|
チュニジア共和国
Republic of Tunisia
|
■地理
東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の三つに大きく分けられる。北部地中海沿岸にはテル山地があり、その谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。
■北アフリカ
アフリカのうちサハラ砂漠より北の地域を指す。また、マグリブ地域のみを指す場合もある。エジプトやリビアを中心に中東の一部として定義されることも多い。サハラ砂漠をはじめとした砂漠地帯やステップが大部分を占めるがEU諸国と対しており、モロッコやチュニジアのように経済が比較的発達している国が多い。アラブ系のコーカソイドが多いためホワイトアフリカともよばれる。
■地中海世界
ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、西アジアのあいだに挟まれた「地中海」沿岸の領域を指す。地理的な領域であるが、この領域は太古より様々な文化や民族の相互交流が絶えず、とりわけ古代から中世初期にかけては一つの独自な文化圏を形成していた。
■アラブ世界
アラビア語を話す人々であるアラブ人が主に住む地域。現代政治的にはアラブ連盟の加盟諸国とみなされることが多く、アラブ諸国(en:Arab states)とも言う。ただし、アラブ連盟加盟国の中には、ジブチ・ソマリアなどアラブ人が少数派を占めるにすぎない国々もある。
■地中海
the Mediterranean Sea)は、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた海である。海洋学上の地中海の一つ。地中海を指すMediterraneanという語は、「大地の真ん中」を意味するラテン語のmediterraneus メディテッラーネウス(medius 「真ん中」 + terra 「土、大地」)に由来する。またギリシア語では、これとまったく同じ造語法でもって、mesogeiosと呼んでいた。
■チュニス湾
Gulf of Tunisは地中海中南部にある湾。チュニジアの北東側、ボン岬半島の西側にある。大まかな位置は北緯37度、東経10度30分。北側に開けた湾であり、湾口の幅は約50km、湾の奥行きは約30kmある。湾の最奥部にはチュニス湖を通じてチュニスの市街がある。注ぎ込む主要河川としてはメジェルダ川などがある。
■アトラス山脈
アフリカ北西部、モロッコからチュニジアにかけて東西に伸びる褶曲山脈である。名称はギリシア神話の巨神アトラスにちなんでいる。西側が一番高く、東に行くにつれ低くなる。長さは2,400km。 モロッコでは標高3,000mを超え、北緯31度3分43秒、西経7度54分58秒にあるモロッコの最高峰ツブカル山(4,167m)などがある。
■ボン岬半島
Cap Bon Peninsulaは、アフリカ大陸から地中海に突き出たチュニジア北東部にある半島。地中海を挟んで東にはシチリア島、パンテレリア島がある。北西にはブラン岬との間にチュニス湾が広がり、南にはハンマメット湾が広がる。ナブールやケリビアなどの都市がある。半島の先端には、ケルクアンの遺跡がある。
■ジェルバ島
Djerbaは、チュニジアの島。チュニジア南部、ガベス湾内にある北アフリカでもっとも大きな島で、リビアとの国境に近くに浮かぶ。人口12万人。中心都市はフーム・スークである。オデュッセウスが上陸した島であるとされる。紀元前587年頃からカルタゴ人が数度来訪した。エルサレム神殿破壊後、多くのユダヤ人が島へ避難してきた。ローマ人が島に都市と商業港を数カ所建設し、農業を発展させた。キリスト教徒、ヴァンダル族、東ローマ帝国、アラブ人に次々と征服されたジェルバ島は、1960年代以降は人気のある観光地となった。
■ジェリド湖
Chott el Djeridは、チュニジアにある塩湖。面積は約7,000km2あり、サハラ砂漠北部最大の塩湖である。塩湖という名はついているが、この地が水で満たされることはほぼなく、塩類の集積した白い平原が広がっている。東西は最大で200km、南北は最大で80kmに及び、西はアルジェリアとの国境近くから東はガベス湾の近くまで伸びている。
■シャンビ山
チュニジア最高峰であり、標高は1,544mである。チュニジア中央西部のカセリーネの街の上にあり、松の林に覆われている。
■ガベス湾
かつて小シルティスとよばれた、地中海南部、チュニジアの東海岸に位置する湾である 北緯34度 東経10.4166667度 。湾の長さと幅はおよそ100kmで、北東に開けている。湾の北東部にはケルケナ諸島、南部にはジェルバ島がある。潮位差は大きく、春の大潮では2.5mに達する。湾の南西岸に位置するガベスは経済と行政の中心地である。
■メジェルダ川
Medjerdaは、アトラス山脈を源流として、地中海のチュニス湾へ注ぐアフリカの河川である。チュニジア及びアルジェリア両国にまたがる。古代ローマ時代は「バグラダス川」(Bagradas)の名で呼ばれていた。古来よりベルベル人、フェニキア人、ローマ人やアラブ人等が争いを繰り広げ、古代ではカルタゴやウティカ、現在はチュニスといった都市がメジェルダ川沿いに建設された。
■シロッコ
(伊:scirocco,sirocco)は、初夏にアフリカから地中海を越えてイタリアに吹く暑い南風(あるいは東南)である。サハラ砂漠を起源とする風で、北アフリカでは乾燥しているが地中海を越えるためイタリア南部到達時には高温湿潤風となり、時に砂嵐を伴う。アフリカでの名前はギブリ。
<歴史>
古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し、紀元前814年頃にはカルタゴ(前814年 - 前146年)が建国され、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力ローマとシチリア島の覇権を巡って紀元前264年から第一次ポエニ戦争を戦った後、第二次ポエニ戦争ではローマを滅亡寸前にまで追いやったハンニバル・バルカ将軍の活躍もありながらスキピオ・アフリカヌスによって本国が攻略され、第三次ポエニ戦争で完全敗北し、紀元前146年に滅亡した。
■16世紀初頭
オスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった後、1574年にオスマン帝国によって滅ぼされオスマン領チュニス地方(1574年 - 1705年)として併合された。
■1705年
フサイン朝(1705年 - 1881年)がチュニジアに成立した。フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間に亘り統治を行った。1837年に即位したアフメド・ベイ時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。
■1878年
ベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年のバルドー条約、1883年のマルサ協定でフランスの保護領フランス領チュニジア(英語版)(1881年 - 1956年)となった。
■1907年
チュニジア独立を目的とする結社、「青年チュニジア党」が創設され、それは「憲政党」に発展し、チュニジア人の市民権の承認、憲法制定、チュニジア人の政治参加を求める運動を展開する。
■1956年
ベイのムハンマド8世アル・アミーンを国王にする条件で独立を受け入れた。初代首相にはブルギーバが選ばれ、チュニジア王国(1956年 - 1957年)が成立し、独立を達成した。しかし、翌1957年には王制を廃止。大統領制を採る「チュニジア共和国」が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し、社会主義政策を採るが、1970年代には自由主義に路線を変更した。
■1987年
無血クーデターが起こり、ベン=アリー首相が大統領に就任し、ブルギーバ政権は終焉した。
■1991年
湾岸危機ではイラクのサッダーム・フセイン政権を支持し、アラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ、内戦に発展したため(アルジェリア内戦)、イスラーム主義組織は厳しく弾圧された。
■2010年末
退陣要求デモが全土に拡大する中、2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言、翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる
■フェニキア
Phoeniciaは、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。
■カルタゴ
Carthageは、現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖 (Lake of Tunis) 東岸にあった古代都市国家であり、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっている。古代ローマの詩人ウェルギリウスの「アエネイス」によると、テュロスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン (Pygmalion of Tyre) から逃れてカルタゴを建設したとされる。古代ギリシアやローマの歴史家らの史料ではトロイ戦争(紀元前12世紀頃)前、紀元前820年頃や紀元前814年頃に夫々建国されたという記述があるがいずれも裏付は無い。ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を行っており、「紀元前814年」が一般的にカルタゴ建国年と見做されている。
■イフリーキヤ
北アフリカの中西部を指す歴史的地域名。おおよそ現在のチュニジアからアルジェリアの東部あたりを指す。イフリキアと読むこともある。アラブ人による征服後に用いられるようになったが、イスラム時代の初期には後にマグリブと呼ばれることになる地域、すなわちリビアより西の北アフリカ地域全体を指す広域の地名であった。しかし、9世紀にアグラブ朝が現チュニジアのカイラワーンに興り、チュニジアを中心とする地域を支配するようになるとその領域に限定され、アグラブ朝領と同一の範囲を指す地域名に転化した。
■チュニジア王国
Kingdom of Tunisiaは、かつてチュニジアに存在した立憲君主制国家。1956年にフランスから独立したが、わずか1年後に共和制へ移行した。王朝の成立は1705年である。オスマン帝国の宗主権のもとにあった地中海の要所チュニジアに対し、西欧列強は領土的野心を持っていた。1878年のベルリン会議の結果、フランスはチュニジア侵攻を行い、1881年のバルドー条約、1883年のマルサ協定でチュニジアはフランスの保護領となった。
■ベルベル人
北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって分布しており、その総人口は1000万人から1500万人ほどである。モロッコでは国の人口の半数、アルジェリアで同5分の1、その他、リビア、チュニジア、モーリタニア、ニジェール、マリなどでそれぞれ人口の数%を占める。
■ヴァンダル族
Vandalは、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた系統不明の民族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)は、おそらくヴァンダル族に由来する地名である。また彼らの名前は、ヴァンダリズムの語源ともなっている。
■ハフス朝
チュニスを中心にイフリーキヤ(現在のチュニジア)を支配したベルベル人のイスラム王朝。ムワッヒド運動の正統性を再興する手段として権力を握ったというプロパガンダはある程度成功を収め、アブー=ザカリーヤーの治世において早くもアルジェまで領土を拡大した。
■ナフダ
アン・ナハダは、チュニジアのイスラム主義の政党。ムスリム同胞団が母体になっている。指導者であるラーシド・ガンヌーシー(英語版)は2011年に帰国した。
■第一次ポエニ戦争
First Punic War, 紀元前264年 - 紀元前241年 は、カルタゴと共和政ローマの間で戦われた三度に渡るポエニ戦争の初めのものである。この戦争で二つの勢力は、地中海の西側の覇権をめぐって 23 年間にわたって争った。 カルタゴは、アフリカ大陸の現チュニジアの場所に位置し、戦闘が始まった頃は地中海を支配する国だった。
■第二次ポエニ戦争
Second Punic Warとは、共和政ローマとカルタゴとの間で紀元前219年から紀元前201年にかけて戦われた戦争。ローマ、カルタゴ間の戦争はカルタゴの住民であるフェニキア人のローマ側の呼称からポエニ戦争と総称されるが、この戦争は全3回のポエニ戦争の2回目にあたる。
■第三次ポエニ戦争
(紀元前149年 - 紀元前146年)は、かつてフェニキア人の植民地だったカルタゴと共和政ローマとの間で争われたポエニ戦争の3回目にあたり、最後となった戦争である。 ポエニ戦争という名前は、ローマ人によるフェニキア人の呼び名から名付けられた。
■チュニジア侵攻
チュニジア侵攻は1881年に第三共和政下のフランスがオスマン帝国領のチュニジアに侵攻した武力衝突事件。19世紀の地中海沿岸の勢力図は、オスマン帝国が弱体化しつつある中、フランスが勢力を伸ばす状況にあった。1871年にはチュニジアの隣国のアルジェリアを支配下に収めており、その延長として行われた軍事行動である。チュニジア侵攻は終始、フランス側のペースで進み、1956年まで続く植民地体制が決定づけられた。
■アルジェリア戦争
Algerian War, は、1954年から1962年にかけて行われたフランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争。フランス本土と当時はフランス領(公式には植民地ではなく海外県と海外領土の中間的存在とされる。)であったアルジェリアの内戦であると同時に、アルジェリア地域内でフランス本国と同等の権利を与えられていたコロンと呼ばれるヨーロッパ系入植者と、対照的に抑圧されていたベルベル人やアラブ系住民などの先住民(indigene,アンディジェーヌ)との民族紛争及び親仏派と反仏派の先住民同士の紛争、かつフランス軍部とパリ中央政府との内戦でもある。
■国民
イスラーム国だが世俗的な国家であり、独立と同年の1956年にブルギーバ首相の国家フェミニズムの下で制定された家族法によって、トルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しく、アラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている。
■アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラビア人」の呼称が過去には一般的であったが、アラビア人を意味する英語のarabにさらに「人」をつけ足した「アラブ人」という言い方が、本来の意味からすればおかしいものの、オイルショックの頃から使われだし、やがて定着したもの。
■民族
住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが、7世紀のアラブによる征服以降、住民の混血とアラブ化が進んだため、民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%、ベルベル語を話すベルベル人、ユダヤ人、黒人などその他が1%である。
■言語
アラビア語が公用語であるが、独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及している。そのため学生たちはフランス語とアラビア語の両方の授業を受ける。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。また、ごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。
■宗教
イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教(主にカトリック、ギリシャ正教、プロテスタント)。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した。
■イスラーム
ムハンマドがアッラーフの啓示を受けたとして創始した、ムスリムの信仰生活を、第一聖典クルアーン(コーラン)と第二聖典ハディースによって規定する体系をさす。回教とも呼ばれ、またかつてはフイフイ教とも呼ばれた。
■スンナ派
イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。
<世界遺産>
■チュニス旧市街
チュニスの原型は、古代フェニキア人によって建設された、カルタゴ近郊の町である。古代はチェニェスと呼ばれていたようである。チェニェスはカルタゴの衛星都市として栄えたが、カルタゴはローマ共和国との間で戦争を繰り返し、紀元前146年の第三次ポエニ戦争で完全に破壊された。ローマ史や世界史等の歴史で有名なカルタゴは、北東近郊にある。メディナと呼ばれる、城壁に囲まれた旧市街地は1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。アグラブ朝時代及びハフス朝時代にまで起源が遡れる噴水、宮殿、イスラム聖職者学校、霊廟、記念碑等。
■カルタゴ遺跡
現在のチュニジア共和国の首都チュニスに程近い湖であるチュニス湖 (Lake of Tunis) 東岸にあった古代都市国家であり、現在は歴史的な遺跡のある観光地となっている。古代ローマの詩人ウェルギリウスの「アエネイス」によると、テュロスの女王ディードーが兄ピュグマリオーン (Pygmalion of Tyre) から逃れてカルタゴを建設したとされる。古代ギリシアやローマの歴史家らの史料ではトロイ戦争(紀元前12世紀頃)前、紀元前820年頃や紀元前814年頃に夫々建国されたという記述があるがいずれも裏付は無い。ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を行っており、「紀元前814年」が一般的にカルタゴ建国年と見做されている。なお、カルタゴ遺跡からの出土品では紀元前8世紀後半のものが最も古い。
■エル・ジェムの円形闘技場
エル・ジェムは、間違ってコロセウムと呼ばれることのある観客席35,000人の円形劇場(アンフィテアトルム)で有名である。この劇場より大きいものはローマのコロセウム(約45,000人)およびカプアの荒廃した劇場だけである。流砂が、Thysdrusの市場都市とそれを囲む洗練された別荘を保存している。 考古学者の注意は発掘を必要としない劇場に集中している。 モザイクの床がいくつか見つかり公表された。しかし、発掘はほとんど試みられていない。
■イシュケウル国立公園*危機遺産
Ichkeul lakeは、チュニジア北部の地中海の海岸の近くの湖である。 イシュケル国立公園の湖と湿地は、毎年何十万もの渡り鳥が訪れる重要な中継地である。 この湖には、あひる、ガチョウ、コウノトリ、フラミンゴなどが訪れる。 ユネスコのウェブサイトによれば、チュニジアの政府は、真水を保持し塩分を減らすためのステップを試みたが、国際自然保護連合は、いくつかの報告書で、塩分が既に極端に高くなっており回復の可能性が急速に失われているかもしれないと示唆している。
■ケルクアンの古代カルタゴの町とその墓地遺跡
発掘の結果、この遺跡が、紀元前4世紀から紀元前3世紀のものであることが明らかになっている。北東チュニジアのボン岬の近くにあったカルタゴの都市である。このフェニキア人(カルタゴ人)の都市は、第一次ポエニ戦争(紀元前264年 - 紀元前241年)の間に放棄されたと見られており、ローマ人によって再建されなかった。この街は、ほぼ400年間存在した。
■スース旧市街
チュニスの南約140kmに位置するチュニジア第三の都市で、人口は約43万人。町は美しく、「サヘルの真珠」といわれる。旧市街メディナはユネスコ世界遺産に登録されている。紀元前9世紀頃にフェニキア人によって「ハドルメントゥム(Hadrumentum)」として開かれた。古代ローマと同盟を結びんでいたため、ポエニ戦争中も含めパックス・ロマーナの700年の間比較的平和で、大きな被害を免れた。ティトゥス・リウィウスは彼の著作「ローマ建国史」の中で、大スキピオがアフリカに上陸する地として選んだのはハドルメントゥムだったとしている。
■カイルアン
ケルアンは670年頃、アラブの将軍ウクバ・イブン・ナフィが森深く野生動物や爬虫類のはびこる場所に軍の駐屯基地を選んだことに始まる。ベルベル人の監視が目的で、また海からの攻撃から安全なよう海岸から遠くに位置した。町はすぐに開発が進み、豪華な庭園とオリーブ園があった。イブン・ナフィは駐屯基地ができて約15年後にベルベル人との戦闘で殺された。
■ドゥッガ/トゥッガ
ドゥッガまたはトゥッガは、チュニジア北部にある65ヘクタールの広さを持つローマ時代の遺跡である。元、ドゥッガはベルベル人の武装した村であり、トゥッガは「牧場」を意味していた。その後、紀元前2世紀にヌミディア王マシニッサがこの地を所在地とした。ローマ人は紀元前2世紀後半にこの街を占領した。
■アブー・ザカリーヤー1世
Abu Zakariya Yahya I ben Abd al-Wahid、? - 1249年は、イフリーキヤ(現在のチュニジア、アルジェリア東部)を支配したハフス朝の建国者(在位1228年 - 1249年)。12世紀のイスラム宗教運動家イブン・トゥーマルトの門弟であるハフス・イブン・ウマルの孫にあたる。
■ハビーブ・ブルギーバ
Habib Ben Ali Bourguiba, 1903年8月3日 - 2000年4月6日は、チュニジアの政治家。ブルギバ、若しくはブールギバとも記される。初代大統領。西欧化を目指したことから、トルコのケマル・アタテュルクとよく比較された。離婚を合法化したり、一夫多妻制を非合法化したり、女性の結婚可能年齢を17歳に引き上げるなど、女性地位向上につとめた。モナスティルで、中産階級の家に生まれた。19歳の時、ナショナリズム政党である憲政党に入党。1924年、フランスに留学し法律と政治を学ぶ。ソルボンヌ大学で学んでいるとき、マティルド・ロレン(1890年-1976年)というパリ生まれの女性と出会い、結婚。マティルドはイスラームに改宗し、モーフィダと名乗った。
■ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー
Zine El Abidine Ben Ali1936年9月3日 - は、チュニジア共和国の政治家、軍人。大将。1987年より23年以上にわたって同国第2代大統領を務めたが、2011年1月14日にサウジアラビアへ亡命、政権は事実上崩壊した。23年間もの長期政権を維持したが、2010年末頃より高い失業率や物価の高騰などを背景とした国民の不満がデモとなって噴き出し、2011年1月13日に次期大統領選挙への不出馬を、翌日には総選挙前倒しを表明し事態を収拾しようと試みたが収まらず、同日中にチュニジアを脱出。サウジアラビアに亡命し政権は崩壊した。
■フアド・メバザ
1933年6月16日 - )は、チュニジアの政治家。1997年より同国の下院議長、2011年1月15日より暫定大統領を務めた。青少年・スポーツ大臣、公衆衛生大臣、文化情報大臣を歴任。フランスのパリでは法学と経済学を学んだ。2011年1月14日にザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領が1ヶ月に及ぶ抗議デモの末に同国を出国しサウジアラビアに亡命、モハメッド・ガンヌーシ首相が暫定大統領就任を宣言したが、憲法評議会は規定に基づいて下院議長であるメバザを翌1月15日に暫定大統領に指名し、同日就任宣誓を行った。
■モハメド・ガムーディ
Mohammed Tlili ben Abdallah、1938年2月11日 - は、チュニジアの元陸上競技選手。アフリカの長距離ランナーのパイオニアの一人であり、オリンピックでは1968年メキシコシティオリンピック5000m金メダルをはじめ、銀メダル2個、銅メダルも1個、合計4個のメダルを獲得した選手である。
■テルトゥリアヌス
クイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus, 160年? - 220年?)は、2世紀のキリスト教神学者。ラテン語で著述を行ったいわゆるラテン教父の系統に属する最初の一人。カルタゴ(現チュニジア)に生まれる。その生涯についてはほとんど知られていない。197年にはすでに洗礼を受けていたことがわかっている。彼は法学と修辞学を学び、その知識をキリスト教擁護に活かした。
■アリ・ブムニジェル
Ali Boumnijel, 1966年4月13日 - はチュニジアの元サッカー選手。ポジションはゴールキーパー。2006年ワールドカップドイツ大会における最年長選手であり、唯一の40歳台の選手であった。現在でこそチュニジア代表の正ゴールキーパーとして活躍しているブムニジェルだが、長年控えのゴールキーパーであったため、代表デビューした1991年以降、出場機会に恵まれなかった。
|
チュニジア Tunisia
北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。
■チュニス
Tunisは、チュニジア共和国の首都であり、同国のチュニス県の県都でもある。また同国の商業・工業の中心地。人口約83万人(2004年12月現在)。近郊を含む都市的地域の人口は235万人であり、世界第164位である。市街はチュニス湖とその西方の塩湖の間の地峡部にあり、チュニス湖は、地峡部を横断する運河で、地中海・チュニス湾に面する外港のラグレットと結ばれる。オリーブ油・リン鉱石などを輸出。チュニス大学がある。
■チュニス・カルタゴ国際空港
L'aeroport international de Tunis-Carthageは、チュニジアの首都、チュニスにある国際空港。チュニスエア、ヌーヴェルエア、セヴェンエア(旧チュニインター)やチュニサヴィア等の航空会社が拠点を置いている。空港名は古代都市のカルタゴに由来する。
■ビゼルト
Bizerteは、チュニジアの都市。ビゼルト県の県都で、2004年調査では人口114,371人である。ビゼルトはチュニジア北岸にあり、首都チュニスから66km北方、アフリカ大陸最北端のブラン岬から15km離れている。地中海を挟み、シチリア島やサルデーニャ島と近い。
外務省:チュニジア共和国
在チュニジア日本国大使館
■モナスティル
Monastirは、チュニジア北東部の都市。モナスティル県の県都。サヘル地帯にあり、スースの20km南、首都チュニスの162km南にある。伝統的な漁港であり、現在はチュニジア有数の観光地である。人口はおよそ71,546人(2005年)。
■マトマタ
Matmataは、チュニジア南部の都市。旧マトマタと新マトマタとがあるが、観光地として著名なのは旧マトマタのほうである。地面に巨大な穴を掘り、その側面に居住用の穴を掘って生活する穴居住宅で知られている。マトマタはスター・ウォーズシリーズのロケ地として著名であり、穴居住宅をホテルに改装したシディ・ドリス・ホテルは、惑星タトゥイーンのルーク・スカイウォーカーの家として映画に登場した。
■タタウイヌ
Tataouineはチュニジア南部、タタウイヌ県の県都である。北緯 32°55′60″、西経 10°26′60″Eに位置する。ベルベル人の要塞の遺跡であるクサールで有名である。 Ksar Ouled Soltaneや、 Chenini、Douiretがある。1931年6月27日、隕石の落下があり、12kgの破片が発見された。稀少なエイコンドライトであるダイオジェナイトに分類される隕石であった。ジョージ・ルーカスがスター・ウォーズを撮影した場所としても知られる。またSFテレビドラマのXファイルにも地球外ウイルスの実験施設が開かれた場所として登場した。
■ガフサ
Gafsaはチュニジア・ガフサ県の県都である。人口およそ9万人の燐鉱山がある小都市で、旧石器時代からの歴史を持つチュニジア最古の町。近郊にエルメクタ遺跡という旧石器時代の遺跡があり、ここを中心に栄えたアフリカの文化はガフサにちなみ、カプサ文化と名付けられた。
■シディ・ブ・サイド
Sidi Bou Saidは、チュニジアの自治体。首都チュニスの北東約20kmにある観光地である。人口は5,409人(2004年)。カルタゴとチュニス湾を見下ろす断崖の上にあり、地名は聖人であるアブー・サイード(Abou Said)にちなむ。チュニスからTGMを利用して行ける。17世紀以降、この村の魅力にチュニジアのブルジョワ階級が惹きつけられ、彼らは贅を凝らした家を建てた。1893年に郡区となった時、村にはシディ・ブ・サイドの名が与えられた。20世紀、シディ・ブ・サイドは多くの芸術家、音楽家、作家を魅了した。これらの中にはフランソワ=ルネ・シャトーブリアン、ギュスターヴ・フローベール、アルフォンス・ド・ラマルティーヌ、アンドレ・ジイド、コレット、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、パウル・クレーらがいた。
■ガベス
チュニジア共和国ガベス県の県都。紀元前:ガベスはかつてカルタゴ領の町だった。紀元前2世紀の第2次ポエニ戦争ののちガベスはローマ帝国の支配下に入り、その名もタカペに変わった。ガベスはチュニジア最大級の工業都市である。化学産業が多く、ガベス大学の化学の学士号はアフリカで高い評価を得る。
■カスリーヌ
チュニジア西部、カスリーヌ県の都市。2004年時点での人口は76,243人。農業、特にイネ科のアルファ(Alfa)栽培が経済の中心である。セルロースの製造やアルファの加工を行う工場がチュニジア独立後につくられた。野生動物が豊富で、狩りが盛んである(イノシシ、ウズラ、ウサギなど)。ローマ時代に建てられた廟2つ、凱旋門、劇場、東ローマ帝国初期のキリスト教教会などが残る。
■マーディア
al-Mahdiya, Mahdiaは、チュニジア東部のマーディア県の首都である。古代フェニキア時代から続く都市で、当初はルスパエ (Ruspae)、のちにはヘンキル・スビア (Henchir Sbia) またはスビア (Sbia)、6世紀にはルスピナ (Ruspina) と呼ばれた。
■ナブール
Nabeulは、チュニジア北東部、ボン岬半島南東部にあるナブール県の県都。地中海に南面した沿岸都市。日本の愛知県瀬戸市が姉妹都市である。人口はおよそ5万6千人。
■スファックス
Sfaxは、チュニジアの首都チュニスの南東約270kmに位置する港町であり、スファックス県の県都である。ガベス湾、地中海に面し、気候はステップ気候で温暖である。
■トズール
(Tozeur)は、チュニジア南部の都市。人口32400人(2004年)。トズール県の県都である。サハラ砂漠の北の端に位置するオアシス都市で、古くからサハラ交易の要所として栄えた。現在もチュニジアのサハラ地域の一中心である。
■ガベズ県
チュニジアの県である。チュニジアの南東に位置している。人口は343,000人(2004年)、面積は7,175km2。県都はガベズである。ガベズ県での最も有名な観光地はマトマタである。マトマタは初期の状態を維持したままの世界でも珍しい都市のひとつである。
■ケビリ県
Kebili Governorate) は、チュニジアの県である。チュニジアの南西に位置し、アルジェリアと国境を接している。人口は143,000人(2004年)、面積は22,084km2。県都はケビリである。ケビリ県は、シェリド湖として知られているチュニジアで一番大きな塩田の大部分を占めている。
■カセリーヌ峠の戦い
Battle of the Kasserine Passは第二次世界大戦中、チュニジアで行われた戦いであり、それはカセリーヌ峠(チュニジアを中部から西部へそびえるアトラス山脈にある幅2kmの隙間であった)の周辺で行われた一連の戦いを含んでいる。
■フランコフォニー国際機関
Organisation Internationale de la Francophonie; OIFとは、世界中の様々な文化圏に属する、民主主義や人権といった普遍的な価値観とフランス語とを共有する国・地域の総体であるフランコフォニーの名を冠した国際機関である[1][2]。創設への動きは、1960年代、旧フランス領だったアフリカ諸国の指導者である、セネガルのレオポルド・セダール・サンゴール、チュニジアのハビーブ・ブルギーバ、ニジェールのアマニ・ディオリらにより進められた。
■ジャスミン革命
Jasmine Revolutionは、2010年から2011年にかけてチュニジアで起こった革命(民主化運動)。一青年の焼身自殺事件に端を発する反政府デモが国内全土に拡大し、軍部の離反によりザイン・アル=アービディーン・ベン=アリー大統領がサウジアラビアに亡命し、23年間続いた政権が崩壊した事件である。ジャスミンがチュニジアを代表する花であることから、このような名前がネットを中心に命名された。この民主化運動はチュニジアにとどまらず、エジプトなど他のアラブ諸国へも広がり、各国で長期独裁政権に対する国民の不満と結びつき、数々の政変や政治改革を引き起こした。
■国名
正式名称は、(ラテン文字転写 : al-Jumhuriya al-Tunisiya、片仮名転写 : アル・ヂュムフーリーヤ・アル・トゥーニスィーヤ)。通称は、(Tunis)。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス (Thunes) で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus 地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。
1.面積:16万3,610平方キロメートル(日本の約5分の2)
2.人口:1,043万人(2009年、世銀)
3.首都:チュニス
4.民族:アラブ人(98%)、その他(2%)
5.言語:アラビア語(公用語)、フランス語(国民の間で広く用いられている)
6.宗教:イスラム教スンニ派(多数派)、キリスト教およびユダヤ教(少数派)
紀元前9世紀より都市国家カルタゴとして栄えた。ベルベルとフェニキアの文化が融合する。
紀元前146年 ローマ帝国がカルタゴを征服。
439年 ゲルマン系ヴァンダル族がカルタゴを占領し、ヴァンダル帝国を建設。
533年 東ローマ帝国のビザンチンがヴァンダル帝国を滅ぼし、ビザンチン文化が開花。
7世紀 アラブ侵入、イスラム化の始まり。
1574年 オスマン帝国の属州となる。
1881年 フランスの保護領となる。
1956年3月 フランスより独立。翌年7月、共和制に移行し、ブルギバ大統領就任。
1959年6月 共和国憲法発布
1987年11月 ベン・アリ大統領就任
1989年4月 ベン・アリ大統領当選
1994年3月 ベン・アリ大統領再選
1999年10月 ベン・アリ大統領三選
2004年10月 ベン・アリ大統領四選
2009年10月 ベン・アリ大統領五選
2011年1月 ムバッザア暫定大統領就任
■主要産業(1)サービス業(46%): 観光業、情報通信産業 等(2)製造業(16%): 繊維、機械部品、電機部品、食品加工 等(3)農業(11%): 小麦・大麦・柑橘類・オリーブ・なつめやし 等
■総貿易額・主要貿易品目(2009年、チュニジア国立統計局)輸出(FOB) 144億米ドル 機械部品、電機部品、衣類 輸入(CIF) 190億米ドル 機械、電化製品、原油、天然ガス
■チュニジア・ディナール
(Tunisian dinar)はチュニジアで利用される通貨単位。ISO 4217コードはTND。補助通貨はミリムで、1ディナールは1000ミリムである。ディナールの使用は1958年に決定され、1960年に導入された。以前使われていたフランとは、1000フラン=1ディナールで交換された。
■経済
チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、一人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。
■エタカトル
エタカトル(フランス語: Ettakatol)は、チュニジアの政党。社会民主主義であり、2011年の選挙で21議席をとった。
■立憲民主連合
Rassemblement constitutionnel democratiqueは、チュニジアの政党。ベン=アリー、ガンヌーシ、メバザ政権において与党の立場にある。
■農業
アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの、農地の占める割合が国土の31.7%に達している。2005年時点の生産高を見ると、世界第5位のオリーブ(70万トン、世界シェア4.8%)、世界第10位のグレープフルーツ(7.2万トン、2.0%)が目を引く。ナツメヤシ(13万トン、1.8%)、らくだ23万頭(1.2%)といった乾燥気候を生かした産物・家畜も見られる。
■オリーブ
英: Olive、学名:Olea europaea)は、モクセイ科の植物。果実がオリーブ・オイルやピクルスを作るときに利用されている。種子の油は、オリーブ核油 olive kernel oil といい、オリーブ油よりも品質が劣る。地中海地方が原産とされ、葉が小さくて硬く、比較的乾燥に強いことからスペインやイタリアなどの地中海地域で広く栽培されている。
■グレープフルーツ
grapefruit)は亜熱帯を原産とする柑橘類である。グレープフルーツは様々な種類があるが、例えば「ルビー」などのように果肉の色で呼び分けるのが一般的である。グレープフルーツの木は、常緑樹であり5-6mの丈のものが多く見られるが、成長を続ければ13-15mにもなる。1750年代に西インド諸島のバルバドスで発見されたものが最初とされ、ブンタン(英名:pummelo、学名:Citrus grandis)とオレンジ(学名:Citrus sinensis)が自然に交配したもので前者の特徴を多く受け継いでいる。
■ナツメヤシ
Phoenix dactylifera)はヤシ科の常緑高木。果実(デーツ、Date)は北アフリカや中東では主要な食品の1つであり、この地域を中心に広く栽培が行われている。メソポタミアや古代エジプトでは紀元前6000年代にはすでに栽培が行われていたと考えられており、またアラビア東部では紀元前4000年代に栽培されていたことを示す考古学的証拠が存在する。デーツはイラクやアラブ諸国、西は北アフリカのモロッコまでの広い地域で、古くから重要な食物となっている。イスラム諸国では、デーツと牛乳は伝統的にラマダーン期間中の日没後に最初に取る食事である。
■鉱業
チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石(リン酸カルシウム、240万トン、5.4%)、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊にある。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。
■工業
チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業、鉱物採取と連動した化学工業、加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は、6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と、加工野菜(缶詰)が中心である。オリーブ油の生産高は世界第4位(15万トン、6.4%)だ。
2011/10/28 ベンアリ政権が倒れたチュニジアで23日あった制憲議会選挙で穏健派イスラム政党のナハダが90議席を獲得し第1党となった(定数217)ナハダのハリジ事務局長は「我々は経済成長と穏健なイスラム社会の両立を目指す。チュニジア経済はヨーロッパからの観光客に依存している。私たちはこれを拡大し日本などアジアからの観光客、投資を増やしたい」と述べた。
■アフリカ連合
アフリカの国家統合体。アフリカ統一機構 (OAU) が、2002年に発展改組して発足した。エチオピアのアディスアベバに本部を置いている。
■アラブ連盟
League of Arab States、直訳は「アラブ諸国連盟」は、アラブ諸国の政治的な地域協力機構。第二次世界大戦末期の1945年3月22日創設。本部はカイロにある。加盟は22(21カ国と1機構)。 現在の連盟事務局長はエジプト前外相のナビール・エル=アラビー。
■地中海連合
欧州連合 (EU) の加盟国と地中海沿岸国による共同体。2008年7月13日にフランス大統領ニコラ・サルコジにより設立された[2][3]。もともと地中海連合はサルコジがトルコのEU加盟に反対していた一方で、トルコを加えた新たな地域統合の構想の枠組みとして提唱していたものであったが[4]、2008年3月に構想段階での規模が縮小されたことで、トルコのEU加盟の代替案という考え方は破棄された。トルコは2008年に地中海連合をEU加盟の代替としないという保証を求め、そのうえで地中海連合に参加することを受け入れた。
■アラブ・マグレブ連合
Arab Maghreb Union: AMUとは、北アフリカの通称、マグレブと呼ばれる5ヶ国が同じ歴史、文化を共有した背景から連帯、進歩、諸権利の保護を目的とし、1989年に創設された経済協力機構。本部はモロッコのラバト。
■チュニジア文学
チュニジア文学には二つの様式が存在する。フランス語文学とアラビア語文学である。アラビア語文学の存在は7世紀にアラブ文明がこの地に到達した時にまで遡る。アラビア語文学は1881年のフランス保護領化に続いて導入されたフランス文学よりも、質的にも量的にも重要である。国民出版目録では、2002年のチュニジアでは1,249冊の非学術書が出版され、内885冊はアラビア語の題が付けられていた。これらの内おおよそ1/3が子供向けである。2003年には、300万チュニジア・ディナールの国家予算が文芸支援のために捧げられた。約100社の私営出版社が事実上全ての本を出版している。
■教育
6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育への道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学(737)、チュニス大学(1960)、カルタゴ大学(1988)、エル・マナール大学(2000)などが挙げられる。名門リセ(高校)としてはサディーキ校(1875)も挙げられる。
■食文化
代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)、ブリック、ラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるが、ワインの生産国でもある。チュニジア・ワインにはフランスの影響によりロゼワインも多い。
■クスクス
couscous、は、小麦粉から作る粒状の粉食、またその食材を利用して作る料理である。発祥地の北アフリカから中東にかけての地域と、それらの地域から伝わったフランス、イタリアなどのヨーロッパ、およびブラジルなど世界の広い地域で食べられている。硬質小麦の一種であるデュラム小麦(英: Durum wheat)の粗挽粉に水を含ませ、調理後の大きさが約1mm大の小さな粒になるように丸めてそぼろ状にしたものである。
■文学
大多数のチュニジア人の母語はアラビア語だが、正則アラビア語の宗教的な特性により、近現代のチュニジア文学はフランス語で書かれることも多い。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。
■哲学
中世において「イスラーム世界最大の学者」と呼ばれる[7]チュニス出身のイブン・ハルドゥーンは『歴史序説』を著わした。ハルドゥーンは『歴史序説』にてアサビーヤ(集団における人間の連帯意識)を軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。
■映画
チュニジアは映画製作の盛んな国ではないが、チュニジア出身の映像作家としては「チュニジアの少年」(1990)のフェリッド・ブーゲディールや、「ある歌い女の思い出」(1994)のムフィーダ・トゥラートリなどの名が挙げられる。1966年から二年に一度、カルタゴ映画祭が開催されている。
■チュニジアの夜
(A Night in Tunisia) は、1942年にトランペット奏者のディジー・ガレスピーが、ピアニストのフランク・パパレリ (Frank Paparelli) との共作で作曲した楽曲。後に歌詞を付けられて歌曲にもなった。1940年代のビバップ期以来、モダン・ジャズのスタンダード・ナンバーの一つとなっており、「マンテカ (Manteca)」などと共にガレスピーの代表的な作品の一つに数えられる。
■カルタゴ映画祭
Carthage Film Festivalはチュニジアのチュニスで開催される国際映画祭。正式名称は「カルタゴ映画週間」1966年に始まり、アラブ・アフリカ世界で最も有名な映画祭の一つ。偶数年の10月から11月に開催され、公式コンペの上映作品は、過去2年間にアラブ・アフリカの映画監督が制作した映画が対象となる。
■ハッサン・アル=ガッサーニー
生年不詳-705年は、アラブの大征服の司令官の一人。カリフ・アブド・アル=マリクは、そのおよそ15年前にウクバフ・イブン=ナーフィによって征服されながら、絶え間ないベルベル人の蜂起と東ローマ帝国の圧力のために捨てられた領土を取り返して、平和にするために北アフリカへの遠征を彼に担当させた。アル=ガッサーニーはカルタゴを征服するのに成功したが、東ローマ軍が強い船隊を送り、戦闘的な女性預言者アル=カーヒナフに導かれたベルベル部族が圧倒的な大群で攻撃してきたとき、再び引き下がらなければならなかった。翌年、彼は陸のそばで補強を受け、船隊は共同作戦のため彼の指揮におかれた。アル=ガッサーニーはカルタゴを再征服し、東ローマ軍船の大部分を沈めて、ベルベル人を追い散らした。
■イブン・ハルドゥーン
Ibn Khaldun, 1332年5月27日 - 1406年3月19日は中世のイスラーム世界を代表的する歴史家、思想家、政治家。イスラーム世界最大の学者とも呼ばれる。少年時代のハルドゥーンは当時の良家の子弟と同じように、チュニスの学者たちからイスラーム法学、伝承学、哲学、作詩などを学び、政界への進出に必要な教養を習得した。しかし、ハルドゥーン自身は少年期について多くを語っておらず、不明な点が多い。1347年にチュニスはマリーン朝のスルタン・アブル・ハサンに占領されるが、アブル・ハサンがモロッコより帯同した学者たちとの出会いがハルドゥーンの学究心を刺激し、恩師となる哲学者アル・アービリーの教えを受けるきっかけを生み出した。父ムハンマドはモロッコの学者と交流し、学者たちが家に出入りしたため、ハルドゥーンは彼らから教えを受けることができたのである。
■モハメッド・ガンヌーシ
1941年8月18日 - は、チュニジアの政治家。現在、同国首相。与党立憲民主連合(RCD)の一員。2011年1月14日、23年にも及ぶ独裁政権を築いてきた大統領ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリーが高まる国民の不満に抗しきれず国外脱出、首相であったガンヌーシが暫定大統領への就任を宣言した[1]が、翌1月15日には憲法評議会が憲法の規定に基づき、下院議長のフアド・メバザを暫定大統領に任命した。
■フェリッド・ブーゲディール
Ferid Boughedir、1944年 - はチュニジアの映画監督、脚本家。1983年に映画監督としてデビュー。カンヌ国際映画祭やベルリン国際映画祭の審査員も務めた。
■ウサマ・メルーリ
Oussama "Ous" Mellouli1984年2月16日 - はチュニジアの競泳選手。2007年の世界水泳選手権では400m自由形で銀メダル、800m自由形で金メダルを獲得するが、ドーピング検査でアンフェタミンに陽性反応を示しメダルを剥奪され1年半の出場停止処分となった。処分は違反時にさかのぼって適用されたため北京オリンピックへの出場は認められた。処分が明けて復帰した2008年の北京オリンピックでは、200m自由形で予選落ちに終わったものの、400m自由形で5位に入賞。1500m自由形では世界記録保持者で3連覇を狙った、オーストラリアのグラント・ハケットを破り金メダルを獲得した。
■ラディ・ジャイディ
(1975年8月30日 - )は、チュニジア出身で同国代表のサッカー選手。ポジションはDF。強いフィジカルと、長身を活かしたヘディングで攻守に活躍する。エスペランス・チュニスから2004年7月にイングランドのボルトン・ワンダラーズFCと契約、彼はプレミアリーグ初のチュニジア人選手となった。当時のサム・アラダイス監督の下で出場機会を掴み2シーズンで43試合8得点を記録した。
■アミン・シェルミティ
Amine Chermiti、1987年12月26日 - は、チュニジア出身のサッカー選手。ポジションはFW。17歳でU-21チュニジア代表入り。2007年5月にはフル代表に招集され、初出場で初ゴールを挙げた。アフリカネイションズカップ2008に選出された。2007年のCAFチャンピオンズリーグではエトワール・サヘルの攻撃を牽引。3連覇を狙うアル・アハリ(エジプト)との決勝戦2ndレグの後半ロスタイムに決勝ゴールを決めるなど、得点ランク2位タイの大会通算8ゴールを挙げた。
|