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チャド共和国
Republic of Chad

アフリカ

■古代
300万年前のものと思われるアウストラロピテクスの下顎骨の一部がエミクーシ山脈の南、多数のワジが交差するボルコウで発見されている。これは大地溝帯と並び、アフリカでも最も古い時代の化石である。アフリカの人間集団は大きく5種類に分けられると考えられている。4万年前から1万年前まではチャド付近が黒人とピグミーの生活圏の境界になっていた。


カネム・ボルヌ帝国
アフリカ内陸部歴史的スーダンの中央で700年頃から1376年に後のチャド及びリビア南部一帯を支配したカネム帝国及び1396年から1893年に後のニジェール東部一帯を支配したボルヌ帝国を併せて呼ぶ場合の呼称。カネムはテダ語及びダザガ語を話すトゥーブー系のザガワ人の移民が起源であり、彼らは乾燥と圧迫を逃れサブサハラと中東の交易路に面したチャド湖北東部へたどり着いた。

ソンガイ帝国
(Songhay、1464年−1590年)は、15世紀後半から16世紀にニジェール川湾曲部を中心に西スーダンのほぼ全域を事実上支配した黒人王国である。ソンガイ人の国家の起源はあきらかでないが、ニジェール川中流域北岸のクーキャ(クーガ)と呼ばれる町を中心に小王国を築いていた。アラブ人著述家アル・イドリーシーによると「人口が多く城壁に囲まれていた」という。


イドリス・アローマ
Idris Aloomaは、16世紀後半のカネム・ボルヌ帝国の皇帝(在位:1571年 - 1603年)。チャド湖南西岸のボルヌ地方だけとなっていた帝国領土をカネム地方に再び広げ、帝国の最盛期を現出した。イドリスはメッカに巡礼を行いハッジとなった際、火縄銃の威力を知り、オスマン帝国と通商関係を結んで鉄砲を入手し、鉄砲隊を組織して北のカネム地方や東のブララ人、北東のザガワ人、西のハウサ人を打ち破り、13世紀以降帝国の支配から外れていた帝国発祥の地・カネム地方を再征服して、チャド湖を取り囲む大帝国を築き上げた。


■地理
国土面積128万4千平方kmは世界で21番目で、ペルーよりやや小さく、南アフリカより大きい。国の大部分をチャド盆地が占める。地理区分として北部はサハラ砂漠、中部はサヘル、南部はサバナになる。西部のチャド湖は7千年前に33万平方kmもあった巨大な湖の名残で、現在も砂漠化により縮小している。チャリ川やラゴネ川が南部からチャド湖に注ぐ。国の最高地点は北部のティベスティ山地にあるエミ・コウシ火山 (標高3445m)である。


シャリ川
Chari River, Shari Riverともは、アフリカ中央部の中央アフリカ共和国などの国を流れる全長949kmの河川である。流域面積は548,747平方キロにおよび、チャド湖に流入する水の90%を提供している。主要な支流としてロゴーヌ川がある。

チャド湖
Lake Chadは、チャド、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンの4ヶ国にまたがるアフリカ大陸中央部の湖である。チャドの西部に位置し、ニジェール東北部との国境をなす。湖の中央部に4カ国の国境線が交差する。面積は大きいが、水深は浅い。最も深いところでも7mしかない。従って雨季と乾期での面積・水深の変化は大きく、特に面積は2倍もの差がある。

チャド湖
Lake Chadは、チャド、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンの4ヶ国にまたがるアフリカ大陸中央部の湖である。チャドの西部に位置し、ニジェール東北部との国境をなす。湖の中央部に4カ国の国境線が交差する。面積は大きいが、水深は浅い。最も深いところでも7mしかない。従って雨季と乾期での面積・水深の変化は大きく、特に面積は2倍もの差がある。

ボデレ低地
チャド中央部にある盆地。200km四方に広がっている。かつてはチャド湖ともつながる巨大な湖が存在していたが、サハラ砂漠全域の乾燥化とともに湖は干上がり、現在はガザール・ワジなど数本のワジが降雨時に姿を現し、ボデレに注ぎ込むのみである。それに伴い大量の砂が堆積するようになり、ほぼ全域が巨大な砂丘によって覆われるようになった。

ティベスティ山地
(Tibesti Massif)とはチャド北部、サハラ砂漠内に存在する山地[1]。 死火山。サハラ砂漠の最高地点のエミクーシ山(3415m)や、トゥシデ山(3315m)など複数の3000m級の高峰を持つ。

サハラ砂漠
サハラ砂漠はエジプト、チュニジア、リビア、アルジェリア、モロッコ、西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、チャド、スーダンに及ぶ。砂漠地形は風と季節雨が形成する。

フラニ族
北西はモーリタニアから東はカメルーンまで西アフリカの多くの国に分布する民族。居住地域は主にサヘル地帯に広がっている。


サヘル
(Sahel)とはサハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域である。主に西アフリカについて用いられるが、場合によりスーダンやアフリカの角の諸地域を含める事もある。現在サヘル地域に存在する国家は、セネガル、モーリタニア、マリ、ブルキナファソ、ニジェール、ナイジェリア、チャドなど。


ワジ
Wadi、とは、アフリカ大陸やアラビア半島の砂漠気候地帯や乾燥地帯の各地にある、流水のない「涸れ川」(かれがわ)。雨季の一時的な豪雨のときのみに水が流れる。年間をとおして降水量が蒸発量より少ない高温乾燥地域にみられ、本来川になるはずの地形が普段は干上がっており雨季の一時的な豪雨のときのみに水流が出現する。


ハルマッタン
(Harmattan)は、西アフリカで吹く貿易風である。熱風ではないが、きわめて乾燥しており湿気を奪う。また大量の0.5 - 10マイクロメートルのきわめて細かい砂塵を含んでおり、その砂塵は遠く北アメリカ大陸まで届く。


チャドの歴史
チャドの歴史を特徴付けるのは、約1000年間栄えたカネム・ボルヌ帝国である。アフリカ分割以降はフランス植民地帝国を構成するフランス領西アフリカとして、他の西アフリカ地域の大部分と併せて組み込まれてしまう。



■先史時代
300万年前のものと思われるアウストラロピテクスの下顎骨の一部がエミクーシ山脈の南、多数のワジが交差するボルコウで発見されている。これは大地溝帯と並び、アフリカでも最も古い時代の化石である。
■カネム・ボルヌ帝国
9世紀前半、チャド湖近くにカネム王国が興る。カネム王国は、12から13世紀にはイスラム教に改宗する。まず、13世紀前半に王位にあったマイ・ドゥナマ・ディバレミの治世下で版図が最大になった。帝国の基盤は交易にあった。交易路は文字通り東西南北に延び、サハラ交易路を押さえ、トリポリ、エジプトにまで達した。
■植民地時代と独立
1880年代に始まるアフリカ分割を控え、アフリカ大陸内陸部の探検が始まる。まずイギリス人のディクスン・デンハムとヒュー・クラッパートンが1822年にチャドに到達。ついで、トリポリから南下したドイツ人のハインリッヒ・バルトが1853年に周囲を含めて探査、1870年と1871年にはやはりトリポリからドイツ人のギュスタフ・ナハティガルがチャドを調べた。チャド探検の拠点はチャド湖南西部のクカワである。
■内戦
トンバルバイ大統領は、野党の結成禁止と反対派の粛清を行った。政権は、フランス統治時代と同様に南部への優遇を続け、フランス依存の国家経営を続けた。これにより、北部のイスラム勢力と南部との対立は激化する。


■経済
チャド湖に流れ込む河川地域を中心にひろがる農業に依存。主な農業生産物は綿花であり、石油生産が始まるまでは輸出の70%程度を占めていた。南部を中心にウシやラクダによる牧畜も行われており、それらから取れる肉、皮も輸出されている。2003年に、南部のドバ油田からカメルーンのクリビ港までのパイプライン1,070kmが完成。日量10万バーレルの石油生産が始まった。現在、チャドの輸出の8割は原油によって占められている。ドバ油田から上がる収益は監視委員会によって管理されている。また、ウラン鉱脈が発見されたが開発が遅れている。


ドバ油田
チャド南部に位置する油田のこと。エクソンモービル社が開発した油田。非常に有望な油田であり、既に200本を超える油井が掘られているという。輸送手段がネックとなり開発が停滞していたが、2003年、油田と隣国のカメルーンの都市、クリビ沖合の海域に建設された積み出し基地を結ぶ1,070kmに及ぶパイプラインが完成した。パイプラインの輸送能力は、1日あたり最大25万バレル、今後、10億バーレル以上の原油が出荷される計画。


■国民
住民は、スーダン系黒人が大半を占めており200以上の部族に分かれる。大きく分けると、北部・中部のムスリム中心の部族と南部の非ムスリム中心の部族に分けられる。アラブ系民族は人口の14%を占める。アラブ系部族、非アラブ系ムスリム部族、非ムスリム部族と、一見、隣国スーダンの国民構成と類似しているように見えるが、人口比率は大きく異なる。

■言語
言語は、フランス語、アラビア語が公用語である。その他、現地の言葉として南部のサラ語など120以上の言葉が使われている。

■宗教
宗教はイスラームが51%、キリスト教が35%、アニミズムが7%、その他が7%である。国土の大部分がイスラム教徒の多数派地域だが、人口は、南部の非イスラム教徒多数派地域に集中している。そのため、国全体での割合から見ればイスラム教徒の比率はそれほど高くは無い。


フェリックス・マルーム
(Felix Malloum Ngakoutou Bey-Ndi, 1932年 - 2009年6月12日)は、チャドの政治家、軍人。1975年から1979年までチャドの国家元首を務めた。チャド軍に入隊し、着々と階級を上げていった。後に軍ナンバー2である参謀総長(ナンバー1は最高司令官である大統領)にまでなるが、初代大統領フランソワ・トンバルバイにより投獄された。1975年4月13日に軍事クーデターが発生し、トンバルバイが殺害されると、マルームは軍によって救出された。このクーデターにより軍事政権として「最高軍事評議会」が樹立され、クーデター2日後の4月15日、マルームは軍の支持を受け、国家元首である最高軍事評議会議長、および首相に就任した。

グクーニ・ウェディ
(Goukouni Oueddei、1944年-)は、チャドの政治家。1979年の1ヶ月と、1979年から1982年までチャドの国家元首を務めた。現在、亡命中である。グクーニは1944年、チャド北部でテダ人のウェディ・キチデニの子として生まれた。1960年代に、彼は南部人の支配する政府に反発する北部人の反政府組織チャド民族解放戦線(FROLINAT)に参加し、反政府活動を始めた。1975年にフランソワ・トンバルバイ大統領が殺害されると、南部政府はフェリックス・マルーム大統領が継ぎ、フランスの支援を受けた。

イッセン・ハブレ
Hissene Habre、1942年 - は、チャドの軍人、政治家。同国元首(大統領)を務めた(在任1982年6月 - 1990年12月)。ハブレはチャド北部の出身。チャドは1960年の独立後、非イスラム主体の南部を基盤とするフランソワ・トンバルバイ政権が独裁を強化し、イスラム教徒の多い北部を冷遇していた。このため、早くから北部側ではグクーニ・ウェディ率いる反政府組織「チャド民族解放戦線(FROLINAT)」が組織され、ハブレも加わった。

イドリス・デビ
(Idriss Deby, 1952年- )は、チャドの政治家で大統領。愛国救済運動の党首。スーダンに亡命していた際、リビアなどの支援で反政府勢力「愛国救済運動」(MPS)を結成。1990年9月2日、首都のンジャメナを制圧し暫定大統領に就任(正式就任は12月4日)。1996年、2001年、2006年の大統領選で再選し現在3期目。本来であれば、デビの任期は現在4期目に相当するはずだが、1996年3月31日に現在の憲法が成立しているため、90年の当選は1期目とカウントされないとの立場を政府側はとっている。

フランソワ・トンバルバイ
(Francois Tombalbaye、のちにンガルタ・トンバルバイ Ngarta Tombalbayeに改名、1918年6月15日-1975年4月13日)は、チャドの政治家。チャドの初代大統領を務めた(在任1960年-1975年)。トンバルバイは1918年、チャド植民地南部のモワイエン・シャリ県のサラ人のキリスト教徒の家に生まれた。チャド進歩党がガブリエル・リゼットによって結党されるとこれに参加し、1959年5月にリゼットに代わってチャド進歩党の党首に就任。

イドリースィー
1099年/1100年?-1165年/1166年/1180年?は、中世に活躍したアラブ人の地図学者・地理学者でもあり、史上初めて正確な世界地図を作成した。ムラービト朝治世下にあったアフリカ北部のセウタ(現在はモロッコ内スペイン領の飛び地)で生まれ、コルドバで勉学に勤しみ、アンダルスや北アフリカの各地を旅した後にルッジェーロ2世統治時のシチリアに招かれた。彼の死地は生誕地でもあったセウタだと言われている。

チャド Chad
アフリカ中央部の国家。スーダン、中央アフリカ、カメルーン、ナイジェリア、ニジェール、リビアと国境を接する。首都はンジャメナ。住民は、スーダン系黒人が大半を占めており200以上の部族に分かれる。大きく分けると、北部・中部のムスリム中心の部族と南部の非ムスリム中心の部族に分けられる。

ンジャメナ
N'Djamenaは、チャドの首都。またシャリ=バギルミ州の州都でもある。人口は2009年現在99万3000人、チャドで最も人口の多い都市である。シャリ川の河港であり、市の中心的機能は第一に国内行政の中心としての政治的機能にある。また、付近の日用品の交易中心地でもあり、塩、ナツメヤシ、穀物が取引される。市の最も重要な産業は食肉加工である。

アベシェ
チャド東部に位置する都市。人口78191人(2008年)。チャド東部の中心都市である。かつてワダイ王国の首都だったが、1903年にフランスに征服された。首都ンジャメナやスーダンのエル・ファシールには道路が通じており、かつては交易の中心地だった。サヘル地帯に位置し、遊牧民と農耕民が混在する地域である。
スーダン国境からは150kmと近く、現在、隣接するスーダンのダルフール地方からの難民が大量に押し寄せ、それを支援する国連難民高等弁務官事務所やNGOなどの拠点となっている。


ンジャメナ国際空港
N'Djamena International Airportとは、チャド共和国の首都、ンジャメナにある国際空港。


外務省:チャド共和国
在カメルーン日本国大使館兼轄


ムンドゥ
Moundouは、チャドの都市。人口142,462人(2008年)。チャド南部、ロゴンヌ・オクシデンタル州の州都である。チャド第2の都市である。首都ンジャメナからはロゴンヌ川を400km南東にさかのぼった地点にある。穀物や綿花の集散地であり、綿工業や製油業がさかんである。

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サール
(Sarh)は、チャドの都市。人口108061人(2008年)。モイエン・シャリ州の州都。1973年まではフォールアルシャンボー(Fort Archambault)という名だった。首都ンジャメナとムンドゥに次ぐチャド第3の都市である。首都ンジャメナからシャリ川を南東に約550kmさかのぼった地点に位置する。

マオ
(Mao) は、チャドのカネム州の都市で、同州の州都。国内の他地方と同様、土着のスルタンと中央政府による二重統治が続いている。地方分権に向けた動きは、両者の関係の複雑さと度重なる緊迫化で遮られてきた。

バルダイ
チャド北部・サハラ砂漠のオアシスであり、ティベスティ州の州都。この地で1974年4月21日に考古学者・フランソワーズ・クロストルと2人の欧州人がチャド民族解放戦線のイッセン・ハブレが率いる部隊に拘束されたことで国際的な注目を集めた。

ファダ
Fadaはチャド北東部・エネディ州の州都であり、西エネディ県の県都も兼ねる[1]。人口は23,786人(2005年12月調査)。洞窟壁画と奇岩で知られる。また、砂漠地形のひとつGuelta d'Archeiやワジの河畔に生育する樹木でも知られている。


シャリ=バギルミ州
Chari-Baguirmi Regionは、チャドの州。チャドの22ある州のうちのひとつである。 州都はマッセニャ。シャリ=バギルミ州の南部から東部にかけての境界付近をシャリ川が北上している。州東部はロゴン川を国境としてカメルーンに面しており、その最北部付近、ロゴン川とシャリ川の合流地点に首都ンジャメナ市域が位置する。

ロゴン・オリエンタル州
(Logone Oriental Region)は、チャドの州。チャドの22ある州のうちのひとつである。人口440,342人(1993年)。 州都はドバ。 州の主産業は農業で、綿花栽培が主であるが、ドバ近郊において大油田が発見され、ドバ油田として操業を開始し、チャド経済の柱となっている。

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バル・エル=ガゼル州
(Barh El Gazel Region)は、チャドの州。2008年にカネム州よりバル・エル=ガゼル県を分離して設置された。州都はムソロ。州内には北バル・エル=ガゼル県と南バル・エル=ガゼル県の2つの県がある。

マンドゥル州
チャドの22ある州のうちのひとつである。州都はクムラ。2002年まではモワイエン=シャリ州に属する県であった。2009年の人口は637,086人。 州の主産業は綿花の栽培である。

ボルク州
2008年にボルク・エネディ・ティベスティ州よりボルク県が分離して設立された。州都はボルク・エネディ・ティベスティ州当時から州都だったファヤ・ラルジョー。チャド北部に位置し、州域のほとんどがサハラ砂漠である。

ラク州
(Lac Region)は、チャドの州。チャドに22ある州のうちのひとつである。州都はボル。2000年まではラク県(Lac Prefecture)と呼ばれていた。人口248,226人(1993年)、面積22,320km2。西をニジェールに接し、チャド湖の北岸及び東岸に広がる県である。

東マヨ・ケッビ州
(Mayo-Kebbi Est Region)は、チャドの州。東マヨケビ州とも書かれる。チャドの22ある州のうちのひとつである。州都はボンゴル。東マヨ・ケッビ州はチャドでもっとも農作物の生産量が高い州のひとつであり、チャドにおける穀倉地帯となっている。

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アオゾウ地帯
アオゾウ地帯(Aouzou Strip) は、チャド北部、リビアとの国境地帯。幅100kmの細長い地区である。リビアは、この地域に豊富なウラン鉱脈があるとして、1973年に侵攻した。これは当地域がオスマン帝国領民の移住地であることや1935年の批准はされなかったもののイタリアとフランスの協定に基づくものであることも主張していた。1976年にはリビアへの併合も宣言している。

国際連合アオゾウ帯監視団
United Nations Aouzou Strip Observer Group,UNASOG)はチャドのアオゾウ地帯に展開した国際連合平和維持活動。アオゾウ地帯はリビアとチャドの係争地帯であり、リビアが1973年に侵攻後、1987年まで占領していた。トヨタ戦争時のチャドの攻勢によりリビア軍は撃破され、停戦・和平に伴いアオゾウ地帯からほぼ撤退していた。

トヨタ戦争
Toyota Warは、チャド内戦の後期の戦闘である。1987年、北部チャド、リビアとの国境付近でチャド政府軍と反政府勢力、反政府勢力を支援するリビア軍の間で行われた。この戦争ではチャド政府軍と反政府勢力の両者が、トヨタ自動車のピックアップトラック(主にハイラックス)をテクニカルに改造・使用した。その車両の荷台後部に大きく表示された「TOYOTA」のロゴが目立ったため、「トヨタ戦争」と呼ばれるようになった。

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<アフリカ中央部の内陸国―アラブとアフリカの接点>
1.面積:128.4万平方キロメートル(日本の約3.4倍)
2.人口:約1150万人(2010年、世銀)
3.首都:ンジャメナ(N'Djamena)
4.民族:サラ族、チャド・アラブ族、マヨ・ケビ族、カネム・ボルヌ族、その他
5.言語:仏語、アラビア語(公用語)
6.宗教:イスラム教(54%)、カトリック(20%)、プロテスタント(14%)他

16世紀 ボルヌー王国
1910年 仏領赤道アフリカ・チャド州
1958年 共和国宣言
1960年8月 独立
1962年4月 トンバルバイ大統領が就任
1978年8月 マルーム大統領が就任
1979年11月 ウェディ大統領が就任
1982年10月 ハブレ大統領が就任
1990年12月 反政府軍による政変、ハブレ亡命
1991年3月 デビー大統領が就任
1996年3月 新憲法を国民投票で採択
1996年7月 大統領選挙(デビー大統領当選)
2001年5月 大統領選挙(デビー大統領再選)
2002年4月 国民議会選挙
2004年5月 憲法改正により、大統領再選回数制限を撤廃
2006年5月 デビー大統領3選
2011年4月 デビー大統領4選

■主要産業:農業(綿花)、牧畜業、原油
■主要貿易品(1)輸出 石油、畜産物、綿花(2010年)(2)輸入 石油関連、非石油関連、公共事業(2010年)


アフリカ統一機構
Organisation of African Unity, OAUは、かつて存在した国際組織。国連憲章と世界人権宣言を尊重し、アフリカ諸国の統一と連帯を促進し、人民の生活向上のための相互協力・調整、国家の主権と領土を守り、独立の擁護、新植民地主義 (Neocolonialism) と闘うことが目的。1963年5月25日発足。2002年7月9日にアフリカ連合へ発展した。

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愛国救済運動
Patriotic Salvation Movementは、チャドの政党。リビアの経済的支援により、イドリス・デビを指導者としてスーダンで結成。1990年9月の蜂起でチャドにおける政権獲得 。以来、与党としてチャドを支配している。

民主進歩連合
Rally for Democracy and Progress)は、チャドの政党。党首はロル・マハマト・チョウワ元大統領。1991年12月にチョウワを中心に結成され、1992年3月、野党としては最初に合法化された。2002年チャド議会総選挙(英語版)には、与党愛国救済運動と選挙連合を組み、155議席中12議席を獲得した。

トランスペアレンシー・インターナショナル
(Transparency International, 略称:TI)は、腐敗、特に汚職に対して取り組む国際的な非政府組織である。世界中の腐敗をリスト化した「腐敗認識指数」(Corruption Perceptions Index) を毎年発表していることで知られる。本部所在地はドイツ・ベルリン。トランスペアレンシーとは「透明性」の意。


 

 

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