネガラ出身。右ボクサーファイター。インドネシアでは少数派のクリスチャンに属する。インドネシア3人目の同国世界王者(過去に2人IBFの世界王者がいる)。インドネシア初のWBA世界王者。体が柔らかく相手に芯を打たせない戦い方をする。“The Dragon(ザ・ドラゴン)”、“The Indonesian Thin Man(細身のインドネシア人)”などの異名を持つ。元散打選手。
■モハマッド・ハッタ
Mohammad Hatta、1902年8月12日 - 1980年3月14日は、インドネシア共和国の初代副大統領(1945年-1956年)である。初代大統領となったスカルノとともに、インドネシアの民族主義運動、独立運動において主導的役割を果たした。その一方でスカルノとは出自、性格、信条においてきわめて対照的であり、スカルノの鋭い批判者でもあった。幼時よりイスラーム塾でクルアーンの暗誦を学ぶとともに現地のオランダ人子弟のための初等学校にも通い、オランダ語での教育を受けた。その後、西スマトラの中心都市パダンの普通中学校へ進み、さらに首都バタヴィア(現在のジャカルタ)で中等商業学校へと進んだ。
■スシロ・バンバン・ユドヨノ
Susilo Bambang Yudhoyono、1949年9月9日 - は、インドネシアの政治家、軍人(退役陸軍大将)である。2004年10月20日から大統領。頭文字を取り、SBYとして知られる。1949年、東ジャワパチタン生まれ。1973年、陸軍士官学校を首席で卒業。米国滞在中にウェブスター大学に学び、経営学修士号(MBA)を取得。
陸軍では、戦略予備軍の旅団長、地方軍管区司令官、国軍司令官副官などを歴任。1995年-1996年には国連軍ボスニア・ヘルツェゴビナ停戦監視団で主席軍事オブザーバーも務めた。
■モハマッド・ユスフ・カラ
(Muhammad Jusuf Kalla, 1942年5月15日 - ) は、インドネシアの政治家、実業家である。インドネシアの第10代副大統領で、ほぼ同時期にゴルカル党首も務めた。2009年、副大統領の任期満了を前に、次期正副大統領選挙には大統領候補として出馬。大統領選第1回投票で3位に終わったため落選した。1942年5月15日、南スラウェシのワタンポネに生まれる。父親は地元実業家のハジ・カラ。母親は生計のために伝統のブギス様式の絹織物を販売していた。カラは17人の子供のうち、2番目に生まれた子供だった。
■アルフレッド・ラッセル・ウォレス
Alfred Russel Wallace, 1823年1月8日 - 1913年11月7日は、イギリスの博物学者、生物学者、探検家、人類学者、地理学者。アマゾン川とマレー諸島を広範囲に実地探査して、インドネシアの動物の分布を二つの異なった地域に分ける分布境界線、ウォレス線を特定した。イギリスの社会経済の不平等に目を向け、人間活動の環境に対する影響を考えた初期の学者の一人でもあり、講演や著作を通じて幅広く活動した。インドネシアとマレーシアにおける探検と発見の記録は『マレー諸島』として出版され、19世紀の科学探検書としてもっとも影響力と人気がある一冊だった。
■アブ・バカル・バシル
Abu Bakar Ba'asyirは、インドネシア生まれのアラブ人(ハドラミー)活動家で、インドネシア・ムジャヒディン評議会の指導者。東南アジアのイスラム過激派組織ジェマ・イスラミアの精神的指導者であるともされているが、バシル本人は関係を否定している。日本の報道ではバシル師とも呼称される。
■ヤユク・バスキ
(Yayuk Basuki, 1970年11月30日 - )は、インドネシア・ジョグジャカルタ出身の元女子プロテニス選手。長年にわたり、当地でテニスの開拓者として活動してきた名選手である。芝生コートを最も得意とし、ウィンブルドンで抜群の好成績を出してきた。WTAツアーでシングルス6勝、ダブルス9勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス19位、ダブルス9位。身長164cm、体重56kg、右利き。
■テディ・イップ
Theodore "Teddy" Yip、中国語名:葉徳利、1907年6月 - 2003年7月)は、インドネシア(生誕当時はオランダ領であった)生まれの東南アジア有数の大富豪で実業家、フォーミュラ1チームのオーナーでレーシングドライバーでもある。国籍はオランダとインドネシアの両方を持っていた。1907年に、当時オランダの植民地であったスマトラ島のメダンにて裕福な華僑の家庭に生まれ、大学時代に宗主国のオランダに留学した。
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