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エジプト・アラブ共和国
Arab Republic of Egypt
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■地理
アフリカ北東隅に位置し、面積1,002,450平方キロメートルで世界で30番目の大きさである。国土の90%は砂漠で、ナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠(リビア砂漠)、東側には紅海とスエズ湾に接する東部砂漠(シャルキーヤ砂漠)がある。西部砂漠には海抜0m以下という地域が多く、面積1万8000km2の広さをもつカッターラ低地は海面より133mも低く、ジブチのアッサル湖に次いでアフリカ大陸で2番目に低い地点である。
■中東
Mideast)は、狭義の地域概念では、インド以西のアフガニスタンを除く西アジアとアフリカ北東部の総称。西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、おおまかに定義される地政学あるいは国際政治学上の地理区分。
■地中海
the Mediterranean Seaは、北と東をユーラシア大陸、南をアフリカ大陸(両者で世界島)に囲まれた海である。地中海を指すMediterraneanという語は、「大地の真ん中」を意味するラテン語のmediterraneus メディテッラーネウス(medius 「真ん中」 + terra 「土、大地」)に由来する。正確には、西をジブラルタル海峡で大西洋と接し、東はダーダネルス海峡とボスポラス海峡を挟んでマルマラ海と黒海につながる海をいう。
■紅海
アフリカ東北部と、アラビア半島とに挟まれた湾である。長さ2250km、幅最大355km、面積438,000km2、平均水深491m、最深部2211m。海水は強い蒸発作用(少ない降雨)、流入河川無し、インド洋との限られた循環などにより塩分濃度は3.6%〜3.8%と高い。目立った河川が流れ込んでいないこともあり海水の透明度が高く、200種ものサンゴが生息するなど固有種も多いことからダイバーにとって憧れの対象である。とりわけ、エジプトがその経済的恩恵を享受している。
■ナイル川
the Nileは、アフリカ大陸東北部を流れ地中海に注ぐ世界最長級の河川である。一般にはヴィクトリア湖が源流だと思われているが、ヴィクトリア湖には多数の流入河川が存在し、一方でヴィクトリア湖からの流出河川はナイル川しか存在しないため、ヴィクトリア湖をナイル川水系に含み、そこに流れ込む河川の長さもナイル川の長さに加算するのが普通である。ナイル川の最上流はブルンジのルヴィロンザ川である。
■セヘル島
Sehel Island、は、エジプト・アラブ共和国、アスワン南部のナイル川に浮かぶ島である。 花崗岩に刻まれた碑文が多数残る。碑文は主にヌビアへの旅の出立時あるいは帰還時に記されたもの。Famine Stelaなど重要な碑文が存在する。
■スエズ運河
Suez Canalは、エジプトのスエズ地峡(スエズちきょう)に位置し、地中海と紅海(スエズ湾)を結ぶ、海面と水平な人工運河。1869年11月開通。アフリカ大陸を回りこまずにヨーロッパとアジアを海運で連結することができる。運河は北端のポートサイドと南端のスエズ市タウフィーク港を結び、中間点より北に3kmの運河西岸にはイスマイリアがある。
■スエズ湾
Khalyj as-Suwaysは、紅海の北端に位置し、東のアカバ湾と共に西からシナイ半島を挟んでいる湾である。アフリカとアジアの大陸の境界は、スエズ湾の中央線上とされている。長さ314km、幅最大32km。水深は最大でも18m。
■シナイ山
Mount Sinaiは、シナイ半島にある、モーセが神から十戒を授かったとされる場所。ホレブ山 (en:Horeb) とも呼ばれる[2]。聖書のシナイ山の正確な場所は定かではないが、アラブ人がジェベル・ムーサーと呼ぶシナイ半島南部の山(標高2,285 m)に古くから比定され、アブラハムの宗教によって神聖視されている。ジェベル・ムーサーにはモーセに関わる伝承を持つ泉や岩が数多く存在し、土地の人々の信仰の対象となっている。
■リビア砂漠
Libyan Desertは、北アフリカ、エジプトのナイル川河谷からリビア東部に及ぶ砂漠。エジプトでは西部砂漠と言う。広義のサハラ砂漠の一部をなす。標高150〜300m、面積約170万平方キロメートル。流砂による砂丘地帯が広がる。シワ・オアシス、カスル・ファラーフラ、クフラなどのオアシスがある。古来アフリカ内陸との隊商ルートが存在した。古代エジプト時代から宝石として使われたリビアングラスの産地でもある。
■カッターラ低地
Qattara Depressionはエジプト北西部マトルーフ県、リビア砂漠にある盆地。低いところでは海面から133 mも低く、アフリカで2番目に低い内陸地である(最も低いのはジブチのアッサル湖)。この低地の面積は18,000 km2、長さは大きいところでは幅120キロメートル×80キロメートルである。最も低いところは塩地 (Salt pan) になっている。
■シナイ半島
西アジアのアラビア半島とアフリカ大陸北東部の間にある半島。北は地中海、南は紅海、東はアカバ湾、西はスエズ湾にそれぞれ面している。南へ向けた三角形の形状をしており、先端はムハンマド岬。南部にはシナイ山がある。現在エジプト領で、南部沿岸地方は観光開発が行われ、世界的に有名な高級リゾート地となっている。
■シナイ山
Mount Sinai は、シナイ半島にある、モーセが神から十戒を授かったとされる場所。ホレブ山 (Horeb) とも呼ばれる。聖書のシナイ山の正確な場所は定かではないが、アラブ人がジェベル・ムーサー(Jabal Musaアラビア語で「モーセ山」の意)と呼ぶシナイ半島南部の山(標高2,285 m)に古くから比定され、アブラハムの宗教によって神聖視されている。ジェベル・ムーサーにはモーセに関わる伝承を持つ泉や岩が数多く存在し、土地の人々の信仰の対象となっている。
■ナイル川デルタ
Nile Deltaは、エジプト北部のナイル川河口にある三角州(デルタ)地帯。アレクサンドリアからポートサイドにかけ、東西240kmにわたり広がる世界最大級の三角州で、肥沃な土壌を生んでいる。首都カイロから少し下ったところから始まる。河口まで160kmだが、その間の高低差は16mしかない。デルタの厚さは平均20m。
■アスワン・ハイ・ダム
Aswan High Damは、エジプトの南部、アスワン地区のナイル川に作られたダム。建設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保であるが、ロウ・ダムだけでは力不足であったために、当時のエジプトのナセル大統領がソ連の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを国家的事業として計画を立てた。高さ111m、全長3,600mの巨大ロックフィルダムである。
■アエギュプトゥス
Aegyptus)は、古代のエジプトがローマ帝国の属州だった時代の地名で、「エジプト(Egypt)」の語源でもある。属州の領域は現在のエジプトとほとんど同じだが、シナイ半島は含まない。西側はキュレナイカ属州と隣り合い、東側はアラビア属州と隣り合っていた。
■エジプト王国
現在のエジプト・アラブ共和国を領土とし、1922年から1953年の間ムハンマド・アリー朝が支配していた王国。エジプト革命により、共和制に移行されるまで存在した。1805年、ムハンマド・アリーがオスマン帝国の属州エジプトの総督に就任し、マムルークなどの有力者を排除を行い、エジプトの支配体制を確立した。
■エジプト革命 (2011年)
エジプトの国内外において2011年1月より発生した大規模な反政府デモとそれに付随する事件の結果、ムバーラク大統領が辞任に至った革命。チュニジアにおいて長期政権を倒したジャスミン革命に触発され、29年間の長きにわたり大統領職にあり独裁政権を維持したムバーラクに対する反発が表面化し退陣を要求するデモが繰り返された。この騒乱により、ムバーラクは退陣し、政権の長期独裁に終止符が打たれることになった。
<世界遺産>
■ メンフィスとその墓地遺跡-ギーザからダハシュールまでのピラミッド地帯
* クフ王のピラミッド
現在高さ138.74m(もとの高さ146.59m)、底辺:230.37m、勾配:51度50分40、容積:約235.2万m3で、平均2.5tの石材を約270万〜280万個積み上げたと計算される。長さと高さの比は黄金比である。女王の間の通気孔とされているこの穴は何故か薄い壁で巧妙に封鎖して隠されており、これは1872年にフリーメーソン会員ウェインマン・ディクソンが発見するまで存在すら知られていなかった。
■ 古代都市テーベとその墓地遺跡
古代エジプトの王都はメンフィスに置かれることが多かったが、中王国の第11王朝から新王国の第18王朝までテーベがエジプトの都とされた。その後、第19王朝でデルタに遷都されたが、アメン信仰の総本山であるカルナック神殿を中心として、重要な宗教都市としての地位を保ち続けた。
■ アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群
オリジナルは、砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた岩窟神殿。大神殿と小神殿からなる。建造主は新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル女神を祭神としている(小神殿は最愛の王妃ネフェルタリのために建造されたものでもある)。建設後、長い年月の内に砂に埋もれていたが、1813年にスイスの東洋学者ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトによって小壁の一部が発見され、1817年にブルクハルトの知人であったイタリア人探検家ジョヴァンニ・バッティスタ・ベルツォーニによって出入り口が発掘された。1960年代、ナイル川にアスワン・ハイ・ダムの建設計画により、水没の危機にあったが、ユネスコによって、国際的な救済活動が行われた。
■ カイロ歴史地区
ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。近郊を含む都市的地域の人口は1729万人で、世界第11位である。古代エジプトからローマ属州時代は、ヘリオポリスが近郊にあったが、カイロ自体はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地だった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。
■ アブ・メナ
アレクサンドリアの南西45kmに位置する、古代エジプトにおけるキリスト教巡礼の中心的存在だった都市の遺跡。歴史的には、この地は4世紀後半までに、治癒をはじめとする奇跡を求めるキリスト教徒たちにとって、重要な巡礼地となっていた。アルカディウスの治世には、地元の大司教は、小さな教会に大勢の巡礼者たちが押し寄せてくるのを目撃し、東ローマ皇帝に対し、キリスト教の三大拡張期の最初のものが起こっている様子を書き送った。古代が終わるまでに、アブ・メナはエジプトにおける中心的巡礼地となっていた。しかし、7世紀半ばに、イスラム教徒たちに征服され、アブ・メナは破壊された。
■ 聖カトリ−ナ修道院地域
1884年、西暦381年から384年頃に書かれたと見られる、古の手記の断片がイタリアのある図書館で発見され、当時の聖地の様子やシナイ半島地域の修道院群での修道生活の様が描かれており注目された。この手記の一片には「聖なる地」から書かれた旅行記の一部、そしてエルサレムにおける復活祭の詳細な叙述が含まれていた。修道院図書館は世界中の初期の写本や手記の収集物を、世界で2番目に多く収蔵しており、唯一バチカン図書館がそれを越える数を誇るのみとなっている。収蔵するコレクションの長所には、ギリシャ語、コプト語、アラビア語、アルメニア語、ヘブライ語、古代シリア語で書かれたものが挙げられる。
■ ワディ・アル・ヒタン
エジプトのファイユーム県(en。cf. ファイユーム)にある新生代古第三紀の堆積層。 英語で "Whales Valley"、日本語で「クジラ渓谷(クジラけいこく)」「クジラ谷(クジラだに)」などと意訳され別称される当地は、その名のとおり、進化過程の早期にあたるクジラ類(バシロサウルス科)の化石が多数発掘されることで地質学的に著名である。約4000万年前(始新世後期前半バートニアン)の当地域には、テティス海と呼ばれる浅海が広がっていた。そのころに堆積した砂岩・石灰岩・頁岩の地層が現在地表に表出している。この始新世バートニアンの地層は最も古いもので約4100万年前から約4000万年前にかけて形成されたと考えられている。この古い地層からは、そのころの原始的なクジラ類(バシロサウルス科)の化石を始め、原始的海牛類の化石、サメの歯、カメの化石なども発見されている。
■アレクサンドリア図書館
紀元前300年頃、プトレマイオス朝のファラオ、プトレマイオス1世によってエジプトのアレクサンドリアに建てられた図書館。世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館とも、最古の学術の殿堂とも言われている。図書館には多くの思想家や作家の著作、学術書を所蔵し、その蔵書はおよそ70万巻にものぼったとされる。アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関としても知られる。
■新アレクサンドリア図書館
Bibliotheca Alexandrinaは、古代アレクサンドリアに栄えながら、戦火によって失われたアレクサンドリア図書館を甦らせ、古代の学問と博識の中心地としての輝きを取り戻そうと、ユネスコとエジプト政府が共同で建設した巨大な図書館兼文化センターである。古代アレクサンドリア図書館の滅亡から1500年以上経った2001年8月1日、アレクサンドリア市北部のかつて図書館があったとされる場所に再建された。コンピュータネットワークも駆使し、エジプトやアラブなど地中海諸国の文化文物に関する文献を収集する方針である。歴史上のアレクサンドリア図書館の最盛期より少ない蔵書数40万冊からの出発だが、最終的には800万冊の大図書館を目指しているという。
■ナグ・ハマディ写本
ナグ・ハマディ写本あるいはナグ・ハマディ文書(The Nag Hammadi library)は1945年に上エジプト・ケナ県のナグ・ハマディ村の近くで見つかった、パピルスに記された初期キリスト教文書。農夫ムハンマド・アリ・サマン(Mohammed Ali Samman)が壷におさめられ、皮で綴じられたコデックス(冊子状の写本)を土中から掘り出したことで発見された。写本の多くはグノーシス主義の教えに関するものであるが、グノーシス主義だけでなくヘルメス思想に分類される写本やプラトンの『国家』の抄訳も含まれている。
■パピルス
Papyrusは、カヤツリグサ科の植物の1種、またはその植物の地上茎の内部組織(髄)から作られる、古代エジプトで使用された文字の筆記媒体のこと(区別のためそれぞれ、パピルス草・パピルス紙とも呼ばれる)。プトレマイオス朝時代には,エジプトの輸出品として各地に広まった。フェニキア人の都市ビブロス(現在のレバノンのジュバイル)がそのギリシャ向けの積み出し港だったのでビブロスの名がパピルスを意味する語に、また本を意味するようにもなり、現在英語で聖書を意味するBibleという言葉もそこから来ているとされる。
■アラバスター
(Alabaster) は美しい白色の鉱物の変種のひとつ。その特徴的な美しい白さゆえに、アラバスターは白いものの形容として、例えば英語では "alabaster skin"(白く滑らかな肌)といった表現で詩や歌などで使われている。アラバスターとよばれる石には2種類あり、それぞれ石膏(CaSO4・2H2O)と方解石(CaCO3)という2つの異なった鉱物の変種である。現代ではアラバスターは石膏のもの(雪花石膏という)をさし、方解石のアラバスターは一般に古代のものをさす。
■第三次中東戦争
イスラエルとアラブ連合(エジプト、シリア、ヨルダン)の間で発生した戦争。第一次中東戦争によってパレスチナの大部分はイスラエルが獲得していたが、聖地エルサレムの東半分を含めた地域はヨルダンが保持しており、ユダヤ教の巡礼が行えないなどユダヤ教右派を中心に不満が高まっていた。一方アラブ側では、1964年にヨルダンのアンマンを本部としたパレスチナ解放機構(PLO)が結成され、イスラエルに対するゲリラ闘争を行っていた。1966年2月、シリアでクーデターが発生し、PLO支持のアタシ政権が樹立すると、国内の混乱も収まらないうちにゴラン高原からイスラエル領内へ砲撃を加え始めた。
■第四次中東戦争
1973年10月にイスラエルとエジプト、シリアなどの中東アラブ諸国との間で行われた戦争。第三次中東戦争(六日戦争)の時、先手を打って圧勝したイスラエルに対し、今回はアラブ側が先制攻撃をしかけた。アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用したこともあって、一時イスラエルはスエズ運河やゴラン高原にて苦戦を強いられたものの、その後イスラエルが巻き返して逆にアラブ側が苦戦することとなり、米ソ両国の提案で停戦となった。
■マムルーク
イスラム世界における奴隷身分出身の軍人のこと。原義は「所有(m-l-k)された者」を意味し、本来はアブド、ジャーリヤなどのアラビア語で奴隷を指す様々な語のうちの男性奴隷を指す語のひとつであるが、特にマムルークの語は9世紀頃から19世紀初頭頃までイスラム世界の各地で広く活躍した白人の奴隷身分出身の軍人たちを指すのが普通である。
■ムハンマド・アリー朝
19世紀初頭からおよそ150年間にわたってエジプトを支配した王朝(1805年 - 1953年)。駐エジプト・アルバニア人非正規軍の隊長ムハンマド・アリーがオスマン帝国主権下で総督(ワーリー)の地位を獲得したのに始まり、イギリスによる占領、オスマン帝国の形式的な主権からの離脱を経て、エジプト革命によって王制が打倒されるまで続いた。
■アイユーブ朝
1169年〜1250年、最後の地方政権のハマ・アイユーブ朝は1342年まで存続、?Ayyubid)は、エジプト、シリア、メソポタミアなどを支配したイスラム系の王朝。王朝名の「アイユーブ」は創始者の父の名に由来する。
■ウマイヤ朝
イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。サラセン帝国(ただしサラセン帝国はかつてのヨーロッパでの呼称)、大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。
■宗教
宗教はイスラム教が90%(ほとんどがスンナ派)であり、憲法では国教に指定されている(が、既述の通り、現在では宗教政党の活動ならびにイスラム主義活動は禁止されている)。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる。
■スンナ派
イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつ。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。また、多数派である事や歴史的な事情などから「正統派」などと言われる。しかし、スンナ派を正統とするのは、あくまでスンナ派の内側から見た場合の理解である。
■ムスリム
Muslim)は、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教徒のことである。サハラ砂漠以北の世界に限って言うと、イスラム教を信仰する民族はかなり限定的で、アラブ系、ペルシア系、インド系、テュルク系、マライ系の五つの系統の民族でほぼ全ムスリムの95%以上を占めている。
■キリスト教徒
Christian)とは、キリスト教の信徒のことである。キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。
■キリスト教
hristianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。
■民族
住民はイスラム教徒とキリスト教徒(コプト教会、東方正教会など)からなるアラブ人がほとんどを占め、その他にベドウィン(遊牧民)やベルベル人、ヌビア人、アルメニア人、ローマ人、トルコ人、ギリシア人などがいる。
■アラブ人
おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。「アラビア人」の呼称が過去には一般的であったが、アラビア人を意味する英語のarabにさらに「人」をつけ足した「アラブ人」という言い方が、本来の意味からすればおかしいものの、オイルショックの頃から使われだし、やがて定着したもの。
■アルバニア人
主にアルバニア共和国とコソボを中心としたバルカン半島に住む民族。インド・ヨーロッパ語族系の古代民族イリュリア人の子孫とされ、かつてモンテネグロ人もイリュリア人であったとされる。南スラブ人の南下によってモンテネグロはスラヴ化されたが、アルバニア人は古代からの命脈を保っている。
■ベルベル人
北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。
■エジプト文学
エジプト文学は古代エジプトを起源としており、現在知られている最も古い文学の一部である。エジプト文明は今日のような「本」という形の文学を発達させた最初のものであった[1]。古代エジプト人たちはパピルスだけではなく、壁、墓、ピラミッド、オベリスクなどにも作品を書いた。古代エジプト文学の最も良く知られている例は『シヌヘの物語』であろう。
■文学
古代エジプトにおいてはパピルスにヒエログリフで創作がなされ、『死者の書』などの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラブ文学の一つの中心地となった。現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。
■シヌへの物語
『シヌヘの物語』は古代エジプト文学における物語文学の傑作の1つとされている作品。紀元前20世紀前半、エジプト第12王朝の始祖であるファラオ・アメンエムハト1世の死をきっかけとした出来事を描いた物語である。神の摂理や慈悲といった非常に普遍的なテーマを扱っており、その匿名の作者は「エジプトのシェイクスピア」とも称され、その考え方は聖書にも共通するものがある。韻文の形式で書かれており、朗読されていた可能性もある。
■死者の書
『死者の書』 (ししゃのしょ, 独: Totenbuch) は、古代エジプトで死者とともに埋葬されたパピルスの巻き物。死者の霊魂が肉体を離れてから死後の楽園アアルに入るまでの過程を描いた書で、冥福を祈り死者と共に葬った。道標としての役割も持っていたと思われ、コフィンテキスト(コフィンとは棺の意。すなわち棺に書かれた死者の書)としても存在する。
■ガマール・アブドゥル=ナーセル
Gamal Abdel Nasser, 1918年1月15日 - 1970年9月28日は、エジプトの軍人、政治家。第2代エジプト共和国大統領。汎アラブ主義を主張し、1958年、エジプトとシリアから成るアラブ連合共和国を建国してその初代大統領に就任した。ナーセルは1918年、エジプト北部・地中海沿岸の都市アレクサンドリアにおいて、郵便局長の息子として生まれた。ナーセル出生時のエジプトはオスマン帝国から独立したものの、イギリスの保護国となっていた。ナーセルは成長するにつれ、エジプトの解放を目指す民族運動に関心を寄せていったといわれる。
■アンワル・アッ=サーダート
1918年12月25日 - 1981年10月6日は、エジプトの軍人、政治家。共和政エジプト第3代大統領(第2代アラブ連合共和国大統領、初代エジプト・アラブ共和国大統領)。また首相を2期務めた。サーダートはミヌーフィーヤ県のミト・アブ・アル=クムで、貧しいスーダン系エジプト人一家の13人兄弟の一人として誕生した。1938年、カイロの王立陸軍士官学校を卒業し、通信部隊に配属された。その後イギリスの支配からエジプトを解放しようという士官達の運動に加わることとなる。革命によって1953年、エジプトは王制を廃止し共和政へ移行した。サーダートは新政府のリーダーとなったナーセルを支える。ナーセル政権が成立した1954年、国務大臣に就任。
■フェルディナン・ド・レセップス
Ferdinand Marie Vicomte de Lesseps、1805年11月19日 - 1894年12月7日は、フランスの外交官、実業家。スエズ運河を建設したことで知られている。1825年から、リスボン・チュニスで領事を務め、1833年に駐アレキサンドリア副領事としてエジプトに着任する途中、船内でコレラが発生し、上陸が一時停止され、海上で隔離されたときに暇つぶしに読んだフランス人技師ルペールがナポレオンに宛てたエジプトに関する報告書を読み、スエズ運河構築の夢を抱くようになった。
■ヘロドトス
Herodotus、紀元前485年頃 - 紀元前420年頃は、古代ギリシアの歴史家である。彼はドーリア系ギリシア人であり、小アジアのハリカルナッソス(現ボドルム)に生まれた。また、今日まともな形で残っている最初の歴史書『歴史』を著したことによって「歴史の父」とも呼ばれる。ヘロドトスはペルシア戦争後、諸国を遍歴して『歴史』(全9巻)を著した。『歴史』の記述はギリシアはもちろんペルシア、リュディア、エジプトといった古代オリエント世界の歴史、地理まで及ぶ。
■アレクサンドロス3世
Alexander the Great、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年はアルゲアデス朝のマケドニア王、コリント同盟の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。
■アムル・イブン・アル=アース
583年 - 664年はイスラーム初期の政治家・武将。パレスティナとエジプト(アエギュプトゥス)の征服者。ウマイヤ朝初代カリフ、ムアーウィヤの盟友。アムルのエジプト遠征軍はわずか4千騎であったが、アムルは若い頃にたびたび隊商を率いてエジプトへ旅したため地理を熟知していたうえ、エジプトでは東ローマ帝国の支配が嫌われていたため、征服はさほど困難ではなかった。アムルは教義問題をめぐってコンスタンティノープル教会と対立していたコプト派キリスト教徒を味方につけ、640年2月にペルシウムを攻略。
■モハメド・ジダン
Mohamed Abdullah Zidan, 1981年12月11日 - は、エジプト出身、ドイツ・ブンデスリーガのマインツ05に所属するエジプト代表のサッカー選手。ポジションはFW。地元クラブ、アル・マスリでユース時代を過ごす。既にその卓越したテクニックを噂されていた彼はデンマーク・スーペルリーガの1部に所属するABコペンハーゲンに引き抜かれ、コペンハーゲンの地から欧州挑戦を始める。
■サイイド・クトゥブ
Sayyid Qutb, 1906年10月9日 - 1966年8月29日は、エジプトの作家、詩人、教育者、イスラム主義者。1950年代 - 1960年代におけるムスリム同胞団の理論的指導者。小説や文芸批評も含めた24の著作をなした。イスラム教の社会的・政治的役割を論じた作品でイスラム世界では大きな影響力がある。とりわけ物質主義、暴力主義であると看做したアメリカ文明に対する批判的言説で知られる。
■ヒュパティア
370年?- 415年3月は、古代エジプトの著名な女性の数学者・天文学者・新プラトン主義哲学者である。ハイパティアともヒパティアとも日本では呼ばれる。キリスト教徒により異教徒として虐殺された。ヒュパティアは400年頃アレクサンドリアの新プラトン主義哲学校の校長になった。彼女はプラトンやアリストテレスらについて講義を行ったという。そして、彼女の希に見る知的な才能と雄弁さや謙虚さと美しさは、多数の生徒を魅了した。数学と哲学の教えを、新プラトン主義の創始者プロティノス(205年- 270年頃)と新プラトン主義のシリアでの分派の創設者ランバリクス(250年- 330年頃)という2人の新プラトン主義者から受けた。
■アリ・イブン・リドワン
998年頃 - 1061年頃は、ファーティマ朝時代にエジプトで活躍した医者、占星術師、天文学者。カイロ対岸のギザに生まれた。ラテン語文献では Haly Abenrudian、 Radohan Aegyptius などとして表れる。古代ギリシアの医学、特にガレノスの著書『アルス・パルヴァ』(Ars Parva)の注釈を著し、これは後にクレモナのジェラルドによってラテン語に翻訳された。
■ソシゲネス
Sosigenes、紀元前1世紀頃は、大プリニウスの『博物誌』に記述のある天文学者で、カエサルによるユリウス暦への改訂にエジプトの太陽暦を参考するように提議したとされる天文学者である。ユリウス暦の改訂に助言したとされる天文学者には他にAcoreusがいる。大プリニウスの『博物誌』にはソシゲネスの水星の軌道についての研究についての記述があり、水星が太陽から22度以上離れないをことを知っていたとされる。
■ムハンマド・アブドゥフ
1849年 - 1905年7月11日は、エジプト出身のウラマー(イスラーム法学者)でイスラーム改革思想家。アブドゥとも表記される。イスラーム改革思想家アフガーニーの弟子であるアブドゥフは、ムハンマド・アリー朝の極端な西洋化政策を批判しつつも、西洋の技術を取り入れることとイスラームは矛盾しないと説いた。
■アリー・ゴマア
Sheikh Ali Gomaa、1952年3月3日 - は、エジプトのイスラム法学者。2003年から、エジプトの大ムフティー(最高イスラム法官)を務める。イスラム法学者として、2010年3月までに43冊の宗教書、7冊のイスラム辞典をはじめ多くの著書があり、一部は英訳され海外で出版されている。
■パップス
(Pappus of Alexandria)はアレキサンドリア生まれのエジプトの数学者。4世紀の前半に活躍した。彼はギリシャ数学を幅広く渉猟し、その技法を修得して8巻に及ぶ数学上の著作を残した。彼はその第七巻において、パップス=ギュルダンの定理と呼ばれる定理を証明しているが、これは後世の数学者に大きな影響を与えた。その他、三角形の中線定理(パップスの定理)など平面幾何学のいくつかの定理に彼の名前が残っている。
■ムハンマド・アブドゥル・ワッハーブ
Mohammed Abdel Wahab、1901年 - 1990年5月は、エジプトの作曲家、歌手。カイロ出身。ウードの弾き語りや、映画の出演などで活躍した。ウム・クルスームにも10曲提供している。死後もウム・クルスーム、ファリード・エル・アトラッシュ、アブドゥル・ハリーム・ハーフェズと並ぶアラブ音楽の巨匠と考えられている。
■サイード・ダルウィーシュ
Sayed Darwish、1892年3月17日 - 1923年9月10日は、エジプトの作曲家、歌手。アレクサンドリア出身。エジプトのポピュラー音楽の父とみなされている。民族運動指導者ムスタファ・カーメルの演説につけた曲は、エジプトの国歌(ビラーディ・ビラーディ・ビラーディ)となっている。
■ヴィットリオ・リエティ
(Vittorio Rieti, 1898年1月28日 − 1994年2月19日)は、イタリアの作曲家。エジプトのアレクサンドリアにイタリア移民の第3世代として生れる。1917年にイタリアに渡り、ミラノで経済学を学ぶかたわら、ピアノをジュゼッペ・フルガッタに、作曲をオットリーノ・レスピーギやジャン・フランチェスコ・マリピエロ、アルフレード・カゼッラに師事した。
■ムスタファ ・マフムード
Mustafa Kamal Mahmoud Husayn, 1921年12月15日 - 2009年10月31日は、エジプト出身の医師、著作家。カイロ大学で医学を学び、学生時代から文筆活動をはじめた。大学卒業後は医師として働くが、執筆に専念するようになり、やがてムスリムとして活発に発言するようになる。こうした自らの思想遍歴については、著書『疑いから信仰への私の旅』で語っている。
■ヒシャーム・カンディール
Hisham QandilまたはHisham Kandil、1962年9月17日[1] -)は、エジプトの政治家、官僚。エジプトの現首相。特定の政党には属していない。1984年カイロ大学工学部卒。1988年にユタ州立大学で灌漑排水学修士号を、1993年にはノースカロライナ州立大学で灌漑排水学の博士号を取得した。エジプト灌漑・水資源省に勤務しナイル川担当局長などに就いたほか、チュニジアにあるアフリカ開発銀行でチーフ水資源技師をつとめた。
■サアド・ザグルール
Saad Zaghlul、1859年-1927年8月23日)は、エジプトの政治家である。1924年1月26日から11月24日までの間、エジプト王国の総理大臣を務めた。ナイル・デルタで生まれたサアド・ザグルールは、ワフド党を率いて、エジプトの独立闘争を支持した。エジプトを保護国化していたイギリスは、ザグルールを逮捕することでワフド党の勢力を弱めようとしたが、イギリスの意向に反して、エジプトでは、革命が勃発した(エジプト革命_(1919年)
■アハメッド・ズウェイル
Ahmed Hassan Zewail、1946年2月26日 - )はエジプト生まれの、エジプト系アメリカ人化学者。フェムト秒化学の発展の功績に対して、1999年にノーベル化学賞を贈られた。1946年、アレキサンドリアの南東60kmにあるダマンフールの街に生まれ、ディスークで育った。最も大きな業績はフェムト秒化学、すなわち化学反応をフェムト秒単位で見る研究法を創始した事である。 |
エジプト・アラブ共和国 Arab Republic of Egypt
首都はカイロ。西にリビア、南にスーダン、北東にイスラエルと隣接し、北は地中海、東は紅海に面している。南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯(ナイル・デルタ)のほかは、国土の大部分が砂漠である。ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。
「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられて世界四大文明の一つである古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。
■カイロ
Cairoはエジプトの首都である。アフリカで最も人口の多い都市で、世界有数のメガシティである。ナイル川下流河畔の交通の要衝として、中世に建設されてより現在にいたるまで長い時代を通じ、イスラム世界の学術・文化・経済の中心都市でありつづけた。近郊を含む都市的地域の人口は1729万人で、世界第11位である。ナイル川は平坦な砂漠を流れる河川ではなく、東はアフリカ大地溝帯につらなる山脈によって紅海とさえぎられている。カイロ周辺では、南東に約100km離れたガララアルババリーヤ山 (1274m) などが際立つ。ナイル川の西側も高地であり、ナイル川が流路を変える可能性は低い。
■カイロ国際空港
Cairo International Airportは、エジプトの首都、カイロにある国際空港。カイロ市街地中心部から北東に15kmに位置している。 エジプト航空のハブ空港である。カイロ空港公団(Cairo Airport Authority (CAA))によって運営されている。
■フルガダ国際空港
Hurghada International Airport)はエジプトのフルガダにある国際空港。フルガダの旧市街にあたるエル・ダハール地区から南西に5kmの地点にある。
■タハリール広場
エジプトの首都カイロ中心部に位置する広場。19世紀(ムハンマド・アリー朝時代)、イスマーイール・パシャがエジプト総督を務めていた時の都市計画で作られた広場である。当時はイスマーイール広場と呼称されていたが、1919年のエジプト革命を境にしてタハリール広場と呼称されるようになり、ナーセルらによる1952年の革命で正式に名称が変えられた。「タハリール」はアラビア語で「解放」(英語:liberation)の意味である。
■ギーザ
同国の首都であるカイロからみてナイル川を挟んでおよそ20km西南にあり、現在では拡大したカイロの都市圏に内包されているが、行政上はカイロから独立したギーザ県の県都である。人口はおよそ200万人。古代エジプト以来の町であり、クフ王のピラミッドをはじめとするギザの三大ピラミッドと、ギザの大スフィンクスがある遺跡の町として世界的に有名である。
■ロゼッタ
Rashid / Rosettaは、エジプトの地中海沿岸にある港湾都市の一つ。 アレクサンドリアから65km東にあり、ブハイラ県に属する。人口約65000人(2001年)。1799年、エジプト遠征中のナポレオン・ボナパルト軍が、ロゼッタ・ストーンを発見した地としても知られる。アラビア語でラシッドという町の名はナポレオン軍の駐留以来、ロゼッタとして西洋に知られるようになった。
■アレクサンドリア国際空港
Alexandria International Airportは、エジプト第2の都市アレクサンドリアにある国際空港である。エル・ヌーザ空港 (El Nouzha Airport) とも称される。
■ボルグ・エル・アラブ空港
エジプト第二の都市、アレクサンドリアの南西40kmにある空港。2010年に日本政府の援助により新ターミナルが建設された。現在、アレキサンドリア国際空港から航空会社が段階的に移転している。
■シャルム・エル・シェイク国際空港
Sharm el-Sheikh International Airportは、エジプトの国際的リゾート地であるシャルム・エル・シェイク近郊にある国際空港。
■カイロ地下鉄
アフリカにおける最古の地下鉄である。貧弱な交通インフラによって危機的な状況にあった市内の渋滞を緩和するため、1982年にムバラク大統領によって計画が開始された。2012年時点で3路線が運行中で、さらに3路線が計画中。
外務省:エジプト・アラブ共和国
在エジプト日本国大使館
■カイロ大学
Cairo Universityは、エジプトのカイロ市ギザ地区にある国立総合大学。イギリス保護国時代の1908年に、宗教教育の最高学府であるアズハル学院に対する世俗教育の総合大学として設立された。現在も、アズハル学院が改組された総合大学であるアズハル大学と並ぶエジプトの最高学府である。主な学部は文学部、法学部、経済学部、商学部、工学部、農学部、医学部、薬学部など。
■アル=アズハル大学
Al-Azhar Universityは、カイロ市に本部を置くエジプトの公立大学である。988年に設置された。 イスラム教スンニ派の最高教育機関として有名であり、現存する世界最古の大学の1つである。アル=アズハル学院とも呼称される。アル=アズハル・モスク(971年建立)に付属するマドラサとして988年に設立された。アズハルは「最も栄えある」の意味。創立当初からの伝統では、イスラーム法学を志す者に対して誰にでもいつでも門戸を開放するという趣旨から、入学随時・出欠席随意・修業年限なし、という3原則を守っていた。プラトン、アリストテレスなど古代ギリシアの研究が行われ、大学院にあたるコースも行っており、世界で最初の成熟した大学とみなされている。
■ザガジグ大学
Zagazig University)は、エジプト・シャルキーヤ県ザガジグにある公立大学。1974年に設立された。現学長は、ムハンマド・マフムード・アブドルアール。
■アスユート
(Asyut)は、ナイル川に面したエジプトの都市。人口約40万人。アシュート県の県都。エジプト中部最大の都市であり、上エジプトの中心都市である。
■アスワン
エジプト南部、ヌビア地方の都市で、アスワン県の県都。エジプトの国家の一大事業であったアスワン・ハイ・ダムの近く。市内には、アガサ・クリスティが『ナイルに死す』を執筆し、その舞台となったことで知られる名門ホテル「オールド・カタラクト」がある。
■アレクサンドリア
Alexandria,は、カイロに次ぐエジプト第2の都市で、アレクサンドリア県の県庁所在地である。2010年の都市的地域の人口は429万人である。「地中海の真珠」とも呼ばれる港町アレクサンドリアでは、街中に英語の看板も多く、大きなサッカー場もある。歴史的経緯から多くの文化的な要素を合わせ持ち、独特かつ開放的でコスモポリタン、そこはかとなく欧米的な雰囲気が漂う国際観光・商業都市である。
■エスナ
Esnaは、エジプトのルクソールから55キロメートルほど南のナイル川西岸に位置する町である。エスナの観光の目玉は、観光客向けの市場と神殿である。神殿はまだ完全に発掘が済んだ状態ではないが、ナイル川から内陸に200メートルほど入ったところにあり、周囲の通りよりも9メートルほど低いところにある。
■サッカラ
Saqqaraは、エジプトにある広大な古代の埋葬地であり、古代エジプトの首都だったメンフィスのネクロポリスだった。サッカラには多数のピラミッドがある。
■タンタ
(Tanta)は、エジプトの都市である。ガルビーヤ県の県都で、人口429000人(2008年)。エジプトで5番目に大きな街であり、ナイルデルタ中部の中心都市である。タンタは毎年10月下旬に行われるマウリド(預言者聖誕祭)で著名である。また、1973年創立のタンタ大学がある。
■ファイユーム
(Faiyum)は、エジプトの都市。カイロから南東に130km離れたファイユーム・オアシスにあり、同地方最大の都市。ファイユーム県の県都である。中王国時代にはファイユームは墳墓の地として多数のピラミッドが作られ、現在も多数残存している。
■ベニ・スエフ
Beni Suef、は、エジプトの都市でベニ・スエフ県の県都。人口219754人(2008年)。ナイル川沿いに位置し、中世からリネンの製造で知られ、また綿工業やカーペット製造、近くの山で取れるアラバスターでも著名である。メディウム・ピラミッドやファイユームオアシスにも近い。ベニ・スエフ大学や私立アルナダ大学もベニ・スエフにある。
■ルクソール
(Luxor)は、エジプトの都市で、ルクソール県の県都。古代エジプトの都テーベがあった場所で、現在も数多くの遺跡が残っている。市域はナイル川によって分断されている。市内にある遺跡の多くが、古代都市テーベとその墓地遺跡 として世界文化遺産に登録されている。
■ロゼッタ
Rosetta, は、エジプトの地中海沿岸にある港湾都市の一つ。アレクサンドリアから65km東にあり、ブハイラ県に属する。人口約65000人(2001年)。1799年、エジプト遠征中のナポレオン・ボナパルト軍が、ロゼッタ・ストーンを発見した地としても知られる。
■シャルム・エル・シェイク
Sharm al-Shaykhは、エジプト、シナイ半島南部の都市。エジプトにおける第一の国際的リゾート地であり、中東各国のみならずヨーロッパ各国からも多数の定期便、チャーター便が就航するなど世界的に人気が高い。
■イスマイリア
(Ismailia)は、エジプトの都市。人口約75万人。イスマイリア県の県都。スエズ運河西岸、ティムサーハ湖の北西岸に位置する。イスマイリアはスエズ運河のほぼ中間地点に位置し、またイスマイリア運河を通じてカイロとも連絡があり、さらに鉄道がカイロ、アレクサンドリア、ポートサイドに通じている交通の要衝である。
■エドフ
Edfu、は、ルクソールとアスワンの中間に位置する、ナイル川西岸のエジプトの町。エドフには、隼の形をしたホルス神に捧げられた神殿、エドフ神殿(別名、ホルス神殿)がある。
■スエズ
Suez、は、エジプト東部の都市でスエズ県の県庁所在地である。人口49万7000人。紅海のスエズ湾に面し、スエズ運河の南端に位置する。スエズはメッカ巡礼に向かうムスリムたちの拠点となっている。
■ダマンフール
Damanhur)は、エジプト北部の都市。ギリシャやローマの時代にはギリシャ神のヘルメースと関連付け「ヘルモポリス・ミクラ」や「ヘルモポリス・パルヴァ」などと呼ばれた。
■ディムヤート
dimyat)は、エジプト北部のナイル川デルタにあり、地中海に臨む港町。古代マケドニアのアレクサンダー大王に征服される以前、当時タミアット(Tamiat)と呼ばれていたディムヤートは、古代エジプトの主要都市であった。
■フルガダ
Hurghada)は、エジプトの紅海県にある都市。ハルガダとも表記される。シナイ半島のシャルム・エル・シェイクとともに紅海リゾートの拠点となっている。温暖な気候とマリンスポーツで有名で一年の中で最高気温が30度を超える日も多いため、ヨーロッパからの観光客はクリスマスや新年の休暇を利用して訪れる人が多い。
■コム・オンボ
Kom Ombo,は、農業が盛んなエジプトの町。ナイル川沿いにアスワンから北約50kmに位置する。元々はヌブトと呼ばれた町であり、ヌビアからのナイル川の通商路としてあった。ワニの頭のセベク神とハヤブサの頭のハロエリス神(ホルス神の地域名)に捧げられた、珍しい二重構造をもつコム・オンボ神殿がある。
■ザガジグ
Zagazik)は、エジプト北部の町。ナイル川デルタの東部に位置するシャルキーヤ県の県都である。市内のザガジグ大学は国内最大級の大学で、理系・文系かかわらず多くの学部がある。世界最大のイスラム系大学であるアル=アズハル大学の分校もある。
■シワ・オアシス
Siwa Oasisは、エジプトの西部砂漠(リビア砂漠)のカッターラ低地とエジプト砂海の間にあり、リビア国境から約50km、カイロから560kmに位置するオアシス。2007年、300万年以上前の人類の足跡が発見される(最古の人類の足跡)
■ハルガ
Kharga Oasis)は、エジプトのオアシス都市。ワーディー・ゲディード県の県都。アシュートの南南西約240km、ルクソールの西約200kmに位置する。ヒビス神殿、ザイヤーン神殿、ナドゥーラ神殿、世界最古のキリスト教墓地の一つとされるアル=バガワ−トのネクロポリス、コプトの修道院跡などがある。
■エル・アラメイン
エジプト北部にあり地中海に面する町。アレクサンドリア西方106kmに位置する。第二次世界大戦中のエル・アラメインの戦いの舞台になったことで知られる。
■エル・アラメインの戦い
第二次世界大戦における枢軸国軍と連合国軍の戦いである。第一次会戦は1942年7月1日から31日。第二次会戦は同年10月23日から11月3日に行われた。ガザラの戦いでトブルク前面の陣地線(ガザラライン)を突破したドイツ軍は、1942年6月18日にはトブルク要塞を包囲した。次に控えるエジプト侵攻を考えると、戦車部隊での突破は難しかった。
■古代エジプト
古代のエジプトに対する呼称。具体的には紀元前3000年に始まった第一王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が滅亡しローマ帝国の支配下に入るまでの時代を指す。ナイル河の上流は谷合でありナイル河一本だけが流れ、下流はデルタ地帯(ナイル河デルタ)が広がっている。最初に上流地域(上エジプト)と下流地域(下エジプト)でそれぞれ違った文化が発展した後に統一されたため、ファラオ(王)の称号の中に「上下エジプト王」という部分が残り、古代エジプト人も自国のことを「二つの国」と呼んでいた。
■ヒエログリフ
hieroglyph, 聖刻文字、神聖文字 とは、ヒエラティック、デモティックと並んで古代エジプトで使われた3種の文字のうちの1つ。エジプトの遺跡に多く記されており、紀元4世紀頃までは読み手がいたと考えられているが、その後使われなくなり、読み方は忘れ去られてしまった。19世紀になって、フランスのシャンポリオンのロゼッタ・ストーン解読により読めるようになった。
■ピラミッド
Pyramid)は、エジプト・中南米などに見られる四角錐状の巨石建造物の総称であり、また同様の形状の物体を指す。その形からかつては金字塔(きんじとう)という訳語が使われていた。世界一高いピラミッドは、スネフェルの次のクフ王によってギザに築かれたギザの大ピラミッドで、勾配は51度52分。底辺は各辺230m、高さ146mに達する。長さ・高さの比は黄金比であり、またこれは14世紀にリンカン大聖堂の中央塔が建てられるまで世界で最も高い建築物であった。第2位のカフラー王のピラミッドもこれに匹敵する、底辺215m、高さ143.5mである。
■エジプト鉄道
Egyptian National Railways, ENR)はエジプトの国有鉄道で、公社形態のエジプト鉄道機関 (Egyptian Railway Authority, ERA) によって運営されている。エジプトの鉄道はアフリカ・中東地域では最も長い歴史を有しており、1854年にアレクサンドリアとカフル・イッサ間が開業、その2年後にアレクサンドリア〜カイロ間が全通した。
■ベドウィン
砂漠の住人を指す一般名詞で、普通アラブの遊牧民族に対して使う。アラビア半島においては、南端の農耕地帯に余剰人口が生ずるにいたり、農耕民の中で進取の気性ある者が耕作不能な土地に家畜を連れて北上したのが、ベドウィンの始まりとされる。ベドウィンを意味するヘブライ語から「アラブ」という語が導かれたという説もあり、ベドウィンが古くからアラブと呼ばれていたことは多くの碑文や史料に示されている。
■エジプトの国旗
エジプトの国旗は、赤、白、黒の横三色の中央にサラディンの鷲(国章)を配した旗。赤は革命で流された血、白は明るい未来、黒は革命前の暗い過去を表すという。またこの三色は、第一次世界大戦時のオスマン帝国に対するアラブ反乱で使われた旗と同じ色であり、汎アラブ色と呼ばれる。
■国号
公式の英語表記は Arab Republic of Egypt 。通称 Egypt。形容詞はEgyptian。アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。
1.面積:約100万平方キロメートル(日本の約2.6倍)
2.人口:7,870万人(2008年人口調査)
3.首都:カイロ
4.民族:主にアラブ人(その他,少数のヌビア人,アルメニア人,ギリシャ人等)
5.言語:アラビア語
6.宗教:イスラム教、キリスト教(コプト教)
紀元前32世紀頃 統一王朝成立
紀元前1世紀より ローマ帝国領
4世紀より ビザンツ帝国領
7世紀 イスラム化
16世紀 オスマントルコ帝国領
19世紀初頭より オスマントルコ帝国のムハンマド・アリ・パシャの下で近代化に着手
1922年 英国より王制の国として独立
1952年 ナセル率いる自由将校団によるクーデターを経て共和制に移行
1979年 イスラエルと平和条約を締結。その結果,アラブ連盟の資格停止
1989年 アラブ連盟復帰
1990年 湾岸危機において多国籍軍に参加
■エジプト・ポンド
エジプトで現在使われている通貨。アラビア語ではよくギニー(ギネー)と呼ばれる。単位記号はE?あるいは?.?で、略称はEL、ISOコードではEGPとなる。また補助単位としてピアストル (Piastre=Pt) があり、為替レートは2011年1月-2012年3月はの間で推移している。
■自由と公正党
Freedom and Justice Partyは、エジプトの政党。本部はカイロ・ローダ島(英語版、アラビア語版)に置かれている。党首は、ムハンマド・ムルシー。副党首にイサーム・エル=エリアンと、コプト教徒のラフィーク・ハビーブ。前幹事長は、ムハンマド・サアド・カタートニー(人民議会議長)。
■新ワフド党
1978年に旧ワフド党が復活する形で結成された。現党首は、エル=サイード・エル=バダウィー・シェハータ、副党首はマフムード・アッ=サア(カ)ー。1952年の7月革命時に、旧ワフド党[1]幹事長を勤めていたフアード・セラゲッディーンによって結成された政党である。経済自由化や人権重視、イスラム教徒とコプト教徒の協調などを党の方針に掲げている。またイスラム法を主要な法源とすることも掲げている。地主など比較的裕福な階層が主な支持者である。
■ワフド党
Wafd Party)は、かつて存在したエジプトの民族主義政党である。
1918年頃、サアド・ザグルールを初め、地主や民族主義者によって結成された。立憲君主制期のエジプトでは、1918年頃の独立運動時に独立を求めた民族主義運動派がサアド・ザグルールを中心にワフド党を結成し、王党派およびムハンマド・アリー朝王家との間の対立が当時の政治を動かした。
■ムスリム同胞団
Muslim Brotherhood)は、中東におけるスンナ派のイスラム主義(イスラム原理主義)組織、NGO[1]。20世紀前半のエジプトで生まれ、長い間、非合法組織として政権に抑圧された歴史を持ち、中東地域に広がるスンナ派の代表的な社会運動・宗教運動組織である。
■ヌール党
Light Party)は、エジプトのサラフィー主義[1]政党。アレキサンドリアにおいて始められたダアワ・エル=サラフィーヤ(ダアワ・サラフィー協会[2])によって2011年のエジプト革命後に創設された。ヌールは「光」を意味する。本部はアレキサンドリア。
■経済
2010年のエジプトのGDPは約2168億ドル(約17兆円)でありアフリカ屈指でありBRICsの次に経済発展が期待できると言われているNEXT11の一国にも数えられている。しかし、スエズ運河収入と観光産業収入に依存するところが大きく、政情に左右されやすい。
■パレスチナ問題
パレスチナの地を巡るイスラエル(シオニスト・ユダヤ人ら)とパレスチナ人(パレスチナ在住のアラブ人)ととの関係から生じた紛争を一個の政治問題として扱った呼称。パレスチナ・イスラエル問題と表記することもある。
■アラブ連合共和国
United Arab Republic, 略称UARは、1958年にエジプト共和国が、シリア共和国と連合し作られた国家。アフリカ大陸の北東部分およびアジア大陸の西側に位置した飛び地国家で、人口はエジプト2,598万人、シリア457万人(1960年センサス)、面積1,186,630km2(エジプトとシリアの合計)であった。首都はカイロ。しかし、1961年にシリアが連合を離脱したのに伴い、連合は解体した。エジプトは1971年までこの名を名乗り続けたが、現在ではエジプト・アラブ共和国(エジプト)となっている。
■言語
現在のエジプトではアラビア語が公用語である。これは、イスラムの征服当時にもたらされたもので、エジプトのイスラム化と同時に普及していった。ただし、公用語となっているのは正則アラビア語(フスハー)だが、実際に用いられているのはアラビア語エジプト方言である。
■アラビア語
アフロ・アジア語のセム語派に属する言語の一つ。主に西アジアや北アフリカのアラブ諸国で話されている。世界で3番目に多くの国と地域で使用されている言語であり、アラビア半島やその周辺、サハラ砂漠以北のアフリカ北部の領域を中心に(非独立地域を含めて)27か国で公用語とされており、また、国連の公用語においては、後から追加された唯一の言語でもある。
■ナギーブ・マフフーズ
Naguib Mahfouは、エジプトの作家で、アラビア語で著述する小説家。1988年にエジプト初、アラブ圏初のノーベル文学賞を受賞。代表作に『バイナル・カスライン』、『ゲベラウィの子供たち』、『渡り鳥と秋』、『蜃気楼』、『ハン・ハリーリー物語』、『ミダック横丁』など。カイロの商家に生まれる。彼を分娩した医師、ナギーブ・パシャ・マフフーズ教授(1882年 - 1974年)にちなみ名付けられた。カイロ大学卒業後、70年にわたって公務員として文化省に勤務するかたわら執筆を続け、34の小説、350以上の短編を発表した。そのほか映画脚本も精力的に発表し、作品の多くがイスラム圏で映画化された。
■ユーセフ・シャヒーン
ユーセフ・シャヒーン(アラビア語, Youssef Chahine, 1926年1月25日 - 2008年7月27日)はエジプト・アレキサンドリア出身の映画監督。エジプトを代表する映画監督である。両親はレバノン人。アレキサンドリア大学で学んだ後、アメリカに渡り、パサデナ・プレイハウスで演技を学ぶ。エジプトに戻った後は映画製作に取り組むようになり、1950年に映画監督としてデビュー。『アレキサンドリアWHY?』(1979年)で第29回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞。
■オマル・シャリーフ
Omar Sharif または Omar El-Sharif、1932年4月10日 - は、アラブ人でエジプト出身の俳優。本名ミシェル・ディミトリー・シャルフーブエジプトの裕福な材木商の家庭に生まれる。カイロの大学を卒業後、イギリスへ留学し、ロンドンの王立演劇アカデミーで演技を学ぶ。1962年に『アラビアのロレンス』のベドウィン族長アリを演じ、ハリウッドデビュー。アカデミー助演男優賞候補にもなり一躍知名度を上げ国際俳優になる。
■ムハンマド・アリー
1769年? - 1849年8月2日は、オスマン帝国の属州エジプトの支配者で、ムハンマド・アリー朝の創始者である。トルコ語でメフメト・アリー(Mehmed Ali)ともいう。エジプトのオスマン帝国からの事実上の独立を達成し、その後のエジプト発展の基礎を築いた。近代エジプトの父[1]、エル・キビール(大王)と呼ばれ、死後もエジプトの強さと先進性の象徴であり続けている。
■アル・カラダウィ
Yousef Al-Qaradawi, 1926年9月9日 -はエジプト出身のイスラム法学者。エジプトに生まれ、2歳で父を亡くし叔父に育てられる。1953年にカイロのアズハル大学を卒業、ムスリム同胞団に参加したためエジプト政府により何度も投獄され、1963年ついに追放されてカタールへ渡る。カタールでは衛星放送局アルジャジーラの看板番組のひとつである「宗教と生活」のメインゲストを務め、毎回視聴者などから寄せられる社会生活上における問題についての質問に対し豊富なクルアーンの知識を活かして回答する。イスラム界では最も著名な法学者の一人であり、彼の出すファトワーはアラブ社会のみならず全世界のイスラム教徒に対して絶大な影響力をもつ。非常に柔軟なクルアーンの解釈で知られ、女性の社会参加に寛容であったり、性生活に関して夫婦の自由意思を尊重するなど、イスラームと西欧的民主主義の両立は可能であるとの立場をとっている。
■サラーフッディーン
1137年または1138年 - 1193年3月4日は、エジプト、アイユーブ朝の始祖。現イラク北部のティクリート出身で、アルメニアのクルド一族の出自である。ユースフが生まれて間もない1138年頃、兄弟のアサドゥッディーン・シール・クーフがキリスト教徒の官吏を誤って殺害したため、一家もろともティクリート追放の憂き目にあった。ユースフはじめその家族は父とともにダマスクスへ移住する事となった。この時ユースフは8歳ほどであり、エジプトで権力を確立する30代前半までをダマスクスで過ごす事になる。かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。
■ホスニー・ムバーラク
1928年5月4日 - は、エジプトの軍人、政治家。共和政エジプト第4代大統領(第2代エジプト・アラブ共和国大統領)として約30年にもわたる長期政権を維持したが、2011年の革命によって失脚した。ミヌーフィーヤ県のカフル・エル・ムスリフ村に生まれた。父は小さな地主で、県の法務局で働いていた。父はホスニーにカイロ大学へ進学することを勧めていたが、1948年の第一次中東戦争が状況を変えた。1973年の第四次中東戦争では、イスラエル軍防衛陣地への電撃作戦で戦局を有利に導き、国民的英雄となった。
■ムハンマド・フセイン・タンタウィ
1935年10月31日 - は、エジプトの軍人、政治家。陸軍元帥。国防・軍需生産大臣(国防大臣)兼国軍総司令官。として軍最高評議会の議長を務める。2011年2月11日にホスニー・ムバーラクが大統領を辞任し、全権を軍最高評議会に委譲したため、以来、軍最高評議会議長として国家元首の職権を代行している。礼儀を重んじるとともに、人間的な魅力を併せ持つ人物だと報じられている。歩兵から元帥まで上り詰めており、叩き上げの軍人とのイメージが浸透している。
■ターハー・フセイン
Taha Hussein、1889年11月14日 - 1973年10月28日はエジプトの小説家・評論家・政治家で、20世紀前半のエジプト・ルネサンス運動(アル=ナフダ)や、アラブ世界の近代主義運動を代表する作家・知識人の一人。ターハー・フセインは、上エジプト中部のミニヤー県の農村、イズベト・エル・キロ(Izbet el Kilo)で、下層中産階級の家庭に、13人の子供のうちの7番目の子として生まれた。3歳の時に医師の誤った治療で盲目となり、以後の人生で多くの苦悩を抱えて生きることとなった。
■アル・カラダウィ
Yousef Al-Qaradawi, 1926年9月9日 -はエジプト出身のイスラム法学者。パレスチナ・ゲリラによるイスラエルへの自爆攻撃に関して、「航空機や戦車を持たない者の自衛手段として正当である」とこれを擁護している。また民間人に対する攻撃に関しても「イスラエルの女性は我々の社会における女性とは違う。彼女らは兵士だからだ」と容認している。
■ラシード・リダー
(Muhammad Rashid Rida、1865年9月23日-1935年8月22日)は、「リダーの世代において最も影響力のある法学者」あるいは、「ムハンマド・アブドゥフの影響を最も受けた人物」と呼ばれるシリア出身のイスラーム法学者、ジャーナリストである。リダーは、今日のレバノン領であるトリポリ近郊の村・カラムーンで、サイイドの家系に生まれた。当時のシリアはオスマン帝国の統治下にあった。リダーは、初等教育においては伝統的なイスラーム教育を受けた。1884年から1885年にかけて、最初の旅行を敢行した。その際に、ジャマールッディーン・アフガーニーやムハンマド・アブドゥフの薫陶を受けた。
■ウム・クルスーム
1904年5月4日頃−1975年2月3日)は、エジプトの歌手兼音楽家である。アラブ世界の歌手たちのなかにあって、もっとも知名度が高く、また人々からもっとも愛された歌手の一人である。アラビア語で歌われたアルバムのなかで、彼女のアルバムは現在もなお、もっとも高い売れ行きを示している。カイロにおいては、クルスームは、ボヘミアン的ライフスタイルの誘惑を注意深く避け、実際、生涯にわたり、彼女は、貧しい自己の出自に対する誇りと、保守的(伝統的)価値の擁護に強調を置いた。クルスームはまた、厳しく自己を律して庶民的イメージを堅持し、このことが疑いもなく、彼女の魅力を何層倍にも高めた。
■サラマ・ムーサ
Salama Mousa, 1887年 - 1958年は1920年代のエジプトのジャーナリスト。科学と文化で多岐にわたる知識を持ったことで知られる。ムーサの著作は今でも読まれ続けている。ザガジグのコプト教徒の家に生まれた。1908年(21歳頃)、ムーサはヨーロッパに渡って文学、哲学、社会科学、自然科学を学び、以後もこれらについて研究を続けた。
■アリーファ・リファアト
Alifa Rifaat、1930年6月5日 - 1996年1月4日はエジプトの作家。ムスリムの女性の視点を生かした短篇小説を発表し、作品は英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語などに翻訳されている。リファアトは女性器切除問題や性交渉における充足、抑圧される感情など物議を醸す問題提起を行い、女性の人権に関する主張を提示し続けた。
■ムハンマド・ムルシー
Mohammed Mohammed Mursi Essa el Ayyat, 1951年8月20日 - )は、エジプトの学者、政治家。エジプト・アラブ共和国大統領(第5代)。同国初の文民大統領で、初のイスラム主義系の大統領である。初代自由と公正党党首。シャルキーヤ県アル=アドワ村の農家に生まれる。1975年にカイロ大学工学部を卒業後、1978年に同大学で工学修士、1982年に南カリフォルニア大学において工学博士を取得。
■アフマド・オラービー
1841年4月1日 - 1911年9月21日)は、エジプトの政治家、軍人、革命家。アラブ系エジプト人将校への差別待遇の改善を求めてオラービー革命を起こし、後にはエジプトの近代化をも目指した。さらに英仏に半植民地化される自国の運命を救おうとしたが、イギリスの武力侵攻を招き、敗戦してセイロン島へ流刑に処された。
■アブドルファッターフ・アッ=シーシー
Abdul Fatah Saeed Hussein Khalil Al-Sisi、1954年11月19日 - )は、エジプトの軍人。現国防大臣兼エジプト国軍総司令官。エジプト軍最高評議会議長。陸軍大将。元エジプト軍軍事偵察局長。日本語メディアではシシあるいはアッシーシと表記されている。
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