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カンボジア王国
Kingdom of Cambodia
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■地雷問題
カンボジア国内にはかつての内戦の影響でたくさんの地雷と不発弾が埋まっており、それらの場所の多くには危険標識が立てられているものの、カンボジアの子供達は母国語であるクメール語の文字が読めないために誤って危険地帯に入ってしまうという問題があった。そのためJMASなどの日本のボランティアでは、子供でも理解できるポスターを作ったり、わかりやすい地雷の標識を設置するなどの活動をしている。
■地理
この国の中心には国際河川の大河メコン川が流れ水運を担っている。このメコンデルタと支流のサープ川、トレンサップ湖を取り巻く平野部に人口の三分の一が居住している。 この国の中央付近にはトンレーサープと呼ばれる大きな湖があり、その北方にはクメール王朝の遺跡として世界的に有名なアンコール・ワットやアンコール・トムといったアンコール遺跡(1992年、世界遺産登録)が存在する。
■インドシナ半島
中国の南、インド亜大陸の東にある東南アジアの半島である。この地域はインドシナ (仏語:Indochine) と呼ばれ、インド (indo) と中国 (Chine) に挟まれている地理的特徴からフランスによって名付けられた。具体的には、ベトナム、ラオス、カンボジアの3ヶ国に加え、タイとミャンマー両国のマレー半島の部分を除く地域がインドシナと呼ばれる。
■南シナ海
中国、台湾、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアに囲まれた海域の名称。第二次世界大戦までは南支那海と表記した。2004年現在、日本の外務省の公式文書等では南シナ海と表記され、日本国内では一般化している。
■トンレサップ
カンボジアに位置する湖であり、河系と結びついている。東南アジア最大の湖であり、クメール語で巨大な淡水湖 (sap) と川 (tonle) という意味がある。一年のうちほとんどの期間、水深は1mに留まり、面積は2700平方kmしかない(このためプノンペンとシェムリアップを結ぶ定期船が暗礁に嵌りかける場面がよくある)。形状はひょうたん形である。世界最大の水上生活者がくらし、1ブロック1万人、100ブロック以上100万人が住む。
■メコン川
Mekong Riverは、東南アジアを流れる河川。チベット高原に源流を発し、中国の雲南省を通り、ミャンマー・ラオス国境、タイ・ラオス国境、カンボジア・ベトナムを通り南シナ海に抜ける。典型的な国際河川の一つで、数多くの支流がある。雨期には流量が増し、流れが速いため、船の運航は非常に難しい。乾期には流量は減るが、浅瀬が増えるため船舶の運航が難しくなる。
■タイランド湾
Gulf of Thailand、とは、太平洋南シナ海にある湾の一つで、タイ王国、カンボジア、ベトナム、マレーシアがその海岸線を有する。南東方向に開けた湾であり、最北地点チャオプラヤー川河口を最奥に、ベトナムのバイブン岬からマレーシアのコタバル結ぶ範囲となっている。
<歴史>
■1949年
フランスから独立後、ベトナム戦争が始まると国内は不安定化し、アメリカと南北ベトナムが介入し内戦状態となった。1968年には米軍の空爆が始まる。
■1970年
親米派のロン・ノル将軍のクーデターによりシハヌーク国王が追放され、クメール共和国が樹立された。1979年までに、旱魃、飢餓、虐殺などで200万人以上とも言われる死者が出た。 思想改革という名の元で、虐殺が行われた。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。
■1982年6月
カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンボジア連合政府を樹立した。人民革命党と反ベトナム三派の対立が継続する。
■1989年
ベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が結ばれた。1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国連監視の下で民主選挙が実施された。
■2009年12月18日
カンボジア特別法廷は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知した。法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の二人にも大虐殺罪適用を決定している。
■クメール語
オーストロアジア語族のモン・クメール語派に属する言語。カンボジア語とも呼ばれる。カンボジアでは、全人口の約9割を占めるクメール人(約1400万人)が話し、カンボジアの国語および公用語となっている。さらに、隣国タイ、ベトナム、ラオスのカンボジアとの国境に近い地域にも母語とする人々(約200万人)が住む。
■クメール人
カンボジアを中心とする東南アジアの民族。カンボジアの総人口の約90パーセントを占めるほか、タイ東北部、ラオス、ベトナムなどにも住む。身体的特徴では一般に、波状の頭髪や体毛の多さといった古モンゴロイドの特徴を具えた人が比較的多く見られるが、皮膚は比較的濃色である。6世紀に真臘(後のクメール朝(アンコール朝))を建国し、アンコール・ワットに象徴される壮大なクメール文明を築いた。当時の最盛期の人口は100万人以上。アンコール朝は1431年にタイのアユタヤ王朝に侵攻されて都であるアンコール・トムを攻略されたのち、転々と遷都を繰り返し現在のプノンペンにあるチャドモックに落ち着いた。
■クメール王朝
アンコール王朝とも)は、9世紀から15世紀まで東南アジアに存在していた王国で、現在のカンボジアの元となった国である。これより以前にあったチェンラ王国(真臘)の流れを受け継ぐクメール人の王国である。802年頃、ジャヤーヴァルマン2世(英語版)王がシャイレーンドラ朝から解放し、プノン・クレン丘陵で即位した。これがクメール王朝の始まりである。王都はハリハララヤ。クメール王朝では、王は即位すると新たな寺院を作るものとされていたことから、アンコール・ワットの周囲には千以上にもおよぶ遺跡が残っている。
■ラーンサーン王朝
Lanexang Kingdomは、メコン川中流域に14世紀から18世紀にかけて展開した歴史上の王朝。ラーンサーン(Lanxane)とは「百万頭の象」という意味であり、タイの研究者の間ではラーンチャーン(Lanchang)と呼ばれることもある。シップソーンパーンナー、ラーンナー等と並ぶ、山地タイ人による「ムアン(国家)」の一つであり、ラーオ族古来の政治制度と上座部仏教を統合した王権思想により統治されていた。
■チャンパーサック王国
現在のラオス南部で18世紀から20世紀(1713年 - 1946年)にかけて存在していた歴史上の王朝。現在のチャンパーサック県を中心とした地域を統治していた。
■チャム族
主にカンボジア及びベトナム中南部に居住する民族。2世紀から17世紀の間は独立した海洋国家、林邑国及び占城国(チャンパ王国)を持っていた。カンボジア国内にもクメール・イスラム人或いはマラユ人として約20万人が暮らしている。言語はチャム語を使用し、アカル・トラハ、アカル・リクなどいくつかの書体のチャム文字を持つ。
■ジャライ族
Jaraiは、ベトナムの中部高原地方に居住する少数民族である。ジャライ族は紀元前に中部高原地方へ移住してきたと言われるが、詳細は不明な点が多い。
■ラーオ族
広義にはラオスおよびタイ東北部(イーサーン)に住むタイ族の一派である。ラオスにおいては約240万人が居住して過半数を占め、タイにおいてはそれを大きく上回る人口のラーオ族が住んでいる。
■上座部仏教
Theravada Buddhismは、仏教の分類のひとつ。上座仏教、テーラワーダ仏教、テーラヴァーダ仏教、南伝仏教、小乗仏教とも呼ばれる。仏教を二つに大別すると、スリランカやタイ、ミャンマー等の地域に伝わった南伝の上座部仏教と、中国やチベット、日本等の地域に伝わった北伝の大乗仏教に分類される。初期仏教教団の根本分裂によって生じた上座部と大衆部のうち、上座部系の分別説部の流れを汲んでいると言われるものが、現在の上座部仏教である。
■クメール・ルージュ
Khmer Rouge、かつて存在したカンボジアの政党。正式名称はカンボジア共産党。幹部はオンカー(組織の意)と呼ばれた。もともと「クメール・ルージュ」(赤色クメール)という言葉は、ロン・ノル政権前のシハヌーク時代、反サンクムの武闘左翼勢力をさしてシハヌークがつけた呼称である。その後、内戦時代を経て、左翼諸勢力間の権力抗争および粛清の結果、クメール・ルージュといえば事実上ポル・ポトのグループと同義語になった。
■カンボジア内戦
カンボジア内戦は東南アジアのカンボジアにおいて、カンボジア王国が倒れたのち、1993年の総選挙で民主政権が誕生するまでの間、20世紀後半に続いた内戦状態をいう。カンボジアは1949年にフランス領インドシナからの独立を認められ、ノロドム・シハヌーク国王によって統治されていたが、王政に対抗する国内派閥の抗争があり、国内には不安定要素を抱えていた。1965年2月にアメリカが北ベトナムの空爆に踏み切ると、シハヌークは対米断交に踏み切った。カンボジア領域内には北ベトナム軍および南ベトナム解放民族戦線の補給基地が存在し、カンポン・チャム港はベトコンへの補給揚陸港として使用されていた。
■キリング・フィールド
(The Killing Fields)は、ポル・ポト政権下のカンボジアで、大量虐殺が行われた刑場跡の俗称。クメール・ルージュの秘密警察である「サンテバル(英語版)」は、知識人・伝統文化継承者・教師・宗教関係者などを反革命的な者と見なして次々と殺害した。後には、クメール・ルージュの地方機関や事業所の幹部までもが反乱の恐れ有りとして殺害されていった。
■S21 (トゥール・スレン)
S21は、クメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配下のカンボジア(民主カンボジア)において設けられていた政治犯収容所の暗号名である。稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称は無い。現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれており、国立のトゥール・スレン虐殺博物館となっている。
■ジルコニウム
zirconium) は原子番号40の元素。元素記号は Zr。チタン族元素の1つ、遷移金属でもある。常温で安定な結晶構造は、六方最密充填構造 (HCP) のα型。ジルコニウムは金属の中で熱中性子の吸収断面積が最小のため、ジルカロイと呼ばれるジルコニウム合金が原子炉の燃料棒の被覆材料(燃料被覆管)や沸騰水型原子炉用燃料集合体のチャンネルボックスの材料として利用される。
■ソムロームチュー
Samlar machu) はカンボジア料理の代表的なもので、酸味が特徴のスープである。おもな材料は、肉や魚介類のほか、野草を含むさまざまな野菜、酸味づけに用いるタマリンドなどのムチュー、レモングラス、ショウガ、ガランガル、ニンニクなどのハーブやスパイス、プラホックなどである。
■カンボジア王国観光省
カンボジア王国は、世界でも有数の、文化、歴史、自然の宝庫です。 なかでも、華麗に花開いた古の大クメール帝国を彷彿させる世界遺産・アンコール遺跡は必見です。 今もなお、歴代の王たちの抱いた夢と野望が鮮やかに息づいている、まさにそこは神々の世界です。
<世界遺産>
■アンコール*危機遺産
アンコール遺跡群は現在のカンボジア王国の淵源となったクメール王朝の首都の跡である。この地には、9世紀頃から数々の王建設が開始された。この遺跡に特に大きく関わったとされるのはスーリヤヴァルマン2世(1113-45年)とジャヤーヴァルマン7世(1181-1201年)と言われる。スーリヤヴァルマン2世は特にアンコール・ワットの建設を行い、その死後30年ほど後に王に就いたとされるジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムの大部分を築いたとされる。
■プレアヴィヒア寺院
カンボジアとタイ国境にあるダンレク山地内のカンボジア王国領内(プレアヴィヒア州)に位置するヒンドゥー寺院。9世紀末にクメール人によって建設され、11世紀に増築されたとされる。
■ベンメリア
カンボジアのアンコール・ワットの約40km東の森の中にある寺院。世界遺産であるアンコール遺跡群のひとつ。崩壊が激しい。全貌が明らかになればアンコール・ワットを凌ぐといわれるほどの規模を持つと推測されている。
■バーンチエン遺跡
バーンチエン遺跡では土器を中心に動物の骨なども見つかっており、黄河文明・メソポタミア文明とは違った、東南アジア独自の文明として注目を集めている。土器には独特の渦をもった幾何学模様をもつものがあり広く知られている。なお、紀元前数千年というタイの有史以前の時代のものであり、文明の主である民族は今のところ不明とされている。
■マイ・ソン・ソティアリー
Mey Son Sotheary, 1977年 - はカンボジアの作家。プノンペンに生まれる。1993年から、短編小説や長編小説をカンボジアの日刊紙「リアスメイ・カンプチア」に発表し、雑誌「プロチアプライ」にも小説を連載する。現代の社会問題を描き、『姉さん』では、姉の仕事を知った青年の苦悩、『なぜ』では、弟や妹を養うために強盗の仲間になる少年を主題とした。他に『幼年時代』、『私の過去』、『狭い出口』などの作品がある。ポル・ポト政権時代を体験していない世代の作家として注目されている。
■ソット・ポーリン
Soth Polin,1943年- はカンボジアの作家、ジャーナリスト。コンポンチャム州に生まれる。プノンペン大学人文学部仏文学科を卒業したのち、哲学教師となる。1964年に長編小説第1作『意味なき人生』を発表。その後、長編『慈悲なき姿態』(1967年)、『冒険者』(1969年)を「哲学小説」や「実存主義小説」として発表したが、カンボジアの伝統的価値観とは異なる女性像や描写のため発禁処分となった。
■パル・ヴァンナリーレアク
Pal Vannarirak,1954年11月23日- はカンボジアの作家。コンポンチュナン州に生まれる。父は抗仏運動に参加した高級将校、母はシソワット王家の流れを汲む人物であり、裕福な家庭に育つ。1975年にはクメール・ルージュによって両親や弟2人と離ればなれになり、プノンペンからコンポンチャム州タンコーク郡への移住で強制労働に従事し、集団結婚をさせられる。1979年にポル・ポト政権の崩壊後、プノンペンに戻り役所の職員として働くが、夫は定職につかず暴力をふるうようになる。ヴァンナリーレアクは内職として闇の貸本屋用の娯楽小説を書き、取り締りをおそれて無記名で発表した作品は90本近くにのぼった。やがて、ポル・ポト時代に行方不明になった家族に向けて、自分の無事を知らせるための小説を執筆。この長篇小説『カンボジア 花のゆくえ』(原題『闇は去った』)は、1989年にプノンペン市主催の戦勝10周年記念行事の小説部門で第1位となり、恩師や旧友との再会を果したが、両親や弟の消息は不明なままである。
■ノロドム・シハモニ
Norodom Sihamoni、1953年5月14日 - は、カンボジアの国王である(在位:2004年10月29日 - )。ノロドム・シハモニは1953年5月14日にプノンペンにてノロドム・シハヌーク国王と6番目の妃であるノロドム・モニニヤット・シハヌークの間に生まれた。名前は両親の名前からとられたものである。
■ポルポト
ポルポトは自身が国家より奨学金を得て留学したのに係わらず反体制的運動に参加した経験から、対自的に目覚め政治体制の矛盾を見抜きうるインテリ階級を極度に恐れ、弾圧した。プノンペンは飢餓と疾病、農村への強制移住によってゴーストシティとなり、医者や教師を含む知識階級は見つかれば「再教育」という名目で呼び出され殺害された。始めは医師や教師、技術者を優遇するという触れ込みで自己申告させ、どこかへ連れ去った。やがて連れ去られた者が全く帰ってこないことが知れるようになり教育を受けた者は事情を理解し無学文盲を装って難を逃れようとしたが、眼鏡をかけている者、文字を読もうとした者など、少しでも学識がありそうな者はなど片っ端から収容所に送られ殺害された。また、無垢で知識が浅い子供が崇拝され、解放直後は14歳以下が国民の85%も占めていた。
■フン・セン
(Hun Sen, 1951年4月4日 - )は、カンボジアの政治家。親ベトナム政権の首相を務め、現在はカンボジア王国首相。カンボジア人民党副議長(副党首)。1951年、コンポンチャム州で生まれる。父親は海南島出身の華人だと言われ、"Hun Sen" は「雲昇」という中国語(海南語)に対応する。1970年3月、北京に亡命中のシハヌーク殿下の呼びかけに応じ、ロン・ノル政権に対抗するクメール・ルージュ軍の下級部隊指揮官として従軍。1976年になるとクメール・ルージュの過激な政策に嫌気がさし、翌年の6月にポル・ポト派を離脱しベトナムに亡命する。
■ノロドム・シハヌーク
Norodom Sihanouk、1922年10月31日 - は、カンボジア国王(在位:1941年4月25日 - 1955年3月2日、1993年9月24日 - 2004年10月7日)、同国の政治家。1945年3月に、インドシナ半島に進駐していた日本軍によってフランス軍が駆逐され、フランスの植民地政府が解体されると、国王シハヌークは、隣国ベトナム(バオ・ダイ)、ラオス(シーサワーンウォン)と相前後してカンボジアの独立を宣言した。
■キュー・サムファン
(Khieu Samphan, 1931年7月27日 - )は、カンボジアの元首相、国家元首。ポル・ポト派最高幹部の1人。カンボジアのスヴァイリエン州に裁判官の息子として生まれた。彼は奨学金でパリ大学に留学し、経済学を学び1959年に博士号を取得した。同年にカンボジアに帰国し、プノンペン大学の法学部の教員となり、左翼系のフランス語新聞「観測者」(L'Observateur)を出版した。同紙はプノンペンの知識階級の中で評判になり、右翼に支配された政府とプノンペンの体制派を脅かした。
■ロン・ノル
(Lon Nol, 1913年11月13日 - 1985年11月17日)は、カンボジアの政治家、軍人。カンボジア王国国防相、首相、クメール共和国首相(初代)、大統領(初代)を歴任。最終階級は元帥。プレイ・ヴェン州で中国系クメール人とクメール人の間に生まれた。フランス式の教育を受け、公務員となる。1946年に州知事になり、カンボジア警察の初代長官に就任。その後は彼は軍の役職に就き、1960年に国防相に就任。
■ノロドム・スラマリット
Norodom Suramarit、1896年3月6日 - 1960年4月3日はカンボジア国王(在位:1955年3月3日 - 1960年4月3日)。プノンペンで生まれ、ノロドム王の孫にあたる。シソワット・モニヴォン王の王女コサマックを妃とし、2人の長男がノロドム・シハヌークである。1955年3月3日に政治活動への参加のため退位したシハヌークから王位を譲られて即位した。
■ソン・セン
(Son Sen, 1930年6月12日 - 1997年6月10日)は、カンボジアの共産主義者。クメール・ルージュの高官でポル・ポト政権では国防相だった。彼はポル・ポトの右腕として働いたが、カンボジア政府との和解交渉を試みたため一族と共にポル・ポトに殺害された。ソン・センはベトナム南部のコーチシナで、少数民族であるカンボジア人の地主の子として生まれた。プノンペンで教育を受け、1950年には奨学金を受けフランスに留学した。
■ヌオン・チア
(Nuon Chea、1926年7月7日 - )は、カンボジアの政治家。クメール・ルージュ、ポル・ポト派最高幹部の一人。1926年 - カンボジアバタンバン州に生まれる。生家は華僑で、裕福な家であったという。1950年 - タイ共産党に入党。1951年 - インドシナ共産党に転籍後、クメール労働者党(後のカンボジア共産党)結成に参画。
■タ・モク
(Ta Mok, 1926年 - 2006年7月21日)は、カンボジアの軍人、ポル・ポト派最高幹部の一人。本名はチヒット・チョウン(Chhit Choeun)とされるが不確かである。彼は1940年代に反フランス抵抗活動に参加し、続いて反日抵抗活動を行った。1964年に反フランスのクメール・イサラクに参加したとき、彼はパーリで僧職を学んでいた。彼はプノンペンを去り、クメール・ルージュに加わった。1960年代の終わりまで彼はクメール・ルージュの将軍および高官となった。1970年頃の戦闘で片足を失っている。彼は民主カンプチアにおける粛清を指揮したと考えられており、「The Butcher(屠殺屋)」の異名を持つに至る。 |
カンボジア王国 Cambodia
インドシナ半島に位置する東南アジアの立憲君主制国家。東にベトナム、西にタイ、北にラオスと国境を接し、南は南シナ海に接する。首都はプノンペン。国民の90%以上がクメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)である。
■プノンペン
Phnom Penhは、カンボジアの首都で、特別市である。カンボジアの行政、文化、経済の中心地で、「東洋のパリ」と謳われたフランス植民地時代の美しい街並みが残っている。また、王宮があり、カンボジア国王一家が住んでいる。プノンペンという名はクメール語で「ペン夫人の丘」という意味である。ペン夫人は信心深い女性で、川を流れてきた仏像を見つけ、近くの丘に祠を作り仏像を手厚く祀ったことから「プノンペン」と名付けられ、それが町の名前になった。
■プノンペン国際空港
Phnom Penh International Airportとは、カンボジアの首都、プノンペンの近郊にある国際空港。旧空港名は、ポチェントン国際空港。プノンペン市街から西に約7kmに位置し、首都の空の玄関口として機能している。1995年からフランス・マレーシアの民間共同体の手でBOT方式による空港施設の近代化が図られ、2001年の完成後は大型旅客機の就航も可能となった。
■カンボジア大学
The University of Cambodiaは、カンボジアのプノンペン特別市に2003年に開学した私立大学。総長は半田晴久。2003年、カンボジア王国の次期世代のリーダーの育成をめざし、「カンボジアのハーバード大学」を目指して設立された。2007年より、フンセン首相の提案により、「サムデック・フンセン・ハンダ・ナショナル・スカラーシップ」が始まり、1500人以上の成績優秀な学生を4年間授業料無償で育てるなど、奨学金制度が充実している。
■ボッカタオ
ボッカタオ(Bokator)とは、21世紀初頭に復活したカンボジアの武術。 アンコールワット建造の頃から伝わる武術とされるが、クメール・ルージュ以後、多くの伝統文化と共に破壊されたが、国内の情勢が安定した後の2005年に、サン・キムサンが師匠から素手や槍・棒等を学び、ボッカタオと仮に名付けた。
■ココン
カンボジア南西部ココン州の州都。タイとの国境より10kmに位置していて、タイランド湾に面している。国境はタイのトラート方面とカンボジアのリゾート地であるシアヌークビルを行き来する観光客で賑わっている。 首都のプノンペンからは国道4号線経由で約270km。1998年の人口は29,329人。1990年代までココンは国内で最も危険な地域のひとつであった。クメール・ルージュの残党が幅を効かせていて、地元住民や旅行者にとっては脅威であった。1998年11月にココン・インターナショナル・リゾートのカジノが携行式ロケット弾によってクメール・ルージュに襲撃され、タイ人が負傷した。この事件がクメール・ルージュによる記録に残る最後の襲撃であった。
外務省:カンボジア王国
在カンボジア日本国大使館
■クラチエ
カンボジア東部クラチエ州の州都で、メコン川沿いの街。クラチエ付近のメコン川には、イラワジイルカの群れが住み着いており、街の観光資源となっている。近年は、エコ・ツーリズムブームのためか、ここを訪れる観光客が増加している。観光船はクラチエから北に数キロ行った村から発着している。 カンボジアのメコンイルカ保護プロジェクト ( Cambodian Mekong Dolphin Conservation project ) によると、カンボジアのメコン川上流には110匹を越えるカワイルカが生息している。
■バタンバン
( Battambang )は、カンボジア西部バッタンバン州の州都で、同国では首都プノンペンに次いで第二の都市。プノンペンから北西約300km、同国北西部の中心に位置し、かつては稲作が盛んであった。サンカー川が流れている。人口は約100万人。
■シソポン
Sisophon,はカンボジア王国の都市。バンテアイ・ミエンチェイ州の州都であり、国道5号と6号が分かれる交通の要衝である。人口約10万人。街の北側約60kmの位置に、クメール遺跡であるバンテアイ・チュマール寺院がある。
■ポイペト
Poipet, は、タイ・カンボジア国境におけるカンボジア側の町である。2国間を通行するときのキー・ポイントとなる町であり、そのうえタイでは違法であるギャンブルの目的地として人気がある。タイ国内やバンコクに長期滞在している人が、滞在期限を延長するためには一度国境を越える必要があり、バンコクから最も近い国境ゲートのあるポイペトがしばしば利用されている。
■ラタナキリ州
「ラタナキリ」という言葉は、合わせると「宝石と山がある場所」という意味になる2つのカンボジア語の単語からの派生語である。州都バンルンは同州の高地の中央部にあり、プノンペンからは約586km離れている。ロムパットは、南部の平原にある小さな町であり、ここがラタナキリ州の旧州都であった。同州には毎年何千人もの旅行客が訪れる。野生生物の宝庫であり、都会から遠く離れた部族制の村々が残る同州は、エコツーリズムの格好の舞台だからである。
■シェムリアップ
Siem Reapはカンボジアのシェムリアップ州の州都である。アンコール・ワット、アンコール・トムなどを含むアンコール遺跡群の観光拠点となっている。東南アジア最大の湖であり、世界でも有数の多様な魚類が生息するトンレサップ湖の約10キロメートル北東にあり、アンコール・ワットの6キロメートル南である。
■パイリン
Pailin, はカンボジア西部のタイとの国境付近に位置する特別市である。1979年にベトナムがカンボジアに侵攻すると、クメール・ルージュは支配区域は西部国境沿いに押し込められるような形となり、1980年代にはパイリンはクメール・ルージュの重要な拠点となった。パイリンは世界でも有数の地雷埋設地域であり、旅行者は道路かどうかはっきりしない場所には立ち入らないよう警告を受ける。
■シアヌークビル
(Sihanoukville) は、カンボジア南部のタイランド湾に面した港湾都市であり、コンポン・ソム (Kampong Som または Kampong Saom) という名でも知られる。近年になってリゾートとして脚光を浴びることになり、観光地化が進んでいる。市名は前国王ノロドム・シハヌークにちなむ。シアヌークビルは手の平を縁取ったような形の砂浜に周囲を取り囲まれ、南と西の沖合には原始的な熱帯林の残る島々が浮かんでいる。
■コンポンチャム
( Kampong Cham )は、カンボジア南東部コンポンチャム州の州都で、メコン川沿いの街。人口は63,711人(2006年)で、同国で3番目に大きな都市。首都プノンペンの北東124kmに位置する。 町の名前は、チャム人の港という意味がある。現在も多くのチャム人が住む。
■ストゥントレン
(Stung Treng) は、カンボジア北部の街で、ストゥントレン州の州都。 メコン川に面した街であり、Se Kong川との合流地点に位置する。プノンペンまでは南に約300km、ラオス国境までは北に約40kmの距離である。この地域の主要都市で、人口は約25,000人で、クメール人とラオス人によって構成される。ラタナキリ州やラオス国境に向かう旅人にとって拠点となる町である。
■カンポット
( Kampot )は、カンボジア南部カンポット州の州都。タイランド湾からわずか数km内陸に位置する。ケップからも近い。 1974年2月26日から同年4月2日にかけて、ベトナム戦争中、カンポットの戦いが起きた。この戦いはカンボジア内戦の一部でもあった。 戦争前は胡椒の町として有名であった。
■タケオ
カンボジア南部タケオ州の州都。この町及び州はシルク織物で知られている。カンボジア国内の織物職人15,000人の内、約10,000人が同州に住んでいる。町のほとんどの織物職人は、タケオを走る国道沿いに住んでいる。
■バンルン
( Banlung )は、カンボジア北東部の都市で、ラタナキリ州の州都。2002年の人口は約17,000人。正式名称はLabansiekである。この地域の商業の中心である、周辺の村には少数民族が住んでいて、彼らはしばしば街の市場で商品を売っている。
■バンテイメンチェイ州
(Banteay Meanchey) はカンボジアの州の一つ。 タイとの国境に接するポイペトで、外国人の出入国が行われている。ポイペトの東約30km地点に、州都シンソポンがある。
■バタンバン州
「バタンバン」とは文字通りには「杖を失う」という意味であり、 Preah Bat Dambang Kranhoung ( Kranhoung 杖王)の伝説にちなんだものである。バタンバン州には SOS Children's Village(慈善団体運営の孤児院)の本拠がある。また、同州にはサムロート複合利用地域(アンジェリーナ・ジョリー及びブラッド・ピットの養子にちなんだ慈善団体が支援している)の本拠もある。
■カンポット州
カンボジア南部の州である。州都はカンポット。カンボジアで最も美しい州といえば、カンポット州を思い浮かべる人が多い。自然のままのビーチや Prek Compung Bay 川の上流にあるゾウ連山といった自然の恵みがある。
■モンドルキリ州
カンボジア東部の州である。同州はカンボジア国内で最も広大で最も人口希薄な州である。モンドルキリ州の人口の80%は10の少数民族からなり、その中ではプノン族が最も多い。残りの20%はクメール人、華人及びイスラム教徒のチャム人である。
■ラタナキリ州
「ラタナキリ」という言葉は、合わせると「宝石と山がある場所」という意味になる2つのカンボジア語の単語からの派生語である。州都バンルンは同州の高地の中央部にあり、プノンペンからは約586km離れている。同州には毎年何千人もの旅行客が訪れる。野生生物の宝庫であり、都会から遠く離れた部族制の村々が残る同州は、エコツーリズムの格好の舞台だからである。同州南部や西部の宝石鉱脈は、観光客や坑夫を引き寄せるだけでなく、重要な収入源にもなっている。ラタナキリ州は青いジルコニウムや質の良いアメジストを産出することで有名である。
■ケップ
Krong Kep はカンボジアにおいて州と同格の特別市である。日本語ではケップあるいはカエップと表記される。クメール語発音ではカエップに近い音である。市名はフランス語の Le Cap (半島)にちなんだものといわれているが、この地で敵軍に追われた魔術師が Kep Seh (鞍)を取り落としたまま逃げたことにちなむという伝承もある。
■国名
カンボジアでは自分の国を「カンプチャ」と呼んでいて、建国者といわれるインドのバラモン僧「カンプー」とその子孫を意味する「チャ」に由来するとされる。
1.面積18.1万平方キロメートル(日本の約2分の1弱)
2.人口13.4百万人(2008年政府統計)
3.首都プノンペン
4.民族カンボジア人(クメール人)が90%
5.言語カンボジア語
6.宗教仏教(一部少数民族はイスラム教)
9〜13世紀 現在のアンコール遺跡地方を拠点にインドシナ半島の大部分を支配。
14世紀以降 タイさらにベトナムの攻撃により衰微。
1884年 フランス保護領カンボジア王国。
1953年 カンボジア王国としてフランスから独立。
1970年 ロン・ノルら反中親米派、クーデターによりシハヌーク政権打倒。王制廃しクメール共和国樹立。
親中共産勢力クメール・ルージュ(KR)との間で内戦。
1975年 KRが内戦に勝利し、民主カンボジア(ポル・ポト)政権を樹立。同政権下で大量の自国民虐殺。
1979年 ベトナム軍進攻でKR敗走、親ベトナムのプノンペン(ヘン・サムリン)政権擁立。
以降、プノンペン政権と民主カンボジア三派連合(KRに王党(シハヌーク)派・共和(ソン・サン)派が加勢)の内戦。
1991年 パリ和平協定。
1992年 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)活動開始(1992〜93年、日本初の国連PKO参加。)
1993年 UNTAC監視下で制憲議会選挙、王党派フンシンペック党勝利。新憲法で王制復活。ラナリット第一首相(フンシンペック党)、フン・セン第二首相(人民党:旧プノンペン政権)の2人首相制連立政権。
1997年 首都プノンペンで両首相陣営武力衝突。ラナリット第一首相失脚。
1998年 第二回国民議会選挙。第一次フン・セン首班連立政権。
1999年 上院新設(二院制へ移行)。ASEAN加盟。
2003年 第三回国民議会選挙。
2004年 第二次フン・セン首班連立政権発足。
シハヌーク国王引退、シハモニ新国王即位。WTO加盟。ASEM参加決定。
2006年 上院議員選挙
2008年 第四回国民議会選挙。第三次フン・セン首班連立政権発足。
■主要産業:観光・サービス(GDPの38.8%)、農業(GDPの33.5%)、鉱工業(GDPの21.7%)(2010年、カンボジア政府資料)
■主要貿易品目(2009年、MEF資料)(1)輸出 衣類(83.5%)、はきもの(3.7%)、金(2.7%)、ゴム(1.8%)(2)輸入 織物(25.3%)、石油製品(8.1%)、車輌(6.2%)、タバコ(3.3%)、医薬品(1.9%)
■リエル
(Riel) は、カンボジアの公定通貨。ポル・ポト政権下の1978年に一旦廃止されたが、同政権崩壊後の1980年にカンボジア国立銀行が設立されリエルも復活。カンボジア経済の実態と比較してリエルの為替レートが高めに設定されており、特に輸出においては不利な状況におかれるため、カンボジア国内であっても中産階級や富裕層の間では一般に、もっぱら米ドルが使用されているのが実状だが、農村部では一般に現金所得の低い人々が多いこともあって、リエルのほうが広く利用されている。
■カンボジア人民党
Kanakpak Pracheachon Kâいろ頤chea, KPKは、カンボジアの政党。2006年現在、上院、下院双方の過半数を占める与党である。2011年現在、党名誉議長はヘン・サムリン、議長がチア・シム、副議長がフン・センである。
■フンシンペック
Front Uni National pour un Cambodge Independant, Neutre, Pacifique, et Cooperatif、は、カンボジアの政党。正式名称は、「独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線」。シアヌーク国王派に端を発する王党派の政党。1993年5月のカンボジア総選挙では第1党となり、党首ノロドム・ラナリットは第一首相となる。
■サム・ランシー党
Kanakpak Som Raeangseeは、カンボジアの政党。議長(党首)はサム・ランシー(初代)。現在、カンボジア国民議会における野党第一党である。上下両院でカンボジア人民党(KPK)に次ぐ議席を有している。
■民族
クメール人が90%、ベトナム人が5%、華人が1%、その他4%など36の少数民族である。
■言語
公用語(1993年公布のカンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっている。)はクメール語であり、最も話されている。また、高齢者や特別な職業(医師など)にはフランス語がある程度通じるが、若者の話す外国語で最もポピュラーなのは英語となっている。
■宗教
9割以上が上座部仏教である。国民の4%ほどがイスラム教徒である(主にチャム族の信者)。また、上座部仏教が憲法で国教と定められているが、信教の自由が保障されている。クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗・虐殺された。
■教育
王立プノンペン大学、、カンボジア工業大学、王立法律経済大学、国立経営大学国立教育研究大学、王立農業大学、健康科学大学(カンボジア王国)、カンボジア大学、アンコール大学
■ピン・ペアト
カンボジアの昔の宮廷や寺において、祝賀演奏の際に用いられたクメール音楽のアンサンブルである。それは、主に木管楽器と、何種類かのシロフォンと太鼓を含む打楽器のおよそ9から10種類の楽器から成り、宮廷舞踊、仮面劇、影絵芝居と宗教儀式に伴われる。それはカンボジアの最古の音楽アンサンブルであり、アンコール王朝時代と密接に関係している。
■カンボジア料理
多くの料理にプラホックという発酵した魚のペーストを調味料として用いることで知られている。魚醤のトゥック・トレイをスープや炒め料理、つけだれに広く用いる。ココナッツミルクは多くのクメールカレーとデザートのベースになる。カルダモン、八角、クローブ、シナモン、ナツメグ、ショウガやウコンなどの多くの材料を用いたスパイスペーストの使用が、インドからジャワ島を通じてカンボジアに伝えられた。
■カンボジア大洪水
2011/11/05 タイが大洪水に見舞われる中、隣国カンボジアでも史上最大級の洪水被害が出ている。全水田の17%が水につかり被災者は150万人を超えた。気候変動による多雨が原因。
■ロ・セレイソティア
Ros Sereysothea1960年代から70年代のカンボジアのシンガーソングライター。彼女は、リズム・アンド・ブルースとロックンロールによって影響の下繁栄した、カンボジアのポップ・シーンの一部だった。彼女はまた、カンボジアの当時最高の男性歌手、シン・シサモットのお得意の競演パートナーだった。クメール・ルージュ政権下の強制労働キャンプに閉じ込められている間、彼女は死んだと考えられている。音楽シーンのリーダーのようなソティアは、よく人気の西洋のロック音楽を、クメール語の歌詞に作り替えた。彼女は、ノロドム・シハヌークから、国王の称号「Preah Rheich Teany Somlang Meas(王都の黄金の歌声)」の栄誉を授けられた。
■チュット・ソヴァン・パンニャー
(Chhet Sovan Panha) は、カンボジアの歌手。カンボジア音楽史上、最も速くスターに昇りつめたうちの一人である。彼女は十代のポップ・プリンセスであり、カンボジア国内で多くのレコードを売り上げている。チュット・ソヴァン・パンニャーは1986年、豊かな家庭に生まれた。彼女の父は彫刻家で、比較的高い生活水準を享受できる収入があった。彼女は、大学卒である。彼女は幼い頃から歌うことが好きで、数多くの舞台に立っていた。
■ノロドム・ラナリット
Norodom Ranariddh, 1944年1月2日 - は、カンボジアの政治家。第50代国王ノロドム・シハヌークの次男で、第51代国王ノロドム・シハモニの異母兄弟。プノンペンに生まれる。1983年、シハヌークのバンコクにおける代理人として政治に参加する。1991年10月のパリ国際会議における和平協定への署名後にカンボジア最高国民評議会が構成されると議長に就任。
■イエン・サリ
Ieng Sary、は、カンボジアの政治家。民主カンプチア副首相を歴任。国際社会の努力とカンボジア政府の力でポル・ポ政権時代の虐殺が裁かれるカンボジア特別法廷が設置され。、2007年11月、プノンペンの自宅で「戦争犯罪」と「人道に対する罪」で逮捕、翌年には妻のイエン・シリトも逮捕された。2010年9月、他の幹部らとともに起訴されている。
■ヘン・サムリン
(Heng Samrin, 1934年 - )は、カンボジアの軍人、政治家。内戦時代は親ベトナム政権の国家元首を務めた。現在、カンボジア王国の下院議長、カンボジア人民党名誉議長。フランス領インドシナのカンボジア保護国プレイベン州生まれ。1976年、「民主カンプチア」(クメール・ルージュ政権)東部地域軍第4師団長および政治委員。
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