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南アフリカ共和国
Republic of South Africa
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■地理
アフリカ大陸の最南端に位置し、ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、モザンビーク、スワジランドと国境を接し、レソトを囲んでいる。南西部は南大西洋に面し、南部から東部にかけてはインド洋に面するため2,500kmという長い海岸線を有する。海岸平野は狭く、国土の全体が高地になる。内陸はカルーと呼ばれる広大な平坦地で、人口は少ない。北西部はナミブ砂漠の延長部である。
■アフリカ
Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。 赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある。面積は3,020万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが[4]、人口は約10億人で、世界人口比では14.72%を占めるに過ぎない。
■インド洋
Indian Ocean、は、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7340万平方km、沿海との合計面積は7410万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。インド洋は中東、アフリカ、東アジアとヨーロッパ、アメリカを結ぶ主要な海上交通路となっている。特にペルシャ湾とインドネシアからの石油および石油製品の主要な運送路となっている。
■大西洋
Atlantic Ocean)とは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。 なお、大西洋は、南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。
■ナミブ砂漠
(Namib Desert)とはナミビアの大西洋側にある砂漠である。面積はおよそ50,000km2。約8000万年前に生まれた世界で最も古い砂漠と考えられている。大西洋を北上する冷たいベンゲラ海流の影響で生じた典型的な西岸砂漠である。中央部にはクイセブ川が流れ、この川を境に北部に岩石砂漠、南部に砂砂漠が広がっている。
■ドラケンスバーグ山脈
Drakensbergは、南アフリカ共和国東部にあり、レソトを抜け南北に連なる最も高い山脈で、最高峰はレソトのタバナ・ヌトレニャナ(標高3482m)である。「ドラケンスバーグ」はアフリカーンス語で「竜の山々」を意味する「ドラケンスベルヘ」の英語読みで、ズールー語ではウクハランバ(「槍の障壁」)と呼ばれる。
■オレンジ川
Orange River)は、アフリカ南部を流れ大西洋に注ぐ河川である。南アフリカとレソトの国境付近のドラケンスバーグ山脈に源を発し西に向かい、カラハリ砂漠の南の乾燥地帯を流れ大西洋に注ぐ。
■カレドン川
Caledon River)、ソト語ではモホカレは、南部アフリカの河川。オレンジ川の支流で、かつてのクワクワ・ホームランドのドラケンスバーグ山脈を源流とし、レソトと南アフリカの国境をなしながら南西に流れ、レソトの首都マセルの西を流れ、オレンジ自由州の南部にあBethulie付近でオレンジ川に合流する。
■バール川
Vaal River)は、南アフリカ共和国を流れる川で、南部アフリカを流れるオレンジ川の最大の支流である。「バール」という名前は、オランダ語の「薄い色(Tky-Gariep)」に由来する。洪水期に多量の沈泥が運ばれてくることにより、バール川の水が灰色に染まることからである。
■テーブルマウンテン
テーブルマウンテンは地盤のやわらかい部分が風雨で削り取られ、固い地盤だけが台形状に残った山。陸に浮かぶ船や陸の孤島に形容される。南アフリカ共和国西ケープ州にある頂上が平らな山。ケープタウンを見下ろす位置にある。標高 1,086m (3,566 feet) 、幅はおよそ3km。ケープタウンの中心はケープ半島の北の端に位置し、テーブル湾に面した地区である。この地区は北をテーブル湾、西をシグナル・ヒルとライオンズ・ヘッド、南をテーブル・マウンテン、東をデビルスピークといった山々に囲まれほぼ円形をしており、その形からシティ・ボウルと呼ばれている。
■喜望峰
Cape of Good Hope、は、南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウンにある岬。1488年 - ポルトガル人バルトロメウ・ディアスが到達したものの、周辺があまりにも荒れる海域であったため、Cabo Tormentoso(「嵐の岬」)と命名。しかし、この航路の発見は香辛料貿易のルート短縮につながったため、後にポルトガル王ジョアン2世が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と改めさせている。
■モザンビーク海流
Mozambique Current)とは南赤道海流の一部がアフリカ東岸で南に向きを変え、マダガスカル島とアフリカとの間にあるモザンビーク海峡を南下する強い海流。この海流の南部は特に強く、アガラス海流の別名がある。インド洋の海流は一般に季節変化が著しいが、この海流は年間を通じて優勢である。
■カルー
Karoo) は、南アフリカ共和国の南部からナミビアに広がる半砂漠気候の土地。カルー盆地とも言う。内陸部はナマ・カルー (Nama) 、西側の海岸部はサックレント・カルーと呼ばれ、ナマ・カルーは北側の大カルーと南部の小カルーに分けられる。
■動植物
南アフリカには特色ある生物種からなる生態系が形成されている。植物は多様な環境に適応したベンケイソウ科やトウダイグサ科、ハマミズナ科の多肉植物やトランスヴァール地方に花畑を形成するガーベラやユリオプスデージーなどキク科の植物、あるいはエリカやクンシランなどは珍奇な姿や美しい花から園芸植物として世界中で栽培されている。南アフリカの国土は、全世界のわずか2%ほどにすぎないが、世界の植物の10%近く、約24000種類の原産国となっている。
■ハゴロモヅル
(Grus paradisea)は、動物界脊索動物門鳥綱ツル目ツル科ツル属に分類される鳥類。スワジランド、ナミビアの一部、南アフリカ共和国全長100センチメートル。頭部や頸部が羽毛で覆われ、皮膚が裸出しない。前頸から胸部にかけての羽毛は伸長する。高原にある水場周辺の乾燥した草原に生息する。夜間は水場で休む。
■スプリングボック
(Antidorcas marsupialis)は、動物界脊索動物門哺乳綱ウシ目(偶蹄目)ウシ科スプリングボック属に分類される偶蹄類。本種のみでスプリングボック属を構成する。体長120-148cm。尾長19-28センチメートル。肩高73-87センチメートル。体重20-45キログラム。背から腰にかけて襞状の皮膚がある。頭部の毛衣は白い。
■南アフリカ共和国の歴史
この地にはじめて人類が出現したのは300万年前であり、スタークフォンテン、スワートクランズ、クロムドライ及び周辺地域の人類化石遺跡群においてアウストラロピテクスの化石が発見されている。この地域に始めてヨーロッパ人が到達するのは1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達したときである。やがてヴァスコ・ダ・ガマがダーバン沖に来航し、到達した日付にちなんでこの地をナタール(オランダ語でクリスマス)と名づけた。
<歴史>
■紀元前数千年頃
狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と、同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が居住するようになった。
■1488年
ポルトガル人のバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰に到達した。
■1652年
オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがこの地に到来し、喜望峰を中継基地とした。
■18世紀末
金やダイヤモンドの鉱脈を狙ってイギリス人が到来した。ボーア人とイギリス人は対立し、フランス革命戦争中の1795年にイギリスのウィリアム・ベレスフォード将軍がケープタウンを占領した。
■19世紀初頭
ケープ植民地はオランダからイギリスへ正式に譲渡され、イギリス人が多数移住した。
■1879年
ズールー戦争のように抵抗した民族は全て敗れ、南アフリカはほぼ完全にイギリスに支配された。
■1910年5月31日
4州(ケープ、ナタール、トランスヴァール、オレンジ)からなる南アフリカ連邦として統合され、大英帝国内のドミニオン(自治領)としてアフリカーナーの自治を確立する。翌1911年には、鉱山における白人・黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で統一することを目的とした、白人労働者保護のための最初の人種主義法である「鉱山・労働法」が制定された。それからも人種差別法の制定は続いた。
■1931年
ウェストミンスター憲章が採択され、南アフリカ連邦は外交権をはじめイギリスと同格の主権を獲得。1934年にはイギリス国会で南アフリカ連邦地位法が可決され、正式に主権国家として規定された。
■1948年
アフリカーナーの農民や都市の貧しい白人を基盤とする国民党が政権を握ると、国民党はアパルトヘイト政策(人種隔離政策)を本格的に推進していった。
■1961年
イギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、英連邦から脱退し、立憲君主制に代えて共和制を採用して新たに国名を南アフリカ共和国と定めた。
■1960年代から1980年代
強固なアパルトヘイト政策を敷いたが、国内では人種平等を求める黒人系のアフリカ民族会議 (ANC) によるゲリラ戦が続き、占領していたナミビアでも独立を目指すSWAPOによる独立闘争が始まった(ナミビア独立戦争)。
■1980年代
反体制運動が激しくなり、さらにそれまでの反共的姿勢から南アフリカを優遇していた西側諸国からも国際的に経済制裁を受け、南アフリカ内外で反アパルトヘイト運動が高まった。
■デ・クラーク大統領
冷戦の終結した1990年代に入ると、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定するとの英断を下した。
■1994年4月
全人種参加の総選挙が実施されアフリカ民族会議 (ANC) が勝利。ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任した。
■大航海時代
15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた、ヨーロッパ人によるインド・アジア大陸・アメリカ大陸などへの植民地主義的な海外進出をいう。主に西南ヨーロッパ人によって開始された。
■ケープ植民地
Cape Colony、は、かつてオランダ東インド会社が設立した、南アフリカにあった植民地。ケープタウンを中心に発展し、1795年にイギリス領植民地となった。南アフリカにおいて、オランダが最初のヨーロッパ人植民者になろうと計画していた。なお、彼らの行動の結末は、その他の後世のヨーロッパの侵入をアフリカの土地へ広範にもたらすことになった。
■ボーア戦争
Anglo Boer War)は、イギリスと、オランダ系ボーア人(アフリカーナー)が南アフリカの植民地化を争った二次にわたる戦争。南アフリカ戦争、ブール戦争ともいう。第一次ボーア戦争(First Boer War)とは、トランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとした戦争(1880年12月16日 - 1881年3月23日)のこと。そのためトランスヴァール戦争(Transvaal War)とも呼ばれる。
■ズールー戦争
Anglo-Zulu War)は1879年に大英帝国と南アフリカのズールー王国との間で戦われた戦争である。この戦争は幾つかの血生臭い戦闘と、南アフリカにおける植民地支配の画期となったことで有名である。英植民地当局の思惑により、本国政府の意向から離れて開戦したものの、英国軍は緒戦のイサンドルワナの戦い(英語版)で槍と盾が主兵装で火器をほとんど持たないズールー軍に大敗を喫して思わぬ苦戦を強いられた。
■南アフリカ連邦
Union of South Africa、アフリカーンス語: Unie van Suid-Afrika)は、かつて南部アフリカに存在した立憲君主制国家、英連邦王国。1910年5月31日、イギリスの自治領南アフリカ連邦が成立。人口のごく少数を占める白人が黒人を強権的に支配する政治体制を敷き、1911年には白人労働者の保護を目的とした最初の人種差別法が制定された。
■アパルトヘイト博物館
Apartheid Museumは、南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市都市圏にある博物館。アパルトヘイト時代の歴史資料を保管、展示してある。
■アパルトヘイト
Apartheidは、アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を差別的に規定する人種隔離政策のことを指す。南アフリカにおける様々な人種差別政策を背景に1948年に法制として確立され、以後強力に推進された。1980年代後半は、国際社会から激しい非難を浴び、貿易禁止などの経済制裁を受け、経済的に行き詰まった結果、1991年に当時のデクラーク大統領が法律撤廃を打ち出した。
■トランスヴァール共和国
20世紀初めまでヴァール川北方(現在の南アフリカ共和国北部)に存在した共和国。1852年にボーア人が建国した。首都はプレトリア。なお「トランスヴァール共和国」は通称で、正式名称は南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく、アフリカーンス語: Zuid-Afrikaansche Republiek)である。
■ソウェト蜂起
Soweto uprisingは、1976年6月16日に南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ南東部のソウェト地区で発生したアフリカ系住民による暴動事件である。1976年、アパルトヘイト政策を敷く南アフリカ政府は、学校でアフリカーンス語の授業の導入を決定。アフリカーンス語を「白人支配の象徴」と見なす黒人、特に学生達の間に激しい反発が起こり、数週間に亘って黒人学生が授業をボイコットする事態に発展していった。
■ヘクター・ピーターソン博物館
Hector Pieterson Museumは、南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市都市圏ソウェトにある博物館。アパルトヘイト体制下で発生したソウェト蜂起(1976年)で警官によって13歳の若さで射殺された、ヘクター・ピーターソンを称えるために記念された。ソウェトで建設された初めての博物館でもあった。
■グレート・トレック
(Great Trek)は、1830年代から40年代にかけて、英領ケープ植民地からボーア人たちが大移住を行い、現在の南アフリカ共和国北部に定住した、その移住の旅を指す。17世紀にオランダがen:Boer Republicsを拓いて以降、この地に移住するオランダ人は少しずつ増えていき、やがて彼らはボーア人という民族集団を形成するようになる。
■南アフリカ国立動物園
南アフリカ国立動物園National Zoological Gardens of South Africaは、南アフリカ共和国ハウテン州ツワネ市都市圏(プレトリア)にある動物園。プレトリア中心部のポール・クルーガー通りに面している。水族館とレプタイル・パークを併設し、年間約600,000人の観光客が訪れている。
■ズールー王国
Wene wa Zuluは、かつて存在した南部アフリカの王国。ズールー族は南部アフリカの一部族に過ぎなかったが、1816年に首長センザンガコナが死去した翌年、シャカがムテトワ帝国皇帝であるディンギスワヨの庇護を受けてズールー王に即位し、王国が成立した
<世界遺産>
■マプングブエの文化的景観
マプングブエは、南アフリカ共和国にかって繁栄した都市である。マプングブエの丘は北西-南東方向にソーセージ若しくはくさびのような形状をした砂岩の丘であり、その名称は「ジャッカルの住処」を意味する。その切り立った崖の高さはおよそ30mで、崖の上には平らな面がおよそ300mに渡って広がっている。
■リフタスフェルトの文化的・植物的景観
リフタスフェルトは、南アフリカ共和国の北ケープ州にある、ごつごつとした峡谷や高い山々、目を見張る景観などに特徴付けられた山がちな砂漠地帯である。リフタスフェルトは、南アフリカに赴く自然愛好家たちには受けが良い。その景観はしばしば「火星的」と表現される。一見したところ不毛で荒涼とした景観が広がるが、つぶさに調べれば、そこには環境に適応した独特の砂漠の生命形態に溢れていることが明らかになるのである。
■イシマンガリソ湿地公園
ダーバンの北約275 km にあたる。南アフリカでは3番目に大きな自然保護区で、北はモザンビーク国境から南はセント・ルシア河口のマペラネ(Mapelane)まで、海岸線280 kmにわたって存在している。面積は3280 km2 の原生的な生態系の守られている地域で、Ezemvelo KZN Wildlifeが管理している。
■フレデフォート・ドーム
フレデフォート・ドームはヨハネスブルグの南西120kmの位置にある。隕石の衝突跡の直径は約190kmと世界最大。隕石の衝突跡は、中央のドーム(直径約50km)とそれを取り囲む外輪山(リング)からなる。今から約20億2300万年前(古原生代)に直径10から12kmの小惑星が速度約20km/sで衝突し、フレデフォート・ドームが生成されたと考えられている。南アフリカ共和国フリーステイト州にある世界最大の隕石衝突跡(クレーター)である。現存する世界最古の隕石跡でもある。2005年7月に開かれた第29回世界遺産委員会で世界遺産の自然遺産物件として登録された。
■ロベン島
「監獄島」とも呼ばれハンセン病患者の隔離や政治犯の強制収容所が設置された。現在はロベン島教会をのぞいて政府が所管し、島全体を博物館として整備、刑務所の元囚人がガイドとして案内業務を行っている。
■スタークフォンテン、スワークランズ、クロムドライおよび周辺地域の人類化石遺跡
ヨハネスブルグの北に位置するこの地域は、アウストラロピテクス・アフリカヌス(アフリカヌス猿人)や、パラントロプス・ロブストゥス(ロブストゥス猿人)など多数の人類化石が発見されている場所である。
■オクラランバ公園/ドラケンズバーク公園
この山脈は、南アフリカ共和国東部に位置し、南西から北東へと約1000kmにわたってのびている。西部はオレンジ川とヴァール川に浸食されており、東部と南部には、トゥゲラ川をはじめとする多くの川が流れている。
■サウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジ
(South African Solar Challenge)は、南アフリカ共和国で開催される代替燃料車による自動車レースである。出場クラスにはハイブリッド車、電気自動車、ソーラーカー、バイオ燃料自動車がある。第1回大会は2008年に開催され、それ以降2年ごとに開催される。レースの距離は4,000 km (2,500 mi)を超える。レースのルートは年ごとに変化するが、ヨハネスブルグ、ケープタウン、ダーバンを経由し、プレトリアで終えるよう計画される。
■教育
アパルトヘイト時代には黒人は事実上義務教育の対象ではなく、今日まで続く深刻な貧困の原因となっている。アパルトヘイト撤廃後、膨大な国家予算を教育に充て、黒人への教育が強化され就学率は95%まで上昇した。教授言語は、初等教育は各民族語で受け、3年次より英語教育が開始される。中等教育や高等教育では教授言語は英語(少数はアフリカーンス語)となる。大学は全部で23あり、ケープタウン大学、プレトリア大学、ステレンボシュ大学、ウィットウォータースランド大学などが著名である。
■音楽
ポピュラー音楽においては、1930年代にアフリカ系アメリカ人の音楽の影響を受け、マロンボと呼ばれるダンス音楽が成立した。現代ポピュラー音楽のミュージシャンとしては、男性のみによるゴスペルグループのレディスミス・ブラック・マンバーゾ、女性シンガーであり、「パタ・パタ」で知られるミリアム・マケバ、ブレンダ・ファッシー (Brenda Fassie)、イヴォンヌ・チャカ・チャカ (Yvonne Chaka Chaka) などが世界的にもよく知られている。
■文学
20世紀半ばごろから都市黒人によってアパルトヘイトを描いた文学が文字によって生み出されるようになり、1970年代の黒人意識運動(スティーヴ・ビコ)以降もこの潮流は基本的には途絶えることはなかった。代表的な黒人作家としては『我が苦悩の二番通り』(1959) のエスキア・ムパシェーレ、『アマンドラ』(1980) でソウェト蜂起を描いた女性作家のミリアム・トラーディ、『愚者たち』(1983) のジャブロ・ンデベレ、マジシ・クネーネ、ANCの活動家であり、アパルトヘイト政権によって処刑された詩人のモロイセが、白人作家としては『ツォツィ』のアソル・フガード、女性作家のメナン・デュ・プレシスなどの名が挙げられる。
■ゴスペル
(Gospel music)は、アメリカ発祥の音楽の一ジャンル。元来はキリスト教プロテスタント系の宗教音楽。ゴスペルは英語で福音および福音書の意。奴隷としてアメリカ大陸に連行されたアフリカ人は彼ら独自の言語・宗教などをいっさい剥奪された。その苦しい状況下で、彼らのうちのある人々は、救いを与えるゴスペル(福音)と出会い、個人的なキリスト教への改心を経て、神に彼ら独自の賛美をささげるようになった。こうしてアフリカ特有の跳躍するリズム、ブルー・ノート・スケールや口承の伝統などとヨーロッパ賛美歌などの音楽的・詩的感性が融合してスピリチュアル(黒人霊歌 negro spiritual などとも言う)という現在のゴスペルの基調となる音楽が生まれた。
■ツォツィ
(Tsotsi)は、2005年のイギリス・南アフリカ合作映画。監督はギャヴィン・フッド、原作はアソル・フガード。ヨハネスブルグの旧黒人居住区ソウェトを舞台にしており、サウンドトラックでもソウェト育ちの人気歌手ゾラ(Zola)を起用し注目を集めた。第78回アカデミー賞の外国語映画賞受賞作品。
■スティーヴ・ビコ
Stephen Bantu "Steve" Biko、1946年12月18日−1977年9月12日は 南アフリカの反アパルトヘイト活動家。「黒人意識運動(en:Black Consciousness Movement)」の代表的活動家。ケープ州のキングウィリアムスタウンで生まれる。4歳の時に父が死に、故郷で初等・中等教育を受けた後、アリスのラブデール研修所にすすむ。バントゥー教育省が運営するこの学校には長く留まらず、ナタールのローマ・カトリック・マリアンヒル学校で高等教育を受ける。1965年に大学入学資格を得て、1966年にダーバンのナタール大学医学部・非ヨーロッパ人部門に入学した。同時にNUSAS(南アフリカ全国学生連盟)で活動していたが、1968年にこれを脱退し、SASO(南アフリカ学生機構)を結成する。1969年7月にSASOの初代議長に選出され、1970年7月には広報部長に任命された。
■J・M・クッツェー
John Maxwell Coetzee, 1940年2月9日 - は南アフリカ出身の文学者で、2003年のノーベル文学賞の受賞者。アフリカ出身の受賞者としては、ナイジェリアのウォーレ・ショインカ、エジプトのナギーブ・マフフーズ、南アのナディン・ゴーディマーについで4人目である。クッツェーは南アフリカのケープタウンに住むアフリカーナーの家系に生まれた。少年時代をケープタウンと内陸の町ヴスター近郊で、ハイスクールと大学時代をケープタウンですごし──この間のエピソードは回想記風の作品『少年時代』(1997年)や『青年時代』(2002年、未訳)に詳しい──1960年に英語の学位を、1961年に数学の学位を取得してケープタウン大学を卒業。
■ゾーラ・バッド
Zola Budd、1966年5月26日-は、南アフリカ共和国出身の陸上競技選手。女子5000mで2回の世界記録を樹立、世界クロスカントリー選手権を2度制している。17歳をむかえた1984年に、裸足で走った女子5000mにおいて、15分01秒83の世界新記録を樹立し脚光を浴びた。しかし、この記録はアパルトヘイトを行っている南アフリカで記録されたものであったため、世界新記録と認められなかった。 しかし、翌1985年にイギリスにおいて出した14分48秒07の記録は、公式の世界新記録と認められた。
■オスカー・ピストリウス
Oscar Leonard Carl Pistorius、1986年11月22日 - は、南アフリカ共和国のパラリンピック陸上選手。両足義足のスプリンターで、アイスランドの義肢メーカーオズール(Ö嗷囀齦r) が制作した炭素繊維製の競技用義肢を使用しているため、"ブレードランナー"(Blade Runner) の異名を持つ。両足切断者クラスの100m、200m、400mの世界記録保持者。健常者の大会にも出場するなど、障害者スポーツの印象を覆す活躍で注目を集めている。
■シャカ・ズールー
Shaka、1787年 - 1828年9月22日は、ズールー王国初代国王(在位:1816年 - 1828年)。南部アフリカの一部族であったズールー族を南アフリカの大半の部分を支配する一大国家へと導いた指導者である。彼の軍事力と戦略、敵を殲滅し生存者を部族に同化させていく力量は、ズールー族の中でも抜きん出たものがあった。
■ロバート・イネス
Robert Thorburn Ayton Innes, 1861年11月10日 - 1933年3月13日は、南アフリカの天文学者である。多数の二重星を発見しており、1915年にはプロキシマ・ケンタウリを発見した。1910年1月12日に1月の大彗星を発見したことでも知られている。イネスの名は、その功績を称えて、月のクレーターや小惑星に付けられている。月の裏側、モスクワの海の北西に位置するクレーター →イネス (クレーター)
火星と木星の間の小惑星帯に位置する小惑星 →イネス (小惑星)
■ケビン・カーター
Kevin Carter、1960年9月13日 - 1994年7月27日)は、南アフリカ共和国の報道写真家。1994年、ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』という写真でピューリッツァー賞を受賞。写真はスーダンの飢餓を訴えたものだったが、1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載されると同紙には絶賛と共に多くの批判が寄せられた。そのほとんどは「なぜ少女を助けなかったのか」というものであり、やがてタイム誌などを中心に「報道か人命か」というメディアの姿勢を問う論争に発展した。
■ゲリー・コーツィー
Gerrie Coetzee、男性、1955年4月8日 - )は、南アフリカ共和国出身のプロボクサー。ボクスブルク出身。元WBA世界ヘビー級王者。1974年9月14日、プロデビュー。1976年8月16日、南アフリカヘビー級タイトルを獲得。1979年10月20日、空位のWBA世界ヘビー級王座をジョン・テートと争うが、判定負け。キャリア23戦目での初黒星となった。
■デズモンド・ムピロ・ツツ
(Desmond Mpilo Tutu, 1931年10月7日 - )は南アフリカの平和運動家、アングリカン・コミュニオン(=俗に言う「英国国教会」)南アフリカ聖公会のケープタウン元大主教。1984年にノーベル平和賞を受賞。ロンドン大学キングス・カレッジで神学を学ぶ。アパルトヘイト撤廃運動で活躍し、アパルトヘイト撤廃後はアパルトヘイト時代に黒人が受けた人権侵害等を調査する真実和解委員会が結成され、黒人、白人にともに信頼されていたツツが委員長に就任した。1998年にはその調査結果を国民に公表した。
■ベイジル・ラスボーン
(Basil Rathbone、1892年6月13日 - 1967年7月21日)は、トランスヴァール共和国(現在の南アフリカ共和国北部)ヨハネスブルグ出身のイングランド人で、主にアメリカで活躍した俳優。アメリカでは最高のシャーロック・ホームズ俳優として高名である。怪奇ホラーのスターとしても知られる。1939年、『バスカヴィル家の犬』の映画化作品でワトソン医師役のナイジェル・ブルースと共にシャーロック・ホームズを演じ、以降、1946年まで14本の映画でブルースとのコンビでホームズを演じた、その後もラジオドラマ等でホームズを演じ、アメリカでは最高のホームズ俳優として、現在に至るまで伝説的存在である。
■セシル・ローズ
(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)は、イギリスの政治家。彼はダイアモンドを掘り当てて作った資金で、ダイアモンドの採掘権への投機を行ったり、採掘場への揚水ポンプの貸し出しで儲け、ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの融資もとりつけて、1880年、デ・ビアス鉱業会社を設立した。この会社は、ほぼ全キンバリーのダイアモンド鉱山をその支配下に置き、全世界のダイアモンド産額の9割を独占するに至った。
■ルイス・ボータ
(Louis Botha、1862年9月27日-1919年8月27日)は、南アフリカの政治家。アフリカーナー。南アフリカ連邦の初代首相を務めた。ボータは1862年9月27日、トランスヴァール共和国のグレイタウン(現クワズールー・ナタール州)のグレイタウンにて生まれた。ボータは農業で成功し、広大な農地を持つ地主となった。1897年、フレイヘイト(現クワズールー・ナタール州)選出の国会議員としてトランスヴァール議会に席を得たボータは、2年後にボーア戦争が勃発するとルーカス・マイヤーの下で北ナタールを転戦し、コレンソの戦いやスピオン・コップの戦いでイギリス軍を破って名を上げた。
■ヤン・スマッツ
Jan Christiaan Smuts、1870年5月24日 − 1950年9月11日)は、南アフリカおよびイギリス連邦の政治家、軍人、哲学者である。1895年にケープ植民地に戻ると、彼はケープタウンで弁護士を開業したが、1896年のジェームソン襲撃事件に憤激したスマッツはケープタウンからトランスヴァール共和国の首都プレトリアへ移住し、トランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに才能を認められて司法長官の地位に就いた。 スマッツは1899年、トランスヴァール共和国がイギリスに突きつけた最後通牒を起草した。
■ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク
James Barry Munnik Hertzog、1866年4月3日 - 1942年11月21日)は、南アフリカの政治家、軍人。国民党の創設者である。1892年に南アフリカに戻ったヘルツォークは、1892年から1895年までプレトリアで弁護士を開業したあと、オレンジ自由国の高裁の判事に任命された。1899年から1902年までのボーア戦争時には、ヘルツォークはオレンジ自由国軍副司令官となり、各地に転戦してのゲリラ戦によって名声を得た。
■ダニエル・フランソワ・マラン
Daniel François Malan、1874年5月22日 − 1959年2月7日)は、南アフリカの牧師、政治家。アフリカーナー国家主義者の代表格で、国民党の指導者となる。1948年から1958年まで南アフリカ連邦の首相を務め、アパルトヘイトを確立した。オランダ改革派教会の教職者ということもあり、大変厳格なキリスト教徒であったが、これがアパルトヘイトの確立・強化には完全に裏目に出た。彼はアフリカーンス民族主義者として、南アフリカが神によって白人に下された賜物であるとしてカラード、黒人などを徹底して隔離し、国民党に反対する者を弾圧していった。
■ピーター・ウィレム・ボータ
Pieter Willem Botha、1916年1月12日 − 2006年10月31日)は、南アフリカ共和国の政治家。南アフリカ共和国首相(在任期間1978年から1984年)、大統領(在任期間1984年から1989年)を歴任した。アパルトヘイト(人種隔離政策)の完全撤廃と人種間の平等を求める国際世論に対して頑強に抵抗した。
■ヘンドリック・フルウールト
(Hendrik Frensch Verwoerd、1901年9月8日 - 1966年9月6日)は、南アフリカ共和国の政治家。国民党所属。アフリカーナー。1958年から1966年まで南アフリカ共和国首相を務めた。アパルトヘイトは彼の時代に法制化され強化されたため、「アパルトヘイトの建設者」とも呼ばれる。
■タボ・ムベキ
Thabo Mvuyelwa Mbeki、1942年6月18日 - )は、南アフリカ共和国の政治家。大統領(第9代)、副大統領、アフリカ民族会議議長(第12代)を歴任。アパルトヘイト時代に逮捕、監禁されるが、国外追放となりイギリスで長年を過ごす。ネルソン・マンデラ釈放後に帰国する。彼は海外で教育を受け、国外追放期も反アパルトヘイト活動を継続した若いANC闘士のうちの一人であった。
■ゴードン・マレー
(Gordon Murray、1946年 - )は南アフリカ・ダーバン出身の著名な自動車デザイナーであり、多くのF1マシンおよびマクラーレン製ロードカーを設計した。故郷南アフリカで過ごした青年時代は、製図工として働く傍ら、大学の定時制コースで工学を学んだ。オートバイレーサーの父と同じく、マーレイも自らレーシングカーを製作して、クラブレースやヒルクライムレースに参加していた。マレーのマシンは三角形の断面をもつピラミッドモノコック、表面冷却のBT46プロトタイプ、ファン・カーとして知られるBT46Bなど、個性的なアイデアとレギュレーションの盲点を突く意外性に富んでいた。
■スティーヴン・ピーナール
(Steven Pienaar, 1982年3月17日 - )は、南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ出身の元同国代表のサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー。また左右のウィングもこなせる。
■ユースト・ファン・デル・ヴェストハイゼン
(Joost Van der Westhuizen, 1971年2月20日 - )は、1990年代後半の南アフリカのラグビー選手である。ポジションはスクラムハーフ(SH)。南アフリカ代表(スプリングボクス:Springboks)でのキャップ数は89を数える。90年代世界最高のスクラムハーフと言われている。
■スカルク・バーガー
Schalk Willem Petrus Burger Jnr, 1983年4月13日 - )は、南アフリカ共和国のラグビー選手。ポート・エリザベスにて、元ラグビー選手LOのスカルク・バーガーの長男として誕生。ポジションはFL(フランカー)、No.8。身長は193cm、体重は114kg。地元の Super Rugby の Stormers(ストーマーズ)に所属して、現在に至っている。
■アーロン・クルーグ
(Aaron Klug, 1926年8月11日 - )は、リトアニア生まれのユダヤ系物理化学者で、後にイギリス、南アフリカで活躍する。1981年にアメリカ・コロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を受賞。1982年に「電子分光法の開発と核酸・タンパク質複合体の立体構造の研究」によりノーベル化学賞を受賞した。
■ジョナサン・バトラー
(Jonathan Butler, 1961年10月-)は南アフリカケープタウン生まれのポップス・ジャズ・フュージョン・ギタリストで歌手。南アフリカケープタウンに生まれる。アパルトヘイトの環境下に育つ。音楽を巡業する家族の下、16人家族、7人兄弟の末子として生まれる。このような家族の環境で育ち7歳の時にはステージに上がり歌や弦楽器を弾き始める。
■ペネローペ・ヘインズ
(Penelope ("Penny") Heyns、1974年11月8日 - )は南アフリカ共和国の競泳選手で、1996年アトランタオリンピックの100m、200m平泳ぎでオリンピック史上初めて両種目の金メダルを獲得した選手として有名である。また、アパルトヘイト廃止後、南アフリカ共和国がオリンピックに再び参加できるようになって、初めて金メダルを獲得した選手である。
■トレヴァー・ラビン
(Trevor Rabin、1954年1月13日 - )は、南アフリカ共和国出身のロック・ギタリスト、シンガーソングライター及びマルチプレイヤー。また映画音楽の作曲・構成も務める。ヨハネスブルグで、シンフォニー第一バイオリン奏者の父親、ピアノ教師の母親の間のユダヤ系の家庭に生まれる。両親が音楽家という環境の中で、自然に音楽に親しみ、5歳でピアノを習い始め、12歳でギターを始めた。
■アルバート・ルツーリ
(Albert John Mvumbi Lutuli, 1898年? - 1967年7月21日) は、南アフリカ共和国の黒人解放運動指導者、政治家、教員。1952年よりアフリカ民族会議 (ANC) 議長となり、1950年代に南アフリカで小数白人政府に対する反対運動を展開した。1960年に彼自身のANCでの役割や、アパルトヘイトに反対したことによりノーベル平和賞を受賞。 |
南アフリカ South Africa
アフリカ大陸最南端に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にスワジランド、モザンビーク、北にジンバブエ、ボツワナ、西にナミビアと国境を接し、レソトを四方から囲んでいる。南アフリカは首都機能をプレトリア(行政府)、ケープタウン(立法府)、ブルームフォンテーン(司法府)に分散させているが、各国の大使館はプレトリアに置いていることから、国を代表する首都はプレトリアと認知されている。紀元前数千年頃から、狩猟民族のサン人(ブッシュマン)と、同系統で牧畜民族のコイコイ人(ホッテントット:吸着音でわけのわからない言葉を話す者の意)が居住するようになった。
■ヨハネスブルグ
Johannesburgは、南アフリカ共和国ハウテン州にある都市(都市圏)、同州の州都である。同国最大の都市であり、人口は約388万人。近郊を含む都市的地域の人口では748万人であり、同国第1位、アフリカでは第4位である。アフリカを代表する世界都市の1つであり、都市のGDPは1100億ドルで、南部アフリカ第1位である 。アフリカ最大の証券取引所であるJSEの所在地でもあり、アフリカ最高の金融センターと評価されている。ヨハネスブルグにはアパルトヘイト廃止後、職を求めて国外からの不法入国者を含む多くのアフリカ系とカラードが一挙に流れ込んだ。しかし、アパルトヘイト時代の黒人に対する教育環境は非常に貧しく、非識字者はもちろん算数の初歩程度の知識すら有さない者も多い。南アフリカに隣接する国家から流入する者も同様である。こうした黒人達が高層ビルの林立する近代都市で職を得る機会はかなり乏しい。その結果、一部の者を犯罪へ駆り立て、多くの犯罪組織が作られることとなり治安は急速に悪化した。これを嫌った白人富裕層は、ヨハネスブルグからサントンなどの近郊へと職場(企業)も住居も移した。こうした悪循環でますます仕事の機会がなくなり、ついには街の一部(ヨハネスブルグ中心部等)は完全なゴーストタウンと化した。
■ヨハネスブルグ国際空港
O・R・タンボ国際空港(英語: O.R. Tambo International Airport)は、南アフリカ共和国ハウテン州エクルレニ都市圏にある国際空港である。2006年、ヨハネスブルグ国際空港(Johannesburg International Airport)から改称した。ヨハネスブルグ近郊に所在する。年間旅客人員数はアフリカの空港で最多の19,440,000人で、南アフリカ最大の航空会社である南アフリカ航空を筆頭に国内の航空会社の多くがハブ空港としている。
■ケープタウン国際空港
Cape Town International Airport、IATA:CPT、ICAO:FACTは、南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウン市都市圏にある国際空港。年間旅客数は8,320,000人で、アフリカでは、O・R・タンボ、カイロに次ぐ旅客数である。1993年まで南アフリカ運輸省の直接所管であったが、現在は南アフリカ空港会社(ACSA)によって管理・運営されている。
■ブルームフォンテーン国際空港
(Bloemfontein International Airport)とは、南アフリカ共和国フリーステイト州の州都ブルームフォンテーンにある国際空港
■キング・シャカ国際空港
King Shaka International Airportは、南アフリカ共和国で重要な外港でもあるダーバンにある国際空港である。2010年5月1日にダーバン国際空港の代替として開港した。
外務省:南アフリカ共和国
在南アフリカ共和国日本国大使館
■ケープタウン大学
The University of Cape Town、略称:UCTは南アフリカ共和国西部のケープタウンにある公立大学、1829年にSouth African College として設立、南アフリカ最古の大学で、アフリカで顕著な教育・研究機関として知られている。
■ヨハネスブルグ大学
University of Johannesburgは、南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市都市圏にある大学。2005年1月、ランド・アフリカーンス大学、ウイットウォータズランド工科大学、ビスタ大学の3つが合併し、設立された。授業では英語の他に、現地語であるアフリカーンス語も使用されている。
■プレトリア大学
University of Pretoria 、は、南アフリカ共和国・ハウテン州プレトリアに本部を置く南アフリカ共和国の公立大学である。1908年に設置された。
■ダーバン
City of Durbanは、南アフリカ共和国クワズール・ナタール州エテクウィニ都市圏にある地区。2000年までは単独の市であった。ヨハネスブルグに次ぐ人口の都市であり、重要な外港である。2010年の都市的地域の人口では322万人であり、同国ではヨハネスブルグに次ぐ第2位である。ズールー族が多く、英語よりもズールー語が話されている。またインド系移民の人口が極めて多く、約80万人ほどいるといわれている。
■ケープタウン
Cape Townは、南アフリカ共和国西ケープ州に位置する都市(都市圏)である。立法府所在地で、同州の州都。アフリカ有数の世界都市である。テーブル湾に面する同市はその港が有名であるとともに、世界的に有名なテーブルマウンテンや喜望峰などを含んだケープ草原(Cape floral kingdom)のなかにある。
■プレトリア
Pretoriaは、南アフリカ共和国ハウテン州北西部のツワネ市都市圏にある地区。同国の首都。プレトリアの名称は、イギリスによる植民地支配に抵抗したアフリカーナー(ポール族、オランダ系移民)のアンドリース・プレトリウスに由来している。
■ブルームフォンテーン
Bloemfonteinは、南アフリカ共和国フリーステイト州モテオ郡マンガウング地方自治体に位置する地区。2000年まではフリーステイト州の州都として独立した都市であった。南アフリカは、プレトリア(ツワネ - 行政府)、ケープタウン(国会)、ブルームフォンテーン(マンガウング - 最高裁判所)と、首都機能を3都市に分散しており、ブルームフォンテーンは南アフリカの司法首都である。
■ピーターマリッツバーグ
(Pietermaritzburg)は、南アフリカの都市。クワズール・ナタール州の州都で、州第2位の都市。一般にはマリッツバーグ(Maritzburg)またはPMBと短縮して呼ばれる。クワズール・ナタール大学があり、材木、アルミニウム、乳製品の主要生産地である。
■ネルスプロイト
Nelspruit)は、南アフリカ共和国ムプマランガ州エシャンゼニ郡ムボンベラに位置する地区。市内には、主にヨハネスブルグとのフライトに使用されるクルーガー・ネルスプロイト国際空港やカジノがある。また、近くのクルーガー国立公園やモザンビークに旅行している観光客のための主要な中継地ともなっている。
■ポロクワネ
Polokwane)は南アフリカ共和国リンポポ州カプリコーン郡にある都市(B自治体)、同州の州都である。リンポポ州最大の都市で2003年、ピーターズブルグ(英語:Pietersburg)から名称を改称した。
■マフィケング
Mafikeng)は、南アフリカ共和国北西州セントラル郡に位置する自治体(地方自治体)。同州の州都。マフィケングとはツワナ語で「巨大な岩」「石の場所」の意味。元々、バンツー族のバロロン氏族の本拠地であり、イギリス人の入植者によりmafekingに綴り代えられた。
■ヨハネスブルグ美術館
Johannesburg Art Galleryは、南アフリカ共和国ハウテン州ヨハネスブルグ市都市圏にある美術館である。建物はエドワード・ラチェンズによって設計され、15の展示場および彫刻の庭から成る。17世紀のオランダの絵画のコレクション、18世紀から19世紀のヨーロッパ美術、19世紀の南アフリカ美術、現代美術の大きなコレクションを含んでいる。
■南アフリカの国旗
アパルトヘイトの終焉と同時に、人種差別主義からの決別を明確にするため、1994年4月27日に制定された。当初臨時の国旗としてデザインされたものが、評判が良かったため最終的に正式な国旗として憲法で定められた。制定時には、特に色には象徴的な意味はないとされていたが、近年は意味づけが非公式に伝えられている。赤は過去の対立の中で流された血、青は空と二つの海、緑は南アフリカで欠かせない農場と自然、黄は南アフリカで産出される金に代表される天然資源、黒は南アフリカの黒人の国民、と同時に他のアフリカ諸国とのつながり、白は南アフリカの白人の国民、と同時に平和を、それぞれ示していると言われている。
■国名
11の公用語を採用しており、公用語で正式名称も異なる。アフリカーンス語: Republiek van Suid-Afrika 英語: Republic of South Africa ズールー語: IRiphabliki yaseNingizimu Afrika
1.面積:122万平方キロメートル(日本の約3.2倍)
2.人口:4,932万人(2009年:世銀) 人口増加率1.0%(世銀)
黒人(79%)、白人(9.6%)、カラード(混血)(8.9%)、アジア系(2.5%)
3.首都:プレトリア
4.民族:黒人、白人、カラード、アジア系
5.言語:英語、アフリカーンス語、バンツー諸語(ズールー語、ソト語ほか)の合計11が公用語
6.宗教:キリスト教(人口の約80%)、ヒンズー教、イスラム教
1652年 オランダ、ケープ植民地設立。
1910年 「南アフリカ連邦」独立。
1961年 英連邦から脱退し共和制移行(「南アフリカ共和国」成立)。
1991年 アパルトヘイト関連法の廃止。
1994年4月 初の全人種参加型の総選挙を実施。
1994年5月 マンデラ政権成立。
1995年11月 全人種参加の地方選挙を実施。
1997年2月 新憲法発効。
1999年6月 総選挙実施、ムベキ大統領就任。
2004年4月 総選挙実施、ムベキ大統領再任。
2008年9月 ムベキ大統領辞任、モトランテ大統領就任。
2009年4月-5月 総選挙実施(4月)、ズマ大統領就任(5月)
■主要産業(農)畜業、とうもろこし、柑橘類、その他の果物、小麦、砂糖、羊毛、皮革類(鉱)金、ダイヤモンド、プラチナ、ウラン、鉄鉱石、石炭、銅、クロム、マンガン、石綿(工)食品、製鉄、化学、繊維、自動車
■主要貿易品目(1)輸出 金、希金属、鉱物製品、化学製品、食品、繊維製品、ダイヤ(2)輸入 機械、自動車類、化学製品、科学機器、繊維製品、プラスティック、ゴム
■ランド
(Rand) は南アフリカ共和国の通貨である。ISO 4217の通貨コードはZAR。補助単位は100分の1のセント。通貨記号はR、セントはcで表記される。1961年、南アフリカ共和国が成立すると同時にそれまでの法定通貨であった南アフリカ・ポンドに対し2ランド=1ポンド、また1ランド=10シリングのレートで導入された。
■経済
農業は畜業、とうもろこし、柑橘類、その他の果物、小麦、砂糖、羊毛、皮革類。ワイン作りはケープタウン付近で特に盛んであり、多く輸出もされている。鉱業は金、ダイヤモンド、プラチナ、ウラン、鉄鉱石、石炭、銅、クロム、マンガン、石綿。石油の産出は無い。工業は食品、製鉄、化学、繊維、自動車等。豊富な鉱物資源を誇り、特に金は世界の産出量の半分を占める。この豊富な産金力を背景にクルーガーランド金貨を発行していたが、現在は限定品としてのみ僅かに販売されている。
■トウモロコシ
(玉蜀黍、学名 Zea mays)は、イネ科の一年生植物。穀物として人間の食料や家畜の飼料となるほか、デンプン(コーンスターチ)や油、バイオエタノールの原料としても重要で、年間世界生産量は2009年に8億1700万トンに達する。世界三大穀物の一つ。
■ワイン
wine)とは、主としてブドウの果汁を発酵させたアルコール飲料である。葡萄酒(ぶどうしゅ)。通常、単に「ワイン」と呼ばれる場合には他の果汁を主原料とするものは含まない。ワインは最も歴史の古い酒の一つとされ、現在のグルジア周辺では遅くとも紀元前8000年頃からワインが飲まれていたらしい。また、アルメニアでは約6000年前のものとされる世界最古のワイン醸造所跡が発見されており、その頃には既に高度な醸造技術が確立されていた。
■金
gold, は原子番号79の元素。元素記号は Au。第11族元素に属する金属元素。貴金属の一種であり、単体の金属として古くから知られてきた。元素記号は Au であり、これはラテン語で金を意味する aurum に由来する。金は紀元前3000年代に使われ始めた。最古の金属貨幣は紀元前7 - 6世紀にリディアでつくられたエレクトロン貨で、天然の金銀合金に動物や人物を打刻している。金は中国で商時代に已に装飾品として使われ、春秋戦国時代には貨幣や象嵌材料として使用された。
■白金
platinum)は原子番号78の元素。元素記号は Pt。白金族元素の一つ。学術用語としては白金が正しいが、現代日本の日常語においてはプラチナと呼ばれることも多い。ただしホワイトゴールドは異なる合金である。単体では、白い光沢を持つ金属として存在する。化学的に非常に安定であるため、装飾品に多く利用される一方、触媒としても自動車の排気ガスの浄化をはじめ多方面で使用されている。
■ダイヤモンド
(diamond) は、炭素(C)の同素体の1つであり、実験で確かめられている中では天然で最も硬い物質である。日本語で金剛石(こんごうせき)ともいう。結晶構造は多くが8面体で、12面体や6面体もある。宝石や研磨材として利用されている。ダイヤモンドの結晶の原子に不対電子が存在しないため、電気を通さない。
■政治
アフリカでも数少ない複数政党制が機能する民主主義国家の1つである。議会は両院制で、いずれも任期5年の全国州評議会(90名、上院)国民議会(400名、下院)で構成され、元首となる大統領は国民議会の議決により選出される。2009年5月6日、国民議会(下院)はアフリカ民族会議 (ANC) のジェイコブ・ズマを新大統領に選出した。
■アフリカ民族会議
African National Congress, ANCは、南アフリカ共和国の政党である。議長(党首)は、ジェイコブ・ズマ(第13代)。経済政策として、公共事業を通じて失業問題を解消させ、農地改革によって不平等な土地配分を解決し、5年間に毎年30万戸以上を建設することで住宅問題の解決を図り、上水道・下水道などの衛生施設を完備し、2000年までに250万世帯を電化するといった計画を発表した。しかし、実施機構整備の遅れ、予算や人材不足から達成するにいたらず、特に黒人への貧富の差の解消は遅れ、失業は増大し、犯罪は増加した。このことが先進諸国からの投資や、企業進出を妨げる要因となっている。
■民主同盟
Democratic Allianceは、南アフリカ共和国の政党である。党首はヘレン・ツィレ(第2代)。アフリカ民族会議(ANC)に次ぐ議席を持つ政党で、ケープタウンに本部を置く。ケープタウン市議会ではANCを抑えて第1党であり、党首のツィレが市長に選出されている。
■インカタ自由党
Inkatha Freedom Party, "IFP"は、南アフリカ共和国の政党。マンゴスツ・ブテレジによって1975年発足。当初はアフリカ民族会議と共闘関係にあったが、1980年代初頭から対立するようになり、南アフリカ国軍と協力してアフリカ民族会議を攻撃するようになった。
■国民党
National Party, "NP")は、南アフリカ共和国の政党。1948年から1994年まで与党としてアパルトヘイト政策を推進した。ルイス・ボータ(ボタ)初代首相、ヤン・スマッツ(後の首相)らが余りに親英的、黒人に対して融和的であるとして批判を強めたジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォークによってアフリカーナーのナショナリストを糾合し1914年に結成された。
■新国民党
New National Party, "NNP")は、かつて存在した南アフリカ共和国の政党。アパルトヘイト政策を実行した国民党のイメージを脱却すべく党名を改称した。しかし党路線の対立で分裂を繰り返した結果、少数派に転落し2005年にアフリカ民族会議へ吸収合併された。
■イギリス連邦
Commonwealth of Nations、旧名 British Commonwealth)は、かつてのイギリス帝国(大英帝国)がその前身となって発足し、イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合(集合体)である。
■民族
2009年の推計によると、人種の割合は黒人 (79.3%)、白人 (9.1%)、カラード(混血)(9.0%)、インド系(印僑)(2.6%)。 国内には、周辺国からおよそ500万人(300万人がジンバブエ出身)におよぶ不法移民が流入しており、治安悪化の最大の原因となっている。
■バントゥー系民族
Bantu peoples)は、アフリカ言語の大カテゴリであるバントゥー語群に属する多様な言語を使用しつつ1つの大きな言語集団を成す多くの民族の総称である。この語は、現在のカメルーンから中央アフリカと東アフリカを横切り南アフリカまでのブラックアフリカに分布する、400以上の民族(140 - 600以上の言語)に対する一般的分類として用いられている。
■スワジ人
Swazi)は、南部アフリカの民族である。バンツー語群に属し、スワジ語を使う。スワジランドより南アフリカ共和国に多く居住している。
■コイコイ人
Khoikhoiは、南アフリカ共和国からナミビアの、海岸線から高原地帯、カラハリ砂漠などに居住している民族である。以前は「ホッテントット」と呼ばれていた。1905年には南西アフリカのドイツ支配に対してホッテントット蜂起と呼ばれる戦争が起こり、ドイツ軍による大虐殺の被害を受けた。
■ツワナ人
Tswana (people))は、南部アフリカの民族。ツワナ人は、ボツワナでは人口の90%を占める多数派民族であり、国名のボツワナも民族名のツワナに、「〜の地」を意味するツワナ語の接頭語「ボ」をつけた、「ツワナ人の地」という意味である。南アフリカ共和国内のツワナ人はボツワナの3倍近くに達しており、アパルトヘイト時代はボプタツワナというバントゥースタンを南ア北部のボツワナ国境近くに持っていた。
■コサ人
Xhosa)は、アフリカの民族である。コサ人は、アフリカ大湖沼の周囲から南下して移住してきたグニ人の一部と考えられる。1600年代にオランダ人の開拓団が南部アフリカに上陸したときには、フィッシュ川から現在のダーバン周辺の南東アフリカ一帯で生活していた。
■サン人
Sanは、南部アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族である。砂漠に住む狩猟採集民族は大変少なく現在ではこのサン人ぐらいしかいない。かつて3000〜2000年前くらいまでは、南部アフリカから東アフリカにかけて広く分布していた。しかし、バントゥー系の人々や白人の進出により激減し、現在はカラハリ砂漠に残っているだけである。人口は約10万人。言語はコイサン語族。吸着音あるいはクリック音(舌打ちをするようにして発音される音)とよばれる類型に分類される非常に多様な音を普通の子音として使用する言語である。
■ズールー人
Zuluは、アフリカの民族。ニジェール・コンゴ語族に属するアフリカの民族で南アフリカ共和国からジンバブエ南部にかけて広い範囲に約1000万人が居住している。南アフリカ共和国では最大の民族集団となっている。19世紀初頭に建国されたズールー王国の指導者シャカ・ズールーにより強大な軍事力を背景に周辺の部族を次々と征服していったが、1880年のズールー戦争でイギリスに敗北し、王国は分割統治された。
■アフリカーナー
Afrikanerは、南アフリカ共和国に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカ南部に入植したプロテスタント教徒が合流して形成された民族集団である。
■言語
公用語はアフリカーンス語、英語、バントゥー諸語(ズールー語、コサ語、北ソト語、ソト語、スワジ語、南ンデベレ語、ツォンガ語、ツワナ語、ヴェンダ語)の11言語。国内で最も多くの人に話されている言葉は東部で話されているズールー語であるが国内人口比22%程度である。
■バントゥー語群
アフリカの広い範囲で話され、互いに共通性のある一群の言語で、系統的にはニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群に含められる。Bantuという言葉はW. H. I. Bleek(1827-1875)が最初に用いたもので、多くの言語で人を表す -ntu (または -tu )と、いくつかの言語で複数を表す ba-(つまりba-ntu は「人々」の意味)から造語されたものである。
■アフリカーンス語
アフリカーンス語/アフリカーンス(Afrikaans)は、インド・ヨーロッパ語族のゲルマン語派で西ゲルマン語群に属する低地ドイツ語に属し、オランダ語から派生した言語である。南アフリカ共和国の公用語の一つで、ヨーロッパ系言語の中で最も新しい言語である。
■宗教
宗教は8割の国民がキリスト教で、残りはヒンドゥー教、イスラム教などである。ユダヤ教の信者や無宗教者も少数存在する。
■キリスト教
hristianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。
■ヒンドゥー教
インドやネパールで多数派を占める民族宗教である。ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目の宗教である。
■サラ・バートマン
(1770年代 - 1815年12月29日)は、南部アフリカ(現・南アフリカ共和国)出身の女性。ホッテントット・ヴィーナスと呼ばれていた。「ホッテントット」はコイコイ人の旧称であり、現在では差別用語とされる。現在の東ケープ州にあたる地域にコイサン民族の一員として生まれた。 ケープタウン近郊に住むオランダ人農場主の奴隷だったとき、渡英したら金持ちになれるという話を持ちかけられて、船に乗る。イギリス本国に連れて行かれたバートマンは、臀部の大きい身体的特徴ゆえに大道芸人として見世物にされた。
■ネルソン・マンデラ
Nelson Rolihlahla Mandela、1918年7月18日 - は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士である。賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。南アフリカ共和国での愛称はマディバ。反アパルトヘイト運動により反逆罪として逮捕され27年間に渡り刑務所に収容された。釈放後、アフリカ民族会議(ANC)の副議長に就任。その後、議長。デクラークと共にアパルトヘイトを撤廃する方向へと南アフリカを導き1994年に大統領に就任。1918年7月18日にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。ウィトワーテルスランド大学法学部を卒業。在学中の1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。
■フレデリック・ウィレム・デクラーク
Frederik Willem de Klerk、1936年3月18日 - は、南アフリカ共和国の政治家。デクラークは英語読みで、アフリカーンス語では「デクレルク」と発音する。大統領(第7代)、副大統領(アパルトヘイト廃止後初代)、下院議員、国民党党首(第7代)を務める。アパルトヘイト体制の解体、アパルトヘイト関係法の全廃に大きな役割を果たした。1936年にヨハネスブルグで生まれる。1958年にポッチェフストローム大学の法律科を卒業。 弁護士を経て、1972年に国民党 (NP) の国会議員に選ばれ、父の後を継いで政界入り。大統領に就任したデクラークは今までの政府(国民党)の方針から方針転換し、黒人達との交渉によって南アフリカを決めていくといった現実的で柔軟な民主改革路線をとった。
■ナディン・ゴーディマー
Nadine Gordimer, 1923年11月20日 - は南アフリカの作家であり、1991年ノーベル文学賞を受賞した初めてのサハラ以南(サブサハラ)のアフリカ女性作家である。アパルトヘイトの欺瞞を淡々とした筆致でユーモラスに告白する作風で知られる。そのもっとも成功した例は、異人種間の結婚および交際を禁止する「分離法」施行下の旧南アフリカ政権下で、秘密の恋を続ける黒人と白人のカップルが交際し、隠れて性交を行っている際に露見しそうになり、緊張のあまり女性が膣痙攣を起こして二人が逆に離れられなくなり、ますます逃げ出せなくなるという、代表作のひとつにみられるエピソードであろう。
■J・R・R・トールキン
John Ronald Reuel Tolkien CBE〈大英帝国勲章コマンダー勲爵士〉、1892年1月3日 - 1973年9月2日)は、英国の文献学者、作家、詩人、大学教授で、なによりも『ホビットの冒険』とその続編『指輪物語』、『シルマリルの物語』の著者として知られている。オレンジ自由国(現在は南アフリカ共和国の一部)のブルームフォンテーンで、イギリスの銀行支店長アーサー・ローウェル・トールキン(1857-1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド) (1870-1904) の間に生まれた。1894年2月17日生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる。
■アーノルド・ヴォスルー
Arnold Vosloo, 1962年6月16日 - は、アメリカ合衆国で活躍する俳優。南アフリカ共和国・プレトリア出身。両親共に俳優。南アフリカの舞台にて『ハムレット』などに出演、高い評価を得る。1984年から映画にも出始める。テレビドラマのゲスト出演やB級映画(主に悪役)を経て、1999年の『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』でのイムホテップ役で強烈な印象を残した。1988年にアメリカ国籍を取得している。
■キャスター・セメンヤ
Caster Semenya、1991年1月7日 - は、南アフリカ共和国の陸上競技選手。2009年ベルリン世界陸上の金メダリストである。セメンヤは、800mを得意とする南アフリカの女子中距離選手である。2009年にベルリンで開催された世界選手権では、南アフリカ代表として800mで金メダルを獲得した。
■ギャヴィン・フッド
Gavin Hood, 1963年5月12日 - は、南アフリカ共和国ヨハネスブルグ出身の映画監督、脚本家、俳優。
■ジェイコブ・ズマ
Jacob Gedleyihlekisa Zuma、1942年4月12日 - は、南アフリカ共和国の政治家。アフリカ民族会議議長(第13代)、大統領(第11代)。ほかに副大統領(アパルトヘイト後第3代)、下院議員(3期)を歴任。ナタール州(現:クワズール・ナタール州)出身。小学校5年で中退。父が死んだ後は、15歳で働き始めた。1959年、ANCの活動を初め、1963年に他の活動家とともに逮捕されロベン島に投獄される。
■バルトロメウ・ディアス
Bartolomeu Dias, 1450年頃 − 1500年5月29日はポルトガルの航海者で、ヨーロッパ人として初めて喜望峰に到達した。 資料によっては、英語名のバーソロミュー・ディアス (Bartholomew Diaz) と表記される。1486年10月10日、ポルトガル国王ジョアン2世は、アジアに至る交易路確立のためのアフリカ周回航海の遠征隊長に、ディアスを任命した。この航海の主要な目的には、エチオピア方面にあると言われるキリスト教徒の王(プレスター・ジョンとして知られる)の国を探し、ポルトガルとの友好関係を樹立する事も含まれていた。
■ヘレン・ツィレ
Helen Zille、1951年3月3日 - 、南アフリカ共和国の政治家。ケープタウン市長。西ケープ州首相。民主同盟党首(第2代)。両親はユダヤ人で、ナチス・ドイツの迫害を逃れて南アフリカへ移住した。母のミラ・ツィレは、白人女性の反アパルトヘイト運動の活動家であった。ヨハネスブルグ出身。ランド・デイリーメールの政治記者からケープタウンの教育管理者を経て下院議員。
■レディスミス・ブラック・マンバーゾ
Ladysmith Black Mambazoは、イシカタミアやムブーベと呼ばれるスタイルで歌う南アフリカの男性コーラスグループである。彼らはアメリカ人歌手・ポール・サイモンのアルバム『グレイスランド』に参加したことで世界的に知名度を得て、その後3つのグラミー賞を含む様々な賞を獲得している。
■ミリアム・マケバ
(Miriam Makeba, 1932年3月4日 - 2008年11月10日)は南アフリカ共和国の歌手でグラミー賞受賞者。ママ・アフリカの名前でも知られている。ミュージカル『キング・コング』の成功や、"Pata Pata"のヒットで国際的な名声を高めた。しかし、1967年に反アパルトヘイト活動で、国外追放される。1969年にギニアのセク・トゥーレ大統領に招かれ、夫であり黒人運動活動家のストークリー・カーマイクルとともにギニアに移る。大統領の支援を受け、カンテット・ギネエンヌとともに演奏を活動を行った。
■レジー・ウォーカー
Reginald Edgar "Reggie" Walker, 1889年3月16日 - 1951年11月5日)は、南アフリカの陸上競技選手。1908年ロンドンオリンピック男子100mの金メダリストである。ウォーカーは1907年の南アフリカチャンピオンであったが、1908年ロンドンオリンピックの優勝候補とは見られていなかった。
■トーマス・C・カンサ
Thomas C Kantha、1948年4月2日 - )は、南アフリカ共和国クワズール・ナタール州トンガート出身の詩人、英会話講師。ロンドンで日本人女性と結婚し1984年に来日。偶然粗大ゴミの中から壊れた車椅子を見つけ、それを修理して母国の障害児たちに車椅子を贈る活動を続けている。 アパルトヘイト下で育った体験談を詩集として発表し、その売り上げが車椅子を送る輸送費として充てられている。 その功績が認められ、1999年にシチズン・オブ・ザ・イヤーを受賞。
■シャーリーズ・セロン
(Charlize Theron, 1975年8月7日 - )は、南アフリカ共和国出身で、ハリウッドで活躍する女優。南アフリカ共和国ハウテン州ベノニで道路建設会社を経営していたフランス系の父親チャールズと、ドイツ系の母親ゲルダの間に一人娘として生まれる。一家は幼い頃からアルコール依存症の父親による家庭内暴力に悩まされていた。シャーリーズが15歳の頃、晩に酔って帰ってきた父親に暴力を振るわれ、娘の命の危険を感じた母親が父親を射殺してしまうという事件が起きる(母親に対しては、正当防衛が認められた)。その後、母親は破産寸前だった会社を5年で立て直す。
■ラッキー・デューベ
(Lucky Dube, 1964年8月3日 - 2007年10月18日) は南アフリカ共和国のレゲエ歌手。ズールー語、英語、アフリカーンス語を使い、25年にわたる活動を経て22枚のアルバムを発表し、南アフリカで最も人気のあるレゲエアーティストとして知られていた。2007年10月18日、ヨハネスブルグロゼッテンビル地区で強盗に襲われ殺害された。少年時代のデューベは植木職人として働いていたが、成長するにつれその仕事では家族を養うに充分な収入を得ることは難しいと考えるようになり、学校に通い始めた。そこで彼は聖歌隊に加わり、またそこで出会った友人らとスカイウェイ・バンド (The Skyway Band) というバンドを結成した。また、デューベがラスタファリ運動に出会ったのもこの時期であった。
■ロリー・バーン
Rory Byrne 、1944年1月10日 - )は、南アフリカ共和国のレーシングカーデザイナー。1997年から2006年2月にかけスクーデリア・フェラーリでチーフデザイナー職にあり、同チームの黄金期に多大な貢献をした。現在は同チームのアドバイザーを務めている。バーンは南アフリカ・ヨハネスブルグのウィットウォータースランド大学在学中、最初は競技者としてモータースポーツに興味を抱き始め、後に技術的側面に関わるようになった。1965年に卒業した後、バーンは化学者として働きながらレースへの情熱を保ち続け、1960年代の終わり頃に2人の友人とともに故国南アフリカへ高性能自動車用パーツを輸入する会社を設立した。
■アーロン・モコエナ
(Teboho Aaron Mokoena, 1980年11月25日 - )は、南アフリカ共和国・ヨハネスブルグ出身の同国代表サッカー選手。プレミアサッカーリーグ・ウィッチ・ユニヴァーシティFC所属。ポジションはディフェンダーで、主にセンターバックであるがボランチもできる。
■ベネディクト・マッカーシー
(Benni McCarthy, 1977年11月12日 - )は南アフリカ共和国出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。実際の発音はマッカーティー。南アフリカ史上最高のプレーヤーと言われるストライカー。柔らかいボールタッチとボディバランス、強力なシュート力を武器に欧州を渡り歩き、アフリカを代表するストライカーとなった。
■ジャブ・クハニール
(Jabu Khanyile、1957年 − 2006年11月11日)は、南アフリカ共和国のミュージシャン。ジャズバンドバイエッテのボーカリストであり、アフリカン・ミュージックの代表的な人物でもあった。1996年、ブラックアフリカ音楽賞のベスト・アーチスト賞を受賞。彼自身はユッスー・ンドゥールやアンジェリーク・キジョーまたはパパ・ウェンバらとともに国際的な活動を積極的に行っており、またアフリカに散らばる個々の音楽スタイルを結合させて作り上げたアフリカ共通の音楽感性を存分に発揮した人物としても知られている。
■シーモア・パパート
(Seymour Papert、1928年3月1日 - )は、南アフリカ出身のアメリカの数学者、計算機科学者、発達心理学者。南アフリカのプレトリアで生まれ、アメリカに移住した。マサチューセッツ工科大学に勤務する。 マーヴィン・ミンスキーとともに、単純パーセプトロンは線形分離できないパターンを識別できないことを指摘した。心理学者のジャン・ピアジェと交流があり、プログラミング言語のLOGOを開発した。
■シドニー・ブレナー
(Sydney Brenner, 1927年1月13日 - )はイギリス人の生物学者。現在はアメリカで活動する。 線虫を用いたアポトーシス研究によりロバート・ホロビッツとジョン・サルストンとともに2002年にノーベル生理学・医学賞を受賞。南アフリカ共和国のジャーミンストン生まれ。1960年代に登場した分子生物学の分野において、フランシス・クリックらとともに、翻訳における遺伝子暗号の解読をはじめとした独創的な貢献をした。
■ムブイレニ・ムラウジ
(Mbulaeni Mulaudzi、1980年9月8日 - )は、南アフリカ共和国の陸上競技選手。2004年アテネオリンピック男子800mの銀メダリスト、2009年世界陸上競技選手権大会800m金メダリストである。
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