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シエラレオネ共和国
Republic of Sierra Leone

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■地理
シエラレオネの海岸線は、首都フリータウンがあるフリータウン半島部以外はマングローブの林に覆われている。シエラレオネの残りの地域はたいてい木々に囲まれた高原地帯(海抜300メートル級)で、国の東部は山間地である。フリータウン半島の近くにあるバナナ島、バンス島、ヨーク島やタートル諸島(シェルブロ島)などの島々もある。国内最高峰は東部山間地のロマ・マンサ (Loma Mansa) (1,948 m)である。
■西アフリカ
アフリカの西部地域、具体的には、サハラ砂漠の南側で、かって西スーダンと呼ばれた地域と、中央スーダンの一部、大西洋、ギニア湾に面する「上ギニア」の国々が含まれる地域を指す。アルジェリアなどマグリブ諸国は、歴史的・文化的に地中海世界やアラブ世界としての一体性が強く、通常は北アフリカとする。
■バナナ諸島
(Banana Islands) は、西アフリカシエラレオネのフリータウン半島の南東の沖合いに浮かび、2つの主な島、ダブリン島とリケット島などからなる島々である。最北端にあるダブリン村(ダブリン島)には1881年に建てられた教会の跡地があるが、ここは奴隷収容所だった跡地である。海水浴や釣りなどが楽しめる観光地ともなっている。
■バンス島
(Bunce Island) は、西アフリカシエラレオネのフリータウン近く、ロケ川の河口にある島である。1663年にイギリスが貿易の中継地点としてバンス島に要塞を築き利用していた。1670年にはイギリスの西アフリカ殺倉海岸における最大の貿易地点として設立した。アメリカの元国務長官コリン・パウエルがバンス島訪問した時、「自分はアメリカ人だが、今はただのアメリカ人ではない。この大地で自分のルーツを感じる。自分はアフリカ人でもあるということに誇りすら感じる。」と述べた。
■フリータウン半島
Freetown Peninsula)、またはシエラレオネ半島は、西アフリカシエラレオネの南西部に位置し、同国の首都フリータウンがある半島である。半島にはシエラレオネ山脈の山々がそびえ最高峰で884mであり、いくつかの海岸地域には112もの長い砂州がある。なお、半島にはチンパンジーや鳥など野生動物も数多く生息しており自然保護区もいくつかある。
■マングローブ
Mangrove)は、熱帯 - 亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地に成立する森林のことである。紅樹林または海漂林とも言う。マングローブの語源は、マレー語で潮間帯に生育する樹木の総称を表すmangi-mangi(マンギ・マンギ)に、英語で小さい森を表すgroveの合成である。
■シエラレオネ内戦
Sierra Leone CIVIL Warとは西アフリカのシエラレオネ共和国で1991年から2002年まで起きた内戦である。反政府勢力、革命統一戦線(RUF)と政府軍との交戦で、ダイアモンドの鉱山の支配権をめぐって大規模な内戦に発展し、7万5000人以上の死者を出した。
■フォーラー・ベイ・カレッジ
Fourah Bay College, FBCとは、シエラレオネの首都フリータウンの市街の南、フォーラー・ベイにある、西アフリカで最も歴史のある英語系の大学である。現在はシエラレオネ大学 (University of Sierra Leone, USL) となり、同大学カレッジの一校である。公式サイト
■アニー・ウォルシュ・メモリアル学校
Annie Walsh Memorial School)とは西アフリカのシエラレオネにある女子学校。シエラレオネで最も歴史ある古い女子の学校で、現在の校長は1995年からのアントワネット・ロバーツ夫人。1816年英国国教会の宣教社会はシエラレオネのシャーロット山腹にある村の女の子の為に小さな私立学校を開校した。キリスト教の基礎により、若いアフリカの女の子を教育し、訓練し始めた。 記念学校の名の元となっているアニー・ウォルシュはアフリカで宣教師として働く事を夢見ていた若いイギリス人の女の子である。
■テムネ語
Timneは大西洋語群に属する言語である。話者はシエラレオネ(主に北部州)に居住するテムネ族の人々である。周辺部族との間でも、通商語としても使用されている。
■バイ族、バイ文字
ヴァイ族 (Vai)。リベリアとシエラレオネの少数民族。ヴァイ文字:西アフリカのリベリアに住むヴァイ族のヴァイ語を表記するために作られた左から右へ書く音節文字。もとは表意文字であったが音節文字として19世紀の終わりに体系化された。
■マンディンカ族
生物学的、文化的にサハラをまたいで中東から西アフリカにかけて行われた貿易を支配したマリ帝国 の子孫である。現在マンディンカは100万人を超え、ブルキナファソ、コートジボワール、ガンビア、ギニアビサウ、リベリア、マリ、セネガル、シエラレオネなどの西アフリカの国々に定住している。
■マルーン
(Maroon)は西インド諸島、中央アメリカ、南アメリカ、北アメリカの逃亡奴隷である。マルーンの居住地は南はアマゾン川流域から北はアメリカ合衆国のフロリダ州とノース・カロライナ州まで、西半球の広範囲にわたる。
■クリオ
(Krio)とは西アフリカのシエラレオネ共和国に住むクレオール人及びそのクレオール語の呼名である。主に奴隷制度から解放された、解放奴隷の黒人の子孫で、さらにシエラレオネの先住部族や白人の混血も見られる。4万人から8万人のクリオ人がシエラレオネは首都フリータウンがあるフリータウン半島に住む。クリオ人はシエラレオネでは少数派だが西洋文化を身に付け、高い教育も受け、1961年に独立するまではシエラレオネの政治を支配してきたためエリートだった。地元民は1951年に政権を獲得した。
■言語
公用語は英語であり、その他にテムネ語やメンデ語などの各現地部族語、クリオ語と呼ばれる英語を母体にしたクレオール語などが使われる。
■宗教
伝統的宗教(特に南東部地)が40%、イスラム教(特に北部および西部地)が50%で、キリスト教(特に西部地)が10%(プロテスタントがほとんどで、カトリック教は2%程度)である。キリスト教の布教活動は全国的に行われており、またイスラム教の布教も西部地域を中心に活発に行われている。
■教育
主な高等教育機関としては、フリータウンに1827年にイギリスの教会宣教師協会によって設立された、西アフリカで最古の高等教育機関であるフォーラー・ベイ・カレッジが存在する。1876年にイギリスのダラム大学と提携し、1959年にシエラレオネ大学となってイギリス王国から許可を得た。1967年に同大学はフォーラー・ベイ・カレッジとモヤンバにンジャラ・カレッジの2校として設立された。中等教育機関は主にアルバート・アカデミー学校、シエラレオネで最古のカトリック系の中等教育のセント・エドワード学校及びシエラレオネで最古の女子学校アニー・ウォルシュ・メモリアル学校などがある。
■王立アフリカ会社
(Royal African Company) は1672年から1698年まで、奴隷貿易を含む対西アフリカ貿易を独占したイギリスの特許会社。ロンドン商人が中心となり、後にジェームズ二世となるヨーク公を代表として設立された。27年間の独占期間に10万人以上の奴隷をアフリカから北アメリカ・カリブ海植民地に供給した。第一次三角貿易初期の利益を独占したため、ブリストルやリヴァプールの貿易商人からの批判が高まり、1698年独占が廃止された。
■ジハード
イスラームにおいて信徒(ムスリム)の義務とされている行為のひとつ。ジハードは本来、「努力」「奮闘」の意味であり、ムスリムの主要な義務である五行に次いで「第六番目の行」といわれることがある。ジハードは、『クルアーン』に散見される「神の道のために奮闘することに務めよ」という句のなかの「奮闘する」「努力する」に相当する動詞の語根 jahada を語源としており、アラビア語では「ある目標をめざした奮闘、努力」という意味である。
■バプテスト教会
Baptist、は、バプテスマ(浸礼での洗礼)を行う者の意味に由来しており、イギリスの分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの一教派。個人の良心の自由を大事にする。バプテストは17世紀頃にイギリスで始まり、現在ではアメリカ合衆国に最も多く分布している。アメリカ合衆国の宗教人口はプロテスタントが最も多いが、その中で最も多いのがバプテストである。
■プロテスタント
Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。プロテスタントという総称は、その担い手達がローマ・カトリック教会に抗議した事に由来する。
■グランビル・シャープ
Granville Sharp, 1753年11月10日 - 1813年7月6日は、学者及び博愛主義の奴隷制度廃止運動の指導者である。1735年11月10日に副司教のジョン・シャープ(ヨーク大司教トーマス・シャープの息子)の息子として、イギリスのダラムで生まれた。シャープは14人兄弟の1人である。中等学校で教育を受けていたが1753年に15歳でロンドン服地商の徒弟になった。1765年からシャープは奴隷廃止運動に活発に関わる事になる。シャープの兄弟ウィリアムは医者で、ロンドンで貧しい人々に無料で処置をしていた。シャープがウィリアムを訪ねている間、デヴィット・ライルという名の主人から酷く叩かれたジョナサン・ストロングと言う奴隷の黒人青年と出会う。シャープはこの黒人青年を助け、セント・バーソロミュー病院へ連れて行った。ストロングの怪我が治るまで4ヶ月を費やさなければならなかった。
■トマス・クラークソン
Thomas Clarkson, 1760年3月28日 - 1846年9月26日は、英国ケンブリッジ大学の学生にして反奴隷制運動の指導者。論文大会のテーマに「奴隷制」を与えられ、詳細を調べるうちに彼は「もしこれが事実なら、誰かが終わらせなければならないのではないか」と思ったと言われる。これが後の反奴隷制運動に繋がってゆく。当初は自ら論文を出版し、奴隷船の船員、医師の証言を集めるといったことから始めていた。活動の過程において彼の元に脅迫文が届いたり、集団で襲われるといった災難に見舞われたが、それでも活動をやめることはなかった。
■パトリシア・ピッチニーニ
Patricia Piccininiはオーストラリアの芸術家。1965年シエラレオネのフリータウンに生まれ、1972年に家族と共にオーストラリアへ移住した。経済史を学習した後、メルボルンの芸術学校に入校した。彼女のマルチメディア作品にはTruck Babiesシリーズや2003年ヴェネツィア・ビエンナーレのオーストラリア代表作品となった展示物We are Familyがある。ピッチニーニの作品メディアは絵画、彫刻、映像、音声、ジオラマ、デジタルプリントなど幅広い。 その主な主題は彼女が興味を持つ生命倫理、バイオテクノロジー、環境などの世界の問題である。彼女の作品は広く国際的認知を得た。
■バンコール=ブライト
Herbert Christian Bankole-Bright, 1919年8月23日 - 1958年12月12日はシエラレオネ出身のクリオの政治家。1919年、シエラレオネの首都フリータウンに生まれ、ブライトはクリオと呼ばれるクレオールのエリート医師だった。1910年にイギリスから帰国し、1920年に英領西アフリカ国民会議がゴールドコースト(現在のガーナ)で創設された時、ブライトは出席した。1924年にブライト出席のもと、ロンドンで西アフリカ学生同盟が創設された。
■アーネスト・コロマ
Ernest Bai Koroma、1953年10月2日生まれは西アフリカはシエラレオネの大統領。全人民会議 (APC) のリーダーで、2007年8月11日に行われたシエラレオネの大統領選挙に出馬し、9月の決選投票で新しい大統領に選ばれた。公式サイト
■モハメド・カロン
Mohammed Kallon、1979年10月6日 - は、シエラレオネ・ケネマ出身の同国代表サッカー選手。ポジションはFW。15歳でシエラレオネ代表に選出された経験を持ち、22歳頃からは代表のキャプテンも務めている。シエラレオネ・ユース代表などでの活躍により既にその才能を注目されていたが、その名を世に知らしめたのは2001年にインテル・ミラノへ復帰してからである。
■アルバート・マルガイ
(Albert Michael Margai、1910年10月19日 - 1980年12月18日)とはシエラレオネの初代首相だったミルトン・マルガイの異母兄弟でシエラレオネの元内閣総理大臣である。彼は1910年10月10日シエラレオネの南部州モヤンバ地区でメンデ族として生まれた。フリータウンのセント・エドワード中学校で教育され、最初、彼は、1931年から1944年まで看護士として働き、1948年にはイギリスに渡り、法律を学んだ。
■シアカ・スティーブンス
(Siaka Probyn Stevens, 1905年8月24日 - 1988年5月29日)は、シエラレオネの政治家(全人民会議=APCの創立者)でシエラレオネの大統領(任期:1971年 - 1985年)。1958年、9月にスティーブンスはミルトン・マルガイ首相の異母兄弟でもあり彼の後継者のアルバート・マルガイと共にシエラレオネ人民党 (SLPP) を脱退し、人民国家党 (PNP) を結成した。
■ソロモン・ベレワ
(Solomon Ekuma Dominic Berewa、1938年8月6日生まれ)とは西アフリカはシエラレオネの政治家で副大統領であり、シエラレオネ人民党(SLPP)のリーダー。また2007年8月11日〜9月14日間に行われたシエラレオネの大統領選挙での大統領候補の1人として出馬した(結果は落選してしまった)。
■ウォレス=ジョンソン
(Issac Theophilus Akuna Wallace-Johnson, 1894年/1895年 - 1965年5月10日)は西アフリカのシエラレオネ出身のジャーナリスト/政治家。英領西アフリカ(後のガーナ、シエラレオネとナイジェリア)で初めて労働組合を組織し、民族主義のリーダー的存在だった。彼は1894年/1895年シエラレオネのフリータウン半島にあるウィルバーフォースの村で、貧しいクリオ(クレオール)の家族として生まれた。1911年ミッション・スクールに通い中退、18歳で税関職員として勤務したが、シエラレオネの労働組合を組織するのを手伝い、すぐに解雇された。
■ウィンスタンレー・バンコレ・ジョンソン
(Winstanley R.Bankole-Johnson)とは西アフリカはシエラレオネの政治家及びシエラレオネの首都フリータウンの元市長(2004年-2008年)。2004年7月3日フリータウン自治体はフリータウン西の区の議員であるバンコレジョンソンはフリータウンの市議会で市長選挙の結果、フリータウンの新しい市長に選ばれた。バンコレジョンソン新市長は内戦で破壊されたフリータウンの都市を修復し、現在問題になっているフリータウンの都市のいたる所に点在する廃物を取り除いて美しい都市にする事、発展出来るような都市開発を進める専念を宣言をした。
■カディ・ブラック
Khadyja Fofana、1980年6月21日-とは西アフリカはシエラレオネ出身の女性のレゲエミュージシャン、アーティストであり、シエラレオネのNGOの親善大使。1980年6月21日シエラレオネは東部州のコノ地区コイドゥでマンディゴ族の敬虔なイスラム教徒の両親の元、14人いる子供の一番下の娘として生まれて育った。音楽としての才能は5歳の時で、兄弟のスライマンの影響で始めた。家族の強い反発がったが、兄のスライマンは彼女を支え続けた。2005年11月19日に彼女は最も良いレゲエアーティストとしてシエラレオネ政府からTBS音楽賞を獲得した。
■ジョン・ホーキンス
(John Hawkins, 1532年 - 1595年11月12日)は、イングランドの海賊、私掠船船長、奴隷商人、海軍提督。1532年イングランドのプリマスで生まれる。スペインの無敵艦隊を破ったアルマダの海戦の指揮官で海賊のフランシス・ドレークの従兄弟。ホーキンスもアルマダの海戦で活躍した。
■フランシス・ドレーク
(Sir Francis Drake, 1543年頃 - 1596年1月28日)は、エリザベス朝のイギリスの航海者、海賊(私掠船船長)、海軍提督。イギリス人として初めて世界一周を達成し、アルマダの海戦では艦隊の司令官としてスペインの無敵艦隊を撃破した。彼はその功績から、イギリス人には英雄とみなされる一方、海賊行為で苦しめられていたスペイン人からは、悪魔の化身であるドラゴンを指す「ドラコ」として知られた(ラテン語名フランキスクス・ドラコ (Franciscus Draco) から)。
■グランビル・シャープ
(Granville Sharp, 1753年11月10日 - 1813年7月6日)は、学者及び博愛主義の奴隷制度廃止運動の指導者である。1765年からシャープは奴隷廃止運動に活発に関わる事になる。シャープの兄弟ウィリアムは医者で、ロンドンで貧しい人々に無料で処置をしていた。シャープがウィリアムを訪ねている間、デヴィット・ライルという名の主人から酷く叩かれたジョナサン・ストロングと言う奴隷の黒人青年と出会う。シャープはこの黒人青年を助け、セント・バーソロミュー病院へ連れて行った。ストロングの怪我が治るまで4ヶ月を費やさなければならなかった。
■ウィリアム・ウィルバーフォース
(William Wilberforce、1759年8月24日 - 1833年7月29日)は、イギリスの政治家、博愛主義者、奴隷廃止主義者。奴隷貿易に反対する議会の運動のリーダーを務めた。ウィルバーフォースは、1776年にイギリスのケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・カレッジに進んだ。そこで彼は学生たちの集まりに没頭し、学問を深刻に追求しようとする意識はあまり感じなかった。周囲の中でも特に、ウィリアム・ピットと親しくなり、彼との友情は一生のものとなった。
■アンドリュー・ジャクソン=スミス
(Andrew Terence Juxon-Smith, 1933年 - 1996年)は、シエラレオネの准将で、国家改革協議会(NRC)の議長だった人物。彼は解放奴隷の子孫であるクリオ人である。1967年3月17日、シエラレオネ総選挙に勝利した全人民会議(APC)のシアカ・スティーブンスがイギリス総督サー・ヘンリー・ライトフットより首相に指名された。ところが、軍指導者のデヴィッド・ランサナ准将が選挙結果に不満を持つマルガイ派の支持を受けてクーデターを起こし、スティーブンスとライトフットが逮捕された(3月21日)。
■ジョセフ・サイドゥ・モモ
Joseph Saidu Momoh,1937年1月26日 - 2003年8月2日)はシエラレオネの軍人・大統領(在任:1985年11月28日 - 1992年4月30日)である。ボンバリ州ビンコロ出身。1958年に陸軍に入隊し、1973年に軍人のまま国会議員となる。1985年、軍指導者だったモモが一党独裁政治を布いていたシアカ・スティーブンス大統領の後継者に指名され、全人民会議(APC)の党首として選挙で大統領に就任した。しかし、1990年には民主化運動が活発になり、一党独裁政治が崩壊した。
■アハメド・フォディ・サンコー
Alfred) Foday Saybana Sankoh、1937年10月17日 - 2003年7月29日)は、シエラレオネの軍人、ゲリラ活動家。出生や生い立ちは不明。テムネ族の出身でシエラレオネがまだイギリスの植民地時代だった1956年にイギリス西アフリカ陸軍に入隊し、伍長の階級で写真撮影係を担当していた。1971年のクーデター未遂事件に連座して数年間を獄中で過ごし、1977年に釈放され、その後、ガーナへ亡命した。
■ジョニー・ポール・コロマ
(Johnny Paul Koroma、1960年5月9日 - 2003年6月1日)とは西アフリカはシエラレオネ共和国の軍人及び軍事革命評議会(AFRC)の元議長。コロマは1960年5月9日シエラレオネ北東のコノ地区でリンバ族として生まれた。コロマは首都フリータウンで育ち、カトリック系の学校に通っていた。1985年に軍に入隊し、シエラレオネ軍を結集させ、1988年にイギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校で学生の役人として差し向けられていた。
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シエラレオネ Sierra Leone
西アフリカの西部、大西洋岸に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にギニア、南東にリベリアと国境を接し、南西は大西洋に面する。首都はフリータウン。
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■フリータウン
freetownは、シエラレオネ共和国の首都。同国最大の都市である。人口は2004年時点で107万人。同国南西部のフリータウン半島に位置し、シエラレオネ川の西に大西洋を臨む港湾都市。クィーン・エリザベス2世・キー(埠頭)はフリータウン最大の公共交通機関である。1787年にグランビル・シャープを中心にトマス・クラークソン、ウィリアム・ウィルバーフォースら奴隷制度廃止主義者らにより、奴隷貿易廃止促進協会が結成され、「自由の国」をスローガンとしたイギリスの解放奴隷の黒人らによるシエラレオネの入植計画が始まった。
外務省:シエラレオネ共和国
在ガーナ日本国大使館兼轄
■ルンギ国際空港
Lungi International Airportとは、シエラレオネ共和国の首都、フリータウンから入り江を渡ったルンギにある国際空港。
■コイドゥ
Koidu Townは、シエラレオネの都市。近郊にダイアモンド鉱脈があり開発が進んだが、一時は内戦によって荒廃した。シエラレオネ第四の規模を有する都市であり、人口は約11万2千人(2004年)。かつてはシエラレオネ第3の規模を有する都市であったが、シエラレオネにおける内戦において、そのダイアモンドをめぐり熾烈な戦場となったために街が荒廃した。
■ボー
Bo Townは西アフリカ・シエラレオネの都市。2012年の推計人口は233,684人。首都フリータウンに続いてシエラレオネ第2の規模を誇る都市で、南部州の州都及びボー地区の中心地である。1889年には既にボーとフリータウンを結ぶ鉄道が通り、また1906年ボー政府が男子中学校であるボー学校をここに設立した際にシエラレオネの教育の中心の一つとして機能した。
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■ケネマ
(Kenema)は、シエラレオネの都市。東部州 (シエラレオネ)の州都でケネマ地区の主都でもあり、首都フリータウンとボー (シエラレオネ)に次ぐシエラレオネ第3の都市である。人口169,937人(2006年)。ケネマはダイヤモンド交易の中心都市であり、コイドゥと並んでシエラレオネ東部の経済的中心地である。
■マケニ
Makeniは、シエラレオネの都市。人口105,900人。シエラレオネ中部に位置し、首都フリータウンから北東に177km離れている。北部州 (シエラレオネ)の州都であり、その一部であるボンバリ地区の中心地である。シエラレオネではフリータウン、ボー、ケネマ、コイドゥに次ぐ5番目の都市である。
■ウェリントン
(Wellington)とは西アフリカはシエラレオネにある町。人口は220,628人で、フリータウン半島の西部地域にあり、フリータウンの東に隣接した郊外に位置する。町の周辺は46haの用意を持つウェリントン工業団地となっており、投資を促すため、1960年11月10日に政府によって造成された。
■ポート・ロコ
(Port Loko)は、シエラレオネの都市。人口21,961人(2004年)[1]。北部州 (シエラレオネ)に属し、ポート・ロコ地区の主都である。首都フリータウンからは72km北東に位置する[2]。ポート・ロコの住民はテムネ人が多く、町で一番使われる言語はテムネ語で、シエラレオネの共通語であるクリオ語が次ぐ。
■ウォータールー
(Waterloo)とは西アフリカシエラレオネにある人口19,750人の町。フリータウン半島の西部地域に位置し、首都フリータウンの郊外にある解放奴隷のクリオの町の一つである。1998年シエラレオネ内戦で、ウォータールーは西アフリカ諸国経済共同体の西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)とフリータウン侵略をする革命統一戦線(RUF)との間で激しい戦闘をしていた。町は内戦で破壊され、大勢の難民が押し寄せ、難民テントが立ち並んでいた。
■ウォータールー・パートナーシップ
(Waterloo Partnership)とは西アフリカは内戦で破壊されたシエラレオネにある町、ウォータールーを助けるために、イギリスはリヴァプール郊外のウォータールーで設立された慈善の団体。目的はシエラレオネでの内戦で破壊されたウォータールーの復興及び、人道援助などである。ウォータールーは革命統一戦線(RUF)との戦闘で破壊された。
■ケネマ
(Kenema)は、シエラレオネの都市。東部州 (シエラレオネ)の州都でケネマ地区の主都でもあり、首都フリータウンとボー (シエラレオネ)に次ぐシエラレオネ第3の都市である。人口169,937人(2006年)。ケネマはダイヤモンド交易の中心都市であり、コイドゥと並んでシエラレオネ東部の経済的中心地である。
■ボー
Bo Town)は西アフリカ・シエラレオネの都市。2012年の推計人口は233,684人。首都フリータウンに続いてシエラレオネ第2の規模を誇る都市で、南部州の州都及びボー地区の中心地である。1889年には既にボーとフリータウンを結ぶ鉄道が通り、また1906年ボー政府が男子中学校であるボー学校をここに設立した際にシエラレオネの教育の中心の一つとして機能した。
■ヘイスティングズ
(Hastings)とはアフリカ、西アフリカのシエラレオネ共和国・西部地域都市地区の小さな町。人口約8,300人。北緯8度23分、西経13度8分に位置する。フリータウン半島に位置し、市内に国内線の空港(ヘイスティングズ空港)がある。イギリス植民地時代の建造物が残るが、内戦の影響で、町の建物の多くは破壊されてしまった。
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■マグブラカ
Magburaka)は、シエラレオネの都市。人口56,313人(2004年)。国土のほぼ中央に位置する。北部州 (シエラレオネ)に属し、トンコリリ地区の主都である。北部州では州都マケニについで2番目に大きな街であり、シエラレオネ全体でも6番目に大きな街である。
■西部地域
The Western Area)は西アフリカシエラレオネにある地域で、北部州、東部州、南部州とは別に分けられて、首都フリータウンがあるフリータウン半島を占める地域である。さらに西部地域は都市地区と地方地区の2地区に分かれ、フリータウンの地方自治体によって治められている。西部地域の面積は557Km2で、人口に950,924人いる。
■東部州
(Eastern Province)は西アフリカのシエラレオネの州である。シエラレオネの東部、ギニアとリベリアと国境を接した場所に位置し、面積は15,553Km2で人口は1187532人(2004年)である。
■北部州
(Northern Province)とは西アフリカのシエラレオネにある州。シエラレオネ北部ギニアと国境を接し、シエラレオネで最も大きい州である。面積は35,936Km2で人口は1,718,240人(2004年)州都はマケニ(Makeni)。
■南部州
(Southern Province)は西アフリカはシエラレオネにある州。シエラレオネ南部リベリアと国境を接した場所に位置し、面積は19,694Km2で、人口は1,106,602人。
■国名
正式名称は英語で、Republic of Sierra Leone(リパブリック・オブ・シエラ・リオン)。通称、Sierra Leone(シエラ・リオン)。国名は、ポルトガル語のSerra Leao(ライオンの山)をスペイン語に翻訳した言葉Sierra Leó剋から来ている。「ライオンの山」と名付けられた理由については、諸説ある。現在のフリータウン付近にいたポルトガル人が、山の方からライオンのように轟く雷鳴が聞こえたため名付けたという説や、山から海へ吹き降ろす風がライオンの咆哮に似ているので名付けたという説などがある。
1.面積:71,740平方キロメートル
2.人口:約600万人(2008年、UNFPA)
3.首都:フリータウン(FREETOWN)
4.民族:メンデ族、テムネ族、リンパ族、クレオール(黒人と白人との混血)
5.言語:英語(公用語)、メンデ語、テムネ語他
6.宗教:イスラム教60%、キリスト教10%、アニミズム信仰30%
18世紀末 イギリス等からの解放奴隷の居住地となる
1808年 イギリス領植民地
1961年4月 イギリス連邦の一員として独立
1971年4月 共和国となる
1978年5月 新憲法制定、単一政党制導入
1986年1月 モモ大統領就任
1987年3月 クーデター未遂
1992年4月 軍事クーデター
1992年5月 ストラッサー大尉を議長(元首)とする暫定政府発足
1996年1月 ビオ准将による無血クーデター
1996年2月 大統領・議会選挙
1996年3月 カバ大統領就任
1997年5月 軍事クーデター
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1997年6月 軍事革命評議会議長であるコロマ少佐が国家元首に就任
1998年3月 軍事革命評議会が駆逐されカバ大統領がフリータウンに帰還
1999年7月 ロメ和平合意が成立
1999年10月 国連安保理は、ロメ和平合意を実施するための「国連シエラレオネミッション(UNAMSIL)」の派遣を決定
2000年5月 RUF(革命統一戦線)による国連PKO要員500名の拘束事件が発生
2000年11月 シエラレオネ政府、RUF間で停戦合意成立
2001年5月 武装解除の実施方法について政府、RUF間で合意成立
2002年1月 カバ大統領が武装解除完了宣言
2002年3月 カバ大統領が国家非常事態の終了宣言
2002年5月 大統領・議会選挙実施。現職のカバ候補が圧倒的多数の得票率で再選
2004年2月 カバ大統領がDDR委員会の解散を宣言
2005年12月 UNAMSIL完全撤退
2006年1月 「国連シエラレオネ統合事務所(UNIOSIL)」活動開始
2007年8月 大統領・議会選挙実施
2007年9月 大統領選挙決選投票実施。コロマ大統領就任
2008年12月 「国連シエラレオネ総合平和構築事務所(UNIPSIL)」活動開始
2009年3月 与野党支持者間の衝突による「3月暴動」発生
2009年4月 UNIPSILの仲介で与野党の共同コミュニケ発足
■主要産業:鉱業(ダイヤモンド等)、農業(コーヒー、ココア)
■主要貿易品目(1)輸出 ダイヤモンド、金紅石、ボーキサイト、ココア(2)輸入 石油、米
■レオン
(Leone) は、シエラレオネ共和国の通貨単位。レオネとも呼ばれる。1964年、西アフリカ・ポンドに代わって導入された。(1ポンド=2レオン)
■共和制
republic)は、人民または人民の大部分が統治上の最高決定権を持つ政体。一般には、政府の大半の意思決定が元首の裁量によってではなく、成立した法を参照して行われる体制のこと。このため現在では君主制は共和制では無いとされる場合が多く、現代の一般的な定義では「共和制とは君主ではない元首を持っている政体」である。
■シエラレオネ人民党
Sierra Leone People's Party、SLPPとは西アフリカはシエラレオネ共和国の政党。独立以来、シエラレオネの政治をほぼ、支配して来いる。現在のリーダーはシエラレオネの副大統領ソロモン・ベレワ。シエラレオネ人民党(SLPP)はシエラレオネ南部に住む先住民部族メンデ族主体の党である。
■シエラレオネ国民会議
National Council of Sierra Leone, NCSLは西アフリカのシエラレオネの政党で1950年代前半の主な野党であった。主にシエラレオネの西部地域のクリオ(クレオール)が主体の政党で、1950年8月にクリオの利益を代弁するクリオのエリート医者バンコール=ブライトとウォレス=ジョンソンらがスティーブンス憲法(当時のハーバード・スティーブンソン総督の名から取った憲法案で、1947年に立法評議会におけるアフリカ人非政府議員枠や保護国割り当て議員枠の拡大を定めた通称スティーブンソン憲法の草案。
■全人民会議
(All People's Congress、APC)は、シエラレオネの政党。中道左派。シエラレオネ人民党と二大政党を構成する。シアカ・スティーブンス政権、およびアーネスト・コロマ政権における与党である。全人民会議は1960年、シアカ・スティーブンスによって設立された。
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■西アフリカ諸国経済共同体
Economic Community of West African States、は、1975年のラゴス条約に基づき設立された経済共同体。略称は英語でECOWAS、仏語ではCEDEAO。関税障壁の撤廃や貿易振興などを通じた経済協力、独立の保障などを通じて、加盟国の経済・生活水準向上や政治的安定を図ることを目的とする。
■人民民主改革運動
(People's Movement for Democratic Change、PMDC)とは西アフリカはシエラレオネの政党。本部はフリータウンに置かれている。党のカラーはオレンジ色。2006年1月19日に設立された新しい党で、党のリーダーはチャールズ・マルガイである。マルガイは2007年8月に行われたシエラレオネの大統領候補として大統領選挙にも出馬した。
■アフリカ統一機構
Organisation of African Unity, OAU は、かつて存在した国際組織。国連憲章と世界人権宣言を尊重し、アフリカ諸国の統一と連帯を促進し、人民の生活向上のための相互協力・調整、国家の主権と領土を守り、独立の擁護、新植民地主義 (Neocolonialism) と闘うことが目的。1963年5月25日発足。2002年7月9日にアフリカ連合へ発展した。
■革命統一戦線
Revolutionary United Front、略称RUF)とは、かつてシエラレオネに存在した反政府武装集団である。シエラレオネ内戦に深く関与し、一般市民の虐殺・暴行、都市の破壊、各国の調停団を拘束するなどの行動が国際的な非難を浴びた。内戦終結後は革命統一戦線党(RUFP)として政党に改組したものの、党勢はふるわず、2007年に全人民会議(APC)と合併した。
■経済
シエラレオネは1930年にダイヤモンドが発見されて以来、ダイヤモンド採掘を基盤とした輸出国である。シエラレオネ特別企業合同は、25年間ダイヤモンドの探査権を独占し、利益の多くを政府に上納していた。しかし、同時に大部分のダイヤモンドが密輸出されている。ダイヤモンドの他に、ボーキサイトや金紅石(ルチル)、ジルコンなどの鉱物の産出国でもある。ボーキサイトは1963年以来、シエラレオネ鉱石・金属会社により採掘が始められている。チタンを含むルチルの採掘は1967年に始まったが、1971年中止された。しかし1979年にシエラチルズ社が生産を再開した。農業では米、アブラヤシ、ラッカセイ、コーヒー、ココアなどが主に行われている。漁業はフリータウン半島などで盛んである。
■国民
住民は、90%がアフリカ系(最大部族であるテムネ族とメンデ族の2部族を中心にリンバ族、ロッコ族、マリンケ族、スス族、バイ族、マンディンカ族などの現地民族)で、10%がクリオと呼ばれるクレオールである。首都フリータウンのあるシエラレオネ半島に住んでいる。
■ミルトン・マルガイ
Milton Augustus Strieby Margai、1895年12月7日 − 1964年4月28日はシエラレオネの政治家(SLPPの創立者)で、初代首相である。彼は1895年にイギリス保護領のシエラレオネ南部のメンデ族の裕福な商人の息子として、またメンデ族の戦士長の孫として生まれた。福音同胞教会学校で教育を受け、中等学校はアルバート・アカデミーに入り、大学では1921年にフォーラー・ベイ・カレッジで歴史の学士号を獲得。その後イギリスに留学し、ダラム大学とキングス・カレッジで修士学位を取得。1926年に保護領での最初の医者になるため、医学を学び卒業した。
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■サミュエル・ルイス
Davidson Sylvester Hecto Willoughby Nicol、アビオセ・ニコル、Abioseh Nicolとも呼ばれる。1924年9月14日 - 1994年9月20日は西アフリカはシエラレオネ出身の外交官及び作家。1924年9月14日にシエラレオネのフリータウンで生まれで、子供の頃は父親の仕事の都合でナイジェリアで過ごしていた。1943年にイギリスに渡りケンブリッジ大学のクライスト・カレッジで医学を学び、ロンドンの病院に勤務していた。1956年にアフリカに戻り、マーガレット・ロング文学賞を受賞。ナイジェリアや祖国シエラレオネで大学や研究所、政府公衆衛生機関などの医療関係の仕事に就いていた。
■アフマド・テジャン・カバー
(Alhadij Ahmad Tejan Kabbah, 1932年2月16日 - )は、シエラレオネの元大統領(任期は1996年 - 1997年と1998年 - 2007年)。シエラレオネの東部州カイラフン地区で敬虔なムスリムの親の元で生まれた。ムスリムだったが、フリータウンにあるシエラレオネで最も古いカトリック教系のセント・エドワード中学校で教育を受けていたので、カバー大統領はカトリック教徒である。
■コリン・パウエル
(Colin Luther Powell, 1937年4月5日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。元軍人(退役陸軍大将)。ニューヨーク市サウス・ブロンクス地区出身。在米ジャマイカ人2世。学位は経営学修士。称号はイェシーヴァー大学名誉博士。2008年アメリカ大統領選挙では、オバマがムスリム(イスラム教徒)の家系であり、オバマ自身もそうだと強調したことについては、「共和党の中にはオバマ議員がムスリムだという者がいる。正しい答えは、彼はキリスト教徒なので違う。彼はずっとキリスト教徒だった。だが、もっと正しい答え方は、『彼がそう(ムスリム)だとして、(それがどうした)』というものだ。この国ではムスリムであることがいけないのか。もちろん否だ、米国ではそんなことは問題ではない。7歳のムスリムの米国人たる子供が将来大統領になろうと思ったとして、一体どこに問題があるのか。」と言った。バラク・オバマが大統領になった時は「アフリカ系アメリカ人の歴史を考えれば、非常に感動した」と涙を目に浮かべた。
■バレンタイン・ストラッサー
(Valentine Esegragbo Melvine Strasser、1967年4月26日生まれ)はシエラレオネの軍人、政治家。元国家最高評議会議長。ストラッサーは1967年にフリータウンで解放奴隷の子孫クリオとして生まれた。この若いシエラレオネの軍人は、1992年に25歳の時、彼と同じ若い将校のグループと共に軍事クーデターを起こし、大統領だったジョセフ・サイドゥ・モモとモモ政権の基盤だったAPCを倒しモモから政権を手に入れ、シエラレオネの元首になった。その際、国家暫定統治会議(NPRC)を設立している。
■ロバート・C・マッケンジー
(Robert Callen MacKenzie, 1948年11月30日-1995年2月24日、Bobは愛称)はアメリカの退役軍人。ローデシアSAS、南アフリカ国防軍などに所属した他、シエラレオネコマンド部隊の司令を務めた。1965年アメリカ陸軍に入隊し、ベトナム戦争に参戦した。マッケンジーは司令官としてGSG社のグルカ兵とともにシエラレオネ入りを果たしたが、マラル・ヒルにおいてRUFの待ち伏せ攻撃を受け死亡した。
■チャールズ・マルガイ
(Charles Francis Kondo Margai、1945年8月19日生まれ)とは西アフリカのシエラレオネの弁護士及び政治家で、2006年に結成された人民民主改革運動(PMDC)のリーダー。2007年8月に行われるシエラレオネの大統領選挙に出馬した。1953年から1958年までフリータウンのカトリック教系のセント・エドワード小学校に通い、1959年から1964年までボーのキリスト教系の中学校に通った。1964年から1966年までは短期大学でアイルランドのブラックロック・カレッジに出席し、1966年から1970年までダブリンの民事法の大学で法学を学んだ。
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