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モロッコ王国
Kingdom of Morocco

アフリカ

■地理
モロッコの国土は、アフリカ大陸の北西端に位置する。最も狭い部分では幅14kmしかないジブラルタル海峡をはさんでスペインと向き合う。海岸のうち約3/4は北大西洋に面し、残りは地中海に沿っている。東西1300km、南北1000kmに伸びる国土の形状は、約45度傾いたいびつな長方形に見える。


ジブラルタル海峡
Strait of Gibraltar、スペイン語:Estrecho de Gibraltar)は、ヨーロッパのイベリア半島とアフリカの北端を隔てる海峡。大西洋と地中海の境に位置している。水深は286m、海峡の幅は14km〜44kmであり、60kmにわたって延びる。イベリア半島側にあるジブラルタルの岩山と北アフリカ側のスペイン領セウタにあるアビラ山の二つをヘラクレスの柱と呼ぶ。

カナリア海流
Canary Currentは北大西洋海流の南側の分流で、アゾレス諸島とイベリア半島の間を南方向へ流れる寒流。一部はアフリカ海岸沿いにギニア海流へとつながっている。海流としてはごく弱いものであるが、流量は毎秒1500万トンほどである。またアフリカ北西の東赤道大西洋は、カナリア海流による離岸流の影響で湧昇流が発達する。

アトラス山脈
アフリカ北西部、モロッコからチュニジアにかけて東西に伸びる褶曲山脈である。名称はギリシア神話の巨神アトラスにちなんでいる。西側が一番高く、東に行くにつれ低くなる。長さは2,400km。 モロッコでは標高3,000mを超え、北緯31度3分43秒、西経7度54分58秒にあるモロッコの最高峰ツブカル山(4,167m)などがある。

ツブカル山
ツブカル山はアフリカ北西部、アトラス山脈西部にある山である。標高は4,167mありモロッコの最高峰である。山頂を目指す登山ルートも整備されており、多数の観光客が訪れる。トレッキングについては標高が高いだけに、アフリカ大陸といえども季節によっては積雪も見られることから、それなりの装備は要求される。

ドラア川
Draa Riverまたはドラア・ワジは、モロッコの河川。全長は1100kmに及び、ワジの部分も含めればモロッコ最長の川であるが、下流の750kmには大雨の時を除き水は流れない。しかし上流部分は貴重なオアシスとしてモロッコ南部地方を潤している。ドラア川はアトラス山脈に発し、ダデス川とイミニ川を合わせてサハラ砂漠へと流れ込む。ワルザザートからザゴラを通りマアミド近くまでの間は常時水流があり、流域はオアシスとなっている。

イベリア半島
Iberiar penintsulaは、ヨーロッパの南西に位置する半島である。
イベリアの名は、古代ギリシア人が半島先住民をイベレスと呼んだことに由来する。しかし、もともとは漠然とピレネー山脈の南側に広がる地域を指した言葉である。

サハラ砂漠
アフリカ大陸北部にある世界最大の砂漠。東西5600km、南北1700kmに渡り面積は約1000万km2であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占める。サハラ砂漠全体の人口は約2500万人であり、そのほとんどはモーリタニア、モロッコ、アルジェリアに住む。サハラ砂漠内で最大の都市は、モーリタニアの首都ヌアクショットである。


 

<歴史>
■先史時代
ベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人の港湾都市が築かれたが、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマ属州となった。

■8世紀初頭
東方から侵攻したウマイヤ朝の軍隊がモロッコを征服し、モロッコのイスラーム化とアラブ化が始まった。アラブ人はモロッコを拠点にジブラルタルを越え、イベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし、アル=アンダルスのイスラーム化を進めた。

■1130年
ムワッヒド朝が成立すると、1147年にムワッヒド朝はムラービト朝を滅ぼし、アル=アンダルスをも支配した。

■1269年
マリーン朝によってマラケシュを攻略され、滅亡した。マリーン朝はフェスに都を置き、しばしばナスル朝を従えるためにアンダルシアに遠征したが、14世紀後半に入ると衰退し、1415年にはアヴィシュ朝ポルトガルのエンリケ航海王子がジブラルタルの対岸のセウタを攻略した。

■1660年
現在まで続くアラウィー朝が成立した。1757年に即位したムハンマド3世はヨーロッパ諸国との友好政策を採り、デンマークを皮切りに各国と通商協定を結び、1777年には世界で初めてアメリカ合衆国を承認した。
■1859年
スペイン軍の侵攻によりテトゥワンを攻略された(スペイン・モロッコ戦争)。19世紀末から20世紀初頭にかけてのモロッコはアフリカ分割の文脈の中でヨーロッパ列強の標的となり、1904年の英仏協商でモロッコを狙っていた英仏両国の妥協が成立し、フランスがモロッコにおける優越権を獲得したが、このことは翌1905年に英仏協商に反対するドイツ帝国がタンジール事件を起こすことを招いた。さらに1911年にドイツ帝国が再びアガディール事件を起こし、フランスを威嚇したが、最終的にはドイツが妥協した。

■1936年
駐モロッコスペイン軍のエミリオ・モラ・ビダル将軍が共和国政府に対して反乱を起こし、カナリア諸島のフランシスコ・フランコ司令官が呼応したため、モロッコを拠点にした反乱軍と政府軍の間でスペイン内戦が始まった。第二次世界大戦後、世界的な脱植民地化の流れの中で、1930年代から盛んになっていた独立運動が過熱し、ゲリラ闘争とスルターンのイニシアチブの双方の効果もあって1956年にフランスから独立した。

■1961年
ハサン皇太子が父の死去に伴い国王に即位した。翌1962年に憲法が制定され、モロッコは君主の権限の強い立憲君主制国家に移行した。

■1965年
ハッサン2世への反対運動を展開していた人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首・メフディー・ベン・バルカがパリで失踪する事件が起こった。1967年のイスラエルと6日間戦争の結果、アラブ世界に復帰した。

■1975年11月
西サハラに対して非武装で越境大行進を行い(緑の行進)、西サハラを実効支配した。

■1989年
マグリブ域内の統合を図るアラブ・マグレブ連合条約が調印された。■1991年には西サハラ停戦が成立したが、住民投票は実施されず、西サハラ問題は現在に至るまで未解決の問題となっている。

■ 2003年5月16日
イスラーム主義組織によって、カサブランカで自爆テロ事件が発生するなど、イスラーム主義者を中心に現体制への不満はあるものの、ムハンマド6世は2004年の新家族法の制定に主導権を執るなどリベラルな改革を進める立場を示している。


サハラ・アラブ民主共和国
北アフリカの旧スペイン領サハラに領有権を主張している共和制国家。多くの地域をモロッコが実効支配(もしくは不法占拠)しているが、モロッコによる領有権の主張は大多数の国から認められていない。

マグリブ
Maghreb、Maghribは、アラビア語で「日が没すること、没するところ」を原義とする語。マグレブとも言う。「西方」の意味を持ち、地域名としても用いられる。また、ムスリム(イスラム教徒)の義務である一日五回の礼拝(サラート)のうちの一つである日没時の礼拝を指す言葉でもある。

リーフ共和国
The Republic of the Rif、The Confederal Republic of the Tribes of the Rif、ベルベル語: Tagduda n Arif, は第3次リーフ戦争のさなかの1921年9月にスペイン領モロッコから独立して樹立された国である。1926年にスペイン・フランス連合軍の攻撃により崩壊した。スペインやフランスのモロッコ侵入にたいするベルベル人の激しい抵抗はあったが、ベルベル人は部族間で協力することができず、部族間の争いを繰り返した。

マウレタニア
マウレタニアは古代の北アフリカの地中海沿岸に独立したベルベル人のマウリ部族の王国。西アルジェリア、北モロッコ、ジブラルタルを含む広大な地域を支配。その後はローマ帝国の支配下に入って、王国の歴史は閉じることとなる。この国に因み、ムーア人の呼称が生まれ、ムーア人が支配するモーリタニアはマウレタニアの後継を称して国号が付けられたが、ムーア人支配層以外には民族的な繋がりがなく、地理的には何の関係もない。

フェニキア
Phoeniciaは、古代の地中海東岸に位置した歴史的地域名。シリアの一角であり、北は現シリアのタルトゥースのあたりから、南はパレスチナのカルメル山に至る海岸沿いの南北に細長い地域であって、およそ現在のレバノンの領域にあたる。


アンダルス
イスラーム世界において歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを漠然と指す呼称。


シジルマサ
Sijilmasaは、モロッコの南東部にあったサハラ交易で8世紀から14世紀頃まで繁栄したオアシス都市である。現在のリッサニの近くに位置していた。 サハラ交易において、アウダゴストに直接至るいたるルートとテガーザの塩鉱を経由してガーナ王国(クンビ=サレー)へ至るルートの結節点に位置していた。


タイファ
Taifa)は、かつてイベリア半島に存在したイスラム教諸王国およびその君主を指す語。アラビア語で「分立している集団」「部族集団」などを意味するターイファに由来する名称。イベリア半島の歴史におけるタイファという語は、独立したムスリム支配の君主国、 首長国あるいは 小王国を指す。1031年、コルドバを首都とした後ウマイヤ朝が最終的に崩壊したあとに、イベリア半島(アンダルス)各地に建国された。


第三次ポエニ戦争
紀元前149年 - 紀元前146年は、かつてフェニキア人の植民地だったカルタゴと共和政ローマとの間で争われたポエニ戦争の3回目にあたり、最後となった戦争である。 ポエニ戦争という名前は、ローマ人によるフェニキア人の呼び名から名付けられた。

第二次モロッコ事件
Second Moroccan Crisis)とは、1911年にドイツ政府が砲艦をモロッコ南西の港湾都市アガディールに派遣したことによって生じた国際紛争である。別名「アガディール事件 (Agadir Crisis) 」。1902年8月にベルベル人アブー・ルマラがスルタンを自称して現王朝に反旗を翻す(1907年鎮圧)など、20世紀初頭のモロッコでは反乱が頻発していた。フランスは鎮圧のためしばしば出兵したが、実質的な宗主国としてのフランスの地位を確認する行動ともいえるものであった。

カサブランカ会談
Casablanca Conference)は、第二次世界大戦中に行われた連合国の首脳会談の一つ。1943年1月14日から23日にかけて、モロッコのカサブランカにおいて開催された。アメリカ大統領フランクリン・ローズヴェルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルによって行われた。内容としては、アフリカ作戦の成功後、シチリア島・南イタリアへの上陸作戦をとることを確認したことと、枢軸国に対して無条件降伏を要求する方針を確認したことが挙げられる。


枢軸国
Axis Powers、とは、第二次世界大戦時に連合国と戦った諸国を指す言葉。ドイツ、日本、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイなどソビエトを脅威と捉えていた反共主義国家が多く、連合国が承認していない国家としては自由インド仮政府、フィリピン第二共和国、ビルマ国、独立スロバキア、クロアチア独立国、満洲国、中華民国南京政府などがある。


ファーティマ朝
al-Dawla al-Fatimiyaは、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝(909年 - 1171年)その君主はイスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称した。王朝名のファーティマは、イスマーイールの先祖である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来している。

後ウマイヤ朝
756年 - 1031年は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝。西カリフ帝国とも呼ぶ。ウマイヤ朝がアッバース朝に滅ぼされると、アッバース朝の残党狩りは執拗を極めた。ただ一人生き残ったウマイヤ家の王族アブド・アッラフマーン1世は身につけていた貴金属を逃走資金に変え、アフリカ大陸に入りアフリカ西北部のベルベル人に保護された。

ミドラール朝
(8世紀末 - 976年/7年)は、スィジルマーサを支配したベルベル系のイスラム王朝。 ハワーリジュ派であったという伝説をもち、のちにはアッバース朝カリフの名でフトバを読んでおり、スンナ派を奉じたものと思われるが、ファーティマ朝と後ウマイヤ朝との抗争の中でイスマーイール派も奉じた。

イドリース朝
西マグリブにおける最初のシーア派サイイドによるイスラム王朝。アッバース朝時代に勢力争いで、ハールーン=アッラシードに敗れたイドリース・イブン・アブドゥッラー(イドリース1世)がモロッコの地へ逃げて、フェズを都として開いた。788年に興り、985年に滅亡した。

ムラービト朝
al-Murabitunは、1056年に北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族を母胎とするモロッコとアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝。

ムワッヒド朝
al-Muwahhidunは、ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝(1130年 - 1269年)。首都はマラケシュ。現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。


サアド朝
Saadiは、16世紀初頭から1659年までモロッコを支配したシャリーフ系王朝。サーディ朝若しくはサード朝とも呼ばれる。オスマン帝国の拡大を阻止したことと、ソンガイ帝国を滅ぼしたことで知られる。マリーン朝末期、モロッコは、大西洋岸の主要港をポルトガルによって支配され、サハラ越えの交易ルートの利益も奪われてしまい、経済的に衰退し、山岳地帯の部族が略奪を繰り返すなど政情不安に陥っていた。内陸部では、グイチと呼ばれる一種の自警団、海岸部や平野部では、スーフィズムに支えられたカリスマ的な霊力を持つとされる「聖者」(マラブー)を中心とする宗教的な同胞団が多く生まれるようになった。このような同胞団は、現実生活に疲れ困窮した農民層を聖戦を戦う兵士として巧みに組み込んで成長していったが、サアド朝の君主もそのような同胞団の「聖者」の一人だった。


アルカセル・キビールの戦い
Batalha de Alcacer-Quibirは、1578年8月4日、モロッコのアルカセル・キビールで行われたポルトガル軍とサード朝スルタン軍との戦い。モロッコ側からは、「マハザン川の戦い」という。親征したポルトガル王セバスティアンは敗れ、戦死した。


マリーン朝
al-Mariniyunは、1196年から1465年まで続いた北アフリカの王朝。首都はモロッコのフェス(ファース)。ムワッヒド朝の弱体化にともなってベルベル系遊牧民・ザナータ族の首領・マリーン家のアブド・アル=ハックにより創始された王朝である。13世紀初頭のマリーン家はモロッコ東部、現在のアルジェリアとの国境地帯で遊牧生活を営んでいた。ムワッヒド朝成立直後、マリーン家はムワッヒド朝への従属を拒否して辺境地帯へ退くが、1195年のヤアクーブ・マンスールによるアラコルスの戦いには参加しており、多数の戦利品を得ている。


■言語
アラビア語とベルベル語が公用語である。国民の大半は学校教育で正則アラビア語を学習しつつも日常生活ではモロッコ特有のアラビア語モロッコ方言を話しているため、他のアラビア語圏の住人とは意思の疎通が困難である。


アラビア語
世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、サハラ砂漠以北のアフリカ北部の領域を中心に(非独立地域を含めて)27か国で公用語とされており、また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語でもある。

ベルベル語
現在主にモロッコ、アルジェリアで話されているアフロ・アジア語族の言語。 正確に言えばベルベル語派またはベルベル諸語と呼ぶほうが実状に近い、少しずつ異なる同系統の言語群の総称である。モロッコ、アルジェリアともアラビア語を重要視する政策をとるため、話者は辺鄙な山間部の村などに多く、家庭の中でしかベルベル語を話さないこともある。

シルハ語
ベルベル語の一種である。話者数はエスノローグによれば約300万人であり、INALCO(フランスに本部を置く言語研究所)によれば約800万人である。タシルハイト語、タシュリヒート語とも呼ばれる。


■宗教
1961年にイスラム教が国教となっており、イスラム教スンニ派が99%を占める。キリスト教とユダヤ教も禁止されてはいない。


イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。

スンナ派
イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。


<世界遺産>
フェス旧市街
アフリカ北西端、モロッコ王国北部の内陸都市。かつてマリーン朝などイスラム王朝が首都とした。13世紀から14世紀に発展、多数のモスク、マドラサ、大学などがある。2004年の人口は、94万6815人。メディナとよばれる旧市街地は、その町並みの構造から迷宮として知られる。

マラケシ旧市街
モロッコ中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市で、「南方産の真珠」と呼ばれてきた。マラケシュは、ベルベル語で「神の国」 (murt 'n akush)を意味する。マラケシュは東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなる。新市街の西端にマラケシュ駅が位置する。旧市街は北アフリカでも最大の規模であり、王宮のほか、バイア宮殿、エルバディ宮殿、サアド朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などを含む。

アイット-ベン-ハドゥの集落
モロッコ王国の都市ワルザザート近郊の集落。ユネスコ世界遺産に登録されている。隊商交易の中継地として栄えたこの地にはカスバと呼ばれる邸宅が数多く建築され、中でも特に有力であったハドゥ一族が築いたのがアイット・ベン・ハドゥの集落である。孤立した集落であるがゆえに、盗賊などの掠奪から身を守るため、城砦に匹敵する構造になっている。アトラス山脈の麓にあり、ワルザザートとマラケシュを結ぶ街道にある。映画『グラディエーター』のロケ地としても有名な場所で、年間を通して多くの観光客が訪れる地となっている。

古都メクネス
モロッコ王国の首都ラバトから東に130km、フェズの西60kmに位置する都市。2004年時点の人口は53万6232人。城壁に囲まれた都市で、1675年から1728年までアラウィー朝の首都が置かれた。北部には、聖地ムーレイ・イドリスや古代ローマ遺跡で世界遺産に登録されているヴォルビリスの古代遺跡がある。

ヴォルビリス遺跡
モロッコにある古代遺跡。フェズとラバトの間で、メクネスに比較的近く、最も近い町としてはMoulay Idrissがある。ヴォルビリスは、北アフリカにおける古代ローマ都市の、最良の保存状態を誇る遺跡のひとつとして、ユネスコの世界遺産に登録されている。都市の遺跡群は1755年のリスボン大地震の際に被害を受け、さらに前後する時期には、メクネスでの建築資材として大理石が一部持ち去られた。1915年に、フランス人の調査団によって発掘が開始され、広範囲にわたるローマ都市遺跡群が出土した。

テトゥアン旧市街/旧ティタウィン
Tetouan, Tittawinは、モロッコ北部にある町。モロッコの地中海側にあり、北に40kmほどのところには地中海と大西洋を分かつジブラルタル海峡がある。タンジールからは東へ60km、ジブラルタル海峡に面したスペインの飛び地セウタからは南へ40km。白い壁の家が多く、市街地などでは家々が密集している地域が多い。特にメディーナと呼ばれる旧市街地は低層の白い家々が立ち並び職人らが多く住み、この部分が世界遺産となっている。紀元前3世紀には町があったとみられる。ローマ人やフェニキア人のつかった品々がタムダの遺跡から出土している。ベルベル人の国マウレタニアに属する町であったが、ローマに征服され属州マウレタニア・ティンギタナの一部となった。

エッサウィラのメディナ(旧名モガドール)
モロッコ王国 マラケシュの西の大西洋岸の港湾都市.2001年に世界遺産に旧市街メディナが登録された。北緯31度30分47秒、西経9度46分11秒。紀元前から栄えた港湾都市

マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市
サブランカと96km離れた沿岸部にあるモロッコの都市で、アル・ジャディーダ州の州都。歴史上、アル・ジャディーダは、モロッコ人、古代ローマ人、ポルトガル人などがめいめいに呼んできたため、いくつかの異称を持っている。マザガン(マサガン)もその一つである。この町の最古の言及者は、カルタゴの航海者ハンノである。今日のアル・ジャディーダはポルトガル人が築いた城塞都市を訪れる歴史愛好家、オーソン・ウェルズの足跡を辿る映画ファン、そして数え切れない避暑客たちを引き寄せる都市となっている。


■食文化
モロッコ料理は長らく世界で最も多様性に富んだ料理の一つと見なされてきた。これは数世紀に及ぶモロッコと外部世界の相互作用の結果である。モロッコ料理はベルベル、スペイン、コルシカ、ポルトガル、ムーア、中東、地中海、アフリカの各料理の混合である。

クスクス
couscous、は、小麦粉から作る粒状の粉食、またその食材を利用して作る料理である。発祥地の北アフリカから中東にかけての地域と、それらの地域から伝わったフランス、イタリアなどのヨーロッパ、およびブラジルなど世界の広い地域で食べられている。

タジン鍋
マグリブ (北アフリカ) 地域の鍋料理。もともとは、料理の際に使われる陶製の土鍋のことを指した。とんがり帽子のような形の蓋が特徴的な独特な鍋を使い、羊肉か鶏肉と、香辛料をかけた野菜を煮込んだものをいう。 主にモロッコ・アルジェリア・チュニジアで食される。 なお、チュニジアのタジン鍋はポットの形が違う。


アブー・アルハサン・アリー
Abu Al-Hasan 'Ali ibn 'Othman 1297年 - 1351年5月24日はマリーン朝の第11代君主(スルターン、在位1331年 - 1348年)。 スルターン・アブー・サイード・ウトマーン2世とエチオピア出身の母の間に生まれた黒い肌の持ち主であり、「モロッコの黒いスルターン」と呼ばれた。

アッバス・エル=ファッシ
Abbas El Fassi、1940年9月18日 - は、モロッコの政治家。同国首相などを歴任した。イスティクラル党所属。アルジェリアとの国境付近にある街、ベルカンで生まれた。1977年から1981年にかけて住宅大臣を、1981年から1985年にかけて工芸・社会大臣を、1985年から1990年にかけてチュニジア大使を、1990年から1994年にかけてフランス大使を、2000年から2002年にかけて雇用・職業訓練・社会開発・連帯大臣をそれぞれ務めた。

ヌールッディーン・ナイベト
Noureddine Naybet, 1970年2月10日 - は、モロッコ出身の元サッカー選手。DF。1990年代のモロッコ、ひいてはアフリカを代表するリベロ。モロッコ代表では長年キャプテンを務め、115キャップは史上最多。2回ワールドカップに出場。2004年のアフリカネイションズカップでは決勝に進出した。

ポール・ボウルズ
Paul Frederic Bowles、1910年12月30日 - 1999年11月18日は、アメリカ合衆国の作曲家、作家、翻訳家。小説『極地の空』(映画『シェルタリング・スカイ』の原作)の作者として知られる。ニューヨーク出身。3歳のときから本を読み始めて、アーサー・ウェイリーによる漢詩の英訳に大きな影響を受け、自分でも物語や詩を作るようになった。またピアノ、声楽、音楽理論を学んでいたが、15歳の時にカーネギーホールで聴いたイーゴリ・ストラヴィンスキーの『火の鳥』に巨大な衝撃を受けた。彼はまた北アフリカの音楽民族学の先駆者でもあった。1959年から1961年にかけて、ロックフェラー財団と連邦議会図書館の援助でユダヤ系を含むモロッコの様々な集団の伝統音楽の録音を行った。彼が収集した音楽は舞踊音楽、世俗音楽、ラマダーンなどの祭りの音楽、儀礼音楽など多岐にわたり、現在連邦議会図書館に保存されている。

カリム・アラミ
Karim Alami, 1973年5月24日 - は、モロッコ・カサブランカ出身の元男子プロテニス選手。同い年のヒシャム・アラジ、2歳年上のユーネス・エルアノーウィと共に90年代から00年代前半にかけてモロッコのテニス界を大きく前進させた人物である。右利き。ATPランキング自己最高位はシングルス25位、ダブルス130位。キャリア通算でシングルス2勝、ダブルス1勝を挙げた。

イブン・トゥーマルト
(1091年? - 1130年)は、モロッコの宗教運動家。ムラービト朝に対して反乱を起こし、実質的にムワッヒド朝の前身を築き上げた。モロッコ南部のアンティ・アトラス山中のベルベル人系のマスムーダ族の一支族であるハルガ族の出身。1106年、16歳のときに東方へ修学の旅に出た。コルドバにしばらく滞在した後、マシュリクに向かいアレクサンドリアに上陸してメッカ巡礼を果たした。

エンリケ航海王子
Infante Dom Henrique, 1394年3月4日 - 1460年11月13日は、ポルトガルの王子であり、自らは航海しなかったが、大航海時代の初期における重要人物の1人である。アヴィシュ王朝を開いたジョアン1世の子であり、後に初代のヴィゼウ公となる。その生涯において、探検事業家、パトロンとして航海者たちを援助するとともに指導し、それまで未知の領域だったアフリカ西岸を踏破させるなどしたことで、大航海時代の幕を開いた。

メフディー・ベン・バルカ
(Mehdi Ben Barka、1920年 - 1965年10月29日失踪)は、モロッコの政治家。左翼政党の人民諸勢力全国同盟(UNFP)の党首、キューバの国際的政治団体アジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯機構(OSPAAAL)の書記を務める。モロッコ国王ハッサン2世への抵抗運動を展開するも、パリで失踪を遂げた。1920年ラバトで公務員の家に生まれる。1950年にフランスの学校で、モロッコ人としては初めて数学の学位を得た。

ナビル・エル・ザール
Nabil El Zhar, 1986年8月27日 - は、フランス・ガール県アレス出身サッカー選手。レバンテUD所属。モロッコにルーツを持ち、モロッコ代表としてプレーする。ポジションはフォワード。2005年のFIFAワールドユース選手権での活躍が認められ、ASサンテティエンヌでトップチームデビューする前にリヴァプールFCに引き抜かれた。2011年8月、スペインのレバンテUDに完全移籍した。

マリカ・ウフキル
(Malika Oufkir、Malika Ufqir, 1953年4月2日 - )は、かつて長期にわたり過酷な監禁生活を送ったことで知られるモロッコの人物である。1972年にハサン2世が搭乗するボーイング727の撃墜未遂事件が発生、事件の首謀者であったウフキル将軍は処刑された。事件の数ヵ月後、マリカ・ウフキルとその家族は1973年から1977年まで、モロッコの南にある廃墟に軟禁された。1977年にサハラ砂漠の監獄に移され、さらに過酷な監禁生活を送ることになった。1987年、マリカを含む数人が脱獄を決行し、監禁生活の事実が全世界に知られることになった。

ラーラ・サルマ
(Princess Lalla Salma、1978年5月10日 - )は、モロッコの現国王ムハンマド6世の王妃。 旧名はサルマ・ベナニ。モロッコ北東部のフェズ出身で、国立の情報処理学校を卒業後、コンピューター・エンジニアとして働いていた。21歳のときに当時皇太子であったムハンマド6世とパーティーで知り合い、2002年3月21日に国王と結婚。モロッコ史上初めて公に紹介された王妃となった。

ジョルジュ・ビュルー
(Georges Burou, 1910年 - 1987年)はモロッコに在住したフランス国籍の産婦人科医である。トランスウーマンのための陰茎陰嚢皮膚翻転法(性別適合手術)を確立したことで知られる。ジョルジュ・ビュルーは1910年に当時フランス領であったアルジェリアに生まれ、1940年に、モロッコのカサブランカに移住し、現地に「パルク診療所」(Clinique du Parc)を設けた。そして、アメリカ人医師との協力や研究を重ねて、1950年代後半に彼独自の陰茎陰嚢皮膚翻転法の基礎を確立した。

フランク・ステファンソン
(Frank Stephenson、1959年 - )は、モロッコ出身のカーデザイナー。現マクラーレンスタイリングディレクター。ハイスクール時代をスペインマドリードで過ごし、渡米後カーデザインの名門アートセンター・カレジッジ・オブ・デザイン卒業。

ラーラ・メリヤム
Lalla Meryem, 1962年8月26日 − )は、モロッコの王女。父は先代の国王ハサン2世、母はラーラ・ラティファ・ハンム王妃で、夫妻の最初の子供である。イタリア・ローマ生まれ。モロッコユニセフ協会の会長、在外モロッコ人のためのハサン2世基金会長、モロッコ国立児童権利監視センター(Moroccan National Observatory of the Childs Rights)会長、退役軍人社会研究のためのハサン2世基金会長などに就任。現在、ユネスコ親善大使として、女性と児童の権利向上に尽力している。

イドリースィー
1099年/1100年?-1165年/1166年/1180年?)は、中世に活躍したアラブ人の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界地図を作成した。イドリースィーがアジア・アフリカ・ヨーロッパ域を網羅する初めて正確な世界地図『lawh al-tarsim』(「線描画の板」の意)を描いたのは、1154年、ルッジェーロ2世の宮廷で18年間に渡って作成した図解と説明を纏めたものだった。

ナタリー・ドロン
(Nathalie Delon、1941年8月1日 - )は、モロッコ・ウジダ出身の女優・監督。10代後半からモデルとして活躍するが、60年に保険代理業者の男性と結婚、カサブランカに戻り一女を儲けるも、程なく離婚。離婚後はモデル時代の芸名ナタリー・バルテルミーでモデル兼カメラマンとして活動する。63年に『黒いチューリップ』を撮影中のアラン・ドロンと出会い、64年に結婚。彼との間に息子のアントワーヌを儲ける。

エステバニコ
(Estevanico, およそ1503年 - 1539年)は北アフリカ出身のベルベル人で、アメリカ合衆国南西部の初期の探検家。エステバニコは当時ポルトガルの飛び領地だったモロッコのアザモール(Azamor、現アゼンムール)の町に生まれた。エステバニコは1513年にポルトガル人によって奴隷にされ、1520年にスペイン貴族のアンドレス・ドランテス・デ・カランツァに売られた。1539年、エステバニコを含む4人が黄金のシボラの7都市を探すマルコス・デ・ニサの探険隊にガイドとして同行した。しかし他のメンバーが病気になり、エステバニコは一人で探険を続け、現在のニューメキシコ州とアリゾナ州にあたる地域を発見した。

モロッコ Morocco
北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家。東にアルジェリアと、南にサハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)と、北にスペインの飛び地セウタ、メリリャに接し、西は大西洋に、北は地中海に面している。首都はラバト。

先史時代にベルベル人が現在のモロッコに現れた。古代には沿岸部にカルタゴのフェニキア人の港湾都市が築かれたが、内陸部ではベルベル系マウリ人のマウレタニア王国が栄えた。紀元前146年に第三次ポエニ戦争でカルタゴが滅亡すると、マウレタニアはローマ帝国の属国となり、44年にクラウディウス帝の勅令によってローマ属州となった。

ラバト
アフリカにあるモロッコ王国の首都。市の人口は65万人、都市圏では180万人(2010年)。ラバトとは「城壁都市」の意味である。町は大西洋に面し、ブー・レグレグ川の河口にある。ラバト=サレ地方の州都。川の向こう側にベッドタウンであるサレが広がり、ラバトの南には大西洋に面しタメラがある。これらの都市を合わせた都市圏人口は180万人に達する。沈泥により港湾機能は失われて来ているが、繊維、食品加工、建設などの産業が盛ん。絨毯製造は有名である。シェラというネクロポリスがブー・レグレグ川の両岸に残っている。これらは紀元前3世紀のもので、この頃には既に定住が行われていた。古代ローマは紀元40年にシェラを支配するとローマ人の定住地に変えた。250年まではローマの植民市の状態が続き、その後この地を放棄した。


マラケシュ
marrakishは、モロッコ中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市で、「南方産の真珠」と呼ばれてきた。マラケシュは、ベルベル語で「神の国」 (murt 'n akush)を意味する。北緯32度、西経8度、標高450mに位置する。気候はステップ気候に属する。人口は66万人であり、カサブランカとラバトにつぐモロッコ第3の都市でもある。


ハッサン空港
Hassan Airport, IATA空港コード: IVA, ICAO空港コード: GMMLとは、西サハラの最大の都市、アイウンにある飛行場で、旅客機の他に軍用機などが見られる(これはGoogle Earthなどの衛星写真で容易に見分けることができる)。他に西サハラの中にはダフラやセマラなど、4ヶ所に飛行場がある。

イブン・バットゥータ国際空港
Ibn Batouta International Airportは、モロッコ王国北部の都市タンジェにある国際空港。タンジェ国際空港(英: Tangier International Airport)とも言われている。

ムハンマド5世国際空港
モロッコ王国のカサブランカにある国際空港。モロッコの国王ムハンマド5世(1909年 - 1961年)を記念して命名された。カサブランカ市内とは連絡鉄道で結ばれている。ロイヤル・エア・モロッコとJet4youがハブ空港としている。

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西サハラ
Sahara Occidentalは、アフリカ大陸北西部の大西洋岸にある地域で、北から時計回りにモロッコ、アルジェリア、モーリタニアに接している。帰属については議論があり、亡命政権であるサハラ・アラブ民主共和国とモロッコ王国が領有を主張している。国際連合の「非自治地域リスト」に1960年代以来掲載されている。


外務省:モロッコ王国
在モロッコ日本国大使館


カサブランカ
Casablancaは、モロッコ最大の都市であり、モロッコの商業・金融の中心地。アフリカ有数の世界都市でもある。カサブランカとはポルトガル語、スペイン語で「白い家」を意味する。紀元前10世紀にベルベル人がアンファという地域に定住したのが、カサブランカの始まりだといわれている。紀元前7世紀頃にフェニキア人、紀元前5世紀頃にはローマ人と交易が行われていた。1515年に、ポルトガル人によって町の再建が行われ、町を"Casa Blanca"(ポルトガル語で「白い家」)と名付けた。


アル・ホセイマ
Al Hoceimaは、モロッコの都市。モロッコ北部、リーフ地方に位置し、タザ・アル・ホセイマ地方の州都である。地中海に面した港町であるが、町はリーフ山脈の崖の上にあり、中心部のケマド・ビーチ地区のみが海に面している。1950年代から1960年代にかけて、この地域がまだ貧しかった頃、家々のほとんどは海と空を表す白と青に塗られていた。これはこの街の公式な色と考えられていた。その後経済が成長するにつれて住民は自分の家を好きな色に塗り始めたが、2007年に市長は新しく建てられる家は伝統的な白と青に塗られるべきと発言した。

タンジェ
Tangieは、モロッコ北部にある都市。人口は、約67万人(2004年)。ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインやジブラルタルなどから多くフェリーが行き来し、国際都市として栄えている。フェニキア人によって設けられた交易拠点が起源となる。ローマ帝国、ヴァンダル王国、東ローマ帝国の支配を経てイスラム教勢力によって征服された。キリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動)の進展にともない、1415年にはアフリカ北岸のセウタがポルトガル領に組み込まれ、タンジールも15世紀後半にはポルトガル領となった。

ケニトラ
Kenitraは、モロッコの都市。人口374,041人(2004年)。大西洋岸の平野に位置し、大西洋からは17km離れている。セブー川の河口近くに位置し、大西洋からケニトラの港までは外洋船が遡行できる。ウジダからフェズ、メクネス、ラバト、カサブランカ、マラケシュを結ぶ鉄道幹線上に位置し、ラバトやカサブランカには30分に1本のダイヤで列車が走っている。2013年にはケニトラから北のタンジェまで高速鉄道が完成する予定である。

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アイウン
アフリカ大陸北部の西サハラに所在する都市。同地域の最大の都市である。亡命政府であるサハラ・アラブ民主共和国(1976年に隣国アルジェリアで樹立された)が自らの首都と定めている。ただし、西サハラ地域の多くはモロッコが実効支配しており、アイウンもモロッコの統治下にある。

サフィ
(Safi)は、モロッコの都市。中部海岸に位置し、大西洋に面する。人口284,750人(2004年)。大きな漁港があり、近くのリン鉱山からリン鉱石の積み出しも行われる。それを生かし、缶詰工場やリン酸塩の工場、肥料工場が立ち並び、繊維工業も盛んで、モロッコ有数の工業都市となっている。

メクネス
Meknesは、モロッコ王国の首都ラバトから東に130km、フェズの西60kmに位置する都市。2004年時点の人口は53万6232人。城壁に囲まれた都市で、1675年から1728年までアラウィー朝の首都が置かれた。

ウジダ
Oujdaは、モロッコの都市。人口約50万人。オリエンタル州の州都であり、モロッコ東部の中心都市である。モロッコ最東端の都市であり、アルジェリア国境とは15kmしか離れていない。アトラス山中に位置しており、地中海からは60km離れている。標高550m。

タンタン
モロッコ南部のタンタン地方にある都市。少ない人口の砂漠都市である。以下のことのみで知られている。Tan-Tan Plage、もしくはタンタン港がだいたい25kmのところにある。

アガディール
(Agadir)はモロッコ南西部の都市。人口は678,596(2004年)。大西洋とアトラス山脈に挟まれている。観光と農業が中心。農業は、ベルベル人が生産してきたアルガン油が評価されるようになり、生産・集積地として注目されている。


フェズ
Fezはアフリカ北西端、モロッコ王国北部の内陸都市。かつてマリーン朝などイスラム王朝が首都とした。13世紀から14世紀に発展、多数のモスク、マドラサ、大学などがある。2004年の人口は、94万6815人。メディナとよばれる旧市街地は、その町並みの構造から迷宮として知られる。旧来からの輸送手段であるロバがレンタル事業として制度化され、人や荷物運びの為にナンバープレートを付けたのを見かけることができる。つばなしの円筒形のフェルト帽のフェスは、この町の名前に由来する。


フェス条約
1912年3月30日にモロッコのフェス(フェズ)において、フランスとモロッコ王国の間で締結された条約である。これによってモロッコの大部分がフランスの保護領となった。1956年3月2日に破棄された。


西サハラ問題
アフリカ北西部にある西サハラの領有権を巡って、南北分割統治を主張するモーリタニア(1979年には領有権を放棄)とモロッコ、独立を画策するサハラの狼と呼ばれたエル・ワリ(英語版)を中心とするポリサリオ戦線(POLISARIO、サギアエルハムラ・リオデオロ解放戦線)の対立問題のことをいう。

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地中海連合
Union pour la Mediterraneeとは、欧州連合 (EU) の加盟国と地中海沿岸国による共同体。2008年7月13日にフランス大統領ニコラ・サルコジにより設立された[2][3]。もともと地中海連合はサルコジがトルコのEU加盟に反対していた一方で、トルコを加えた新たな地域統合の構想の枠組みとして提唱していたものであったが、2008年3月に構想段階での規模が縮小されたことで、トルコのEU加盟の代替案という考え方は破棄された。トルコは2008年に地中海連合をEU加盟の代替としないという保証を求め、そのうえで地中海連合に参加することを受け入れた。

アラブ連盟
League of Arab States、直訳は「アラブ諸国連盟」は、アラブ諸国の政治的な地域協力機構。第二次世界大戦末期の1945年3月22日創設。本部はカイロにある。加盟は22(21カ国と1機構)。 現在の連盟事務局長はエジプト前外相のナビール・エル=アラビー。

アラブ・マグレブ連合
Arab Maghreb Union: AMUとは、北アフリカの通称、マグレブと呼ばれる5ヶ国が同じ歴史、文化を共有した背景から連帯、進歩、諸権利の保護を目的とし、1989年に創設された経済協力機構。本部はモロッコのラバト。

公正発展党
公正発展党は、モロッコのイスラーム主義の政党。党首はアブデルイラーフ・ベン・キーラーン書記長。政治的にはイスラーム主義を掲げているが、モロッコの若者らによる政治組織「2月20日運動」のような急進的な体制変革は主張しておらず、国王の一定の権限を認めており、王党派の政党でもある。

イスティクラル党
Istiqlal Party、フランス語:Parti de l'Istiqlalは、モロッコの政党。独立党 と日本語訳されることもある。1943年に結成された当初はフランスの植民地支配からモロッコの独立をめざす民族主義を掲げていたが、1956年に独立を達成すると、モロッコ政界の中核的存在となった。王党派の保守政党で、中道民主インターナショナルに加盟している。


■国名
公式のフランス語表記は、Royaume du Maroc(ロワイヨーム・デュ・マロック)。通称、Maroc。公式の英語表記は、Kingdom of Morocco(キングダム・オブ・モラコウ)。通称、Morocco。al-Maghrib:アル・マグリブ)。 「日の没する地の王国」の意。


1.面積:44.6万平方キロメートル(日本の約1.2倍 西サハラ除く)
2.人口:3,123万人(2008年 世銀)
3.首都:ラバト
4.民族:アラブ人(65%) ベルベル人(30%)
5.言語:アラビア語(公用語)、フランス語
6.宗教:イスラム教スンニ派がほとんど

7世紀 アラブ人の侵入
1912年3月 フェズ条約によりフランスの保護領となる。
1956年3月 フランスより独立
1961年2月 モハメッド5世急逝。ハッサン皇太子国王即位。
1975年11月 西サハラ非武装越境大行進(緑の行進)
1989年2月 アラブ・マグレブ連合条約調印
1991年9月 西サハラ「停戦」成立
1992年9月 憲法改正
1994年6月 フィラリ内閣
1996年9月 憲法改正に係わる国民投票
1998年3月 ユスフィ内閣
1999年7月 ハッサン2世逝去。モハメッド6世国王(シディ・モハメッド皇太子)即位。
2002年11月 ジェットゥ内閣発足
2003年5月 ムーレイ・アル・ハッサン皇太子誕生
2007年10月 エル・ファシ内閣発足

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■主要産業:農業(麦類、ジャガイモ、トマト、オリーブ、柑橘類、メロン)、水産業(タコ、イカ、鰯)、鉱業(燐鉱石)、工業(繊維・皮革製品・食品加工)、観光業

■総貿易額・主要貿易品目(2008年、モロッコ為替局)(1)輸出(F.O.B) 199億ドル 燐鉱石・燐酸関連、衣類、食料品、電気・電子部品(2)輸入(C.I.F) 416億ドル 機械・設備類、エネルギー、材料(化学・金属・プラスチック)、消費財


モロッコ・ディルハム
Moroccan dirham)は、モロッコの通貨。ISO 4217の通貨コードはMAD。通貨記号は?.?.で、DHやDhsといったラテン文字での略式表記も用いられる。Moroccan dirham)は、モロッコの通貨。ISO 4217の通貨コードはMAD。通貨記号は?.?.で、DHやDhsといったラテン文字での略式表記も用いられる。


■経済
埋蔵量世界1位のリン鉱石を中心とする鉱業と、生産量世界第6位のオリーブ栽培などの農業が経済に貢献している。大西洋岸は漁場として優れており日本にもタコなどが輸出されている。観光資源も豊かである(観光収入は22億ドルに上る)。


マイクロクレジット
(Microcredit)は失業者や十分な資金のない起業家、または貧困状態にあり融資可能でない(商業銀行からの融資を受けられない)人々を対象とする非常に小額の融資(ローン、クレジット)である。これらの人々は担保となるものや安定的な雇用、検証可能な信用情報を持たず、通常のクレジットを利用するための最低条件にさえ達しない。マイクロクレジットは、少額保険、少額送金など少額ファイナンスサービスの一環であるため、貧しい人々への金融サービスを意味するマイクロファイナンスの一部分である。

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アルガン油
モロッコ原産の植物油。アルガンオイル。アカテツ科の広葉常緑樹アルガンの種子から採取される油。硬い種子を石で割り、ペースト状にすり潰してから搾油するという、非常に手間が掛かる工程を経て製造される。かつては家内制手工業で限定的に生産されてきたが、消費量が拡大するにつれ、アルガンの自生地であるモロッコ南西部のアガディールを拠点とした生産組合が増加している。


■鉱業
鉱業生産は、リン鉱石(採掘量世界第2位)、鉛鉱(同7位)、コバルト鉱(同8位)が有力だが、銅、亜鉛、金、銀なども採掘しており、天然ガスも豊かである。ただし原油の採掘量は1万トンと極めてわずかである。



lead、とは、典型元素の中の金属元素に分類される、原子番号が82番の元素である。なお、元素記号は Pb である。西洋占星術や錬金術などの神秘主義哲学では土星を象徴するが、これは(錆を生じて)黒く重い鉛が、肉眼で確認できる惑星のなかで最も暗く動きの遅い土星と相似していると考えられたためである。

コバルト
cobalt、は、原子番号27の元素。元素記号は Co。鉄族元素の1つ。安定な結晶構造は六方最密充填構造 (hcp) で、強磁性体。純粋なものは銀白色の金属である。1735年、スウェーデンのイェオリ・ブラント (Georg Brandt) により発見。コバルトという名称と元素記号は、ドイツ語で地の妖精を意味するコーボルト (kobold または kobalt) に由来する。

天然ガス
natural gas)は、一般に天然に産する化石燃料である炭化水素ガスのことを指す。広義には、地下に存在するガス、または地下から地表に噴出するガス一般のことであり、この中には化石燃料ガス(可燃性ガス)だけでなく、窒素や酸素、炭酸ガス、水蒸気、硫化水素ガス、亜硫酸ガス、硫黄酸化物ガスなどの不燃性ガスも含まれる。これら不燃性ガスの多くは火山性ガスである。


■農業
大西洋岸、地中海岸では天水に頼った農業が可能である。耕地面積は国土の21%を占める。農業従事者は429万人(2005年)である。


コルク
cork)は、コルクガシの樹皮のコルク組織を剥離、加工した弾力性に富む素材。コルクは本来はコルクガシの樹皮である。採集する際に形成層などの生きた組織を痛めないように、樹皮のみをはいで製造する。コルクガシを植樹後、数年を経た段階で、第1回の剥ぎ取りを行う。

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オリーブ
英: Olive、学名:Olea europaea)は、モクセイ科の常緑高木。果実がオリーブ・オイルやピクルスを作るときに利用されている。種子の油は、オリーブ核油 olive kernel oil といい、オリーブ油よりも品質が劣る。地中海地方が原産とされ、葉が小さくて硬く、比較的乾燥に強いことからスペインやイタリアなどの地中海地域で広く栽培されている。

サイザルアサ
(学名:Agave sisalana)はリュウゼツラン科リュウゼツラン属の植物、またはこれから取れるロープなどに使う繊維。アサの仲間ではないが、歴史的に最も使われてきた繊維である麻にちなんでサイザルアサと命名された。「サイザル」は以前よくこの繊維が船で積み出しされていたユカタン半島のサイザル港にちなむ。


立憲君主制
Constitutional monarchy)とは、憲法によって規定された君主制である。世界の立憲君主制国家の分布は左図の通り。代表的な立憲君主制国家にはイギリスやタイなどがある。また、制限君主制と混同されやすいが、憲法の有無と君主権の強弱は関係ない。憲法が存在しても、その憲法で君主に絶対的な権力を付与する定めになっていれば絶対君主制である。


アフリカ分割
1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。1912年にイタリアがリビアを獲得した事により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された。


スペイン・モロッコ戦争
La Guerra de Africaと知られている、は1859年から1860年にかけて起こった戦争。 北アフリカのスペイン領の都市セウタの境界上で始まり、モロッコ北部で戦われた。

第一次モロッコ事件
First Moroccan Crisisとは、1905年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がモロッコ北端の港湾都市タンジールを訪問し、フランスのモロッコ進出を牽制したことによって生じた国際紛争である。別名「タンジール事件(Tangier Crisis)」。

第三次中東戦争
イスラエルとアラブ連合(エジプト、シリア、ヨルダン)の間で発生した戦争。六日戦争(むいかせんそう)、六月戦争(ろくがつせんそう)とも呼ばれる。この戦争の結果として、イスラエルはガザ地区とヨルダン川西岸地区の支配権を獲得してパレスチナを統一、シナイ半島とゴラン高原を軍事占領下に置いた。戦争の結果は現在まで中東の地政学に影響している。


■国民
2004年にムハンマド6世の主導権によって新家族法が成立し、女性の婚姻可能年齢は18歳以上に引き上げられ、一夫多妻制についても厳しい基準が要求されるようになった。ただし、現在も一夫多妻制は条件を満たせば認められる。特に著名なモロッコのフェミニストとして、イスラーム教をフェミニズム的に読み替えることで男女平等の実現を達成することを主張するファーティマ・メルニーシーの名が挙げられる。

アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラビア人」の呼称が過去には一般的であったが、アラビア人を意味する英語のarabにさらに「人」をつけ足した「アラブ人」という言い方が、本来の意味からすればおかしいものの、オイルショックの頃から使われだし、やがて定着したもの。

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■民族
歴史的に、条件の良い平野部の土地を中心にアラブ人が暮らし、アトラス山脈の住民の大半がベルベル人である。2/3がアラブ人、1/3がベルベル人あるいはその混血がほとんどと言われる事が多いが、実際のところは両者の混血が進んでいる事、また過去に存在したベルベル人の独立問題などもあり(リーフ共和国)、国家としてはあくまでも両者はともにモロッコ人であるという考え方の元、民族ごとの統計を取るなどの作業は行われていない。

ヴァンダル族
(Vandal)は、ローマ帝国末期にヨーロッパ中央部に侵入してきた系統不明の民族で、北アフリカのカルタゴを中心にヴァンダル王国を建国した。

ベルベル人
北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。ベルベル人の先祖は1万年前から4000年前にカプサ文化と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、紅海の沿岸から次第に西進して北アフリカに広がったとみられる。


■文学
モロッコ文学はアラビア語、ベルベル語、フランス語で書かれる。アル=アンダルスで発達した文学もまた、モロッコ文学に位置づけられる。ムワッヒド朝下のモロッコは繁栄の時代を経験し、学術が栄えた。ムワッヒド朝はマラケシュを建設し、「史上初の書籍市」と呼ばれることになる書店を設立した。1950年代から1960年代にかけて、モロッコは避難所、芸術の中心となり、ポール・ボウルズ、テネシー・ウィリアムズ、ウィリアム・S・バロウズのような作家を導いた。モロッコ文学はモハメド・ザフザフ、モハメド・チョークリのようなアラビア語作家や、ドリス・シュライビ、タハール・ベン=ジェルーンのようなフランス語作家によって発達した。


■音楽
モロッコ音楽はアラブ起源のものが支配的である。その他にもベルベル人のアッヒドゥースやアブワース、黒人のグナーワ(「ギニア」に由来)、イベリア半島のイスラーム王朝からもたらされ、ヌーバと呼ばれて高度に体系化されたアル=アンダルス音楽など、多様な音楽の形態が存在する。


■教育
7歳から13歳までの7年間の初等教育期間が義務教育期間となっているが、就学率は低い。モロッコの教育は初等教育を通して無料かつ必修である。それにもかかわらず、特に農村部の女子を始めとした多くの子供たちが未だに学校に出席していない。教育はアラビア語やフランス語で行われる。主な高等教育機関としては、アル・カラウィーン大学(859年)やムハンマド5世大学(1957年)などが挙げられる。


ジャン・レノ
Jean Reno, 本名:Juan Moreno y Herrera Jimenez, 1948年7月30日 - は、フランスの俳優。モロッコ・カサブランカ生まれ。両親はスペイン・アンダルシア州出身。フランスで映画俳優としての活動を始めた。リュック・ベッソン監督の多くの映画に出演。同監督の『グラン・ブルー』(1988年)と『レオン』(1994年)は彼に大きな成功をもたらした。

イブン・バットゥータ
1304年2月24日 - 1368年は、モロッコのタンジェ生まれのイスラム法学者・旅行家。1325年、21歳のときにメッカ巡礼に出発し、エジプトを経てマッカ(メッカ)を巡礼し、さらにイラン、シリア、アナトリア半島、黒海、キプチャク・ハン国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワを経て中国に達し、泉州・大都を訪問したとされる。1349年故郷に帰還したのちも、さらにアンダルシア(イベリア半島)とサハラを旅し、1354年にマリーン朝の都フェスに帰った。特にイスラームの境域地帯(スグール)を広く遍歴した。

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アブド・エル・クリム
Abd el-Krim、1880年頃 - 1963年2月6日は、スペイン保護領モロッコの反乱指導者。本名、Muhammad Ibn 'Abd al-Karim al-Khattabi。第三次リーフ戦争の中心人物であり、リーフ共和国の初代大統領である。第一次世界大戦後、1919年スペイン軍のマヌエル・フェルナンデス・シルベストレ将軍の支配に反抗し、北アフリカの植民地革命運動の一環として、スペイン領モロッコの独立運動を組織しようとした。

ターハル・ベン・ジェルーン
ahar Ben Jelloun1944年12月1日 − は、モロッコ・フェズ出身の詩人、小説家。ゴンクール賞 1987年 国際IMPACダブリン文学賞 2004年 (『あやまちの夜』)の英訳版This Blinding Absence of Lightに対して)

ヒシャム・エルゲルージ
1974年9月14日 - はモロッコ生まれの中距離走の陸上競技選手であり、1500mと1マイル、2000mの世界記録保持者である。ハイペースを長く持続させて後続を突き放し、逃げ切るスタイル。敬虔なムスリムで、競技を通じて得た莫大な報酬を、貧しい人々の援助に使っている。モロッコにおける英雄的存在である。

アプレイウス
Lucius Apuleius, 123年頃 - ?)は、北アフリカ・マダウロス出身の帝政ローマの弁論作家。奇想天外な小説や極端に技巧的な弁論文によって名声を博した。代表作である「変容(または黄金のロバ)」は、ローマ時代の小説中、完全に現存する唯一のもの。カルタゴで初等教育を受け、アテネで哲学・修辞学などを修業した後、イタリア、ギリシア、アジア等に旅行し、神秘宗教や魔術などの知識も吸収する。

テルトゥリアヌス
クイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus, 160年? - 220年?)は、2世紀のキリスト教神学者。ラテン語で著述を行ったいわゆるラテン教父の系統に属する最初の一人。

ムハンマド6世 (モロッコ王)
Mohammed VI、1963年8月21日 - は、モロッコの現国王(在位:1999年7月23日 - 現在)。モハメド6世とも記される。父はハサン2世、母はラーラ・ラティファ・ハンム王妃(当時)で、兄弟に姉ラーラ・メリヤム王女、弟ムーレイ・ラシード王子がいる。2002年3月にラーラ・サルマ王妃と結婚。王妃はモロッコ史上初めて公に紹介され、尊称を持って呼ばれている。また王族初の一般女性との結婚となり、ムハンマド6世は一夫一妻制を維持している。

アブデルイラーフ・ベン・キーラーン
Abdelilah Benkirane1954年4月4日? - は、モロッコ王国の政治家。現在、同国首相、公正発展党党首。2011年11月の総選挙において公正発展党を勝利に導き、11月29日に首相に任命され、2012年1月3日に内閣が任命された。ラバトの貧しい地区で生まれたが、ベン・キーラーンの家族はもともとやや内陸に入ったフェズの出身である。彼の父親はスーフィズム(神秘主義)とイスラム原理主義に関心があった。これは彼の母親が、イスティクラル党の女性の会に参加していたことが影響している。

ハサン2世 (モロッコ王)
Hassan II、1929年7月9日 − 1999年7月23日は、モロッコの国王(在位1961年 − 1999年)。ハッサン2世とも表記される。モロッコの首都ラバトの帝国大学で高等教育を受け、フランスのボルドー大学で法学の学位を受ける。1953年8月20日に当時スルターンだったムハンマド5世に付いてフランスによりコルシカに亡命した。1954年にはマダガスカルに送られた。亡命中には父の政治的顧問として行動した。

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イドリース1世 (イドリース朝)
イドリース1世(? - 791年?)は、モロッコを支配したイドリース朝の始祖(在位:788年 - 791年)。最後の正統カリフであるアリーの子・ハサンの末裔を称した。モロッコは当時アッバース朝の支配下にあり、ハールーン=アッラシードがカリフであった786年にアラビア地方で正統カリフのアリーの子孫を称する反乱が起こったときに反乱軍に協力した。

ムハンマド・ナースィル
Muhammad al-Nasir, ? - 1213年)は、ムワッヒド朝の第4代アミール(在位1198年 - 1213年)。ムワッヒド朝の最盛期を築いた第3代君主ヤアクーブ・マンスールの子。父の死後、即位したが、ナースィルの治世はムワッヒド朝の創建から80年を経て王朝を支えたタウヒード主義運動への熱意を失わせ、王朝は徐々に弱体化していた。さらに、イベリア半島でキリスト教徒たちによる十字軍が結成され、アンダルス(スペイン南部)のムワッヒド朝支配領域を脅かした。

ナワル・エル・ムータワキル
Nawal El Moutawakel、1962年4月15日 - は、モロッコの陸上競技選手である。ロサンゼルスオリンピックではじめて行われた女子400mハードルで54秒61の記録を出し金メダルを獲得した。レース前の予想では地元アメリカ勢やヨーロッパ勢・オーストラリアなどの上位独占が予想され、エル・ムータワキルがメダルを獲得するという予想は少なく、まさに大番狂わせであった。

アブド・エル・クリム
Abd el-Krim、1880年頃 - 1963年2月6日は、スペイン保護領モロッコの反乱指導者。本名、Muhammad Ibn 'Abd al-Karim al-Khattabi。第三次リーフ戦争の中心人物であり、リーフ共和国の初代大統領である。地中海岸のリーフ族のうち、山地に居住するベニ・ウリアゲル部族の首長の子に生まれ、カラウィーン大学で学んだ後に、スペイン語が達者であったためメリーリャの原住民関係の事務所に勤務した。

サイド・アウィータ
1959年11月2日 - は、モロッコの元陸上競技選手である。1984年ロサンゼルスオリンピック男子5000mの金メダリストである。1980年代の中距離の各種目において圧倒的な力を誇った選手であり、1983年の9月から1990年9月の間に119回走り115勝をあげている。1985年には、アウィータは、5000mでデビッド・ムーアクロフトの持っていた記録を100分の1秒更新する13分0秒40、ついで1,500 mでもスティーブ・クラムの持っていた世界記録を更新する3分29秒46の世界新記録を樹立した。

バダ・ハリ
Badr Hari、男性、1984年12月8日 - は、オランダ出身のキックボクサー、プロボクサー。モロッコ系オランダ人。ショータイム、マイクスジム所属。初代K-1世界ヘビー級王者。初代IT'S SHOWTIME世界ヘビー級王者。リング外での悪童ぶりとビッグマウスも目立つが、試合運びは極めて正統派。アーネスト・ホーストやブランコ・シカティックも絶賛するほどの才能を持ち、15歳でプロデビューして以来、驚異的な勝率の高さを誇り、セーム・シュルトにも1ラウンドKO勝利するなどその実力を発揮している。

 

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