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リビア
Libya

アフリカ

■地理
アフリカ大陸の北部に位置し、地中海に面している。国土の大部分がサハラ砂漠の一部であり、面積の大半を砂漠が占める。サハラ砂漠のリビア部分を特にリビア砂漠と呼ぶ。砂漠には砂丘のみならず、岩石砂漠や礫砂漠も存在する。南部には山脈が走り、トリポリ南方にはナフーサ山脈が、ベンガジ東方にはアフダル山脈が存在する。


北アフリカ
アフリカのうちサハラ砂漠より北の地域を指す。また、マグリブ地域のみを指す場合もある。エジプトやリビアを中心に中東の一部として定義されることも多い。サハラ砂漠をはじめとした砂漠地帯やステップが大部分を占めるがEU諸国と対しており、モロッコやチュニジアのように経済が比較的発達している国が多い。アラブ系のコーカソイドが多いためホワイトアフリカともよばれる。


地中海世界
ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、西アジアのあいだに挟まれた「地中海」沿岸の領域を指す。地理的な領域であるが、この領域は太古より様々な文化や民族の相互交流が絶えず、とりわけ古代から中世初期にかけては一つの独自な文化圏を形成していた。


地中海
the Mediterranean Seaは、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた海である。海洋学上の地中海の一つ。地中海沿岸の現代の国家はアフリカ: (東から順に)エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ。

サハラ砂漠
アフリカ大陸北部にある世界最大の砂漠。東西5600km、南北1700kmで面積は約1000万km2であり、アフリカ大陸の3分の1近くを占める。砂漠北部のアルジェリアとリビアは豊富な石油の埋蔵量を持つ。またモロッコと西サハラには燐酸塩が埋蔵される。

リビア砂漠
Libyan Desertは、北アフリカ、エジプトのナイル川河谷からリビア東部に及ぶ砂漠。エジプトでは西部砂漠と言う。広義のサハラ砂漠の一部をなす。標高150〜300m、面積約170万平方キロメートル。流砂による砂丘地帯が広がる。シワ・オアシス、カスル・ファラーフラ、クフラなどのオアシスがある。古来アフリカ内陸との隊商ルートが存在した。古代エジプト時代から宝石として使われたリビアングラスの産地でもある。

アフダル山地
リビア北東部、キレナイカ地方北部に位置する山地。標高は最高でも600mに達せずそれほど高くないが、地中海からの季節風がアフダル山地にぶつかって雨を降らせるため、山地より北は地中海性気候となり、ベンガジなどの都市がある。また、「ジュベル・アフダル」とは「緑の山地」という意味であり、その名のとおりアフダル山地にはまとまった降雨があるために植生もあり農耕も可能で、山地の上にも保養地として知られるアルバイダなどいくつかの町が形成されている。

シドラ湾
Gulf of Sidraとは、地中海に面したリビア北岸の湾である。湾岸にはシルテ(スルト)の町があり、シルテ湾(スルト湾)とも呼ばれる。シドラ湾ではマグロが重要な漁業資源となっている。

オアシス
Oasis)とは、砂漠やステップといった乾燥地域において、淡水が存在する場所をいう。オアシスの直接的な語源は古代ギリシア語にあり、ヘロドトスの「歴史」(第3巻 26節)に見られる。ここでは、リビア砂漠に存在した諸都市(オアシス都市)の名とされている。

キャラバン
caravan)とは、ペルシャ語の「カールヴァーン」(Karvan)に由来する言葉で、日本語では「隊商」という訳語が充てられている。キャラバンは商品の輸送中に盗賊団などの略奪、暴行などの危険から集団的に身を守り、商品の安全やいざというときの保険のために、複数の商人や輸送を営む者が共同出資して契約を結ぶことによって組織されていた。


アフリカ
Africaは、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。 赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある。面積は3,020万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが、人口は約10億人で、世界人口比では14.72%を占めるに過ぎない。2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国がある。

リビア大人工河川
Great Manmade River。リビア人工大運河、リビア大水路とも)は、リビアの砂漠地帯に眠る化石水を汲み上げ、パイプラインによって海岸部の大都市や農園地帯に供給しようという計画。現在一部が完成し、実際に供用されている。1953年、リビアにおける石油探査の際、内陸部のサハラ砂漠の地下深くに1万年以上前に蓄積された大量の地下水が眠っていることが発見された。1984年、その地下水を汲み上げ、海岸部のトリポリやベンガジといった大都市や、トリポリタニア、キレナイカの農耕地帯に供給する大灌漑計画が発表された。25年計画であり、2009年度中の完成を目指している。カッザーフィー大佐は、この計画について「世界の8番目の不思議だ」と述べた。


<歴史>
■古代
古代にはフェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、東ローマ帝国の支配を受けた。7世紀にアラブ人のウマイヤ朝に征服され、イスラム教が広がった。その後16世紀にオスマン帝国に併合された。1711年に土着化したトリポリ総督のトルコ系軍人が自立し、カラマンリー朝が成立した。

■20世紀初頭
伊土戦争により、1911年にはイタリア王国がリビアを植民地化した。植民地化後はイタリア人が入植したが、サヌーシー教団のオマール・ムフタールやベルベル人による激しい抵抗が繰り広げられ、特にフェザーンでの抵抗は激しく、イタリアによるリビアの完全平定は1932年にまでもつれこんだ。第二次世界大戦中には連合国(イギリス)と枢軸国(イタリア、ナチス・ドイツ)の間で激戦が繰り広げられた(北アフリカ戦線)。イタリアの敗戦により、戦後は英仏の共同統治領とされた。

■1949年
国連の決議により、1951年にリビアはキレナイカ、トリポリタニア、フェッザーンの3州による連合王国として独立した。リビア連合王国の国王にはキレナイカの首長であり、サヌーシー教団の指導者だったイドリース1世が即位した。

■1969年9月1日
ナセル主義者だった27歳のムアンマル・アル=カッザーフィーと同志の青年将校たちによるクーデターにより、トルコに滞在中だった国王イドリース1世は退位し、カッザーフィー(カダフィ大佐)を事実上の元首とする共和国が成立した。

■2001年
同時多発テロ事件以降は一転してアメリカと協調路線をとる一方、成果を出せない親アラブ外交から親アフリカ外交へとシフトし、アフリカ連合内で主導権を握ろうとしていた。

■2011年
カッザーフィー打倒を旗印にした反体制派(後のリビア国民評議会)と政権側との間で約半年間内戦状態になった。その後約2ヶ月間にわたって逃走を続けていたカッザーフィー本人も10月20日にスルト(シルト)で射殺されたと発表され、42年間続いたカッザーフィー政権は完全に崩壊した。

2011年リビア内戦
リビアにおいて2011年に起こった政治社会的要求を掲げた大規模な反政府デモを発端とする武装闘争である。2月15日に開始され、同年8月に首都トリポリが北大西洋条約機構軍の支援を受けた反体制派のリビア国民評議会の攻勢によって陥落し、40年以上政権の座にあったムアンマル・アル=カッザーフィー(事実上の最高権力者。以下カダフィ)が率いる大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国が事実上崩壊。

伊土戦争
Italo-Turkish War, Turco-Italian War)は、1911年9月から1912年10月の間にイタリア王国とオスマン帝国の間で戦われた戦争。戦争はイタリア王国軍の勝利に終わり、敗北したオスマン帝国からローザンヌ講和会議でトリポリタニア・フェザーン・キレナイカを獲得した。1911年10月23日、イタリア陸軍航空隊は飛行船による前線偵察を行わせており、11月1日に捕捉したオスマン軍部隊に爆弾を投下した。これは世界で最初の「空軍による地上攻撃」として記録されている。

リビア爆撃 (1986年)
1986年4月15日にアメリカ空軍及び海軍によって行われたリビアに対する空襲を指す。リビア最高指導者のムアンマル・アル=カッザーフィーに対する攻撃であった。アメリカ合衆国は、リビアがアブ・ニダルなどのテログループを支援しており、またシドラ湾における200海里の領海主張は国際法に反しているとして非難を行っていた。


大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国
かつて北アフリカのリビアに存在した共和制国家。首都をトリポリに置き、行政機関の一部をシルテに置いていた。1969年から1977年までのリビア・アラブ共和国も合わせて記述する。アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟、アラブ・マグレブ連合にも加盟していた。

リビア王国
かつてリビアに存在した王国。1951年にイドリース1世を国王に戴いて独立した。1963年までは連邦制であり、その間の国名はリビア連合王国であった。キレナイカで19世紀以降広く信仰されて勢力を強め、オスマン帝国やイタリアに対して抵抗を続けてきたサヌーシー教団のサヌーシー家を王家とする。

アッ・サラーイ・ル・ハムラ城
(Al-Saraya al-Hamra)はリビアのトリポリにある城。ハムラはアラビア語で『赤い』の意であり、文字通り外壁は赤く塗られている。
古代ローマ時代の紀元前2世紀ごろこの場所に建てられた公衆浴場を元に、644年にアラブ人の手によって要塞が作られた

<世界遺産>
サブラタの遺跡
古代トリポリタニアの三都市のうち、最西端に位置した都市。現在のリビアの北西端ザウィア (Zawia)市に位置する。ブラタの遺跡で有名なのは、3層構造を保っている雄大な3世紀の劇場だが、そのほかにもリベル・パテル(ディオニュソスと同一視される酒の神)、イシス、セラピス (Serapis) などに捧げられた神殿群がある。

クーリナの遺跡
Cyreneは、現リビア領内にあった古代ギリシャ都市で、この地方にあった5つのギリシャ都市の中で最大・最重要を誇った。現在のリビア東部のことを「キレナイカ」(Cyrenaica) と呼ぶのは、キュレネに因むものである。都市キュレネは、紀元前630年頃に、ティラ島のギリシャ人たちの植民都市として、北アフリカの港アポロニア (Apollonia) から16kmほどのところに建造された。苦境にあえいでいたティラ島の住民たちは、デルポイの神託に従ってこの地に移り住むことを決意したのだという。その都市建設の様子はヘロドトスの『歴史』第4巻に詳述されている。

タドラット・アカクスの岩壁画
サハラの一部にあたるリビア西部の砂漠地帯。アルジェリア国境に近く、ガット (Ghat) の町にも近い。「タドラルト」は現地の言葉で「山」を意味する。この地域の特色は先史時代の岩絵が多数現存していることであり、「タドラルト・アカクスの岩絵遺跡群」の名でユネスコの世界遺産にも登録されている。この地域の岩絵(彩色画・線刻画)の重要性が評価され、世界遺産に登録されている。紀元前12000年頃から西暦100年頃に至るまでに描かれた岩絵は、この地域の文化的・自然的変化を反映している。岩絵には、ゾウ、キリン、ラクダなどや馬に乗った人が描かれ、タッシリ・ナジェールの岩絵と同じく、かつてこの地が緑の大地であったことを教えてくれる。岩絵には、音楽や舞踊といった日常の様々な生活風景も描かれている。

ガダーミス旧市街
アルジェリアやチュニジアの国境にも近い、トリポリの約600km南西に位置するリビアのオアシス都市。オアシスには、7000人のトゥアレグが住む。町の中でも、古くからある壁に囲まれた区域は、ユネスコの世界遺産に登録されている。この区画には7つの氏族が住み、それぞれの縄張りを持っているが、祭りに使う共有地は設定されている。

レプティス・マグナの遺跡
リビアの首都トリポリの東130kmに位置するアル・クムス市 (Al Khums) にある古代ローマ時代の傑出した都市遺跡。トリポリタニアの三都のひとつであったと同時に、アフリカ初のローマ皇帝セプティミウス・セウェルスを輩出した都市として知られ、その治世に絶頂期を迎えた。「マグナ」は「偉大な」という意味だが、チュニジアにもレプティスという町があったことから、区別するために付加されていた。2005年6月に、湾岸部の調査を行っていたハンブルク大学の考古学者たちは、西暦1世紀から2世紀頃のものと思われる長さ9mほどの5つのモザイク画を公表した。そこには際立って鮮明な形で、シカと戦う戦士、野牛と戦う四人の男、殺した相手に目を向ける疲れきった剣闘士などが描かれていた。それらのモザイクは、レプティス・マグナのワジ・レブダにあるローマ式別荘内にあった、浴場の滝つぼの壁を飾っていたものだった。

■宗教
宗教は国教のイスラームが約97%であり、大半がスンナ派がであるが、イバード派も少数派として5〜10%程度を占める。また、キリスト教も少数ながら存在し、コプト正教会が人口の1%以上を占める他、移民によってもたらされたアングリカン・チャーチやローマ・カトリックも存在する。

サヌーシー教団
Senussiは、イスラーム神秘主義の教団。「ネオ・スーフィズム」と呼ばれるイスラーム神秘主義の改革運動の流れを汲む教団であり、主にリビア東部のキレナイカ地方で強く信仰されている。サヌーシー教団の創設者であるムハンマド・イブン・アリー・アッ=サヌーシーは現在のアルジェリアで生まれた。各地に遊学した後、1826年にメッカ巡礼を行った際イスラーム神秘主義者のイブン・イドリースに傾倒してイドリース教団に入門し、その高弟となった。

シャリーア
Shari'a)は、イスラーム教における宗教に基づく法体系。非ムスリムからはイスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。日本語では、渡り音挿入の規則に従い、シャリーヤ、シャリヤと呼ばれることもある。

シーア派
イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派である。イスラム教の開祖ムハンマドの従弟で、娘婿のアリーと、その子孫のみがイマームとして預言者のもつイスラム共同体(ウンマ)の指導者としての職務を後継する権利を持つと主張する。

イバード派
イスラム教の宗派のひとつ。初期に多数派(のちのスンナ派とシーア派)から分派して成立したハワーリジュ派の流れを汲み、現在は主にオマーンに多い。イバード派の名は、最初の指導者とされる人物の名に由来している。

イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。

コプト正教会
Coptic Christianity、は、キリスト教・非カルケドン派(東方諸教会)の一つであり、エジプトで発展した教会。コプト教会とも。ニカイア・コンスタンティノポリス信条を告白し、マリアを神の母として崇敬する。『マタイによる福音書』に聖家族のエジプト逃避の記事が有ることから、コプト教会に於けるマリア崇敬は極めて盛んである。

■国民
国民の大多数がアラブ人、もしくはアラブ人とベルベル人の混血である。少数民族として先住民のベルベル人や、南部のスーダン系黒人が存在する。遊牧生活を送るベドウィンやベルベル系のトゥアレグ人も存在する。かつてはユダヤ人も存在していたが、イスラエル建国や第3次中東戦争による反ユダヤ主義的機運の高まりで、多くのユダヤ人が国外に脱出。


アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラビア人」の呼称が過去には一般的であったが、アラビア人を意味する英語のarabにさらに「人」をつけ足した「アラブ人」という言い方が、本来の意味からすればおかしいものの、オイルショックの頃から使われだし、やがて定着したもの。

ベルベル人
北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。

ベドウィン
アラビア半島においては、南端の農耕地帯に余剰人口が生ずるにいたり、農耕民の中で進取の気性ある者が耕作不能な土地に家畜を連れて北上したのが、ベドウィンの始まりとされる。

トゥアレグ
ベルベル人系の遊牧民。アフリカ大陸サハラ砂漠西部が活動の範囲である。自身では「ケル・タマシェク(Kel Tamasheq)」(タマシェク語を話す人々)と呼ぶ。中世にはサハラ交易を支えた。しばしば隊商を襲撃したことから好戦的民族として恐れられた。


■言語
公用語はアラビア語である。西部ではアラビア語チュニジア方言の影響が強く、東部ではアラビア語エジプト方言の影響が強い。またイタリアの植民地であったことから一部ではイタリア語も通用する。


アラビア語
世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、サハラ砂漠以北のアフリカ北部の領域を中心に(非独立地域を含めて)27か国で公用語とされており、また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語でもある。

アラビア語チュニジア方言
アラビア語チュニジア方言とはアラビア語のマグリブ方言であり、国家の公用語である正則アラビア語と共に1,100万人のチュニジア人によって話される。アラビア語との違いのため、話者はderiya (方言)またはtunecí(チュニジアの)と呼ぶ。


ウマイヤ朝
Banu Umayyad は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。サラセン帝国(ただしサラセン帝国はかつてのヨーロッパでの呼称)、大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。

オスマン帝国
テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国で、15世紀には現在のトルコの都市イスタンブルを征服して首都とし、17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロヴァキアに至る広大な領域に及んだ。

カラマンリー朝
1711年から1835年まで、オスマン帝国の宗主権下でリビアのトリポリタニアを支配した半独立政権。カラマンル朝とも。トリポリタニアは1551年以来オスマン帝国の支配下にあったが、オスマン帝国の衰退とともに各地で在来勢力が伸張する中、トリポリタニアでもトルコ系出身のトリポリ州パシャであるアフマド・カラマンリーが台頭し、1711年にオスマン宗主権下の世襲王朝を開いた。


アリー・ゼイダーン
Ali Zeidan(もしくはZidan)、1950年 - )は、リビアの政治家、外交官。現在、同国の首相(2012年10月31日議会承認、2012年11月14日内閣発足)。ジュネーヴを本拠地とする人権派弁護士であり[2]、リビアでは果断なリベラル主義者とみなされている[3]。1970年代より在インドのリビア大使であったムハンマド・ユースフ・エル=マガリエフのもとで外交官として活動。

ムスタファー・アブーシャーグール
1951年2月15日 - )は、リビアの政治家。2011年から2012年まで同国副首相を務めた。2012年9月12日に首相に指名されたが、組閣に失敗したため解任され副首相に戻った。ガルヤーン出身。トリポリ大学で電子工学を学び、卒業後カリフォルニア工科大学へ。1977年に修士号、1984年には博士号を取得。2011年のリビア内戦を契機にリビアへ帰国。リビア国民評議会に参加。アブドッラヒーム・アル=キーブ内閣の下で副首相に就任。

マフムード・ジブリール
Mahmoud Jibril1952年- )は、リビアの政治家。2011年リビア内戦においてカッザーフィー政権と戦ったリビア国民評議会では執行委員会(幹部会)委員長、国際担当責任者を務め、それぞれ暫定政府の首相、外務大臣に相当する。現在、国民勢力連合党首。1975年カイロ大学を卒業した。同大学では政治学と経済学を修めた。その後、アメリカピッツバーグ大学に留学し、1980年政治学で修士号を、1985年に政治学博士号をそれぞれ取得している。

イブラヒーム・アル・コーニー
Ibrahim Al-Koni、1948年 - )はリビアの作家。「アル・クーニー」表記もある。サハラ砂漠で生活するベドウィンであるトゥアレグ族の出身であり、砂漠に生まれ育つ。リビア大使館の文化参事官となり、モスクワ、ワルシャワ、ベルン、カサブランカなどを転々としつつ創作活動を続けた。その小説は、すべてサハラ砂漠を舞台としており、人間の他にも動植物やジンなどが関わり、寓意的な物語世界を形作る。

リビア Libya
北アフリカに位置する共和制国家。東にエジプト、南東にスーダン、南にチャドとニジェール、西にアルジェリア、北西にチュニジアと国境を接し、北は地中海に面し、海を隔てて旧宗主国のイタリアが存在する。首都はトリポリである。2011年2月17日から大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国(ムアンマル・アル=カッザーフィー政権)と、ベンガジを根拠地とする勢力リビア国民評議会の間で内戦が起こり、リビア国民評議会が首都トリポリを陥落させて、事実上政権を奪取した。

トリポリ
Tripoliは、リビアの首都。リビアの北西部に位置し、地中海に面した港町である。人口はおよそ170万人で、リビア最大の都市である。都市名は紀元前7世紀にカルタゴによって建設されたフェニキア人の植民都市「オエア」「サブラタ」「レプテイス」3つを総称してギリシア語で「3つの都市」を意味する Tripolis という名で呼ばれたことに由来する。

ベンガジ
Benghaziは、リビア北東部に位置する主要な港湾都市である。人口は446,250人。地元言語ではバンガーズィ)と呼ばれる。古代ギリシア時代には植民地キレナイカの中心都市であり、ヘスペリデスと呼ばれ、サハラ砂漠を縦断するアラブ隊商の拠点となるとともに隊商路の起点として繁栄。それを象徴するように、ベレニケ跡地にプトレマイオス朝、ローマ属州期の石墓が多数残っている。1955年リビア大学が創設され近代的なビル街も整備されたがイスラム色が色濃く残っている地域でもある。

ミスラタ
Misurataは、リビアの都市。リビア北部、トリポリタニア東部に位置し、首都トリポリからは211km東に、ベンガジから825km西に位置している。 ミスラタ県の県都である。シドラ湾の入口に位置し、カスル・アハメド港という大港湾を持つ。トリポリとベンガジを結ぶ幹線上にある。人口55万人(2006年)で、トリポリとベンガジに次ぐリビア第3の都市である。

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アルバイダ
Al Bayda 、Beidaは、リビアの都市。リビアの北東部、キレナイカ地方に位置する。人口250,000人。リビア第3の都市である。ジャバル・アクダル山地上、標高164mの高原上に位置 し、リビアでは涼しく過ごしやすい土地とされ、保養地ともなっている。サヌーシー教団の本拠地として知られ、リビア王国時代にはトリポリタニアのトリポリ、キレナイカの中心ベンガジと並び、王家の本拠地として首都のひとつとされていた。


外務省:リビア
在リビア日本国大使館


ファーテハ大学
Al Fateh Universityは、リビアで最大の規模と重要性を誇る高等教育機関。首都トリポリに所在する。1957年に創立。ファーテハ大学の名称は、同名の革命(ファタハ革命)が勃発した後の1976年に付けられた。学部教育、大学院教育を提供している。

トリポリ大学
University of Tripoli)は、リビアで最大の規模と重要性を誇る高等教育機関。首都トリポリ(タラーブルス)に所在する。1957年に創立。ファーテハ革命が勃発した後の1976年にファーテハ(ファーティフ)大学と改名されたが、2011年のカダフィ政権崩壊後、トリポリ(タラーブルス)大学の名に戻された。学部教育、大学院教育を提供している。

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リビアの鉄道
かつてリビアを支配していたイタリアは、リビアに950 mm軌間の鉄道を400 km近く建設した。イタリアが最後に着工した鉄道はトリポリとベンガジを結ぶもので、1941年夏に着手されたが、第二次世界大戦の敗北により初期の段階で工事は中止された。


スルト
シドラ湾沿岸に位置し、トリポリタニア東端の都市である。スルト県の県都。トリポリとベンガジを結ぶ幹線沿いに位置し、さらにここからフェザーンの中心都市であるセブハへの道路も分岐する要衝である。1942年にムアンマル・カッザーフィーがここで生まれた。

ザーウィヤ
ザウィヤ県の県都である。人口291000人(2006年)。リビア北西部、トリポリタニアの海岸に位置し、首都トリポリから50km西に位置する。ザウィヤには1988年に創立された4月7日大学があり、またリビアに2つある巨大製油所のひとつがあるため、リビアの経済上重要な都市のひとつである。

バニワリード
リビア北西部、トリポリタニアに属し、ミスラタ県に属する。2007年まではバニワリード県の県都だった。バニワリードはMerdumワジに面している。バニワリードにはミスラタ大学のキャンパスの一つが置かれている[2][3]。バニワリードはワルファラ族の本拠地である。

アジュダービヤー
リビア北東部、シドラ湾から数km離れた場所にある 。キレナイカ最西端の都市である。アルワハト県の県都。ベンガジから160km南に位置する。首都トリポリとベンガジを結ぶ幹線上に位置し、さらにキレナイカ主要部をショートカットして国境近くのトブルクへ向かう道路とキレナイカ南部の中心都市であるクフラへと向かう道路が分岐する交通の要衝である。

アジージーヤ
リビア北西部の都市でジファーラ県の県都。トリポリの41km南西に位置する。2001年まではアジージーヤ県の県都であった。サヘル・ジェファーレ高原の交易の要衝で、沿岸部からナフサ山地や南のフェザーンに向かう交易路が通る。

トブルク
リビア東部の地中海岸にある都市。エジプトに近い港湾都市である。人口約110,000人。北アフリカ一と言われる天然良港を持ち、都市の周囲は砂漠となっている。キレナイカの主要都市の一つであり、空港もある。古代ギリシャ時代にはギリシャ人の植民都市であったが、その後はキレナイカ地方を守るローマ人の城壁都市となった。

セブハ
リビアのフェザーン地方の都市。同地方最大の都市であり、セブハ州の州都。人口130000人。フェザーン地方には他に都市らしい都市は存在せず、唯一の都市として行政機能・商業機能が集積している。サハラ交易の要衝であり、オアシス都市である。空港があり、トリポリ及びベンガジへ航空便が就航している。

ズワーラ
(Zuwara)は、リビアの都市。地中海に面する港町で、109km東に首都トリポリが、60km西にチュニジアとの国境がある。ズワーラの住民の多くはイスラム教シーア派のうちのイバード派の信徒である。住民はベルベル人が多い。

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フムス
リビアの都市。リビア北西部、トリポリタニア北部に位置し、首都トリポリからは120km東に位置する。人口20万2000人(2009年)。3.2km東にはローマ帝国時代の大遺跡であるレプティス・マグナ遺跡がある 。オリーブやナツメヤシ、オレンジといった周辺の農産物の集散地であり、また遠浅の美しい海があるため海水浴場としてもにぎわいを見せる。

マルジュ
リビア北東部の都市。マルジュ県の県都である。地中海とアフダル山地で隔てられた、高地の谷あいに位置する。1963年2月21日にはM5.6の地震が起き、市内の大半の建物が倒壊、300人近くが死亡し500人以上が負傷した。主要な建物は市街から5kmほどの地点に再建されることとなり、1970年前後に完成した。

デルナ
リビアの都市。人口80000人。リビア東部に位置し、地中海に面する港町でデルナ県の県都である。デルナは緑の山を背後に抱え、地中海と砂漠に挟まれたリビアのなかでもユニークな環境を持っている。デルナには3つの広場がある。もっとも人気のある広場はMaydan Assahabahであり、ここはカダフィ政権に対する抗議デモにも使用された。デルナの旧市街はオスマン時代の建築やモスク,シナゴーグ、教会、古いスークが立ち並び、観光客が訪れる。

ガート
リビアのガート県にあり、南西部のアルジェリア国境に近い町である。ガートはかつてサハラ交易の重要な中継点だった。このオアシスは、タドラルト・アカクス山地とタッシリ・ナジェール高原の間に位置する。現在では 洞窟壁画や線刻画(en:Petroglyph)があるタドラルト・アカクスやタッシリ・ナジェールの入り口として、また周囲の景観が美しいため観光地として脚光を浴びつつある。

ブレガ
リビアの都市。人口7000人。シドラ湾に面し、地中海の南端に位置する。キレナイカ西端に位置し、アルワハト県に属する。この町は、ギリシア人の都市計画者にして建築家であるコンスタンティノス・ドキシアディスの計画により、コンクリートのパーツによるプレハブ工法によって建設された。

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ムルズク
(Murzuk)は、リビアの都市。ムルズク県の県都である。リビア南西部[1]、フェザーン地方に位置するオアシス都市である。ムルズクは大砂丘地帯であるムルズク砂漠の北端に位置する。ムルズクはオアシスを中心に広がり、古くからサハラの南北を行き来するキャラバンが立ち寄る交易都市として栄えた。

ガリヤン
リビア北西部の都市。ジャバル・アル・ガルビ県に属する。2007年まではガリヤン県の県都だった。トリポリタニアに属し、首都トリポリから南へ113km離れている。ガリヤン山の斜面に位置し、周囲には乾燥した高原が広がる。

ズリテン
リビアの都市。人口231000人。地中海に面し、シドラ湾の西部に位置する。トリポリタニアに属し、2007年まではズリテン県の県都であった。ズリテンはオリーブやナツメヤシ、オレンジの栽培で知られ、海岸沿いにはこれらの果樹の並木がある。とくにナツメヤシは有名で、デーツから作られるタルブニと呼ばれるジュースはこの街の名物である。


キレナイカ
リビアの東部地方。古典時代以来、一般的にはバルカ(Barqah)と呼ばれ続けた。トリポリタニア、フェザーンと共にリビアの歴史的な3地域で、1970年代の行政区分でもある。語源は古代ギリシャ時代都市のキュレネより。

フェザーン
Fezzan)は、リビアの一地域。トリポリタニア、キレナイカとあわせてリビアの三地域を構成する。リビア南西部に位置しており砂漠が広がる。中心都市はムルズク、セブハ。西部でアルジェリア国境、南部でニジェール、チャド国境と接している。全地域が砂漠であり、常時水の流れる河川は存在しない。ワジが何本か存在するのみである。オアシスが点在し、そこでの灌漑農業が主要な産業である。

トリポリタニア
Tripolitania、アラビア語ではタラーブルスは、キレナイカ、フェザーンと並ぶリビアの歴史的な3地域のひとつ。首都トリポリを含む地域で、3地域中最も人口が多く経済力が強い。トリポリタニアの大部分は砂漠であるが、北部の海岸沿いの一部は地中海性気候であり、冬季の降雨を利用してオリーブ、オレンジ、レモンなどの農耕が盛んである。


ジャマヒリーヤ博物館
(Jamahiriya Museum)はリビアのトリポリにある博物館。旧市街の中心にあるアッ・サラーイ・ル・ハムラ城(レッド・キャッスル)内にある、リビア国内で最大の博物館である。レッド・キャッスル博物館とも言う。1919年に開館、1988年に再オープンしている。館内は4階47室に分けられており、リビア中から発掘、採集された文化財が展示されている。


アラブ世界
アラビア語を話す人々であるアラブ人が主に住む地域。現代政治的にはアラブ連盟の加盟諸国とみなされることが多く、アラブ諸国とも言う。ただし、アラブ連盟加盟国の中には、ジブチ・ソマリアなどアラブ人が少数派を占めるにすぎない国もある。


リビアの国旗
リビアの国旗は現在、かつて1951年から1969年まで、王政期時代に国旗として使用されていたものを2011年に復活させたものである。国民評議会をリビアの正統な政権として認める国が増えるにつれ、この旗も国旗としての認識が広まった。赤、黒、緑、白の配色はそれぞれ力、イスラムの戦い、緑地へのあこがれ、国民の行為を表している。

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■国名
各言語の国名に共通する Libya は、古代ギリシアで北アフリカの地中海沿岸地域(エジプトより西)をまとめて Libya と呼んでいたことに由来する。さらにこの語は、アフリカ大陸全体を指す場合もあったが、現在この意味では使用されていない。


1.面積:176万平方キロメートル(日本の約4.6倍)
2.人口:629万人(2008年、世界銀行)
3.首都:トリポリ
4.民族:アラブ人
5.言語:アラビア語
6.宗教:イスラム教(スンニ派)

1951年12月 リビア連合王国(イドリース王国)として独立
1969年9月 9月1日革命、カダフィ大尉(当時)によるクーデター、国名を「リビア・アラブ共和国」に改称
1977年3月 人民主権確立宣言(ジャマーヒリーヤ宣言)発表
国名を「社会主義リビア・アラブ・ジャマーヒリーヤ国」に改称
1986年1月 米国、対リビア経済制裁発動
1992年3月 国連安保理、対リビア制裁決議748採択
1992年11月 国連安保理、対リビア制裁強化決議883採択
1999年4月 国連安保理、対リビア制裁停止
2003年9月 国連安保理、対リビア制裁解除決議
2003年12月 大量破壊兵器計画廃棄宣言、国際査察団の受け入れ表明
2004年1月 CTBT(包括的核実験禁止条約)批准、CWC(化学兵器禁止条約)加入
2004年10月 米国、対リビア経済制裁措置解除
2006年6月 米国、リビアの「テロ支援国家」指定解除
2006年8月 IAEA追加議定書締結

■主要産業:石油関連産業
■主要貿易品目(1)輸出 石油等(2)輸入 自動車、電器製品、食糧品等


リビア・ディナール
Libyan dinar)は、リビアの通貨単位。ISO 4217コードはLYD。補助通貨はディルハムで、1リビア・ディナール=1000ディルハムである。1951年にリビア連合王国(後にリビア王国)が独立すると、新たな国家の統一通貨としてリビア・ポンドが発行されたが、1969年にムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ)率いる将校クーデターによって王政打倒・共和制移行が実現された。王国時代の通貨リビア・ポンドはその後も暫定的に使われ続けたが、1971年にデノミが行われ、新通貨としてリビア・ディナールが導入された。


リビア国民評議会
National Transitional Councilは、リビア内戦の間に、反カダフィ勢力によって形成された暫定政権である。2011年2月27日にリビア第2の都市ベンガジで、ムスタファ・モハメド・アブドルジャリルが結成を発表、3月5日には「リビアにおける唯一の正統な代表政府」であることを宣言した。設立目的は、「革命の政治的な局面にて行動するため」としている。

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■経済
独立以前のリビアは農牧業を主産業とする貧しい農業国だったが、独立後の1955年から油田開発が進められ、1959年にリビアは産油国となった。油田の多くはキレナイカに集中しており、石油の埋蔵量はアフリカ最大といわれている。輸出の大部分が石油で、貿易黒字を維持するために輸出量は調節している。リビアは石油が豊富でありながらも人口が少ないために、一人当たりのGDPはアフリカでは最上位クラスである1万ドルを超える比較的裕福な国であり、先進国に並ぼうとしている。

ナツメヤシ
学名:Phoenix dactylifera)はヤシ科の常緑高木。果実(デーツ、Date)は北アフリカや中東では主要な食品の1つであり、この地域を中心に広く栽培が行われている。非常に古くから栽培されているため、本来の分布がどうであったかははっきりしない。北アフリカか西南アジアのペルシャ湾沿岸が原産と考えられている。


アフリカ連合
アフリカの国家統合体。アフリカ統一機構 (OAU) が、2002年に発展改組して発足した。エチオピアのアディスアベバに本部を置いている。アフリカ連合は、アフリカの一層高度な政治的経済的統合の実現及び紛争の予防解決への取組強化のため発足した地域統合体である。

アラブ連盟
League of Arab States)は、アラブ世界の政治的な地域協力機構。第二次世界大戦末期の1945年3月22日創設。本部はカイロにある。加盟は22(21カ国と1機構)。20世紀にはいると、アラブ民族主義の高まりを受けて、アラブ諸国家間の地域協力機構の設立が叫ばれるようになった。第二次世界大戦が始まると、アラブ諸国が枢軸国側につくことを避けるためにイギリスがこの構想を支持するようになり、1945年3月22日にアレキサンドリア議定書の発効によって、当時のアラブ7カ国が加盟して結成された。

アラブ・マグレブ連合
Arab Maghreb Union: AMU)とは、北アフリカの通称、マグレブと呼ばれる5ヶ国が同じ歴史、文化を共有した背景から連帯、進歩、諸権利の保護を目的とし、1989年に創設された経済協力機構。本部はモロッコのラバト。加盟国間における自由な人や物の移動など最終的には欧州共同体に似た地域共同体の設立を目標に掲げ、その前段階として加盟国間での関税及び非関税障壁撤廃による自由貿易地域化を提唱している。

国民勢力連合
National Forces Alliance)は、リビアの政党。リビア元暫定首相のマフムード・ジブリールが2012年2月に設立した。2012年9月12日国民議会の首相選出選挙に党首マフムード・ジブリールが立候補したが、96-94で惜しくも敗れた。

ムスリム同胞団
Muslim Brotherhood)は、中東におけるスンナ派のイスラム主義(イスラム原理主義)組織、NGO。20世紀前半のエジプトで生まれ、長い間、非合法組織として政権に抑圧された歴史を持ち、中東地域に広がるスンナ派の代表的な社会運動・宗教運動組織である。

公正建設党
Justice and Construction Party)は、リビアの政党。正義開発党と表記されることもある。2012年3月3日設立。ムスリム同胞団系の政党である。2012年の国民議会首相選出選挙では、ムハンマド・アル=ハラリに投票したが、当選には至らなかった。


緑の書
The Green Book)はリビア(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)の革命指導者・最高指導者、ムアンマル・アル=カッザーフィーが著した書物。初版は1975年。自身の民主主義観および政治哲学を披瀝している。Little Red Bookと呼ばれた毛沢東語録、およびその第三世界理論を参考にしている。

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ムアンマル・アル=カッザーフィー
1942年6月7日 - 2011年10月20日は、リビアの軍人、革命家、政治家で、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国の最高指導者。中東で最も反欧米の強硬派だったことや、数々の極端で奇怪な言動から「砂漠の狂犬」「アラブの暴れん坊」と呼ばれた。日本では一般にカダフィ大佐という呼称で知られている。1942年、カッザーフィーは、リビアの砂漠地帯に住むベドウィン(アラブ化したベルベル人のガッダーファ部族)の子として、スルトで生まれた。ムスリムの学校で初等教育を受ける。第一次中東戦争の影響を受け、エジプト自由将校団の中心人物であるガマール・アブドゥル=ナーセルのエジプト革命に魅せられ、アラブの統一による西洋、特にキリスト教圏への対抗を志す。1956年のスエズ危機では反イスラエル運動に参加する。

ムスタファ・アブドルジャリル
1952年 - は、リビアの政治家。ムアンマル・アル=カッザーフィー政権下で司法書記(法務大臣に相当)を務めたが、2011年リビア内戦の初期における反政府運動に対する政府の対応に抗議し辞任した。司法書記の時代には、リビアにおける様々な人権侵害に反対する姿勢が報じられてきた。1975年にリビア大学(アラビア語およびイスラム学専攻)を卒業後、ベイダ検察庁に勤務。1978年には判事に任命された。

アブドゥルラヒム・アル・キーブ
1950年 - は、リビアの政治家。電気工学者。リビア国民評議会暫定首相。1950年、トリポリ出身。トリポリ大学工学部電気技術科卒業後にアメリカ合衆国に留学し、南カリフォルニア大学及びノースカロライナ州立大学に学ぶ。アラブ首長国連邦の石油研究所関係の業務をしていたが、2011年に母国リビアの政治激変を受けてリビア国民評議会に参加。

オマル・ムフタール
1862年 - 1931年9月16日は、リビアにおいて独立の父とされる人物。リビアにおいては、独立の父として尊敬され、リビアの紙幣10ディナール札の人物になっている。ベンガジ近郊のジャンズールと呼ばれた小さな村で生まれ、サヌーシー教団のイマーム(指導者)として、地元のイスラーム学校で聖典クルアーンを教えていた。イタリアによるリビア植民地支配に伴いレジスタンス運動のリーダーとなり、キレナイカ地方の地の利を利用し、20年以上抵抗を続ける。

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