human
↓ページの最後へ

カメルーン共和国
Republic of Cameroon

アフリカ

■地理
海岸平野はギニア湾から15km-150kmまで広がり、森林で覆われ、平均標高は90m、非常に暑く、世界で最も湿度が高い所がある。南部カメルーン高地は熱帯降雨林で覆われるが、乾季と雨季が海岸平野より区別されるため湿度はやや低い。平均標高は650m。カメルーン山脈は最高峰のカメルーン山のある海岸から北部で国を東西に横断する形で連なる。気候は、とくに西部高地は温暖で雨が多く、土地は肥沃である。

中部アフリカ
アフリカ大陸を5つの地域に分けた場合の1地域を指す用語である。赤道付近の南北に位置することから、赤道アフリカと呼ばれることもある。まず、アフリカは、文化圏および人種の違いからサハラ砂漠の南北で大きく2つに分けられるが、中部アフリカは、南側のブラック・アフリカ(サブ・サハラ・アフリカ)に入る。そのうちの、ニジェール川流域より東側(おおよそ西経10度以東)、タンザニア西部地域に南北に走る大地溝帯よりも西側(おおよそ西経30度以西)、そしておおよそ南緯10度以北の範囲が、中部アフリカと呼ばれる。


ギニア湾
(Gulf of Guinea)は西アフリカ中央部にある大湾。ニジェール川、ヴォルタ川、コンゴ川などが注ぎ、湾内に緯度0度、経度0度の交差点がある。沿岸部ではかつて、ヨーロッパとの貿易商により奴隷・金・象牙・穀物などが取り引きされた。1980年代に石油資源が発見され、以後盛んに開発が行なわれている。

バカシ半島
バカシ半島領有権問題は、カメルーン=ナイジェリア国境最南部に位置するバカシ半島の領有権をめぐる紛争のこと。1963年の米軍地図Douala[1]のバカシ付近1993年にナイジェリアが派兵し南部を占領したことで両国間の紛争となった。1996年にもカメルーンの警察部隊とナイジェリアの陸軍部隊が半島内で衝突、両国間の緊張が高まった。問題の発端は、ギニア湾に突き出すバカシ半島の沖合に、有力な油田の存在が想定されていることにある。

アダマワ高地
(Adamawa Plateau)は、アフリカ大陸中部、ナイジェリア南東部のアダマワ州からカメルーン北中部のアダマワ州や北部州にかけて広がる高原。この高原は、19世紀のフラニのジハードの際、この地域のフラニ人のリーダーであったモディボ・アダマが地名の由来となっている。

サナガ川
(Sanaga River)は、カメルーンの河川。全長890km。カメルーン国内のみを流れる河川としては、もっとも長い河川である。サナガ川の源流はアダマワ高地に端を発し、国土の中央部に位置するムバカウ湖に流入した後、湖の南端から南へと流れ出す。その後西へと向きを変え、アダマワ州から東部州、中央州を流れる。

ベヌエ川
Benue Riverは、ギニア湾に注ぐニジェール川の最大の支流。全長約1370kmにわたり、雨季である夏季中の航行が可能。そのため、流域の重要な交通路となっている。チャド現地語で水の母という意味がある。ドイツ人のアフリカ探検家であるエドゥアルト・フレーゲルが1882年9月にアダマワ (Adoumaoua) 高原の南部、カメルーン北部のヌガウンデレ (Ngaoundere) の北に源流を発見した。源流の位置は、北緯7度30分、東経13度である。

チャド湖
Lake Chadは、チャド、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンの4ヶ国にまたがるアフリカ大陸中央部の湖である。現在、灌漑・気候変動により面積が10%以下まで激減しており、問題になっている。チャドの西部に位置し、ニジェール東北部との国境をなす。湖の中央部に4カ国の国境線が交差する。面積は大きいが、水深は浅い。最も深いところでも7mしかない。従って雨季と乾期での面積・水深の変化は大きく、特に面積は2倍もの差がある。

ニオス湖
Lake Nyosはカメルーンの北西州に所在する火口湖である。カメルーン火山列上の休火山であるオク山の頂上に位置する。湖底の地下にはマグマ溜まりがあり、湖水中に二酸化炭素 (CO2) を放出している。このような形で二酸化炭素を含有する湖は、ニオス湖のほかには、同じくカメルーンのマヌーン湖とルワンダのキブ湖の2例しかない。

カメルーン山
Mount Cameroonは、カメルーンの活火山である。カメルーン山の他に2つの頂の名前から取ったファコ、「偉大な山」の意味のモンゴ・マ・ンデミ(Mongo ma Ndemi)の名でも呼ばれる。カメルーン火山列に位置し、1986年の災害で知られるニオス湖もこの山の近くにある。カメルーン山は最近では1999年3月28日と2000年5月28日に噴火している。カメルーン山の高さは一般には4095mと考えられているが、SRTMの計測などでは4070mという値が出されている。

ニオス湖
Lake Nyosはカメルーンの北西州に所在する火口湖である。カメルーン火山列上の休火山であるオク山の頂上に位置する。座標は北緯6度26分24秒東経10度18分0秒。火山岩が形成した天然ダムが湖水を堰きとめている。湖底の地下にはマグマ溜まりがあり、湖水中に二酸化炭素 (CO2) を放出している。このような形で二酸化炭素を含有する湖は、ニオス湖のほかには、同じくカメルーンのマヌーン湖とルワンダのキブ湖の2例しかない。1986年8月21日、湖水爆発を起こしたニオス湖から大規模な二酸化炭素の雲が発生し、近隣の村落の住民1,800人および家畜3,500頭が犠牲となった。


カメルーン火山列
Cameroon line)は、ナイジェリア東部とカメルーン西部との間に発達した火山の並びである。カメルーン火山列はドイツのSiegfried Passargeによって1909年に発見され、定義されている。カメルーン火山列はギニア湾に近いカメルーン山から北のチャド湖に向かって引かれている玄武岩の火山列であり、ムベレ地溝帯もこれに含まれる。


<歴史>
■カメルーン内の遺跡からたどれる歴史
約8000年前まで遡ることができる。カメルーンの先住民はピグミーのバカ族である。バントゥー語族はカメルーン高地に起源をもつが、侵入者が現れる前に他地域へ移動してしまった。

■1806年
イスラーム系王国の支配下におかれた。1870年代になると、ドイツ帝国がヨーロッパ内の強国となり、アフリカ分割を背景に沿岸部の都市ドゥアラを中心に入植が始まり、1884年にはドイツ保護領カメルーン(en:Kamerun)が成立した(ドイツ植民地帝国)。

■アフリカの年でもある1960年
フランス領カメルーンが独立した。大統領は北部出身のイスラーム教徒アマドゥ・アヒジョである。

■1922年
西部がイギリスの「西カメルーン」、東部がフランスの「東カメルーン」として委任統治領となる。

■1961年
北部がナイジェリアと合併、南部はカメルーンとの連邦制となった。

■1972年

連邦制を廃止し、国名をカメルーン連合共和国に変更した。アヒジョ大統領は1965年、1970年、1975年、1980年の大統領選挙で再選されたが、彼のカメルーン人民民主連合の一党支配が嫌われ、1981年に政党を合法化、1982年には辞任した。南部出身の現大統領ポール・ビヤは就任後、何度も選挙に勝ち残ったが、選挙自体の公正さに疑問もある。

■1984年
国名を現在のカメルーン共和国に変更した。


ピグミー
人類学上、ピグミーとは特に身長の低い(平均1.5メートル未満)特徴を持つ、赤道付近の熱帯雨林に住む狩猟採集民であるとされてきた。ピグミーは中央アフリカ全体の熱帯雨林を生活拠点としている。またフランスの人類学者カトルファジュは東南アジアのネグリトとの関係を議論し、両者を南インドを起源とする一つの人種であると捉えたが、現在これは否定されている。

バカ・ピグミー
カメルーン南東部の熱帯雨林、コンゴ北部、ガボン北部、中央アフリカ共和国南東部に住むピグミーの民族グループである。トワ・ピグミーの下位グループであるとしばしば誤解されるが、両者の間に密接な関係はない。同様にカメルーンの2から9の認められたピグミーの集団に誤用される。平均身長は1.5m。

ドゥル族
西部アフリカのカメルーン北部に住む農耕民族である。ドゥル族は焼畑農業で暮らしている。サバンナの草と木を切り開いて焼き払い、そこに作物を植えつける。作物はモロコシやトウモロコシなどの雑穀類、ヤムイモ、マニオクなどのイモ類、豆やウリなどをよく作る。

ファン人
(Fang)は、アフリカの民族。ベティ人のサブグループであり、赤道ギニア大陸部(リオ・ムニ)、ガボン北部、カメルーン南部に主に居住する。コンゴ共和国やサントメ・プリンシペにも少数が居住する。言語はファン語を話す。


カネム・ボルヌ帝国
Royaume du Kanem-Bornouはアフリカ内陸部歴史的スーダンの中央で700年頃から1376年に後のチャド及びリビア南部一帯を支配したカネム帝国及び1396年から1893年に後のニジェール東部一帯を支配したボルヌ帝国を併せて呼ぶ場合の呼称。


■民族
住民は、南部と西部はバンツー系のファン族、バミレケ族、バカ族、北部はスーダン系のドゥル族、フラニ族などに分かれる。民族集団は275以上に分かれている。


■言語
言語は、公用語がフランス語と英語である。他にファン語、フラニ語などが使われている。英語は旧イギリス領カメルーンの領域であった北西州と南西州で使われる。ドゥアラ、首都ヤウンデを含むその他、多くの地域はフランス語である。公用語であるフランス語と英語のバイリンガルの住民は少ない。

ファン語
ファン族によって話されている言語である。カメルーン南部で話されている言語であるブル語、エウォンド語とは言語学分類的に関係がある。ファン語はガボン北部、カメルーン南部、赤道ギニアで話されている。

フラニ語
西アフリカのセネガンビア・ギニアからカメルーン・スーダンにかけて分布する (フラ人またはフラニ人)の言語である。フラニ語には多数の方言があるが、すべてを包括して単一言語と看做されている。

バントゥー系民族
Bantu peoples)は、アフリカ言語の大カテゴリであるバントゥー語群に属する多様な言語を使用しつつ1つの大きな言語集団を成す多くの民族の総称である。この語は、現在のカメルーンから中央アフリカと東アフリカを横切り南アフリカまでのブラックアフリカに分布する、400以上の民族(140 - 600以上の言語)に対する一般的分類として用いられている。

■宗教
宗教は、現地固有の宗教が40%(主に南部)、キリスト教が40%(主に南部)、イスラム教が20%(主に北部)である。

バハーイー教
19世紀半ばにイランでバハーウッラーが創始した一神教である。
イランでは初期から布教を禁止され、バハーウッラーと信者はイランからイラク、トルコを経て、当時オスマン帝国の牢獄の町であったアッカ(現イスラエル領)へと追放され、投獄生活ののち放免され、そこで一生を終えたため、今日ではイスラエルのハイファにあるカルメル山に本部を持つ。

アニミズム
animism)は、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。19世紀後半、イギリスの人類学者、E・B・タイラーが著書『原始文化』(1871年)の中で使用し定着させた。タイラーはアニミズムを「霊的存在への信仰」とし、宗教的なるものの最小限の定義とした。彼によれば諸民族の神観念は人格を投影したものという(擬人化、擬人観、エウヘメリズム)。

キリスト教
Christianity)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントなど)は「父と子と聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。

イスラム教
正式名をイスラームという。 稀にイスラーム教とよばれることもある。イスラム教とは、唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ)を信仰し、神が最後の預言者たるムハンマド(預言者)を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。


<世界遺産>
ジャー・フォナル自然保護区
ジャー動物保護区は、カメルーンにある自然保護区。首都ヤウンデの東南約70kmにあたる。東西90km、南北40km、面積5260km2に及ぶ。全体の約8割が人口の希薄な東部州、約2割が都市化が進んだ南部州に属する。領域全体がジャー川の本流、支流に取り囲まれている。バカ族のみ居住を認められている。1500種の植物(うち43種が林冠を形成、53種が低木)と107種の哺乳類(うち5種は絶滅危惧種)が確認されている。特にサル目の哺乳類が豊かである。ニシローランドゴリラ、マンドリル、コロブスやタラポイン、マンガベイなどの各種のオナガザル、ガラゴやポト等のロリスが生息している。その他の哺乳類としては、ヒョウ、シタツンガやボンゴ等のアンテロープ、アフリカスイギュウ、イボイノシシ、モリイノシシ、変わった体表を備えるセンザンコウが見られる。哺乳類以外では、ニシキヘビ、ワニが住む。


カメルーンフィールドステーション
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科では、21世紀COE「世界を先導する総合的地域研究拠点の形成」の活動の一環として、カメルーン・フィールド・ステーションを運用し、研究活動や現地の状況に関するさまざまな情報を提供しています。


カムレール
カムレール(Camrail)は、カメルーンの鉄道会社。旧カメルーン国鉄であり、カメルーン国内のすべての鉄道路線を運営する。本社はドゥアラにある。全線非電化単線で、軌間は1000mmである。1999年に民営化が行われ、フランスのボロレ社の支援を受けるコマザール社が運営権を獲得した。路線はカメルーン最大都市であるドゥアラを基点としており、ドゥアラから首都ヤウンデまでの中央線、ヤウンデから北部のンガウンデレまで延びる北線を総称してトランスカメルーン鉄道と呼び、カムレールの幹線となっている。中央線のオテレからムバルマヨまで短い支線がある。また、ドゥアラから北のクンバへと延びる路線を西線と呼ぶ。


■経済
主な輸出用の農産物は北部の綿花、南西部のコーヒーとカカオである。南部は熱帯雨林であるため、農業に適さない。耕地はベヌエ川北部に集中している。主食となるバナナ、イモ、モロコシなどはほぼ自給できている。家畜放牧は全土で見られる。漁業には5,000人ほどが従事し、年間2万トンの漁獲量がある。国土の37%を占める南部熱帯雨林は木材の供給源だが、大部分の土地は入るのが困難である。石油以外の鉱業資源には恵まれておらず、わずかな量の石炭、金、スズが見られるだけである。エネルギーの大部分は水力発電により、残りは石油である。


西アフリカ諸国経済共同体
Economic Community of West African States、は、1975年のラゴス条約に基づき設立された経済共同体。略称は英語でECOWAS、仏語ではCEDEAO。関税障壁の撤廃や貿易振興などを通じた経済協力、独立の保障などを通じて、加盟国の経済・生活水準向上や政治的安定を図ることを目的とする。

南部アフリカ開発共同体
Southern African Development Community、略:SADC)とは、南部アフリカ開発調整会議を改組し1992年に設立された地域機関。ボツワナの首都のハボローネに事務局を置き、加盟国間の経済統合や域内安全保障を目指している。


プランテーション
(plantation) とは、大規模工場生産の方式を取り入れて、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、先住民や黒人奴隷などの安価な労働力を使って単一作物を大量に栽培する大規模農園のことである。経営主体は、国営、企業、民間など様々である。経営する側をプランターと呼ぶ場合もある。この「安価な労働力」は、かつては植民地の原住民あるいは奴隷であり、現在は発展途上国の農民であったり、土地自体が先住民から奪われて経営者に売られていたりなどするため、労働者の人権が問題とされることがある。また水質汚染・森林破壊・農薬問題などの環境破壊が問題とされることも多い。


カカオ
Theobroma cacao)は、アオイ科(クロンキスト体系や新エングラー体系ではアオギリ科)の常緑樹である。カカオノキ、ココアノキとも呼ばれる。中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とする。 収穫期は産地によって異なるが、概ね年2回で乾期と雨期に行われ、収穫された果実は果皮を除いて一週間ほど発酵させ、取り出されたカカオ豆は、ココアやチョコレートの原料とされる。

バナナ
学名 Musa spp. )はバショウ科バショウ属のうち、果実を食用とする品種群の総称。また、その果実のこと。いくつかの原種から育種された多年草である。2009年の全世界での年間生産量は生食用バナナが9581万トン、料理用バナナが3581万トンで、総計では13262万トンにのぼる。アジアやラテンアメリカの熱帯域で大規模に栽培されているほか、東アフリカや中央アフリカでは主食として小規模ながら広く栽培が行われている。


■交通
道路は1割のみの舗装で、悪天候も重なり、国内輸送を困難にしている。また、各地で警官等による旅行者への賄賂要求や強盗が発生し問題である。カムレール社の運営する鉄道がドゥアラ港を起点に北のクンバや西のヤウンデ、ンガウンデレを結んでいる。国際空港はドゥアラとガルアにあり、ヤウンデの規模はやや小さい。


ジャン=アラン・ブームソン
(Jean-Alain Boumsong Somkong, 1979年12月14日 - )はカメルーン出身のフランス代表のサッカー選手。ポジションはディフェンダー。ル・アーヴルAC、AJオセールの2チームを経てイギリスへと渡った。後にカルチョ・スキャンダルでセリエBに降格したユヴェントスの守備の要として活躍、チームの優勝とセリエA昇格に貢献する。

ピエール・ヌジャンカ
(Pierre Njanaka Beaka、1975年3月15日 - )は、カメルーン出身のサッカー選手。DF。1998年ワールドカップ・フランス大会直前のテストマッチでカメルーン代表デビューを果たすと、本大会ではグループリーグ3試合すべてに先発フル出場。初戦のオーストリア代表戦では、ハーフウェーライン辺りからのドリブル突破によるゴールを決め、鮮烈な印象を残した。

ピエール・ウォメ
(Pierre Nlend Wome、1979年3月26日 - )は、カメルーン出身の元同国代表、のサッカー選手。ポジションは左サイドバック、または左サイドハーフ。カメルーン代表で60試合以上のキャップ数を誇るベテランで、若いカメルーン代表選手の兄貴分的な存在である。ブラック・アフリカン特有の躍動感溢れるドリブル、脅威的な跳躍力が魅力だが荒っぽい守備で警告を受ける事も度々ある。

エリック・ジェンバ=ジェンバ
(Eric Daniel Djemba-Djemba, 1981年5月4日 - )はカメルーン出身のサッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。21歳の若さで2002 FIFAワールドカップに出場したカメルーン代表ミッドフィールダー。アフリカ人らしく運動量豊富で、なおかつ技術も高い。2003年FIFAコンフェデレーションズカップでは準優勝を経験した。

アレクサンドル・ソング
(Alexandre Dimitri Song Billong, 1987年9月9日 - )はカメルーン・ドゥアラ出身のサッカー選手。ポジションはMF。優れたボディバランスと卓越したボール奪取能力、さらには成長したパスの能力でエヴァートン戦、リヴァプール戦でのファンペルシーのビューティフルゴールを演出するなどセスクの穴を埋める活躍を見せ、替えの効かない選手、ワールドクラスの選手として成長。

リゴベール・ソング
(Rigobert Song Bahanag、1976年7月1日 - )は、カメルーン出身のサッカー選手。カメルーン代表のキープレイヤーとして10年以上プレイし、1994年USA大会、1998年フランス大会、2002年日韓大会の3度のワールドカップに出場した。キャップ数は100以上を数え、カメルーン代表の最多試合出場選手となっている。

ジョゼフ・ベサラ
(Joseph Bessala、1941年1月1日 - 2010年4月24日)は、カメルーンの元ボクサー。ドゥアラ出身。1965年、コンゴ共和国のブラザヴィルで行われたアフリカ競技大会で優勝した。また1966年にナイジェリアのラゴス、1968年にザンビアのルサカで行われたアフリカ選手権のウェルター級でも共に優勝した。1968年に行われたメキシコシティオリンピックでは決勝で東ドイツのマンフレート・ヴォルケに敗れて銀メダルを獲得した。

トーマス・ヌコノ
(Thomas N'kono, 1955年7月20日 - )はカメルーン出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはGK。1982年のスペインW杯と1990年のイタリアW杯で旋風を巻き起こし不屈のライオンと讃えられたカメルーン代表の正GK。クラブでは1982年にRCDエスパニョールに移籍すると1987-88シーズンにはUEFAカップ準優勝に導くなどして実力、人気共にサポーターの支持を得て8年間に渡り同クラブのゴールマウスを守った。

マルク=ヴィヴィアン・フォエ
(Marc-Vivien Foe, 1975年5月1日 - 2003年6月26日)は、カメルーン出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。フォエのプロとしてのキャリアは、カメルーンリーグのキャノン・ヤウンデから始まった。1994年のワールドカップ・アメリカ大会にカメルーン代表として出場し世界に存在をアピールしたフォエは、フランスリーグ・ディヴィジョン1のRCランスへ移籍し、1998年にはリーグ優勝を経験している。

ロジェ・ミラ
(Roger Milla, 本名Albert Roger Mooh Miller, 1952年5月20日 - )は、カメルーン・ヤウンデ出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはFW。幼少時は鉄道員である父に連れられ、頻繁に転居。13歳の時、カメルーンのドゥアラにあるクラブと契約し、プロサッカー選手としてスタートを踏んだ。18歳の時、別のドゥアラのクラブで初めてのリーグ制覇を成し遂げた。

パトリック・エムボマ
Henri Patrick Mboma Dem, 1970年11月15日 - は、カメルーン出身の元同国代表サッカー選手。パリのスタード・ドゥレストでキャリアをスタート、後にパリ・サンジェルマンに移籍。1993-94シーズンには3部リーグのシャトールーに貸し出され、ここでは29試合出場17得点と活躍。

1998-99シーズンからは再びヨーロッパに舞台を移し、イタリア・セリエAのカリアリやパルマ、イングランド・プレミアリーグのサンダーランドでもプレイするが、個人能力の高さがあだとなったか、イタリアでは戦術になじめず、その影響からかイングランドでもついに本領を発揮することはできなかった。

しかし、カメルーン代表としては着々とキャリアを積み、2000年にはシドニーオリンピックにオーバーエイジで出場し金メダルに導く、またアフリカ年間最優秀選手賞も受賞。代表の兄貴分として、サミュエル・エトオをはじめ選手にも慕われた。

 

ジョゼフ・ベサラ
ジョゼフ・ベサラ(Joseph Bessala、1941年1月1日 - 2010年4月24日)は、カメルーンの元ボクサー。ドゥアラ出身。1965年、コンゴ共和国のブラザヴィルで行われたアフリカ競技大会で優勝した。また1966年にナイジェリアのラゴス、1968年にザンビアのルサカで行われたアフリカ選手権のウェルター級でも共に優勝した。1968年に行われたメキシコシティオリンピックでは決勝で東ドイツのマンフレート・ヴォルケに敗れて銀メダルを獲得した。

アマドゥ・アヒジョ
Ahmadou Babatoura Ahidjo、1924年8月24日 - 1989年11月30日は、カメルーン共和国の政治家。同国の初代大統領。1924年、現在のカメルーン北部州ガルアに生まれた(当時はフランスの委任統治領東カメルーン)。

1940年代に政治の世界に入り、1960年にカメルーンが独立すると初代大統領に選ばれ、当時イギリスの信託統治領であった西カメルーンに対して加わるよう呼びかけた。その後、1965年、1970年、1975年、1980年の選挙でも勝利し、徐々に自らの政党による完全な一党支配を築き上げた。

イドリス・カルロス・カメニ
Idriss Carlos Kameni, 1984年2月18日 - は、カメルーン・ドゥアラ出身のサッカー選手。リーガ・エスパニョーラ・マラガCF所属。ポジションはGK。15歳だった1999年にはナイジェリアで行われたFIFAワールドユース選手権に出場し、U-21日本代表などと同居したグループリーグで敗退したが、カメニ自身は活躍してその名を世界に知らしめた。2000年に16歳ながらシドニーオリンピックに出場して優勝し、史上最年少で金メダルを獲得したサッカー選手となった。

リゴベール・ソング
(Rigobert Song Bahanag、1976年7月1日 - )は、カメルーン出身のサッカー選手。カメルーン代表のキープレイヤーとして10年以上プレイし、1994年USA大会、1998年フランス大会、2002年日韓大会の3度のワールドカップに出場した。キャップ数は100以上を数え、カメルーン代表の最多試合出場選手となっている。

カメルーン共和国 Cameroon
中部アフリカに位置する共和制国家。西にナイジェリア、北東にチャド、東に中央アフリカ共和国、南東にコンゴ共和国、南にガボン、南西に赤道ギニアに隣接し、南西部が大西洋のギニア湾に面する。首都はヤウンデ。

カメルーン内の遺跡からたどれる歴史は約8000年前まで遡ることができる。カメルーンの先住民はピグミーのバカ族である。バントゥー語族はカメルーン高地に起源をもつが、侵入者が現れる前に他地域へ移動してしまった。

ヤウンデ
ヤウンデ(Yaounde)はカメルーンの行政上の首都。中央州の州都。政治・行政の中心地。人口1,430,000人(2004年)で、ドゥアラにつぐカメルーン第2の都市。標高700mを越える高原にあり、赤道近くとはいえ涼しく、また湿気が少なく過ごしやすい、いくつもの丘に囲まれた町である。商業上の首都と言えるドゥアラまでは約300kmある。

ドゥアラ
Doualaはカメルーン共和国最大の都市でリトラル州の州都。大西洋のギニア湾に面し北西には4070mのカメルーン山が聳えている。人口約1,600,000人(1991年)で、減少する傾向にある。商業上もっとも重要な都市である。空港(ドゥアラ国際空港)や港もあり、運輸上の中心であるとともにチャドからの輸送の中継地でもある。首都のヤウンデとは道路と鉄道で結ばれている。ウーリ川にかかるボナベリ橋によって市内は二つに大きく分かれる。


ドゥアラ国際空港
Douala International Airportは、カメルーン共和国最大の都市ドゥアラにある国際空港。

ヤウンデ・ンシマレン国際空港
Aeroport international de Yaounde-Nsimalenは、カメルーンのヤウンデにある国際空港。カメルーン中央州の、ヤウンデ南方にあるンシマレンの近くに位置している。

pagetop


ヤウンデ第一大学
Universite de Yaounde Iはカメルーンのヤウンデにある国立大学。1993年にヤウンデ大学がヤウンデ第一大学と、ヤウンデ第二大学に分割されることにより創設された。キャンパスはンゴア=エケレ地区(Ngoa-Ekelle)にある。

ドゥアラ大学
Universite de Douala)は、カメルーンのドゥアラにある国立大学。1977年に創設された高等商業経済学校(Ecole Superieure des Sciences Economiques et Commerciales)と工科師範学校(Ecole Normale d'Enseignement Technique)が1993年に統合編成されてドゥアラ大学となった。学生数約45,000人、教員数約600人。

ジャング大学
Universite de Dschangは、カメルーン西部州のジャングにある国立大学。旧ジャング大学センター(Centre Universitaire de Dschang)およびフォツォ・ヴィクトル・ドゥ・バンジュン多科学校(College Polyvalent Fotso Victor de Bandjoun)の設備を引きついて、1993年に設立再編された。

モンターニュ大学
(Universite des Montagnes)は、カメルーンのバンガンテにある非営利の私立大学。2000年に創立。健康科学部(医学科、薬学科、歯学科、看護学科、獣医学科)、理工学部(コンピュータ科学・ネットワークマネジメント科、ネットワークマネジメント・遠距離通信科、医療機器科)がある。


南カメルーン連邦共和国
Federal Republic of Southern Cameroonsは、カメルーンに属する領域のうち北西州と南西州を合わせた地域において展開されているカメルーンからの分離独立運動において、当該地域の独立を主張する政府が自称している国名。

pagetop



外務省:カメルーン共和国
在カメルーン日本国大使館


ンコングサンバ
(Nkongsamba)は、カメルーン南部の都市。リトラル州に属し、州都ドゥアラから北に105km、バンブトス山地の南斜面の標高880mの地点に位置する。人口115,000(2001年)。パームオイル、バナナ及びコーヒーの集散地であり、トランスカメルーン鉄道西部線がドゥアラ港まで連絡している。

ブエア
(Buea)は、カメルーン南西部の都市。南西州 (カメルーン) の州都である。人口57000人。カメルーン山の東斜面、標高870mに位置する。標高が高いため過ごしやすい気候であり、そのためこの地方に入植したヨーロッパ人の開発拠点となった。茶の栽培・加工がさかんである。

バメンダ
(Bamenda) は、カメルーン西部の都市。北西州の州都である。人口446,000人。首都ヤウンデから北西に336km離れた、バンブドス山地の山中、標高1615mの高原にある。ヤウンデ及びドゥアラには道路が通じている。バメンダは19世紀にドイツ領カメルーンに併合され、第一次世界大戦後はイギリス領カメルーンに編入された。1949年に英領カメルーンが南北に分割されると南カメルーンに属し、1961年にはカメルーンに編入された。

pagetop

マルア
(Maroua)は、カメルーンの都市。極北州 (カメルーン)の州都である。人口299960人(2001年)。カメルーン最北の都市であり、チャドの首都ンジャメナやナイジェリアのマイドゥグリ、南のガルアへと道路が通じる。この地方は綿花栽培が盛んであり、マルアは綿花の集散地となっている。

バフーサム
(Bafoussam)は、カメルーンの都市。カメルーン西部、バンブトス山地に位置し、西部州 (カメルーン)の州都である。人口242000人(2001年)。バフーサムは商業民族としてカメルーン国内に商圏を広げるバミレケ人の中心都市でもあり、バミレケの王宮もある。バフーサムはバレング、フサップ、バムーゴムの3つの首長領を中心に発展してきた。

ヌガウンデレ
カメルーンの中部アダマワ州の州都である。アダマワ高原にあり、交通の要衝である。この都市を終点として、1974年に首都ヤウンデ(Yaounde)、更に起点のカメルーン最大の都市ドゥアラ(Douala)へトランスカメルーン鉄道が結ばれている。

ベルトゥア
(Bertoua)は、カメルーンの都市。東部州 (カメルーン)の州都である。人口173,000人(2001年)。標高717m。首都ヤウンデから東に350kmの地点に位置し、ヤウンデと中央アフリカ共和国のブアルとを結ぶ幹線道路が通っている。空港もある。

ガルア
(Garoua)は、カメルーン北部の都市。北部州 (カメルーン)の州都である。人口490000人(2001年)。アダマワ高原に位置する。ベヌエ川に面した重要な河港(7月〜9月に利用可能)を持ち、ナイジェリアと連絡している。

pagetop

バメンダ
Bamendaは、カメルーン西部の都市。北西州の州都である。人口446,000人。首都ヤウンデから北西に336km離れた、バンブドス山地の山中、標高1615mの高原にある。ヤウンデ及びドゥアラには道路が通じている。バメンダは19世紀にドイツ領カメルーンに併合され、第一次世界大戦後はイギリス領カメルーンに編入された。

エボロワ
Ebolowa、は、カメルーン共和国南部の南部州にある都市で、同州の州都。2001年の推計人口は79,500人。エボロワはカメルーンの植民地時代に形成された都市である。農業の中心都市として名高く、ココアが主作物となっている。

pagetop

ブエア
(Buea)は、カメルーン南西部の都市。南西州 (カメルーン) の州都である。人口57000人。カメルーン山の東斜面、標高870mに位置する。標高が高いため過ごしやすい気候であり、そのためこの地方に入植したヨーロッパ人の開発拠点となった。茶の栽培・加工がさかんである。

クリビ
(Kribi)は、カメルーンの都市。ギニア湾に面する港湾都市である。人口60000人。南部州 (カメルーン)に属する。クリビはキエンケ河口にあるが天然の港は無く、ケープサイズのタンカーも着岸できる港は40km離れたグランド・バタンガに位置する。沖合2kmの水深20mにあり、500km内陸で産出される鉄鉱石が積出される。

エデア
Edea)は、カメルーンの都市。人口122,300人(2001年)。リトラル州に属し、サナガ川沿いに位置する。カメルーン鉄道によって、内陸の首都ヤウンデや海港ドゥアラと連絡している。エデア近郊のサナガ川にはダムが建設されており、そこの水力発電所で発電された電力を利用するため、アルミニウムの精錬工場を始め、鉄鋼や製材などの工場が建設されている。

リンベ
(Limbe)は、カメルーンの都市。南西州(カメルーン)に属する。ギニア湾に面する港湾都市である。人口84,500人。1858年に建設され、1982年まではヴィクトリア(Victoria)という名だった。リンベはカメルーンの石油産業の中心地であり、沖合いの海底油田で産出された石油の製油所がある。また、カメルーン開発公社の本社もリンベに存在し、近郊のプランテーションの経営を行っている。

メヨメサラ
(Meyomessala)は、カメルーンの南部にある都市。南部州ジャ・ロボ県(fr:Dja-et-Lobo)に属する。人口4万7000人。2002年のサッカー・ワールドカップに際してカメルーン代表が中津江村をキャンプ地とし、日本ではカメルーンと中津江村が大きな注目を集めたのが縁となっている。


中央州
中央州は北部でアダマワ州、南部で南部州、東部で東部州、西部でリトラル州および西部州と接する。中央州の面積は国内の行政州のうちで2番目に大きい。中央州の主な民族は、バッサ族、エウォンデ族、ヴューテ族である。中央州の全体はカメルーン高原の上に位置する。中央州はカメルーンでもっとも人口が多い州である。

東部州
カメルーン最大の広さをもつ州で、面積109,011km2ある。人口は517,198人(1987年)。州内はジャングルに覆われている。州都はベルトゥア(Bertoua)。

pagetop


極北州
カメルーン最北の州である。面積は34,246km2、人口は1,855,695人(1987年)で国内最大。この州は、細長くチャド湖にまで伸びており、回廊の様な形になっている。州都は北部最大の都市マルア(Maroua)である。

アダマワ州
カメルーン中部にある州で、面積63,691km2はカメルーンで3番目に大きい。人口は495,185人(1987年)。州都はヌガウンデレ(N'Gaoundéré)。隣国ナイジェリアにも同名の州が存在する。

リトラル州
カメルーン西部のギニア湾に面した州である。沿岸州。サナガ川の河口にあたり、州都のドゥアラ(Douala)は国内最大の商都である。ドゥアラ国際空港やトランスカメルーン鉄道、幹線道路、外港もあり、重要な交通の要衝である。

pagetop

北部州
カメルーン北部にある州である。アダマワ高原 (Adamawa Plateau) の北側にあたる。面積65,576km2、人口832,165人(1987年)。州都はベヌエ川沿いのガルア (Garoua) である。

北西州
カメルーン西部、山岳地帯にある州で、面積は17,812km2、人口1,237,348人(1987年)。州都はバメンダ(w:Bamenda)。旧イギリス領カメルーンに属しており、カメルーンには1961年に併合された。

西部州
カメルーン西部にある州で、面積は13,872km2で国内最小。人口は1,339,791人(1987年)である。州都はバフーサム(Bafoussam)。

南部州
カメルーンの南端にある州である。面積47,110km2、人口373,798人(1987年)。州都はエボロワ(Ebolowa)。州内の主な都市は、他にクリビなどがある。

南西州
カメルーン西部のナイジェリア国境山岳地帯にある州である。この山地で最も高い山がカメルーン山(Cameroon Mt.)で、標高4,070mである。山のすぐ南はギニア湾で、その先には赤道ギニア共和国の首都が置かれているビオコ島(マシアスヌグエマ島)が浮かぶ。


カメルーンの歴史
独立国家としてのカメルーンの歴史は1960年に始まる。しかし、人類の祖先の記録は約350万年に幕を開けていた。カメルーンは安定陸塊であるアフリカ大陸中央部西岸に位置する。熱帯性の気候下にあり、人類が発生した環境に近い。現在のカメルーン最北部は、隣国チャドとチャド湖を分かつ。チャド湖の100km東方にはガザール・ワジ (Bahr el Ghazal) と呼ばれる枯れ谷が200kmにわたって伸びている。


■国名
正式名称は英語で、Republic of Cameroon(リパブリック・オブ・カメルーン)。国名は、1470年にカメルーンを最初に訪れたポルトガル人がエビの多いことからカマラウン(camarao,ポルトガル語で「小エビ」)と名付けたことに由来する。

pagetop


1.面積:475,440平方キロメートル(日本の1.26倍)
2.人口:1,890万人(2008年 UNFPA)
3.首都:ヤウンデ
4.民族:ドゥアラ族、バミレケ族、バムン族、フルベ族他
5.言語:フランス語、英語(共に公用語)、その他各部族語
6.宗教:カトリック、プロテスタント、イスラム教、その他伝統宗教


1960年1月 仏領カメルーン独立
1960年5月 アヒジョ初代大統領就任
1961年2月 英信託統治地域の一部が人民投票により西カメルーンになる。
1961年10月 西カメルーン独立、旧仏領カメルーンとともにカメルーン連邦共和国成立。
1972年5月 連邦制を廃し、「カメルーン連合共和国」に。
1982年11月 アヒジョ大統領辞任。ビヤ首相、大統領就任。
1984年1月 ビヤ大統領再選。国名を「カメルーン共和国」に。
1988年4月 ビヤ大統領再選
1990年12月 複数政党制導入
1992年10月 ビヤ大統領再選
1996年1月 地方選挙で野党側が勝利
1997年5月 国民議会選挙
1997年10月 ビヤ大統領再選
2002年6月 国民議会選挙及び地方議会選挙
2004年10月 ビヤ大統領再選
1.主要産業:農業(コーヒー、ココア、綿花)林業(木材)、鉱工業(石油)



CFAフラン
Franc CFA)は、西アフリカ、中部アフリカ地域の旧フランス植民地を中心とする多くの国で用いられる共同通貨。西アフリカ諸国中央銀行 (Banque Centrale des Etats de l'Afrique de l'Ouest、BCEAO) 発行のもの(ISO 4217コードXOF)、中部アフリカ諸国銀行 (Banque des Etats de l'Afrique Centrale、BEAC) 発行のもの(同XAF)の2種類がある。両者は通貨としての価値は同一であるが、相互に流通することはできない。

pagetop


■アフリカの年
1960年の別名。フランス大統領シャルル・ド・ゴールの措置によって、アフリカ大陸で多くの植民地が独立を承認されたことに由来する。


フランコフォニー国際機関
Organisation Internationale de la Francophonie; OIF)とは、世界中の様々な文化圏に属する、民主主義や人権といった普遍的な価値観とフランス語とを共有する国・地域の総体であるフランコフォニーの名を冠した国際機関である。


■音楽
アフロビートのマヌ・ディバンゴが、カメルーン出身のサックス奏者である。彼は1973年に、「ソウル・マコッサ」の世界的ヒットで有名ミュージシャンとなった。


■スポーツ
ドイツ保護領時代の1880年代に伝わって以来、サッカーが盛んである。アフリカネイションズカップでは1984年、1988年、2000年、2002年と通算4回優勝している。他に4回以上優勝した国は、エジプトとガーナだけである。FIFAワールドカップの本大会常連国としても知られ、1982年のスペイン大会で初出場以降、2006年・ドイツ大会まで5度の本大会出場を経験しており、中でも1990年・イタリア大会では開幕戦で前回優勝国アルゼンチンを降す大金星を挙げ、最終的にはアフリカ勢初のベスト8にまで勝ち進んだ。


アフリカネイションズカップ
African Cup of Nations)は、アフリカサッカー連盟(CAF)が主催する、ナショナルチームによるサッカーの大陸選手権大会である。基本的に2年に1度偶数年に開催されてきたが、2013年の南アフリカ大会以降は奇数年開催になる予定。また、閏年開催の大会の優勝国にはFIFAコンフェデレーションズカップへの出場権が与えられる。

pagetop


 

 

ポール・ビヤ
Paul Biya 、1933年2月13日 - はカメルーンの政治家、1982年より大統領である。ビヤはフランス領カメルーン(当時)南部のムヴォメカ村に生まれた。パリ政治学院 で学び、1961年に国際関係論で学位を受けた。

サミュエル・エトオ
Samuel Eto'o Fils, 1981年3月10日 - は、カメルーン出身で同国代表のサッカー選手。ロシア・プレミアリーグ・FCアンジ・マハチカラ所属。サミュエル・エトーとも表記される。別名黒い宝石。カメルーン代表の最多得点記録保持者であり、史上最多の4度のアフリカ年間最優秀選手賞受賞、2度のアフリカネイションズカップ優勝、3度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝など数々の栄誉を手にしている。

pagetop

 

ジョセフ=アントワーヌ・ベル
( Joseph-Antoine Bell, 1954年10月8日 - )はカメルーン出身の元同国代表サッカー選手。ポジションはGK。フランス国内のクラブを主に渡り歩き、そこでの成功や80年代にアフリカネイションズカップを連覇した事で、アフリカ最高のGKとの呼び声が高いが、カメルーン代表では同じポジションにトーマス・ヌコノという強力なライバルの存在がいた事もあり常時スタメン出場という訳にはいかなかった。

pagetop

 

ジェレミ・ヌジタップ
(Geremi Njitap, 1978年12月20日 - )は、カメルーン・バッフォッサム出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー、ディフェンダー。カメルーン代表が2000年のシドニーオリンピックで金メダルを獲得した時のキャプテンである。
カメルーン代表ではサミュエル・エトオと共に中心選手として活躍しているが、チェルシーFCでは定位置確保は出来なかった。

pagetop

 

↑ページの最初へ


bars

バースデザイン研究所ビアンス_創造と調和
プロニティ理論ヘキサグラム幾何学
メモランダムラブソング_もっとやさしく
グランブルーな人々へデザイン寺子屋
アロット_ちょっと古きもの
アンディムジーク
県別リンク集知らない国を知るために
世界のインテリジェンスヒューマニストとは?
ニュースのかけら_日々の断片
サイトポリシーサイトマップサイトリンク
著作権お問い合わせWORKS

 

カウンタ