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タンザニア連合共和国
United Republic of Tanzania
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■地理
タンザニアの面積945,087km2は世界31位の広さでエジプトに続き、ナイジェリアとほぼ等しい。北東部にアフリカ最高峰のキリマンジャロ山(5,895m)があり、北部にアフリカ第一のビクトリア湖、西部にアフリカで最も深いタンガニーカ湖がある。この南のニアサ湖を含めアフリカ三大湖が存在する。
■インド洋
Indian Ocean、は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7340万平方km、沿海との合計面積は7410万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。北はインド、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマー、スリランカから、西はアラビア半島およびアフリカに接し、紅海とつながる。東はマレー半島、スマトラ島、ジャワ島の線、およびオーストラリア西岸および南岸、南は遠く南極海に囲まれた海洋である。
■キリマンジャロ
キリマンジャロ (スワヒリ語: Kilimanjaro) はタンザニア北東部にある山で、標高5,895m。アフリカ大陸の最高峰。山域がキリマンジャロ国立公園に指定されている。赤道付近にもかかわらず、キボ峰の頭頂部には、20世紀後期までレブマン氷河などの巨大な氷河が存在していた。近年は気候変動(降水量の減少など)にともなって規模が極端に縮小しているが、とはいえ、現在でも年間を通して氷雪を見ることができる。
■マラウイ湖
マラウイ湖 (Malawi)、タンザニアとモザンビークではニアサ湖 (Nyasa、Nyassa、Niassa) 、はアフリカ東南部にある湖で、アフリカ東部を縦断する大地溝帯(グレート・リフト・バレー)の南端部に位置する。面積はアフリカで3番目、世界で9番目の広さである。
■ヴィクトリア湖
Lake Victoriaは、ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれたアフリカ最大(68,800 km2)の湖である。ナイル川の主流の一つ、白ナイル川の源流となっている。世界第3位の湖水面積を誇り、湖の中にはウガンダ領のセセ諸島 (Ssese Islands) やタンザニアのウケレウェ島をはじめとする約3000の島々がある。
■大地溝帯
グレート・リフト・バレー、Great Rift Valley)は、主にアフリカ大陸を南北に縦断する巨大な谷で、プレート境界の一つである。大地溝帯の谷は、幅35 - 100 km、総延長は7,000 kmにのぼる。正断層で地面が割れ、落差100 mを超える急な崖が随所にある。狭義の大地溝帯は、エチオピアを南北に走る高原地帯から、ズワイ湖、シャーラ湖、チャモ湖、トゥルカナ湖から、タンザニアへと至る。これは東リフト・バレーとも、発見者の英人探検家ジョン・ウォルター・グレゴリーにちなんで、グレゴリー・リフト・バレーとも呼ばれる。
<世界遺産>
■ ンゴロンゴロ保全地域
タンザニアの北部にある自然保護地域。最も近い都市アルーシャから西へ180kmにあり、北西のセレンゲティ国立公園に隣接する。ンゴロンゴロクレーターは数百万年前に出来た火山のカルデラに広がる平野を指す。外輪は南北16km、東西19kmと世界有数のカルデラである。中央には湖が存在する。人類発祥の地と目されるオルドパイ渓谷がこのクレーターの西にある。
■ コンドアの岩絵遺跡群
タンザニアのドドマ州コンドア地区にある洞窟壁画群を中心とする遺跡である。審美的にも高く評価しうる岩絵群が数千年に渡り蓄積されてきたことや、洞窟が地元民の伝統文化と密接に結びついてきたことなどが評価され、ユネスコの世界遺産に登録されている。
■ キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡
キルワ・キシワニ島は東アフリカ(現タンザニア領内)沖に浮かぶ島で、イスラム教徒のコミュニティが今もある。特筆すべき廃墟は大モスク跡やムクティニ宮殿 (Mkutini Palace) 跡などである。
■ セレンゲティ国立公園
キリマンジャロの裾野に広がる大サバンナ地帯にある。広さは14,763km2。四国全体の面積よりも広く、また東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県を合わせた広さ(13,404km2)よりも大きい。さまざまな動物が、約300万頭生息していると推定されている。
■ セルース・ゲーム・リザーブ
大型哺乳類が万単位で生息し、動物保護区としては世界最大級の面積を誇る。その動物相の多彩さと規模、および人の手がほとんど入ってこなかった点が評価され、ユネスコの世界遺産にも登録されている。
■ キリマンジャロ国立公園
キリマンジャロは、標高5,895mでアフリカ最高峰。また南米のコトパクシ山に並ぶ標高を持つ世界最高峰級の火山でもある。
■ ザンジバル島のストーン・タウン
主島であるウングジャ島(ザンジバル島)には首都ザンジバルシティがあり、ストーン・タウンはその旧市街地である。支配層であるヨーロッパとアラブ双方から文化の影響を受け、3階建て以上の石造建築物が連なる街並みは、東アフリカ地域において特異な歴史的景観をなしている。
■スワヒリ語
スワヒリ語(Kiswahili)は、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語。ケニア、タンザニア、ウガンダでは公用語となっている。スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つである。 数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約35%はアラビア語に由来する。
■タンガニーカ湖
Lake Tanganyikaは、タンザニア西端にある淡水湖。タンザニア、ザンビア、コンゴ民主共和国、ブルンジに面する。海抜773mに位置し、東西40 - 50km、南北650kmに細長くのびる。面積は32,900km2で、アフリカで2位、世界で5位。深さは平均水深570m、最大水深1,471mでアフリカで1位、世界で2位。周囲は1,900km、貯水量約17800km3。バイカル湖に次ぐ世界で2番目に古い古代湖(推定2000万年)といわれる。
■ウングジャ島
ウングジャ島(スワヒリ語:Unguja)は、ザンジバル島として知られるアフリカ大陸東岸、インド洋上の島。ザンジバル諸島最大の島であり、タンザニア連合共和国に属する。ダルエスサラームの北75kmにあり、船で1時間半。南北60km、東西20km。
■ペンバ島
Pembaは、アフリカ大陸東岸、インド洋上に位置するザンジバル諸島の主要な島の一つ。タンザニア連合共和国に属する。古くからの住民はシラジと呼ばれる人々である(ウングジャ島も同様である)。シラジは、太古のペルシアのシーラーズに出自を持つ人々の血をひくとされている。
■ホモ・ハビリス
Homo habilisは、230万年前から140万年前まで存在していたヒト属の一種。 "handy man"(器用な人)の意。中国語では「能人」という。1964年、タンザニアのオルドヴァイでルイス・リーキーによって発見された。現在分かっている限り最も初期のヒト属である。容姿はヒト属の中では現生人類から最もかけ離れており、身長は130cmと低く、不釣合いに長い腕を持っていた。ヒト科のアウストラロピテクスから枝分かれしたと考えられている。
■オルドヴァイ
(Olduvai)は、タンザニア北部のンゴロンゴロ保護区にある谷幅数百メートル、全長40キロにも及ぶ巨大なオルドヴァイ渓谷で、切り立った百メートルの崖には、火山活動により黒・白・赤の地層が形成され、水平に延々と延びている。そこから多くの化石人骨や石器が見つかっている。
■スワヒリ文明
インド洋交易によって栄えた東アフリカの島嶼部の都市群を中心とした海洋文明のことである。イスラームを生活規範としながら、アラブ・ペルシア系の外来文化と土着のアフリカ農耕文化の融合によって作り上げられ、共通言語としてスワヒリ語が用いられた。
<歴史>
■250〜200万年前
ホモ・ハビリスが現在のタンザニアに相当する地域(北部のオルドヴァイ峡谷)に存在していたことが、ルイス・リーキー博士によって確認されている。
■1498年
ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓し、インド洋におけるポルトガルの覇権が始まった。ポルトガルは1505年にキルワ王国を滅ぼした後、東アフリカの各地を制圧したが、アラブ勢力の拡大に伴って、ポルトガル勢力は1698年にタンザニアから駆逐された。
■1861年
本国のオマーン・スルタン国と分離してザンジバル・スルタン国となり、引き続き香辛料の交易や奴隷貿易で栄えた。
■アフリカ分割
カール・ペータースの活動によって1885年に大陸部にドイツ東アフリカ会社の植民地が認可された(ドイツ領東アフリカ)。
■1914年
第一次世界大戦が勃発すると、東アフリカ戦線ではパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍率いる現地人兵士(アスカリ)を中心としたゲリラ部隊がイギリス軍などを相手に本国の降伏時まで交戦を行った。
■1939年
第二次世界大戦が勃発するとイギリス領だった東アフリカ地域からは28万人が動員され、タンガニーカからは87,000人が出征した。
■1961年12月9日
大陸側のタンガニーカがイギリスの合意のもと平和的に独立した。1963年にはザンジバル王国も主権を獲得して独立した。
■独立後
連合共和国の初代大統領となったジュリウス・ニエレレはスワヒリ語を公用語とし、内政面では1967年のアルーシャ宣言以降ウジャマー社会主義を採用して社会主義の建設を目指した。
■1978年
アミンがタンザニアに侵攻するとこれを撃退し、タンザニア軍はカンパラを攻略してアミン失脚の一因となった(タンザニア・ウガンダ戦争)。
■1995年
与党タンザニア革命党から就任したベンジャミン・ウィリアム・ムカパ大統領の時代には、1994年に民主化した南アフリカ共和国からの投資が盛んに行われ、経済は復興を遂げた。
■2005年
与党タンザニア革命党からジャカヤ・キクウェテが大統領に就任した。
■マジ・マジ反乱
1905年から1908年にかけてドイツ帝国植民地ドイツ領東アフリカにおいて発生した反乱。植民地政府が現地民に輸出用綿花栽培の強制労働を課したことが原因となり、現地民が蜂起した。「マジ」(maji)はスワヒリ語で「水」を意味し、反乱に参加した現地民の多くはドイツ軍の弾丸を液体に変えてしまうという魔法の水を与えられた(実際にその効力が現れることはなかった)。残党の掃討を含めればその鎮圧に約3年の時間を要し、犠牲者数は植民地政府側の数百人に対して現地民側は数十万人に上ったと推測されている。
■イギリス・ザンジバル戦争
1896年8月27日にイギリスとザンジバル・スルタン国間で起こった戦争の呼称である。戦争(自体)が僅か40分間しか継続しなかったため、歴史上一番短い戦争としてギネスに記録されている。
■ザンジバル王国
(Zanzibar)は、1963年から1964年までの間アフリカ大陸東海岸のザンジバルに存在した国家。1964年1月12日のザンジバル革命でスルターン及び政府閣僚が亡命、ザンジバル革命政府のもとで国名をザンジバル人民共和国と改めた。4月24日にはタンガニーカと合併し、タンガニーカ・ザンジバル連合共和国(同年、タンザニア連合共和国に改称)が成立。独立国家としてのザンジバルは消滅した。
■アブシリの反乱
1888年から1889年にかけてドイツ領東アフリカ沿岸部で発生した反乱。最終的にドイツ帝国とドイツに協力したイギリス帝国やイタリア王国などによる反乱地域の封鎖により鎮圧された。1888年8月にドイツ東アフリカ会社がパンガニに進出すると、アブシリは付近の住民を率いて武力による反抗を開始した。9月にはタンガ港を襲撃してこれを陥落し、南方のミキンダニ港を襲い、キルワでは2人のドイツ人を殺害した。反抗運動は沿岸部のバガモヨ、リンディ、キルワ、ミキンダニ、および内陸のウサンバ、ウサガラ地方へ広がり、ダルエスサラームとバガモヨは反抗軍に包囲され、いつ陥落するか分からない状態となった。
■民族
バントゥー系黒人が国民の95%を占め、タンガニーカでは99%がアフリカ系黒人であり、1%程のヨーロッパ系、アラブ系、インド系の市民が存在する。
■バントゥー系民族
(Bantu peoples)は、アフリカ言語の大カテゴリであるバントゥー語群に属する多様な言語を使用しつつ1つの大きな言語集団を成す多くの民族の総称である。この語は、現在のカメルーンから中央アフリカと東アフリカを横切り南アフリカまでのブラックアフリカに分布する、400以上の民族(140 - 600以上の言語)に対する一般的分類として用いられている。
■ンゴニ族
現在のタンザニア、マラウイ、モザンビーク、ザンビアに住むバントゥー系の部族。南アフリカのナタール州周辺に出自を持つ。ウシの1系統Nguni cattleの飼育を続けながら南下をしたングニ族と呼ばれる民族が、紀元前後に現在の南アフリカのナタール州からスワジランドの周辺に定住した。ングニ族はその後、ズールー族、コーサ族、スワジ族、ンデベレ族などに分かれた(これらは現在の南アフリカ南東地域の大半の人口を占める)。
■ニャムウェジ族
ニャムウェジ族あるいはニャムウェジ人(複数形Wanyamwezi、単数形Mnyamwezi)はタンザニアで二番目の人口をもつ民族のことである。タンザニア中西部のビクトリア湖とルクワ湖の間を伝統的な居住地としてもつ。民族名の由来は月mweziの民である。正確な統計ではないが、タボラ州やシニャンガ州に150万人ほどいるとされている。
■チャガ族
(chagga)はタンザニア北東部のキリマンジャロ山麓に居住するバントゥー系民族。トウモロコシやバナナを主食とし、キリマンジャロ山にてコーヒー栽培に従事している者をはじめ、農耕と牧畜を生活基盤としている。タンガ鉄道が開設されてからはモシに居住して商業に従事する者も増加している。
■トングェ族
、東部アフリカのタンザニア、タンガニーカ湖東南部に住む人々である。タンザニアのタンガニーカ湖東岸にあるキゴマの南部およそ20000km2にわたって住んでいる。あたりはアフリカでも珍しいほど人口密度の低いところで、10km2あたり7人ほどしか住んでいない。食物消費に関して、トングェ族は平均化する傾向がある。個々人の生産量に余裕がないにもかかわらず、全食物消費量の約40%が訪問者に提供されるというように、食物は常に各集落間を流動して平均化するということが指摘され、このことが貧弱な生産環境の中で低人口密度の社会を維持するための一つの適応様式であるとみなされている。
■イラク族
Iraqwは、タンザニアに住むナイロ・ハム系部族。タンザニアの森林に覆われた高地地方、ムブルとフィユメ両地方に住んでいる。イラク族の住む土地は、それぞれ世襲首長が支配するいくつかの小さな境域に分かれている。
■マコンデ族
マコンデ族は、タンザニア南部からモザンビーク北部に住む、バントゥー語族の部族。木彫りの伝統を持つことで有名。マコンデ語のほか両国の公用語のスワヒリ語もしくはポルトガル語を話す。過去から木彫りを部族の伝統としており、現在でも木彫り職人の多くがマコンデ族である。入れ墨は額と頬に波型のパターンを刺し、女性(集団により男性)は上唇に穴をあけて棒を通す習慣があった(現在は全く行われていない)。
■言語
スワヒリ語は国語の扱いを受けており、1967年のウジャマー社会主義政策の採用以来、スワヒリ語の近代言語化や教育による普及が進められた。タンザニア憲法はスワヒリ語で書かれており、大衆文化の中でもテレビやラジオ、ポピュラー音楽などで用いられ、タンザニアにおいてスワヒリ語は国民統合のための言語としての地位を与えられている。
■宗教
宗教は、タンガニーカではキリスト教が30%、イスラム教が35%、伝統的宗教が35%である。ザンジバルではほぼ100%がイスラム教である。
■キリスト教
hristianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントなど)は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。ける信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。
■イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。今日、ムスリムは世界のいたるところでみられる。異論はあるが、11億人の信徒があると推定されていて、キリスト教に次いで世界で2番目に多くの信者を持つ宗教である。
■食文化
ウガリと呼ばれるトウモロコシの粉を練ったもの、または米が主食で、これにトマトベースのスープなどのおかずをつけて食べるのが一般的である。プランテン・バナナやキャッサバ、チャパティなどを食べる地域もある。
■ウガリ
Ugali)は、穀物の粉を湯で練り上げたアフリカ伝統の食品である。ケニアなどアフリカ東部や南部で主食として広く食されている。ウガリは、コーンミールやキャッサバの粉を湯で練って作る。水分を含ませる度合いによって団子状から粥状のものまでさまざまなバリエーションがある。ザンビアではンシマ(nshima)、ウガンダではポショ(posho)など、地域によって硬さや弾力、名称が異なる。
■ソンゲア・ルワフ・ムバノ
(Songea Luwafu Mbano, 1836年頃 - 1906年) は、現在のタンザニア(当時のドイツ領東アフリカ)の南部の、ンゴニ族の軍事の権威であった人物。出自はンゴニ族ではなかったが戦士として活躍し、副族長となった。1905年に勃発した政府軍への反乱、マジ・マジ反乱の敗北に際し、投降の後に処刑された。ソンゲアの孫のデービッド・ムバノによれば、ソンゲアは族長ムプタ処刑の報を受けて出頭した際に、自らも刑死することを希望したが、ドイツ人は、ソンゲアが新たな族長になることを提案する。ソンゲアはそれを拒否して改めて絞首刑を希望した。処刑の際に2回首をつられるも2回とも綱が切れ、3回目に鉄の綱で首をつるのに成功したとされる。
■デイヴィッド・リヴィングストン
(David Livingstone、1813年3月19日 - 1873年5月1日)は、スコットランドの探検家、宣教師、医師。ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。リヴィングストンのアフリカ史、およびヨーロッパ列強のアフリカ観における影響は甚大である。第一に挙げられるのが、リヴィングストンの第一次アフリカ探検以前は、アフリカは「暗黒大陸」という名が示すとおり、一部を除きヨーロッパにはほとんど知られておらず、古代ローマ期にアレクサンドリアの地理学者プトレマイオスから得た知識からほとんど進展がなかった。
■ミゼンゴ・ピンダ
Mizengo Kayanza Peter Pinda, 1948年8月12日- )は、タンザニアの官僚、政治家、首相。タンザニア革命党(CCM)所属。ルクワ州ムパンダ地区の貧しい農家に生まれる。1974年にダルエスサラーム大学法学部を卒業後、官僚として司法府で務め、1982年から1992年の間はジュリウス・ニエレレ初代大統領の私設秘書、1996年から2000年の間はフレデリック・スマイエ首相のもとで内閣書記を務めた。
■ルイス・リーキー
(Louis Seymour Bazett Leakey、1903年8月7日 - 1972年11月1日)は、ケニヤの古人類学者。アフリカにおける人類の進化の解明に大きな貢献をした。またアフリカでの研究と自然保護のための組織の創設に中心的な役割を果たした。ルイスの両親ハリー・リーキーとメアリー・バゼットはイギリス出身で英領東アフリカ、現ケニヤの宣教師だった。拠点は小さな小屋とテントだけだった。必然的にリーキーはアフリカ人たちとともに遊び、狩りを学んだ。兄弟はみなキクユ族の独特の足どりで歩くことを学び、現地語を流暢に話せるようになった。
■アリ・ハッサン・ムウィニ
(Ali Hassan Mwinyi, 1925年5月8日- )は、タンザニアの政治家で第2代大統領。ザンジバル革命政府第3代大統領。ザンジバル出身。初代大統領のニエレレ政権下で内相や副大統領を務めた。また、1984年1月から1985年10月まではザンジバル大統領も兼任した。
■ベンジャミン・ウィリアム・ムカパ
(Benjamin William Mkapa, 1938年11月12日- )は、タンザニアの政治家で第3代大統領。タンザニア革命党の指導者。タンガニーカ南部のマサシ出身。第2代大統領のムウィニ政権下で外相や情報相などを務めた後、1995年10月29日の大統領選で当選。
■ジェーン・グドール
(Dame Jane Morris Goodall,DBE, 1934年4月3日 - )は、イギリスの動物行動学者、霊長類学者、人類学者、国連平和大使。ロンドン生まれ、ボーンマスで育つ。父はビジネスマン、母は小説家。幼い頃より動物が好きで、アフリカへ行くことを夢見る少女であった。リーキーの薦めでタンザニアのゴンベのジャングルでチンパンジーの研究を始める。 リーキーとグドールは世界で初めて、チンパンジーが草の茎を使いアリを捕る行動を報告し、人類固有とされてきた道具を使う能力がチンパンジーにも存在することを証明した。
■ハシーム・サビート
(Hashim Thabit Manka、1987年2月16日 - )は、タンザニアダルエスサラーム州ダルエスサラーム出身のプロバスケットボール選手。NBAのオクラホマシティ・サンダー所属。ポジションはセンター。221cm、121kg。15歳になるまでバスケットボールをしたことが無かった。近所でバスケットボールをしているのを見ていたところ、当時203cmと長身だった事から声をかけられてプレイしたのが、初めてのバスケットボール体験だった。
■フィルバート・バイ
(Filbert Bayi、1953年6月23日 - )は、タンザニアの元陸上競技選手。1500mの元世界記録保持者で、1980年モスクワオリンピック3000m障害の銀メダリストである。バイは、1953年にタンザニアのアルーシャ出身。1974年のニュージーランドのクライストチャーチで開催されたコモンウェルスゲームズの1500mでは、ニュージーランドのジョン・ウォーカーやケニアのベン・ジプチョといった強豪ランナーたちを相手に3分32秒2の世界新記録のタイムで優勝したレースは名勝負として有名である。
■ラシディ・カワワ
(Rashidi Kawawa、1926年5月27日 - 2009年12月31日)は、タンザニアのルヴマ州ナムトゥムボのマテプウェンデ村出身の政治家。1962年にタンガニーカの首相を務め、1972年から1977年までの間タンザニアの首相を務めた。 |
タンザニア Tanzania
中央アフリカ東部の共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。ケニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジ、ザンビア、マラウイ、モザンビークと国境を接し、タンガニーカ湖対岸にはコンゴ民主共和国があり、またインド洋に面する。1996年に立法府の議事堂が法律上の新首都ドドマに移転されたが、その他の政府官庁は旧首都ダルエスサラームにある。
250〜200万年前にホモ・ハビリスが現在のタンザニアに相当する地域(北部のオルドヴァイ峡谷)に存在していたことが、ルイス・リーキー博士によって確認されている。
■バガモヨ
バガモヨ(Bagamoyo)は、タンザニアの都市。人口30000人。タンガニーカ中央部海岸に位置し、プワニ州に属する。インド洋に面し、ザンジバルの向かいにあることから奴隷の輸出港として19世紀に発展を遂げ、ドイツ領東アフリカ成立時には首都となった。
■ダルエスサラーム
ar es Salaamは、タンザニア最大の都市で、以前の首都。ダルエスサラーム州の州都。インド洋に面した港町。通称ダール。現在の法律上の首都はドドマであるが、実質的な首都機能は、経済の中心地となっているダルエスサラームにある。2009年の人口は約320万人。
■アルーシャ
Arushaは、タンザニアの都市。タンザニア連合共和国を構成する地域の1つ、タンガニーカの北東部に位置し、グレートリフトバレー内の高原にある。アルーシャ州の州都。人口は約27万人(2002年)と推定されている。アルーシャ周辺にはセレンゲティ国立公園やオルドバイ峡谷、キリマンジャロ山、ンゴロンゴロ保全地域など、世界的に有名な観光スポットが数多く存在するため、それらへ向かう観光客の玄関口の役割も果たしている。
■タボラ
タボラは、タンザニアの都市。タンザニア中央部に位置し、タボーラ州の州都である。人口127880人(2002年)。1871年にはニャムウェジ人の王、ミランボによってタボラは征服され、以後タボラはニャムウェジ人勢力の中心都市となった。また、この地方の交易の中心だったタボラには19世紀後半になるとヨーロッパ人の探検家たちも訪れるようになり、リチャード・フランシス・バートン、ジョン・ハニング・スピーク、デイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーなどが探険の途中にタボラを訪れている。
■ダルエスサラーム大学
(University of Dar es Salaam)は、タンザニア・ダルエスサラームにある大学。1966年創立。創立時は東アフリカ大学であったが、1970年に同大学が三分割されたのにともない、ダルエスサラーム大学として再発足した。この際三分割された大学は他にナイロビ大学(ケニア)、マケレレ大学(ウガンダ)である。
外務省:タンザニア連合共和国
在タンザニア日本国大使館
■キリマンジャロ国際空港
Kilimanjaro International Airportは、タンザニア連合共和国、アルーシャ、キリマンジャロ付近にある国際空港。キリマンジャロ山やセレンゲティ国立公園周辺への観光客が多く利用する。
■タンザン鉄道
(TAZARA、タンザニア・ザンビア鉄道)は、タンザニアのダルエスサラームと、ザンビアのカピリムポシを結ぶ鉄道。ザンビアはカッパーベルトを擁する銅鉱石の産地で、銅鉱石は当時イギリス領だった南ローデシア(現在のジンバブエ)を経由して南アフリカから輸出されていた。しかし1965年に南ローデシアがイアン・スミス自治政府首相によって一方的に独立を宣言、アパルトヘイト政策を実行すると国際連合は経済封鎖を実行。
■タンガニーカ
(Tanganyika)は、アフリカ南東部、インド洋に面する地域名。現在はタンザニア連合共和国に属する。タンザニアはタンガニーカとザンジバルが合併し成立した連邦国家だが、タンガニーカはそのうちの大陸部を、ザンジバルは島嶼部を指す。タンガニーカにはタンガニーカ湖やビクトリア湖があり、海岸部は平野、内陸部は高原、北東部及び南西部は高山地帯となっており、北東部にはキリマンジャロ山がそびえる。タンガニーカ地域内最大の都市はダルエスサラーム。
■ザンジバルシティ
(Zanzibar City)は、タンザニアの都市。人口205,870人(2002年)。ザンジバル都市部・西部州に属し、タンザニアを構成する主体のひとつであるザンジバルの首都である。ウングジャ島西部海岸に位置する港町であり、古くからインド洋交易で栄えた。現在でも強力な自治権を持つザンジバル革命政府がここに首都を置いており、ザンジバルの中心都市であり続けている。
■ドドマ
(Dodoma) はタンザニアの法律上の首都。ドドマ州の州都。ダルエスサラームから西に486km、アルーシャから南に441kmの、同国中央部に位置する小都市で、タンザニア革命党 (CCM) の本部がある。
■イリンガ
イリンガ州の行政の中心として、手工業や食品加工を含む多くの産業が興された。なかでもアシで編まれた手製のバスケットは有名で、国内のみならず外国にも輸出されている。電力のほとんどは近くのムテラダムから供給されている。交通の要衝でもあり、ダルエスサラーム、ムベヤ、ソンゲア、ドドマにバス路線が通じている。トゥマイニ大学、イリンガ大学、ムクワワ教育大学、ルアハ大学など、高等教育機関も多い。
■モシ
(Moshi)は、タンザニアの都市。タンザニア北部に位置し、キリマンジャロ州の州都である。人口144739人(2002年)。モシの町はキリマンジャロ山の南麓の緩やかな丘陵部にある。モシはチャガ人とマサイ人が多く住む。モシは西のアルーシャと東のケニアのボイを結ぶ道路上に位置する。また、モシからは南のタンガやダルエスサラームへの道路も走っている。タンガやダルエスサラームへは鉄道も走っている。また、モシとアルーシャのほぼ中間点にはキリマンジャロ国際空港があり、国内各地のほかロンドンやアムステルダムなどへも直行便が就航している。
■リンディ
(Lindi)は、タンザニアの都市。人口41549人(2002年)。タンザニア南部海岸に位置し、リンディ州の州都である。リンディは古い交易都市であり、北のモガディシュからモンバサ、マリンディ、ザンジバル、キルワから南のソファラまで点々と連なるアラブ人の交易都市のひとつとして繁栄し、スワヒリ都市の一つとなっていた。
■ムトワラ
(Mtwara)は、タンザニア南部の都市。人口79463人(2010年)。ムトワラ州の州都である、ムトワラは1940年代に作られた新しい街であるが、現在タンザニア南部海岸で最も大きな街である。ムトワラの街は1940年代後半、英領タンガニーカ南部を広大な落花生栽培地帯として開発するタンガニーカ落花生計画の拠点として建設された。
■ソンゲア
(Songea)は、タンザニア南西部ルヴマ州の州都。ルヴマ州の行政と産業の中心で交通の要衝。人口約140,000人。住人はンゴニ族が主。町の名は、ドイツ領東アフリカの時代の、この地のンゴニ族の権威であったソンゲア・ルワフ・ムバノ(後のマジマジ反乱の際に処刑される)の名に由来する。コランダムや水晶などを産出する。空港、州立病院、競技場、博物館、石炭火力発電所、タバコ乾燥工場などがある。
■ブコバ
(Bukoba)は、タンザニアの都市。人口86022人(2010年)。タンザニア北西部に位置し、カゲラ州の州都である。ヴィクトリア湖の西岸に位置し、ムワンザとはフェリーの定期便が就航している。
■キゴマ
(Kigoma)はタンザニア、キゴマ州の州都。キゴーマとも表記される。タンザニーカ湖東岸に位置する。近隣の都市としては、約10キロ北のウジジが挙げられる。ブルンジ国境、タンザニーカ湖対岸のコンゴ民主共和国国境にも近い。インド洋沿岸のダルエスサラームからキゴマまで鉄道で結ばれている。
■ムソマ
(Musoma)は、タンザニアの都市。人口103,497人(2002年)。タンザニア北部に位置し、マラ州の州都である。ムソマはヴィクトリア湖の東岸に位置し、ウガンダの国境にほど近い町である。
■スンバワンガ
(Sumbawanga)は、タンザニアの都市。タンザニア西部に位置し、ルクワ州の州都である。人口96226人(2010年)。スンバワンガに住む人はフィパ人が多く、地元の言語を話す。スンバワンガには政府出資のルクワ総合病院と、カトリックスンバワンガ教区の管理するDr Atiman病院がある。
■シニャンガ
(Shinyanga)は、タンザニアの都市。タンザニア北部に位置し、シニャンガ州の州都である。州名は都市名からとられた。シニャンガは最も近い大都市であるムワンザから道路で南東に175kmの地点にある。
■タンガ
(Tanga)はタンザニアのインド洋に面する港湾都市、およびその回りの地域の名前である。2002年現在の人口は243,580人でタンザニアの都市としては人口の多い都市の一つである。第一次世界大戦では戦場となり、1914年11月に上陸したイギリス軍と戦い(タンガの戦い)、1916年の7月まで街は占領されることはなかった。戦後はイギリスの保護領となった。
■タンガの戦い
Battle of Tanga、時にハチの戦い(Battle of the Bees)とあだ名される)は、第一次世界大戦中の1914年11月3日から5日にかけてイギリス領インド軍がドイツ領東アフリカ(のちのタンザニア大陸部、ルワンダおよびブルンジ)の都市タンガに上陸しようとして失敗した戦い。また、大戦中アフリカにおいて初めて発生した本格的な戦闘でもあった。
■ムワンザ
(Mwanza)はタンザニアのヴィクトリア湖畔に位置する都市。ムワンザ州の州都でもあり、ダルエスサラームに次ぐ大都市。2002年の国勢調査によると、郊外を含む都市圏全体の人口は約48万人。ムワンザ産のナイルパーチは、現地にて切り身に加工された後、ムワンザ国際空港から欧州連合諸国や日本などへ輸出されている。
■ダーウィンの悪夢
(Darwin's Nightmare)は、2004年に公開されたドキュメンタリー映画。フーベルト・ザウパー監督。アメリカのインターナショナル・フィルム・サーキット配給。東アフリカビクトリア湖に繁殖した巨大魚ナイルパーチを通して、タンザニアからヨーロッパ・日本への加工品輸出を軸に、1日1ドル以下で生活する具体例を通して、「グローバル経済の引き起こす現実」を描きだしたドキュメンタリー映画。
■国名
正式名称は、スワヒリ語でJamhuri ya Muungano wa Tanzania(ジャムフリ・ヤ・ムーンガノ・ワ・タンザニア)。英語でUnited Republic of Tanzania(ユーナイテド・リパブリック・オヴ・タンザニーア)。通称、Tanzania。国名はタンザニアを構成するために連合したタンガニーカとザンジバルの名前に、かつてアフリカ南部で栄えたアザニア文化(英語版)の名前を複合して1964年に命名された。
1.面積:94.5万平方キロメートル(日本の約2.5倍)
2.人口:4,248万人(2008年:世銀)、人口増加率 2.9%(2009年:世銀)
3.首都:ドドマ(法律上の首都であり、国会議事堂が置かれている。人口約195万人)(2007年:タンザニア国家統計局)
(政府官庁が存在するなど、事実上の首都機能を有し、経済面でも中心となっているのはダルエスサラーム(人口約288万人))(2007年:タンザニア国家統計局)
4.民族:スクマ族、マコンデ族、チャガ族、ハヤ族等(約130)
5.言語:スワヒリ語(国語)、英語(公用語)
6.宗教:イスラム教(約40%)、キリスト教(約40%)、土着宗教(約20%)
1881年 ドイツ領となる。
1920年 英国委任統治領となる。
1961年 独立(ニエレレ首相)
1962年 共和制移行(ニエレレ大統領)
1964年 タンガニーカ・ザンジバル合邦、タンザニア連合共和国成立
1985年 ムウィニ大統領選出
1990年 ムウィニ大統領再選
1995年 ムカパ大統領選出
2000年 ムカパ大統領再選
2005年 キクウェテ大統領選出
2010年 キクウェテ大統領再選
■主要産業(2009年(推定)ただし、農業従事者の割合は2002年値):CIA)農業:GDPの約3割。農業従事者は労働人口の約8割(コーヒー、サイザル麻、茶、綿花、カシューナッツ、タバコ、グローブ、トウモロコシ、キャッサバ等)
鉱工業:GDPの約2割。(農産物加工業(砂糖、ビール等)、ダイヤモンド、金、セメント、石油精製、製靴、アパレル、木製品、肥料等)
サービス業:GDPの約5割。(観光業等)
■主要貿易品目(2008年:タンザニア中央銀行)(1)輸出 金、製造品、綿、タバコ、コーヒー等(2)輸入 原油、機械、産業資材等
■タンザニア・シリング
Tanzanian shilling)は、タンザニアの通貨単位。1タンザニア・シリング=0.072円(2009年8月現在)。それまで使われていた東アフリカ・シリングに代わって、1966年に導入された。補助単位としてセント(1タンザニア・シリング=100セント)があるが、実際には使われていない。
■農業
タンザニア経済は農業に立脚しており、GDPの半分以上、輸出の80%、雇用の85%は農業によってもたらされている。キリマンジャロコーヒーは上質のコーヒーとして世界中で愛好される主要輸出品である。ほかに茶が栽培される。ビクトリア湖周辺では、漁業と綿花栽培を中心とした農業が盛んに行われている。ビクトリア湖で捕獲されるナイルパーチ(スズキに食感が似た淡水魚)は加工され、世界各地に輸出されている。
■ナイルパーチ
Lates niloticus は、スズキ目アカメ科に属する魚類。アフリカ大陸熱帯域の川、塩湖、汽水域に分布し生息する。全長193cm、体重200kgの記録がある大型の淡水魚である。現地では商業上重要な食用魚で、多くがヨーロッパや日本に輸出される。また観賞魚としても人気が高い。最大で全長2 m、体重200 kg に達し、淡水魚としては大型の部類に入る。
■カシューナッツ
(学名: Anacardium occidentale、英名: Cashew、葡名: Caju、和名: カシューナットノキ、勾玉の木)は、中南米原産のウルシ科の常緑高木。その種子はカシューナッツと呼ばれ、食用とされる。世界では年間200万トン以上が生産され、2005年の生産量順では、ベトナム(83万トン)、インド(46万トン)、ブラジル(25万トン)、ナイジェリア(21万トン)となっている。中国では海南省が主産地となっている。
■鉱工業
鉱業では、宝石のタンザナイトを産出することで有名である。 金はアフリカでは南ア、ガーナに次ぐ産出がある。また、ブルンジと同様、超塩基性岩に伴うNi-PGE鉱床が存在し、ニッケル・コバルト・銅が採掘されている。近年、南部海域のガス田から天然ガスが生産されダルエスサラームと地方での発電に使われている。
■タンザナイト
タンザナイト (Tanzanite) は青〜青紫色を有する多色性の宝石で、灰簾石(黝簾石、zoisite、緑簾石グループ)の変種。12月の誕生石の一つ。1967年、東アフリカのタンザニアのアルーシャ地区メレラニ鉱山で、ルビーを探していたマニュエル・ト・スーザーにより、それまで採掘されていた不透明のピンク色や緑色とは全く別種の青色のゾイサイトが発見された。「タンザニアの石」を意味するタンザナイトは、その名が示すとおり、キリマンジャロの夕暮れ時の空を映し出したような美しい青紫色をしている。多色性という特徴を持っており、見る角度によって青色や紫色が強くなる宝石である。
■タンザニア革命党
Chama Cha Mapinduzi, CCM)は、タンザニアの政党の1つで現与党。党本部はドドマに置かれている。前身はタンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)で、1977年にザンジバルのアフロ・シラジ党(ASP)と合併しタンザニア革命党となった。
■市民統一戦線
タンザニアの政党である。自由主義を標榜し、自由主義インターナショナルに加盟している。現在の党議長はイブラヒム・リプンバ。
■民主進歩党
Party for Democracy and Progressは、タンザニアの保守政党。国際民主同盟に加盟。2000年タンザニア国民議会(269議席)総選挙では、4議席を獲得した。 2005年12月14日実施された総選挙 Tanzanian elections, 2005では、同党は5議席を獲得し、大統領選挙では、公認候補のフリーマン・ムボウエ Freeman Mboweが5.88パーセントを獲得し候補者10人中、3位につけた。
■音楽
ポピュラー音楽においては、1980年代からダルエスサラームで発達したレゲエやヒップ・ホップの影響を受けたボンゴフレーバー、ザンジバルで発達したタアラブ、モダン・タアラブなどが存在する。伝統音楽においては、親指ピアノ、ンゴマなどが存在する。
■ボンゴフレーバー
Bongo Flava, はタンザニアのポピュラー音楽のジャンルの一つで、東アフリカにおける共通語であるスワヒリ語で歌われていることが特徴である。ヒップホップに多大な影響を受けているが、スワヒリ文化における伝統歌謡のタアラブ(taraab)や、インドのポピュラー音楽Filmi、リンガラ音楽とも関係が深い。タンザニアン・ヒップホップと呼ばれることもある。
■カリンバ
カリンバ(KalimbaまたはCalimba)とは、親指ピアノ(thumb piano)の名前でも知られるアフリカの楽器の一つ。板や箱の上に並んだ鉄や竹の棒を親指の爪ではじいて演奏する。形状も作る人によって様々で、並んでいる棒の数すら決まっていない。棒の部分に金属片が付けられたり、箱にビンのふた等が付けられたりして、振るだけでも鳴る。
■美術
南部に居住するマコンデ人のシェタニ(精霊)をモチーフとした黒檀の彫刻はタンザニアの美術において特筆される。現代タンザニアを代表する画家ジョージ・リランガもシェタニをモチーフに絵画や彫刻を製作した。
■ジュリウス・ニエレレ
Julius Kambarage Nyerere, 1922年7月19日-1999年10月14日は、タンガニーカ及びタンザニアの政治家で初代大統領。タンガニーカの小部族、ザナキ族の部族長の家系に生まれる。現ウガンダのマケレレ大学卒業。大学卒業後は教師として勤め、1949年-1952年にイギリスのエジンバラ大学に留学し、歴史学と経済学を学ぶ。
■ティンガティンガ
Tingatingaは、1960年代にタンザニア・ダルエスサラームにおいて、エドワード・サイディ・ティンガティンガ (Edward Saidi Tingatinga、1932年 - 1972年) が生み出したポップアートの手法。主に動物や植物などの自然が描かれる。ティンガティンガ絵画ともいう。当初は、マゾニットと呼ばれる建築資材にエナメルペンキで描かれた、日常生活の傍らとしての芸術であったが、専門的な絵画教育を受けていない素朴な技法が評価された。創始者のエドワードが40歳のときに、警官に誤射され不慮の死を遂げた後も、同じ手法や画風を継ぐ弟子たちの画家によって描かれ、世界中に広まっている。
■クリストファー・イセグエ
Christopher Isegwe Njunguda、1976年2月22日 - はタンザニアの陸上競技選手。専門はマラソン、長距離走。世界陸上競技選手権ヘルシンキ大会男子マラソン優勝者。2005年世界陸上競技選手権ヘルシンキ大会男子マラソンでは37キロ地点で尾方剛を振り切り2時間10分21秒の自己新記録でゴール、連覇したジャウアド・ガリブに次ぐ2位入賞の成績を残した。
■ジュマ・イカンガー
Juma Ikangaa、1957年7月19日 - は、タンザニアのマラソン選手である。1980年代当時、日本男子マラソン陣にとってのライバルの一人であった。ベストタイムは2時間8分1秒(1989年ニューヨークシティマラソン)。1984年に東京国際マラソンで優勝、1986年には東京国際マラソン、福岡国際マラソンの両方を制するなど日本でも活躍し、「タンザニアの黒豹」と呼ばれた。人の後ろを走るスタイルを好まず、常に先頭で引っ張るレース展開が特徴であった。身長163cmと小柄ながらスピード感にあふれ、その爆発的なスピードは“タンザニア式ジェット走法”と評された。現在は指導者として若手の育成にあたっている。
■スレイマン・ニャンブイ
Suleiman Nyambui、1953年2月13日-は、タンザニアの元陸上競技選手である。1980年モスクワオリンピック男子5000 mの銀メダリストである[1]。また彼は1978年にアルジェリアのアルジェで開催された第3回アフリカ競技大会の5000mで銅メダルを獲得、1987年、1988年のベルリンマラソンの優勝者である。
■ジャカヤ・キクウェテ
(Jakaya Mrisho Kikwete、1950年10月7日 - )は、タンザニアの政治家。現在、同国大統領(第4代、2005年12月21日 -)。タンザニア革命党(CCM)。
■ミゼンゴ・ピンダ
(Mizengo Kayanza Peter Pinda, 1948年8月12日- )は、タンザニアの官僚、政治家、首相。タンザニア革命党(CCM)所属。ルクワ州ムパンダ地区の貧しい農家に生まれる。1974年にダルエスサラーム大学法学部を卒業後、官僚として司法府で務め、1982年から1992年の間はジュリウス・ニエレレ初代大統領の私設秘書、1996年から2000年の間はフレデリック・スマイエ首相のもとで内閣書記を務めた。
■ヘンリー・モートン・スタンリー
(Sir Henry Morton Stanley, GCB、 1841年1月28日 − 1904年5月10日)は、イギリス ウェールズのジャーナリスト、探検家。アフリカの探検および遭難したデイヴィッド・リヴィングストンを発見した人物として有名。父親が2歳の時に亡くなり、母親が彼の世話をしなかったために、5歳まで祖父の元で、15歳までセント・アサフ(英語版)の救貧院で育つ。10歳の頃に母と兄弟が救貧院を訪れたがジョンは誰か分からなかったという。
■イーダ・ヤングビスト
(Ida Ljungqvist、1981年9月27日 - )は、タンザニア出身のスウェーデン人モデル。ヤングビストはタンザニアで現地人の母とスウェーデン人の父の間に生まれた。ビバリーヒルズ・ロデオドライブのべべ・ストアーズで2007年のプレイメイト・オブ・ザ・イヤー、サラ・ジーン・アンダーウッドに見出された。
■ゼベダヨ・バヨ
(Zebedayo Bayo 1976年5月20日- )はタンザニアのアルーシャ出身の陸上競技選手。専門はマラソン。シドニーオリンピックのマラソンに出場したが2時間26分24秒で61位に終わった。2003年に行われた東京国際マラソンでは日本の油谷繁に競り勝ち優勝を果たした。
■ロジャース・ムタグワ
Rogers Mtagwa、男性 1979年3月22日- )は、タンザニアのプロボクサー。ドドマ出身。1999年2月プロデビュー。判定勝ちを収める。2000年4月まで母国で試合を行い、12戦で10勝2敗。2010年1月23日ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてWBAフェザー級王者ユリオルキス・ガンボアと対戦したが2回TKO負けでまたしても獲得失敗。
■レミー・オンガラ
(Remmy Ongala、1947年 - 2010年12月13日)は、タンザニアの歌手、ギタリスト。コンゴ民主共和国キンドゥ出身。父親も歌手であり、自身も16歳から歌手の道を進んだ。1978年よりタンザニアのダルエスサラームへと移り、オーケストラ・マカシー、オーケストレ・スーパー・マティミラなどのグループで活動した。
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