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スーダン共和国
Republic of Sudan
アフリカ

アフリカ

■地理
国土の大部分は広大な平原で、ほぼ中央をナイル川とその支流が縦貫する。北部はヌビア砂漠、中部はサヘル地帯、南部はサバンナと熱帯雨林が広がっており、南部中央部にはナイル川沿いにスッドと呼ばれる沼沢地帯が広がっている。北部は乾燥した砂漠気候であり年間降水量は100mm以下である。わずかにナイル川や紅海沿岸に少数の人々が住むに過ぎない。


■水系
水系は、ほぼすべてがナイル川へと流入する。中央を縦貫する白ナイル川を基軸としている。ナイル川の流量は南スーダン最北部のスッドにて激減しているが、これが増大するのは、青ナイル川を合わせる首都ハルツーム以北である。


紅海
アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。紅海の海水は決して赤くはない。紅海はギリシャ語のエリュトゥラー海の直訳で、赤いという謂れには諸説ある。一つに、昔方角を色分けして考えた(例えば北の黒海)ため、南を表す赤となった。ヘロドトスも赤い海と南の海を交互に使った。また、エジプトの砂漠を赤い大地と言ったことがあり、その大地の海という意味、などである。

ナイル川
he Nile、は、アフリカ大陸東北部を流れ地中海に注ぐ世界最長級の河川である。ハルツームで青ナイル川を、アトバラでアトバラ川と合流する。アトバラより下流では、砂漠気候の中を流れ、大規模な河川の合流は無い。乾燥地帯を流下するために蒸発散による影響を大きく受ける。

ヌビア
Nubia は、エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方。古代エジプト語のヌブ(金)から古代ギリシア・ローマ人がそう呼んだのが始まり。アラビア語ではヌーバ。ヌビア語はレプシウスにより「黒人との混血」、ライニシュにより「原ハム語」、ヴェステルマンにより「スーダン系」とされてきたが、グリーンバーグ以降ナイル・サハラ語族の東スーダン語派とされている。中世以降アラブ・イスラム帝国の隆盛により現代ヌビア人はかなりにおいて「アラブ系」に同化している。現在は北部の一部がエジプト領、残りはスーダン共和国領である。

ナイル・サハラ語族
ナイル・サハラ語族はアフリカのナイル川、シャリ川の上流の地域(ヌビアも含む)に分布する語族。話者は言語学者メリット・ルーレンの1987年の調査によると1100万人とされる。どの言語が語族に含まれるかについては異論があり、特にソンガイ語について意見が分かれている。

クシュ
現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明。最も早い時代にナイル川流域で発達した文明の一つである。クシュ人の国はエジプトの領域内への進入の時期の後で発展した。クシュの文化は、並存していた期間は短いが、エジプト新王国と相互に影響を与え合っていた。

メロエ
MedewiまたはBedewiは、紀元前6世紀から紀元後4世紀にかけてナイル川中流域、現在のスーダンの首都・ハルツームの北東に繁栄した黒人による文明、またはその中心となった都市。紀元前568年ごろにクシュ王国がメロエに遷都して以降を「メロエ王国」と呼ぶ。鉱物資源や農産物に恵まれ、アビシニア(エチオピア)からインド洋へ通じる交易路の結節点として栄えた。メロエには小型のピラミッドが数多く建造され、ヒエログリフをもとにしたとみられるメロエ文字が発明されるなど、クシュ王国同様エジプトの影響を色濃く受けていた。

メロエ文字
Meroitic scriptは、古代エジプトの神聖象形文字と民衆文字に起源を持つ音素文字である。メロエ文字は、メロエ王国において、少なくとも紀元前200年頃まで、メロエ語を書き記すのに使用されていた。またおそらく、後継者である諸ヌビア王国で古ヌビア語を記すのに使用された。


サハラ砂漠
アフリカ大陸北部にある世界最大の砂漠。東西5600km、南北1700kmで面積は約1000万km2であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占める。元来アラビア語で「砂漠」「荒野」を意味する一般名詞だが、とくに北アフリカなどでは日常的にサハラ砂漠を指すことから、そのまま固有名詞としてヨーロッパの言語に定着した。

アトバラ川
Atbaraは、エチオピア北西部からスーダンの東にかけて流れるナイル川支流の河川である。スーダン・アトバラでナイル川に合流する。全長約805km。6月から10月までの雨季以外はほとんど水は流れていない。エチオピアでは水源の近くではタカッゼ(Takazze)、エチオピア西部やスーダン東部ではセティット(Setit)と呼ばれている。ナイル川が地中海に流れ込む前に合流する最後の支流である。

青ナイル川
Blue Nile、エチオピアのタナ湖に源に発する川で、白ナイル川とともにナイル川の支川を形成している。青ナイルの800kmほどはエチオピア国内を流れる。青ナイル川は、タナ湖からエチオピア国内を最初は南へ、次に西へと流れ、そして南スーダンへと北西に向きを変えていく。

ナセル湖
ナセル湖とは、エジプト南部からスーダン北部にある、アスワン・ハイ・ダムによってつくられた人造湖。長さ550km、面積は5,250 km2。最大貯水量157km3。ヌビアおよび古代エジプトの考古学的に重要な場所は地区ごとに解体され、アブシンベルなどより標高の高い場所に移転した。河川港と鉄道ターミナルがあり、スーダンの主要都市となっているワジハルファは水没し、その側に新しく町が作られた。


ディンカ族
Dinkaは、南スーダンのナイル川流域に居住する民族。自らはジエン(複数形: Jieng, 単数形: Muonyjang)と称する。乾期には河川近郊にて放牧を行い、雨期にはサバンナにてキビやヒエなどを栽培する半農半牧生活を営む。言語的にはナイル・サハラ語族に属しているためヌエル族、ルオ族などのNilotic peoplesの諸語と近しい関係にある。政治的にはヌエル族と敵対関係にある。人口は約100万人。居住地域が広大な範囲にまたがるため方言格差が大きい。

ヌエル族
Nuerは、南スーダンのナイル川支流バハル・アルガザル川、およびソバト川近辺に居住する民族。自らについてはナース(Naath)と称する。西ナイル語族に属しており、東スーダン諸語のひとつヌエル語を解する。1960年代の調査では人口約30万であるが、この数値は言語的に近しいディンカ族の一部を含有している。ウシ、ヤギ、ヒツジなどの放牧や雑穀類の栽培による生活を営んでいる牧畜民で、雨期には土手などの高台に定着集落を形成する。

ザガワ族
Zaghawa)は、スーダンおよびチャドに住むスーダン人部族。チャドのイドリス・デビ大統領は、ザガワ人である。ナイル・サハラ語族の中央スーダン語派或は東スーダン語派に分類されるザガワ語を話す。自称はベリでありザガワはアラブ系からの他称である。


<世界遺産>

ゲベル・バルカルとナパタ地域遺跡群
ゲベル・バルカルは、スーダン北部にある高さ98mの小山。ハルツームの約400km北にあたり、ナイル川の屈曲部沿いにある。紀元前1450年前後に、エジプトのファラオ、トトメス3世がこの地方まで領土を拡げた時には、ゲベル・バルカルを南限とした。そこに彼は都市ナパタを建設したが、300年ほど後に、そこはクシュ王国の首都となった。


 

スーダン共和国大使館オフィシャルサイト
アッサラーム・アライクム (皆様、こんにちは)スーダンは複数政党による議会制民主主義と自由で開かれた経済を目指して、政治および経済の改革を実行してまいりました。ことに経済面におきましては10ヵ年戦略計画を採用し、経済を再生させました。過去10年間に遂行された自由な市場経済政策は、国内経済を成長の軌道に乗せることに成功しました。つまり、国内総生産は年平均最低6%の成長率を維持し、インフレと失業率は大幅に減少いたしました。特に石油の生産は経済基盤の構造的変化に対してよい影響をもたらしました。スーダン経済の回復は、国際通貨基金・世界銀行その他の国際金融機関との良好な関係が示すように、国際社会で正当に評価されています。


ロシナンテス
アフリカ・スーダン共和国において医療を中心に活動を行っている特定非営利活動法人(NPO)。理事長は川原尚行。福岡県立小倉高等学校と九州大学の仲間を中心に設立された。理事長である川原尚行医師は、スーダンにほぼ常駐し、医療・水・教育・母子保健・スポーツ・国際交流といった事業を展開している。川原は、外務省の医務官としてスーダンに勤務していた。そこでスーダン人の悲惨な現状をみて、医師として援助をしたいと考えた。しかし外務省医務官は外務省職員および在外日本人にしか医療を提供してはならないルールがあり、目の前の現状と自分の理想とのギャップにを前に煩悶した。熟慮のすえ「一人の医者として、自分にも何か出来ることがあるのではないか?」と考え、外務省を辞職し、帰国。北九州市で組織を結成した。名称はドン・キホーテにでてくる痩せ馬ロシナンテを複数形にしたもの。自分も仲間もみんな痩せ馬のロシナンテのようなものだが、そんな痩せ馬でもみんなで集まれば何かが出来る、という思いに由来している。


<歴史>
■ヌビア諸王国
かつてこのスーダンのナイル川流域北部はヌビアと呼ばれ、北に栄えた古代エジプトの影響を強く受けた地域である。紀元前900年ごろ、ナパタを都としてクシュは再興し、やがて衰退したエジプトに攻め入ってエジプト第25王朝を建国した。4世紀ごろ、メロエはエチオピア高原のアクスム王国によって滅ぼされ、その故地は北からノバティア、マクリア、アルワの三王国に分かれた。
■アングロ・エジプト・スーダン
1821年エジプトのムハンマド・アリー朝のイスマーイール・パシャにより後のスーダン北部が征服された。エジプトは次第に南部に支配を広げたがエジプトそのものがイギリスの保護下に置かれ、イギリスの力を借りて支配を広げていった。1899年から再びエジプトとイギリスの両国による共同統治下[3](Anglo-Egyptian Sudan)に置かれた。
■第一次内戦とイスラム化
独立運動の主体及び自治政府が北部のイスラム教徒中心だったため、1955年に南北内戦が勃発し北部の「アラブ系」イスラム教徒と南部の主に黒人の非アラブ系(主にアニミズム、一部キリスト教徒)が戦った。第一次内戦は1972年のアディスアベバ合意まで続いた。
■第二次内戦
第二次スーダン内戦は、1983年に勃発した。この年、非アラブ系黒人主体で「新スーダン」建設を掲げる反政府組織スーダン人民解放軍 (SPLA) が、ジョン・ガランの指導の元に組織された。1998年5月、政党結成の自由などを含む新憲法の可否を問う国民投票を実施し、96.7%が賛成により成立、1989年以来禁止されていた政党活動が解禁となった(政党登録開始は1999年1月)。2005年7月9日、バシールを大統領、SPLAのジョン・ガラン最高司令官を第一副大統領とする暫定政府が発足した。

7月30日、副大統領となったばかりのガランが、ウガンダ訪問からの帰途に事故死。ヘリコプターが悪天候のため墜落したとされる。これを聞いた南部住民数千人がアラブ系住民を襲撃するなどの事件が発生。2010年7月12日、国際刑事裁判所(ICC) は、バシール大統領にジェノサイド(大量殺害)犯罪容疑で2回目の逮捕状を発行した。

■南スーダンの独立
2011年1月9日、南部の自治政府による独立の是非を問う住民投票が行われ、南スーダン独立票が過半数に達した。この投票のために国連はスーダン派遣団をおくり、住民投票監視団には一員として元米大統領ジミー・カーター(Jimmy Carter)がスーダン入りしている。2011年7月9日に南スーダンは独立したが、南スーダンには石油など豊富な地下資源が眠っており、その境界の資源の帰属を巡って現スーダン政権との間に新たな混乱が生じる可能性もある。


ファショダ事件
1898年、アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。

オムダーマンの戦い
Battle of Omdurman) (1898年9月2日)は、ホレイショ・ハーバート・キッチナーが率いるイギリス・エジプト軍が、アブダッラーヒ・イブン=ムハンマドのマフディー軍を撃破した戦闘である。オムドゥルマンは現在のスーダンの首都ハルツームとナイル川を挟んで西側に位置する村で、1884年にマフディー運動の指導者だったムハマンド・アフマドが拠点を置き、その後マフディー国家の首都となっていた。

アクスム王国
一般に、アクスムは現在のイエメンに当たる南アラビアから紅海を越えてきたセム語系のサバ(シェバ)人が中心になって建国されたと考えられている。紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までに交易国になった。325年または328年にコプト派キリスト教が伝来した。7世紀に衰退し始め、内陸の高地へ追いやられてクシ系のアガウ(Agaw)族の女族長グディット(Gudit;ジュディット(Judith)、ヨディット(Yodit)とも)によって950年頃滅ぼされたとされる。


アビエイ
(Abyei) はアフリカ大陸北東部の内陸部、コルドファンに存在したディンカ族のンゴック氏族の9つの首長国の領域を境界とするアビエイ地域の地名である。スーダンから南スーダンが独立する以前は、スーダンの南コルドファン州(英語版)南部の地名であった。一方で、スーダンは、州の下位行政区画に「地区」を設け、南コルドファン州の下位にはアビエイ地区(英語版)と呼ばれる行政区画名を設けている。


■農業
東部に限れば、「アフリカのパン篭」とも言われる肥沃なナイル川周辺の農地を使っての小麦、トウモロコシの栽培が盛んである。とくに、ハルツームより南の白ナイル川と青ナイル川に挟まれた三角地帯では、1925年にイギリスの植民地政府によってゲジラ計画がおこなわれ、大規模灌漑によって小麦や綿花の大穀倉地帯となった。

■言語・民族
アラビア語と英語が公用語。ヌビア語など非アラブ民族語も広く話される。北部のヌビア人、中部のヌバ山地や南部のナイル系民族など非アラブ黒人が52%、北部を中心にアラブ化した黒人や黒人との混血を含む「アラブ系」が総人口の約39%、東部のクシ系のベジャが6%、外国人が2%、その他1%

■宗教
スンナ派を中心とするイスラム教が70%。南部非アラブ人を中心にアニミズムなどの伝統宗教 (18%) とキリスト教 (5%)。北部に20万人程コプト教徒がいる。


ジョン・ガラン
John Garang de Mabior, 1945年6月23日 - 2005年7月30日は、スーダンの軍人、政治家。スーダン副大統領、スーダン人民解放軍最高司令官を歴任した。1983年に反政府武装組織のスーダン人民解放軍を結成。死去まで議長と最高司令官を兼務した。2005年7月、乗っていたヘリコプターが墜落し死亡した。ガランは上ナイル地方のボルの近くのワングレイの村でディンカの貧しい家庭に生まれた。10歳までに孤児となり、親類の支援で学費を受けてワーウ、ルンベクの学校で学んだ。1962年第一次スーダン内戦に参加し、若かったために指導者から教育を勧められた。タンザニアで中等教育を受け、1969年アメリカアイオワ州のグリネル大学で経済学を修めた。

オマル・アル=バシール
Omar Hasan Ahmad al-Bashī湯、1944年1月1日 - は、スーダンの政治家。現在、同国大統領。1989年に軍事政権を成立させ、政権を掌握。エジプト陸軍士官学校卒。同国首相などを歴任。アル=バシールはアングロ=エジプト・スーダンの、後の北部州にある小さな村ホシュ・バンナガに生まれ、初等教育を受けた。母語はアラビア語であり、いわゆるアラブ系スーダン人である。家族とハルツームに移り、中等教育を終えるとスーダン軍に入隊した。

モハメド・アン=ヌメイリ
Gaafar Muhammad an-Numeiry、1930年1月1日 - 2009年5月30日はスーダンの軍人、政治家。同国の革命評議会議長、大統領(第3代)などを歴任した。スーダンの首都であるハルツーム近郊オムドゥルマンのワド・ヌバウィ出身。父は郵便職員で曾祖父はドンゴラのワド・ヌメイリーの族長である。1952年にスーダン軍事大学を卒業し、そこで同年にエジプトで権力を握るガマール・アブドゥン=ナーセルの自由将校団の影響を受けた。

イスマーイール・パシャ
(Isma'il Pasha, 1830年12月31日 - 1895年3月2日)は、ムハンマド・アリー朝エジプトのエジプト総督(ワーリー, 在位:1863年 - 1867年)であり、1879年にイギリスからの要請で退位するまで副王(ヘディーヴ、在位:1867年 - 1879年)であった。イブラーヒーム・パシャの次男で、ムハンマド・アリーの孫にあたる。

チャールズ・ゴードン
(Charles George Gordon、1833年1月28日 - 1885年1月26日)は、英国の軍人。太平天国の乱の時、民兵組織の常勝軍を率いて活躍、その後、スーダンのハルツームでの壮絶な戦死で人々の記憶に残ることになった。1876年にエジプトのスーダン・ハルツーム総督と争い、一旦辞職するが、イスマーイールの慰留を受け、スーダン全土の総督になる。アビシニアとの紛争や反乱をよく抑えていたが、1879年にアビシニアで捕虜となり、解放された後、スーダン総督を辞任しロンドンに戻った。

イドリス・デビ
(Idriss Déby, 1952年- )は、チャドの政治家。現在、同国大統領(国家元首としては7代目)。愛国救済運動党首。スーダンに亡命していた際、リビアなどの支援で反政府勢力「愛国救済運動」(MPS)を結成。1990年9月2日、首都のンジャメナを制圧し暫定大統領に就任(正式就任は12月4日)。1996年、2001年、2006年の大統領選で再選し現在3期目。

スーダン Sudan
北アフリカに位置する国家。首都はハルツームにある。エジプト、リビア、チャド、中央アフリカ、エチオピア、エリトリア、南スーダンと国境を接し、東は紅海に面している。アルジェリア・コンゴ民主共和国に次いでアフリカ大陸で3位の面積を擁する。2011年7月の南スーダン共和国の分離独立前は、面積2,505,810km2とアフリカ大陸最大の国土を有する国家であった。

ハルツーム
Khartoumはウガンダから流れる白ナイルとエチオピアから流れる青ナイルの合流地点の南岸にあるスーダンの首都。ナイル川はここからエジプトを通り地中海へ北に向かう。人口は約2,730,000人(2000年)。2010年の都市的地域の人口は518万人であり、世界第58位、アフリカでは第5位である。1820年にエジプトのムハンマド・アリー朝による支配の拠点として築かれた。ナイル航路の拠点となり奴隷貿易の中継地として栄えた。人口規模は疾うに100万を超えるが近隣の北ハルツームとオムドゥルマンとで都市圏を形成しておりあわせて400万以上の居住者がいる。


外務省:スーダン共和国
在スーダン日本国大使館


ハルツーム大学
University of Khartoum, U of Kは、スーダンのハルツームにある公立・共学の大学。1902年にゴードン記念カレッジ (Gordon Memorial College) が開かれ、1956年のスーダン独立とともに大学が設立された。 スーダン国内で最も歴史的に高名な大学である。イギリス植民地化後の1898年、イギリス軍人ホレイショ・キッチナーはスーダン遠征で戦死したチャールズ・ゴードンを記念して学校を作る事を申し入れる。ゴードン記念カレッジ は1902年、初等教育のみの学校として設立された。

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■交通
スーダンの鉄道は1890年代に建設が開始され、現在の総延長は5311kmにのぼる。すべてが狭軌で、うち1067mmが4595km、610mmが716kmある。首都ハルツームから北のワジハルファや北東のポートスーダンへ向かう線路と、南のセンナールを経由して西のダルフールの中心都市ニヤラや南部スーダン北部のワーウへと向かう線路があるが、ワーウへ向かう線路は現在運休しており、他の区間も老朽化が進んでいる。


ポートスーダン
Port Sudanは、スーダン紅海州の州都であり、人口459,101人(2005年1月)の都市である。紅海に面し、スーダンにとって重要な港湾都市となっている。また、1905年にイギリスが敷設した紅海とナイル川とを結ぶ鉄道の終点ともなっている。この鉄道は、ナイル川沿岸の豊かな農場から輸出市場へトウモロコシ、綿などを輸送するために使われた。市内には国際空港が存在する。

オムドゥルマン
Omdurman、は首都ハルツームのナイル川対岸に位置する。ハルツームの貧しい郊外としばしば間違われることがあるが、オムドゥルマンは2,970,099人(2006年)の人口を有し、スーダンで最大の都市で商業の中心地。ハルツームやアル・ハルツーム・バフリとともに、国家の文化や産業の心臓部を担う。

ダルフール
Darfur、フール人の国/故郷はスーダン西部の地域でチャド、中央アフリカ、リビアと接している。現在、アラブ系民兵ジャンジャウィードと非アラブ系アフリカ黒人反乱に関わるダルフール紛争が継続している。ダルフール紛争での近年の死者は約20万、難民は数百万に上る。ダルフールは総面積493,180 km2で人口は約600万人である。


ダルフール紛争
スーダン(Sudan)西部のダルフール(Darfur)地方で、2010年現在も進行中の紛争。特に近年のものはダルフール地方の反政府勢力の反乱を契機に、スーダン政府軍とスーダン政府に支援されたアラブ系の「ジャンジャウィード」(Janjaweed, Janjawid, Jingaweit)と呼ばれる民兵の反撃が、地域の非アラブ系住民の大規模な虐殺や村落の破壊に発展したものである。この紛争で2003年2月の衝突以降、正確な数字は不明であるがおよそ40万人程度が既に殺害され、現在進行中の民族浄化の事例として広く記述されている。


ニャラ
Nyalaは、スーダン西部、ダルフール地方の都市。人口565,734人(2007年)。ダルフール最大の都市であり、南ダルフール州の州都である。標高673m。首都ハルツームからの鉄道の終点であり、鉄道を利用してダルフール一帯の農産物・畜産物の集散地となっている。工業としては、食品加工や繊維、革製品などがある。

ドンゴラ
(Dongola)は、スーダンの都市。人口13473人(2010年)。スーダン北部、ナイル川の河畔に位置し、北部州 (スーダン)の州都である。80km上流には、かつてマクリア王国の首都であったオールド・ドンゴラがある。ドンゴラは小さな街であるが多文化が混ざり合う町であり、アメリカのドンゴラ市をはじめとするいくつかの町の名の由来となっている。街にはドンゴラ空港や、公立大学であるドンゴラ大学がある。

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エル・ファシール
Al-Fashir,は、スーダン共和国北ダルフール州の州都。スーダン北西部に位置するダルフール地方の大都市で、ニャラの北東195kmに位置する。人口は264,734人(2006年)で、ダルフール紛争以前の178,500人(2001年推計)から増加している。

カッサラ
Kassalaは、スーダンの都市。スーダン東部に位置し、エリトリアとの国境に近い。カッサラ州の州都である。標高529m、人口234,622人(1993年)。以前は鉄道の運行の中心だったが、2006年から鉄道は運休している。西400kmのところにある首都ハルツームと北のポートスーダンとを結ぶ高速道路上に位置する交通の要衝である。

センナール
Sennarは、スーダンの都市。スーダン東部、青ナイル川に面しており、センナール州の州都である。 人口143,059人。センナールは古くから交易地として栄えており、1504年から1821年まではフンジ人のセンナール王国の首都となった。センナールからは北の首都ハルツームや南のダマジン、西のエルオベイドやニャラへの鉄道が延びており、鉄道の要衝となっている。

オベイド
(Al-Ubayyid、エル・オベイド・アル・オベイドとも)は、スーダンの都市。スーダン中央部に位置し、北コルドファン州の州都である。人口229,425人(1993年)ハルツームから南西に350km離れている。標高568m。古くから全コルドファン地方の中心都市であった。


スーダン人民解放軍
Sudan People's Liberation Army・Sudan People's Liberation Movementは、1983年にジョン・ガラン、サルバ・キール・マヤルディ、ウィリアム・ニュオン・バニ、ケルビノ・クアニン・ボルら南スーダンの「非アラブ系」の世俗主義者が中心となり結成された旧反政府武装組織・政党。

民族イスラーム戦線
National Islamic Front, NIF, はハッサン・アル=トゥラビにより設立されたスーダンの政治組織。1979年頃から政権に影響を与え始め、1989年にはバシル准将のクーデタにより少数与党となった。NIFは第二次スーダン内戦やダルフール紛争に関して政治手法や暴力の行使を非難されることが多く、例えば神の抵抗軍や西ナイル岸戦線、ウガンダ国民救済戦線をウガンダと南部スーダンにおける代理部隊として用いた責任を帰される場合もある。


マフディー戦争
Mahdist Warは、19世紀末に行われた植民地戦争である。スーダンのマフディー教徒とエジプト、後に英国軍が戦った。これはマフディーの反乱とも呼ばれ、英国では自国が戦った局面を指してスーダン戦役とも呼ばれる。・・・反乱の拡大を憂慮したエジプトのスーダン行政府は、ユセフ・パシャの指揮下に4000人の兵士を集めた。エジプト軍はマフディー軍の集結地に向かった。マフディー軍はみすぼらしい服装で、半ば飢え、棒と石しか持っていなかった。しかし、自信過剰になったエジプト軍はマフディー軍の前で歩哨も立てずに夜営する愚行を犯してしまう。1882年6月7日、マフディー軍は攻撃をかけ、エジプト軍を殲滅した。反乱軍は大量の武器と弾薬、軍服その他の補給品を鹵獲した 。


■国名
公式の英語表記は、Republic of Sudan。通称、Sudan。「スーダーン」はアラビア語で「黒い人」を意味する言葉を原義とし、元来は北アフリカのアラブ人たちからみて南に住む黒人の居住地域、すなわち西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域を指す地域名称で、国名としてのスーダンと区別するために歴史的スーダンともいう。


歴史的スーダン
西アフリカから東アフリカに至るまでのサハラ砂漠以南の広い地域で、かつイスラム教の影響下にある地域を漠然と指す地域名称である。歴史的スーダンの東部・東スーダンと呼ばれた地域にできた現在の国家名のスーダンと区別するために「歴史的スーダン」という。

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1.面積:186万平方キロメートル(日本の約5倍)
2.人口:3,089万人(2008年)(第5回人口調査)
3.首都:ハルツーム
4.人種・民族:主としてアラブ人、ヌビア人、ヌバ人、フール人、ベジャ人等。
5.言語:アラビア語(公用語)、英語(公用語)
6.宗教:イスラム教、キリスト教、土着宗教

1956年1月 スーダン共和国独立
1958年11月 アブード軍事政権成立(1964年10月崩壊)
1965年4月 ウンマ党・国民統一党連立内閣成立
1969年5月 ニメイリ軍事政権成立、スーダン民主共和国に改称
1972年3月 アディスアベバ合意署名。第一次内戦(1955年開始)終結
1983年5月 ジョン・ギャラン率いるSPLAがスーダン国軍を攻撃。第二次内戦勃発
1985年4月 ダハブ軍事政権成立
1985年12月 スーダン共和国に改称
1986年4月 総選挙
1986年5月 民政移管によりマハディ政権発足
1989年6月 軍事クーデタによりバシール軍事政権成立
1996年3月 総選挙実施、バシール大統領当選
2000年12月 総選挙実施、バシール大統領再選
2004年7月 アフリカ連合(AU)は停戦監視等のための部隊(AMIS)派遣決定
2005年1月 南北包括和平合意(CPA)署名
2005年4月 国連安保理が国連スーダン・ミッション(UNMIS)を設立する決議1590号を採択
2005年7月 南北両勢力による国民統一政府成立
2006年5月 ダルフール和平合意(DPA)署名
2006年8月 国連安保理でダルフールへの国連PKO(UNMIS)の展開拡大を規定する決議1706を採択するもスーダン政府は決議を拒否
2006年10月 東部スーダン和平合意(ESPA)署名
2007年7月 国連安保理で「ダルフールAU・国連合同ミッション(UNAMID)」展開を規定する決議1769採択
2008年1月 UNAMIDがAMISより指揮権を引継ぎ、展開開始
2009年2月 スーダン政府がドーハ(カタール)においてダルフール反政府勢力「正義と平等運動(JEM)」との間で「ダルフール問題解決に向けた善意及び信頼醸成に関する合意」に署名
2010年2月 スーダン政府がドーハ(カタール)においてJEMとの間で即時停戦を含む「ダルフール問題解決のための枠組み合意」に署名
2010年4月 総選挙実施、バシール大統領再選、サルヴァ・キール南部政府大統領当選
2011年1月 南部スーダン住民投票実施。南部スーダンの独立が決定。
2011年7月 国連安保理でアビエ暫定治安部隊(UNISFA)を設立する決議第1990号、及び国連南スーダンミッション(UNMISS)を設立する決議第1996号採択。
南スーダン共和国が分離独立。

■主要産業:原油、農業、林業、畜産業、漁業

■貿易品目(スーダン中央銀行)(1)輸出 原油・石油製品、家畜・肉、胡麻、金、綿花(2009年)(2)輸入 機械・設備、工業製品、輸送機材、小麦・小麦粉、化学製品(2009年)


スーダン・ポンド
スーダン共和国の通貨。発行は、スーダン銀行(Bank of Sudan)。2007年にそれまで使用されていた、スーダン・ディナールに代わり登場した。 2010年9月24日、国民生活センターより日本国内においてイラク・ディナールと同様に詐欺事件が発生していると発表があった。

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国民会議
National Congress)は、スーダンの政党の一つ。バシール大統領の与党。イスラム主義を標榜する組織民族イスラム戦線 (NIF) に対する国際的な非難と、バシルとトゥラビの権力闘争から、軍政から民政へ移管するという体裁を整えるために1998年に政党に衣替えしたもの。

ウンマ党
Hizb al-Umma)はスーダンの世俗主義イスラム中道派政党。1945年に結成され、スーダン独立運動を主導した。20世紀後半の主要な指導者はサディク・アル=マフディである。ウンマとは国のことである。


■経済
1990年代までは、長引く内戦や経済制裁などで、経済は完全に破綻状態であり、2009年現在スーダンは平和基金会が発表している「世界失敗国家ランキング」3位の国である。1990年代後半から中国政府のバックアップを受けた中国系企業が多数進出した。現在、数万人規模の中国人労働者がスーダンに派遣され、石油プラント、石油パイプライン(Greater Nile Oil Pipeline, PetroDar Pipeline)が建設された。同様にレアメタルの埋蔵量も注目を集めている。そのほか、メロウェダムに象徴される大規模な水力発電所及びダム、鉄道(老朽化したポートスーダンからハルツーム間)の建設も中国系企業が受注するなど、極めて濃厚な協力の下、徐々に経済が立ち直る兆しが見られる。


国際刑事裁判所
The International Criminal Court、仏: La Cour penale internationale)は、個人の国際犯罪を裁く常設の国際司法機関である。正式な略称はICC-CPI、通称ICCとそれぞれ表記される。フランス語での略称は、CPI。その管轄は当初、個人の刑事責任に限られて「集団殺害犯罪」、「人道に対する犯罪」、「戦争犯罪」、そして、「侵略犯罪」(いずれも国際刑事裁判所ローマ規程固有の名称)など、国際人道法に対する重大な違反のみを対象としていた。侵略犯罪についてはその定義が明確に定められていなかったが、2010年の再検討会議 (Review Conference) にて協議が行われ、その定義とICCによる管轄権の行使を認める改正条項が採択された。

第二次スーダン内戦
1983年、当時のヌメイリ政権が国政にイスラム法を導入したことに、南部の非アラブ系住民(大半がアニミズム、一部キリスト教徒)が反発し勃発したスーダンの内戦。ほぼ1955年から1972年の第一次スーダン内戦(英語版)の続きである。約190万人が死亡し、400万人以上が家を逐われた。第二次世界大戦以降で最も死者の多い戦争の一つである。

2011年南部スーダン独立住民投票
2011年1月9日から15日に実施された、南スーダンの分離独立を求める住民投票。同年2月7日に最終結果が公表され、独立を求める票が圧倒的多数を占めた。これをうけて7月9日には、南スーダンがアフリカでは54番目の独立国家として誕生した。


南スーダン・スーダン国境紛争
2012年に発生したスーダンと南スーダンの国境紛争。同国境界部の油田地帯を中心とした争い。スーダンとスーダン人民解放軍(南スーダン政府の実質的な前身)は、油田のあるアビエイ地区の帰属を巡り対立を続けていたが、2008年にアビエイ地域以外のアビエイ地区の帰属がスーダン側にあるとして南北が合意に至った。しかし詳細な詰めは行われずに南スーダンは独立。2012年3月、南スーダン政府軍は、一部油田の権益は南スーダン側にあるとしてスーダン側の領域にあったヘグリグ油田に地上部隊を送り込み武力侵攻を行った。


国際連合スーダン派遣団
United Nations Mission in Sudan:UNMIS)は、北部スーダンに展開していた国際連合平和維持活動(PKO)のひとつ。2011年7月に南スーダン共和国が成立したことに伴い、同年9月をもって解消された。


マヌート・ボル
Manute Bol, 1962年10月16日 - 2010年6月19日は南スーダン出身の元プロバスケットボール選手及び活動家。現在はアメリカ合衆国のカンザス州に住む。身長231cm、体重100kgのボルはゲオルゲ・ムレシャンのデビュー前まではNBA史上最高身長記録の保持者だった。スーダン南部のディンカ族の酋長の息子で、名前の「マヌート」とは「恵み」の意味を持つ。ディンカ族は世界一の長身民族である。父親は203cm、母親は208cmあり、曾爺さんは240cmあったらしい。

ホレイショ・キッチナー
(The Right Honourable Horatio Herbert Kitchener, 1st Earl Kitchener, 1850年6月24日 - 1916年6月5日)はイギリス陸軍軍人。ホレイショは父から受け継いだ名前だが,ネルソン提督にあやかったものだった.1886年から1899年にかけて行われた二度目のスーダン遠征により彼は国民的名声を得た。戦功によりヴィクトリア女王の副官に任命され、バス勲章を授与された。大英帝国の駐エジプト軍の司令官(サーダー)となった彼は1898年9月2日オムダーマンの戦いでマフディー軍を破り、その数ヶ月後ファショダ事件が発生するとフランス軍部隊に対し断固とした態度をとりイギリスのスーダン支配を決定づけた。

ムハンマド・アリー
1769年? - 1849年8月2日は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の創始者である。エジプト・シリア戦役においてオスマン帝国がエジプトへ派遣した300人の部隊の副隊長から頭角を現し、熾烈な権力闘争を制してエジプト総督に就任。国内の支配基盤を固めつつ、近代性と強権性を併せもった富国強兵策を推し進め、アラビア半島やスーダンに勢力を伸ばし、遂にはオスマン帝国からシリアを奪うに至った。

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