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ブルネイ・ダルサラーム国
Brunei Darussalam

アジア

■地理
国土は、マレーシア領となっているリンバン川流域によって、二分される。全土が熱帯雨林気候下にある。東側、テンプロン川流域は、海岸付近を除き、ほとんどが未開発の密林で、広大な自然公園となっている。国民の大半は、西側の3つの地区に住んでいる。


<ブルネイの歴史>
■ホアビン文化とドンソン文化
東南アジアの先史時代、つまり旧石器時代から鉄器時代にかけては、大陸部、とくにベトナム北部を中心に進展した。最初期のホアビン文化[1]は紀元前1万年前ごろから、紀元前5000年ごろまで継続した。旧石器時代に属し、土器は見られない。チョッパー、局部磨製石器、スマトラリス[2]などの打製石器が中心であった。

■ニア洞窟と遺跡
ブルネイの周辺領域における最も重要な遺跡は現在のブルネイから南西へ約100km離れた現在のマレーシア、サラワク州に位置する鍾乳洞ニア洞窟、ボルネオ北端のマレーシアサバ州のティンカユ遺跡、マダイ洞窟、フィリピン本国からボルネオ島へ直線上に伸びるパラワン島中央部のタボン洞窟である。いわゆる洞窟遺跡、岩陰遺跡が目立つ。ニア洞窟は、紀元前4万年から西暦700年という長い期間に渡って利用された遺跡であり、古人骨も発見されている。

■ドンソン文化とラピタ文化
ドンソン文化による、銅鼓も1点だけではあるが、ボルネオ島最北部から発見されている。 ドンソン文化とボルネオの関係は未解明である。銅鼓以外にはっきりドンソン文化の影響が見られるのは「船」である。船といっても乗船するためのものではなく、葬儀に用いる死者の船、そして、青銅器に描かれる記号である。空を飛ぶためなのか、船は鳥と関連付けられており、鳥の頭と共に描かれる。

■東西の文明をつなぐ貿易路の形成
沿岸部の河川域を中心とした小規模な港が他の文明世界といつごろから交流しはじめたのか、最初期の記録、西側から見た記録は、西暦60年から70年ごろに記された『エリュトラー海案内記』に見られる。エリュトラー海とは、ギリシャ人が紅海、ペルシャ湾、インド洋を併せた海域を呼ぶ用語である。


■インドの影響
貿易が盛んになると、インド人商人自らが船を仕立て、東南アジア島嶼部、特にマレー半島に来航するようになった。インド人は金を求めて、マレー半島側は鉄器と鉄材が必要だった。こうして、港を管理する首長、王の権威が確立されていき、港を中心とした都市国家、港市が成立していった。『梁書』の「海南伝」によると、梁書が記された6世紀にはすでに港市が成立して四百余年とあり、西暦2世紀には港市が開かれていたことが分かる。

■ポルトガル人の登場
1521年,太平洋を横断し、東からやって来たスペイン艦隊の長フェルディナンド・マゼランがヴィサヤ諸島(現在のフィリピン)に到着する。ヴィサヤ島、リマサワ島、セブ島が従ったが、マクタン島の英雄ラプ・ラプは、植民地化の尖兵マゼランを倒しスペイン人をはねのけた。リーダーを失ったマゼラン艦隊が次に寄港したのが、ブルネイである。1521年、ブルネイ湾にマゼラン艦隊が入港。ブルネイは港市都市であるため、マゼラン艦隊とも取引を行う。艦隊側では、ブルネイの情勢を調査し、湾内に2万5000戸の水上家屋があることを確認している。

■イギリス人の再登場
1786年、イギリスはマレー半島の西岸、シャムの影響力が強かったペナン島の領有に成功する。マラッカ海峡の最北部にあたり、オランダからは脅威と見なされなかった。フランスとの戦争に乗じて1811年から1816年にかけてジャワを占領したが、イギリス政府は、短期的な利益の見込めないジャワをオランダに返還することに同意。

■ブルネイの窮状とブルック王国(イギリス)の成立
イギリスはオランダとの条約により、マレー半島と無価値と思われていたボルネオ島北部に関する権利を獲得している。しかしながら、イギリスととしてもボルネオ北部の開発に乗り出す積極的な理由はなかった。


南シナ海
中国、台湾、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、ベトナム、インドネシアに囲まれた海域の名称。200以上の島と礁が知られており、大部分は南沙諸島にある。同諸島は810kmと900kmの広さに及び、最大の島はタイピン島(イトゥアバ)で、長さ1.3km、最高海抜3.8mである。また、フィリピンのパラワン諸島とはパラワン海溝を挟んでリード礁と呼ばれる長さ100kmの海山があり、面積8,866平方kmは環礁として世界最大。

ブルネイ川
Sungai Bruneiはブルネイ・ダルサラーム国を北東方向に向かって流れ、ブルネイ湾(Brunei Bay)に注ぐ河川。ブルネイ川はブルネイの主要河川の中では最短である。ブルネイの伝統的な住宅地区のカンポン・アイール(水上集落)はこの川の上にある。カンポン・アイールの住民は水上タクシーで自宅と対岸を行き来するため、ブルネイ川をモーターボートが行きかっている。

ボルネオ島
Pulau Borneoは、東南アジアにあり、グリーンランド島、ニューギニア島に次いで世界で3番目(4番目といわれる場合もある)に面積の広い島(面積 725,500 km2、日本の約1.9倍)。「ボルネオ」の語源は、かつて島の北半分をしめていた「ブルネイ」が訛ったものといわれている。 アルプス・ヒマラヤ造山帯と環太平洋造山帯の交点にあたる地域に位置し、全体的に山がちの地形である。また、両造山運動の影響により、山脈が上空から見ると南北にK字になっており、同様の形状となるスラウェシ島、ハルマヘラ島と合わせ、学術的に「3K諸島」と呼称することもある。

パゴン山
(Bukit Pagon)はブルネイの最高峰である。日本語ではブキト・パゴン山とも表記する。(ブキト=Bukitはマレー語で「丘」の意。)マレーシアとの国境に位置する。

パンダルアン川
Pandaruan River)は、ボルネオ島(カリマンタン島)を流れる国際河川である。この川はブルネイ・ダルサラーム国とマレーシアの国境を形成する。この川によってマレーシア・サラワク州とブルネイの飛地であるテンブロン地区が分かたれる。川はブルネイ湾(Brunei Bay)に注ぐ。河川を横断するフェリーが就航している。

スンガイトゥジョー
(Sungai Tujoh、Sg. Tujoh)は、ブルネイ・ダルサラーム国の最西端である。ブルネイのブライト地区に位置する。スンガイトゥジョーは2つのブルネイマレー語からできた地名であり、「スンガイ」(Sungai)は「川」または「小川」、「トゥジョー」(Tujoh[注 1])は数字の7を意味する。

スマトラ島
Pulau Sumatera はインドネシア共和国、大スンダ列島に属する島。マラッカ海峡に臨み東西交通の要衝であるため、古代からシュリーヴィジャヤ王国などの諸王朝が興った。古くはヒンドゥー教、仏教が優勢だったが、14世紀初めからイスラム勢力が進出した。


エリュトゥラー海案内記
Periplus of the Erythraean Seaは、古代のインド洋近辺における南海貿易について記された航海案内書。この書は、インド洋に吹く季節風を利用した遠洋航行を行う貿易業者のために書かれた。当時、インド洋においては、ローマ帝国と南インドのサータヴァーハナ朝の間で季節風貿易が行われており、そのためこの書には航海の状況のみならず、各港での貿易品や各地の特産品などについての記述も詳しい。


ラピタ人
Lapitaは、人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族。1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった。ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。ラピタ土器のうち古期のものは、紀元前1350年から同750年の間にビスマルク諸島で作られたものが見つかっている。その後紀元前250年ごろまでに、次第に多様化した。バヌアツやニューカレドニアには、その地方独自の様式が見られる。


岩陰遺跡
rock shelter, grottoは、張り出した岩盤を屋根代わりに利用したことを特徴とする先史人類の生活の痕跡としての遺跡のことをいう。岩陰や洞窟の入り口は、天井の岩盤が屋根代わりとなって風雨を避けることができるとともに、外光が差し込むために旧石器時代や新石器時代の人類にとってはきわめて居住に適した地形であった。岩陰は、洞窟の入り口同様に利用されるために、洞窟の入り口を利用した遺跡のカテゴリーに含めて洞穴遺跡(どうけついせき)と呼ばれ、洞窟遺跡の一種としてもしばしば位置付けられる。


ドンソン文化
Dong Son culture、は、ベトナム北部の紅河流域を中心に成立した東南アジア初期の金属器文化。ドンソン文化は紀元前4世紀頃から紀元1世紀頃にかけて続いたといわれる。タインホア省(清化省)タインホアのマー川右岸にはドンソン文化の遺跡が存在し、指標になっている。遺跡は1920年代、フランス極東学院の考古学者らによって発見され、特徴的な銅鼓が有名になった。

マレー語
Bahasa Melayu, は東南アジアのマレー半島周辺に分布するマレー人によって話されるオーストロネシア語族の言語である。通常、マレー語はローマン・アルファベット26文字で表記される。ただしこれはイギリス植民地時代からの伝統であり、それ以前はアラビア文字を元に作られたジャウィ文字が使われていた。

スルターン・オマール・アリ・サイフディーン・モスク
ブルネイの首都バンダルスリブガワンにある王立モスクの一つ。同モスクは、アジア太平洋と主な観光名所で最も素晴らしいモスクのうちの1つと分類されている。


イスタナ・ヌルル・イマン
(Istana Nurul Iman)はブルネイ・ダルサラーム国にあるブルネイの国王・ハサナル・ボルキアの宮殿かつ公式な居所であり、ブルネイ政府所在地である。王宮はブルネイ川の川岸に広がる葉状の丘にあり、ブルネイの首都・バンダルスリブガワン市街から数キロメートル南に位置する。

ラパウ
(Lapau)は、ブルネイ・ダルサラーム国バンダルスリブガワンにある建築物。ロイヤル・レガリアとブルネイ歴史センターの向かい側に建つ。ラパウはブルネイ王室の伝統的な儀式が挙行されるホールである。ここには、黄金のドームになった天井がある。現在のブルネイの国王・ハサナル・ボルキアは1968年8月1日にここで戴冠した。2011年7月から発行が開始されたブルネイの紙幣には、光を当てるとラパウが浮かび上がるようになっている。

サラワク王国
サラワク王国(1841年 - 1946年)は、ボルネオ島北部(現在のマレーシア・サラワク州とブルネイ)に存在した白人王国。ジェームズ・ブルック(James Brooke 1803年 - 1868年)が建国し、ブルック王朝3代が統治した。19世紀半ばのブルネイでは原住民の反乱が相次ぎ、ブルネイのスルターンは1839年にサラワクのクチンにやって来たイギリス人の探検家ジェームズ・ブルックに鎮圧を依頼。ブルックは、英国海峡植民地政庁の協力で鎮圧に成功し、褒賞としてサラワクを割譲させ、ラージャ(藩王)に任じられた。ブルックは“白人王 (White Raja)”の称号を与えられ、ここにサラワク王国が建国された。

スールー王国
Sultanate of Suluはかつてフィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島に存在した国。スルタンを戴くイスラム教国で、1450年代に成立したが、資料によってはその成立時期はより早い。ムスリムの研究者の中には、さらに1世紀前のラジャ・バギンダ・アリ(Raja Baguinda Ali)の時代からスールー王国が存在したと見る者もいる。


ブルネイよいとこ南の風通信
現地に在住する日本人男性が発信する総合情報サイト。

ブルネイマニアックス
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カンポン・アイール
Kampong Ayerはブルネイにある水上集落。ブルネイの首都バンダルスリブガワンのブルネイ川の水上にある。水上にありながら電気、水道などのインフラの整備はすすんでいる。また、学校や警察、商店、ガソリンスタンド、モスクも存在する。住民の大多数はムスリムであり、国家公務員として働いている人が多い。

テンブロン地区
テンブロン地区は飛び地であり、ブルネイの本国からマレーシア及びブルネイ湾によって切り離されている。行政庁所在地はバンガルで、主要な町はプカン・バンガル(Pekan Bangar)。北はブルネイ湾に面し、東・西・南はマレーシアのサラワク州が接する。人口は9,300人、面積は1,166km2。

ブルネイ博物館
Brunei Museumはブルネイ・ダルサラーム国の国立博物館。首都のバンダルスリブガワンにある。1969年以降、博物館ではブルネイ博物館ジャーナルという学術雑誌を年1回発行している。ブルネイの歴史・文化・産業・エネルギー資源(石油・天然ガス)・動植物など幅広い分野に渡って展示されている。


ブルネイ博物館ジャーナル
(Brunei Museum Journal)はブルネイ博物館が1年に1回発行している学術雑誌である。第1号が刊行されたのは1969年のことである。この雑誌は、ブルネイ・ボルネオ島(カリマンタン島)・東南アジアの学問の発展に寄与している。自然科学から考古学・民族学・歴史学といった人文科学に至るまで幅広い話題について掲載される。投稿者は博物館員のほか、同館の関係者ではない個人も含まれる。

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■人種
マレー系 67%、中国系 15%、先住系諸民族 6%、その他 12%。



■言語
同国の憲法では、マレー語は公用語と定められているが、国語とは呼ばれない。英語も広く通用する。中国語の方言も、中国系住民の間で用いられる。因みに、「マレー語」「マレイ語」の呼び方はオランダ語のMaleisch、英語のMalayを日本語に音訳したもので、原語ではBahasa Melayu(バハサ・ムラユ)という。即ち「ムラユ語」である。

■宗教
イスラム教が国教である。しかし、クリスマスが国民の休日になっている(キリストはイスラム教でも預言者の1人)。また、週の休日は金曜日と日曜日である。イスラム教 67%、仏教 13%、キリスト教 10%、先住系諸民族固有の信仰とその他 10%。


ジェームズ・ブルック
(Sir James Brooke, 1803年4月29日 - 1868年7月11日)は、イギリスの探検家。ボルネオ島北部に存在した白人王国「サラワク王国」の初代藩王(在位1841年-1868年)。イギリスでは帝国主義を体現する代表的な人物として知られている。1835年に父親が亡くなると遺産を相続しそれを使って船と乗組員を用意してシンガポールに向けて出航した。到着後、当時サラワクの統治者だったブルネイの王族への友好使節となるよう政府に依頼され引き受けた。

アルムタデー・ビラ
Haji Al-Muhtadee Billah Bolkia、1974年2月17日 - はブルネイ皇太子。第29代ブルネイ国王(スルダーン)ハサナル・ボルキア国王とサレハ王妃の第三子にして長男、現ブルネイ皇太子。1997年、オックスフォード大学モードリン・カレッジに卒業し、翌年の1998年に皇太子となる。2004年9月9日、17歳のPengiran Anak Sarah王妃と成婚。

マリア・グレース・コー
Maria Grace Koh、1992年10月26日はブルネイの女子競泳選手。8歳から水泳を始め、10歳のときに初めて代表として国際大会に出場している。2008年には北京オリンピックの代表に陸上競技のモハマド・ヤジド・ヤティミ・ユソフとともに選ばれ、北京市内で調整を行っていたがブルネイオリンピック委員会による選手登録の遅れにより出場できなかった。

チャールズ・ブルック
(Charles Anthony Johnson Brooke、1829年6月3日 - 1917年5月17日)は、イギリスの保護国であるサラワク王国の第二代藩王(在位1868年 - 1917年)。初代藩王ジェームズ・ブルックの甥(姉の子)。彼の後は、息子のヴァイナー・ブルックが第三代藩王に即位した。

ブルネイ Darussalam
東南アジアのイスラム教国で、イギリス連邦加盟国である。カリマンタン島(ボルネオ島)北部に位置し、北側を南シナ海に面するほかは陸地ではマレーシアに取り囲まれている。首都はバンダルスリブガワン。元首はハサナル・ボルキア国王(スルターン)。

スルターンの称号を有する国王が国家元首(立憲君主制)だが、国王の権限が強化されており、絶対君主制の一種である。首相は国王が兼任し、閣僚は国王によって指名される。内閣は国王が議長となり、行政執行上の問題を処理する。

バンダルスリブガワン
Bandar Seri Begawanは、ブルネイの首都で、同国の最大都市。ブルネイ・ムアラ地区の行政庁所在地でもある。BSBと略されることもある。人口は140,000人(2010年)、都市圏人口は276,000人(同年)。旧称はバンダルブルネイ市であった。前スルターン(国王)のオマル・アリ・サイフディン IIIにちなんで1970年10月1日に改称された。

セリア
Seriaはブルネイ・ダルサラーム国のブライト地区にある同国第3の町。正式名称はマレー語で「町」の意味を持つ「プカン(Pekan)」を冠したプカン・セリア(Pekan Seria)である。第二次世界大戦中、ボルネオ島への日本の侵攻軍が初めて上陸した地点がセリアであった。真珠湾攻撃から9日[5]たった1941年12月16日4時40分頃に「川口支隊」が侵攻を開始した。支隊は、イギリス領マレーシア石油会社の従業員、第2大隊、パンジャブ第15連隊(15th Punjab Regiment)及びイギリス陸軍王立工兵が「操業拒否」していたために、油田が荒廃しているのを目の当たりにした。侵攻軍は石油採掘部隊を継続し、油田を佐藤工兵主 任の下で速やかに復旧した。3年後には日本軍は生産量を戦前の水準までほぼ回復させ、他の日本の兵器の燃料の供給源が閉ざされていたため、セリアで戦闘が行われる6か月前まで、石油燃料の大半はこの地で生産された。

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ブルネイ国際空港
Brunei International Airportは、ブルネイ・ダルサラーム国のバンダルスリブガワンにある国際空港である。ロイヤルブルネイ航空の本拠地である。

アンドゥキ飛行場
Anduki Airfield、(ICAO: WBAK))は、ブルネイ・ダルサラーム国ブライト地区セリア郡アンドゥキ村にある飛行場。ブルネイシェル石油(Brunei Shell Petroleum、BSP)によって運営され、ヘリコプターのシコルスキー S-92が沖合の石油プラットフォームの操業支援に利用されている。

ロイヤルブルネイ航空
Royal Brunei Airlinesは、ブルネイの航空会社。同国のフラッグキャリアで、ブルネイ政府が所有する国営航空会社である。ロイヤルブルネイ航空は1974年11月18日に設立。翌年1975年5月14日に2機のボーイング737にて初の国際線であるブルネイ〜シンガポール線を開設した。


ジュルドンパーク
(Jerudong Park)は、ブルネイ・ダルサラーム国ブルネイ・ムアラ地区ジュルドンにある遊園地。東南アジア最大で最も予算が投じられた遊園地であり、ブルネイ政府が10億ブルネイ・ドルを費やして建設した。香港ディズニーランドの第1期よりも面積が大きい。特筆すべきは、開業からの2000年までの6年間ジュルドンパークの入場料やアトラクションの利用料が無料であったということである。すなわち、来園者はただアトラクションに乗るために順番待ちをすればよかった。しかしながら、来園者及び観光客の数の減少が著しくなり、 1回の入場で15ブルネイ・ドルの入場料を徴収し、すべてのアトラクションにチケット制を導入した。

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デワン・バハサ・ダン・プスタカ図書館
Dewan Bahasa dan Pustaka Library, Dewan Bahasa and Pustaka Brunei Libraryは、ブルネイ・ダルサラーム国の国立図書館である。略称はDBP。首都・バンダルスリブガワンに位置する。ブルネイの中核を成す図書館であり、公務員や研究者らのよりどころとなっている。図書館員は152人で15人が専門家であるが、多くは国外の大学で図書館学の学位を取得している。

ブルネイ工科大学
Institut Teknologi Bruneiは、ブルネイ・ダルサラーム国ブルネイ・ムアラ地区ガドンツンク・リンク通りに本部を置くブルネイの国立大学である。2008年に設置された。ブルネイ工科大学では、クイーンズ大学ベルファストと提携して授与しているものを含め、5種類の学士の学位を授与している。

ブルネイ・ダルサラーム大学
Universiti Brunei Darussalamは、ブルネイ・ダルサラーム国ブルネイ・ムアラ地区バンダルスリブガワンガドンツンク・リンク通りに本部を置くブルネイの国立大学である。1985年に設置された。 大学の略称はUBD、ブルネイ大学。教員数300人、学生数2,800人を擁するブルネイ最大の大学で、かつブルネイ最古の大学である。


外務省:ブルネイ・ダルサラーム国
在ブルネイ日本国大使館


ムアラ
(Muara)はブルネイ・ダルサラーム国のブルネイ・ムアラ地区にある町。ブルネイ唯一の水深の深い港湾を有する。ムアラ町(Pekan Muara) はスラサ郡に属し、西ブルネイの最東端に位置する。

ジュルドン
Jerudongはブルネイ・ダルサラーム国ブルネイ・ムアラ地区[1]の北部にある都市。2008年現在の人口は94,899人で、ブルネイ国内で第3位、ブルネイ・ムアラ地区で第2位、ボルネオ島(カリマンタン島)内で第12位。

クアラブライト
Kuala Belaitはブルネイ・ダルサラーム国ブライト地区クアラ・ブライト郡にある町。同国の首都・バンダルスリブガワンに次ぐ都市であり、ブライト地区の行政庁所在地として機能する。20世紀に入るまでクアラブライトは小さな漁村にすぎなかった。 原住民はブライト人というマレー人の一派で、彼らは主に漁業を生業としていた。発展のきっかけとなったのはパダン・ブラワ(Padang Berawa、現在のセリア)で石油が発見されたことである。

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バンダルスリブガワン中心業務地区
Downtown Bandar Seri Begawanは、ブルネイ・ダルサラーム国の首都であるバンダルスリブガワンの中央に位置する中心業務地区である。人口は1990年時点で約27,000人、2009年には約70,000人に増加した。バンダルスリブガワン中心業務地区は、ボルネオ島有数の人口規模を持つ地区である。また、この街のスカイラインやカンポン・アイールの風景から「東洋のベニス」と呼ばれる。

ブライト地区
Belaitはブルネイ・ダルサラーム国西端に位置する同国の最大の地区である。ブルネイの地区(マレー語:daerah)は日本における都道府県に相当する行政区画である。「ブライト」の名はこの地区に住む原住民のブライト人に由来する。

ブルネイ・ムアラ地区
Brunei-Muaraは、ブルネイ・ダルサラーム国北端にある地区(マレー語:daerah)である。ブルネイの地区は日本の都道府県に相当する行政区画である。この地区の面積はブルネイ最小であるが、国内人口の半数以上である約380,000人(統計年次不明)が暮らす。

ツトン地区
Tutongはブルネイの行政区画(マレー語:daerah)の一つ。ブルネイの「地区」は日本における都道府県に相当する。行政庁所在地はプカン・ツトン。ツトン地区にはブルネイ最大の湖沼タセク・メリンブン(Tasek Merimbun)があり、ASEANの遺産公園に登録されている。

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プカン・ツトン
(Pekan Tutong)はブルネイの小都市であり、ツトン地区の行政庁所在地である。ツトン地区の行政庁所在地であるため、初等教育から中等教育に至るさまざまな教育機関がこの町に集まる。高等教育(大学)に関しては地区外へ出る必要がある。

バンガル
(Bangar)はブルネイ・ダルサラーム国テンブロン地区(Temburong District)に位置する小都市で、同地区の行政庁所在地である。2008年現在の人口は3,970人。この町にはブルネイの主要な採石場があり、巨石が採石・成形・積み出され、首都・バンダルスリブガワンの石材場に運ばれ、同市の建設業に利用される。


スンガイ・マウ
(Sungai Mau)は、ブルネイ・ブライト地区のブキト・サワト郡にある村(マレー語:Kampong)。スンガイ・マウレクリエーション公園はこの村の近郊、スンガイ・リアン(Sungai Liang) - ラビ(Labi)道路沿線にある。村にはアル・マッシュホーモスク(Al-Mashhor Mosque)というモスクがあり、多目的ホールと外来診療所が併設されている。

セリア郡
Seriaは、ブルネイ・ダルサラーム国ブライト地区にある郡である。面積は約169km2。ブライト地区の北西部に位置し、郡の北部は南シナ海に面する。人口はおよそ27,000人で、マレー人や中国人を含む多様な民族から成る。セリア郡にあるセリア町には、グルカ族と呼ばれるネパール人の共同体があり、イギリス陸軍のグルカ兵の旅団を成す。

ラビ郡
Labiはブルネイ・ブライト地区にある郡。14の村(カンポン、マレー語:kampong)からなる行政区画である。ラビ郡はラビライム(マレー語:Limau Labi)の特産地である。都市から離れた農業地帯であるが、電気・電話・道路・ごみ処理・公園が整備されている。

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キアンゲ郡
Kianggeh)は、ブルネイ・ダルサラーム国ブルネイ・ムアラ地区にある郡。バンダルスリブガワン市内を流れるキアンゲ川の川岸には早朝から夕方まで「キアンゲ市場」(Tamu Kianggeh)が開かれる。日本で売られていないような熱帯地方特有の産物も多く、野菜・果実・香辛料などが露店に並ぶ。

セラサ郡
Serasa)は、ブルネイ・ダルサラーム国ブルネイ・ムアラ地区にある郡。ブルネイ・ムアラ地区の東端及び北端にある郡である。郡内にはブルネイ最大の港湾であるムアラ港がある。セラサ郡にはいくつかの島と2つの砂州がある。主なものにペロン・ペロンガン島(またはペロン岩)、ムアラ大島、人工の島であるペルンポン岬などが挙げられる。

コタ・バトゥ郡
Kota Batuはブルネイ・ダルサラーム国ブルネイ・ムアラ地区にある郡。ブルネイの国立博物館であるブルネイ博物館とマレー科学技術博物館は、コタ・バトゥ郡のコタ・バトゥ村にある。


ブルネイ料理
Masakan Bruneiは、東南アジアの1国ブルネイの料理であり、マレーシア、シンガポール[1]、インドネシアの料理と似ており、それらから強く影響を受けているもので、インド、中国、タイ、日本からの影響もある。その地域で一般的な魚や米、デンプン食品が多用される一方、牛肉は高価であることからあまり使われない。イスラム教の勢力地域であるため、食事はハラールで豚肉は避けられる。アルコールはブルネイでは禁止されている。

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サゴヤシ
樹幹からサゴという食用デンプンが採れるヤシ科やソテツ目の植物の総称である。サゴはヤシ科のサゴヤシ属(Metroxylon)など11属から採れるほか、ソテツ目のソテツ属(Cycas)など3属からも採れる。英語ではサゴが採れるソテツ属の植物も sago palm と言うことがある。

アンブヤット
Ambuyatは、サゴヤシの木の幹の内側から得られるブルネイの食品である。デンプン質の風味のない食べ物で、タピオカデンプンに似ている。サゴは小麦粉状の粉末であるが、お湯を加えてかき混ぜるとガムのようになる。アンブヤットは「キャンダス」(chandas)と呼ばれる竹製のフォークでデンプンを巻き取り、カカー(cacah)というすっぱい果物ソースにつけて食べる。ソースには辛味を付けるためチリパウダーを加えることがある。


1.面積:5,765平方キロメートル(三重県とほぼ同じ)
2.人口:41.4万人(2010年)(外国人在留者含む、出典:「Brunei Darussalam Key Indicators 2010(ブルネイ政府首相府経済企画開発局(以下JPKE))」)
3.首都:バンダルスリブガワン
4.民族:マレー系(含その他の先住民族)66.6%、中華系11%(出典:「Brunei Darussalam Statistical Yearbook 2008 」)
5.言語:憲法で公用語はマレー語と定められている。
英語は広く通用し、華人の間では中国語もある程度用いられている。
6.宗教:イスラム教(国教)、キリスト教、仏教等

14世紀末 アラク・ベタタール王がイスラム教に改宗して初代スルタン・モハマッドとなる
16世紀 ・マゼラン艦隊、ブルネイ湾に入港。
・第5代スルタン・ボルキアの統治下、サバ州、サラワク州及びフィリピン南部を統治、ブルネイ王国の最盛期
1888年 英国と保護協定を結び、外交を英国が担当
1906年 内政を含め英国の保護領となる
1959年 内政の自治を回復
1962年 アザハリの反乱(ブルネイ人民党のメンバーによる、スルタン制及びブルネイのマレーシア連邦参加に対する反乱)
非常事態宣言を発布(現在に至る)
1984年 英国より完全独立(1月1日)

■主要産業:石油・天然ガス(産出量:石油(16.8万バレル/日)、天然ガス(114億立方メートル/年))
■貿易品目(2009年)(1)輸出 天然ガス、石油(この二品目で総輸出額の96.1%)、その他(2)輸入 動物性又は植物性の油脂及びその分解生産物、調整食用脂、並びに動物性又は植物性のろう(26.4%)、機械・輸送機器(13.5%)、食料品及び動物(6.1%)、工業製品(2.5%)、その他


■政治
スルターンの称号を有する国王が国家元首(立憲君主制)だが、国王の権限が強化されており、絶対君主制の一種である。首相は国王が兼任し、閣僚は国王によって指名される。内閣は国王が議長となり、行政執行上の問題を処理する。このほか、宗教的問題に関する諮問機関である宗教会議、憲法改正などに関する諮問機関である枢密院、王位継承に関する諮問機関である継承会議があり、国王に助言をする。


■経済
石油、天然ガスの輸出により、非常に経済は潤っている。石油天然ガス部門がGDPのほぼ半分、輸出のほぼ全てを占めており、それらに依存した経済構造となっている。また、貿易依存度も高い。食料品はそのほとんどを輸入している。物価は他のアジア諸国と比べて高い。2010年の一人当たりのGDPは約28,000ドルであるが、医療費が無料であることや所得税がないため、購買力では名目の数字より水準が高いと言える。

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ハサナル・ボルキア
Haji Hassanal Bolkiah Mu'izzaddin Waddaulah、1946年7月15日 - は、ブルネイ国王(スルターン)。第29代に当たる。日本では「ハサナル・ボルキア国王」の呼称が主に用いられる[1]。首相・国防相・蔵相を兼任し、ブルネイの国体下において、事実上の絶対君主と言える強大な権限を有している 。また、世界各国の君主の中でも有数の資産家としても知られ、ギネス・ワールド・レコーズに世界一の富豪として記録されていたこともある。

フェルディナンド・マゼラン
(Ferdinand Magellan、1480年 - 1521年4月27日)は大航海時代のポルトガルの航海者、探検家であり、マゼランが率いた艦隊が1522年に史上初の世界一周を成し遂げた。フィリピン諸島での最初の寄港地には安全な無人島を選んだ。翌3月18日、初めてフィリピン人つまり近くのスルアン島の住人に出会うが、マゼラン達は出会ったフィリピン人を「ものの道理が分かる人」と評価している。つまり、王の元での秩序ある社会を築き、文化を持っている人々とみなしたのである。

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