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ブータン王国
Kingdom of Bhutan

アジア

世界遺産のない国、ブータンの魅力
(ユーラシア旅行社添乗見聞録)

ブータンを旅行したことのある方なら、ブータンが「世界遺産級」の優れた建築物の宝庫であることを既にご存知でしょう。それにも関わらず、ブータンに世界遺産が存在しないのは、実は、ブータンの人々自身が、「ゾン」のような政治的・宗教的建造物が世界遺産になることを強く拒んでいるからなのです。 そして、その理由は全て、「物質よりも精神の充実」を拠りどころとした「国民総幸福量」という独自の概念に関係しています。


南アジア
インド、スリランカ、ネパール、パキスタン、バングラデシュ、ブータン、モルディブの各国を含む地域。面積は 4,480,000 km2。しばしばインド亜大陸として言及される。地形は、北ではヒマラヤ山脈とカラコルム山脈、西ではスライマン山脈とインダス川やタール砂漠、東ではプラフマプトラ川やアラカン山脈、そして半島部分はベンガル湾、アラビア海、インド洋などが存在する地域である。


ヒマラヤ山脈
Himalayan Range)は、アジアの山脈で、地球上で最も標高の高い地域である。ヒマラヤは、インド亜大陸とチベット高原を隔てているカラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈、パミール高原から続く無数の山脈から構成される巨大な山脈である。

ガンカー・プンスム
Gangkhar Puensumはブータンの最高峰であり、登頂されていない山の最高峰でもある。標高は海抜7570メートル。1983年にブータンが登山を解禁してから、1985年と1986年に4つの遠征隊が登頂に失敗している。だが、1998年に従属頂への登頂にチベット側から成功した。

メコノプシス属
西ヨーロッパと中央アジア、ヒマラヤの高山地帯(パキスタン、インド北部、ネパール、ブータン、中国のチベット自治区)、ミャンマー北部及び中国横断山脈(青海省、甘粛省、四川省、雲南省)という隔離分布をする一年生もしくは多年生の草本植物であり、50種近くが知られている。


ブータンの地理
内陸国ブータンは、インドと中華人民共和国(チベット)という二大国に囲まれた地政学上非常に微妙な位置にある。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈の上を走っている。従って国境線が確定していない部分も多く、国境画定交渉が現在も進められている。


モンスーン
ある地域で、一定の方角への風が特によく吹く傾向があるとき、その風を卓越風と呼ぶが、季節によって風の吹く方角(卓越風向)が変化するものをモンスーン(英語:monsoon)と呼ぶ。


チベット
Tibet,南はヒマラヤ山脈、北は崑崙山脈、東は邛崍山脈に囲まれた地域、およびこの地域に成立した国家や政権、民族、言語等に対して使用される呼称。チベットの周辺諸国が古くから用いて来た呼称「tubat」(モンゴル語・満州語)、「tbt」(アラビア語)等に由来し、チベット人自身は「プー (bod)」(チベット語)と称する。日本語のチベットは英語「Tibet」経由で明治期に成立した呼称である。


チベット仏教
チベット仏教は、根本説一切有部の厳格な戒律に基づく出家制度から、大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教である。漢訳経典に依拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。インド大乗仏教の系譜を、ヒマラヤ山脈を挟んで目と鼻の先という地の利を活かし、事実上世界で唯一継承・保全してきた極めて貴重な存在だと言える。


サンスクリット
Sanskritは古代から中世にかけて、インド亜大陸や東南アジアにおいて用いられていた言語。現在の母語話者は少ないが死語ではなく、インドでは憲法で認知された22の公用語の一つである。宗教的な面から見ると、ヒンドゥー教、仏教、シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語であり、その権威は現在も大きい。


カギュ派
チベット仏教の4大宗派の1つ。11世紀ころのチベットへの後伝期に翻訳されたタントラに主として従う、サルマ派(新訳派)に属する。 開祖はマルパ訳経師(マルパ・ロツァワ)と弟子のミラレパであり、ミラレパ以来の伝統として「レパ」と呼ばれるヨーガ行者が白い綿衣を身に纏うことから古くは「白派」と漢訳された。

ニンマ派
チベット仏教四大宗派における最古の流れの呼び名である(残りはサキャ派、カギュ派、ゲルク派)。正式には「ンガギュル・ニンマパ(旧訳古派)」といい、9世紀まで続いた古代吐蕃時代に翻訳された古タントラ(古訳密教経典[註 1])に依拠する古い宗派であることを意味する。他の三宗派と同じように声聞独覚乗(狭義の小乗)・菩薩乗(大乗)・秘密真言乗(金剛乗)の三乗を併修することを説く。

パンチェン・ラマ
Panchen Lama、は、チベット仏教ゲルク派においてダライ・ラマに次ぐ高位の化身ラマの称号である。無量光仏(阿弥陀如来に相当)の化身とされ、転生(生まれ変わり)によって後継者が定められる。チベットのシガツェ市のタシルンポ寺の座主である。チベット仏教ゲルク派で序列2位とされるが、ゲルク派内での宗教上の格式は、ダライ・ラマにも匹敵する。

ラージャ
Raja,とはサンスクリット語の語彙で、君主号または貴族の称号のことである。強大な権勢を持つラージャは、「マハラージャ」という。日本語に訳せば「王」・意訳して「豪族」の意味。藩王(はんおう)とも呼ばれる(この場合、支配する領域は藩王国と呼ぶ)。

法 (仏教)
仏教における法とは、三宝のひとつで、本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」などを示す。仏教ではこの法の概念を重要視し、いろいろな使いかたや意味づけがなされており、この法ということばで、法則・真理を示し、それから教法や説法も指し、存在を意味し、具体的な存在を構成する要素的存在を意味する。ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhR) からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨(だつま)、達摩(だつま)、曇摩(どんま)、曇無(どんむ)などとなり、通常は「法」と訳されている。


クーチ・ビハール県
Cooch Behar district、インド・西ベンガル州に属する県。県都はクーチ・ビハール (Cooch Behar) 。県の南部はバングラデシュとの国境となっている。国境地帯は双方の飛び地が散在し、非常に錯綜した状況になっている。1680年から1772年にかけてブータンに臣従していたが、プラッシーの戦い(1757年)を契機にイギリス東インド会社の影響下に入り、イギリス統治時代には藩王国に位置づけられてクーチ・ビハール(コチビハール)藩王国 (Koch Bihar) となった。


シッキム州
Sikkim)は、インド北東部の州である。ヒマラヤ南麓のネパールとブータンのあいだに位置する。かつてシッキム王国だった歴史的な経緯により、インド28州のうち人口最少、面積はゴア州に次いで2番目に狭いという小さな州となっている。1706年, ブータン王がカリンポン一帯を奪い取り、現在の地名に変更した。1780年代後半、ネパールから来たグルカ族がダージリンとカリンポンに侵攻し、1788年までに一帯を支配した。


<歴史>
■13世紀前半
パジョ・ドゥゴム・シクポ(1184年 - 1251年)によってチベット仏教のドゥク・カギュ派が伝えられ、以後、同地に定着していった。

■16世紀末
化身ラマが同派内にも出現するようになった。第13代座主キンガ・ペンジョル(1428年 − 1475年)の転生者とされるジャムヤン・チェキタクパ(1478年 - 1523年)をはじめとする化身ラマの系譜(ギャルワン・ドゥクチェン)は、代を重ねるにつれ、同派内で大きな勢力を持つようになった。

■1616年
ギャ氏に忠実な勢力が優勢なチベット南部のモン地方に移り、自身の政権を樹立した。ドゥクパ政権は、1634年のデシー・ツァンパ政権からの攻撃、1714年のダライラマ政権からの攻撃を跳ね返し、チベット本土からは自立した国家としての基礎が固められた。現在の国土は東部がシャーチョップ族、西部がガロップ族、南部がネパール族の土地となっている。ネパール族の多くは20世紀の初めに移住した。

■19世紀末
内戦状態にあったブータンの中で、東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが支配的郡長として抬頭し、1907年、初代の国王となった。

■1972年
第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクの急死後、第4代国王として16歳で即位したジグミ・シンゲ・ワンチュクが永らく国王の座にあり、2005年には総選挙が実施される。2008年に退位することを発表していたが、予定を繰り上げ2006年12月に譲位し、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位した。


ブータン/Wikitravel



■名前の由来
現在対外的に用いられている国名「ブータン」の語源についてははっきりとわかっていないようだが、一説には、サンスクリット語で「高原」あるいは「インドの先」を意味する"Bhu-Uttan"であるとされている。また、国名の語源を、同じサンスクリット語で「チベットの果て」「チベットの尾部」を意味する"Bhots-ant"であろうとする説もある。


■経済
IMFの統計によると、ブータンの2011年のGDPは14億ドルであり、日本の人口5万人程度の市町村に相当する経済規模である。一人当たりのGDPは2121ドルであり、世界平均と比較すると大幅に低い水準である。主要産業はGDPの約35%を占める農業(米、麦など、林業も含む)だが、最大の輸出商品は電力である。国土がヒマラヤの斜面にあることをいかし、豊富な水力による発電を行い、インドに電力を売却することにより外貨を得ている。


アジア開発銀行
ADB、Asian Development Bank)は、アジア・太平洋における経済成長及び経済協力を助長し、開発途上加盟国の経済発展に貢献することを目的に設立された国際開発金融機関。本部はマニラ。ESCAP(アジア太平洋経済社会委員会)の発案により、1966年に発足した。現在67か国/地域で構成される。最大の出資国は日本と米国(ともに出資比率15.7%を占める)である。

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後発開発途上国
Least developed country)とは、国際連合(国連)が定めた世界の国の社会的・経済的な分類の一つで、開発途上国の中でも特に開発が遅れている国々のことである。略語としてLDCと表記される。



■観光
文化・自然保護の観点からハイエンドに特化した観光政策を進めており、フォーシーズンズなどの高級ホテルの誘致に成功した。外国人観光客の入国は制限されており、バックパッカーとしての入国は原則として不可能。



■農業
1990年時点では労働人口の9割が自給的な農業、もしくは放牧業に従事していた。これらの農民の多くは国民経済計算の対象となる貨幣経済に属していなかったため、ブータン経済は実態よりも小さくみえる。国内総生産においても農業部門が43%(1991年)を占めていた。平原であるわずかな低地部ではコメが、国土の50%を超える山岳部では果樹などが栽培されている。ブータン農業は自家消費が目的であり、自給率はほぼ100%だった。例外は輸出が可能な果樹、原木である。



文化
ブータンは、気候・植生が日本とよく似ている上に、仏教文化の背景も持ち合わせており、日本人の郷愁を誘う場合も多い。

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■飲み物
酒は、総称をチャンと言い、大麦、米、トウモロコシ、アマランサスなどを使用する。自家醸造は許可されているが、販売はできない。酒の醸造は麹(ポップ)を用い、スターターはシダの葉のものと藁のものとがある。主に醗酵酒のシンチャンと蒸留酒のアラがある。特に東部地方ではアラが常飲されることで有名である。


■スポーツ
伝統的な競技としては国技の弓術が代表的である。子供はダーツのような「クル」、石投げなどで遊ぶ。武器の扱えない僧侶は石投げに興じることが多いが、近年では聖俗問わずサッカー人気も高い。特に、サッカーや格闘技は、ケーブルテレビの普及以降、爆発的に人気を獲得した。


キラ (民族衣装)
隣国インドのサリーの影響を受けて発展したもので、一枚布を複雑に体に巻いてワンピースのように着用する形式だが、着装法や特殊な環境への適応などの独自性から衣服文化学の世界では特異な存在である。


ゴ (Gho) はブータンの男性の民族衣装。隣国チベットの影響を受けた、前に打ち合わせる筒袖の服でその形状は和服に似る。 ちなみにブータン女性の民族衣装であるキラは同じく隣国インドのサリーと同様の、一枚布とぴったりしたシャツの組み合わせである。


■言語
公式には、チベット語系のゾンカ語(Dzongkha)が公用語である他、ネパール語と英語も広く使われている。1949年までの長い間イギリスの保護国であったことから政府の公式な文書などは英語で書かれるため、英語は準公用語的な地位にある。また、ほぼすべての教育機関が英語を教授言語(ゾンカ語は国語という科目名で教えられている)としている。

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ゾンカ語
ブータンの国語である。シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派 チベット・ヒマラヤ語群に属する言語で、チベット語の南部方言に分類される。話者数は約40万人(1991年)。ゾンカの「カ」が「言語」を表すことから、「ゾンカ語」ではなく「ゾンカ」が用いられる場合も多い。

ネパール語
Nepali)は、ネパール、ブータン、インドのシッキム州やミャンマーの一部で話されるインド・イラン語派の言語。ネパール及びインドのシッキム州の公用語である。ネパール人口の約半数が母語とし、その他のネパール人は第二言語とするものが多い。またインドでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語のひとつである。


ドゥルック
ドゥルック(Druk)は、ブータンに伝わる竜で、「雷竜」と訳される。「ドゥルック・ユル」で「雷竜の国」という意味になる。本来のブータンの国名は「ドゥルック・ユル」が正しく、「雷竜の国」と呼ばれる所以である。国王の名称は「ドゥルック・ギャルポ」と言い、直訳すると「雷竜王」となる。ブータン建国時代のチベット仏教の僧侶が「これ以上進むのは困難」とし、リーダーである僧侶が「行き止まりのこの土地に僧院を建てよう」と他の僧侶たちにも告げた。その建立の話し合いの際、突然雷音が轟き渡ったが、空は真っ青な空であった。にもかかわらず強烈な雷音が響いたという。そしてその雷音を竜の雄たけびとし、仏教の守護神が良い知らせを伝えているものだと解釈したという。僧院の名は「ナム・ドゥルック(天に舞う竜)」となり、チベット仏教ドゥルック派を国教としたドゥルック・ユル(雷竜の国)が誕生したという。


ブータンシボリアゲハ
Bhutanitis ludlowi Gabrielは、チョウ目・アゲハチョウ科・ウスバアゲハ亜科・シボリアゲハ属に分類されるチョウの一種。ブータンのヒマラヤ山脈の標高約2,200 m山腹で1933年にイギリス人により発見採取され、5匹の標本のみが大英自然史博物館で保存され、以後確認されておらず生態の解明があまり進まず「秘蝶」とされていた。後に「ヒマラヤの貴婦人」とも呼ばれた。2011年8月中旬に、日本の調査隊により以前と同じ場所で78年ぶりに再発見され、飛来や産卵などの様子が初めてテレビカメラで撮影され5体が捕獲された。


パドマサンバヴァ
8世紀後半頃)はチベットに密教をもたらした人物。チベットやブータンではグル・リンポチェ(gu ru rin po che)として知られる。チベット密教の開祖であり、ニンマ・パ(ニンマ派、漢訳;紅教)と呼称される宗派の創始者である。この「ニンマ・パ」とは、チベット語で「古い・宗派」を意味し「古派」とも訳される、これがチベット仏教における最初の宗派であることによる。

ジグミ・シンゲ・ワンチュク
Jigme Singye Wangchuck,1955年11月11日 - は、第4代ブータン国王。1972年に16歳で即位した。開明的な国王として知られ、強大な国王の権限を徐々に縮小する民主化政策を進めた。1971年に計画委員会議長に就任し、1972年には、実質上の皇太子となるトンサ・ペンロプに任命された。同年7月21日、第3代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクが外遊先であるケニアのナイロビで崩御したため、急遽第4代国王に即位。この時点で彼はまだ16歳であり、世界最年少の国王として話題となった。内政に関しては、保守的な面と革新的な面を併せ持ち、国民総生産にかわる「国民総幸福量」 (GNH) という概念を提唱したことでも有名である。


ガワン・ナムゲル
Ngawang Namgyal、1594年 - 1651年)は、ブータンの君主、チベットの僧侶。ブータンでは初代シャブドゥンとして国内に強力な政権を樹立した。1592年、カギュ派の一系列であるドゥク派の第4世化身(トゥルク)ペマ・カルポが入寂すると、2人の子供が化身に認定され、それぞれを支持する内紛が発生した。1人は1593年に生まれたゲルワン・ドゥクチェン5世パクサム・ワンポであり、もう1人がその翌年に生まれたガワン・ナムゲルである。

パドマサンバヴァ
8世紀後半頃)はチベットに密教をもたらした人物。チベットやブータンではグル・リンポチェ(gu ru rin po che)として知られる。チベット密教の開祖であり、ニンマ・パ(ニンマ派、漢訳;紅教)と呼称される宗派の創始者である。この「ニンマ・パ」とは、チベット語で「古い・宗派」を意味し「古派」とも訳される、これがチベット仏教における最初の宗派であることによる。

ソナム・テンジン
(Sonam Tenzin 、1986年10月20日 - )は、ブータン出身のサッカー選手。ポジションはディフェンダー (サッカー)。ブータン代表に選ばれている。現在はインドの2部リーグブッディスト・ブルー・スターズに所属している。

ワンゲイ・ドルジ
(Wangay Dorji 、1974年1月9日 - )は、ブータン出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。2002年6月30日に行われたアザー・ファイナルのモントセラト代表との試合にブータン代表のキャプテンとして出場し、4分、66分、78分にシュートを決め、ハットトリックを記録した。試合はブータンが4-0で勝利した。

ジェツン・ペマ・ワンチュク
(Jetsun Pema Wangchuck:1990年6月4日 - )は、ブータン王国の第5代国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクの王妃[1]。高校時代はバスケットボールチームのキャプテンを務め、卒業後は英国のリージェンツ・カレッジで国際関係論と美術史を学んでいたほか、ゾンカ語・英語・ヒンディー語に堪能。 2011年5月20日に結婚を発表、同年10月13日に古都プナカで華やかな仏教式を挙げた。

ソンツェン・ガンポ
(581年頃 - 649年)は、古代チベットの王。伝説上では33代目とされるが、事実上の吐蕃の建国者。ラサを都として、領域を拡大。チベット文字を制定し、インドや中国の文化を積極的に取り入れた。十六清浄人法という道徳律や大小の宝石で十二位階に分けた位階を制定したりと、日本の聖徳太子にも似たところがある。

ブータン Bhutan
南アジアにある国家。インドと中国にはさまれている、世界で唯一チベット仏教(ドゥク・カギュ派)を国教とする国家である。民族はチベット系8割、ネパール系2割。公用語はゾンカ語と英語。首都はティンプー。

内陸国ブータンは、インドと中華人民共和国(チベット)という二大国に囲まれた地政学上非常に微妙な位置にある。インドとは東をアルナーチャル・プラデーシュ州、西をシッキム州、南を西ベンガル州及びアッサム州で接しており、その国境線は605kmに達する。また北の国境線470kmは中華人民共和国のチベット自治区と接している。中華人民共和国との国境の大部分はヒマラヤ山脈の上を走っている。従って国境線が確定していない部分も多く、国境画定交渉が現在も進められている。

ティンプー
Thimphuは、ブータン王国の首都。ブータン最大の都市。 ブータン西部、ヒマラヤ山脈の南東にある盆地の底に位置している。標高は、2,320m。1958年、京都大学の植物学者であった中尾佐助はブータンを探検し、その当時首都の置かれていたプナカ(Punakha)を訪れた。しかしプナカは人気も家屋もなく、ただの谷と化していた。その後、中尾氏はティンプーを訪れ王宮を発見した。この出来事によって、同国の首都がティンプーに移転していたことが世界に明らかにされた。

パロ
Paroは、ブータン王国・パロ県の都市。パロ谷 (Paro Chhu) に位置している。パロ谷を見下ろすリンプン・ゾン (Rinpung Dzong)と呼ばれる修行場の要塞は、長い歴史を持つ。この修行場は10世紀にPadma Sambhavaという場所に最初建てられた。1646年、Ngawang Namgyalが、 古い基礎石の上に更に大きい修行場を建てた。

プナカ
Punakhaは、ブータン王国・プナカ県の都市。1955年に首都がティンプーに移されるまでは、同国の首都であった。ティンプーからは約72kmの距離で、車で3時間ほどかかる。ティンプーと違って冬は暖かく、夏も暑い。標高は約1200m。Pho Chu(父川)とMo Chu(母川)の2つの川沿いで、稲作が行われている。 最奥部の大講堂には、パドマサンバヴァ、仏陀などの大きな像が納められている。

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タシガン
Trashigang、Tashigangは、ブータン東部の町で、タシガン県の県都。トラシガン、ツァシガンとも表記される。南でガムリ川と合流するドランメ=チュー川の東斜面に築かれている。近郊にはブータンに二つある空港のうちの一つ、ヨンプラ空港がある。


パロ空港
Paro Airportは、ブータンの首都ティンプーの西に位置するパロにある空港である。パロから3.7マイル (6.0 km)に位置するブータン唯一の国際空港であり、ドゥルク航空の本拠地である。この空港は高い山々に囲まれており、離着陸の際はパイロットに高度な技術が要求される。また、航空管制は配置されておらず、有視界飛行方式で日出から日没までのみ飛行可能である。


ドゥルク航空
(Druk Air)は、ブータンの航空会社。ブータン唯一の国際空港・パロ空港を本拠地としている国営航空会社で、ブータンのフラッグキャリアである。「ドゥルク」は「雷竜」の意味であり、国民はブータンの国自体を「ドゥルク・ユル(雷竜の国)」と呼ぶ。


クエンセル
Kuenselはブータン最大の新聞。名称はゾンカ語およびチベット古典文語で「一切を明らかにする」の意。1967年に官報として創刊され、1986年には国語であるゾンカ語、公用語である英語、そしてネパール語で発行される週刊新聞となった。1992年に民営化されたが、現在も政府の支援を受けている。1996年には紙面数が拡張され、ゾンカ語版と英語版は12面から16面に、ネパール語版は8面から12面になった。

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外務省:ブータン王国
在ブータン日本国大使館


ブータンの国民
ブータンの民族は出自、宗教、言語、居住地域などから3つの集団に大別され、言語は方言を含め20前後が確認されているが、系統立った言語調査は実施されていない。


■ドゥクパ
または、ドゥルックパ。ドゥクパ(Drukpa)は、中部照葉樹林地帯にはブータンの人口の多数派を形成するチベット系の土着の民族が居住しており、東、中央、西の3つの集団に分類される。 チベット系の民族集団は総称してドゥクパと呼ばれ、ブータンの「伝統文化」は彼らの文化を指す。 近年、国民統合の必要性から、「ブータン国民」を「ドゥクパ」と称する傾向が強いが、これは広義の「ドゥクパ」であり、南部のネパール系住民は使用したがらない。

■ガロン
トンサ県とワンデュ・ポダン県の間にあるペレ・ラ峠以西に居住するのがガロン(Ngalong)と呼ばれる、1,000年以上前にチベットから移住してきたとされる民族集団である。彼らの母語であるゾンカ語は中央チベット語の南部方言に分類され、文化もチベットの影響が色濃い。

■ブムタンパ
ペレ・ラ峠からブムタン県とモンガル県の県境にあるトゥムシン・ラ峠までの中部に居住するのがブムタンパ(Bumthangpa)と総称される集団である。彼らはブムタンカと呼ばれるゾンカの方言の一つとされる古代チベット語の要素を強く残す言語を話している。

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■ツァンラ
東部最大の街タシガンを中心に分布するのがツァンラ(Tshangla)を自称する民族集団である。最近までシャチョップ (Sharchop)と呼ばれていた。「シャ(Shar)」とはゾンカ語で「東」を意味する。彼らは自らの出自をミャンマー・アッサム地方だと認識しており、チベット文化の影響を受ける前のブータンの伝統を色濃く残していると考えられている。

■ローツァンパ
(Lhotshampa)は、主に南部低地地帯(タライ平原)に居住するネパール系の住民を指す。 「ロ(lho)」とはゾンカ語で「南」を意味する。英語ではsouthernersと表記されることもある。 また、彼らの自称は「ネパリ」(ネパール人の意)で、英語表現ではBhutanese Nepalis(bhutani nepaliharu)が好まれる。


■少数民族
上記以外の民族で比較的よく知られているのは、北西山岳地帯に住むリンシ、ラヤ、ルナナ、北東山岳地帯に住むダクパ(ブロクパ)、メラ・サクテンなどの遊牧民である。 他にも南西部にはロプ、 タバ・ダドゥルと呼ばれる民族、サムツィ県シプソ周辺にはアーデーヴァシーというインド系の民族の存在が確認されている。


■教育
ブータンの大学はタシガン県にあるシェルブツェ・カレッジ(英文表記:The Royal University of Bhutan,通称:カンルン大学)が唯一の大学である。

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ブータンの国旗
ブータンの国旗は、19世紀の頃から現在のものと似たものがあったが、現在の形になったのは、1969年頃である。龍は、ドゥルック(Druk、雷龍の意)と呼ばれるものであり、それはブータンがチベット語の方言で「龍の地」として知られていることを暗示している。龍の爪についているのは宝石で、富を象徴している。背景は二つの色に分けられており、それぞれ世俗の君主政治(黄色)と仏教(オレンジ)を象徴している。


■国名
」を意味する「ブーウッタン」説があるが、インドの側からの呼称で、インドからみればブータンは標高の高いところに位置していることによる。ブータンの人々は自国を「ドゥック・ユル」と呼ぶ。これは13世紀以降、仏教のカギュ派に属するドゥック派を国教としてきたので、自分たちをドゥクパ(カギュ派の中のドゥク派)、自国を「ドゥクパの国」(雷龍の国)と呼んでいる。


1.面積:約38,394平方キロメートル(九州とほぼ同じ)
2.人口:約68万人(ブータン政府資料2009年)
3.首都:ティンプー(Thimphu)
4.民族:チベット系(約80%)、ネパール系(約20%)等
5.言語:ゾンカ語(公用語)等
6.宗教:チベット系仏教、ヒンドゥー教等
7.略史:17世紀、この地域に移住したチベットの高僧ガワン・ナムゲルが、各地に割拠する群雄を征服し、ほぼ現在の国土に相当する地域で聖俗界の実権を掌握。
 19世紀末に至り東部トンサ郡の豪族ウゲン・ワンチュクが支配的郡長として台頭し、1907年、同ウゲン・ワンチュクがラマ僧や住民に推され初代の世襲藩王に就任、現王国の基礎を確立。第4代国王は、1972年に16歳で即位。第4代国王の下で、国の近代化と民主化に向けた粘り強い取組が行われてきた。現国王(第5代目)に、2006年12月王位継承。

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■主要産業:農業(米、麦他)、林業、電力

■主要貿易品目(1)輸出 電力、珪素鉄、鉄・非合金鋼、セメント、農産物(2)輸入 軽油、ガソリン、金属製品、米、小型掘削機、石炭



ニュルタム
Ngultrum)は、ブータン王国の貨幣単位。ブータンの国語ゾンカ語では「グルタム」と読む。英語表記より、他にヌルタム、ニュートラム等とカナ表記されることがある。


ガンデンポタン
ダライ・ラマを長とし、ラサを本拠として1642年に成立したチベットの政府。1959年、チベット動乱の際、ダライ・ラマとともにインドに脱出、現在はチベット亡命政府として十数万人からなるチベット難民組織の頂点に位置する。


南アジア地域協力連合
South Asia Association for Regional Cooperation、略称SAARCは、南アジアの福祉増進と生活水準向上を図り経済的成長社会進歩、文化発展を進めるため1985年に創設された地域協力組織。7ヵ国で発足した。その後アフガニスタンが加盟した。本部はネパールのカトマンズにある。


■行政
1968年から採用された省制度により、2005年現在、農務省、保健省、教育省、通信情報省、建設省、財務省、内務省、貿易産業省、エネルギー水資源省、外務省の10省がある。1998年に大臣が輪番制で内閣の議長を務める形式の閣僚評議会議長職が設置された。2008年の新憲法制定に伴い、立法と行政の関係では議院内閣制が導入され、下院に相当する国民議会で多数を獲得した政党の党首が首相となる。


■中華人民共和国との関係
北部国境で中華人民共和国と接している。2011年時点において国交は樹立していないが、事実上の領事館が香港と澳門にある。1998年に、将来の国境画定まで、1959年以前の境界を尊重することに合意している。しかし、2000年代に入り、ブータン領域内において中国が道路建設を行い、軍及び民間人の越境行為が行われたことから、ブータン政府が抗議を行っている。


■インドとの関係
英領インドとの条約に、「内政は不干渉、外交には助言を与える」という文言が存在し、1949年のインド=ブータン条約にその文言が継承され、多額の補助金がブータンに付与されていたため、インドの保護国的な印象を受ける。しかし、公的には1907年をもって国家成立としている。ブータンとインドは相互の国民が、お互いの国を観光するときにビサ等必要なく、身分証明書のみでよい。また、ブータン国民がインド国内で就労する際に法的規制はない。


■日本との関係
1957年、大阪府立大学助教授(当時)の中尾佐助が、お忍びで京都を訪れていた当時の王妃に直談判し、翌1958年、日本人として初めて入国を許された。[8]2011年11月15日 ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王が結婚したばかりのペマ王妃とともに震災後初の国賓として来日、被災地のほか、東京・京都などを訪れた。


■政治
ジェ・ケンポが宗教界の長を、デジが政治・行政の長を務めるというチョエン制度が、1907年に世襲王政が成立するまで約300年間維持された[3]。1907年のワンチュク朝成立以降、国王を中心とする絶対君主制だったが、近年の政治改革により2008年に憲法が公布され、民選首相が選出されるなど立憲君主制に移行した。国会は国王不信任決議の権限を持ち、国王65歳定年制が採用されている。


世襲君主制
世襲による君主制。現存する世界各地のほぼ全ての君主制は世襲君主制である。対比語には選挙君主制がある。世襲君主制の下では、全ての君主が同じ家系に属し、王位が血縁のある家族へと代々受け継がれていく。世襲制は家族間の愛情や忠誠による安定性を内包しているだけでなく、継続性や予測可能という点でも安定性が高い。

ブータン共産党マルクス・レーニン・毛沢東主義派
Bhutan Communist Party (Marxist-Leninist-Maoist)、略号:BCM (MLM)は、近年、ブータンで結成された非合法政党。ネパールのブータン難民で構成され、主にネパールの国連難民キャンプで「新・民主主義革命」と呼び、ブータンの君主制とワンチュク国王の打倒を目指している。

ブータン調和党
ブータンの政党である。党首はジグメ・ティンレー(初代)。2007年、全人民党と、ブータン人民統一党が統合して結成。2008年の総選挙で47議席中45議席を獲得し圧勝。

国民民主党
ブータンの政党である。党首はツェリン・トブゲ(第2代)。2007年結成。2008年の総選挙で47議席中2議席を獲得し惨敗。

国民議会
ブータン王国の議会(下院)。国家評議会とともに両院制の国会を構成する。なお、2008年に成立した新憲法によれば、国王、国家評議会、国民議会の3者により国会を構成するとしている。

国家評議会
ブータンの議会を構成する議院(上院)。選挙議員20人を選出する選挙は、2007年12月31日に実施。ただし、5県では2008年1月29日に延期して実施された。国王は、国民議会選挙終了後の2008年3月28日に5人の任命議員を公表した。


■食文化
ブータンの主食は米で特に赤米を好む。調理は湯取り法である。標高の高いブムタン地方では蕎麦栽培も盛んだが、古い時代から低地のモンガル地方との関係を持ち、米食を維持している。平均的な男性で一日に1kgの米を食べると言われている。ブータン料理で特筆すべきは、トウガラシ(エマ)の多用である。これを香辛料ではなく野菜として大量に食べる。このため、世界で一番辛い料理だと表現されることもある。代表的な料理は、エマダツィ(トウガラシとチーズの煮込み)、ケワダツィ(ジャガイモとトウガラシの煮込み)、パクシャ・パー(豚肉とトウガラシの煮込み)、イズィ(トウガラシとチーズを和えたサラダ)、モモ(チベット風餃子)など。ブムタン地方の郷土料理として蕎麦粉を使った押し出し麺(プタ)やパンケーキ(クルワ)がある。

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2011/11/11  ブータンの奥地で約80年ぶりに確認された「ブータンシボリアゲハ」。ヒマラヤの貴婦人と言われる美しい蝶を日本蝶類学会の調査隊が見つけたと言う事です。大英自然博物館に5匹の標本があるのみだと言う希少な蝶。そんな蝶が生きれる環境をブータンの人々は守って来たと言う事でしょう。


■国民総幸福量
Gross National Happiness, GNH)または国民総幸福感(こくみんそうこうふくかん)とは、1972年に、ブータン国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクが提唱した「国民全体の幸福度」を示す“尺度”である。国民総生産 (Gross National Product, GNP) で示されるような、金銭的・物質的豊かさを目指すのではなく、精神的な豊かさ、つまり幸福を目指すべきだとする考えから生まれたものである。現在、ブータン政府は国民総幸福量の増加を政策の中心としている。政府が具体的な政策を実施し、その成果を客観的に判断するための基準にするのが主な用途で、1990年代からの急速な国際化に伴って、ブータンで当たり前であった価値観を改めてシステム化する必要があったという。


2年ごとに聞き取り調査を実施し、人口67万人のうち、合計72項目の指標に1人あたり5時間の面談を行い、8000人のデータを集める。これを数値化して、歴年変化や地域ごとの特徴、年齢層の違いを把握する。国内総生産(GDP)が個人消費や設備投資から成り立つように、GNHは 1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方の9つの構成要素がある。GDPで計測できない項目の代表例として、心理的幸福が挙げられる。この場合は正・負の感情(正の感情が 1.寛容、2.満足、3.慈愛、負の感情が 1.怒り、2.不満、3.嫉妬)を心に抱いた頻度を地域別に聞き、国民の感情を示す地図を作るという。どの地域のどんな立場の人が怒っているか、慈愛に満ちているのか、一目でわかるという。

ブータン国立研究所所長である、カルマ・ウラはGNHについて次のように述べている。「経済成長率が高い国や医療が高度な国、消費や所得が多い国の人々は本当に幸せだろうか。先進国でうつ病に悩む人が多いのはなぜか。地球環境を破壊しながら成長を遂げて、豊かな社会は訪れるのか。他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない要素だ。金融危機の中、関心が一段と高まり、GNHの考えに基づく政策が欧米では浸透しつつある。GDPの巨大な幻想に気づく時が来ているのではないか。」

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ジグミ・ドルジ・ワンチュク
1928年5月2日 - 1972年7月21日は、第3代ブータン国王。第3代国王の20年の統治期は、近代国家としてのブータンの国際社会への出現に象徴される変革の歴史である。従来の鎖国政策を取りやめ、政治的統一、宗教的・社会的基盤の強化、経済発展などの実績から、「近代ブータンの父」と呼ばれ、現在でも国民の敬愛を受けている。1928年、トンサ(英語版)のテュパン宮殿にて誕生した。15歳でトンサ・デニェに任命された後、1年間イギリスに留学。帰国後17歳でパロ・ペンロプに任命された。内政に関しては、個人の土地所有を制限し、その余剰分を他の国民に分配し、土地収入税を廃止した。また、農奴制や死刑制を廃止し、最高法院を設置し、行政から司法を分離した。

ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク
ラテン文字表記:Jigme Khesar Namgyel Wangchuck、1980年2月21日 - は、第5代ブータン国王。2011年現在、世界最年少の元首である。学位は政治学修士(オックスフォード大学モードリン・カレッジ)。名誉学位として慶應義塾大学及びタイ王国ランシット大学名誉博士号を保有

ジグメ・ティンレー
Jigme Yoser Thinleyは、ブータンの政治家。現在、同国首相(第2・7・12代)。下院議員。父は歴代国王の側近であった。1976年、米国ペンシルベニア大学で公共政策の修士号を取得。帰国後は国家公務員となり、様々な官職を歴任した。2007年8月、ブータンで新たに組織された政党の1つであるブータン調和党(略称DPT)の党首に選出された。

ツェリン・トブゲ
Tshering Tobgayは、現代のブータン王国の政治家である。
1965年9月19日生まれ。米国ハーバード大学で公共政策の修士号を獲得した一方、機械工学の知識も有している。帰国後は教育省や労働省で官僚としての経歴を積み、主に人材開発分野での活動が目立つ。2007年に選挙へ出馬する直前には、労働省人材資源局局長を務めていた。

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ウゲン・ワンチュク
Ugyen Wangchuck, 1862年 - 1926年8月21日は、初代ブータン国王。1862年にトンサ・ペンロプであったジグメ・ナムゲルの息子としてブムタンのワンデュチョリン宮殿にて生誕。ジグメ・ナムゲルはブータン北部のクルテ地方に定住した高僧ペマ・リンパの子孫であるドゥンカル・チェジェ一族の出身で、母はブムタンのジャカル地方の貴族ラルン・ペルギ・ドルジの子孫であるジャカル・ドゥン一族の出身であるといわれている。

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