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ケニア共和国
Republic of Kenya

アフリカ

■歴史
紀元前2000年ごろに北アフリカからクシ語系のケニア地域への民族移動が行われた。 7、8世紀頃には、アラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。


■地理
ケニアの首都、ナイロビはマサイ族の言葉で「冷たい水」を意味する。ナイロビはパピルスが茂る沼地に位置する。ケニアは赤道直下に位置しており、インド洋やヴィクトリア湖沿岸は年間平均気温が26℃の熱帯性気候である。しかし、国土の大部分は、標高1100m - 1800mの高原となっているため年間平均気温が19℃の乾燥した高原サバンナ地帯となっている。


東アフリカ
この地域はインド洋に面し、沿岸部(スワヒリ海岸と呼ばれる)は、モガディシュ、キルワ、マリンディなどの都市がインド洋のイスラム商人の交易で繁栄したことからイスラム教が広く浸透している。また、共通語はスワヒリ語である。内陸部でも特に北部は、アクスム王国のあったエチオピアがコプト教の伝統を受け継いでいる。

イレミ・トライアングル
Ilemi Triangle、三角地帯は、東アフリカのケニアと南スーダンとエチオピアの3ヶ国に跨る地域。「イレミ」はアヌアク族(w:Anuak)の首長イレミ・アクウォン (Ilemi Akwon) の名にちなんでいる。ケニアが事実上占拠している。スーダン政府から弾圧されて逃れてきた南スーダンのキリスト教徒の難民が暮らしているほか、トゥルカナ族などの遊牧民が移動しながら暮らしている。トゥルカナ族は周囲の武装した遊牧民から攻撃されている。

ケニア山
Mount Kenya)はケニア共和国中央にそびえる山。標高は5,199 mで、ケニア最高峰であり、アフリカ大陸でもタンザニアのキリマンジャロにつぎ、第2位。赤道直下に位置するにもかかわらず、氷河を戴いている。最高峰バティアンへの初登頂は1899年9月13日にイギリス人地理学者のハルフォード・マッキンダーによって果たされ、第二峰ネリオン初登頂は1929年にイギリスの登山家パーシー・ウィン・ハリスとエリック・シプトンによって果たされた。

ナクル湖
ケニアのリフト・バレー州にある湖である。ケニア中央のナクルの南側にあり、ナクル湖国立公園の中心となっている。湖岸には多くの藻が生えており、多くのフラミンゴが生息している。他にも多くの鳥が生息する。また、イボイノシシ・ヒヒ・クロサイ・シロサイなどの大型の哺乳類も生息している。

ナトロン湖
Lake Natron) は、アフリカ・タンザニア連合共和国北部のアルーシャ州ロリオンド県にある強アルカリ塩湖である。湖の北岸はケニア共和国との国境線に接する。グレート・リフト・バレーの谷底に連なる一連の湖の一つで、東リフト・バレーに位置する。ナトロン湖は、その非常に高い蒸発率によって特徴的な色彩を見せる。乾季の水が少ない時期は、湖水の塩分濃度が上昇し、好塩性微生物が繁殖をはじめるレベルに達する。

エルメンテイタ湖
El-Menteita はケニア、リフトバレー州ナクル県にある強アルカリ塩湖である。別スペルでエレメンタイタ湖 (Lake Elementaita) とも呼ばれる。グレート・リフト・ヴァレーの東リフト・ヴァレーにあり、首都ナイロビから約100 km北西にあたる。エルメンテイタはマサイ語で「埃の場所」を意味するmuteitaに由来し、特に1月と3月のこの地域の乾燥して埃っぽい特質からの呼び名である。ギルギルの町が湖の近くにある。

マガディ湖
Lake Magadiは、ケニア南西部にある湖。首都ナイロビから南西に約120km、リフトバレー州南部にあり、タンザニア国境のナトロン湖が近傍にある。湖の名前はマサイ語の Magad (苦い) に由来すると考えられている (Baker 1958)。マガディ湖は水質がph 10以上の強アルカリの塩湖である。面積は約100 km2であり、グレート・リフト・ヴァレーの東リフトヴァレーの中にある。この湖は「saline pan」の一例である。湖水は濃い炭酸ナトリウム水であり、莫大な量のトロナ鉱石 (セスキ炭酸ナトリウム) を沈殿させている。

ボゴリア湖
Lake Bogoria はケニア、リフトバレー州バリンゴ県にある強アルカリ塩湖である。かつてはハニントン湖 (Lake Hannington) と呼ばれていた。グレート・リフト・ヴァレーの中で、バリンゴ湖の南の半地溝の火山地域にあり、ナイロビの北西約285 km、赤道の少し北にあたる。

バリンゴ湖
Lake Baringoは、ケニア共和国西部のリフトバレー州にある湖。ケニアの大地溝帯にある湖の中ではトゥルカナ湖に次いで北に位置し、面積約130平方キロメートル、湖面の標高は約970mとなっている。ホミノイドやホミニンの化石の発見をもたらしてくれる、考古学的に、また古生物学的に大きな意味を持つ場所があり、トゥゲンヒルズの中新世から更新世にかけての堆積シーケンスの中に存在している。

ナイバシャ湖
Lake Naivasha はケニアにある淡水湖である。ナイロビの北西にあり、ナイバシャの町 (公式には東ナクル) は湖の北東端にある。この湖はグレート・リフト・ヴァレーの一部である。ナイバシャの名前は地元のマサイ族の言葉で「荒い水」を意味するNai'poshaに由来する。ここで突然の嵐が起こることがあるからである。

ヴィクトリア湖
Lake Victoria)は、ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれたアフリカ最大(68,800 km2)の湖である。ナイル川の主流の一つ、白ナイル川の源流となっている。世界第3位、アフリカ1位の湖水面積を誇り、湖の中には北部に浮かぶウガンダ領のセセ諸島 (Ssese Islands) や南部に浮かぶタンザニアのウケレウェ島をはじめとする約3000の島々がある。

トゥルカナ湖
トゥルカナ湖 (Lake Turkana) またはルドルフ湖 (Lake Rudolf) は、アフリカ大陸の大地溝帯にある湖である。大部分はケニア国内にあり、北部がエチオピアに属している。面積は6405km2で、琵琶湖の約10倍あり、砂漠にある湖としては最大であり、アルカリ性の湖としても世界最大である。200から300万年前、この湖はもっと広く肥沃な湖であり、化石人類の生活の中心であったと考えられている。リチャード・リーキーはこの周囲で人類の進化を知る上で重要な発見をしている。200万年前のホモ・ルドルフエンシスの化石である"1470番頭蓋"は1972年に発見された。

タナ川
Tana River)とは、ケニアの河川。ケニア山の西部、ニエリ市附近に源流を発する川で、ケニア山の山塊を迂回しながら流れ、数個のダムを経、ガリッサやガルセン等の都市を流れてインド洋へと注ぐ河川である。

ニーリ砂漠
(Nyiri Desert) は、ケニアリフトバレー州南部カジアド県東南部、首都ナイロビの南、マガディ湖の東、キリマンジャロの北の「砂漠」である。

ヤッタ台地
Yatta Plateau) はケニア東部州最南部にある細長い台地である。頂上が平らな溶岩山脈であり、アティ川の東をツァヴォ・イースト国立公園の西境に沿って走る。長さが約290 kmあって世界最長の溶岩流と言われ、オルドイニョ・サブク (Ol Doinyo Sabuk) からの溶岩によって形成された。かつての川底が現在の連続する台地頂上であるという、地形逆転 (彫刻逆転) の例として知られている。

ロンゴノット山
Mount Longonot はケニアにある火山である。グレート・リフト・ヴァレー内のナイヴァシャ湖の南東にある。1860年代の噴火を最後に活動を休止していると考えられている。「ロンゴノット」はマサイ語のoloonong'otからきており、「たくさんの突出部」または「険しい尾根」を意味する。マサイ族はこの山をオルドイニョ・ローノンゴット (Ol Doinyo loonongot) と呼んでいる。

キリマンジャロ
Kilimanjaro) はタンザニア北東部にある山で、標高5,895m。アフリカ大陸の最高峰。山域がキリマンジャロ国立公園に指定されている。山脈に属さない独立峰としては世界一の高さを誇る。

エルゴン山
Mount Elgonはウガンダ・ケニア国境に跨がる楯状火山[1]。エルゴンという名は南麓の洞窟に住んでいたとされるエルゲヨ族(ケイヨ族)に因む。マサイ語で "Ol Doinyo Ilgoon"(乳房山)、ウガンダではマサバと呼ばれていた。東アフリカで最も古い火山の一つで裾野はおよそ3,500km2である。

ススワ山
Mount Suswa)はケニアにある火山である。グレート・リフト・ヴァレーにあり、東リフト・ヴァレーにある一連のカルデラの中で最南端に位置する。ナイロビの約50 km西北西にあたる。「ススワ」はマサイ族の言葉で「草」を意味する。


ホモ・ルドルフエンシス
Homo rudolfensisは、1972年に人類学者リチャード・リーキー (Richard Leakey) と妻の動物学者ミーブ・リーキー (Meave Leakey) が率いた探検隊のメンバーだったバーナード・ンゲネオ (Bernard Ngeneo) が、ケニアのトゥルカナ湖東岸で発見した化石人類の一種である。


国際連合環境計画
United Nations Environment Programmeは、国際連合総会の補助機関である。天然資源部、持続可能な生産と消費部、グローバリゼーション部などの5セクションに分かれ、本部はケニアのナイロビに置かれている。開発途上国に本部を置いた最初の国連機関である。下部組織として、世界自然保全モニタリングセンターが置かれている。

世界自然保全モニタリングセンター
World Conservation Monitoring Centreは、生物多様性の保全に取り組む、国際連合環境計画(UNEP)の下部組織。世界動植物保全監視センター、世界自然保護モニタリングセンター、世界保全モニタリングセンターなどとも訳される。英語の略称はUNEP-WCMC、WCMC。本部はイギリスのケンブリッジ。


マウマウ団の乱
Mau Mau Uprisingは、イギリスの植民地だったケニア(イギリス領東アフリカ)で1952年から1960年に起こった民族主義的独立運動。ケニア最大民族であるキクユ族を中心とする人々がケニア土地自由軍を結成し、1952年から各地の白人農場、警察署、政府軍用地、親植民地派のケニア人を襲撃した。軍事的にはこの襲撃は失敗に終わったが、結果としてケニア独立を早めることとなった。

ケニア土地自由軍
Kenya Land and Freedom Army, KLFAは、ケニアの秘密結社。イギリス植民地期に活動し最盛期には20万人が所属していた。「マウマウ団」はこの結社に対するイギリス側の呼称である。キクユ族の貧農を中心に一般の都市労働者や労働組合員によって構成されイギリス植民地支配下のケニアの独立および民族解放を目指した。1952年からマウマウ団の乱と呼ばれる白人入植者と親植民地派のケニア人に対するゲリラ闘争を行なったが、1959年までに鎮圧され指導者デダン・キマジの死によって終結した。

イギリス領東アフリカ
(British East Africa) は19世紀末に東アフリカに設けられた英国の植民地。モンバサ港周辺にイギリスが持っていた商業利権をもとに、1880年代からイギリス東アフリカ会社(IBEA)が経営し、後に現在のケニアに相当する部分が保護領となった。この保護領は1920年に直轄のケニア植民地となるまで続いた。

大ソマリア主義
Pan-Somalism)とは、アフリカ北東部のソマリ人居住地域すべてを統合し、大ソマリア(Greater Somalia)を建設しようとする思想。オガデン戦争の原因ともなり、ソマリア及び近隣地域に混乱をもたらした。


■民族
住民は、キクユ族が22%、ルヒヤ族(ルイヤ族)が14%、ルオ族が13%、カレンジン族が12%、などとなっている。ほかにマサイ族、サンブル族、トゥルカナ族、ソマリ族など。ただしこれらの民族/部族区分はイギリスが植民地支配のために造り出したものであり、民族間の境界は存在しなかった。

■言語
言語は、スワヒリ語と英語が公用語である。100万人以上の話者が存在する言語は、スワヒリ語、英語のほか、バントゥー語系のキクユ語(話者数600万人)、ルヒア語(400万人)、カンバ語(300万人)、キシイ語(100万人)、メル語(100万人)、ナイル語系のルオ語(350万人)、カレンジン語(300万人)である。このほか、マサイ語、キプシギ語など42の言語が用いられている。ケニアのアジア人はパンジャーブ語などを用いる。

バントゥー語群
アフリカの広い範囲で話され、互いに共通性のある一群の言語で、系統的にはニジェール・コンゴ語族のベヌエ・コンゴ語群に含められる。


マサイ族
ケニア南部からタンザニア北部一帯の先住民である。ナイル系のマー語(マサイ語)を話す。「マサイ」とは、「マー語を話す人」という意味だという。伝統的な生活を守って暮らしている民族である。人口は推定20 - 30万人程度と推測されている。「伝統信仰」はキリマンジャロ山の頂上に座するエン=カイという神を信奉する一神教。これはキクユ族の神であるンガイと同じものであると思われる。非常に勇敢でプライドが高く、草原の貴族と呼ばれる。

サンブル族
Samburuは、ケニアに住むナイロ・ハム系部族。ケニア北部、サンブル地区の半砂漠地帯に住んでいる。年齢別集団組織が存在する。老人にはわがままを言うものを呪う 神秘の力があると信じられており、それが秩序を保つ大きな力となっている。

キクユ族
アフリカ東部、現在のケニアを中心とした地域に住む民族。主にケニア中央部に住むバントゥー語群系農耕民で、キクユ語を話す。ケニア人口の22%に当たる、534万(1994年)の人口を擁する国内最大の民族である。第一次世界大戦にケニアに入植した、後のデンマーク作家カレン・ブリクセンは自分のコーヒー園で雇用したキクユの人々について次のように書いている(『アフリカの日々』より)。反抗心を持たず、羊のように我慢強い土地の人たちは、権力も保護者もないまま、自分たちの運命に耐えてきた。偉大なあきらめの才能によって、今もなお彼らは耐えている。キクユ族はマサイ族のように隷属に耐えず死を選ぶことはないし、ソマリ族のように、傷つけられ、だまされ、軽んじられた場合、運命に挑戦することもない。異国の神とも親しみ、とらわれの境遇にも耐えてきた。

ルオ族
Luoは、ケニアを中心に、南スーダンからタンザニアにかけて居住するナイル語系諸族の一民族。言語はナイル諸語に属するルオ語を話す。人口は350万人を超えると推定されている。漁業、牧畜、農耕を行うが、現在ではかつての牧畜に代わって農耕が最も重要な産業となっている。ケニア国内ではキスムが主要な定住地として知られる。ケニア国内では、ケニア建国以来主導権を握っているキクユ族への反感が強い。

グシイ族
Gusii)は、ケニアに住む部族。キシイ族(Kisii)とも呼ばれる。ケニア、南ニャンザ地区の灌漑の行き届いた山地に、氏族に分かれて住んでいる。

オロモ人
アフリカに住む民族のひとつ。オロモとはオロモ語で「力ある者」を意味する。エチオピア中南部のオロミア州に主に居住し、ケニア北部にも住んでいる。オロモ人はもともとエチオピア南部にいた小民族だったが、16世紀ごろから急速に勢力を拡大し、エチオピアの北部や南部に居住地域を広げていった。

カンバ族
Kambaはケニアの首都ナイロビの東方サバンナ地帯に居住するバントゥー系諸族のひとつで約170万人が該当する。16世紀にタンザニア北東部から移住してきた民族でキクユ族と文化的な類似性が認められる。農業と牧畜を主とした生活を営んでおり、シコクビエ、コーリャン、トウモロコシなどの栽培、ウシ、ヒツジ、ヤギの飼育を行う。

レンディーレ族
Rendille peopleは、東部アフリカのケニア北部、エチオピア国境近辺に住む遊牧民族である。レンディーレの社会では、生きていくうえで大切なラクダ・ヤギ・ヒツジは、男性が所有していて父親から息子へと引き継がれていく。男の世界では家畜の受け渡しや貸し借りが、友達づきあいや親戚関係の絆を保っている。一方女性は草花や装飾品の素材をやり取りすることによって、女性同士の親しい関係を作ったり、夫婦や親子の愛情を示したり、親戚の付き合いを深めたりする。女性たちの装身具は兄弟、娘、姪、友人たちに受け継がれていく。

ソマリ族
(Somali) は主にアフリカ大陸の東端である「アフリカの角」に住む民族。1,000万人以上の人口を抱えるが、言語(ソマリ語)・文化面(スンナ派のイスラームを信仰)から民族的均一性は非常に高い。しかし民族意識よりも氏族への帰属意識が高いため、氏族権益から同一民族同士で争うことが多々ある。その最たる例が、ソマリア内戦である。

ダロッド
Darod)はソマリ族の主要氏族のひとつ。8世紀ごろの人物アブディラフマン・ビン・イスマイリ・アル・ジャバルティ (Abdirahman bin Isma'il al-Jabarti) が祖先とされている。ダロッドの多くは昔からソマリア北部に住んでいるが、一部の人はソマリア南部のとりわけ首都モガディシュ近郊に住んでいる。

アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、中東北アフリカを中心に勢力を拡大した。ムハンマド以前、アラビア人は統一された社会共同体もなく、部族社会を形成していた。部族は度々水資源や利権を巡って争い、破壊や略奪といった無法な行為を行っていたものの、戦では詩の優劣で勝敗を決めることがあるという非常に発達した精神文化も備えていた。


奴隷貿易
古代ギリシアにおいては、戦争捕虜が奴隷貿易で取り引きをされた。紀元前5世紀から紀元前2世紀のマンティネイアの戦いまでは、ギリシア人以外の非自由民を売るのが通例であり、捕虜となった奴隷は交易港に運ばれて戦利品とともに売られた。大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった(→三角貿易)。


スワヒリ文明
インド洋交易によって栄えた東アフリカの島嶼部の都市群を中心とした海洋文明のことである。イスラームを生活規範としながら、アラブ・ペルシア系の外来文化と土着のアフリカ農耕文化の融合によって作り上げられ、共通言語としてスワヒリ語が用いられた。45年、ギリシア人のヒッパロスが、インド洋西域に吹く季節風が半年交代で南北の方向に出現することを発見したことによって、アフリカの産物についてのインド洋交易が開始された。このころ、アレクサンドリアの無名ギリシア人がエリュトゥラー海案内記という、インド洋航海と交易の案内書を記した。

トゥルカナ・ボーイ
(Turkana Boy)は、新生代第四紀更新世の時代に生息していたヒト属ホモ・エルガステルの代表例。発見地から名付けられた。1980年代にケニアのトゥルカナ湖の西岸から発見された170万年前の少年の骨格。9歳程度の少年であったと見られる。脳容積は1,000ccに満たなかったと推定されるが、体型的には現代人と遜色がないレベルに達している。


スワヒリ語
Kiswahiliは、アフリカ東岸部で国を越えて広く使われている言語。ケニア、タンザニア、ウガンダでは公用語となっている。スワヒリ語は東アフリカ沿岸地域の多くの民族の母語となっているバントゥー諸語の一つである。 数世紀にわたるアラブ系商人とバントゥー系諸民族の交易の中で、現地のバントゥー諸語にアラビア語の影響が加わって形成された言語であり、語彙の約35%はアラビア語に由来する。

ケニア・アフリカ民族同盟
Kenya African National Union, KANUは、ケニアの政党。1963年の独立からケニアの政治の中心となる政党であった。1982年には法改正により一党独裁体制となるも、冷戦構造の崩壊に伴い1991年には複数政党制を容認した。以後、次第に弱体化し、2002年12月の大統領選で民主党のキバキ候補に敗れたことをきっかけに政権の中枢から外れることとなった。


アンボセリ国立公園
ケニアのリフトバレー州カジアド県にあり、キリマンジャロの裾野にひろがる国立公園。広さ392km2。アーネスト・ヘミングウェイが『キリマンジャロの雪』を執筆した場所でもある。なお、2010年2月には、旱魃の影響により8割の草食動物が死亡しており、生態系に深刻な影響が生じている。

ヘルズ・ゲート国立公園
(Hell's Gate National Park) はケニアのナイロビから約90km北にある国立公園。面積68km2。 大地溝帯の底、ナイバシャ湖 (Lake Naivasha) の近くにある。 火山活動によってできた多彩な景観を、徒歩、自転車など、車から降りて楽しめるのが特徴。 「悪魔の門」の名前とは程遠く、ナイロビから手軽にピクニックに、訪ねられる観光地である。


<世界遺産>
ラム旧市街
町が出来たのは14世紀のことで、スワヒリ系の建造物群がいまなお良好に現存している。この東アフリカで現存する最古のスワヒリ建造物群が評価され、旧市街がユネスコの世界遺産に登録されている。古い町並みの通りは狭く、自動車は通れないが、徒歩や自転車で見て回れば十分である。なお、観光には地元で好まれるロバも使われる。

ケニア山国立公園/自然林
ケニア山国立公園は、アフリカ第二位の山であるケニア山一帯を保護するために、1949年に設定された国立公園。標高5199mの山のうち、3350m以上の地域が対象となっている。自然林の保護区も含むが、森林保護区設定は国立公園に先んじるものであった。1978年に生物圏保護区 (MAB) にも登録されており、1997年にはユネスコの世界遺産にも登録された。

トゥルカナ湖国立公園群
トゥルカナ湖国立公園群は、ケニア北部のトゥルカナ湖(Lake Turkana、旧称ルドルフ湖、Lake Rudolf)の3つの国立公園の総称で、世界遺産。 東岸に立地するシビロイ国立公園 (Sibiloi National Park) は1570平方キロメートルでエチオピア国境に30kmほど、湖の中央やや南の火山島のセントラル・アイランド国立公園 (Central Island National Park) 5平方キロメートル、南端近くのやはり火山島のサウス・アイランド国立公園 (South Island National Park) 39平方キロメートルからなる。荒涼とした湖岸に縁取られた翡翠色の湖水が、草木の生えていない絶壁の間を南北に伸びる印象的な景観、水鳥の大規模な生息地、数百万年前の人類の化石の産地、といった観光資源には恵まれている。

ジョモ・ケニヤッタ
Jomo Kenyatta, 1893年10月20日 - 1978年8月22日は、ケニアの初代首相(1963 - 1964年)および初代大統領(1964年 - 1978年)。独立国家としてのケニアの創立者。独立運動を開始した際「ケニアの光」を意味する名に改めたという。従って、彼に因んでケニアの国名が命名された訳ではない。また、「ケニヤッタ」とは、いつも身につけていたベルト「Kinyata」にちなむと言う説もある。

キャサリン・ヌデレバ
Catherine Ndereba、1972年7月21日 - は、ケニアのニエリ出身の女子マラソン選手。2001年10月7日にシカゴマラソンを2時間18分47秒で走り当時の世界記録を達成、現在もアフリカ記録(世界第2位)を保持している。世界陸上の女子マラソンで通算2勝したのはヌデレバが初である。また、オリンピック、世界陸上の女子マラソンのメダル獲得数計5個は、現在女子マラソン最多メダル獲得記録である。

エリック・ワイナイナ
Eric Wainaina、1973年12月19日 - は、ケニアの男子陸上長距離(マラソン)選手。オリンピック銀メダリスト。マラソン優勝7回。ケニア、ニャンダルワ県ニャフルル市オルジョロロコ町に生まれ育つ。1988年のソウルオリンピック(マラソン)で銀メダルを獲得したエスビー食品陸上部のダグラス・ワキウリに憧れ、地元のウェル・セガンダリ高校時代に本格的なトレーニングを開始。コニカミノルタ(当時コニカ)陸上部監督の酒井勝充監督に能力を見出され、1993年に来日し同部へ所属。同年の札幌国際ハーフマラソンで2位、翌1994年の北海道マラソンで初マラソンに挑み初優勝。

グリンダ・チャーダ
Gurinder Chadha OBE、1960年1月10日 - は、イギリスの映画監督。ケニヤ・ナイロビにて、インド人両親の間に生まれ、ロンドンのインド人街であるサウスオールで育つ。BBCラジオのレポーターであったが、BBCでドキュメンタリーを制作するようになる。その後、商業映画を手がけるようになり、サッカー選手にあこがれる少女を描いた『ベッカムに恋して』やアイシュワリヤ・ライ主演の『Bride & Prejudice』(『高慢と偏見』のインド版リメイク)などで高い評価を得る。

リチャード・ドーキン
(Clinton Richard Dawkins, 1941年3月26日 - )は、イギリスの動物行動学者であり進化生物学者。The Selfish Gene(『利己的な遺伝子』)をはじめとする一般向けの著作を多く発表している。存命の一般向け科学書の著者としてはかなり知名度の高い一人である。ドーキンスは、「自然選択の実質的な単位が遺伝子である」とする遺伝子中心視点を提唱したことでよく知られている。

ダニエル・アラップ・モイ
(Daniel Toroitich Arap Moi, 1924年9月2日 - )は、ケニア第2代大統領。1978年10月から2002年12月まで在職。ケニア・アフリカ民族同盟 (KANU) 所属の政治家であったが、2002年12月に政界引退。 1978年、初代大統領ジョモ・ケニヤッタの死亡に伴い、副大統領から昇格。KANU一党独裁体制のもと、5選・24年間の長期政権を維持する。

ピーター・コエチ
(Peter Koech、1958年2月18日 - )は、ケニアの陸上競技選手。1988年ソウルオリンピック3000mSCの銀メダリストである。1989年には、3000mSCで、ヘンリー・ロノが持っていた8分05秒4の世界記録を破り、8分05秒35の世界新記録を樹立した。

ダニエル・ジェンガ
(Daniel Njenga、1976年5月7日 - )は、ケニア出身で日本を拠点に活動する陸上競技選手。ヤクルト所属。流経大卒業後はマラソンに転向、2004年の東京国際マラソンでマラソン初優勝、2007年に始まった東京マラソンでは初代王者に輝いている。また、シカゴマラソンでは2位2回、3位3回と、スピードレースで比較的相性のいいところを見せている。

ウィリアム・シゲイ
(William Sigei、1969年10月11日-)は、ケニアの陸上競技選手である。1993年、1994年の世界クロスカントリー選手権のチャンピオンである。シゲイは、1994年に10000mで26分52秒23の世界新記録を樹立した。

ウィリアム・タヌイ
(William Kiptarus Tanui、1964年2月22日 - )は、ケニアの陸上競技選手。1990年代に活躍した中距離を得意とする選手である。1992年バルセロナオリンピックの金メダリスト。リフトバレー州ナンディ県ケメロイ出身。

リチャード・チェリモ
(Richard Chelimo、1972年4月21日 - 2001年8月15日)は、ケニアの陸上競技選手である。10000mの元世界記録、世界ジュニア記録保持者である。バルセロナオリンピックの10000mで、不公正な判定で金メダルが取れなかった選手としてよく知られている。

ワルインゲ中山
(Philip Waruinge、1945年2月3日 - )は、ケニアの元プロボクサー。ナイロビ出身。オリンピック2大会連続メダル獲得後、日本でプロとして活躍した。1976年4月3日、パナマにて世界王座初挑戦。WBC世界ジュニアフェザー級王座決定戦でリゴベルト・リアスコと対戦し、8回終了時に棄権・TKO負けで世界王座獲得ならず。同年11月13日、メキシコでカルロス・サラテが持つWBC世界バンタム級王座に挑戦し、4回KO負け。

アルフレッド・キーワ・イエゴ
(Alfred Kirwa Yego、1986年11月28日 - )は、ケニアの陸上競技選手。2008年北京オリンピックの銅メダリストである。イエゴは、2004年の世界ジュニア選手権の800mで2位という成績を上げるが、翌年のヘルシンキの世界選手権の800mでは予選で敗退と惨敗してしまった。しかし2007年の大阪の世界選手権の800mでは決勝に進出。最後の直線、リードしていたカナダのゲーリー・リードをゴール直前かわし、わずか100分の1秒差勝利し、メジャーな国際大会で初勝利を飾った。

モハメド・アミン
(Mohamed "Mo" Amin、1943年8月29日 - 1996年11月23日)はケニアの写真家、ジャーナリスト。ナイロビ生まれ。エチオピア大飢饉をテーマにした写真で有名である。この写真により世界各国はエチオピアへの支援を行い、彼はエチオピアから英雄視された。 1991年6月4日、エチオピア内戦下のアディスアベバで炎上中の弾薬庫の爆発に巻き込まれ(助手は死亡)、左腕を切断したが義手を付けて活動を続けた。

ディープ・ロイ
(Deep Roy、1957年 - )は、ケニア出身の俳優、スタントマン。現在はアメリカ合衆国カリフォルニア州サンタモニカ在住。ケニア生まれ。インド人の両親の間に生まれる。132センチメートルという身長のため、さまざまなキャラクターを演じてきた。映画デビューは1976年の『ピンクパンサー3』。『チャーリーとチョコレート工場』では、一人で165人のウンパルンパ役をこなした。

ケニア共和国 Kenya
東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。首都はナイロビ。首都ナイロビには国際連合環境計画、国際連合人間居住計画の本部がある。

 

ナイロビ/Nairobi
ケニア共和国の首都で最大の都市。アフリカ有数の世界都市であり、2010年の都市的地域の人口は336万人であり、世界第99位。赤道に近いが標高約1600mに位置し気候は比較的冷涼である。主要な言語は、スワヒリ語と英語。ナイロビ(Nairobi)という名前は、マサイ語で「冷たい水」を意味する Ewaso Nyirobi に由来する。ナイロビは1899年にモンバサとウガンダの間に建設されていたウガンダ鉄道の給水および補修の拠点として建設された。ここに拠点が置かれたのは、モンバサとヴィクトリア湖畔の町キスムの二つの重要な港町の中間地点にあること、高原にあり冷涼でさわやかな気候を持つこと、マサイ語の「冷たい水」の名の通りに清潔で豊富な水が得られること、街の西にある山地を越えるための機関車の連結地点として適していたこと、などが挙げられる。疫病の大流行と町の大火事の後、20世紀初頭に再建された。

ナイロビ大学
University of Nairobi、略称:UONは、ケニヤ共和国の首都ナイロビに位置している大学である。創立の源流を遡ると、イギリス植民地時代の1956年の王立技術大学(Royal Technical College)にまで辿り着くことができる。現在の組織形態になったのは1970年である。


ジョモ・ケニヤッタ国際空港
Jomo Kenyatta International Airportは、ケニアの首都、ナイロビにある共用飛行場。ケニア航空のハブ空港である。空港名はケニアの初代大統領であるジョモ・ケニヤッタから命名された。

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ケニヤッタ国際会議場
Kenyatta International Conference Centre、略称KICCは、ケニアの首都ナイロビにあるコンベンションセンター。特徴的な外観により、ナイロビのシンボルとなっている。30階建て、高さは105m。東アフリカ最大のコンベンションセンターであり、アフリカ関連の国際会議が多く開催される。円形会議場は800人収容。 ナイロビの中心街に位置し、官庁や高級ホテルからのアクセスが至便である。


外務省:ケニア共和国
在ケニア日本国大使館


モンバサ
Mombasaは、アフリカ、ケニア共和国海岸州のモンバサ島にある都市。かつてはアラブ人との交易で栄えた地域で、イスラム教徒が多く住む。ケニア第二の人口をもつ同国最大の港湾都市。モンバサ港には世界から多くの船舶が出入りし、その一角であるキリンディニ港にはクルーズ客船が多数来航する。本土との間は2つの入り江で分けられ、北部は橋で、西はコーズウェーで、南はフェリーで通じている。市街地は本土まで拡大している。

ワジール
Wajeerはケニアの北東州にある町で、ワジール県(英語版)の行政中心地。ワジールは降水量が少ない乾燥地帯にある。北東州の他地域同様、ワジールにはソマリ族が多く住む。その多くはハウィエ氏族の支族デゴディアである。1999年の国税調査では住民は32,207であり、2010年時点の推定人口は41,430である。

キリンディニ港
ケニアのモンバサから内陸部に向かって伸びた天然の入り江にある港のこと。幅が広く水深が深いため、天然の良港となっている。キリンディニ港はモンバサ港の一部を成しており、モンバサ港はケニア唯一の国際港である。ケニア港湾局によって管理されており、貨物の扱いは少ないがクルーズ客船の寄航が多い。

ニエリ
Nyeriは、ケニアの中央部(首都ナイロビから120kmほど北)に位置するケニアの町および地区である。ケニア山国立公園とアバディア国立公園のあいだに位置する。ロバート・ベーデン・パウエル卿(通称B-P、ボーア戦争の英雄、ボーイスカウト運動の創設者)とその妻オレブ・ベーデン=パウエルの墓所があり、B-Pの終の棲家であったコテージ「パックス・トゥ」(Paxtu、現在は小さな博物館になっている)は、アウトスパンホテルの敷地内にある。

エルドレット
エルドレット(Eldoret)は、ケニアの都市。2010年の推定人口は251,899人。ケニア中部の高原地帯、標高2100mの地点にあり、リフトバレー州に属する。ナイロビ、モンバサ、キスム、ナクルに次ぎ、ケニアで5番目に大きな街である。住民はカレンジン人が中心で、少数のキクユ人も住む。エルドレットには大きな市場があり、物資の集散地となっている。周辺ではコムギ・トウモロコシ・除虫菊などが栽培され、また繊維産業も盛んである。また、1984年設立のモイ大学があり、学生も街の人口の大きな部分を占めている。

マリンディ
Malindiはケニアの都市。かつては多くのムスリム商人が来訪し、貿易を通じて栄えた。現在の人口は約12万人(1999年の国勢調査)。インド洋に面した小さな港市で、国内における流通の拠点の一つである。現在は観光客を多く集める。近隣の都市としては、約100キロ南西にモンバサが位置している。

ナクル
Nakuruはケニアの都市。リフト・バレー州の州都。「ナクル」は、マサイ語の「埃まき立つ土地」を意味している。ケニア中西部を代表する都市で、ナクル湖の北岸に位置する。交通の要所であり、周囲で生産される農作物の集散地としての役割も果たす。近隣の都市としては、約140キロ南東のナイロビや120キロ北西のエルドレットなどが挙げられる。

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キスム
(Kisumu)は、ケニア西部にある都市でニャンザ州の州都及びキスム県の県庁所在地。人口32万2024人(1999年)。ビクトリア湖北東部のカビロンド湾の湾奥部、標高1170mにある港湾都市である。ルオ族の居住が多い。ナイロビを経由しモンバサと結ぶウガンダ鉄道が1901年に開通した。

ガリッサ
Garissa)とは、ケニア共和国北東州ガリッサ県に位置する市。ガリッサ県及び北東州の県都、州都でもある。市の周囲をタナ川が流れている。また、住民はソマリ族のダロッドが多い。

ニエリ
(Nyeri)は、ケニアの中央部(首都ナイロビから120kmほど北)に位置するケニアの町および地区である。ケニア山国立公園とアバディア国立公園のあいだに位置する。ケニアの最高峰であるケニア山を望む絶景が有名。

エルワク
(El Wak)はケニアの北東州、マンデラ県の町。すぐ東にソマリア国境があり、エルワクから東に10キロメートルほどの位置にソマリアのエルベルハギア(El beru hagia)の町がある。エルワクの「エル」は井戸を意味し、この付近の地名に多くみられる。


オレンジ民主運動
Orange Democratic Movement、略称:ODMは、ケニアの政党。オレンジ民主運動は、2005年の憲法改正に関する国民投票 Kenyan constitutional referendum, 2005の際、生まれた草の根の市民運動から発展し結成された。2007年8月、ケニア・オレンジ民主運動党(通常、単にODMとして知られる)とオレンジ民主運動・ケニア(ODM-Kenya)の2つの政党に分裂した。 「オレンジ」の名称は、国民投票における賛成票のイラストがバナナ、反対票がオレンジで表されたことに由来する。

ケニア危機 (2007年-2008年)
ケニアで2007年12月27日から2008年2月28日までに起きた暴動とそれによって叫ばれた政治危機である。暴動やその鎮圧によって1,000人を越える死者を出し、今なお数多くの国内難民を抱えるケニアにおいて建国以来最大の国内紛争であった。

国際連合人間居住計画
United Nations Human Settlements Programme)は、1978年に設立された国際連合の基金。本部はケニアのナイロビに置かれている。日本語の略称は国連ハビタット、英語の略称はUN-HABITAT、UNHSP。


国境なき医師団
Medecins Sans Frontieres、略称:MSF)は、1971年にフランスの医師のグループによって作られたNPOである。国際援助分野における功績によって、1999年にノーベル平和賞を受賞した。国境なき医師団は、1968年から1970年にかけて赤十字の医療支援活動のためにナイジェリア内戦中のビアフラに派遣されたフランス人医師たちを中心に設立された。


ニュー・セントラル・バンク・タワー
New Central Bank Tower)は、ケニアの首都ナイロビにある、38階建ての建造物。タイムズ・タワー (Times Tower) としても知られる。タワーの建設は、1997年から2000年まで行われた。2000年5月、140メートルあるタワーは、東アフリカおよび中央アフリカ地域で最も高い建造物となった。総合ビルとして機能するタワーには、7層に及ぶ銀行業の店舗と、計11階層分に及ぶ駐車場が入居している。


■国名
正式名称はJamhuri ya Kenya(スワヒリ語、ジャムフリ・ヤ・ケニャ、Republic of Kenya(英語)。日本語での表記はケニア共和国。通称ケニア。「ケニヤ」とも表記する。国名はケニア山に由来する。

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1.面積:58.3万平方キロメートル(日本の約1.5倍)
2.人口:3,980万人(2009年:世銀)
3.首都:ナイロビ(Nairobi)(約310万人 2009年:ケニア統計局)
4.民族:キクユ人、ルヒヤ人、カレンジン人、ルオ人等
5.言語:スワヒリ語、英語
6.宗教:伝統宗教、キリスト教、イスラム教

1963年 英国から独立
1964年 共和制移行(ケニヤッタ大統領)
1978年 モイ大統領就任(1983、1988、1992、1997年に再選)
1982年 ケニア・アフリカ人国民同盟(KANU)による一党制法制化
1991年 複数政党制再導入
2002年 総選挙。キバキ大統領就任
2007年 総選挙。キバキ大統領再選(任期5年)

■主要産業(農)コーヒー、紅茶、園芸作物、サイザル麻、綿花、とうもろこし、除虫菊(工)食品加工、ビール、タバコ、セメント、石油製品、砂糖(鉱)ソーダ灰、ほたる石

■総貿易額・主要貿易品目(2008年、ケニア国家統計局)総貿易額 約161億米ドル(1)輸出 約50億米ドル 園芸作物、紅茶、衣料品・アクセサリー、ソーダ灰、鉄鋼、コーヒー(2)輸入 約111億米ドル 石油製品、産業用機械、原油、自動車


ケニア・シリング
Shilling)はケニアの通貨。ISO 4217の通貨コードはKES、通貨記号はKShで表される。補助単位は100分の1のセント。東アフリカ・シリングに代わって、1966年に等価で導入された。東アフリカのなかでは最も安定した強い通貨であり、国外ではソマリア、南部スーダンといった情勢不安定な地域で使用されることが多い。

アフリカ社会主義
古典的な社会主義とは別に、伝統的なアフリカの流儀で経済資源を共有するといった思想。1950年代と1960年代の多くのアフリカの政治家は、アフリカ社会主義に対する支持を明言する。この用語の定義と解釈は後に大幅な変化を見せる事となる 。


■宗教
宗教は、プロテスタントが38%、ローマ・カトリックが28%、イスラム教が6%、伝統宗教が22%、その他が6%である。

■教育
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は85.1%(男性:90.6%、女性:79.7%)である。主な高等教育機関としてナイロビ大学(1956,1970)の名が挙げられる。


■文学
小説においては英語で書いた『夜が明けるまで』(1964)でケニア独立戦争を描いた後、ギクユ語のみで創作することを新たに宣言したグギ・ワ・ジオンゴ、『猟犬のための死体』(1974)のメジャ・ムアンギ、『スラム』(1981)のトマス・アカレ、ケニア土地自由軍の指導者を描いた『デダン・キマジ』(1990)で知られるサムエル・カヒガなどが著名な作家の名として挙げられる。

 


オーウェンとムゼー
(Owen and Mzee)はカバとアルダブラゾウガメで、友情関係を築いている。カバの赤ちゃん、オーウェン(体重600ポンド)はスマトラ島沖地震(アジア津波、2004年12月26日)でマリンディ近郊のケニア沿岸で救出された。約1000人の村民が鮫用の網を使って救出、最後に助けた Owen Saubion (フランス人)の名を取って、オーウェンと名付けられた。オーウェンはモンバサ近郊のホーラー・パーク, Haller Park に連れていかれ、カメの棲息地に放された。ムゼー(Mzee、スワヒリ語で“老人”;130歳、体重700ポンド)は、次第にオーウェンと親しくなり、オーウェンは養親ムゼーの真似をする様になった。次第にムゼーは養育し始め、食事や寝床を教え出した。最初の年、彼らは、食事、就寝、水浴び、遊びの全てを一緒に行い、科学者達を驚かせた。彼らは口語によるコミュニケーションも行う様になっている。


少年ケニヤ
『少年ケニヤ』(しょうねんケニヤ)は山川惣治原作の絵物語。および、それを原作とした派生作品。アフリカのケニアを舞台に、孤児になった日本人少年ワタルが仲間のマサイ族の酋長やジャングルの動物たちと冒険をする物語。1951年10月7日から1955年10月4日まで『産業経済新聞』(現:産経新聞)に連載されていた。『少年ケニヤ』は大人気となり、映画化、テレビドラマ化、漫画化、アニメ映画化なども行われた。


カムニャック
(KamunyakまたはKamuniak)は、アフリカ大陸のケニア北部にあるサンブル自然保護区にいたメスのライオンである。この若いメスライオンは、肉食動物にとって獲物であるはずの草食動物オリックスの子供を養育し、他の捕食者から守ろうと行動したことで有名になった。

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リフトバレー州
Rift Valley Province, Mkoa wa Bonde la Ufa)は北部でエチオピア、スーダン、ウガンダと接し、南部でタンザニアと接するケニア西部の州である。リフトバレー州は西部の大半を占めるケニア最大の州であり最も経済が活発な州の一つである。大地溝帯に位置し、名前もこれに因む。大地溝帯の地質学的な条件は世界でも稀なものであり、エルゲヨ断層崖は観光地としても有名である。

大地溝帯
Great Rift Valley)は、主にアフリカ大陸を南北に縦断する巨大な谷で、プレート境界の一つである。大地溝帯の谷は、幅35 - 100km、総延長は7,000kmにのぼる。正断層で地面が割れ、落差100mを超える急な崖が随所にある。

東部州
(Mkoa wa Mashariki) はケニア中部の州。北はエチオピアと接し、東に北東州、海岸州、西にリフトバレー州、中央州、ナイロビ州と接する。州都はエンブ。北西にトゥルカナ湖、北部にチャルビ砂漠、中西部にケニア山がある。気候はやや乾燥地帯である。

北東州
ケニア東北部の州。州都はガリッサ。タナ川を挟んで南に海岸州。西に東部州、北にエチオピアのオロミア州、東にソマリアと接する。伝統的にソマリ族の居住地であり、北東州にはソマリア人の難民キャンプがある。

西部州
Mkoa wa Magharibi)は北西にウガンダと接し、東にリフトバレー州、南にニャンザ州と接するケニアの州である。ブシア県はヴィクトリア湖に臨む。東リフトバレーの西に位置し、ルヒヤ族が主要な民族である。クエーカーが比較的に盛んである。州都はカカメガ。

ニャンザ州
Mkoa wa Nyanza)はヴィクトリア湖北西岸ウィナム湾を囲むケニア南西部の州。 北に西部州、東にリフトバレー州、南西にタンザニアのマラ州と接する。州都はケニア第三の都市キスム。

中央州
Mkoa wa Kati)はナイロビ北郊からケニア山南西麓にいたるケニアの州である。東の東部州と西のリフトバレー州に挟まれている。GEMAと総称されるケニアにおけるバントゥー系民族の故郷である。

海岸州
Mkoa wa Pwani) はケニア南西部の州。州都はモンバサ。インド洋沿岸と内陸部で、北に北東州、東部州、リフトバレー州、南西にタンザニアのキリマンジャロ州、タンガ州と接する。ミジケンダとスワヒリ族が主な住民である。

ナイロビ州
ナイロビ州はケニアの首都ナイロビの州。北に中央州、東に東部州、西にリフトバレー州と接する。範囲はナイロビに等しいが、州機能が設けられ州庁舎はニアヨハウスに置かれている。州知事はジェームズ・M・ワウェル[1]。人口は 3,038,553 人。

キベラ
(Kibera)は、ナイロビ(ケニア)に位置する、ソウェトに次ぐアフリカ2番目に規模を持つスラム。名前は、kibra(ヌビア語:森、ジャングル)に因む。1918年、ヌビアの兵士は第1次世界大戦とそれ以前の戦いの功績への褒美として、ナイロビ近郊の森林に位置する居住地を拝受。


■経済
主要産業は農業で、GDPの3分の1近くを占めている。工業化は他のアフリカ諸国と比べると比較的進んでおり、特に製造業の発展が著しい。紅茶、花卉の輸出増が近年著しい。

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東アフリカ共同体
East African Community、略称EAC)は、ケニア、タンザニア、ウガンダ、ルワンダ、ブルンジの東アフリカ諸国により結成された共同体。将来的な地域統合を目指している。共同体機構の本拠地は、タンザニアのアルーシャ市。


■鉱業
ケニアの鉱物資源は種類、産出量とも少なく、さらに第二次世界大戦から20世紀末にかけて規模を縮小してきた。主な鉱物資源はソーダ灰、塩、マグネシウム鉱物、蛍石、石灰岩、金である。経済産業調査会の鉱業便覧によると、1986年にはマグネシウム鉱30万トンを産出し、これは世界シェアの1.7%に達した。


グリンダ・チャーダ/Gurinder Chadha OBE
ケニヤ・ナイロビにて、インド人両親の間に生まれ、ロンドンのインド人街であるサウスオールで育つ。日系アメリカ人の映画プロデューサーであるポール・マエダ・バージェスと結婚。BBCラジオのレポーターであったが、BBCでドキュメンタリーを制作するようになる。その後、商業映画を手がけるようになり、サッカー選手にあこがれる少女を描いた『ベッカムに恋して』やアイシュワリヤ・ライ主演の『Bride & Prejudice』(『高慢と偏見』のインド版リメイク)などで高い評価を得る。

ワンガリ・マータイ/Wangari Muta Maathai
1940年4月1日 - 2011年9月25日は、ケニア出身の女性環境保護活動家。ナイロビ大学初の女性教授となった人物である。1940年、ケニア中部のニエリの農家の娘として生まれ、アメリカ、カンザス州のベネディクティン・カレッジ卒業後、ピッツバーグ大学で修士号、ナイロビ大学で博士号(獣医学)を取得し、1971年にはナイロビ大学教授に就任した。1977年にグリーン・ベルト・ムーブメントを設立して土壌の浸食と砂漠化を防止する植林活動を開始し、1986年にアフリカン・グリーン・ベルト・ネットワークへ改称後、アフリカ大陸全土で植林活動を行い、民主化や持続可能な開発の推進に取り組んだ。ノルウェー・ノーベル委員会は、2004年度のノーベル平和賞受賞者を発表する席で次のようにコメントした。「マータイは、ケニヤの圧政的な前政権に対し果敢にも立ち上がり、彼女のユニークな運動は政治的抑圧に対して国内、また国際的にも注意を引くのに貢献した。彼女は民主的権利への運動の中で多くの人々にとってインスピレーションとなり、また特に女性の地位向上を促すのに勇気を与えた」。

サムエル・ワンジル
Samuel Kamau Wanjiru, 1986年11月10日 - 2011年5月15日は、ケニア出身の男子陸上競技選手(長距離種目)。北京オリンピック男子マラソン金メダリストで、ハーフマラソンの元世界記録保持者でもある。日本の高校へ留学し、日本における陸上競技選手としても活躍した。1986年にケニア中央州ニャフルル市のオルカラウ町にキクユ族の子として生まれる。幼い頃に両親が離別したため、母のハンナ・ワンジル(Hannah Wanjiru)と弟のシモン・ジョロゲ(Simon Njoroge)との3人暮らしであった。子供の頃から走ることが大好きで、標高2000m超の自宅環境により心肺能力は自然と鍛えられた。

ムワイ・キバキ
Mwai Emilio Stanley[1]Kibaki, 1931年11月15日 - は、ケニア共和国第3代大統領(任期 :2002年 -2012年(予定) )。国家統一党 (Party of National Unity) 党首。中央州ニエリ出身。元副大統領 (1978年 - 1988年) で閣僚も経験している[2]。洗礼名はイタリアの宣教師に因んだものだが略される場合も多い。ニエリ県オタヤ地区のガトゥヤイニ村で農民のキバキ・ギシンジとテレジア・ワンジクの間に生まれる。義兄のポール・ムルルシの援助で教育を受け、マング高校で優秀な成績を修めた。キバキは高校卒業後に軍人になりたかったが、植民地総督のウォルター・クーツの決定により GEMA(キクユ族、エンブ族、メル族)共同体の出身者は植民地軍から排除された。

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カレン・ブリクセン
Baroness Karen von Blixen-Finecke, 1885年4月17日 - 1962年9月7日は、20世紀のデンマークを代表する小説家。デンマーク語と英語の両方で執筆し、デンマーク語版は本名のカレン・ブリクセン名義、英語版はペンネーム(男性名)のイサク・ディーネセンもしくはアイザック・ディネーセン(Isak Dienesen)名義で作品を発表した。1913年に父方の親戚のスウェーデン貴族のブロア・ブリクセンと結婚し、翌年ケニアに移住。夫婦でコーヒー農園を経営するが、まもなく結婚生活が破綻(夫に移された梅毒は生涯の病になった)し、離婚。単身での経営を試みるがあえなく失敗し、1931年にデンマークに帰国した。

ライラ・オディンガ
Raila Amolo Odinga、1945年1月7日 - は、ケニア共和国の政治家。現在、同国首相(第2代)。1992年より国会議員。エネルギー大臣(2001-2002年)、道路公共事業住宅大臣(2003-2005年)などを歴任。12月30日、ケニア選挙委員会はキバキの勝利を発表したが、オディンガは選挙委員会に不正があると訴え、再集計を要求。 ナイロビ・スラムの貧困層支持者を中心に、選挙結果への反発暴動が起こる。(2007-2008 ケニアの危機)

ポール・テルガト
Paul Kibii Tergat、1969年6月17日 - は、ケニアのバリンゴ出身の長距離走、およびマラソン選手。様々な記録を持つテルガトは、ケニア長距離界の父と呼ばれることもある。2003年9月28日のベルリンマラソンで2時間4分55秒の世界最高記録(当時)、1998年にはミラノのハーフマラソンで世界最高(当時)の59分17秒を記録している。

グギ・ワ・ジオンゴ
1938年1月5日 - は、ケニアの作家。当初は植民言語である英語を使用していたが決別し、現在は母語であるキクユ語を用いる。小説に始まり、戯曲、児童文学、映画、論文、批評まで幅広く手掛ける。ナイロビの西方約40キロに位置するリムルにあるカミリズ村付近の貧しい農家に生まれた。母親は強制収容所に入れられ、兄はマウマウ団の乱に参加した。1964年、東アフリカで当時最高峰の東アフリカ大学(マケレレ大学)を卒業。記者活動を経て、翌年から3年間、英国大使館奨学金を得てリーズ大学に留学し、主に西インド文学を専攻した。帰国した1967年、ナイロビ大学その他で教鞭を執ったが、1969年にナイロビ大の学生ストに対する大学当局の措置に抗議し、辞職した。

トマス・アカレ
Thomas Akare, 1950年 - はケニアの作家。ヴィクトリア湖に面した都市でルオ族の中心地であるキスムの出身。ナイロビのマジェンゴ地区やマコンゲニ地区などを舞台にした小説『スラム』を執筆。廃車に住み、カタンガ・ベース(由来はカタンガ州)と呼ばれるタクシーの車庫で洗車を仕事にする青年エディを主人公にスラムの生活を描いた。

ピーター・オルワ
Peter Orwa、1949年5月2日 - 2006年3月22日は、ケニア出身の元ボクサー。ミュンヘンオリンピックでの、ボクシングミドル級銅メダリスト。ナイロビ大学で民族音楽を学び、歌って踊ってジャンベを叩く「ピーター・バンド」のリーダー、東アフリカ野生生物協会理事、ナイロビ博物館研究員、アフリカ世界ボクシング協会会長等も務めた。日本でも、プロボクサーとして、また歌手として活躍もあり、「わくわく動物ランド」のテーマ曲、サントリーオールドのコマーシャルソングなどを歌っていた。日本動物植物専門学院のケニア校校長を務めたこともあり、日本語も話せる。

ウィルソン・キプケテル
Wilson Kipketer、1972年12月12日 - は、ケニア出身でデンマーク人の陸上競技選手。男子800mの元世界記録保持者である。1980年代、ケニアの陸上競技選手であったキプチョゲ・ケイノに才能を見出され、中距離走を始めた。 19歳のとき、交換留学生としてコペンハーゲン大学で電子工学を専攻し、そのままデンマークに移住した。その後、デンマーク代表として1995年世界陸上選手権に出場。初出場にして優勝を果たした。

ハルフォード・マッキンダー
(Sir Halford John Mackinder, 1861年2月15日 - 1947年3月6日)は、イギリスの地理学者、政治家である。ハートランド理論を提唱し、この概念は地政学の基礎的な理論付けとなった。事実上の現代地政学の開祖ともいえる。1861年、イングランドの東部にあるリンカンシャーでスコットランド系の医者の長男として生まれる。若い頃から周囲の自然に興味を示し、オックスフォード大学では生物学を専攻しようとしたが地質学や歴史や法学を学び、そのいずれにも頭角を表した。法学の分野においては弁護士の資格を取得している。その後も自然に関する関心と情熱は止みがたく、広く国内を旅行して、自然科学と人間社会を結びつける中間的な概念としての「新しい地理学」を提唱し、学会の注目を引いた。

エリック・シプトン
(Eric Earle Shipton:1907年8月1日-1977年3月28日)はイギリスの登山家。1930年から50年代のイギリスによるエベレスト遠征において主導的な役割を果たしたにもかかわらず、エベレスト初登頂を成し遂げた1953年遠征隊の隊長選出時にメンバーからはずされた悲劇の人物。シプトンはヒマラヤだけでなく、ヨーロッパ、中央アジアからパタゴニアまで世界各地を歩いた登山家・探検家であり、多くの登山記録・探検記録を残した著述家でもあった。また、エベレスト初登頂をとげたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイを初めてイギリス隊に迎えたのもシプトンであった。

アーシフ・カリム
(Aasif Yusuf Karim、1963年12月15日 - )はケニアのモンバサ出身のクリケット選手。インドの系統の家系である。下位打線のバッツマンとして活躍しただけでなく、左腕スピンボウラーとしてもプレーし、しばしばケニア国内では最高の選手と呼ばれた。また、クリケットのワンデイ・インターナショナルとテニスのデビスカップの両方でキャプテンを務めた珍しい経歴も持つ。

アモス・ビウォット
Amos Biwott、1947年9月8日 - は、ケニアの陸上競技選手。1968年メキシコオリンピックの男子3000m障害金メダリストである。リフトバレー州ナンディ県出身。ビウォットは、1960年代から70年代にかけて活躍したケニアの3000m障害を得意とした陸上選手である。現在、陸上競技の中長距離で世界を圧倒しているアフリカ勢の先がけとなった選手の一人である。

ルイス・リーキー
(Louis Seymour Bazett Leakey,1903年8月7日−1972年11月1日)はケニヤの古人類学者。アフリカにおける人類の進化の解明に大きな貢献をした。またアフリカでの研究と自然保護のための組織の創設に中心的な役割を果たした。古人類学と霊長類学の次の世代の研究者を育てた。自然科学者としてリーキーはチャールズ・ダーウィンの見解を強く支持し、人類はアフリカで進化したと言うダーウィンの仮説を証明しようと試みた。

ダグラス・ワキウリ
(Douglas Wakiihuri、1963年9月26日 - )はケニアの男子マラソン選手である。1987年に世界陸上選手権(ローマ)で優勝、翌1988年のソウルオリンピックで銀メダルを獲得し、世界のトップとしての地位を確立。1990年代初頭にはジェリンド・ボルディン、スティーブ・モネゲッティとともに「マラソン世界3強」とうたわれた選手だった。

岸田袈裟
岸田 袈裟(きしだ けさ、1943年4月5日 - 2010年2月23日、旧姓:菊池)は、日本の栄養学者。岩手県上郷村(現遠野市)出身。1975年から国際協力機構(JICA)に所属してケニアに渡り、現地住民の生活改善に貢献した。1977年、ジョモケニヤッタ大学・東京外語大学、岩手医科大学の共同研究員。アフリカの食物栄養学、言語、文化などを調査研究。

 

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