|
ジンバブエ共和国
Republic of Zimbabwe
|
■地理
アフリカ南部に位置し、モザンビーク、南アフリカ、ボツワナ、ザンビアと国境を接する。ザンビア国境にはヴィクトリア滝が位置する。内陸国である。座標は東経30度・南緯20度のあたり。面積は390,580 km2、うち陸地面積が 386,670 km2、内水面面積が 3,910 km2を占める。面積は日本とほぼ同じである。
■アフリカ大陸
アフロ・ユーラシア大陸のうちスエズ地峡の西側の部分を占める大陸をいう。ユーラシア大陸とは陸続きになり、インド洋・大西洋・地中海に囲まれている。単にアフリカというときは、大陸の周辺の島嶼(マダガスカル島など)や海域をも含んだ地域の総称になる。大陸北部は非常に乾燥したサハラ砂漠で、赤道付近は広大な熱帯雨林が広がる。その南側もまた乾燥しており、サバナと砂漠が広がる。
■リンポポ川
Limpopo Riverは、アフリカ大陸南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は約1,600kmある。ジンバブエとボツワナの境界付近に源を発し大きな弧を描くように流れ、水源から最初は北東へ向かい、途中から東に流れが変わっていく。最終的には南東方向に流れてモザンビークのシャイシャイ付近でインド洋に注ぐ。
■ザンベジ川
(Zambezi River)は、アフリカ南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は2,750km。ナイル川、コンゴ川、ニジェール川に次ぐアフリカで4番目の長さの川である。ザンビア北部に源を発し、アンゴラ、ザンビア、ナミビアと流れた後ザンビアとジンバブエ国境を流れ、モザンビークに入りインド洋のモザンビーク海峡に注ぐ。
■ローデシア
(Rhodesia)は、ザンビア・ジンバブエを合わせた地域の名称。また、1965年から1979年にかけてのジンバブエを実質支配していた白人政権が用いた名称。現在のローデシアにあたる地域は1850年代に探検家デイヴィッド・リヴィングストンによって探検が行われた。その後、ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家トランスヴァールやオレンジ自由国への圧力と北方地域の開拓を目的に1889年にイギリス南アフリカ会社を設立。
■ジンバブエ・ローデシア
Zimbabwe-Rhodesia)はローデシアが名称を変更した国名。ジンバブエ・ローデシアは、スミス政権と穏健派アフリカ人解放組織との間で行われた「内部解決」によって誕生した。1978年3月3日に、暫定政府の構成と新憲法に関する協定である「ソールズベリー協定」が調印された。このソールズベリー協定に基づいたジンバブエ・ローデシア憲法が1979年1月2日に発表され、1月31日、大多数が白人選挙人が占める国民投票によって承認された。
<歴史>
■古代
12世紀頃、リンポポ川中流域にマプングヴエ王国が成立し、次いで13世紀〜14世紀中には、グレート・ジンバブエと呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製陶器が見つかっており、かなり大規模な交易を行っていたようである。
■植民地時代
16世紀〜17世紀にかけて、ポルトガル人の侵入に苦しむが、撃退。地方首長国の分立状態となる。19世紀後半にイギリス南アフリカ会社に統治された後、第一次世界大戦後にイギリスの植民地に組み込まれ、イギリス領南ローデシアとなった。
■独立
1960年代から黒人による独立運動が行われていたが、民族自立までの道のりは険しく、1965年には、世界中から非難を浴びる中、植民地政府首相イアン・スミスによって白人中心のローデシア共和国が独立を宣言し、人種差別政策を推し進めた。これに対して黒人側も、スミス政権打倒と黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開するが、イギリスの調停により、100議席中、20議席を白人の固定枠とする事で合意、ローデシア紛争は終結した。
■コンゴ民主共和国への派兵
1999年、コンゴ民主共和国(以後、コンゴと表記)のカビラ大統領と親交していたムガベ大統領は内戦が起きたコンゴに約1万人の軍を派兵した。カビラ大統領を支えるためだが、真の目的はコンゴにあるムガベ一族が所有するダイヤモンド鉱山を守る事や、それらのダイアモンドや銅や金など、コンゴの地下資源を狙う理由もあった。
■白人大農場の強制収用
ムガベははじめは黒人と白人の融和政策を進め 、国際的にも歓迎されてきたが、2000年8月から白人所有大農場の強制収用を政策化し、協同農場で働く黒人農民に再分配する「ファスト・トラック」が開始された。この結果、白人地主が持っていた農業技術が失われ、食糧危機や第二次世界大戦後世界最悪とも言われるインフレーションが発生した。こうした経済混乱に、長期政権・一党支配に対する不満とあいまって治安の悪化も問題となっている。
■コレラ流行
2008年8月にはじまり、患者総数91,164人、死者総数4,037人に達している。2009年2月初めのピーク時には一週間で新患者数8,008人を超えた。WHO(国連世界保健機関)によると2009年3月14日までの一週間に報告された新患者数は2,076人で先週の3,812人から減少した。
■ショナ人
ショナ人(Shona people)は、南部アフリカの民族。バントゥー系。ジンバブエの人口の4分の3を占め、多数派を形成している。9世紀ごろ、北方から現在の居住地域に定住した。マプングブエやグレート・ジンバブエなどの巨大な都市を建造し、金の採掘とインド洋地域との交易によって富を蓄え、モノモタパ王国を築いた。19世紀、ズールー王国の拡大に端を発した民族大移動の中、ンデベレ人が侵攻しその支配下に置かれるが、やがて1889年にイギリスの支配下に入った。
■ショナ語
chiShonaは、バントゥー語群に属する言語である。ジンバブエやザンビア南部に住むショナ人の母語である。ジンバブエにおいて、ショナ語は北ンデベレ語や公用語の英語と同様に主要な言語である。
■シャンガーン人
モザンビークのマプト州及びガザ州に居住する大規模な民族集団であり、南アフリカ共和国のリンポポ州にも大規模なシャンガーン人の集団が存在する。南アフリカではシャンガーン人はツォンガ人と呼ばれる。
■ツワナ人
Batswanaは、南部アフリカの民族。ボツワナのツワナ人は、ングワト、バロロン、トロクワ、クウェナ、クガトゥラ、マレテ、バフルツェ、ングワケツェの8つの部族に別れていて、それぞれコシと呼ばれる首長を頂いている。ツワナ人は定住民で、牧畜を主な生業とし、副次的にトウモロコシやソルガムなどを栽培していた。
■チェワ族
(Chewa)は、中央アフリカから南アフリカにかけて住む民族である。この民族は、自身の周囲をとりまく民族、とりわけトゥンブカ族(Tumbuka)やンセンガ族(Nsenga)などの民族と関連が深い。また、歴史学的にはコンゴ民主共和国で同じ歴史を歩んだ民族であるベンバ族と関連がある。
■モノモタパ王国
(Monomotapa、1450年頃 - 1629年)は、ジンバブエを中心にアフリカ南部のザンベジ川流域を支配した王国。ムタパ、ムニュムタパとも。早い時期からポルトガルとの関係を深め、黄金の国としてヨーロッパでその名が知られた。
■トルワ王朝
ブトワ王国を統治した家系で、16世紀から17世紀にかけてのグレート・ジンバブエの衰退の中から興った。創始者は伝説的人物Dlembeuであると考えられている。トルワ王朝は1450年から1683年までジンバブエ高原のカミを拠点に存在し、繁栄の源は牛と金だった。カミの新文化はグレート・ジンバブエで見られた石造建築技術と窯業スタイルを発展させた。石工たちはグレート・ジンバブエの精緻な石壁を作る伝統を洗練させていった。
■民族構成
ショナ人が71%、ンデベレ人が16%、その他のアフリカ系が11%、残りはヨーロッパ人やアジア人などである。
■言語
英語が公用語で、ショナ語、北ンデベレ語などが主に使われる。
■宗教
キリスト教と部族宗教の混合が50%、キリスト教が25%、部族宗教が24%、イスラム教などが1%となっている。
■保健
国民の約3割がHIVに感染しているといわれており、世界保健機関(WHO)の2006年版の「世界保健報告」によると、平均寿命は36歳と世界で最も短い(1990年の時点では62歳であった)。
■文学
1960年代の独立戦争の頃からチムレンガ文学と呼ばれる文学潮流が生まれた。『骨たち』(1988)で知られるチェンジェライ・ホーヴェがジンバブエの特に著名な作家の名として挙げられる。
<世界遺産>
■ヴィクトリアの滝
1855年、イギリスの宣教師であり探検家でもあるデイヴィッド・リヴィングストンによって、ヨーロッパ人として初めて見出された。滝はザンベジ川の途中にある。上流は砂岩の上に堆積した平坦な玄武岩の層を流れている。川には木で覆われた小島が点在し、滝に近づくにつれてその数が増してくる。通常、滝を形成するはずの山地、断崖、渓谷などは一切見られず、滝の周囲数百kmにわたって平原が広がっている。ヴィクトリアの滝近辺には玄武岩層にできた7つの峡谷(Gorge)があり、それぞれ名前がつけられている。滝の幅は1708m、落差は最も高い中央付近で108m、最も低い西の端でも80mある。
■マナ・プールズ
マナはショナ語で「4」を意味する(プールは英語)。これは、ザンベジ川中流域の蛇行地帯に4つの大きな湖が形成されていることに基づく。川に面している地域、島々、砂丘、ため池などを含み、マホガニー、イチジク、エボニー、バオバブなどの森林が隣接しているこの一帯は、アフリカ南部でも最も開発の手が入っていない国立公園の一つである。
■大ジンバブエ国立遺跡
ジンバブエ共和国の首都ハラレから南方300kmのジンバブエ高原の南端、サビ川の上流の標高約1000mに位置する大規模な石造建築遺跡の名称である。ジンバブエとは、ショナ語で、首長、王の宮廷の意味を含んだ「石の家」という一般語であるため、特定して最も大規模で著名なこの遺跡を指すときは、語頭に「グレート」を付けるのが慣例となっている。遺跡の中心部にある石造建築物群は、50世帯近くに及ぶジンバブエの王ないし首長の一族のために築かれたもので、直方体の花崗岩のブロックを積み上げた円ないし楕円形の建物の組み合わせであって、個々にエンクロージャー(囲壁)と呼ばれている。石造建築エンクロージャー群は、おおきく三つに分けられ、北側に通称「アクロポリス」、又は「丘上廃墟」と呼ばれる建造物群、その南方に広がる「谷の遺跡」、そして最も有名な「大囲壁」(グレートエンクロージャー)に分けられる。
■カミ遺跡群国立遺跡
ジンバブエの標高1000mのジンバブェ高原の西部、ブラワヨ近郊にある石造遺跡群。15世紀中葉にトルワ王国の首都となり、15世紀中葉から17世紀頃まで機能していた。建造物は、花崗岩を直方体に切り出して交互に積み重ねている。建物の壁の上部には、チェッカー板のように空間を開けたり、色の異なる石材を用いて装飾にしている。
■マトボの丘群
マトボは、ジンバブエ南部のブラワーヨの約35km南から先に広がっている花崗岩質の小丘群と木々に覆われた渓谷からなる地域である。これらの丘は、地表に押し出されてきた花崗岩によって20億年以上前に形成されたものである。この丘には、およそ二千年前にサン人が定住した。彼らはこの地に数百点に及ぶ岩絵群を残した。また洞窟や渓谷の裂け目からは、粘土製の炉をはじめとする加工品が見つかっている。
■食文化
トウモロコシの粉を煮詰めた「サザ」、ホウレンソウとピーナッツバターを混ぜた「ラリッシュ」という料理が存在する。この2つは基本的にセットで食されることが多い。
■食文化
トウモロコシの粉を煮詰めた「サザ」、ホウレンソウとピーナッツバターを混ぜた「ラリッシュ」という料理が存在する。この2つは基本的にセットで食されることが多い。
■文学
1960年代の独立戦争の頃からチムレンガ文学と呼ばれる文学潮流が生まれた。『骨たち』 (1988) で知られるチェンジェライ・ホーヴェがジンバブエの特に著名な作家の名として挙げられる。
■ロバート・ムガベ
(Robert Gabriel Mugabe、1924年2月21日 - )は、ジンバブエの政治家。1980年ジンバブエ共和国首相に就任し、1987年から大統領。宗教はカトリックである。1924年2月21日、英領南ローデシアのソールズベリー(現在のハラレ)の北東に位置するジンバ地区クタマ伝道団で育つ。ムガベの父はマラウィ人と考えられる。
■モーガン・ツァンギライ
(Morgan Richard Tsvangirai、1952年3月10日 - )は、ジンバブエの政治家。ジンバブエ最大野党である民主変革運動(MDC:ツァンギライ派・多数派)に所属しており、同党の党首である。2009年2月11日からジンバブエ・アフリカ民族同盟愛国戦線(ZANU-PF)と民主変革運動の連立政権においてジンバブエの首相となった。
■ニック・プライス
(Nick Price, 1957年1月28日 - )は、ジンバブエのプロゴルファーである。1990年代を代表するゴルファーの1人として、メジャー大会に通算「3勝」を挙げた名選手である。1993年と1994年の2年連続でアメリカPGAツアー賞金王(賞金ランキング1位)になり、1994年は世界ランキングでも年間最終ランキング1位に輝いた。PGAツアーでメジャー3勝を含む通算18勝、国際試合で24勝を挙げる。
■ブルース・グロベラー
Bruce David GROBBELAAR, 1957年10月6日 - は南アフリカ共和国・ダーバン出身の元ジンバブエ代表サッカー選手。現役時代のポジションはゴールキーパー。ジンバブエサッカー史上最高のゴールキーパー。キャリアの全盛期を過ごしたリヴァプールではチャンピオンズカップ優勝を達成した。この時の決勝のASローマ戦のPK戦でとった動きは今でも有名である。
■デイヴィッド・リヴィングストン
(David Livingstone、1813年3月19日 - 1873年5月1日)は、スコットランドの探検家、宣教師、医師。ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。1971年からスコットランドでのポンド紙幣発行権を持つ銀行の一つ、クライズデール銀行が発行する10ポンド紙幣に肖像が使用されていた。
■セシル・ローズ
(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)は、イギリスの政治家。ローズは地主出身の牧師の子に生まれたが、生まれつきの病弱を心配した父は、気候のよい南アフリカに行っているローズの兄のもとに彼を送った。健康を取り戻したローズは、兄とともにキンバリーで坑夫としてつるはしを振るった。彼はダイアモンドを掘り当てて作った資金で、ダイアモンドの採掘権への投機を行ったり、採掘場への揚水ポンプの貸し出しで儲け、ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの融資もとりつけて、1880年、デ・ビアス鉱業会社を設立した。
■カナーン・バナナ
(Canaan Sodindo Banana, 1936年3月5日 - 2003年11月10日)は、ジンバブエ共和国の政治家、メソジスト派の牧師。1980年4月18日から1987年12月31日まで、ジンバブエの初代大統領を務めた。任期中は主に儀式的な行為を行い、後任の大統領となるロバート・ムガベが首相として実務を行っていた。バナナは1936年に南ローデシアで、ンデベレ族文化の母とローデシアに移住してきたマラウイ人の父との間に生まれた。地元の学校で宣教師に教育を受け、後に教師養成研究所で学んでいる。
|
ジンバブエ共和国 Zimbabwe
アフリカ南部の共和制国家。首都はハラレ。アフリカ大陸の内陸部に位置し、モザンビーク、ザンビア、ボツワナ、南アフリカ共和国に隣接する。イギリス連邦の元加盟国。現在はロバート・ムガベ大統領の独裁政権下にある。劣悪な経済事情に加えて、秘密警察による監視や反体制派への暴力など言論の統制を受けることから「世界最悪の独裁国家」と評される。
12世紀頃、リンポポ川中流域にマプングヴエ王国が成立し、次いで13世紀〜14世紀中には、グレート・ジンバブエと呼ばれている王国が栄えた。グレートジンバブエの遺構からは、中国製陶器が見つかっており、かなり大規模な交易を行っていたようである。
■ハラレ
Harare、旧称はソールズベリー、Salisburyは、南部アフリカのジンバブエ共和国の首都で、この国最大の都市である。英国風の街並が並び、標高約1600mの高原の丘にあるため、夏でも平均気温は20度少し程度と涼しい。2010年の都市的地域の人口は217万人であり、世界第183位である。ハラレとは、ショナ語で「眠らない街」を意味する。
■ブラワヨ
Bulawayoは、ジンバブエ南西部にある都市。人口676,000人の大都市で、ジンバブエ第2の都市である。1997年までは北マタベレランド州に属したが、現在は独立した州となっている。少数民族ンデベレ族の中心都市である。ブラワヨとは、ンデベレ語で「虐殺の地」という意味である。
外務省:ジンバブエ共和国
在ジンバブエ日本国大使館
■グウェル
(Gweru)は、ジンバブエの都市。人口137000人(2002年)。国土のほぼ中央に位置し、ミッドランズ州の州都である。首都ハラレとブラワヨに次ぐ、ジンバブエ第3の都市である。グウェルにはジンバブエ合金のクロム精錬工場やバタ社の製靴工場など、いくつかの工場が立地している。また、グウェル周辺はジンバブエでもっとも優良な畜産地帯であり、牛肉や乳製品の産地となっているため、牛に関連した産業も多く立地し、CSC社の屠畜場やバタ社の皮なめしと皮革の工場などがある。
■中央マショナランド州
(Mashonaland Central Province)は、ジンバブエの州。ジンバブエ北部に位置し、北をモザンビークと接する。面積28,347km2、人口998,265人(2002年)。ジンバブエの総人口の8.5%がこの州に住む。
■マシンゴ州
(Masvingo Province)は、ジンバブエの州。国土の南東部に位置し、東をマニカランド州、北をミッドランズ州、西を南マタベレランド州、南をモザンビークと接する。1980年まではヴィクトリア州と呼ばれていた。気候は乾燥しており農業にはやや不向きであるが、牧畜は盛んに行われており、また灌漑用のダムが作られサトウキビなどの栽培が行われている。州都マシンゴのほど近くには国名の由来となったグレート・ジンバブエ遺跡があり、訪れる観光客も多い。
■北マタベレランド州
(Matabeleland North Province)は、ジンバブエの州。ジンバブエ西部に位置し、東を西マショナランド州およびミッドランズ州と、南をブラワヨ市および南マタベレランド州と、西をボツワナと、北をザンベジ川をはさんでザンビアと、それぞれ接する。穀物の商業的生産には向いていないが、植民地時代より大規模な牧場が開かれ、牧畜によって発展してきた。また、この州にはワンゲ国立公園など観光資源も数多く、州の主要な産業のひとつとなっている。
■南マタベレランド州
(Matabeleland South Province)は、ジンバブエの州。ジンバブエ南西部に位置し、西をボツワナ、南を南アフリカ共和国と接する。面積54,172km2、人口650,000人(2002年)。州都はグワンダ。カラハリ砂漠の縁に位置し、砂漠ではないが気候は乾燥している。州名は、この州に多くすむンデベレ人(マタベレ人)に由来する。
■マニカランド州
(Manicaland Province)は、ジンバブエの州。ジンバブエ東部に位置し、東をモザンビークと接する。面積36,459km2、人口160万人(2002年)。州都はムタレ。マニカランド州の名は、この州に多く住むショナ人のサブグループであるマニカ人に由来する。
■東マショナランド州
(Mashonaland East Province)は、ジンバブエの州。ジンバブエ北東部に位置し、東をモザンビークと接する。面積32,230km2、人口110万人(2002年)。州都はマロンデラ。州名のとおり、ショナ人が住民の多数を占める。
■西マショナランド州
(Mashonaland West Province)は、ジンバブエの州。ジンバブエ北部に位置し、北をザンビアと接する。面積57,441km2、人口120万人(2002年)。州都はチノイ。州名は、この州に多いショナ人に由来する。
■ミッドランズ州
(Midlands Province)は、ジンバブエの州。面積49,166km2、人口150万人(2002年)。州都はグウェル。グウェルはジンバブエ第3の都市であり、他にはクウェクウェなども大きな都市である。ジンバブエのほぼ中央に位置し、ショナ人、ンデベレ人、ツワナ人、チェワ人などさまざまな民族が住む。
■国名
正式名称は英語で Republic of Zimbabwe。通称 Zimbabwe。日本語の表記はジンバブエ共和国もしくはジンバブウェ共和国。通称ジンバブエ。国名はショナ語で「石の館(家)」を意味し、ジンバブエ国内にあるグレート・ジンバブエ遺跡に由来する。かつては南ローデシアと呼ばれていた。
1.面積:39万平方キロメートル(日本よりやや大きい)
2.人口:1,252万人(2009年 世銀)
3.首都:ハラレ(161万人:2009年世銀)
4.民族:ショナ族、ンデベレ族、白人
5.言語:英語、ショナ語、ンデベレ語
6.宗教:キリスト教、土着の伝統宗教
1923年 英国の自治植民地としての南ローデシア成立
1953年 ローデシア・ニアサランド連邦成立
1963年 連邦解体
1965年 白人スミス政権の一方的独立宣言
1968年 国連安保理対ローデシア経済制裁決議採択
1972年 ローデシア解放団体、ゲリラ活動開始
1979年 独立に向けて平和的解決合意
1980年 ジンバブエとして独立、ムガベ首相就任
1987年 ムガベ大統領就任
1990年 ムガベ大統領再選
1996年 ムガベ大統領三選
2002年 ムガベ大統領四選
2008年3月29日 総選挙(大統領選挙、上院・下院選挙、地方選挙)実施
2008年6月27日 大統領決選投票の末、ムガベ大統領が五選
2009年2月13日 包括的政府が成立(ムガベ大統領、チャンギライ首相)
■ジンバブエ・ドル
ジンバブエ・ドルは、ジンバブエの法定通貨である。通貨の補助単位はセントで、1ドル=100セントとなっている。通貨の記号は$または、他のドルと区別するためZ$が一般的に使用される。現在発行が停止されている。
■政治
野党勢力への迫害が強く、野党の政治家、野党支持者への暴行・虐殺・拉致などが常態化しており、激しい対立が続いている。事実上、ムガベ大統領の独裁政治体制が続いている。2009年2月11日、連立政権が樹立しMDCツァンギライ議長が首相に就任したため独裁体制に区切りがついた形だが、現地の英国大使館が地元紙に「ムガベ大統領が退陣しない限り意味がない」という広告を出すなど、懐疑論も強く残っている。
■国外メディアの報道規制
国内では厳しい報道規制が敷かれ、政府はCNN・BBCといった欧米メディアによる取材を禁止している。宗主国であったイギリスに対するジンバブエ国民の悪感情は根強い。またイギリス側のジンバブエ報道も、過度に扇情的であるとの指摘もされている。
■国際社会主義機構
(International Socialist Organization)は、ジンバブエの政治団体。トロツキズムを標榜し、第四インターナショナルの一派でイギリスの社会主義労働者党が率いる国際社会主義潮流に加盟している。
■南ローデシア
(Southern Rhodesia)はローデシア地方の南半分。ジンバブエの旧称。ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家トランスヴァールやオレンジ自由国への圧力と北方地域の開拓を目的に1889年にイギリス南アフリカ会社を設立。翌年にはマタベレランドやマショナランドの鉱山開発権を獲得、両地方を併合して「Rhodesia(ローズの家)」と名づけた。
■ローデシア・ニヤサランド連邦
(Central African Federation)は、アフリカ南部の旧イギリス領地域。現在のザンビア、ジンバブエ、マラウイに当たる。第二次世界大戦後の南ローデシアでは白人の移民が増え、農業や製造業が盛んとなった。加えてカッパーベルトによる銅鉱山で潤っていた北ローデシア・黒人の労働者の供給元となっていたニアサランド(現在のマラウイ)との結びつきが強まり、南北ローデシアにニアサランドを含めて統一した国家を樹立しようとする動きが白人を中心に活発化した。
■ローデシア紛争
1965年から1979年にかけてアフリカのローデシア(現ジンバブエ共和国)で戦われた紛争である。戦争前のローデシアはイアン・スミス(ローデシア戦線)が南ローデシア植民地政府首相を務める白人優位の地域で有色人種の独立運動は弾圧されていた。宗主国英国は相次ぐアフリカ諸国独立で植民地時代の終焉を悟り、黒人の参政権を保証する形でのローデシア独立を求めた。しかし白人政権はこれを拒否し、1965年11月11日に英国からの一方的独立宣言を行い英国総督を追放した。
■独立と内戦
1960年代から黒人による独立運動が行われていたが、民族自立までの道のりは険しく、1965年には、世界中から非難を浴びる中、植民地政府首相イアン・スミスによって白人中心のローデシア共和国が独立を宣言し、人種差別政策を推し進めた。これに対して黒人側も、スミス政権打倒と黒人国家の樹立を目指してゲリラ戦を展開するが、イギリスの調停により、100議席中、20議席を白人の固定枠とすることで合意、ローデシア紛争は終結した。
■経済
かつては農業、鉱業、工業のバランスの取れた経済であった。特に、白人大規模農家による非常に効率的な農業が行われていた。外貨収入の半数を農産物の輸出で得ている農業国で、かつてはヨーロッパから「アフリカの穀物庫」と呼ばれていたほどであった。しかし、これを支えていたのは、低賃金で過酷な労働使役についていた黒人達である。その恩恵を本来の国民である彼等が受けることはなく、いくら対外的に経済のバランスが取れていようと、彼らは全く無縁にただ貧困に喘ぎ続ける状況だった。国土の90%以上を所有していた白人農場主には、欧米の本国に住みながらの不在地主も多かった。
■2009年1月29日
ジンバブエ政府は完全に信用を失ったジンバブエ・ドルに代えてアメリカ合衆国ドルと南アフリカランドの国内流通を公式に認め、公務員の給与も米ドルで支払うようになり、米ドルの影響下に入った。これにより同国のインフレは劇的な終息を見せ、ジンバブエ政府によれば同年3月の物価は同1月比0.8%減となった。しかしこれは、インフレが終息したというよりも、ジンバブエ・ドルを使用する人がなく、完全に価値を失ったと見るべきである。経済は既に破綻しており、失業率が国連の推測で94%に達するなど 、再建のめどは立っていない。
■カースティ・コベントリー
Kirsty Leigh Coventry、1983年9月13日 - は、ジンバブエの競泳選手。白人。アメリカを拠点に活動している。ジンバブエの首都であるハラレ出身。高校在学中にシドニーオリンピックに出場し、ジンバブエ競泳選手として初めて準決勝に進出。高校卒業後、アメリカ・アラバマ州のオーバーン大学に進学。
■カーラ・ブラック
Cara Black, 1979年2月17日 - は、ジンバブエ・ハラレ出身の女子プロテニス選手。2人の兄、バイロン・ブラックとウェイン・ブラックもプロテニス選手で、カーラは3人兄弟の末っ子である。ウィンブルドンを最も得意とする選手で、女子ダブルス部門で3勝を挙げ、2004年ウィンブルドンでは女子ダブルス・混合ダブルスの2部門を制覇した。
■ベンジャミン・ムワルワリ
Benjamin "Benjani" Mwaruwari, 1978年8月13日 - は、ジンバブエ出身の同国代表サッカー選手。フットボールリーグ・チャンピオンシップ、ポーツマスFC所属。マラウイ系の両親の間にジンバブエ第2の都市ブラワヨで生まれ、国籍は生まれ育ったジンバブエを選択した。1998年にジンバブエ代表デビューを果たし、アフリカネイションズカップ2006後からキャプテンを務めている。
■シェパード・シバンダ
Shepherd Sibanda, 1985年10月4日 - は、元野球選手(内野手)。ジンバブエ・ブラワヨ出身。1992年にジンバブエを訪れた、青年海外協力隊員の村井洋介から指導を受けたことが野球を知る契機だった。以降、現地での隊員による野球の指導は13年間続いた。2005年、支援者らの協力を得て単身来日し、四国アイランドリーグのトライアウトで恵まれた身体能力を見込まれて合格。香川オリーブガイナーズで2年間プレーした。
■バイロン・ブラック
(Byron Black, 1969年10月6日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の男子プロテニス選手。弟のウェイン・ブラックと末の妹カーラ・ブラックもプロテニス選手で、バイロンは3人兄弟の長男である。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちの選手。自己最高ランキングはシングルス22位、ダブルス1位。
■ウェイン・ブラック
(Wayne Black, 1973年11月14日 - )は、ジンバブエ・ハラレ出身の男子プロテニス選手。兄のバイロン・ブラックと末の妹カーラ・ブラックもプロテニス選手で、ウェインは3人兄弟の真ん中である。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで18勝を挙げ、4大大会でも男子ダブルス2勝、混合ダブルス2勝を挙げている。
■ケビン・ウリエット
Kevin Robert Ullyett, 1972年5月23日 - は、ジンバブエ・ハラレ出身の男子プロテニス選手。ジンバブエの有名なテニス一家「ブラック家」の3人兄弟(バイロン・ブラック、ウェイン・ブラック、カーラ・ブラック)と並んで、当地を代表するテニス選手の1人として活動してきた。ATPツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで34勝を挙げた。
■イアン・スミス
(Ian Douglas Smith、1919年4月8日 - 2007年11月20日)は、ローデシアの政治家、人種差別主義者。イギリス王領植民地であった南ローデシア時代には首相を務める。1965年に同地をイギリスから一方的に独立させ、白人中心のローデシア共和国を誕生させた。初代首相に就任し人種差別政策を1980年まで推し進めた。
|