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リベリア共和国
Republic of Liberia
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■西アフリカ
アフリカの西部地域、具体的には、サハラ砂漠の南側で、かって西スーダンと呼ばれた地域と、中央スーダンの一部、大西洋、ギニア湾に面する「上ギニア」の国々が含まれる地域を指す。アルジェリアなどマグリブ諸国は、歴史的・文化的に地中海世界やアラブ世界としての一体性が強く、通常は北アフリカとする。
■大西洋
Atlantic Oceanは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。 大西洋の面積は約8660万平方km。これはユーラシア大陸とアフリカ大陸の合計面積よりわずかに広い面積だ。大西洋沿岸のほぼすべての地域には有史以前から人類が居住していた。紀元前6世紀ごろからは、カルタゴが大西洋のヨーロッパ沿岸を北上してイギリスのコーンウォール地方と錫の交易を行っていた。その後もヨーロッパ近海では沿岸交易が行われていた。
■ニンバ山
ニンバ山は、コートジボワールとギニアの国境沿いに聳え立つ山。標高は1752mで、両国では最も高い場所である。この山は両国国境とリベリアの間に連なるニンバ山塊の一部をなしており、この山から最も近い集落はリベリア北部のイェケパである。ニンバ山には鉄鉱石が豊富に眠っているが、リベリア側ではリベリア内戦で鉱山が壊滅するまで集中的な採掘が行われてきた。
■ボミヒルズ
(Bomi Hills)とは西アフリカのリベリアにあり、隣国シエラレオネと国境を跨る丘区域である。西アフリカ有数の鉄鉱石の主産地で、多くの鉄鉱石が採掘され産出されている。1930年代後半から1940年代前半辺りにかけてリベリア政府の許可を得てアメリカ資本の鉄鉱会社の調査及び開発が始まり、後にスウェーデンやドイツやイタリアなどの鉄鉱会社も開発し、1970年代後半をピークにリベリアの重要な鉄鉱石の採掘地として発展して行った。
■胡椒海岸
Pepper Coastは、西アフリカの沿岸地域の呼称である。メスラド岬とパルマス岬の間に位置しており、現在のリベリアの領土が胡椒海岸の大半を占める。穀物海岸(Grain Coast)とも呼ばれる。15世紀にヨーロッパの航海者が香辛料を求め、この地に上陸した。そしてコショウによく似たギニアショウガ(メレゲッタ・コショウ)を発見し、ここを胡椒海岸と名づけた。
■ハルマッタン
(Harmattan)は、西アフリカで吹く貿易風である。熱風ではないが、きわめて乾燥しており湿気を奪う。また大量の0.5 - 10マイクロメートルのきわめて細かい砂塵を含んでおり、その砂塵は遠く北アメリカ大陸まで届く。ハルマッタンはサハラ砂漠から南のギニア湾岸地方に向けて、11月から3月中旬の冬の間(乾季)に吹く。サハラ砂漠中央部・チャドのボデレ低地から莫大な量の砂塵を巻き上げ、モーリタニアからカメルーンあたりにかけての西アフリカ一帯の諸国に砂塵を降らせる。
■マングローブ
Mangrove)は、熱帯 - 亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地に成立する森林のことである。紅樹林または海漂林とも言う。世界では、東南アジア、インド沿岸、南太平洋、オーストラリア、アフリカ、アメリカ等に分布し、日本では沖縄県と鹿児島県に自然分布するが、本州にも人工的に移植された場所がある(後述#日本のマングローブ)。
<歴史>
■1816年
アメリカ合衆国で設立されたアメリカ植民協会が、黒人解放奴隷のアフリカへの「帰還」を計画。
■1820年
1月アメリカ植民協会、黒人のための「祖国再建運動」としてリベリア建国運動を開始。解放奴隷88人を乗せた「エリザベス号」がニューヨーク港を出港し、西アフリカのシエラレオネに向かう。
■1824年
メスラド岬植民地がリベリア植民地に改名される。同時に米国が拿捕したコンゴ系奴隷がニュージョージアに入植。当初は「キリストの都市」と呼ばれていた首都の名前を、アメリカ合衆国第5代大統領のジェームズ・モンローからとったモンロビアに改名。
■1847年7月26日
合衆国憲法を基本にした憲法を制定して独立を宣言した。初代リベリア大統領にジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ(任期1848年 - 1856年)が就任。
■1910年
アメリカのメソジスト教会の宣教師ウィリアム・ワド・ハリス牧師が「預言者」を自称し、リベリアで宣教活動し、グレボ族のメソジスト教化の為の教会運動を起こし、1913年にリベリアからコートジボワールにまで活動が広がる。
■1926年
アメリカのファイアストーン社に対し、ゴムノキ農園用地を99年間貸与する契約を結び、代替に財政援助を受ける。しかし、1931年にリベリアのゴム・プランテーションの労働は奴隷制と変わらないと国際連盟に告発される。
■1930年代
経済不況でリベリアは破綻寸前となり、1933年の政府歳入はわずか32万1000ドルに落ちこんだ。1934年にはファイアストーン社の新しいゴム農園が生産を開始し、国家は持ちこたえた。
■1944年
ウィリアム・V・S・タブマンが大統領に当選(5年任期で再選もする)。また、同年の第二次世界大戦で連合国 (第二次世界大戦)側に付き、ドイツ、日本、イタリアの枢軸国に宣戦布告を宣言する。
■1980年
リベリア先住部族クラン族出身のサミュエル・ドウ曹長によるクーデターでトルバートは暗殺され、アメリコ・ライベリアンの支配が終わった。
■1989年
チャールズ・テーラー率いる反政府組織「リベリア国民愛国戦線(NPFL)」がニンバ郡で蜂起して内戦が勃発した。
■1993年
ウォエウィユとテーラーが組織の政治目標をめぐり対立。当事者代表が包括和平交渉に合意、10月アメリカがリベリアに派遣されているECOMOGに1980万ドル追加支援。
■1997年
大統領・副大統領・上院・下院の統一選挙が実施され、NPFLのチャールズ・テーラーが大統領就任して第3共和制が成立した。
■2003年
セクー・コネ率いる反政府勢力「リベリア民主和解連合」(LURD) とトーマス・ニメリー率いる「リベリア民主運動」(MODEL) が蜂起し、首都へ侵攻する。
■2005年10月11日
暫定統治下において第一回大統領選が行われた。元サッカー選手のジョージ・ウェアが得票率で上回ったが、11月8日に決選投票を実施、11月23日の最終開票結果で、国連開発計画の元アフリカ局長エレン・ジョンソン・サーリーフが、アフリカ初の選挙による女性大統領となった。
■民族
住民はほとんどがアフリカ系の先住民であり、主な民族としてクペレ族、バサ族、クル族、ゴラ族、ギオ族、マノ族、クラン族、バル族、グレボ族、キシ族、ロマ族、マンディゴ族など16の部族がいる。また、アメリコ・ライベリアンと呼ばれる、アメリカ合衆国の解放奴隷たちの子孫が2.5%、カリブ諸国からの移民の子孫も2.5%おり、非アフリカ系の住民ではレバノン人とシリア人も少数だが存在する。
■クル族 (リベリア)
Kru peopleは、リベリア内陸部に居住する民族集団。その歴史は、強い部族意識と、占領への抵抗の歴史である。もともとクル族は、初期の奴隷貿易商たちの間では、奴隷狩りに反抗する忌々しい部族として知られていた。こうした評判もあり、逃亡や自殺を試みることも多かったことから、クル族の奴隷としての価値は、他のアフリカ人たちよりも低かった[1]。クル族は、グレボ族の一派で海岸部に住むクルメン族とは別の集団であるが、クルメン族も「クル族」と呼ばれることがしばしばあり、混同されやすい。
■クルメン族
Krumen、Kroumen、Kroomenは、リベリアからコートジボワールにかけての沿岸部に住む民族集団[1]。人口は1993年の推計で48,300人、そのうち28,300人がコートジボワール側にいたとされる[1]。クルメン族は、グレボ族の一派であり、クルメン語を話す。20世紀初頭の時点で、彼らはモンロビア付近からパルマス岬付近まで、リベリアの海岸沿いに散在する村に住んでいた。当時、クルメン族は、近い関係にあるグレボ族、バサ族、ニフ族などを含めて、40,000人以上いると称されたが、本来のクルメン族は、シノエ川からパルマス岬までの狭い範囲に住んでおり、そこにはそれぞれ部族長のいる5つの集落(Kruber, Little Kru, Settra Kru, Nana Kru, King Williams Town)があった。
■クペレ族
Kpelle people)、ペレ(英語: Kpelle)、グェルツ(英語: Guerz)は、西アフリカ(リベリア、ギニア、シェラレオネ)に住む、マンデ族(英語版)の農耕民族。クペレ(ペレ)とは形容詞として用いられる語で、彼らが働き者であるところから、米の栽培をする「労働の」を意味する。
■キッシ族
Kissi)は、コートジボワール・リベリア・シェラレオネに住む西アフリカ黒人部族。コートジボワール南西部、リベリア、シェラレオネの各地熱帯雨林地帯に住んでいる。村はいずれも小さく整っていて、それぞれひとりずつ村長がいる。
■マンディンカ族
(Mandinka、マリンケ(Malinke)若しくはマンディンゴ(Mandingo) -「人」)は、西アフリカのマンデ系 (Mande) に属し、生物学的、文化的にサハラをまたいで中東から西アフリカにかけて行われた貿易を支配したマリ帝国 の子孫である。現在マンディンカは100万人を超え、ブルキナファソ、コートジボワール、ガンビア、ギニア、ギニアビサウ、リベリア、マリ、セネガル、シエラレオネなどの西アフリカの国々に定住している。
■アメリコ・ライベリアン
(Americo-Liberian、アメリカ黒人、教化された人として知られる)とは西アフリカのリベリアにおけるアメリカ合衆国の解放奴隷(アフリカ系アメリカ人)の子孫の黒人の呼名である。首都モンロビアがあるモンセラード郡を中心に南東のブキャナンや、グリーンビル、ハーパーなどの市におり、主にアメリカ南部から来ている。
■言語
言語は英語が公用語であるが、話したり書いたり出来るのは一部の人々に限られている。その他に28に及ぶ各部族の言葉が使われている。
■ヴァイ文字
西アフリカのリベリアに住むヴァイ族(英語版)のヴァイ語を表記するために作られた左から右へ書く音節文字。もとは表意文字であったが音節文字として19世紀の終わりに体系化された。
■クルメン語
Krumen は、西アフリカのクルメン族の言語であり、主な方言の名称からテポ語 (Tepo) 、ピエ語 (pye)、プラポ語 (plapo) に更に分けられる。クルメン族はリベリアから、コートジボワール低サッサンドラ州タブー地方(Tabou)やグラボ地方(Grabo)にかけての沿岸部に住んでいる。
■宗教
リベリアは公式にキリスト教国家であるが、実際、宗教は伝統的な宗教が40%、キリスト教が40%、イスラム教が20%となっている。キリスト教のほとんどは、奴隷時代の名残りでアメリカ南部の福音派系のプロテスタントが多く、中でもメソジスト派が最大である。他にもカトリック教もある。
■メソジスト
(Methodist)とは、18世紀、英国でジョン・ウェスレーによって興されたキリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズム(Methodism)に生きた人々、および、その運動から発展したプロテスタント教会・教派に属する人々を指す。日本では美以教会とも言った。
■カトリック教会
カトリック教会(カトリックきょうかい、ローマ・カトリック教会、ラテン語:Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。「カトリック」の語源はギリシア語の「カトリケー(普遍的)」やラテン語では「カトリクス(Catholicus)」等である。日本ではかつて「天主公教会」とも称された。
■キリスト教
Christianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントなど)は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
■イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。
■米国聖公会
Episcopal Church in the United States of America)は、キリスト教の一派のアングリカン・コミュニオンのひとつ。アメリカ合衆国、バージン諸島、ハイチ、台湾、コロンビア、ドミニカ国、エクアドル、ホンジュラスに主教区を持つほか、プエルトリコおよびベネズエラの主教区と地域を越えた関係にある。
■文化
モンロビアのアメリコ・ライベリアンはアメリカ合衆国の解放奴隷だったため、奴隷時代の名残りでアメリカ合衆国南部の深南部の文化を身に付けている。
■教育
元々リベリアの教育はアメリカ合衆国の教育のシステムに従っていたが、1989年以降の内戦により、リベリアの教育は崩壊的打撃を受けてしまった。6歳から16歳までが義務教育である。主な高等教育機関としては1862年設立の国立リベリア大学、アメリカ聖公会機関のカッティントン大学、工科大学のウィリアム・V・S・タブマン大学の大学3校で何れもモンロビアにある。
■アダム・スミス大学
Adam Smith University)は、アメリカ合衆国の通信教育機関。リベリアでは、2001年10月8日に教育省から認定を受けているが、2007年以降、教育及び学位授与は行っていない。
■便宜置籍国
リベリアはまた、安価な手数料や船舶国籍証書の発行の便宜を図る便宜置籍国として知られる。登録している船舶数はパナマに次ぐ規模であるが、あくまでも書類上の船籍であるため、ほとんどの船舶はアフリカ西海岸への航海を行わぬままその一生を終える。
黒柳徹子のリベリア報告
リベリアはアメリカの黒人奴隷を解放して受け入れるために1847年に建国されました。大西洋に面した西アフリカにあります。「リベリア」は自由の国を意味します。解放された奴隷はアメリコ・ライベリアンと呼ばれ、意識も生活様式もアメリカナイズされていました。アメリコ・ライベリアンは土着の人たちより上等な人間として振る舞い、彼等を長い間、支配しました。争いの芽が、ここにあります。
■奴隷
人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。1948年に国連で採択された世界人権宣言では、奴隷制について次のように宣言している。「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。(第4条)」
■エレン・ジョンソン・サーリーフ
Ellen Johnson Sirleaf, 1938年10月29日 - は西アフリカのリベリア共和国の現大統領である。アフリカ初の選挙で選出された女性大統領であり、アフリカの女性国家元首としては、ギニアビサウのカルメン・ペレイラ大統領代理に続いて二人目である。「鉄の女」とも呼ばれている。統一党所属。また、同リベリアの女性国家元首としては、同じ統一党に所属していた暫定政権のルース・ペリー国家評議会議長がいる。1938年にリベリアの首都モンロビアにおいて、ゴラ族 (Gola) とアメリコ・ライベリアンとの間に生まれた。彼女の祖父の一人はドイツ人である。
■ルース・ペリー
Ruth Sando Fahnbulleh Perry、1939年7月16日は西アフリカのリベリアの政治家及び法律家。国家評議会議長。リベリア初の女性大統領。彼女は1939年リベリアのグランドケープマウント郡の農村地帯でマージョンとアルハジ・ファーンブレーの両親の元生まれた。彼女の家族にはヴァイ族のムスリム教徒なので、彼女はヴァイ族のムスリム教徒の祖先の血を引いていた。ペリーはサンデー協会で青少年のための伝統的な学校を介して、ヴァイ族のイスラム教遺産について学んだ。
■ジョセフ・ジェンキンス・ロバーツ
Joseph Jenkins Roberts、1809年3月15日 - 1876年2月24日とは西アフリカにあるリベリア共和国の初代大統領で、リベリア建国当時、アメリカ植民地協会(ASC)が任命した最初の知事だった人物。妻はジェーン夫人。ロバーツは1809年3月15日、アメリカはバージニア州のノーフォークで生まれた。彼は白人と黒人との混血で、家庭は貧しかった。1829年、20歳の時に彼の母が住んでいるリベリアに移住し、すぐに繁栄した貿易業者となり、そしてまた政治にも従事していった。
■ジュデ・ブライアント
Charles Gyude Bryant, 1949年1月17日 - は、リベリアの実業家、政治家。暫定大統領、リベリア行動党議長などを歴任。リベリアにおけるイギリス国教会の中心的人物である。
■ジョージ・ウェア
George Manneh Oppong Ousman Weah、1966年10月1日 - は、リベリア、モンロビア出身の元同国代表サッカー選手。バロンドールの規定が改定されて最初の年である1995年にFIFA最優秀選手と欧州最優秀選手を受賞。ゴールキーパーを含めたほとんどのポジションをこなす。高い身体能力とゴール決定力を誇り、ACミラン時代のラツィオ戦では一人スルーパスからゴールを決めたことも有名。また、96~97シーズンの開幕戦で自陣ペナルティエリア付近から約80メートルを相手ゴール前まで単独でドリブル突破した上でゴールを決めた際、翌日の地元紙は「サンシーロにUFO出現」の見出しを掲げた。モンロビア郊外のブッシュロード島のシャンティタウンにて14人兄弟の3番目として生まれる。幼い時に父親を失い、祖母に育てられた彼の最初の夢はモンロビアのテレフォンオペレーターになることだった。
■ジェフディ・アシュマン
(Jehudi Ashmun、1794年−1828年)はアメリカ合衆国の解放奴隷の黒人入植者達によるリベリアへの入植を支援し、リベリアに赴いたヨーロッパ系アメリカ人の代理人で、宗教リーダー、社会運動家、知事だった。ジェフディ・アシュマンはニューヨーク州シャンプレイン(Champlain)近くの農場で1794年4月21日に生まれた。組合教会制の大臣に参加し、神学校の教師や神学的雑誌の編集をしながら過ごした。その後の1820年にアメリカ植民地協会(ACS)と関わるようになり1822年、解放奴隷による西アフリカへの入植を支持するため、妻と37人の解放奴隷と共にリベリアへ派遣された。
■アーサー・バークレー
(Arthur Barclay、1854年7月31日 - 1938年7月10日)とは、西アフリカのリベリア共和国の第14代大統領(任期1904年-1912年)。リベリア第18代大統領だったエドウィン・バークレーは甥。1854年西インド諸島のバルバドスの首都ブリッジタウンで父アンソニーと母サラとの間で12人いる子供の1人として生まれた。1865年バルバドスからリベリアへの入植者346人余りがいたが、彼も11歳の時、家族と共にリベリアのモンロビアに移住した。
■チャールズ・D・B・キング
(Charles Dundar Burgess King、1875年3月12日 - 1961年)は西アフリカリベリア共和国の元大統領。1877年リベリアの首都モンロビアでシエラレオネ出身の両親の元生まれた。両親はシエラレオネの解放奴隷の子孫クリオ。大学で法律を学び、最高裁判所で働き、後にアメリカ務省になった。アーサー・バークレー大統領とダニエル・E・ハワード大統領下では国務長官を勤める。
■エーモス・ソーヤー
Dr. Amos Claudius Sawyer、1945年 - は、リベリア共和国の政治家。アメリコ・ライベリアン。1990年から1994年まで同国の国民統合暫定政府の首班を務めた。ソーヤーは1945年にアベル・ソーヤーとサラ・ソーヤーの間に生まれた。ソーヤー家は著名なアメリコ・ライベリアンの家であった。リベリア人民党(LPP)に加わった。ソーヤーは、ノースウェスタン大学で政治学の博士を取得している。また、アメリカインディアナ州ブルーミントンにあるインディアナ大学ブルーミントン校政治学科において、政治理論と政策分析のワークショップの研究員を務めている。 |
リベリア Liberia
西アフリカに位置する共和制国家。北にギニア、西にシエラレオネ、東にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はモンロビア。アメリカ合衆国で解放された黒人奴隷によって建国され、1847年に独立し、現在のアフリカの中ではエチオピアに次いで古い国である。1989年から2003年にかけて断続的に2度も起きた内戦により、戦争一色の無秩序な国と化していた。
■モンロビア
Monroviaはアフリカにあるリベリア共和国の首都で、人口は465,000人(1986年)。大西洋とメスアルド川に囲まれた場所にある港湾都市である。1560年代にポルトガル人航海士によってこの地域がメスラド岬(Cape Mesurado)と名付けられた時、既に先住民のクルー族などの部族が居住していた。 アメリカ人解放奴隷が自給自足できる、既存のフリータウンのような植民地を設立することを目的とし、アメリカ植民地協会の支援により、1821年にアメリカ合衆国からの最初の居住者がアフリカに到着した。
■モンロビア・ロバーツ国際空港
Roberts International Airportとは、リベリアの首都、モンロビアにある国際空港。
■タブマンバーグ
Tubmanburgは、リベリアの都市。ボミ(Bomi)と呼ばれることもあり、また以前はヴァイ・タウン(Vai town)とも呼ばれていた。人口は13144人(2008年)。リベリア西部に位置し、ボミ郡の州都である。首都モンロビアの北西に位置し、ボミヒルズのふもとにある。鉄鉱石やダイヤモンドの鉱山があったが、リベリア内戦によって破壊されてしまった。
■ロバーツポート
Robertsportとは西アフリカリベリアにある町。シエラレオネと国境近くの、グランドケープマウント郡にある同郡の州都で、海岸沿いのピソ湖沿いの半島にある。人口は3,933人(2008年)。1989年以降の内戦の影響で大ダメージを受け、町の多くの建造物などは破壊されてしまった。町のピソ湖は別名フィッシャーマン湖(Fisherman's Lake)などとも呼ばれているが漁業が盛んで、現在、漁業が町の主産業である。
■マノ川同盟
Mano River Union、MRUは、西アフリカの国際機関。加盟国間で経済協力を行い、経済を発展させることを目的としている。加盟国は2009年現在、リベリア、シエラレオネ、ギニア、コートジボワールの4ヶ国である。名称は、ギニア国境近くの高地に発し、シエラレオネ・リベリア両国の国境をなすマノ川に由来する。
外務省:リベリア共和国
在ガーナ日本国大使館兼轄
■グリーンビル
Greenville、は西アフリカのリベリアにある町。首都モンロビアから約350Km、シノエ川沿いの大西洋に面した港町。シノエ郡の中心地で、人口は約32,236人。グリーンビルは小さな港湾で、主に丸太の輸出を扱っている。リベリア内戦で町のほとんどは破壊されてしまった。
■ハーベル
(Harbel)は、リベリアの都市。リベリア中部に位置し、マージビ郡に属する。ファーミントン川沿いに位置し、大西洋から24km上流にさかのぼった地点にある。ハーベルは1926年、ゴム農園建設のためにこの地域をリベリア政府より借り受けたアメリカのファイアストン社によって建設された。街の名前は、ファイアストンの創立者であるハーベイ・ファイアストーンと、その妻であるIdabelleの名を合成して作られた。
■ブキャナン
(Buchanan)とは西アフリカリベリアにある町でグランドバッサ郡の中心地。首都モンロビアに続く主要な港町である。モンロビアから南東部、ウォーターハウス湾に位置し、人口は約24,517人。町の名はアメリカ合衆国第15代大統領ジェームズ・ブキャナンの名から。ブキャナンの港は主にアメリカやドイツなどの援助により建設され、深い水深を持つ。鉄鉱石の輸出地として1963年にブキャナンの港は開港され、他にもゴムや木材、ダイアモンドの主要搬出港町として、そして外国企業が進出して栄えて来た。
■イェケパ
(Yekepa)は、リベリアの都市。リベリア北部、ニンバ山のふもとにあり、ギニアとの国境にほど近い。ニンバ郡に属している。かつてはアメリカとスウェーデン資本のRAMCO(リベリア・アメリカ鉄鉱会社)社の所有する鉄鉱山があり、ニンバ山からとれる鉄鉱石の採掘の拠点として栄えていた。イェケパから海岸のブキャナン (リベリア)まではRAMCOの私有鉄道が敷設され、鉄鉱石を輸送していた。
■タブマンバーグ
Tubmanburgは、リベリアの都市。ボミ(Bomi)と呼ばれることもあり、また以前はヴァイ・タウン(Vai town)とも呼ばれていた。人口は13144人(2008年)。リベリア西部に位置し、ボミ郡の州都である。首都モンロビアの北西に位置し、ボミヒルズのふもとにある。
■ハーパー
(Harper)は、西アフリカリベリア共和国メリーランド郡の郡庁所在都市。リベリア南東部の大西洋に面したパルマス岬とホフマン川の間に位置する港町で、地元では、しばしばケープ・パルマス (Cape Palmas) と通称される。ハーパーの町には1953年設立のカトリック系のメリーランド・ファティマの聖母カレッジ、地元出身のタブマン元大統領の名を冠した1978年設立のウィリアム・V・S・タブマン工科大学(3年制)とウィリアム・V・S・タブマン図書・博物館、1958年設立のJ・J・ドーセン記念病院から、政府と教会経営の中学校や複数の教会があり、さらに重要な施設が幾つかある。
■バルンガ
(Gbarnga)は、 リベリア共和国ボン郡にある都市。グバルンガとも表記される。モンロビアの北東に位置し、同国で2番目に規模の大きい都市である。
■リベリア内戦
Liberian Civil Warは、リベリア共和国における内戦である。西アフリカに位置するリベリアでは、1989年から1996年の第一次内戦 (First Liberian Civil War) と、更に1999年から2003年の第二次内戦 (Second Liberian Civil War) の2度、内戦が起きている。第1次内戦の時は、15万人以上の死者を出し、30万人以上の難民を出した。リベリアの政治は長くアメリカの解放奴隷の子孫であるアメリコ・ライベリアンのホイッグ党が支配しており、リベリアの先住民部族は彼らに差別と弾圧を受けてきた。
■ミシシッピ・アフリカ
(Mississippi-in-Africa)とは19世紀西アフリカの現リベリアのシノエ郡の植民地。アメリカミシシッピ州ジェファーソン郡の綿花・プランテーションの所有者だったアイザック・ロス(Isaac Los)が1836年に死んだ時、プランテーションで奴隷として働かされていた解放黒人約200人をアフリカに移住(入植)させた。ルイジアナ州植民地会社により、現リベリアにミシシッピ・アフリカ植民地(Mississippi-in-Africa colony)と名付けられた、入植地を解放奴隷が築いた。
■リベリアの国旗
1847年の独立時に制定された。アメリカ合衆国の国旗(星条旗)に似たデザインだが、これはこの国がアメリカ解放奴隷の再植民により建国されたことによる。11本の紅白の縞はリベリア独立宣言の11人の署名者を示し、紅白の色は勇気と高いモラルを示す。青い四角はアフリカ大陸を表し、その中の白い星は元奴隷に与えられた自由を示す。
■国名
正式名称は英語で、Republic of Liberia(リパブリク・オヴ・ライビリア)。通称、Liberia。国名は、ラテン語のLiber(自由な)から来ている。
1.面積:111,370平方キロメートル(日本の約3分の1)
2.人口:約360万人(2009年:国勢調査)
3.首都:モンロビア(MONROVIA)
4.民族:ゴラ族、クペレ族、クル族、バサ族等16部族
5.言語:英語(公用語)、その他各部族語
6.宗教:国民の90%が伝統宗教、その他にキリスト教とイスラム教
19世紀初頭 アメリカより解放された奴隷の移住地として発展
1847年7月 独立
1971年7月 トルバート大統領就任
1980年4月 ドー曹長クーデターにより国家元首に就任
1985年10月 総選挙によりドー元首大統領に選出される(民政移管)
1988年3月 政府転覆未遂事件発生
1988年7月 政府転覆未遂事件発生
1989年12月 内戦勃発
1990年9月 ドー大統領殺害
1995年8月 アブジャ合意(全紛争当事者8派)
1996年8月 新たな和平プロセス日程合意
1997年8月 大統領・副大統領・上院・下院選挙
第3共和制発足(チャールズ・テイラー大統領就任)
1998年10月 ECOMOG(ECOWAS監視団)、和平を目途に完全撤退
2002年2月 反政府勢力、リベリア和解民主連合(LURD)が蜂起
2003年6月 反政府勢力、LURD及びリベリア民主運動(MODEL)が蜂起、首都モンロビアに進攻
17日、政府と反政府軍による停戦合意署名(於:ガーナ)
2003年8月 テイラー大統領、ナイジェリアへ亡命
ECOWASによるECOMIL軍の派遣
18日、包括和平合意締結
2003年9月 国連安保理決議1509による「国連リベリアミッション(UNMIL)」の設置
2003年10月 移行政府発足(ブライアント移行政府議長就任)
2005年10月 大統領及び上院・下院選挙
2005年11月 大統領選挙(決選投票)
2006年1月 ジョンソン=サーリーフ大統領就任
2006年4月 テイラー元大統領、ナイジェリアからシエラレオネ特別法廷へ移送
2006年6月 テイラー元大統領、シエラレオネからオランダ・ハーグへ移送
■主要産業:鉱業(金、ダイヤモンド)農林業(天然ゴム、木材)
■主要貿易品目(1)輸出 ゴム、金、ダイヤモンド等(2)輸入 機械・運搬機器、食物、
■リベリア・ドル
リベリア・ドル (LRD) は、1943年以降にリベリア共和国で使用されている通貨単位である。また1847年から1907年の間にも同名の通貨単位が使用されている。通常は単に$、もしくは他の同名の通貨単位と区別するためにL$と表示される。
1リベリアドル=116.80円(2006年8月4日現在)
■西アフリカ諸国経済共同体
Economic Community of West African States、は、1975年のラゴス条約に基づき設立された経済共同体。略称は英語でECOWAS、仏語ではCEDEAO。関税障壁の撤廃や貿易振興などを通じた経済協力、独立の保障などを通じて、加盟国の経済・生活水準向上や政治的安定を図ることを目的とする。
■西アフリカ諸国経済共同体監視団
Economic Community of West African States Monitoring Group、略称:ECOMOG)は、西アフリカ諸国経済共同体加盟国の分担によって確立された多国籍部隊。西アフリカ諸国経済共同体監視団は別々の加盟国軍が連携して運用することを正式に取り決めたものである。
■国際連合リベリア・ミッション
United Nations Mission in Liberia,UNMIL)はリベリアに展開している国際連合平和維持活動。2003年9月19日の国際連合安全保障理事会決議1509により設立された。第二次リベリア内戦(リベリア内戦)の和平推進を任務としている。
■国際連合平和維持活動
United Nations Peacekeeping Operations)は、紛争において平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に紛争解決を促す国際連合の活動である。日本ではPKOと略されることが多い。PKOに基づき派遣される各国軍部隊を平和維持軍(Peacekeeping Force、日本ではPKFとも略される)という。
■国際刑事裁判所
The International Criminal Court、仏: La Cour panale internationale)は、個人の国際犯罪を裁く常設の国際裁判所である。正式な略称はICC-CPI、通称ICCとそれぞれ表記される。フランス語での略称は、CPI。
■アフリカ統一機構
Organisation of African Unity, OAU 仏:Organisation de l'Unité Africaine, OUA)は、かつて存在した国際組織。国連憲章と世界人権宣言を尊重し、アフリカ諸国の統一と連帯を促進し、人民の生活向上のための相互協力・調整、国家の主権と領土を守り、独立の擁護、新植民地主義 (Neocolonialism) と闘うことが目的。1963年5月25日発足。2002年7月9日にアフリカ連合へ発展した。
■リベリア国民愛国戦線
National Patriotic Front of Liberia,NPFLは、リベリアの武装組織。リベリア内戦最大の武装組織である。なおこの組織は、天然資源の非合法輸出や6、7歳児の少年兵部隊を前線に送り出すなどで国際的な非難を浴びた。
■リベリア国民民主党
National Democratic Party of Liberia、略称:NDPLは、リベリアの政党。リベリア国民民主党は、1984年8月にサミュエル・ドゥ大統領支持派によって結成された。第二次リベリア内戦の後、2005年10月11日に実施された総選挙では大統領候補にウィリアム・タブマン元大統領の孫でもあるウィンストン・タブマン(Winston Tubman)元法相を擁立し、9.2パーセントの票を得た。
■経済
隣国シエラレオネと接するボミヒルズでは鉄鉱石が採掘されている。ニンバ山にも推定10億トンの鉄鉱石が埋蔵されていると言われている[誰によって?]。ほかダイヤモンドや金なども発掘される。ダイアモンドは密輸出もされている。農作物ではアブラヤシやコーヒー、ココア、米、サトウキビなどが栽培されている。
■ゴムノキ
ラテックス(ゴム質を得ることのできる樹液)などからゴムを資源として採取できる樹木の総称である。したがって、様々な種類が存在する。今日の日本では単にゴムノキと言ったときに、産業的には天然弾性ゴムの原料として重要なパラゴムノキを意味することが多いが、家庭では、観葉植物として広く流通し、普及しているインドゴムノキを指すことが多い。
■鉄鉱石
鉄鉱石の主要成分は酸化鉄であり、多く使われる鉄鉱石は赤鉄鉱 (Fe2O3)、磁鉄鉱 (Fe3O4)、褐鉄鉱 (Fe2O3●nH2O)、磁鉄鉱の粒状鉱物である砂鉄などである。古来、製鉄に使われた鉱石は砂鉄(磁鉄鉱)であった。磁鉄鉱は比重が約5.2と商業的に利用できる鉄鉱石の中で最も大きく、流水による選鉱により純度の高い鉱石が容易に得られた。近代的な溶鉱炉による製鉄技術が確立されるまでは砂鉄を使ったたたら製鉄が主流だった。
■ダイヤモンド
(diamond) は、炭素(C)の同素体の1つであり、実験で確かめられている中では天然で最も硬い物質である。日本語で金剛石(こんごうせき)ともいう。結晶構造は多くが8面体で、12面体や6面体もある。宝石や研磨材として利用されている。ダイヤモンドの結晶の原子に不対電子が存在しないため、電気を通さない。ダイヤモンドという名前は、ギリシア語の adamas (征服できない、懐かない)に由来する。イタリア語・スペイン語では diamante (ディアマンテ)、フランス語では diamant (ディアマン)、ポーランド語では diament (ディヤメント)という。
■アブラヤシ
(oil palm, Elaeis)は、ヤシ科アブラヤシ属に分類される植物の総称。アンゴラやガンビア周辺の西アフリカを原産とするギニアアブラヤシ (Elaeis guineensis) と、中南米の熱帯域原産のアメリカアブラヤシ (Elaeis oleifera) の2種が知られる。
■交通
国内の道路のほとんどは舗装されていない。全長490Kmの鉄道は鉄鉱石を輸送するために建設されており、ほかの利用は少ない。空港は首都モンロビアに第二次世界大戦中にアメリカ軍が建設した国際空港のモンロビア・ロバーツ国際空港がある。内戦以前には、使用可能な滑走路が国内に49ヵ所あった。国内線は、モンロビア郊外のスプリングス・ペイン空港で運航されている。
■マチルダ・ニューポート
Matilda Newport、? - 1837年はリベリアの歴史に名を残す国民的英雄の女性で、アメリカから来た解放奴隷によるリベリア入植の初期に原住民などの攻撃を追い払い入植者を助けたと言われる。生い立ちなど不明なところがあるが、西アフリカのリベリアに移住した解放奴隷の若い入植者の未亡人で、1822年12月1日、リベリアの原住民の部族によるアメリカから来た入植者への攻撃を大砲を使って追い払い、入植者達を守り助けたと言われている。「フォートヒルの戦い」と呼ばれ、入植地であるモンロビアを外部からの攻撃から守るため市内の丘に城砦を築いた。そしてその城砦に彼女が使っていたと言われる大砲がある。「マチルダ・ニューポートの大砲」と呼ばれ、現在でもその大砲が残っている。彼女は1837年に亡くなったが、英雄的な行為に名誉を与えるとして、リベリアでは12月1日の日は「マチルダ・ニューポートの日」として祝祭日になっている。
■ラルフ・ランドルフ・ガーリー
(Ralph Randolph Gurley、1797年5月26日 - 1872年7月30日)は牧師であり、自由黒人アメリカ人の国として西アフリカのリベリア植民地を提供することを提案したアメリカ植民地協会(ASC)の主要な人物だった。ガーリーは1797年5月26日にアメリカ合衆国コネチカット州レバノンで生まれた。1818年にイェール大学で学士号を取って卒業した。1824年に彼は西アフリカの地を黒人達の国としてリベリアと命名し、首都を当時のアメリカ合衆国第5代大統領ジェームズ・モンローに因んでモンロビアと名付けた。前大統領ジェームズ・マディスンの遺志によって2,000ドルがガーリーを通じて協会に遺贈された。彼はアフリカを3回訪問し、リベリア創立者の1人となった。
■エドウィン・バークレー
(Edwin James Barclay、1882年 - 1955年11月6日)は、西アフリカのリベリア共和国の政治家。詩人、作曲家。リベリアの第18代大統領(1930年 - 1944年)。1909年19歳の時に、リベリアの国家賛美歌Lone Star Foreverを作曲している。ホイッグ党の党員として政治家になり、1920年チャールズ・D・B・キング大統領の下、外務大臣や外交通商部官長を勤める。
■サミュエル・ドウ
(Samuel Kanyon Doe、1951年5月6日 - 1990年9月9日)は、1980年から1990年にかけてのリベリアの大統領。民族主義を基盤とした独裁と政治的反対者への苛烈な抑圧をその政治運営の特徴とした。彼の政治体制のもとで、リベリアの港湾はアメリカ、カナダ、欧州各国など諸国の船に対して開かれ、かなりの外貨を得ると同時に多くの海外投資を集め、また租税回避地としての評判をも得るに至った。
■プリンス・ジョンソン
Prence Yormie Johnson、YormieはYEBUOとも言う。1952年7月6日 - は、西アフリカのリベリアの反政府組織リベリア国民愛国戦線 (NPFL) の元軍事司令官で、INPELの元指導者。リベリアの独裁的な大統領サミュエル・ドウを捕まえ処刑した人物でもある。その後ナイジェリアで牧師となっている。1952年に、リベリアのニンバ郡でギオ族の両親との間に生まれる。1971年に陸軍に入隊し、1974年には中尉に昇格。アメリカでの訓練を経て、リベリア憲兵隊長まで昇格するが自動車事故の負傷により1977年に除隊した。陸軍在住時はサミュエル・ドウ軍曹の上官だった。
■ウィリアム・タブマン
(William Vacanarat Sharach Tubman、1895年11月29日 - 1971年7月23日)は、西アフリカにあるリベリア共和国の政治家。同国の大統領を27年間務め、外資の導入よる経済開発やアメリコ・ライベリアンと先住部族との社会的格差や差別廃止に力を入れるなど貢献したが独裁的な大統領でもあった。タブマン大統領は国の経済などが未開発だったため、経済開発などをして発展させるため、1948年便宜置籍船制度を導入する。これにより、アメリカ企業を中心に国内の鉄鉱石、天然ゴム、木材などの開発のため、30以上の外国企業が参入し、リベリアの経済発展に貢献する。
■トーマス・クィウォンパ
(Thomas Gunkama Quiwonkpa、1955年7月25日 - 1985年11月15日)は西アフリカはリベリア共和国の政治家及び軍人。サミュエル・ドウ大統領下で元リベリア陸軍総司令官だったが、1985年独裁政治を展開するドウに不満を抱き軍事クーデターを起こし反乱するが失敗に終わり処刑された。
■ジョシュア・ブライ
(Joshua Milton Blahyi、1971年9月30日 - )は、リベリアの軍人、虐殺者。1990年代半ばの第一次リベリア内戦時、ルーズベルト・ジョンソン派に属し殺戮を繰り返した。常に全裸で前線に立ったことから、お尻丸出し将軍(General Butt Naked)の名で知られる。内戦前は部族の司祭であり、内戦終了後は説教師に戻った。
■チャールズ・テーラー
(Charles MacArthur Ghankay Taylor、1948年1月28日 - )はリベリアの政治家、大統領(1997年8月3日 - 2003年8月11日)。リベリア内戦を引き起こし結果として権力を掌握したものの、内戦は近隣諸国を巻き込むことになり退陣を余儀なくされた事で知られる。1980年にサミュエル・ドウ政権下で調達庁長官に就任。その後公金横領容疑で逃亡先のアメリカで逮捕されたものの逃走。1987年にガーナでブルキナファソ大使を介してリビアのムアマル・カダフィ大佐と接触。
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