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ザンビア共和国
Republic of Zambia

アフリカ

■地理
ザンビアは南部アフリカの内陸国、大部分が高原でいくつかの河川が谷を刻んでいる。南部にザンベジ盆地を擁する。ナミビア、ボツワナ、ジンバブエとの国境を形成しヴィクトリアの滝(落差108m)があるザンベジ川は国の西から東へモザンビークに流れ、一部アンゴラへの支流となる。リヴィングストンはこの滝に近い観光拠点である。北部の河川の一部はコンゴ川へと流れ込むものもある。最北部のタンガニーカ湖はタンザニアとの国境で、南東端にカランボ川が流入し、カランボ滝はアフリカ第2位の落差(235m)を誇る。


北ローデシア
アフリカ南部に位置した旧イギリス保護領。1964年10月24日にイギリス連邦内ザンビア共和国として独立した。


内陸国
Landlocked country)とは、陸の国境に囲まれ、海がない国である。
世界には48の内陸国がある。国連海洋法条約では、内陸国に、通行税を課されずに他国を通過して海に連絡する権利が与えられている。国際連合には、発展途上の内陸国を援助するための行動プログラムがある。現在世界にある二重内陸国は、リヒテンシュタインとウズベキスタンのみである。ただし、リヒテンシュタインは国際河川のドナウ川を通して海に連絡しており、ウズベキスタンもカスピ海からの運河によって海につながっている。


ザンベジ川
Zambezi Riverは、アフリカ南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は2,750km。ナイル川、コンゴ川、ニジェール川に次ぐアフリカで4番目の長さの川である。ザンビア北部に源を発し、アンゴラ、ザンビア、ナミビアと流れた後ザンビアとジンバブエ国境を流れ、モザンビークに入りインド洋のモザンビーク海峡に注ぐ。途中には世界三大瀑布の一つ、ヴィクトリア滝や、ほかにチャヴマ滝(Chavuma)、ンゴニェ滝(Ngonye)もある。

コンゴ川
Fleuve Congo)は、中部アフリカのコンゴ盆地を蛇行しながら流れ、大西洋に至るアフリカ大陸2番目の長さ(4,700km)を誇る河川である。コンゴ川の名はコンゴ王国に因む。

タンガニーカ湖
Lake Tanganyikaは、タンザニア西端にある淡水湖。タンザニア、ザンビア、コンゴ民主共和国、ブルンジに面する。南北650kmに細長くのびる。面積は32,900km2で、アフリカで2位、世界で5位。深さは平均水深570m、最大水深1,471mでアフリカで1位、世界で2位。周囲は1,900km、貯水量約17800km3。バイカル湖に次ぐ世界で2番目に古い古代湖(推定2000万年)といわれる。

カランボ滝
Kalambo Falls)は、アフリカのザンビアとタンザニアの国境における滝で、タンガニーカ湖南端に位置する。落差はヴィクトリアの滝の2倍の235メートルで、アフリカ第2位である(第1位は南アフリカのTugela Falls)。


ヴィクトリアの滝
Victoria Falls、現地語:Mosi-oa-Tunyaは、ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にある滝。ユネスコの世界遺産に登録されている。1855年、イギリスの宣教師であり探検家でもあるデイヴィッド・リヴィングストンによって、ヨーロッパ人として初めて見出された。落差と幅の両面から見た滝の規模としては、イグアスの滝と並んで世界最大である。この2つの滝に匹敵する規模の滝は他には無く、たとえばナイアガラの滝もこの2つと較べるとかなり小さい。


■気候
熱帯性気候であるが、高地ではしのぎやすい。年降水量は500-1,500mm。首都ルサカ(標高約1,200m)では1月の平均気温は21℃、7月の平均気温は16℃である。乾季は5月-8月であり、12月-4月は雨季である。


世界平和度指数
Global Peace Index)は、イギリスのエコノミスト紙が24項目にわたって144カ国を対象に分析し、各国や地域がどれくらい平和かを相対的に数値化することを試みたものである。経済紙エコノミストは、この指標に対して批判が出ていることを認めている。特に、軍事費が突出している国に対しての評価が辛い点について、「外国(特にアメリカ)から軍事的庇護を受けている国に有利でありすぎる」との批判が出ていることがエコノミスト紙上で公表されている。


■教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は80.6%(男性:86.8%、女性:74.8%)である。2005年にはGDPの2%が教育に支出された。主な高等教育機関としてザンビア大学(1966)、カッパーベルト大学(1987)の名が挙げられる。

■保健
ザンビアにおける2007年のHIV感染者は推計で約110万人であり、感染率は15.2%である。ザンビア人の平均寿命は38.63歳(男性:38.53歳、女性:38.73歳)である。ザンビア国内で高度先進医療を提供する総合病院は、ルサカ市内のザンビア大学付属教育病院が著名。


<世界遺産>
ヴィクトリアの滝/モシ・オ・トゥニャ
Victoria Falls、現地語:Mosi-oa-Tunyaは、ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にある滝。ユネスコの世界遺産に登録されている。Victoria Falls、現地語:Mosi-oa-Tunya)は、ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にある滝。ユネスコの世界遺産に登録されている。1855年、イギリスの宣教師であり探検家でもあるデイヴィッド・リヴィングストンによって、ヨーロッパ人として初めて見出された。ジンバブエにおいては「ヴィクトリアフォールズ」、ザンビアにおいては「モシ・オ・トゥニャ」(Mosi-oa-Tunya)が公式名称である。 世界遺産登録名はこの2つを併記している。


<歴史>
■1798年
この土地に進出していたポルトガルは、1830年代から大西洋岸のアンゴラ植民地とインド洋岸のモザンビークを結ぶべく、内陸のザンビアへの探検を本格化させた。

■1889年
南アフリカ会社を設立し統治権を確立していたイギリスは、1890年に最後通牒をだし、ザンビアとジンバブエに相当する地域に展開していたポルトガル軍を撤収させて、ザンビアの植民地化を決定的なものとした。このことはポルトガル本国で共和主義者によるザンビアの領有に失敗した王政への批判を招き、1910年10月5日革命の遠因ともなった。

■1924年
イギリスはこの地を北ローデシア保護領として直轄植民地化した。北ローデシアは1953年に南ローデシア(現在のジンバブエ)、ニヤサランド(現在のマラウイ)と共にローデシア・ニヤサランド連邦に改編されたが、南ローデシアの白人が主導していたローデシア・ニヤサランド連邦は黒人層の不満から1963年に解体し、翌1964年10月24日に北ローデシア植民地政府首相ケネス・カウンダと統一民族独立党 (UNIP) により、イギリスから独立した。


■1970年
タンザニア、中華人民共和国の援助でタンザン鉄道の建設が進められた。1970年にカウンダは部族主義を克服するために、統一民族独立党による一党制を樹立した。1973年にカウンダはローデシアとの国境を完全に封鎖し、さらに銅企業の国有化政策を推進した。

■1980年代
独裁化するカウンダの手法や、銅価格の低下に起因するザンビア経済の凋落は国民の不満を招き、1991年に複数政党制を導入した選挙で与党UNIPはフレデリック・チルバ率いる複数政党制民主主義運動 (MMD)に敗れ、カウンダ政権は終焉した。

■2002年
MMDからレヴィー・ムワナワサが大統領に就任したが任期中の2008年に死去し、その後の大統領選でルピヤ・バンダ大統領代行が当選した。現在の大統領は2011年の大統領選で現職のバンダを破ったマイケル・サタである。


トンガ族
tongaは、主にザンビアおよびモザンビーク南部に居住するバントゥー系民族。居住地域によって四つの小グループに分類され、モザンビーク南部に居住するものをトンガ族、ザンビア北東部に居住するものを高原トンガ族、ザンビアとボツワナの国境地帯に居住するものを南トンガ族、ザンベジ川中流域に居住するものを河谷トンガ族と呼ぶ。

ロジ族
ロジ族はザンビア西部に住む民族。ザンビア西部州に多い。ザンベジ川上流の氾濫原、バロツェ平原に約50万人が住んでいる。王はリトゥンガと呼ばれる。土地や家畜を初め、すべてのものが王の物とされている。ロジ人は19世紀にロジ王国を建設し、ザンベジ川上流域に勢力を伸ばした。1890年6月27日に英国とバロツェランド協定を結び、ロジ王国は英国の保護下に入ったものの、間接統治を受け、ある程度の独立性を保ち続けていた。


クオンボカ祭り
ザンビアのロジ族に伝わる伝統的な祭り。ザンビア西部州のモング市周辺で行われる。ロジ族の王(リトゥンガ)は乾季にはザンベジ川の氾濫原の中にある、モングの北12kmの地点にあるレアルイに住んでいるため、川の水量が増える雨季には町の周囲が水没してしまう。そのため王とその一族は雨季になると低地にあるレアルイの宮殿から、モングの北17km地点の高台にあるリムルンガの宮殿へと舟で移動する。この移動は王の舟を中心に大規模な船団を組んで華やかに行われる。この祭りは大規模な祭りであり、ザンビア各地から観光客が押し寄せる。


ベンバ族
Bembaはザンビア共和国北東に位置する高原地帯に居住する民族。人口は約40万人。コンゴ民主共和国を構成するシャバ地方を起源とするルバ族の末裔。19世紀ごろにザンビア地方へ移住してきたルバ族がクランを形成するようになり、現在のベンバ族となった。ザンビアの地にて、アラブとの交易によって入手した鉄砲を駆使し、周辺諸部族を統治した。

チェワ族
Chewaは、中央アフリカから南アフリカにかけて住む民族である。この民族は、自身の周囲をとりまく民族、とりわけトゥンブカ族(Tumbuka)やンセンガ族(Nsenga)などの民族と関連が深い。また、歴史学的にはコンゴ民主共和国で同じ歴史を歩んだ民族であるベンバ族と関連がある。チェワ族の社会において、女性は特別な地位に置かれている。彼女らは血統の再生産者 (Mbele)として認識されており、拡大家族を構成する。母系社会であるため、財産や土地に関する権利は母親側に属する。

トゥンブカ族
Tumbukaは、バンツー族系の民族であり、マラウイ北部、ザンビア東部、タンザニア南部に在住している。トゥンブカ族の神話上の主神はチウタ(Chiuta)といい、アブラハムの宗教の神のように全知全能で、自らを作り上げたと言われる。トゥンブカ族の言語はトゥンブカ語(chiTumbuka)である。なお、chi- は『〜語』を意味する接頭語であり、スワヒリ語(kiSwahili)におけるki- や、ツワナ語(seTswana)におけるse-と同様の意味である。 また、トゥンブカ族は、『トゥンブカ族の部族の一つ』を意味するヴァトゥンブカ族(vatumbuka)と呼ばれることもある。

ンゴニ族
ンゴニ族(ンゴニゾク,アンゴニ族,アンゴニゾク)は、現在のタンザニア、マラウイ、モザンビーク、ザンビアに住むバントゥー系の部族。南アフリカのナタール州周辺に出自を持つ。


アフリカ分割
1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。1912年にイタリアがリビアを獲得した事により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された。


ローデシア
(Rhodesia)は、ザンビア・ジンバブエを合わせた地域の名称。また、1965年から1979年にかけてのジンバブエを実質支配していた白人政権が用いた名称。現在のローデシアにあたる地域は1850年代に探検家デイヴィッド・リヴィングストンによって探検が行われた。その後、ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家トランスヴァールやオレンジ自由国への圧力と北方地域の開拓を目的に1889年にイギリス南アフリカ会社を設立。翌年にはマタベレランドやマショナランドの鉱山開発権を獲得、両地方を併合して「Rhodesia(ローズの家)」と名づけ、さらに1890年には現在のザンビア南部にあたるパロツェランドでも鉱山開発権を獲得、北方へと勢力を伸ばした。


■経済
後発開発途上国(いわゆる最貧国)の一つである。世界的な銅の産地であるカッパーベルトを擁し、日本の十円硬貨にもザンビアから輸入した銅が含まれている。他にも鉛、亜鉛などを産出する。小規模ながら繊維工業なども存在する。しかしながら、主力の銅生産は生産設備の老朽化や投資環境の未整備、銅価格の下落などにより不振が続いており、銅のモノカルチャーに近かったザンビア経済は長期低迷を続けている。


■民族
住民は、バントゥー系民族のトンガ人、ニャンジャ人、ロジ人、ベンバ人、チェワ人、トゥンブカ人、ンゴニ人、ララ人、カオンデ人、ルンダ人などが全体の99.5%を構成する。その他にもヨーロッパ人やアジア人、アメリカ人が0.5%ほど存在する。


■言語
公用語は英語であり、その他に各民族の言葉(ベンバ語、トンガ語、ニャンジャ語など)が用いられる。

■宗教
国民の信仰する宗教はキリスト教が50%-75%、イスラム教とヒンドゥー教が25%-49%、伝統的宗教が1%である。


レヴィー・ムワナワサ
Levy Patrick Mwanawasa, 1948年9月3日 - 2008年8月19日は、ザンビア共和国の政治家。2002年から2008年までザンビア共和国の大統領を務めた。1948年9月3日、ザンビア北部のムフリラで10人兄弟の2番目の子として生まれた。ザンビア大学で法学学位を取得後、1974年から個人法律事務所で働き、1978年に独立した。1985年、ザンビアの訟務長官として政府に仕えたが、翌1986年には自分の事務所に戻った。

ヘンリー・オロンガ
Henry Khaaba Olonga、1976年7月3日 - は、ザンビアのルサカ出身のジンバブエ代表のクリケット選手。ポジションはボウラーで右腕から繰り出される速いボールが武器。1995年のザンビアのハラレで開催されたパキスタン戦に、18歳と212日でジンバブエ代表としてテストクリケットに出場、最も若いジンバブエ代表の出場選手としてその試合の勝利に貢献した。また、初の黒人のジンバブエ代表であり、イングランドのフィル・エドモンズとニール・ラドフォードに次ぐ3人目のザンビア生まれのテストクリケット選手でもある。しかし、同年のテストマッチで投球が反則投球とされ、復帰前にフォームの矯正を余儀なくされた。

ジョージ・グレーガン
George Musarurwa Gregan, AM, 1973年4月19日 - は、ザンビア・ルサカ生まれオーストラリア・キャンベラ育ちの元ラグビー選手である。元ラグビーオーストラリア代表(2007年に代表引退)。ポジションはスクラムハーフ。173cm、76kg。オーストラリア人の父とザンビア人の母の下、ルサカに生まれる。1歳のときにキャンベラへ移り住む。キャンベラ大学で体育学を専攻し卒業。オーストラリアU-19、U-21代表を経験後、1994年のイタリア戦でオーストラリア代表初キャップを獲得。以来ワラビーズの中心選手として長らく活躍。通算139キャップは世界最多キャップ数を誇る。

ケネス・カウンダ
Kenneth David Kaunda、1924年4月28日-は、ザンビアの政治家。同国の初代大統領(在任1964年-1991年)。イギリス領だった北ローデシアで、マラウイ出身のスコットランド長老派教会の牧師の8番目の末っ子として生まれる。1964年ザンビアが独立すると、統一民族独立党を率いてそのまま大統領に就任。経済的には、欧米資本に握られていた鉱山などを国有化し社会主義政策を進めた。

ルピヤ・バンダ
Rupiah Bwezani Banda、1937年2月13日 - は、ザンビア共和国の政治家。ザンビア副大統領を経て 、2008年レヴィー・ムワナワサ大統領の死去にともない、大統領代行に就任。同年の大統領選挙で当選したと公式に発表された。その後、2011年までその任にあった。南ローデシア(現在のジンバブエ)南マタベレランド州、グワンダに生まれる。両親は北ローデシア(ザンビア)に職を得、移る。バンダにはオランダ改革派教会の後援で教育を受けることができた。

サミュエル・マテテ
(Samuel Matete、1968年7月27日 - )は、ザンビアの陸上競技選手である。マテテは1990年代の400mハードルで世界をリードした選手の一人である。1996年アトランタオリンピック銀メダリスト。また、1991年の世界陸上選手権ではザンビア出身の陸上競技選手として初めて世界チャンピオンに輝いた選手である。

ザンビア Zambia
アフリカ南部に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。かつてはイギリス領北ローデシアであった地域である。内陸国であり、コンゴ民主共和国、タンザニア、マラウイ、モザンビーク、ジンバブエ、ナミビア、アンゴラの7つの国に接している[2]。首都はルサカ。2010年に発表された世界平和度指数ランキングでは149か国中51位となり、アフリカでもっとも平和な国の一つとして評価されている。

ルサカ
Lusakaは、アフリカにあるザンビア共和国の最大の都市であり、首都である。標高1300mに位置する。人口は約127万人(2005年)。ルサカという名は1905年、村の首長Lusakaに因んで、ヨーロッパからの移住者によって名付けられた。国の中央に位置していたため、1935年、それまでの首都リヴィングストンに代わってイギリス植民地である北ローデシアの首都になった。1964年、独立したザンビアの首都になった。


ルサカ国際空港
Lusaka International Airportとは、ザンビアの首都ルサカにある国際空港。この空港は、ザンビア航空の本拠地である。


外務省:ザンビア共和国
在ザンビア日本国大使館


ザンビア大学
University of Zambiaは、ザンビアの大学。ザンビアで最も規模の大きな大学であり、学生数は約1万人である。ザンビアの首都ルサカ市に位置し、ルサカから7km離れた所にあるグレート・イースト・ロードキャンパスとルサカ市内のリッジウェイキャンパスとに別れている。

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カッパーベルト大学
Copperbelt Universityは1987年12月1日の法律第19号によりザンビア国会によって設立が決定されたザンビアの公立大学である[1]。略称はCBU。カッパーベルト州・キトウェ市に本部を置いている。前身はザンビア大学の一部である。設立当初は商学部と環境学部(現在の建築環境学部)の2学部であったが、2010年7月現在は5つの学部と生涯教育理事会で組織されている。学生数は約4200人(うち修士課程約120人)、職員は200人の教職員を含む600人を数えている。商学部にのみ修士課程が置かれている。

ムルングシ大学
Mulungushi Universityは、ザンビア・カブウェに2008年1月ザンビア国内で3番目に開かれた総合大学。略称はMU[1]。前身は単科大学の国立経営開発大学(National College of Management and Development Studies)。ザンビア政府とコンコラ銅山(Konkola Copper Mines)との産官提携によって総合大学に改組した。大学は現在学士課程を通学及び遠隔教育で行っている。2009年現在500人以上の遠隔教育学生が在籍している。これらの学生の多くは旧国立経営開発大学の学生である。


ザンビア大学付属教育病院
ザンビアの首都、ルサカ市内に存在する総合病院。略称UTH(University Teaching Hospital)。本来、ザンビア大学医学部の臨床医学教育を担うとともに、高度先進医療サービスを提供する病院であるはずだが、100万人以上の人口を有するルサカ市内に、日本でいうところの1次、2次医療サービスを担う総合病院は存在しない。このため、市内はもとより国内における医療の全ての重責がのしかかってくる。


イギリス南アフリカ会社
British South Africa Company, 略称:BSACは南部アフリカ地域の貿易を目的に設立されたイギリスの国策会社。イギリス東インド会社をモデルとし、イギリスの政治家セシル・ローズによって中央探求協会 (Central Search Association) と探検会社 (Exploring Company Ltd) の合併によって勅許状を受け1889年に設立。ローズはアフリカ分割の一部として、南部アフリカから中央アフリカ地域の植民地経営と経済的搾取を進めることを目的とした。


北ローデシア
アフリカ南部に位置した旧イギリス保護領。1964年10月24日にイギリス連邦内ザンビア共和国として独立した。


タンザン鉄道
TAZARA、タンザニア・ザンビア鉄道は、タンザニアのダルエスサラームと、ザンビアのカピリムポシを結ぶ鉄道。ザンビアはカッパーベルトを擁する銅鉱石の産地で、銅鉱石は当時イギリス領だった南ローデシア(現在のジンバブエ)を経由して南アフリカから輸出されていた。しかし1965年に南ローデシアがイアン・スミス自治政府首相によって一方的に独立を宣言、アパルトヘイト政策を実行すると国際連合は経済封鎖を実行。ローデシアとの通商を閉ざしてしまうが、これによってザンビアは銅鉱石の輸出が殆ど不可能になり、経済的に苦境に陥った。このためローデシアを経由せずタンザニアのダルエスサラームから輸出することを目的として、1970年中華人民共和国の援助によって建設を開始。1975年に完成した。全長は1859km、軌間は1067mm。


カブウェ
Kabweは、ザンビアの都市。人口210,000人。1967年までの旧名はブロークン・ヒル(Broken Hill)。中央州の州都である。ザンビアのほぼ中央にあり、首都ルサカから100km北に離れている。大鉱山を擁する鉱業都市で、亜鉛と鉛をはじめ、銀、マンガン、カドミウム、チタンなども産出する。長年の採鉱の結果、都市の環境は悪化し、2007年にブラックスミス研究所が発表した「世界でもっとも汚染された10の都市」の中に、カブウェもランクインした。土地全体が鉛やカドミウムで汚染されており、子供の鉛の血中濃度は通常の5倍となっている。

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チンゴラ
Chingolaは、ザンビア北部の都市。人口147,448人(2000年)。標高1,363mの高原上にある。カッパーベルト州北部に位置し、カッパーベルト州の6大都市のひとつである。町に隣接して世界第2の規模を持つ露天掘り鉱山であるンチャンガ銅山があり、銅の採掘及び精錬が町の主産業となっている。

ンドラ
Ndolaは、ザンビア共和国中部のカッパーベルト州にある都市で、同州の州都であるとともに、同国で2番目に大きな都市である。2000年の調査によれば人口は374,757人。同国の銅の産地であるカッパーベルト州の工業、商業、行政、流通の中核都市となっている。コンゴ民主共和国との国境に近く、10kmの距離に位置している。

ソルウェジ
Solweziは、ザンビアの都市。ザンビア北部、コンゴ民主共和国との国境近くに位置し、ザンビア北西州の州都である。人口65000人(2000年)。標高1235mの高原上にある。市内から3マイルのところに石器時代の遺跡がある。

モング
Monguは、ザンビアの都市。人口44,310人。首都ルサカからは西に580km離れている。ザンビア西部に位置し、ザンビア西部州の州都である。また、この地域に古くから続くロジ王国の王(リトゥンガと呼ばれる)が今もモング周辺に住み、ロジ人たちの中心都市となっている。

カピリ・ムポシ
Kapiri Mposhiは、ザンビア中部の都市。ザンビア中央州に属する。人口40000人(2006年)。標高1250mの高原上に位置する。鉄道交通の要衝で、北のキトウェと南のルサカやリヴィングストンを結ぶザンビア鉄道が通っている。

キトウェ
(Kitwe)はザンビアカッパーベルト州の都市。近年の急激な人口増加により、州都・ンドラを追い抜き、ザンビアで2番目に大きな都市となった。人口は547,700(2007年)。銅の採掘が主な産業である。近年、中華人民共和国・インドなどの外資系企業が進出している。

チンゴラ
Chingolaは、ザンビア北部の都市。人口147,448人(2000年)。標高1,363mの高原上にある。カッパーベルト州北部に位置し、カッパーベルト州の6大都市のひとつである。町に隣接して世界第2の規模を持つ露天掘り鉱山であるンチャンガ銅山があり、銅の採掘及び精錬が町の主産業となっている。

ムフリラ
(Mufulira)は、ザンビアの都市である。人口125,336人(2007年)。ザンビア北部、カッパーベルト州に属する。カッパーベルト州6大都市のひとつで、キトウェの北東40km、ンドラの北60km、チンゴラの東55kmに位置し、コンゴ民主共和国のカタンガ州との国境からは16kmしか離れていない。

ルアンシャ
(Luanshya)は、ザンビアの都市。人口117,579人(2008年)。ザンビア北部のカッパーベルト州に位置する。カッパーベルト州の6大都市中最も南にある町であり、州都ンドラの南に位置する。ルアンシャは20世紀初頭の銅鉱山の発見とともに建設され、発展してきた。銅鉱山は、探検家のウィリアム・コリアーによって偶然発見された。

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北西州
North-Western Province)は、ザンビアの州。州都はソルウェジ。面積125,827km2、人口583,350人(2000年)。ザンビアの9つの州のうち最も人口密度の低い州である。北西州はチャヴマ、カボンポ、カセムパ、ムフンブウェ、ムウィニルンガ、ソルウェジ、ザンベジの7つの地方に分かれている。

中央州
Central Province)は、ザンビアの9つの州のうちのひとつ。州都はカブウェ。面積94,395km2、人口1,012,257人(2000年人口調査)。中央州はカブウェ、チボンボ、カピリ・ムポシ、ムムブワ、ムクシ、セレンジェの6つの地区(district)に分かれている。


カッパーベルト州
Copperbelt Provinceは、ザンビアの州。ザンビア北部に位置し、北東をコンゴ民主共和国のカタンガ州と接する。面積31,328km2、人口1,581,221人(2000年人口調査)。ザンビアではルサカ州に次いで2番目に面積の小さな州だが、人口はザンビアの9つの州の中で最も多い。その名の通り全域がカッパーベルトに位置し、州内いたるところで銅を産出する大鉱山地帯である。


カッパーベルト
Copper Beltは、アフリカ大陸南部・ザンビア中部のカッパーベルト州からコンゴ民主共和国南部のカタンガ州にかけて広がる銅山地帯の呼称。その名の通り銅の世界的産地。銅鉱床は始生界の古海岸線沿いに堆積した銅鉱物からなる。鉱床規模はポーフィリーカッパー鉱床に匹敵する2000万t級の埋蔵量ではあるが、両国の政治経済的混乱により世界の銅生産におけるカッパーベルトの占有率は減り続けていた。

チャンビシ鉱山
Chambisi copper mineは、ザンビアのカッパーベルト州チャンビシ郊外に存在する鉱山。生産が活発になったのは、1997年に経営不振から閉山してたチャンビシ鉱山の鉱業権(85%)を中華人民共和国の有色鉱業集団有限公司(China Non Ferrous Metal Industries)が取得してから。中国企業の海外初の非鉄金属鉱山であることから、アフリカ諸国進出のシンボル的存在ともなっている。


■国名
正式名称は英語で、Republic of Zambia(リパブリック・オブ・ザンビア)。通称、Zambia(ザンビア)。国名は、国の西部から南部を流れるザンベジ川に因んでいる。


1.面積:752.61千平方キロメートル(日本の約2倍)
2.人口:1,294万人(2009年:世銀)、人口増加率2.5%(2009年:世銀)
3.首都:ルサカ(人口約140万人) 海抜1,227m
4.民族:73部族(トンガ系、ニャンジァ系、ベンバ系、ルンダ系)
5.言語:英語(公用語)、ベンバ語、ニャンジァ語、トンガ語
6.宗教:8割近くはキリスト教、その他 イスラム教、ヒンドゥー教、伝統宗教

1964年 独立(旧宗主国英国)、カウンダ大統領就任
1973年 第二共和制(一党制施行)
1990年 第三共和制(複数政党制移行)
1991年 チルバ大統領就任(第2代大統領)
1996年 チルバ大統領再選
2002年 ムワナワサ大統領就任(第3代大統領)
2006年 ムワナワサ大統領再任
2008年 バンダ大統領就任(第4代大統領)

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■主要産業:農業(とうもろこし、たばこ、落花生、綿花、コーヒー等)、銅鉱業・加工、建設、食品、飲料、化学品、繊維、観光

■主要貿易品目(2009年:CIA)(1)輸出 銅、コバルト、電力、たばこ、花、綿花等(2)輸入 機械類、石油製品、肥料、輸送用機器、食料、衣類等


ザンビア・クワチャ
(Zambian kwacha) は ザンビアの通貨単位。1968年にザンビア・ポンドに代わって導入された(1ポンド=2クワチャ)。通貨コードはZMK。補助単位はングェー (ngwee) であり、1クワチャ=100ングェー。クワチャとは、ニャンジャ語およびベンバ語で「夜明け」を意味する。ングェーはニャンジャ語で「輝かしい」という意味である。


愛国戦線
Patriotic Front、略称PF)は、ザンビアの政党。2001年マイケル・サタによって結成された。サタは、フレデリック・チルバ大統領の後継候補にレヴィー・ムワナワサ副大統領が推されたことに反発し、与党複数政党制民主主義運動を離党、新党を結成した。

複数政党制民主主義運動
Movement for Multiparty Democracy, MMDは、ザンビアの中道左派政党。チルバは反カウンダの旧UNIPメンバーや労働組合の支持を得て勢力を拡大、カウンダに対し、複数政党制の導入を求める急先鋒となった。国際社会からの圧力もあり、1990年、カウンダ政権は複数政党制導入を認めた新憲法を制定。それに伴ってチルバは複数政党制民主主義運動(MMD)を結党、UNIP体制に対する最有力野党として機能することとなった。

国家開発統一党
(United Party for National Development)は、ザンビアの自由主義政党。国家開発統一党は、自由主義インターナショナルにオブザーバー加盟している。2001年12月27日、ザンビア国民議会総選挙 Zambian parliamentary election, 2001では、得票率23.3パーセントで49議席を獲得した。


クリストファー・カトンゴ
Christopher Katongo, 1982年8月31日 - は、ザンビア・ムフリラ出身のサッカー選手。中国サッカー・スーパーリーグの河南建業に所属するザンビア代表の選手である。ポジションはFW。2003年に代表デビューを果たす。2007年9月の南アフリカ代表との親善試合ではハットトリックを達成している。これにより、カトンゴはザンビア軍で伍長から軍曹への昇格を果たしている。

カルシャ・ブワルヤ
Kalusha Bwalya 、1963年8月16日 - は、ザンビア出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。ザンビアの国民的英雄にして史上最高のサッカー選手。ザンビア代表の一員として参加した1988年のソウルオリンピック1次リーグ、イタリア戦でハットトリックを決め4-0でこれを下しベスト8へ進出すると世界中から注目を浴び、この年にアフリカ年間最優秀選手賞を受賞した。

エマヌエル・マユカ
(Emmanuel Mayuka、1990年11月21日 - )は、ザンビア・カブウェ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。2008年にガーナで行われたアフリカネイションズカップに大会最年少の選手として出場。同年9月にイスラエルの名門マッカビ・テルアビブFCに移籍する。2010年の4月に同クラブとの契約を2014年まで更新するが、同年5月にドゥンビア・セイドゥの後釜を探していたスイスのBSCヤングボーイズに移籍金170万ドルで移籍することが発表された。

イアン・スミス
(Ian Douglas Smith、1919年4月8日 - 2007年11月20日)は、ローデシアの政治家、人種差別主義者。イギリス王領植民地であった南ローデシア時代には首相を務める。1965年に同地をイギリスから一方的に独立させ、白人中心のローデシア共和国を誕生させた。初代首相に就任し人種差別政策を1980年まで推し進めた。

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ロバート・アーンショウ
(Robert Earnshaw, 1981年4月6日 - )はザンビア出身でウェールズのサッカー選手。ポジションはフォワード。2002-2003 FLチャンピオンシップ得点王の経歴を持つウェールズ代表ストライカー。ノーウィッチで復調した彼は、翌2006-2007シーズンに怪我で離脱したものの、27得点を上げる活躍を見せる。これにより2007年6月、プレミアリーグ昇格を果たしたダービー・カウンティとチーム過去最高額となる350万ポンドの移籍金で移籍した。

フレデリック・チルバ
Frederick Jacob Titus Chiluba、1943年4月30日 - 2011年6月18日は、ザンビアの政治家。ザンビア共和国第2代大統領(在任1991年 - 2001年)。チルバはカッパーベルト州のキトウェで生まれ、1980年代にはザンビアの労働組合であるザンビア労働組合会議(ZCTU)の議長に就任。当時のケネス・カウンダ政権と対立した。1990年、カウンダが一党制を廃止し複数政党制の導入を決定すると、チルバ率いるZCTUはカウンダの与党・統一民族独立党(UNIP)と対立する勢力を結集して、複数政党制民主主義運動(MMD)を結党。チルバは党首に就任した。

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