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ギニアビサウ共和国
Republic of Guinea-Bissau

アフリカ

ギニアビサウ/国際NGOプラン・ジャパン
美しい景観、豊富な野生動物、ポルトガル植民地だった頃の遺跡や西アフリカの伝統などたくさんの見所があります。固有の習慣と伝統を持つ31の異なる民族集団が、お互い平和的に共存しています。


■地理
熱帯にある小国であり、いくつかの河川が流れる大陸部と島嶼部(ビジャゴ諸島)からなる。高い山は無く、国内の最高地点の標高は310mである。内陸部はサバンナであり、沿岸部は沼沢地のところが多い。雨季とサハラ砂漠からのハルマッタンによる暑く乾燥した乾季がある。


西アフリカ
アフリカの西部地域、具体的には、サハラ砂漠の南側で、かって西スーダンと呼ばれた地域と、中央スーダンの一部、大西洋、ギニア湾に面する「上ギニア」の国々が含まれる地域を指す。アルジェリアなどマグリブ諸国は、歴史的・文化的に地中海世界やアラブ世界としての一体性が強く、通常は北アフリカとする。

サバナ
(Savanna;サバンナとも)とは乾季と雨季のある熱帯に分布する、疎林と潅木を交えた熱帯長草草原地帯である。 アフリカではバオバブ樹などが見られる。 熱帯草原を一般的にサバナと呼んでいるが、これはスーダン先住民が使用した呼称に由来し、地域によりリャノ(オリノコ川流域)、カンポ(ブラジル高原)、グランチャコ(パラグアイ)などの名称もある。


大西洋
Atlantic Oceanとは、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸、アメリカ大陸の間にある海である。 なお、大西洋は、南大西洋と北大西洋とに分けて考えることもある。おおまかに言うと、南大西洋はアフリカ大陸と南アメリカ大陸の分裂によって誕生した海洋であり、北大西洋は北アメリカ大陸とユーラシア大陸の分裂によって誕生した海洋である。南のイベリア半島においてはポルトガルのエンリケ航海王子が1416年ごろからアフリカ大陸沿いに探検船を南下させるようになり、1434年にはそれまでヨーロッパでは世界の果てと考えられていたボハドル岬を突破。以後も探検船は南下し続け、1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見し、アフリカ大陸沿いの南下は終止符を打った。

ビジャゴ諸島
Arquipelago dos Bijagos :ポルトガル語は18の大きな島と12の小さな島々から成立つ、大西洋のギニアビサウ沖合に浮かぶ群島である。ギニアビサウ領。20の有人島があり、住民の多くはビジャゴ人であり、ビジャゴ語が話されている。 ボラマ島、ブバケ島およびカラヴェラ島の人口が多く、観光客も訪れる。ウミガメ、マナティーなどの野生動物が生息しており、ユネスコの生物圏保護区に指定されている。

ハルマッタン
(Harmattan)は、西アフリカで吹く貿易風である。熱風ではないが、きわめて乾燥しており湿気を奪う。また大量の0.5 - 10マイクロメートルのきわめて細かい砂塵を含んでおり、その砂塵は遠く北アメリカ大陸まで届く。ハルマッタンはサハラ砂漠から南のギニア湾岸地方に向けて、11月から3月中旬の冬の間(乾季)に吹く。


フラニ族
フラニ族(フラニぞく)は、北西はモーリタニアから東はカメルーンまで西アフリカの多くの国に分布する民族。居住地域は主にサヘル地帯に広がっている。ナイジェリアやその他の国で、彼らはフラニ族 (Fulani) と称されるが、彼ら自身はフラベ族(Fulbhe, 単数ではプロpullo)と称する。

マンディンカ族
マンディンカ若しくはマンディンゴ(人)は、西アフリカのマンデ族 (Mandé) に属し、生物学的、文化的にサハラをまたいで中東から西アフリカにかけて行われた貿易を支配したマリ帝国 の子孫である。13世紀初めにはスンジャータ・ケイタ (Sundiata Keita) の支配下にあった。同世紀に彼らは現マリ共和国を離れ大帝国を切り開いた。

ギニアビサウ・クレオール語
Kriol, Crioulo)は、おもにギニア・ビサウで使用されている言語。ギニア・ビサウではリングワ・フランカとして通用しており、セネガルでもジガンショールなど一部の地域で使用されている。ポルトガル語をもとにしたクレオール言語である。


奴隷貿易
古代ギリシアにおいては、戦争捕虜が奴隷貿易で取り引きをされた。紀元前5世紀から紀元前2世紀のマンティネイアの戦いまでは、ギリシア人以外の非自由民を売るのが通例であり、捕虜となった奴隷は交易港に運ばれて戦利品とともに売られた。大航海時代に、15世紀から19世紀の前半まで、とりわけ16世紀から18世紀の時期に、主にヨーロッパ(イギリス)とアフリカとアメリカ大陸を結んで、その後約3世紀にわたってアフリカ原住民を対象として展開され、西インドのプランテーション経営に必要な労働力となった。


ポルトガル領ギニア
ポルトガルがかつて西アフリカに領有していた植民地のひとつ。現在のギニアビサウの領域に相当する。ポルトガル領となる前は西アフリカの伝統王国の一部で、ナウラ族などが塩の交易と稲作を行なっていたが、1446年にポルトガル王国がこの地域一帯の領有を宣言。


<歴史>
■ポルトガル植民地時代
1446年にポルトガルがこの地域一帯の領有を宣言した。ポルトガルはギニアビサウのカシェウを拠点に、後にアフリカ全土でそうしたようにこの地でも奴隷貿易を開始し、この地からも多くの黒人奴隷が南北アメリカ大陸やヨーロッパに送られた。

■1630年
ポルトガルが総督府を設置し、1687年に奴隷貿易の拠点として後に首都となるビサウが建設された。

■1951年
アフリカにおける植民地帝国の維持を望んだアントニオ・サラザール政権のポルトガルの植民地法の改正により、ポルトガルの全海外植民地は法的に植民地からポルトガルの海外州となったが、その後も各植民地の統治の実態に大きな変化はなかった。

■1956年
アミルカル・カブラルがクレオールのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を設立し、以降PAIGCによる独立・民族解放運動が始まった。

■1973年1月20日
PAIGCの指導者アミルカル・カブラルはギニアの首都コナクリにてポルトガル秘密警察(PIDE)によって暗殺されたが 、アミルカルの弟ルイス・カブラルが主導権を握って独立闘争は激化し、同年9月24日に領土の3/4以上を解放したPAIGCは東部の町マディナ・ド・ボエにおいてギニアビサウ国(1977年よりギニアビサウ共和国)の独立を宣言した。
■1974年4月25日
リスボンでカーネーション革命が勃発し、エスタード・ノーヴォ体制は崩壊して左派政権が誕生した。以降、新たに成立したポルトガルの革命政権と各植民地の独立勢力との間で独立交渉が開始され、ポルトガル領ギニアでは既存のPAIGCの支配をポルトガルが承認する形で交渉が進み、同年9月10日にポルトガル政府により正式に独立が承認された。

■1990年代
ギニアビサウは複数政党民主主義へと移行していった。政党の結成が1991年に解禁され、1994年に大統領選挙が行われた。

■1998年
クーデター未遂事件の後、ギニアビサウはヴィエイラ派の軍と反政府のリーダーであるアンスマネ・マネ派の軍との間で激しい内戦が勃発した(ギニアビサウ内戦)。内戦によって避難民30万人がビサウに流入するなど社会、経済は混乱し、1999年5月7日に反政府軍がヴィエイラ政権を退陣させた。

■2005年
大統領選挙では亡命先のポルトガルから帰国した無所属のヴィエイラが勝利し、大統領に就任した。ヴィエイラの就任後、カルロス・ゴメス・ジュニオル首相が更迭され、アリスティデス・ゴメスが首相となった。

■2009年1月
ナワイ参謀長が大統領警護隊の解散を命じた矢先に、ナワイ参謀長の暗殺未遂事件が起きた。3月1日には、首都ビサウの軍司令部が爆撃を受け、大統領と対立していたナワイ参謀長が爆殺される(2人続けての参謀長暗殺)。翌3月2日、反乱軍兵士が大統領自宅を襲撃し、ヴィエイラ大統領を暗殺した。


■民族
99%をアフリカ系の諸民族が占め、バランテ人が30%、フラニ人が20%、マンジャカ人が14%、マンディンカ人が13%、パペル人が7%であり、他にも民族が存在する。国民の1%以下だが、主にカーボベルデから来たクレオール(ムラート)やヨーロッパ人(主にポルトガル人)なども存在する。


■言語
公用語はポルトガル語だが、ポルトガル語を話す人の割合はあまり高くなく、ポルトガル語をベースにしたギニアビサウ・クレオール語が共通語としての役割を果たしている。1992年の調査によれば、ポルトガル語は国民の1割以下に話される言語に過ぎなかった。ほかにバラント語、フラニ語、マリンケ語などの現地語などが存在する。

ポルトガル語諸国共同体
Comunidade dos Países de Lingua Portuguesa, CPLP)はポルトガル語を公用語とする諸国によって構成される国際協力組織。加盟国が対等の立場で政治、経済、文化の面で協力することを目的として1996年7月17日に結成された。ポルトガル語の普及にも力をいれている。加盟国の人口総数2億2300万人、面積10,742,000平方キロに及ぶ。

ポルトガル語公用語アフリカ諸国
Países Africanos de Lingua Oficial Portuguesa、PALOP)とは、ポルトガル語を公用語とするアフリカ諸国、つまりアンゴラ、カーボベルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、サントメ・プリンシペからなる、アフリカの5ヶ国のグループである。これら諸国はポルトガル語諸国共同体にも加盟している。


■宗教
宗教は、現地宗教が40%、イスラム教が50%、キリスト教が10%となっている。南北に隣接するギニア、セネガル両国がイスラム教徒が多数派なのに対し、ギニアビサオは飛び地的にその他の宗教の信者の比率が高い。

ムスリム
Muslim)は、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のことである。ムスリムとは、宗教的概念である。ところが、これは民族的概念だと意識されることが多い。サハラ以南のアフリカでは実に多様な民族の間でイスラムは信仰され、今もその勢力を拡大させている。サハラ以南のアフリカの場合、民族でムスリムか、非ムスリムかを判定することは困難である。


ルイス・カブラル
Luis de Almeida Cabral、1931年4月11日 - 2009年5月30日はギニアビサウ共和国の初代大統領。独立宣言のあった1973年から、軍事クーデターによって失脚させられる1980年までの間、大統領の座についた。1963年に、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)は、ポルトガル領ギニアにてポルトガル政権に対する反植民地主義戦争(ギニアビサウ独立戦争)を始めた。1973年にパン・アフリカ主義の知識人でPAIGCの創設者として知られるアミルカル・カブラルがギニア共和国のコナクリにて暗殺されたが、アミルカルの死後は弟のルイスがリーダーシップを発揮し始めた。

ライムンド・ペレイラ
Raimundo Pereiraはギニアビサウの政治家、弁護士。現在、同国大統領代行。ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党の党員。リスボン大学法学部卒。ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党の副党首にまで上りつめる。2008年12月22日、ギニアビサウ国民議会議長に選出される。2009年3月2日に、ジョアン・ヴィエイラ大統領が暗殺され、マラム・バカイ・サニャが正式な大統領に就任する9月8日まで大統領代行を務めた。

マラム・バカイ・サニャ
Malam Bacai Sanha、1947年5月5日 - 2012年1月9日は、ギニアビサウの政治家、政治学者。第8代大統領。1999年5月14日から2000年2月17日まで、大統領代理を務める。2009年の6月〜7月に行われた大統領選挙にて、次期大統領に当選し、同年9月8日に就任した。サニャは、ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党の古くからの党員であり、ガブ州およびビオンボ州知事、各種大臣を歴任し、1994年に国民議会議員となる。内戦によってジョアン・ヴィエイラ大統領が亡命した後、大統領選挙が実施されるまでの大統領代理に指名された。

アリスティデス・ゴメス
Aristides Gomes、 1954年11月8日生)はギニアビサウ共和国の政治家。2005年11月2日により2007年4月13日まで首相を務めた。1954年に生まれる。パリ第8大学で社会学および政治学を専攻する。ギニアビサウ実験テレビ局 (Televisaao Experimental da Guine-Bissau) 局長(1990年-1992年)となる前に、ジョアン・ヴィエイラ首相の下で国家計画・国際協力相を務めた。

カルロス・ゴメス・ジュニオル
Carlos Domingos Gomes Junior、1949年生はギニアビサウ共和国の政治家。同国首相を2期務めた。ゴメスはギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)党首である。同党はギニアビサウ独立の1974年から1999年のクーデターまでの間の政権与党であった。2004年の議会選挙で多数の議席を獲得し、連立政権を主導した。銀行家であり、実業家でもあり、ギニアビサウ一の富豪といわれている。1994年に議会選挙に初当選。「カドゴ」の愛称で知られている。

ヴェリッシモ・コレイア・セアブラ
(Verissimo Correia Seabra、1947年2月16日 − 2004年10月6日)はギニアビサウの軍人。ビサウ出身。2003年9月14日にクンバ・ヤラ大統領を退陣させたクーデターを主導したことで知られる。

ギニアビサウ共和国 Guinea-Bissau
西アフリカに位置する共和制国家。北にセネガルと、南と南西にギニアと国境を接し、西は大西洋に面する。首都はビサウ。独立は1974年9月10日に承認された。独立後、1990年代以降は内戦が勃発し、軍の反乱やクーデターが頻発するなど不安定な政治が続き、経済的にも依然として世界最貧国の一つである。

1446年にポルトガルがこの地域一帯の領有を宣言した。ポルトガルはギニアビサウのカシェウを拠点に、後にアフリカ全土でそうしたようにこの地でも奴隷貿易を開始し、この地からも多くの黒人奴隷が南北アメリカ大陸やヨーロッパに送られた。1630年にはポルトガルが総督府を設置し、1687年に奴隷貿易の拠点として後に首都となるビサウが建設された。

ビサウ
Bissauは、ギニアビサウ共和国の首都である。人口355,000人 (2004年)。ギニアビサウ最大の都市で、同国の政治 経済 港湾の中心。1687年にポルトガルにより貿易拠点として建設される。1942年 ポルトガル領ギニアの首都になる。内戦により多くの建物が破壊された歴史を持つ。オスヴァルド・ヴィエイラ国際空港がある。

オスヴァルド・ヴィエイラ国際空港
Osvaldo Vieiro International Airportはギニアビサウ共和国の首都ビサウにある国際空港である。ギニアビサウにおいて現在定期運航便を持つ唯一の国際空港である。ビサウ市の北西約10キロに位置している。


ギニアビサウ/Wikipedia
外務省:ギニアビサウ共和国
在セネガル日本国大使館(ギニアビサウ共和国大使館兼轄)


アミルカル・カブラル大学
Universidade Amilcar Cabral)はギニアビサウのビサウ市にある大学。同国最初の国立大学である。2003年11月13日に、暫定大統領であったエンリケ・ロザにより設立された。大学名は、独立の父とされるアミルカル・カブラルの名にちなんでいる。

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コリナス・デ・ボエ大学
Universidade Colinas de Boe)はギニアビサウにある私立大学。2003年9月に、同国初の国立大学である、アミルカル・カブラル大学の少し前に設立されている。2007年に、ポルトガルのレイリア工科大学と協定を結んでいる。


ビソラン
ギニアビサウ共和国オイオ州に属する国内第四位の人口を有する都市。ギニアビサウがポルトガルから独立した1973年の翌年1974年に、ポルトガル陸軍に嘗て所属していたギニアビサウの兵士達や独立派のゲリラ等によって、ポルトガルの首都、リスボンでカーネーション革命が起こり、その勢力はギニア・カーボベルデ独立アフリカ党に合流し、最も有名な虐殺がこの地で行われたと言う歴史を有す。

カシェウ
(Cacheu)はギニアビサウ北西部に位置する都市。カシェウ州の州都である。カシェウ川の河口に面している。かつてはサン・ドミンゴスとを結ぶフェリー航路の町として重要であった。町の道路はアブラヤシの殻が敷かれており、カシェウが奴隷交易の中心であった時代である16世紀の城塞が残っている。

サン・ドミンゴス
(Sao Domingos)はギニアビサウ北西部の町。カシェウ州サン・ドミンゴス区に位置し、サン・ドミンゴス区の首府である。セネガルとの国境に接している。2006年の3月から4月にかけて、ギニアビサウ軍はギニアビサウ国内にあるカザマンス民主勢力運動(MFDC)の基地の掃討に乗り出し、この西の地域で多数の避難民が出た。

ボラマ
(Bolama)はギニアビサウのビジャゴ諸島の島のひとつであり、大陸に最も近い。同名の都市はボラマ州の州都である。島はマングローブの湿地に囲まれており、カシューナッツ栽培が盛んである。

ファリン
Farimは、ギニアビサウ共和国の北部の町。カシェウ川の上流に面している。オイオ州ファリン区に位置し、ファリン区の首府。

ブバケ
(Bubaque)はギニアビサウのビジャゴ諸島にある島の名前であり、また同島にある町の名前である。ボラマ州ブバケ区に位置し、ブバケ区の首府である。ビサウ市の南南西約60キロに位置する。ビサウとは連絡船で結ばれており、島には滑走路も設置されている。主要産業は、カシューナッツ栽培、漁業、観光などである。

カラヴェラ
(Caravela)はギニアビサウのビジャゴ諸島の北西部に位置する島である。この島にある同名の町は、ボラマ州カラヴェラ区に位置し、カラヴェラ区の首府である。

ガブ
(Gabu)はギニアビサウ東部に位置する都市。ガブ州の州都。フラ族が多く住んでおり、イスラム教徒の住民が多い。かつてはカーブ帝国の中心地であった。セネガルとギニアビサウの交易の中心地である。

ブバ
(Buba)はギニアビサウ南部に位置する都市である。キナラ州ブバ区に位置し、キナラ州の州都、ブバ区の首都である。キナラ州の最も主要な港湾都市である。クンバ・ヤラ前大統領により、首都をブバに遷都する計画があったが、実現はしなかった。

カンシュンゴ
(Canchungo)はギニアビサウ西部に位置する都市。カシェウ州カンシュンゴ区にあり、カンシュンゴ区の首府である。以前は、植民地時代にこの地域を制圧した将軍にちなんで、ヴィラ・テイシェイラ・ピント(Vila Teixeira Pinto)とよばれていた。

ウノ
(Uno)はギニアビサウのビジャゴ諸島の西部に位置する島の名前である。この島にある同名の町は、ボラマ州ウノ区に位置し、ウノ区の首府である。

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サフィン
Safim)は、ギニアビサウ西部の町。ビサウ市の北、約15kmの位置にある。ビオンボ州サフィン区に位置し、サフィン区の首府である。


マイオ島
(Maio、は、カーボベルデ、ソタヴェント諸島の島。ボア・ヴィスタ島の南、サンティアゴ島の東にある。マイオは、カーボベルデでは通常見られない広域の森林で知られている。人口5,435人。


ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党
Partido Africano da Independencia da Guiné e Cabo Verde, PAIGCはギニアビサウの政党である。ポルトガルが西アフリカに領有していた旧植民地である、ギニアビサウおよびカーボベルデの独立に主導的な役割を果たした。社会主義インターナショナルに加盟している。PAIGCは1956年にマルクス主義者であったアミルカル・カブラルによって結成され、ポルトガル領ギニアおよびカーボベルデ諸島植民地の独立の達成を目的としていた。


ボエ
Boeはギニアビサウの南東部に位置する町。正式名称はマディナ・ド・ボエ(Madina do Boe)。ガブ州ボエ区に位置し、ボエ区の首府である。1973年9月24日に、ギニアビサウの独立宣言がこの町でなされた。1974年に、ビサウが同国の新しい首都として宣言されるまでのあいだ、ボエがギニアビサウの首都となっていた。


■国名
正式名称はポルトガル語で Republica da Guine-Bissau /r??publik? d? ?i?ne bi?saw/。 通称 Guine-Bissau(ギネー=ビサウ)。「ギニア」の名称の意味については諸説があるが、ベルベル語で「黒人たちの土地」を意味に由来するともいわれている。ギニアを国名とする国家としてはこの国の他にギニア共和国や赤道ギニア共和国があるため、それらと区別する必要から、首都の名を冠した「ギニア=ビサウ」を正式名称とした。


1.面積:36,125平方キロメートル(九州とほぼ同じ)
2.人口:170万人(2008年、UNFPA)
3.首都:ビサオ(Bissau)
4.民族:バランタ、フラ、マンジャカ、マンディンカ、パペウ等
5.言語:ポルトガル語(公用語)
6.宗教:原始宗教、イスラム教、キリスト教


15世紀 ポルトガル植民地
1973年9月 ポルトガルより独立宣言
1980年11月 ヴィエイラ首相、クーデターで政権奪取。革命評議会設置
1984年5月 革命評議会を廃止、国家評議会を設置しヴィエイラ氏が議長に就任
1985年11月 コレイラ国家評議会副議長によるクーデター未遂
1991年5月 憲法改正(複数政党制への移行)
1994年8月 大統領選挙(ヴィエイラ大統領当選)
1998年6月 一部軍人(マネ前参謀長ら)による反乱発生
1999年5月 ヴィエイラ大統領亡命、サーニャ国民議会議長が暫定国家元首に就任
1999年11月 大統領選挙(第1回投票)、国民議会選挙
2000年1月 大統領選挙(第2回投票)、(クンバ・ヤラ当選)
2003年9月 クーデター発生、ヤラ大統領辞任
2003年10月 暫定政権発足(ローザ臨時大統領就任)
2004年3月 国民議会選挙
2005年6月・7月 大統領選挙
2005年10月 ヴィエイラ大統領就任
2009年3月 ヴィエイラ大統領殺害をうけ、ぺレイラ国民議会議長が暫定大統領に就任
2009年9月 大統領選挙、サーニャ大統領就任
1.主要産業:農林水産業(落花生、カシューナッツ、エビ、いか)


CFAフラン
Franc CFA)は、西アフリカ、中部アフリカ地域の旧フランス植民地を中心とする多くの国で用いられる共同通貨。西アフリカ諸国中央銀行 (Banque Centrale des Etats de l'Afrique de l'Ouest、BCEAO) 発行のもの(ISO 4217コードXOF)、中部アフリカ諸国銀行 (Banque des Etats de l'Afrique Centrale、BEAC) 発行のもの(同XAF)の2種類がある。


■経済
工業、鉱業がほぼ存在せず、労働力の8割が従事する主要産業の農業も米などの自給農業が中心で、しかも国内需要すら満たせないほど生産性が低い。企業家層がおらず、識字率も低いため、経済発展の基礎的な条件が存在していない。産業と呼べるものがほとんど無いため、世界最貧国のひとつとなっている。カシューナッツや落花生が主な輸出品である。

カシューナッツ
(学名: Anacardium occidentale、英名: Cashew、葡名: Caju、和名: カシューナットノキ、勾玉の木)は、中南米原産のウルシ科の常緑高木。南アメリカ大陸北部ないし北東部地域、ならびに西インド諸島各域を主な原産地とする、ウルシ科Anacardium(アナカルディウム)属の常緑高木である。取引市場においては、生果産品はインドネシア産、ブラジル産、タンザニア産などが優秀であるとされている。

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ジョアン・ヴィエイラ
Joao Bernardo "Nino" Vieira、1939年4月27日 - 2009年3月2日は、ギニアビサウの政治家。ヴィエイラは、1980年のクーデターによる政権奪取から19年間に渡り政権を掌握していたが、1999年に内戦によってその座を追われた。その後、2005年に帰国し大統領へ復帰した。しかし、2009年3月2日、国軍の兵士により在任中に暗殺された。1939年、当時はポルトガル領ギニアのビサウ生まれ。もともと電気技師としての訓練を受けていたヴィエイラは、1960年にアミルカル・カブラルが結成したギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)に入党し、まもなくポルトガルの植民地支配に抵抗するギニアビサウ独立戦争において重要なゲリラ指導者となった。

アミルカル・カブラル
Amilcar Lopes Cabral、1924年9月12日−1973年1月20日は旧ポルトガル領ギニア出身の農業技術者、作家、革命家である。弟のルイス・カブラルは後にギニアビサウ共和国の初代大統領となった。ポルトガル領ギニアのバファタにて、教師の父の息子として生まれた。両親はカーボベルデ出身だった。幼くしてカーボベルデに渡り、中等教育までをカーボベルデで受けた後、1945年から当時の宗主国であったポルトガルの首都リスボンで農学を学んだ。リスボンでの学生時代にリスボン大学でアンゴラ出身のアゴスティーニョ・ネトと出会い、アフリカ人のナショナリズム運動を立ち上げた。

エンリケ・ロザ
(Henrique Pereira Rosa、1946年1月18日 - )は2003年9月28日から2005年10月1日までギニアビサウ共和国の暫定大統領を務めた政治家。2003年9月14日の軍事クーデターによってクンバ・ヤラ大統領が失脚し、政務官、民間団体指導者および、ヴェリッシモ・コレイア・セアブラ将軍主導の立憲民主秩序復旧のための軍事委員会との間で会談がもたれ、ロザが暫定大統領に指名された。

アントニオ・サラザール
1889年4月28日 - 1970年7月27日はポルトガルの政治家、首相および一時大統領で、権威主義的独裁者と言われた。社会改革者として一部左派にまで支持層を広げる一方、全くの敵対勢力は秘密警察を利用して始末した。1933年には新憲法を制定して、「神、祖国、そして家族」をスローガンに「エスタド・ノヴォ」の成立を宣言、長期にわたるファシズム独裁体制を敷いた。1945年の時点で、ポルトガルはアンゴラ、ポルトガル領ギニア、モザンビーク、カーボヴェルデ、サントメプリンシペ、ポルトガル領インド、マカオ、ポルトガル領ティモールなどの広大な植民地を領していた。サラザールの基本方針はこれらの植民地を維持することだった。そのために高圧的な政策をとった。しかし、1962年にはギニア・ビサウ、1964年にはモザンビークが独立のための戦争を始めた。

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