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モザンビーク共和国
Republic of Mozambique
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■地理
国土はザンベジ川によって地勢上二つの地域に分かれる。ザンベジ川の北ではなだらかな海岸線が内陸部に入って丘陵や低い台地となり、さらに西に進むとミオンボ森林に覆われたニアサ高原やナムリ高原(シレ高原)、アンゴニア高原、テテ高原、マコンデ台地のような険しい高原となる。ザンベジ川の南では、低地は広く、マショナランド台地とレンボ山地が深南部に存在する。マダガスカル島とはモザンビーク海峡を挟んで向かい合う。国内最高峰はビンガ山(2,436m)。
■インド洋
Indian Oceanは、太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つである。三大洋中最も小さい。面積は約7340万平方km、沿海との合計面積は7410万平方kmである。地球表面の水の約20パーセントが含まれる。
■モザンビーク島
モザンビーク北部のモザンビーク海峡とモスリル湾の間に位置する島。約14000人が住んでいる島で、かつてポルトガルの植民地だったときにはモザンビークの中心的な都市として機能していた(都市名は国名と同じ「モザンビーク」である)。1522年にはノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂が建てられた。この礼拝堂は、南半球における現存最古のヨーロッパ建築と見なされている。
■モザンビーク海峡
Mozambique Channel、はアフリカ南東部、モザンビーク共和国とマダガスカルとの間にあり、長さ約1,600km、幅400〜800kmの海峡。ヨーロッパとアジアを結ぶ航路として重要であり、北部にコモロ諸島(コモロおよびフランス領マヨット)、南部にバサス・ダ・インディア島、ユローパ島などの島がある。北から南へモザンビーク海流が流れる。
■コモロ諸島
Comoros Islands)は、アフリカ大陸東南部、マダガスカル島とモザンビークの間にある諸島。主にグランドコモロ島(ンジャジジャ島)、アンジュアン島(ムズワニ島)、モヘリ島(ムワリ島)、マヨット島の4島から成り、最大の島はグランドコモロ島。このうち前者3島はコモロ、マヨット島はフランスの統治下にある。この諸島の近海でシーラカンスが発見され、一躍この地は有名になった。
■マラウイ湖
Malawi)、タンザニアとモザンビークではニアサ湖 (Nyasa、Nyassa、Niassa) 、はアフリカ東南部にある湖で、アフリカ東部を縦断する大地溝帯(グレート・リフト・バレー)の南端部に位置する。面積はアフリカで3番目、世界で9番目の広さである。深さはアフリカで2番目に深い。
■リンポポ川
Limpopo Riverは、アフリカ大陸南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は約1,600kmある。ジンバブエとボツワナの境界付近に源を発し大きな弧を描くように流れ、水源から最初は北東へ向かい、途中から東に流れが変わっていく。最終的には南東方向に流れてモザンビークのシャイシャイ付近でインド洋に注ぐ。
■ザンベジ川
(Zambezi River)は、アフリカ南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は2,750km。ナイル川、コンゴ川、ニジェール川に次ぐアフリカで4番目の長さの川である。ザンビア北部に源を発し、アンゴラ、ザンビア、ナミビアと流れた後ザンビアとジンバブエ国境を流れ、モザンビークに入りインド洋のモザンビーク海峡に注ぐ。途中には世界三大瀑布の一つ、ヴィクトリア滝や、ほかにチャヴマ滝(Chavuma)、ンゴニェ滝(Ngonye)もある。
■シーレ川
(Shire River)は、アフリカ大陸南東部を流れる全長402kmの河川で、ザンベジ川の支流である。マラウイ湖南端より流出し、マラウイおよびモザンビーク領内を流れ、ザンベジ川に合流する。合流点付近は大規模な湿地帯となっている。マラウイ湖のすぐ南でマロンベ湖にも接続している。
■ビンガ山
ビンガ山とはモザンビークの最高地点であり、標高は約2,436mである。この山はジンバブエとの国境近くのシマニマニ山塊、マニカ州州都シモイオの西に位置している。
<歴史>
■約300万年前
人類が居住し生活していた。紀元前後には、サン(ブッシュマン)が居住していたが、バントゥー系アフリカ人諸部族が広範囲に分布するようになった。紀元前1世紀にはギリシャ人・ローマ人が沿岸部住民と交易するようになった。8世紀にはアラブ商人が金・銀を求めて港に現れるようになった。 この地域での歴史は、11世紀から19世紀の部族連合国の王の称号からアラブ人の商人が通称した、モノモタパ王国にさかのぼる。
■ポルトガル植民地時代
1498年にポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてこの地に到達したのをきっかけに、16世紀初頭より、ポルトガルの植民が始まり、17世紀半ばにはポルトガルの植民地支配が確立し、ポルトガル領東アフリカの首都はモザンビーク島に置かれた。モザンビークからは遥か遠くのブラジルにまで黒人奴隷が連行された。
■19世紀
1858年にポルトガル領では奴隷制度が廃止されたものの、劣悪な労働環境による契約労働制により事実上の奴隷労働制度が続いた。19世紀末に進んだアフリカ分割の中でポルトガルはモザンビークとアンゴラを横断しようとする「バラ色地図」計画を発表したが、1890年にイギリスの圧力に屈したポルトガルはザンビアとジンバブエとマラウイの領有を諦め、1891年の条約で現在のモザンビークの領域が確立された。
■脱植民地化時代
アフリカ諸国のヨーロッパ諸国からの独立の波がモザンビークにも押し寄せた。ポルトガルのアントニオ・サラザール政権は1951年にモザンビーク等のアフリカ植民地を「海外州」と呼び変え、植民地支配に対する国際社会の非難を避けようとした。しかし、形式上の本国との対等の地位と、事実上の植民地政策の矛盾は隠せるものではなく、モザンビークでも1964年9月に、エドゥアルド・モンドラーネを議長としたモザンビーク解放戦線(FRELIMO)がタンザニアを拠点に武装闘争を開始し、モザンビーク独立戦争が始まった。
■1969年
モンドラーネは暗殺されたが、サモラ・マシェルらが後を継いで独立戦争を継続し、約10年を経てポルトガル本国でのカーネーション革命がきっかけとなり、1975年6月25日にモザンビークはモザンビーク人民共和国として完全独立を果たした。
■独立と内戦
1980年にローデシアが崩壊し、黒人国家ジンバブエが独立すると、アフリカにおける反共の砦を自認していた南アフリカ共和国はローデシアに代わってモザンビークとアンゴラの社会主義政権に対して不安定化工作を発動した。
■1989年
東側諸国の勢力低下と合わせてモザンビーク政府は社会主義体制の放棄を決定し、翌1990年に複数政党制と自由市場経済を規定した新憲法を制定した。さらに、1990年から1991年にかけての大旱魃の影響もあり、和平交渉の結果、1992年に和平協定がローマで締結され、内戦は終結した。
■内戦終結以降
1994年10月に国際連合モザンビーク活動(ONUMOZ)の支援の下、複数政党制による大統領選挙及び議会選挙を実施された。
1995年に南アフリカやジンバブエなど、周辺の英語圏諸国との経済的結びつきを深めるため、それまでオブザーバーとして参加していたイギリス連邦に正式に加盟した。翌1996年にはポルトガル語世界(ルゾフォニア)との結びつきを深めるためにポルトガル語諸国共同体に加盟した。
■2003年
シサノはアフリカ連合の第2代総会議長に選出された。他方、HIV/AIDSの蔓延や、慢性的な医師不足の改善は進まず、国民の教育水準も低いままに留まった。
■2005年
大統領選挙では、与党FRELIMOからアルマンド・ゲブーザが新たに大統領に就任した。ゲブーザは2009年の大統領選挙でも勝利した。
■マラビ帝国
Maraviは、 16世紀頃から19世紀末まで存在したアフリカの帝国である。16世紀ごろに、現在のマラウイにあるマラウイ湖周辺のバントゥー系民族により建国された。マラビ帝国の領土は非常に大きく拡大し、北はトゥンブカ族とトンガ族の領土を含み、南はシーレ川下流域まで、西はルアングワ川やザンベジ川流域まで達したといわれる。
■奴隷制
一般に人格を否認され所有の対象として他者に隷属し使役される人間、つまり奴隷が、身分ないし階級として存在する社会制度。有史以来あまねく存在したが、時代的・地域的にその現われ方は複雑かつ多様であった。抽象的にいえば生産力発達が他人の剰余労働搾取を可能とした段階以降の現象であり、始原的には共同体間に発生する戦争捕虜、被征服民に対する略奪・身分格下げ、共同体内部の階層分化、成員の処罰や売却、債務不払いなどが供給源であった。
■民族
マクア・ロムウェ人が40%、マコンデ人、シャンガーン人、ショナ人、スワジ人などのバントゥー系黒人の諸民族が国民全体の99.66%を構成し、その他メスチーソ(黒人と白人の混血。ムラート)が0.2%、インド人(印僑)が0.08%、ポルトガル系モザンビーク人を主とする白人が0.06%とごく少数の非黒人系マイノリティが存在する。2007年現在では1,500人から12,000人に達する規模の中国系コミュニティが存在するとも推定されている。
■マコンデ族
タンザニア南部からモザンビーク北部に住む、バントゥー語族の部族。木彫りの伝統を持つことで有名。マコンデ語のほか両国の公用語のスワヒリ語もしくはポルトガル語を話す。過去から木彫りを部族の伝統としており、現在でも木彫り職人の多くがマコンデ族である。入れ墨は額と頬に波型のパターンを刺し、女性(集団により男性)は上唇に穴をあけて棒を通す習慣があった(現在は全く行われていない)。
■シャンガーン人
主にモザンビークのマプト州及びガザ州に居住する大規模な民族集団であり、南アフリカ共和国のリンポポ州にも大規模なシャンガーン人の集団が存在する。南アフリカではシャンガーン人はツォンガ人と呼ばれる。
■ショナ人
(Shona people)は、南部アフリカの民族。バントゥー系。ジンバブエの人口の4分の3を占め、多数派を形成している。9世紀ごろ、北方から現在の居住地域に定住した。マプングブエやグレート・ジンバブエなどの巨大な都市を建造し、金の採掘とインド洋地域との交易によって富を蓄え、モノモタパ王国を築いた。
■スワジ人
Swaziは、南部アフリカの民族である。バンツー語群に属し、スワジ語を使う。スワジランドより南アフリカ共和国に多く居住している。
■ヤオ族
タンザニア南部、モザンビーク北部、マラウイ南部に住むバントゥー系の部族。インド洋沿岸のアラブ商人との交易によって勢力を築いた部族で、その影響から現在でもイスラム教徒が多い。現在のモザンビーク北部ニアサ州からタンザニア南部ルヴマ州にかけての領域に住んでいたヤオ族は、19世紀頃には衰退したマラビ帝国に代わりマラウイ南部地域まで勢力を拡大した。
■言語
公用語はポルトガル語である。その他、バントゥー諸語(マクア語、ツォンガ語、ニュングウェ語、チェワ語、ショナ語、ロムウェ語、マコンデ語等)やスワヒリ語も使われる。
■マクア語
(Makhuwa)は、ニジェール・コンゴ語族のバントゥー語群に属する言語である。話者は主にモザンビーク内のザンベジ川北側のナンプーラ州やカボ・デルガード州に居住するマクア族の人々であり、タンザニア南東部にも話者がみられる。話者人口は約300万人である。
■バントゥー語群
Bantuという言葉はW. H. I. Bleek(1827-1875)が最初に用いたもので、多くの言語で人を表す -ntu (または -tu )と、いくつかの言語で複数を表す ba-(つまりba-ntu は「人々」の意味)から造語されたものである。アフリカの広い範囲で話され、互いに共通性のある一群の言語で、系統的にはニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群に含められる。
■チェワ語
Chichewa)とは、マラウイの国語(公用語は英語)で、マラウイ中南部を中心に、モザンビーク(テテ州など)やザンビア(東部州やルサカを中心に)で話されている。バントゥー系の言語であり、ニャンジャ語と言われることもある(別の言語として扱われることもあるようである)。
■ショナ語
(ショナ語: chiShona)は、バントゥー語群に属する言語である。ジンバブエやザンビア南部に住むショナ人の母語である。ジンバブエにおいて、ショナ語は北ンデベレ語や公用語の英語と同様に主要な言語である。
■マコンデ語
(Makonde、ChiMakonde)は、バントゥー語群に属する言語である。話者は、タンザニア南東部やモザンビーク北部に居住するマコンデ族の人々である。ヤオ語とは言語分類的に近い関係にある。フランス領のマヨット島にも話者が存在する。
■スワヒリ語
Kiswahili)は、ニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群(英語版)のバントゥー語群 に属す、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語。ケニア、タンザニア、ウガンダでは公用語となっている。
■ツォンガ語
Tsongaは、南部アフリカで話されているバントゥー系言語である。
南アフリカ共和国では165万人が話し、11の公用語の1つである。モザンビークでは150万人が話す(ただしモザンビークの公用語はポルトガル語のみ)。
■ロムウェ語
Lomwe languageは、主にモザンビーク中部のザンベジア州と、マラウイの南東部で使用されている言語で、マクア語やチェワ語と言語分類的に近い関係にある。ロムウェ族は、モザンビークのザンベジア州の主要な民族であり、また、マラウイに住む4大民族の1つでもある。マラウイ-モザンビーク国境地域に住んでいるマラウイのロムウェ族には、1930年代のモザンビークでの部族間闘争に追われてモザンビークからマラウイに移住したという歴史的背景がある。
■象牙
ゾウの長大に発達した切歯(門歯)である。多くの哺乳類の「牙」と称される長く尖った歯は犬歯が発達したものであるが、ゾウの牙は門歯が発達したものである点が異なる。ゾウの生活において象牙は鼻とともに採餌活動などに重要な役割を果たしている。材質が美しく加工も容易であるため、古来工芸品の素材として珍重されていた。
■モノモタパ王国
(Monomotapa、1450年頃 - 1629年)は、ジンバブエを中心にアフリカ南部のザンベジ川流域を支配した王国。ムタパ、ムニュムタパとも。早い時期からポルトガルとの関係を深め、黄金の国としてヨーロッパでその名が知られた。ただし、実際には金だけでなく象牙・ビーズと織物の遠隔地貿易を掌握することで栄えた。16世紀以降をマンボ王国と呼ぶこともある。1629年にポルトガルによって征服された。
■ソファラ
かつてのフラ山に都したモノモタパ王国の主要港であった。モザンビークのソファラ州のソファラ堆に位置している。南部アフリカで最古とされる港であり、中世ソファラはその名をインド洋に注ぐソファラ川(ブジ川)からとった。ヴァスコ・ダ・ガマの同僚トメー・ロペスはソファラを聖書のOphirとそのかつての統治者シバの女王の王朝と結びつける物語を残している。しかし、その意見はジョン・ミルトンが『失楽園』で言及してから放棄された。
■カトリック
Catholic)とは、公同、普遍、普公とも訳される、キリスト教の概念の一つ。教会論の中で、豊富な歴史と、幾つかの意味がある。公同を奉じる主義思想は カトリシズムと呼ばれる。カトリック(公同、普遍、普公)の語を最初に用いたのはアンティオキアのイグナティオスであり、「イエス・キリストのいるところに、カトリック教会がある。」と述べている。
■イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。
<世界遺産>
■モザンビーク島
モザンビーク島は、モザンビーク北部のモザンビーク海峡とモスリル湾の間に位置する島。約14000人が住んでいる島で、かつてポルトガルの植民地だったときにはモザンビークの中心的な都市として機能していた(都市名は国名と同じ「モザンビーク」である)。1498年にヴァスコ・ダ・ガマが到達するよりもずっと前から、ここはアラブ人の港であり、造船所でもあった。
■モザンビークの音楽
宗教的表現から伝統的儀式まで多くの意図を果たしている。楽器は往々にして手作りである。木と動物の皮で作られる太鼓や、動物の角か木で作られる木管楽器ルンペベ(lupembe)、モザンビーク土着のシロフォンの一種であるマリンバなどがモザンビーク音楽の表現に用いられる。マリンバは南部中央海岸のショピ人の一般的な楽器であり、彼等は音楽スキルとダンスで有名である。
■マラベンタ
マラベンタとはモザンビークのダンス音楽の形式である。かつてロレンソ・マルケスと呼ばれていたころのモザンビークの首都マプトで発達した。名前はポルトガル語のrebentar (土地の言葉ではarrabentarとなる)に由来し、意味は「破壊すること」である。マラベンタはモザンビークとポルトガルの民謡と西洋のポピュラー音楽の影響を受けている。
■カリンバ
(KalimbaまたはCalimba)とは、親指ピアノ(thumb piano)の名前でも知られるアフリカの楽器の一つ。板や箱の上に並んだ鉄や竹の棒を親指の爪ではじいて演奏する。形状も作る人によって様々で、並んでいる棒の数すら決まっていない。棒の部分に金属片が付けられたり、箱にビンのふた等が付けられたりして、振るだけでも鳴る。
■エウゼビオ
Eusebio da Silva Ferreira, 1942年1月25日 - は、モザンビーク・ロレンソマルケス(現在のマプト)出身、ポルトガル国籍のサッカー選手。ポジションはFW。現役当時、日本のマスコミ等では「オイセビオ」と表記されていた。これは当時の日本代表コーチのデトマール・クラマーがスペルの「Eusebio」をドイツ語読みで「オイセビオ」と読んだのが由来とされる[1]。黒豹(The Black Panther)または黒い真珠(The Black Pearl)の愛称で呼ばれた[2]1960年代から1970年代を代表するフォワード。同時代にプレーしたペレとも並び賞された選手で、現役通算727試合に出場し715得点を記録した。
■ジョゼ・クラヴェイリーニャ
Jose Craveirinha,1922年5月22日-2003年2月6日とは、モザンビークのマプートで生まれ、今日同国で最も偉大だと考えられている詩人である。ポルトガル人の父とロンガ人の黒人の母の間に生まれたメスチーソ(ムラート)であり、クラヴェイリーニャはポルトガル語とポルトガル文化によって育った。彼の詩はポルトガル語で書かれ、人種主義やポルトガルによるモザンビークの植民地支配などの題材を取り扱った。彼はアフリカにおけるネグリチュード運動のパイオニアの一人である。
■ネイマ
Neyma Julio Alfredoはモザンビークの歌手であり、1979年5月6日にマプトでポルトガル系モザンビーク人の入植者の両親の間に生まれた。ネイマは彼女の完全なキャリアをTVのファンタジアのコンペティションへの出演によって開始し、そこで二位となった。しかし、彼女の躍進は最初のレコーディングの契約を結んだ時に始まり、最初のアルバム『ブリガス』がリリースされた。『ブリガス』は1999年にリリースされ、「ブリガス」、「マンイ・ヴィルチュード・マイス・ベラ」、「プライア・フェリス」などのシングル曲がヒットし、彼女はこのアルバムによって大きな知名度を得た。
■アフリク・シモーネ
Afric Simone,1945年7月17日 - はモザンビーク出身の歌手、音楽家、エンターテイナーである。彼は1975年に最初のヒット"Ramaya"でヨーロッパのチャート入りし、もう一つのよく知られた歌"Hafanana" (1975)に続いた。彼はブラジル出身の父とモザンビーク出身の母との間にブラジルで生まれたが、9歳の時(彼の父の死後)彼と母はモザンビークの首都ロウレンソ・マルケス(つまり現在のマプト)に移らざるを得なかった。一度、彼がマプトのステージに立った時、彼のマネージャーは彼にロンドンに来るよう頼んだ。
■ミア・コウト
Mia Couto,1955年7月5日-は、モザンビーク出身の作家である。彼のポルトガル語作品は22以上の国で出版され、広く翻訳されている。ポルトガル系モザンビーク人。コウトはアントーニオ・エミーリオ・レイテ・コウト(António Emílio Leite Couto)として、ポルトガル人の入植者の一家の二世として生まれた。彼は母語のポルトガル語に加え、ンダウ語と英語を第二言語として話す。17歳でベイラから首都のロウレンソ・マルケス(現マプート)に出たコウトは医科大学に入学したものの、中退して党の指示に従いプロパガンダのため新聞社に入社した[1]。1975年のモザンビーク独立後、党の高官となっていたコウトは、雑誌や新聞の記者として働く一方で、文芸活動をも始めた。
■マリア・ムトラ
Maria de Lurdes Mutola, 1972年10月27日 - は、モザンビークの陸上競技選手である。オリンピックや世界選手権において数々のタイトルを獲得した選手である。ムトラは、マプト州のチャマンクロ(Chamanculo)出身である。鉄道員の父と商売を行っていた母との間に誕生した。小さい頃はサッカーの選手として才能を有していたが、モザンビークには女子のチームがないため男の子たちと一緒に行っていた。
■サモラ・マシェル
Samora Moises Machel、1933年9月29日 - 1986年10月19日は、モザンビーク共和国の軍人、政治家。同国の初代大統領。1933年、ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)ガザ州のMadragoa(現在のChilembene)に住む農家に生まれた。1942年、ポルトガルの言語と文化で教えるカトリック宣教師の学校に入学した。4年生まで無事に学んだものの、マシェルは中等教育を修了することはできなかった。
■リカルド・ランゲル
Ricardo Rangel、1924年2月15日 − 2009年6月11日は、モザンビークのフォトジャーナリスト、カメラマン。彼が生まれたのはポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケス(現在のモザンビークのマプト)であった。彼の父はギリシャ人の商人であり、彼自身はヨーロッパ系と中国系の混ざったアフリカ人であった。幼少時はロレンソ・マルケスの郊外に広がる貧困地域にて、両親とは離れて祖父と共に暮らしていた。2009年6月11日、モザンビークのマプトにて睡眠中に亡くなった。85歳だった。
■サモラ・マシェル
Samora Moises Machel、1933年9月29日 - 1986年10月19日は、モザンビーク共和国の軍人、政治家。同国の初代大統領。1933年、ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)ガザ州のMadragoa(現在のChilembene)に住む農家に生まれた。1942年、ポルトガルの言語と文化で教えるカトリック宣教師の学校に入学した。4年生まで無事に学んだものの、マシェルは中等教育を修了することはできなかった。1954年、マシェルは首都ロレンソ・マルケス(現在のマプト)で看護の勉強を始めた。
■アルマンド・サ
(Armando Sa, 1975年9月16日 - )は、モザンビーク出身の元サッカー選手。モザンビーク代表であった。ポジションはDF。20代前半はポルトガルの小クラブでプレーした。1998年にリオ・アヴェFCに移籍し、そこでのパフォーマンスはスポルティング・ブラガの目に留まるほどだった。スポルティング・ブラガで数ヶ月だけプレーし、2001年12月に同僚のリカルド・ロチャやチアゴ・メンデスとともにSLベンフィカに移籍した。
■MCロジェール
MC Roger,とはモザンビークの歌手であり、テレビ番組"Musicas d'Africa"(アフリカの音楽の意)の司会である。Ziqoとコラボして録音された彼のシングル"Patrao e Patrao"は、モザンビークでとてもよく知られ、mCel (Moçambique Celular S.A.R.L)広告キャンペーンを使っている。
■シモン・マテ・ジュニオル
Simao Mate Junior、1988年7月23日 - )は、モザンビーク出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。シマォンと書くこともある。2007年の夏に3週間のトライアルを経てギリシャの強豪パナシナイコスFCと4年契約を結んだ。国内外での活躍もありイタリアのトゥットスポルト選出の世界で最も有望な若手選手40人のリストに名を連ねるなど評価を高めている。 |
モザンビーク Mozambique
アフリカ大陸南東部に位置する共和制国家である。南に南アフリカ共和国、南西にスワジランド、西にジンバブエ、北西にザンビア、マラウイ、北にタンザニアと国境を接し、モザンビーク海峡を隔てて東にマダガスカルとコモロが存在する。首都はマプト。
■マプト
Maputo cidadeは、モザンビークの首都。同国の南端に位置し、マプト州の州都でもある。天然の良港で、モザンビーク最大の近代的な都市である。植民地時代のポルトガル風建物も多く残っている。人口は966,837人(1997年)。
■エドゥアルド・モンドラーネ大学
Eduardo Mondlane University、公用語表記: Universidade Eduardo Mondlane)は、マプートに本部を置くモザンビークの国立大学である。1962年に設置された。
■モザンビーク教育大学
Mozambique Pedagogical Universityはマプートに本拠を置くモザンビークの公立大学である。略称はUP。現在16,000人の学生が在籍している。
外務省:モザンビーク共和国
在モザンビーク日本国大使館
■ペンバ
(Pemba)は、モザンビーク共和国の都市、カボ・デルガード州の州都である。1904年にポルトガルの特許会社ニアッサによって、半島の南西部に建設された都市であり、時の王妃アメリー・ドルレアンにちなんで、ポルト・アメリアと命名された。ポルトガル植民地様式の建築で知られた都市であったが、1975年の独立時に、ペンバに改称されている。
■シャイシャイ
Xai-Xaiは、モザンビーク共和国南部ガザ州の州都である。人口は103,251人(1997年)。シャイシャイは、インド洋に接しリンポポ川流域に位置する。首都のマプトからは200 km離れていて、広大で肥沃な平野で米が栽培されている[1]。市内は標高約10 mである。
■イニャンバネ市
Cidade de Inhambaneは、モザンビーク共和国の南部イニャンバネ州の州都である。インド洋に面し、天然の良港イニャンバネ湾の畔に位置する港湾都市であり、カシューナッツやココナッツ、柑橘類などを輸出している。
■ナンプラ
(Nampula)は、モザンビークの都市。人口477900人(2007年)。モザンビーク北部、ナンプーラ州の州都である。首都マプトとベイラ (モザンビーク)に次ぐモザンビーク第3の都市であり、北部の中心都市である。標高415mの高原上にあり、海岸にあるモザンビーク島と内陸のマラウィのブランタイヤを結ぶ鉄道が通っており、周辺の農産物・畜産物の集散地となっている。
■リシンガ
(Lichinga)は、モザンビークの都市。人口142253人(2007年)。モザンビーク北部に位置し、ニアサ州の州都である。ニアサ湖の東側に広がる標高1360mの高原上に位置する。
■テテ
(Tete)は、モザンビーク北部の都市。人口152,909人(2007年)。テテ州の州都である。ザンベジ川右岸に位置し、ザンベジ川地方最大の都市である。標高が低く風の通りにくい渓谷に位置するため、モザンビークで最も暑い都市といわれる。近隣で産出する石炭や金などの鉱物資源やトウモロコシ、綿花、キャッサバ、タバコなどを集散する商業都市である。
■ベイラ
(Beira)は、モザンビーク共和国ソファラ州の州都で、モザンビーク海峡に臨むモザンビーク第二の港湾都市である。ベイラはモザンビークの中央に位置し、ジンバブエ、マラウイ、ザンビア、南アフリカ共和国、アンゴラへと各国を結ぶ鉄道や道路の起点であり、重要な貿易港のベイラ港、国際空港も持っており、交通の要衝である。ジンバブエのムタレまで石油のパイプラインが通じる。自然動物園がある。
■ケリマネ
Quelimaneは、モザンビークの都市。人口192876人(2007年)。モザンビーク中部の港湾都市で、モザンビーク海峡からクアクア川を20kmさかのぼった地点にある。ザンベジア州の州都。20世紀にはいると、ドイツ人の入植者たちがサイザル麻のプランテーションを建設し、さらに農園開発が進んで茶やコプラなどの輸出品が生産された。1978年から2007年まで、日本の水産会社のマルハがエビ漁の拠点を持っていた。
■カボ・デルガード州
Província de Cabo Delgado)は、モザンビーク北東部にある州である。沖合いにシーラカンスが発見されたことで有名なコモロ諸島(コモロ連合)・キリンバス諸島が浮かぶ。
■ニアサ州
(Niassa provincia)は、モザンビークの北西に位置する州である。面積は129,056km2あり、国内で最大。 州の西部にはマラウイ湖に沿う形で山脈が南北に延び、大地溝帯の一部"ニアサ・リフト・バレー"の東岸を成している。この高原上約1300mの場所に政治の中心である州都リシンガがあり、南部の平原、ナンプーラ州からマラウイに繋がる鉄道沿いに交通の要衝クアンバの町がある。
■ナンプーラ州
(Nampula provincia)は、モザンビーク北東部の州である。旧称モザンビーク州(Moçambique província)。内陸は山地で、ルリオ川を挟んで北にカボ・デルガード州、北西にニアサ州、リゴンハ川を挟み南西にザンベジア州と接し、東と南はモザンビーク海峡に臨む。沿岸部は平野である。
■ザンベジア州
Zambezia provincia)は、モザンビーク中部の州である。内陸部は山岳地帯で、南部のザンベジ川河口付近が平地となっている。北はニアサ州と接する。北部の中心となる町グルエの近郊に、ザンベジア州の最高峰ナムリ山(2419m)がある。
■テテ州
Tete provincia)は、モザンビーク西部の内陸州である。面積は100,724km2、人口は1,388,205人(2002年)。周囲は山に囲まれており、中央をザンベジ川が流れ、上流にはカオラ・バッサ(Cahora Bassa)ダムによるダム湖のカオラ・バッサ湖(Cahora Bassa Lake)がある。このダムによる発電所は、内戦時には度々破壊工作の標的にさらされた。
■ソファラ州
(Sofala província)は、モザンビーク共和国の中部にある州である。州全体が平坦で、北西部に山地がある。北部のテテ州及びザンベジア州との州境にザンベジ川、中部にブジ川、南のイニャンバネ州との境にはサヴェ川が流れ、東のモザンビーク海峡(インド洋)に注ぐ。
■マニカ州
Provincia de Manica)は、モザンビーク西部に位置する州。モザンビーク西部の高原地帯に位置し、ジンバブエとの国境に標高2,595mのイニャンガニ山がある。北でテテ州、東でソファラ州、]南でイニャンバネ州及びガザ州と接し、ジンバブエの首都ハラレとモザンビーク第二の主要港ベイラとの中間にあたり、鉄道及び道路が横断している。
■イニャンバネ州
(Inhambane provincia)は、モザンビーク南東部にある州である。イニャンバネ州は平坦で、内陸部は乾燥している。北にサヴェ川を挟みマニカ州、ソファラ州と接し、西のガザ州との境をチャンガネ川が流れる。沿岸はインド洋に面し、温暖である。
■ガザ州
(Gaza provincia)は、モザンビーク南部の州である。州内は平坦で、北西のジンバブエ及び西の南アフリカとの国境地帯には山地があり、北のマニカ州との境にはサヴァ川、北部から東部へチャンガネ川、西部から南部にリンポポ川が流れてチャンガネ川とリンポポ川はチョクウェ付近で合流し、河口付近の街シャイシャイでインド洋に注ぐ。
■マプト州
(Maputo provincia)は、モザンビーク南端にある州である。各州の中で最小。州都は、首都でもあるマプト、旧称ロウレンソ・マルケス。北にガザ州、西に南アフリカ共和国・ムプマランガ州、スワジランド、南にクワズール・ナタール州と接する。
■モザンビーク人民共和国
モザンビーク人民共和国(ポルトガル語: Republica Popular de Moçambique)は社会主義国(西側では一般的に共産主義国として知られる)を自認し、1975年6月25日から1990年12月1日まで続き[1]、今日のモザンビーク共和国となった。
■ポルトガル語公用語アフリカ諸国
Paises Africanos de Lingua Oficial Portuguesa、PALOP)とは、ポルトガル語を公用語とするアフリカ諸国、つまりアンゴラ、カーボベルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、サントメ・プリンシペからなる、アフリカの5ヶ国のグループである。これら諸国はポルトガル語諸国共同体(CPLP)にも加盟している。英語では"Portuguese-Speaking African Countries"(ポルトガル語話者アフリカ諸国)と訳される。
■国際連合モザンビーク活動
United Nations Operations in Mozambique,ONUMOZ)はモザンビークに展開した国際連合平和維持活動。1992年12月16日の国連安保理決議797によって設立されたものであり、モザンビーク内戦の和平合意に基づく停戦監視および選挙支援などを目的とする。
■ルゾフォニア
Lusofonia)とは、ポルトガル語を話す世界を意味し、地理的にはポルトガルとポルトガル語を公用語とするその旧植民地諸国、及びポルトガル語が公的な立場にはないものの、一定のポルトガル語話者が存在する地域を指す。
■モザール
モザール(Mozal)社は、モザンビークの企業。アルミニウムの精錬会社であり、モザンビーク最大の企業である。本社はモザンビークの首都マプトにある。従業員は約1100名。モザールは1998年、英国のBHPビリトンが47%、三菱商事が25%、南アフリカ開発公社が24%、そしてモザンビーク政府が4%を出資して設立された。総工費は22億ドルであり、これは当時のモザンビークの国内総生産の3分の1を超える額であった。モザールは順調に成長を続け、2006年の年間生産量は53万トン、売上高は20億ドル、利益は4億ドルにのぼる。モザールのアルミニウムはモザンビークの輸出高の60%を占め、年間成長率の半分近くがモザールの成長によるものであり、モザンビークの高度成長の原動力となっている。
■モザンビークの国旗
Flag of Mozambique)は、1983年5月1日に制定された。この国旗は元々モザンビーク解放戦線(FRELIMO)の旗のデザインを基調とした。FRELIMO旗は独立後しばらく使用された。緑は国土の豊かさを示し、黒はアフリカ大陸を示す。黄は豊かな鉱物資源を、白は平和を、赤は独立への苦闘を象徴している。紋章は黄色の星が国民の連帯と社会主義思想を示し、AK-47(カラシニコフ小銃)は独立への苦闘、鍬は農業と農民、本は教育を示す。
■国名
公式の英語表記は、Republic of Mozambique。通称、Mozambique(モウザンビーク)。由来し、島の名前が全土を指す名前となった。独立後の1975年から1990年まではモザンビーク人民共和国だったが、1990年の憲法改正により現在のモザンビーク共和国となった。
1.面積:79.9万平方キロメートル(日本の約2.1倍)
2.人口:約2,289万人、人口増加率2.26%(2009年:世銀)
3.首都:マプト(人口約188.8万人、2010年:EIU)
4.民族:マクア・ロムウェ族など43部族
5.言語:ポルトガル語
6.宗教:キリスト教(41%)、イスラム教(17.8%)、原始宗教
1489年 ポルトガル人到達
1544年 ポルトガルの貿易商人ロレンソ・マルケスが現在のマプトに貿易基地を設け植民地活動本格化
1629年 ポルトガルの支配権確立
1900年 反ポルトガル蜂起続発
1962年 モザンビーク解放戦線(FRELIMO,現政府の母体)結成
1975年6月25日 独立(マシェル初代大統領)
1986年10月19日 マシェル大統領死去、シサノ大統領就任(11月6日)
1992年10月4日 モザンビーク包括和平協定署名
1994年10月 大統領・国民議会選挙
1994年12月 シサノ大統領就任
1999年12月 大統領・国民議会選挙
2004年12月 大統領・国民議会選挙
2005年2月 ゲブーザ大統領就任
2009年10月 大統領・国民議会選挙、州議会議員選挙
■主要産業(農林)とうもろこし、砂糖、カシューナッツ、綿花、たばこ、砂糖、丸太・木材(漁)エビ(工鉱)アルミ、石炭、天然ガス
■主要貿易品目(1)輸出 アルミニウム、天然ガス、たばこ、電力、えび、木材、砂糖(2)輸入 機械、自動車・自動車部品、原油、繊維製品
■メティカル
(metical)は、モザンビークの通貨である。補助通貨はセンターボで、1メティカル=100センターボである。ISOコードはMZN。複数形でメティカイスとなる。1980年に、それまでのモザンビーク・エスクードに代わって導入された。
■経済
第一次産品の生産が主だが、鉄鉱石やマンガン、チタン(重砂)などの鉱産資源も多い。日本向け輸出はエビが多い。1980年代は内政の失敗に加え、内戦や旱魃などで経済は壊滅状態に陥った。2010年9月1日、首都マプトで、パンの値段が30%引き揚げられたことへの抗議がきっかけとなり暴動が発生した。警官隊が発砲し、子ども2人を含む市民7人が死亡した。
■香辛料
Spices)とは調味料の一種で、植物から採取され、調理の際に香りや辛味、色をだすものの総称である。インドにおいては紀元前3000年頃からすでに黒胡椒やクローブ等の多くの香辛料が使われていた。 ヨーロッパの人々の多くは、古くから肉や魚を多く食べていたが、内陸まで食材を運んだり冬期に備えたりするために肉や魚を長期保存する必要があった。
■鉱業
石炭や天然ガスなど有機鉱物資源には比較的に恵まれている。石炭の埋蔵量は約7億トンでモザンビークの主要鉱産物の一つである。2003年には南アフリカ企業による陸上ガス田が生産開始し、南アと輸出用ガスパイプラインで結ばれるなど、同国からの投資が近年増えている。
■チタン
titanium,は、原子番号22の元素。元素記号は Ti。第4族元素(チタン族元素)の一つで、金属光沢を持つ遷移元素である。チタニウムと呼ばれることもある。地球を構成する地殻の成分として9番目に多い元素で、遷移元素としては鉄に次ぐ。自然界の存在は豊富であるが、さほど高くない集積度や製錬の難しさから、金属として広く用いられる様になったのは比較的最近である。チタンはイギリスで1791年、聖職者のウィリアム・グレゴールが発見した。彼は自分の教区内のメナカン谷で発見したのでメナカイト (menachite) と命名したが、一般的には知れ渡らなかった。
■マンガン
manganese、は原子番号25の元素。元素記号は Mn。銀白色の金属で、比重は7.2(体心立方類似構造)、融点は1244 °C。マンガン族元素に属する遷移元素。温度によりいくつかの同素体が存在し、常温常圧で安定な構造は立方晶系である。一番有名な用途は、二酸化マンガンがマンガン乾電池やアルカリ乾電池の正極に使われることであろう。
■アルミニウム
aluminium, aluminum) は、原子番号13の元素である。元素記号は Al。軽銀やアルミニウムをアルミと略すことも多く、「アルミ箔」、「アルミサッシ」、一円硬貨など非常に生活に身近な金属である。天然には化合物のかたちで広く分布し、ケイ素や酸素とともに地殻を形成する主な元素の一つである。
■モザンビーク解放戦線
Frente de Libertacao de Moçambique, FRELIMOは、モザンビークの政党。結成時はポルトガル植民地支配に対する武装抵抗組織だった。現在は社会主義インターナショナルに加盟している。1964年9月25日に国土の北部で独立戦争を開始し、北部のマコンデ族と協調して国土の20%を支配下に置いた[2]。1969年2月にモンドラーネ議長が暗殺され、副議長を務めていた中道主義者のウリア・シマンゴを追放・逮捕(1975年に裁判なしで処刑)した後、議長にサモラ・マシェル、副議長にマルセリーノ・ドス・サントスが就任した。
■モザンビーク独立戦争
Mozambican War of Independence、は 東アフリカ南部のモザンビークでモザンビーク解放戦線(FRELIMO、ポルトガル語: Frente de Libertacao de Moçambique)とポルトガル軍との間で行われた武力紛争。戦争は1964年9月25日に開始され、1974年9月8日の停戦によって終結した。この戦争の結果、翌1975年にモザンビークのポルトガルからの独立が協議の後決定された。
■モザンビーク民族抵抗運動
Mozambican National Resistance、MNR、は、モザンビークの政党。設立時はローデシアの白人政権によって設立された反政府武装組織だった。ローデシア情報機関は、反社会主義派のモザンビーク人にモザンビーク民族抵抗運動を編成させてFRELIMO政権を攻撃させた。この組織は当初ポルトガル語ではなく英語のMNRを組織名としており、また、独立直後のモザンビーク内に白人の手先になって内戦を起こそうとする人々が少なかったこともあって、組織はモザンビーク内で誘拐された青少年によって構成されており、多くの少年兵を大義ではなく恐怖と暴力によって戦わせていた。
■ローデシア
(Rhodesia)はザンビア・ジンバブエを合わせた名称。また1965年から1980年にかけてのジンバブエを実質支配していた白人政権が用いた名称。白人の支配が強かった南ローデシアでも黒人の抵抗運動が強まり、1961年にはソ連の支援でジンバブエ・アフリカ人民同盟(ZAPU)が、1963年には中国の支援でジンバブエ・アフリカ民族同盟(ZANU)がそれぞれ結成されゲリラ戦を戦う様になる。
■ポルトガル語諸国共同体
Comunidade dos Paises de Lingua Portuguesa, CPLPはポルトガル語を公用語とする諸国によって構成される国際協力組織。加盟国が対等の立場で政治、経済、文化の面で協力することを目的として1996年7月17日に結成された。ポルトガル語の普及にも力をいれている。加盟国の人口総数2億2300万人、面積10,742,000平方キロに及ぶ。
■アフリカ分割
1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。
1912年にイタリアがリビアを獲得した事により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された。当時のヨーロッパの人々は、奴隷貿易の廃絶を求めるなど、アフリカの人々に人間としての権利を認めるようになっていたが、しかし一方で、アフリカの人々はヨーロッパの人々より人種的・文明的に劣等であるという意識を強烈に持つようになっていた[2]。こうした考えを抱いたヨーロッパの人々にとって、アフリカ現地の人々を支配下に組み込み、ヨーロッパ式の宗教、政治制度、言語、文化を「与える」ことは、未開な人々を文明化する行為である(altruism)とみなされ、植民地獲得は文明の名のもとに正当化された。
■教育
1975年にポルトガルから独立して以来、学校建設と教員の訓練登録は人口増加に追いついていない。特にモザンビーク内戦(1977-1992)の後、戦後の就学数は着実な若年人口の増加のため常に高くなっており、教育の質は煽りを受けている。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は47.8%(男性:63.5% 女性:32.7%)である。2005年の教育支出はGDPの5.0%だった。主な高等教育機関としては、エドゥアルド・モンドラーネ大学(1962)やモザンビーク教育大学の名が挙げられる。
■モザンビーク文学
通常ポルトガル語──通俗的なモザンビークの表現が混合している──でモザンビークの作家によって書かれる。依然としてとても若いが、既にジョゼ・クラヴェイリーニャやパウリーナ・シジアネ、ミア・コウトのような傑出した代表者を持ち、気難しいポルトガル語文学にとって不可欠となっている。
■ジョアキン・アルベルト・シサノ
Joaquim Alberto Chissano, 1939年10月22日 - はモザンビークの政治家で第2代大統領(1986年11月6日 - 2005年2月2日)。ポルトガル植民地モザンビークに生まれ、黒人として初めて現地高等学校の生徒となった。リスボン大学医学部に留学後、1962年にモザンビーク解放戦線(FRELIMO)に入党、大学を中退して祖国独立運動に身を投じた。引退後は、2006年に国連のスーダン・ウガンダ地域での紛争解決の特使に選ばれ、2007年にはアフリカの優れた指導者へ贈るモ・イブラヒム賞の第1回受賞者となる。
■アルマンド・ゲブーザ
Armando Emilio Guebuza, 1943年1月20日 - は、モザンビークの政治家。2005年から同国大統領を務めている。ゲブーザは、モザンビーク解放戦線(FRELIMO)政治局の元メンバーであったとともに、1986年にサモラ・マシェル大統領が急死した際に暫定的に合議を行っていたモザンビーク解放戦線中央委員会政治局の10人のメンバーの一員であった。
■ノエーミア・デ・ソウザ
Carolina Noémia Abranches de Sousa Soares,1926年、カテベ - 2003年とはモザンビーク出身の詩人であり、彼女はポルトガル語で書いた。彼女はヴェラ・ミカイアとしても知られている。彼女はポルトガル人とバントゥー系人の混血(メスチーソ=ムラート)である。
■ルイス・ベルナルド・ホンワナ
Luis Bernado Honwana,1942年-はモザンビークの著述家である。ホンワナは『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』(Heinemann, 1969)の著者である。この作品は大きな影響と現代モザンビーク物語文学の試金石となることができた事例であることを証明している。『僕たちは皮膚病にかかった犬を殺した』はポルトガル植民地時代における1960年代とアントニオ・サラザール政権下で苦しむ黒人の生活を描いた短編集である。
■ウングラニ・バ・カ・コーサ
Ungulani ba ka Khosaは、モザンビークの作家である。彼は二冊の本を出版しており、一冊は1987年の小説の『ウアララピ』(Ualalapi,モザンビーク・フィクション大賞を受賞した)であり、もう一冊は1990年の短編集の『狂人の乱交』Orgia dos loucosである。彼は次作のThe Kingdom of the Vulturesをほぼ書き終えた。
■ルイサ・ディオゴ
Luísa Dias Diogo、1958年4月11日 -は、モザンビーク共和国の政治家。モザンビーク解放戦線所属議員。モザンビーク共和国4代首相。1958年4月11日にモザンビーク共和国で生まれる。1980年にモザンビーク財務省に入省した。首都マプートの国立エドゥアルド・モンドラーネ大学で経済学を学び、1983年に学位を授かった。ルイサ・ディオゴは、エイズに対して熱心に取り組んでいる。男女平等の差別の撤廃政策がルイサ・ディオゴのスローガンである。
■エドゥアルド・モンドラーネ
Eduardo Chivambo Mondlane, 1920年6月20日 - 1969年2月3日はモザンビークの独立指導者であり、モザンビーク解放戦線(FRELIMO)の初代書記長である。バントゥー系シャンガーン人の部族長の16人の息子の第4子として、1920年にモンドラーネはポルトガル領東アフリカに生まれた。彼は12歳まで羊飼いとして働いた。彼は幾つかの異なった初等学校に在籍した後、マンジャカゼ付近のスイス系プレスビテリアンの学校に入学した。
■ヴァスコ・ダ・ガマ
Vasco da Gama, 1469年頃 - 1524年12月24日は、ポルトガルの航海者で、探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初のヨーロッパ人であり、しばしばインドへの航路をヨーロッパ人として初めて「発見」した人物であるとされる。
■アベル・シャビエル
(Abel Luis da Silva Costa Xavier, 1972年11月30日 - )はモザンビーク・ナンプラ出身の元ポルトガル代表サッカー選手。ポジションはディフェンダーで、主に右サイドバックを務める。その他にもセンターバックをこなすことが出来る。いわゆるポルトガル黄金世代の一人。
■マリオ・コルナ
(Mario Esteves Coluna、1935年8月6日 - )は、モザンビーク出身の元ポルトガル代表サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー(インサイドレフト)。愛称はオ・モンストロ・サグラード(O Monstro Sagrado、聖なる怪物)。ベンフィカには1969-70シーズンまで在籍し、リーグ優勝10回、カップ優勝6回に貢献する。ヨーロピアンカップでは2度優勝(1960-1961、1961-1962)の後、さらに主将として3度準優勝(1962-1963、1964-1965、1967-1968)した。
■弥助
弥助(やすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代の人物。アフリカ出身の織田信長の家臣。彌介とも。黒人男性で、現在のモザンビーク出身とされる。天正9年2月23日(1581年3月27日)に、イタリア人の宣教師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れてこられた。『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述されている。年齢は26〜27歳、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と記述される。
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