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赤道ギニア共和国
Equatorial Guinea
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■地理
ギニア湾のビオコ島と大陸のリオ・ムニ、そしてアンノボン島など周囲の島々からなる。カメルーンの西56Km、リオ・ムニの北西約259Kmに位置するビオコ島は火山島で最高地点は標高3,008mのマラボ山である。70年代まではフェルナンド・ポーと呼ばれた。南部海岸はごつごつしているが、北部は標高も低く近づきやすい。マラボとルバという良港があり、その間にはいくつかの美しい浜がある。
■ギニア湾
ギニア湾(Gulf of Guinea)は西アフリカ中央部にある大湾。ニジェール川、ヴォルタ川、コンゴ川などが注ぎ、湾内に緯度0度、経度0度の交差点がある。1980年代より資源探査が進められ、湾内の大陸棚に世界屈指の埋蔵量を誇る油田、天然ガス田があることが確認された。沿岸国のナイジェリア、湾内のビオコ島を領有する赤道ギニア、サントメ・プリンシペなどにより海底油田の開発が進められている。
■ビオコ島
アフリカ大陸中西部、ギニア湾の火山島。赤道ギニア領であり、島内最大都市のマラボは同国の首都である。北緯3度45分、東経8度48分に位置する。大航海時代に入り、インド航路を探検する途中、1472年にポルトガル人フェルナン・ド・ポーによって発見され、フェルナンド・ポー島と命名された。
■アンノボン島
Annobonは、アフリカ中部赤道ギニアに属する火山島。1970年代にはパガル島と呼ばれていた。アンノボン島はビオコ島から南西690kmの地点に位置する。大陸(ガボンのロペズ岬)とも400 km以上離れている。2島の間にはサントメ・プリンシペを構成するサントメ島とプリンシペ島が浮かぶ。アンノボン島は赤道ギニア最南部に相当し、国内で唯一南半球に位置する。
■コリスコ島
Corisco islandは、アフリカの赤道ギニアとガボンの沖合にある島。ムビニのコリスコ湾及びガボンの近くにある面積14Km2の小さな島である。帰属が確定しておらず、赤道ギニア及びガボン間で領土紛争になっている。天然資源が存在する。
■大エロベイ島
Isla de Elobey Grandeとは、アフリカ中央部に位置する赤道ギニア・リオ・ムニのリトラル県沖合にある島[1]。エロベイ・グランデ島とも書かれる。ミテメレ川の河口付近に位置し、北東の小エロベイ島と共にエロベイ諸島の一部を形成する。2.27平方キロメートルの面積を有する無人島であるが、赤道ギニアとガボンとの国境付近にあり、赤道ギニアの領土・領海形成に重要な位置を占めている。
■小エロベイ島
Isla de Elobey Chicoとは、アフリカ中央部に位置する赤道ギニア・リオ・ムニのリトラル県沖合にある島。エロベイ・チコ島とも書かれる。ミテメレ川の河口付近に位置し、南西の大エロベイ島と共にエロベイ諸島の一部を形成する。0.19平方キロメートルの面積を有する無人島である。赤道ギニアの行政区画においては大エロベイ島、ガボンと領有権が争われているコリスコ島とともにリトラル県に属する。
■エロベイ諸島
Islas Elobey)は大西洋にある諸島。赤道ギニア・リトラル県の一部。北緯1度、東経9度付近のギニア湾に存在し、ミテメレ川の河口の西側にあたる。エロベイ諸島は南西の大エロベイ島・北東の小エロベイ島からなり、これらの島はいずれも無人島であるが、南側のガボンとの国境付近の海域に存在するため、赤道ギニアの領土・領海形成に関して重要な地域である。
■オラシオ島
Islote Horacio)はアフリカ・赤道ギニアのビオコ島北岸に位置する無人島で、島唯一の建造物として無人の灯台が設置されている。行政区画は北ビオコ県に属する。北緯3度45分東経8度54分に位置する。
■ベニト川
Benito Riverは、赤道ギニアに河口を持つ河川[1]。ベニト川は、赤道ギニア共和国の大陸側、リオ・ムニ地区の主要な河川である。ベニト川はリオ・ムニ地区を東西に横切っている。源流をガボン北部、ウォレウ・ンテム州のオイェム付近に持つベニト川は、リオ・ムニ地区を東から西に流れ、ンビニ付近の河口から大西洋・ギニア湾に流れ込んでいる。全長338km。
■赤道
Equator、は、自転する天体の重心を通り、天体の自転軸に垂直な平面が天体表面を切断する、理論上の線。緯度の基準の一つであり、緯度0度を示す。緯線の中で唯一の大円である。赤道より北を北半球、南を南半球という。また、天文学では赤道がつくる面(赤道面)と天球が交わってできる円のことを赤道(天の赤道)と呼ぶ。天の赤道は恒星や惑星の天球上の位置(赤緯、赤経)を決める基準となる。
■熱帯
地球上で緯度が低く年中温暖な地域のことである。緯度による定義、気候区分による定義が存在する。緯度による定義では、赤道を中心に北回帰線(北緯23度26分22秒)と南回帰線(南緯23度26分22秒)に挟まれた帯状の地域を意味する。英語で熱帯を意味するtropicsは、回帰線(tropic)から生まれた言葉である。
<歴史>
■15世紀後半
ポルトガル人がビオコ島に上陸、ポルトガル領とされたが、1778年にポルトガルはブラジルの領有権を認めてもらうことと引き替えに大陸部のムビニとビオコ島をスペインに割譲。その後イギリスが租借した。以降奴隷貿易の中継地となった。1900年頃、ブビ族の抵抗にもかかわらず、ビオコ島・ムビニはスペイン領ギニアとなった。
■1958年
スペインの海外州となり、住民は本国と同等の市民権を得て、1964年には自治政府を樹立した。
国民投票によって赤道ギニア共和国として独立し、1968年10月12日、マシアス・ンゲマ(以下マシアス)が初代大統領に就任した。
■1979年8月
マシアスの甥のテオドロ・オビアン・ンゲマ(以下ンゲマ)がクーデター、マシアスを処刑して大統領に就任、軍事政権を敷いた。
■1997年6月
政府は最大野党赤道ギニア進歩党党首のセベロ・モトヌサ(英語版)に武器密輸容疑をかけ、進歩党の政治活動を禁止。モトヌサはスペインに亡命。裁判所は8月、国家反逆罪でモトヌサに懲役101年の判決。
■1999年3月
総選挙でPDGEが80議席中75議席を獲得。残り4議席を人民同盟、1議席を社会民主連合が獲得。11月に赤道ギニア進歩党(PPGE)など6つの反政府野党が民主化促進を掲げ、野党連合である民主野党戦線を結成。
■2004年3月
イギリス陸軍特殊空挺部隊にかつて属していたサイモン・マンが首謀し、ンゲマを追放してモトヌサを大統領へ据えるクーデター計画が発覚したが、傭兵部隊と共にマンがジンバブエで逮捕されて計画は未遂に終わった(マンは赤道ギニアへ移送され、裁判で禁固34年の刑を受けたが、2008年に恩赦で釈放された)。
■ザ・ワールド・ファクトブック
(ISSN 1553-8133、『CIAワールドファクトブック』とも呼ばれる) は、世界各国に関する情報を年鑑形式でまとめたアメリカ合衆国中央情報局 (CIA) の年次刊行物。このファクトブックは、世界中のあわせて268の国家、属領その他の地域について人口統計、地理、通信、政治、経済、軍事の2、3ページの要約を提供している。
■民族
住民は、ほとんどがバントゥー系である。一番多いのは大陸リオ・ムニのファン人で80%、ブビ人は15%で、ビオコ島に住む。ビオコ島の住民のほとんどはブビ人だが、他に、少数だがフェルナンディノと呼ばれるクレオール(ムラート)やヨーロッパ人もいる。
■ファン人
(Fang)は、アフリカの民族。ベティ人のサブグループ(en:Beti-Pahuin peoples)であり、赤道ギニア大陸部(リオ・ムニ)、ガボン北部、カメルーン南部に主に居住する。コンゴ共和国やサントメ・プリンシペにも少数が居住する。言語はファン語を話す。赤道ギニアにおいては人口の80%を占める多数派民族であり、さらに初代大統領マシアス・ンゲマおよび第2代大統領テオドロ・オビアン・ンゲマの出身民族であるため、政治の実権を握っている。
■フェルナンディノ
Fernandinos)とはアフリカは赤道ギニアのクレオールである。フェルナンディノは19世紀にシエラレオネの沖合いでイギリス海軍により解放された奴隷の子孫である。ビオコ島のマラボに住み、赤道ギニアでは少数派だが、エリートで独自のクレオール文化を結成している。当時のビオコ島はフェルナンドポー島と呼ばれていて、そこから彼らクレオールの事をフェルナンディノと呼ばれている。
■バントゥー系民族
現在のカメルーンから中央アフリカと東アフリカを横切り南アフリカまでのブラックアフリカに分布する、400以上の民族(140 - 600[1]以上の言語)に対する一般的分類として用いられている。多くのバントゥー語群に属する言語において、バントゥー(Bantu)という単語は"人々"を意味する。歴史上で初めてこの語を用いたのはヴィルヘルム・ブレーク博士であり、それは1862年に出版された著書、『A Comparative Grammar of South African Languages 』中でのことであった。ブレークは、中央アフリカ、西アフリカ、東アフリカ、南アフリカの膨大な数の民族間において共通する特徴が数多く見られたことから、これらの諸族は単一の語族に属するのではないか、という仮説を立てて当書で"Bantu"に関する言及を行った。
■ブビ族
ブビ族(Bubi)とはアフリカは赤道ギニアのビオコ島に住む民族である。ブビ族は13世紀にカメルーン及びリオ・ムニ(ムビニ)に居住していたファン族によって追いやられ、アフリカ本土(リオ・ムニ)から当時無人島だったビオコ島に逃れ着いたバントゥー系民族の子孫である。長年に渡り、リオ・ムニ出身のファン族により弾圧を含む政治支配を受けてきたため、ブビ族のファン族に対する不信感が強く、民族的な対立が続いている。ブビ族は自身によるビオコ島の分離独立を求め、ビオコ自治運動を展開している。
■言語
長くスペインの植民地だったので、言語は、スペイン語が公用語であるが、第二公用語としてフランス語も導入している。現地語であるファン語やブビ語は主要言語である。また、ポルトガル語諸国共同体にもオブザーバーとして参加し、ポルトガル語も第三公用語としている。
■赤道ギニアの教育
赤道ギニアの教育は14歳まで無償かつ義務である。1993年に於いて、総就学率は149.7%であり、純就学率は83.4%だった、約24%の入学が全年齢の中で適した生徒である。5年間の初等教育に続き、4年間の前期中等教育と3年間の後期中等教育が続く。2001年には、3歳から6歳までの約35%の児童が何らかの就学前教育プログラムに登録していた。
■宗教
宗教は、大部分がキリスト教でローマ・カトリックが最も多い。
■カトリック教会
Ecclesia Catholica)はローマ教皇を中心とし、全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。「カトリック」の語源はギリシア語の「カトリケー(普遍的)」やラテン語では「カトリクス(Catholicus)」等である。カトリック教会の教説(教え)は「聖書と聖伝」という言葉であらわされるように、旧約聖書、新約聖書およびイエス・キリストと使徒の教えに由来し、教父たちによって研鑽され、多くの議論を経て公会議などによって確立されてきたものである。
■経済
伝統的にカカオとコーヒーのプランテーションの国だったが、1992年のビオコ島沖原油生産以来、主産業は農林水産業から鉱工業生産に依存するようになった。油田の創業以来経済成長が著しく、CIAワールドファクトブックによれば、2008年の1人当りGDP(PPP)が推計で37,300USドルに達し、先進国並の水準となっている。
■カカオ
(学名:Theobroma cacao)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。樹高は4.5 - 10メートル程度。本種の生育には、規則的な降雨と排水のよい土壌、湿潤な気候が必要である。標高約300メートル程度の丘陵地に自生する。中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とする。
■コーヒー
koffieは、コーヒー豆(コーヒーノキの種子)を焙煎し挽いた粉末から、湯または水で成分を抽出した飲料。抽出前の粉末や粉砕前の焙煎豆も、同じくコーヒーと呼ばれることもある。現在見られる「焙煎した豆から抽出したコーヒー」が登場したのは13世紀以降と見られる。最初は一部の修道者だけが用いる宗教的な秘薬であり、生の葉や豆を煮出した汁が用いられていた。しかし、焙煎によって嗜好品としての特長を備えると一般民衆へも広がり、1454年には一般民衆の飲用が正式に認められ、中東・イスラム世界全域からエジプトまで拡大した。
■プランテーション
(plantation) とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。経営主体は、国営、企業、民間など様々である。経営する側をプランターと呼ぶ場合もある。この「安価な労働力」は、かつては植民地の原住民あるいは奴隷であり、現在は発展途上国の農民であったり、土地自体が先住民から奪われて経営者に売られていたりなどするため、労働者の人権が問題とされることがある。また水質汚染・森林破壊・農薬問題などの環境破壊が問題とされることも多い。
■教育
2000年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は87%(男性:93.4% 女性:80.5%)である 。赤道ギニアには大学が一つある。赤道ギニア国立大学(UNGE)がそれであり、マラボにキャンパスが、バタに医学部が存在する。バタの医学部はキューバの主要な援助を受けており、同国政府はセンターの教授、医師を提供している。スペインの国立遠隔教育大学もマラボとバタに支部を置いている。
■イハス・デル・ソル
イハス・デル・ソル(西:Hijas del Sol)は、それぞれピルチ・アポ・ボトゥパーとパロマ・ロリボ・アポは、赤道ギニアのビオコ島出身の叔母と姪のデュオであり、作詞、作曲、歌唱をブビ語とスペイン語双方で行う。Hijas del Solはスペイン語で太陽の娘たちという意味である。彼等は最初の公演を1992年のel Centro Cultural Hispano Guineano(イスパノ・ギニア文化センター)で行い、そこで最優秀オリジナル曲賞と最優秀振り付け賞を受賞した。
■マーティン・プエ
マーティン・プエ・トペテ- 1998年7月とはアフリカは赤道ギニアのビオコ島の少数民族ブビ族の出身で、ブビ族によるビオコ島の自治権の拡大(分離独立)を目指している、ビオコ自治運動(MAIB)の中心的指導者だった人物である。1998年1月21日にプエ率いるビオコ自治運動は首都マラボで大規模な暴動を起こしたが、5月に反逆の罪に問われ軍事裁判にかけられた末、26年の投獄が言い渡された。投獄中に酷い拷問などを受け、7月にマラボの病院で58歳で死んだ
■エリック・ムサンバニ
Eric Moussambani、1978年5月31日 - は、赤道ギニアの競泳選手。愛称は「うなぎのエリック (Eric the Eel)」。2000年のシドニーオリンピックの100m自由形予選でムサンバニはその名を知られることになった。ムサンバニはおぼれかけながらも、必死になって100mを泳ぎ切り、その様から一躍世界中の人気者となった。オリンピック予選本番に際して、ムサンバニの水泳経験は八ヶ月しかなく、ターンの練習も殆どしていなかった。しかもギニア国内にある最も長いプールはホテルにある17mのもので、ムサンバニはこのプールを(一日数時間だけ)借りて練習していたため、出場するまで50mプールを見たことがなかった。さらに、ムサンバニと同じ組で泳ぐはずだったニジェールとタジキスタンの選手がフライングにより失格となり、観衆の注目を一人で浴びて泳ぐ羽目になってしまった。ムサンバニのフォームは泳ぐのがやっとというようなものであったが、結局100mを泳ぎ切ったばかりか、1分52秒72というタイムにより赤道ギニアの国内記録を更新し、その名を世界に馳せることになった。これは当時の100m世界記録(48秒18)の2倍以上のタイムであり、200mの世界記録よりも遅かった。
■マシアス・ンゲマ
Teodoro Obiang Nguema Mbasogo, 1942年6月5日 - は赤道ギニアの政治家。現在、同国大統領(第2代)。赤道ギニア民主党の指導者。名前のカタカナ表記は、ンゲマはヌゲマ、ムバソゴはンバソゴとも表記する。アフリカ連合総会議長(第9代)などを歴任した。1987年に自らの一党独裁の政権党として赤道ギニア民主党(以下PDGE)結成。民主化を要求するスペイン、フランス、アメリカ合衆国の圧力を受け1991年11月、複数政党制を認めた新憲法が国民投票で承認されたが、大統領の免責規定などに野党勢力は反発して1993年の総選挙は野党の大半がボイコットする中、PDGEが大勝。
■サイモン・マン
Simon Mann、1952年6月26日 - はイギリス人の傭兵で元イギリス陸軍軍人。裕福な家庭に生まれ、イートン校を卒業後、サンドハースト王立陸軍士官学校に入学。スコッツガーズに配属されるが、SASに志願。軍を退役した後、傭兵になる。1997年、引退し南アフリカへ移住。近所にはスペンサー伯爵やマーク・サッチャー(英語版)(マーガレット・サッチャーの息子)などのイギリス上流階級の邸宅が立ち並んでいた。2004年、ジンバブエで赤道ギニアのクーデターを計画した容疑で逮捕、34年の刑を受けたが2009年に恩赦により釈放。マーク・サッチャーが資金援助に加わったとされる。
■マーティン・プエ
Martin Puye Topete、 - 1998年7月はアフリカは赤道ギニアのビオコ島の少数民族ブビ族の出身で、ブビ族によるビオコ島の自治権の拡大(分離独立)を目指している、ビオコ自治運動(MAIB)の中心的指導者だった人物である。1998年1月21日にプエ率いるビオコ自治運動は首都マラボで大規模な暴動を起こしたが、5月に反逆の罪に問われ軍事裁判にかけられた末、26年の投獄が言い渡された。投獄中に酷い拷問などを受け、7月にマラボの病院で58歳で死んだ。死因は肺炎だとされている。
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赤道ギニア Equatorial Guinea
赤道直下のギニア湾に浮かぶビオコ島、アンノボン島、および大陸部のリオ・ムニ(ムビニ)とエロベイ・グランデ島及びエロベイ・チコ島を併せたエロベイ諸島から成る共和制国家。ムビニは北にカメルーン、南と東にガボンに隣接する。首都はマラボ。
■マラボ
マラボ(Malabo)は、ギニア湾に浮かぶビオコ島に位置する、赤道ギニアの首都。同島北部の沿岸部に位置し、人口は1995年時点で3万人であったが、後述する石油ブームにより現在は10万人近くに増加したとされる。1992年にビオコ島沖で油田が発掘されて以来、マラボはギニア湾の石油拠点として急速に発展を遂げることとなる。マラボ近くの沖合にある巨大油田ザフィーロ油田で、米国のモービル(現在のエクソンモービル)が原油生産を開始。赤道ギニア全体で1997年の成長率が71%という驚異的な数値が記録されるなど、現在に至るまでマラボは石油ブームに沸いている。
■マラボ国際空港
Malabo International Airportは赤道ギニア共和国の首都マラボにある国際空港。空港はマラボの東9Kmに位置する。
■赤道ギニア国立大学
Universidad Nacional de Guinea Ecuatorial,UNGEとは、赤道ギニアの主要な大学である。1995年に設立された[1]。1997年にはスペインのアルカラ大学との間にスペイン語の教育協定を結んでいる。
外務省:赤道ギニア
在赤道ギニア日本国大使館
■バタ
バタ (Bata) は、ギニア湾に面する赤道ギニアの都市。同国を構成するビオコ島と大陸部リオムニ地区(ムビニ)のうち、ムビニに位置する。2005年の推計人口は約17万人で、首都であるマラボの石油ブームの際に人口最大都市を譲ったものの、その時代を除いては赤道ギニア最大の都市であり続けている。リトラル県の県都でもある。
■バタ空港
バタ空港(スペイン語:Aeropuerto de Bata、英語:Bata Airport)は赤道ギニア共和国リトラル県の県都バタにある空港。
■エベビイン
Ebebiyinとは、赤道ギニア共和国の都市。キエンテム県の県都である。エベビインはリオ・ムニの最北東部に存在し、で、赤道ギニア国内で第三位の人口を持つ都市である。また、位置的にはガボン、カメルーンとの三国国境地帯に隣接する地域に存在している。また、同国第一の町であるバタから隣国カメルーンの首都ヤウンデに至る道路上に位置し、この道路に於いて赤道ギニアの玄関口となっている。
■ルバ
Lubaは、赤道ギニア・ビオコ島南部の都市。南ビオコ県の県都。人口は2001年の人口調査時で9,011人で、島内で2番目に多く、南ビオコ県では最も多い。島の西海岸南部に位置し、島の木材を輸出するための港町として栄えた。市内の観光地として、いくつかあるビーチと植民地・スペイン領ギニア時代の病院などが挙げられる。首都のマラボとは航路や幹線道路によって繋がっており、自動車でおよそ1時間半で到達することが出来る。
■エヴィナヨング
Evinayongは赤道ギニアのリオ・ムニ中央部に位置する都市。エヴィナヨングはリオムニ地区中部にある中南部県の県都。人口7,997人(2001年人口調査)。小さな山の山頂にあり、歓楽街、市場及び近くにある瀑布で知られている。
■モンゴモ
Mongomoは赤道ギニア・リオ・ムニ地方、ウェレンザス県の都市。人口5,791人(2001年)モンゴモはウェレンザス県の県都であり、赤道ギニアの初代大統領フランシスコ・マシアス・ンゲマ(Francisco Mací吹s Nguema)及び現大統領テオドロ・オビアン・ンゲマ・ンバソゴの出身地でもある。そのためこれらの大統領の係累は「モンゴモの一族(clan de Mongomo)」と呼ばれる。
■サンアントニオ・デ・パレ
San Antonio de Pale、通称パレ、Paleは、アフリカ・赤道ギニア共和国の都市。ギニア湾沖の大西洋に浮かぶアンノボン島北部に存在する同島の中心地であり、アンノボン県の県都でもある。
■リオ・ムニ
Rio Muniは、赤道ギニアの大陸部分の地域。 現地ではンビニまたはムビニ (Mbini) と呼ばれる。北部でカメルーン、東部と南部でガボンと国境を接し、その6割以上が熱帯雨林で覆われている。コーヒーが主産物。現在の人口は75万人ほどで、ほとんどはファン族である。リオ・ムニは4つの県に分かれる。最大都市はバタ。
■ンビニ
Mbiniは赤道ギニア共和国の都市。赤道ギニアの版図のうち、大陸側にあたるリオ・ムニ西部にあるリトラル県中部の都市。ムビニとも。ベニト川に面している。ンビニとはンドウェ語でリオ・ムニのことを指す。1994年現在の人口は14,034人。対岸のボロンドとはフェリーで結ばれている。海産物や砂浜で知られる。
■アンノボン県
Provincia de Annobon)はアフリカの国家赤道ギニアの県のひとつ。サントメ・プリンシペより南のギニア湾に位置する島、アンノボン島をその範囲とする。
■北ビオコ県
Provincia Bioko Norte)は赤道ギニアの県のひとつ[1]。ビオコ島北部に位置する。南を南ビオコ県と州境を接する。面積776km2、人口231,428人(2001年調査)。県都は赤道ギニアの首都でもあるマラボ。
■南ビオコ県
Provincia Bioko Sur)は赤道ギニアの県のひとつ。ビオコ島南部に位置する。北を北ビオコ県と州境を接する。南西にサントメ・プリンシペを挟んでアンノボン県が存在する。面積1,241km2、人口29,034人(2001年調査)。県都はルバ。
■中南部県
Provincia Centro Sur)は赤道ギニアの県のひとつ。リオ・ムニ中部に位置する。西をリトラル県、北東をキエンテム県、南東をウェレンザス県と州境を接し、北辺をカメルーン、南辺をガボンと国境を接する。面積9,931km2、人口125,856人(2001年調査)。県都はエヴィナヨング。
■リトラル県 (赤道ギニア)
Provincia Litoral、「沿岸県」の意)はアフリカの国家赤道ギニアの県のひとつ。リオ・ムニ西部に位置する。ギニア湾に面する海岸線を持つ。東を中南部県と州境を接し、南をガボンと、北をカメルーンと国境を接する。大陸部の他、エロベイ諸島、ガボンとの領有権争いを抱えるコリスコ島も含まれる。面積6,665km2、人口298,414人(2001年調査)。県都はバタ。
■ウェレンザス県
Provincia Wele-Nzas)はアフリカの国家赤道ギニアの県。リオ・ムニ東南部に位置する。北をキエンテム県、西を中南部県と州境を接し、東南をガボンと国境を接する。県都は赤道ギニアの初代大統領フランシスコ・マシアス・ンゲマ(Francisco Macías Nguema)及び現大統領テオドロ・オビアン・ンゲマ・ンバソゴの出身地として知られるモンゴモ。
■キエンテム県
Provincia Kie-Ntem)はアフリカの国家・赤道ギニアの県のひとつ。リオ・ムニ東北部に位置する。南でウェレンザス県、西で中南部県と州境を接し、北をカメルーン、東をガボンと国境を接する。面積3,943km2、人口167,279人(2001年調査)。県都はエベビイン。
■フランコフォニー国際機関
Organisation Internationale de la Francophonie; OIFとは、世界中の様々な文化圏に属する、民主主義や人権といった普遍的な価値観とフランス語とを共有する国・地域の総体であるフランコフォニーの名を冠した国際機関である[1][2]。創設への動きは、1960年代、旧フランス領だったアフリカ諸国の指導者である、セネガルのレオポルド・セダール・サンゴール、チュニジアのハビーブ・ブルギーバ、ニジェールのアマニ・ディオリらにより進められた。その後、カナダのフランス語圏であるケベック州がこの動きに加わり、1970年代になると同じくカナダの首相、ピエール・トルドーがサミット構想を掲げた。フランスはこの動きを新たな植民地政策につながりかねないとして積極的に関わらなかったが、ケベック州の仲介などでフランソワ・ミッテラン大統領期の1986年に第1回サミット開催を引き受けてから積極的に参加するようになった。
■赤道ギニア民主党
赤道ギニア民主党は、赤道ギニアの政党の1つ。1987年7月30日、テオドロ・オビアン・ンゲマ大統領により独裁政党として設立された。1991年に複数政党制を承認してからも、引き続き政権の座にある。大統領選でも同党候補が常に90%以上の得票率で当選し、議会選でも議席の9割以上が同党とその支持政党で占められ、最大野党の赤道ギニア進歩党を活動停止に追いやるなど、党名とは裏腹に権威主義に基づく政治運営を行っている。そのためしばしば海外援助の停止などに追い込まれるが、近年発見された石油資源により財政が上向き、その一部を国民の上層階級に還元することで資金的・組織的な支援を獲得。独裁政党としての地位を未だに維持している。
■赤道ギニア進歩党
赤道ギニア進歩党は、赤道ギニアの政党。赤道ギニア民主党(PDGE)による一党支配が形式的に終了した1990年代前半に結成。市場経済と民主主義を掲げる。最大野党として常に与党PDGEを批判する立場にあるが、軍隊を背景とした政府の相次ぐ弾圧により、党首セベロ・モトヌサはスペインに亡命。そして赤道ギニア亡命政府を樹立した。
■ビオコ自治運動
Movement for the Self-Determination of Bioko Islandは、赤道ギニアの政党。赤道ギニアの統治下にあるビオコ島を、同国から分離・独立させようと結成された組織で、もとはスペイン領ギニア(現在の赤道ギニア)からの分離を狙ったブビ同盟(スペイン語: Unió剋 Bubi)が母体。スペイン領ギニアはブビ族主体のビオコ島、ファン族主体のリオムニという主要2地域により構成されていたが、独立に際してこの2地域が統合されると、総人口で上回るファン族によりブビ族の生活・文化が脅かされる危険性があった。
■赤道ギニア亡命政府
Gobierno de Guinea Ecuatorial en el exilioとは、赤道ギニアの最大野党勢力赤道ギニア進歩党 (PPGE) が2003年、スペインのマドリードに樹立した亡命政府。赤道ギニアは中部アフリカの西部に位置する小国だが、1968年の独立以来絶えず独裁体制が敷かれてきた。1987年には独裁政党赤道ギニア民主党 (PDGE) が結成され、現在に至るまでテオドロ・オビアン・ンゲマを大統領とするPDGE政権が続いている。PDGEは1990年代前半、形式的に一党独裁を放棄。それを受け、セベロ・モトヌサを党首とする赤道ギニア進歩党 (PPGE) が結成された。赤道ギニアのPDGE政権は亡命政府を陰ながら攻撃し、亡命政府の勢力拡大を防いだ。モトヌサ自身、2005年3月19日から4月30日までの約1ヶ月半、クロアチアの首都・ザグレブで行方不明となっていた。これにはPDGE政権に雇われたクロアチア人暗殺者の存在が指摘されているが、暗殺者とモトヌサが共にカトリック信者であり、「私がカトリック信者であったから、暗殺者は私を見逃した」とモトヌサは語っている。
■国名
公式の英語表記は、Republic of Equatorial Guinea(リパブリック・オヴ・エクワトーリアル・ギニー)。日本語表記は、正式名称赤道ギニア共和国、通称赤道ギニア。なお、その国名とは裏腹に、赤道上に領土を持っていない。
1.面積:28,051平方キロメートル(四国の約1.5倍)
2.人口:70万人(2010年、UNFPA)
3.首都:マラボ(Malabo)(ビオコ島北部に位置する)
4.民族:ファン族、ブビ族、コンベ族、ベレンゲ族等
5.言語:スペイン語(公用語)、仏語(第2公用語)、ポルトガル語(第3公用語)、ファン語、ブビ語
6.宗教:キリスト教(99%)、伝統宗教
1968年10月 スペインから独立
1972年7月 マシアス・ンゲマ終身大統領就任
1979年8月 オビアン・ンゲマ政権成立(クーデター)
1982年8月 軍政から民政へ移行、新憲法のもとオビアン・ンゲマ氏が大統領に就任
1989年6月 初の大統領選挙によりオビアン・ンゲマ大統領が信任
1993年11月 複数政党制下で初の国民議会選挙を実施
1996年2月 オビアン・ンゲマ大統領再選(3期目)
1999年4月 国民議会選挙を実施
2002年12月 オビアン・ンゲマ大統領三選(4期目)
2004年3月 クーデター未遂事件
2004年4月 国民議会選挙を実施
2008年5月 国民議会選挙を実施
2009年2月 大統領府襲撃事件
2009年12月 オビアン・ンゲマ大統領四選(5期目)
■主要産業:石油、天然ガス
■主要貿易品目(2009年推定、EIU)(1)輸出 石油、天然ガス、木材(2)輸入 石油関連、資本財等
■CFAフラン
Franc CFA)は、西アフリカ、中部アフリカ地域の旧フランス植民地を中心とする多くの国で用いられる共同通貨。西アフリカ諸国中央銀行 (Banque Centrale des Etats de l'Afrique de l'Ouest、BCEAO) 発行のもの(ISO 4217コードXOF)、中部アフリカ諸国銀行 (Banque des Etats de l'Afrique Centrale、BEAC) 発行のもの(同XAF)の2種類がある。両者は通貨としての価値は同一であるが、相互に流通することはできない。
■社会民主連合
赤道ギニアの政党の1つ。現在赤道ギニア国内で活動している政党の中では、最大野党である。機関紙『真実』(La Verdad)を発行している。赤道ギニアではテオドロ・オビアン・ンゲマ大統領の赤道ギニア民主党(PDGE)による事実上の独裁政治が続いている。最大野党は赤道ギニア進歩党(PPGE)だが、同党は1997年より国内での活動を禁止されているため、野党第2党であった社会民主連合が、国内の野党の中では最大となった。
■ポルトガル語公用語アフリカ諸国
ポルトガル語公用語アフリカ諸国(ポルトガル語: Paises Africanos de Lingua Oficial Portuguesa、PALOP)とは、ポルトガル語を公用語とするアフリカ諸国、つまりアンゴラ、カーボベルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、サントメ・プリンシペからなる、アフリカの5ヶ国のグループである。
■音楽
最大の民族はファン人であるが、多数のブビ人と少数のビシオ人、ブイエバ人、ンドウェ人、コンベ人、そしてアンノボン島民が存在する。ファン人はツィターとハープをクロスしたムベト(mvet)で知られる。ムベトは15のコードにまで及んでいる。この楽器の準球状の部分は竹から作られ、弦は繊維によって結び付けられている。ムベトによる音楽はベボム・ムベト社会に手ほどきを受けた記譜法によってのみ書かれる。音楽は典型的なリフレイン形式を伴ったコールアンドレスポンスと太鼓の交流による。エイ・モアン・ンドングやオバマは民族様式を一般化させようとしている。
■ツィター
Zither、は、主にドイツ南部、オーストリア、スイスなどでよく使用される弦楽器。チターとも。日本の箏(琴)に似た形状をしているが、長さは短い。約30本の伴奏用弦と5、6本の旋律用のフレット付き弦が張られている。これを親指につけたプレクトラムと呼ばれる爪を使って弾く。
■スークース
(Soukous) は、1940年代にコンゴのアフリカン・ルンバが起源のアフリカ中で人気を得た、ダンス音楽のジャンルである。スークースは、西アフリカでは「コンゴ」、ケニア、ウガンダ、タンザニアでは「リンガラ」と知られ、リンガラ語の歌詞が歌われる。コンゴ音楽の影響下にあるザンビアとジンバブエでは、「ルンバ」と呼ばれる。
■マコッサ
(Makossa)とは、カメルーンの都市部でよく知られている音楽のジャンルである。ドゥアラ語で、マコッサは「踊る」という意味だ。なお、マコッサからは、後にマカッシ(Makassi)が派生した。マコッサは、ダンス用音楽のジャンルの1つであるSoukousに似た音楽だ。ベースによるリズム体がしっかりと入っていることと、金管楽器などの吹奏楽器が目立つことが特徴である。
■ミゲル・アビア・ビテオ・ボリコ
Miguel Abia Biteo Borico, 1961年? - は、赤道ギニアの政治家で元首相。赤道ギニア少数派のブビ族出身。赤道ギニア民主党党員。早くからソビエト連邦に留学・居住し、鉱業技術者として学ぶ。帰国後は政府機関で働き、赤道ギニアの石油産業界において代表的な人物の1人に。政界との結びつきを強めたアビア・ビテオ・ボリコは、1999年にテオドロ・オビアン・ンゲマ大統領により財務相に任命され入閣。
■リカルド・マンゲ・オバマ・ンフベア
Ricardo Mangue Obama Nfubea, 1961年 - は、赤道ギニアの政治家で首相。赤道ギニア民主党党員。ファン族出身。スペインの国立マドリード大学で政治科学と権利について学んだ。帰国後は行政分野で活躍し、大統領であるテオドロ・オビアン・ンゲマとその一族の弁護士にまでなった。前任のミゲル・アビア・ビテオ・ボリコ首相率いる内閣(閣僚評議会)で副首相を務めていたが、同内閣がンゲマ大統領により解散させられると、2006年8月14日、首相に抜擢された。
■ハビエル・バルボア
Javier Angel Balboa Osa、1985年5月13日 - はスペイン出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。スペイン・セグンダ・ディビシオンのアルバセテ・バロンピエ所属。レアル・マドリードのカンテラ出身。2005年夏にフアン・フランシスコ・トーレスの後釜としてレアル・マドリード・カスティージャに加入した。2012年1月21日、自国開催のアフリカネイションズカップ2012の開幕戦のリビア戦で、自身代表初得点となる決勝ゴールを決め、赤道ギニア代表の大会初出場初勝利に貢献した。
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