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ボツワナ共和国
Republic of Botswana
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■地理
ボツワナは南部アフリカの内陸に位置する内陸国で、国土面積は世界44位。なお、国土の約17%が政府により指定保護区とされ、開発から手付かずで残されており、世界各国から観光客や研究者が訪れる。ボツワナは南部アフリカの内陸に位置し、周縁を高地で囲まれ、海から数百キロメートル以上も隔たった内陸国であり、見渡す限りの平原が広がる盆地の中央部にある。
■南部アフリカ
アフリカ大陸を5つの地域に分けた場合の最も南に位置する地域を指す用語である。アフリカは、文化圏および人種の違いからサハラ砂漠の南北で大きく2つに分けられるが、南部アフリカは、南側のブラック・アフリカ(サブ・サハラ・アフリカ)に入る。中部アフリカ南部のコンゴ盆地よりも南側に位置する緩やかな丘陵地帯以南(おおよそ南緯10度以南)が、南部アフリカと呼ばれる地域である。
■カラハリ砂漠
南部アフリカにおいて50万km2に渡って広がる砂漠。ボツワナの国土の70%を占めるほか、ナミビア、南アフリカ共和国にかかる。ジンバブエの一部はカラハリ砂漠に連なる半乾燥地帯である。ボツワナ北部と南アフリカ共和国北西部を除き、標高は1000mを超える。ナミビアの南岸はカラハリ砂漠の一部とも考えられる面積14万km2のナミブ砂漠に覆われている。
■リンポポ川
Limpopo Riverは、アフリカ大陸南部を流れインド洋に注ぐ河川である。全長は約1,600kmある[1]。ジンバブエとボツワナの境界付近に源を発し大きな弧を描くように流れ、水源から最初は北東へ向かい、途中から東に流れが変わっていく。最終的には南東方向に流れてモザンビークのシャイシャイ付近でインド洋に注ぐ。水源から最初の640kmほどは、ジンバブエとボツワナ・南アフリカ共和国との国境となっている。この区域にはいくつかの断崖があり、それらを通過するために急流となっている。
■レパスヘ川
Lepashe River)は、ボツワナの天然河川。レパスヘ村と名前を共有し、村にはこの川が流れている。レパスヘ川はスアパン低地へと流れ着く。レパスヘ川の周辺には、重要な砂利資源がある。
■ナタ川
Nata Riverまたはアマンザニャマ川(Amanzanyama River)は、アフリカ南部の天然河川。ボツワナ国内におけるナタ川は、限られた雨季の間だけマカディカディ塩湖に現れる湿地の水源となっており、同塩湖では数多くの生息地域限定種が繁殖している。
■ンガミ湖
Lake Ngamiは、ボツワナ北部、カラハリ砂漠に広がる湖。流出河川のない内陸湖であり、また通年流入する河川もないが、雨季になると北のオカバンゴ川からオカバンゴ・デルタに水が流れ込み、あふれた水がンガミ湖へと流入する。ンガミ湖は1890年以降一貫して縮小を続けている。
■マカディカディ塩湖
Makgadikgadi Panは、ボツワナ北部、カラハリ砂漠に広がる塩湖。マカリカリ塩湖とも呼ばれる。雨季にのみ水がたまるが、普段は乾燥した塩類平原が広がっている。面積16,057km2。世界最大の塩類平原のひとつである。かつてカラハリ砂漠には現在の4倍、6万km2に及ぶマカディカディ湖と呼ばれる巨大湖があったが、気候の乾燥化とともに縮小し、やがてマカディカディ塩湖を残して消滅した。マカディカディ塩湖周辺には石器が豊富に出土し、完新世初期にはすでに人間が居住していたと考えられている。
■チョベ国立公園
Chobe National Parkは、ボツワナ北端部にある国立公園。アフリカ大陸の中でも野生動物が多く生息している地域のひとつとして知られる。ボツワナでは中央カラハリ動物保護区と Kgalagadi Transfrontier Park に次いで3番目に広い動物保護区である。ボツワナ初の国立公園でもある。野鳥も多く、450もの種が生息している。チョベの最大の特徴はそのアフリカゾウの生息数の多さであろう。現在でも50000頭が生息しており、これはアフリカ大陸でも最も生息密度が高い。さらに将来的に見ても地球上で最も多くのゾウが生息し続ける場所でもある。
■オカバンゴ・デルタ
Okavango Deltaは、ボツワナ北部、カラハリ砂漠の中にある内陸デルタ。オカバンゴ湿地、オカバンゴ大沼沢地とも言う。面積は25000km2に及び、世界最大の内陸デルタである。乾燥したカラハリ砂漠の中で、オカバンゴデルタは非常に広大なオアシスとなっており、さまざまな野生生物が生息している。アフリカゾウやサイ、カバやライオンといった大型の動物もこの地区にはまだ多数生き残っている。
■オカヴァンゴ川
Okavango Riverは、アフリカ南西部を流れる川である。南西部では4番目に長く、全長は1,600kmある。アンゴラ高原に源を発し南東へ流れ、アンゴラとナミビアの境を越えボツワナにまで達している。カラハリ砂漠でオカヴァンゴ・デルタと呼ばれる広大な湿地帯を形成するが、海にはたどり着かない内陸河川で、砂漠の砂中にしみこみ、蒸発して消えてしまう。
■中央カラハリ動物保護区
(Central Kalahari Game Reserve)は、ボツワナ中心部ハンツィ地区東部・カラハリ砂漠東部にある保護区である。1961年に設立され、52800km2の面積を持ち、世界で第2位の規模の動物保護区となっている。
■ボツワナの歴史
ボツワナは歴史的には他の大陸やアフリカに興った帝国との関係が薄く、ゆるやかに独自に発展してきた。北のコンゴ諸王国のほか、イスラム商人が訪れるアフリカ東海岸との間にも山岳地帯が広がり、ほとんど影響を受けることがなかった。ボツワナの運命を変えたのはヨーロッパ人の侵入であった。入植地としては地中海沿岸を除くと最も古く、オランダ系のボーア人の破壊と侵略を受ける。次にドイツの登場に危機感を抱いたイギリスの保護下に入った。
■言語
公用語は英語(話者2.1%)である。一般にツワナ語(78.2%)、ショナ系のカランガ語(7.9%)、ツワナ系のカラハリ語(2.8%)その他(8.6%)が使われており、不明が0.4%。
■ピジン言語
Pidginとは、現地人と貿易商人などの外国語を話す人々との間で異言語間の意思疎通のために自然に作られた混成語(言語学的に言えば接触言語)。英語と現地の言語が混合した言語を「ピジン英語」といい、英語の“business”が中国語的に発音されて“pidgin”の語源となったとされている。
■クレオール言語
意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン言語)が、その話者達の子供によって母語として話されるようになった言語を指す。公用語や共通語として話されている地域・国もある。ピジン言語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく複雑な意思疎通が不可能なのに対し、クレオール言語の段階ではそれらの要素が発達・統一され、複雑な意思疎通が可能になる。クレオールはピジンと違い完成された言語であり、他の言語に引けをとらない。
■宗教
伝統信仰とキリスト教がそれぞれ半分程度である。
■先住民族
ボツワナ、さらにアフリカ南部のほとんどの地域における先住民族はサン、いわゆるブッシュマンである。自らの言葉ク語 (!xu) ではズー・トゥワシ (Zhu twasi) すなわち「真の人間」と呼ぶ。ツワナ語ではサンをサルワと呼ぶ。サンは口承伝承をほとんど持たない。祖先を崇拝せず、直接記憶に残る親族より古いものの記録は残っていない。恒久的な墓を持たず、偉人や偉大な祖先を讃えることをしない。特定の未来を表す単語を持たず、暦を用いず、4以上の数を数えない。徹底した平等主義者であり、集団内部に職業集団などの階級はなく、リーダーもいない。父と父の兄弟、母と母の姉妹を区別しないため、出自集団もなく、従って部族、クランといったサン内部の共同体組織・組織化された社会集団も存在しない。さらに物質的な蓄積に関心がないため、村を作らず、獣を使役せず、直接背負える道具以上の家財も持たない。このため研究が難しい民族でもある。
■民族
もともとコイサン語族に属する言語を話す人々が住んでいたが、17世紀半ば南部より移動してきたツワナ人が支配した。コイサン系の言語を用いる人々は人口は少ないが現在も国内各地に住んでいる。彼らは従来、狩猟、採集などの移動生活をしていたが、現在では国による定住政策がかなり進み以前のような生活をしている人は少ない。この国の人口の約79%をツワナ人が占め、ショナ系のカランガ人が11%他にはツワナ人からバサルワと呼ばれるサン人(グイ、ガナ、3%)、ツワナ系だが少数派のカラハリ人と白人などが7%住んでいる。
■ツワナ人
Tswana people、ツワナ語:Batswanaは、南部アフリカの民族。ツワナ人は、ボツワナでは人口の90%を占める多数派民族となっており、国名のボツワナも民族名のツワナに、「〜の地」を意味するツワナ語の接頭語「ボ」をつけた、「ツワナ人の地」という意味である。
■コイサン語族
アフリカの言語で最も小さい語族である。歴史的にコイとサンの人々によって話されてきた。 今日では南西アフリカのカラハリ砂漠とタンザニアの一部地域で(ハヅァ語、サンダウェ語)話される。
■コイコイ人
Khoikhoi)は、南アフリカ共和国からナミビアの、海岸線から高原地帯、カラハリ砂漠などに居住している民族である。以前は「ホッテントット」と呼ばれていた。1905年には南西アフリカのドイツ支配に対してホッテントット蜂起と呼ばれる戦争が起こり、ドイツ軍による大虐殺の被害を受けた。ドイツ本国ではこの戦争の是非をめぐって、国会が解散、総選挙となった。この選挙はホッテントット選挙と呼ばれた。
■サン人
Sanは、南部アフリカのカラハリ砂漠に住む狩猟採集民族である。砂漠に住む狩猟採集民族は大変少なく現在ではこのサン人ぐらいしかいない。かつて3000〜2000年前くらいまでは、南部アフリカから東アフリカにかけて広く分布していた。しかし、バントゥー系の人々や白人の進出により激減し、現在はカラハリ砂漠に残っているだけである。
■グレート・トレック
(Great Trek)は、1830年代から40年代にかけて、英領ケープ植民地からボーア人たちが大移住を行い、現在の南アフリカ共和国北部に定住した、その移住の旅を指す。17世紀にオランダがen:Boer Republicsを拓いて以降、この地に移住するオランダ人は少しずつ増えていき、やがて彼らはボーア人という民族集団を形成するようになる。ボーア人たちはケープタウンを根拠地とし、先住のコイコイ人(当時、ホッテントット人と呼ばれ、後にホッテントット条例の対象となる)を追い散らしながら内陸へと進出していった。ボーア人の多くは広大な農園を持ち、多くの奴隷を使用しながら農園主として生活していた。
■アフリカーナー
Afrikaner)は、南アフリカ共和国に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、宗教的自由を求めてヨーロッパからアフリカ南部に入植したプロテスタント教徒が合流して形成された民族集団である。
■新植民地主義
Neocolonialism)とは、ポストコロニアル批評において発展途上国の様態を形容する際用いられる用語。嘗ての宗主国が築き上げた現存するあるいは過去の国際的な経済協定が、第二次世界大戦後に発生した脱植民地化を経てもなお、独立国に対しその支配を維持するべく利用されている(又はされていた)とする。
サンの岩面画
文字を持たず、口承伝承を重視しないサンの歴史を知るには岩壁に描かれた絵画「岩面画」が役立つ。現在のタンザニア、ナミビア、南アフリカ共和国を結ぶ三角形に囲まれた地域において、3000カ所にも及ぶサンの遺跡が残っている。遺跡に残る絵画が「岩面画」である。岩面画の総数は10万点を超える。最も有名な岩面画はボツワナ最北部のツォディロ丘陵 (Tsodilo Hills) に残る2000点の絵画だ。ツォディロ岩面画の年代については放射性炭素年代測定により、紀元前4000年と計測されている。他の地域にある最初期の遺跡は約2万5000年前と考えられている。
■アフリカ分割
1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。1912年にイタリアがリビアを獲得した事により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された。
■アパルトヘイト
(Apartheid)は、アフリカーンス語で分離、隔離の意味を持つ言葉。特に南アフリカ共和国における白人と非白人(黒人、インド、パキスタン、マレーシアなどからのアジア系住民や、カラードとよばれる混血民)の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。
■観光
オカバンゴ湿地帯やチョベ国立公園、カラハリ砂漠やモレミ野生動物保護区など観光資源が豊富な上に、近隣諸国に比べ治安が良く政情も安定していることや、政府が観光に力を入れている事から観光客が堅実に増加しており、政府主導で国内のホテルの整備を進めるなど更なる観光客の誘致を行っている。
<世界遺産>
■ツォディロ
カラハリ砂漠の10キロ四方に広がる鮮やかな4500以上の岩絵群は、「砂漠のルーブル」の異名をとる。主に岩絵を描いたのはサン人で、彼らの世界観や美術様式を理解する上で、重要な拠点となっている。
■オカバンゴ・デルタ
オカバンゴ・デルタ(Okavango Delta)は、ボツワナ北部、カラハリ砂漠の中にある内陸デルタ。オカバンゴ湿地、オカバンゴ大沼沢地とも言う。面積は25000km2に及び、世界最大の内陸デルタである。乾燥したカラハリ砂漠の中で、オカバンゴデルタは非常に広大なオアシスとなっており、さまざまな野生生物が生息している。アフリカゾウやサイ、カバやライオンといった大型の動物もこの地区にはまだ多数生き残っている。
■ベッシー・ヘッド
ベッシー・ヘッド(Bessie Head, 1937年7月6日 - 1986年4月17日)はボツワナの作家。南アフリカ出身。白人の母、黒人の父のもとで生まれる。母はピーターマリッツバーグの精神病院に入院しているときにベッシーを産む。ベッシーは里親のもとで暮らすが、養父は彼女が6歳のときに亡くなり、同じ頃に実の母も亡くなる。養母の暮らしが苦しくなったため、ベッシーは13歳のときに孤児院に入る。このときはじめて実の両親について知り、大きなショックを受けた。その後は教師やジャーナリストとして働くが、アパルトヘイトのためにカラードとして不自由な暮らしを送る。
ボツワナではセロウェに住み、はじめは教師として暮らす。『ニューステイツマン』に掲載された記事がもとで、ニューヨークの出版者に小説を依頼され、長篇小説『雨雲のわく時』を発表した。孤独と貧困のなかで創作活動を続け、アパルトヘイトの撤廃を見ることなく1986年に肝炎により死亡するが、死後も評価が高まり、作品集や書簡集などが出版されている。48歳没。
■セレツェ・カーマ
セレツェ・カーマ(Seretse Khama、1921年7月1日-1980年7月13日)は、ボツワナ共和国初代大統領。在任1966年-1980年。政治経済に優れた手腕を発揮し、現在のボツワナ繁栄の礎を築いた。1921年7月1日、英領ベチュアナランドの一部族、ングワト族の第一王子としてセローウェで生まれる。父はングワト王セクゴマ二世、祖父はその前のングワト王カーマ三世である。1925年に父が無くなり、彼は4歳にしてングワト王となり、叔父のツェケディ・カーマが摂政となった。 南アフリカ共和国の寄宿学校に通ったあと、南アフリカのフォートヘア大学で1944年に文学士号を取り、オックスフォード大学へと留学した。1947年6月、カーマはロイズの行員だったイギリス人女性ルース・ウィリアムズと出会う。
1年後、2人は結婚したが、この結婚はアパルトヘイトを行っている南の隣国・南アフリカ共和国を強く刺激した。ツェケディ・カーマもこの結婚には反対し、カーマ夫妻は結婚の同意を得るためベチュアナランドに渡り、セローウェでのングワト族の民会に出席。議論はカーマの勝利に終わり、ツェケディ・カーマはングワト領を離れ、カーマは学業を完了させるためロンドンへと戻った。
しかし、南アフリカ共和国はこの結婚に反対し続け、ベチュアナランドの宗主国・イギリスにカーマの王位を放棄させるよう圧力をかけた。
■イアン・カーマ
(Seretse Khama Ian Khama、1953年2月27日 - )はボツワナの政治家。2008年より、ボツワナ共和国第4代大統領。初代大統領セレツェ・カーマの息子であり、ボツワナ最大氏族・ングワト族の首長である。カーマはイギリスで生まれ、軍人の道を歩んだ。1997年12月16日から1998年3月31日まで、ボツワナ国防軍最高司令官の地位にあった。第2代大統領クェット・マシーレが1998年3月31日に引退した時、一部にカーマ擁立の動きがあり、第3代大統領にフェスタス・モハエが就任すると、副大統領への擁立の動きが出たが、カーマはこの時点でボツワナ議会に議席を持っておらず、副大統領の就任資格がなかった。そこでカーマは1998年、父の故郷にしてングワトの本拠地であるセローウェ北選挙区での補選に与党ボツワナ民主党から出馬し、野党ボツワナ国民戦線の候補に圧倒的な差をつけて当選。
■クェット・マシーレ
(英語: Sir Quett Ketumile Joni Masire、1925年7月23日 - )は、ボツワナ共和国の政治家。同国の第2代大統領。1949年から1955年まで、中等教育学校の教員と校長を務めた。1962年、仲間とともにベチュアナランド民主党(後のボツワナ民主党(BDP))の設立に携わる。1965年に行われた選挙で党首セレツェ・カーマが首相に選出され、1966年の独立後、カーマが大統領に就任し、マシーレは副大統領となった。
■セシル・ローズ
(Cecil John Rhodes、1853年7月5日 - 1902年3月26日)は、イギリスの政治家。ローズは地主出身の牧師の子に生まれたが、生まれつきの病弱を心配した父は、気候のよい南アフリカに行っているローズの兄のもとに彼を送った。健康を取り戻したローズは、兄とともにキンバリーで坑夫としてつるはしを振るった。
彼はダイアモンドを掘り当てて作った資金で、ダイアモンドの採掘権への投機を行ったり、採掘場への揚水ポンプの貸し出しで儲け、ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの融資もとりつけて、1880年、デ・ビアス鉱業会社を設立した。ローズは首相として数々の政策を行ったが、それらはすべて、大英帝国のもとに南アフリカに広大な統一された植民地、南アフリカ連邦を建設することを意図して行われたものであった。
■ラドヤード・キップリング
(Joseph Rudyard Kipling, 1865年12月30日 - 1936年1月18日)は、イギリスの小説家、詩人で、イギリス統治下のインドを舞台にした作品、児童文学で知られる。ボンベイ(ムンバイ)生まれ。19世紀末から20世紀初頭のイギリスで最も人気のある作家の一人で、代表作に小説『ジャングル・ブック』『少年キム』、詩『マンダレー』など。
1898年になると、キプリングと家族は南アフリカに冬期休暇に出かけ、これは1908年まで(翌年を除いて)毎年の恒例になった。キプリングは帝国の詩人として新たな高い評価を得て、セシル・ローズ、アルフレッド・ミルナー卿、リアンダー・スター・ジェームソンなど、ケープ植民地の影響力のある政治家達に暖かく迎えられた。
■デイヴィッド・リヴィングストン
(David Livingstone、1813年3月19日 - 1873年5月1日)は、スコットランドの探検家、宣教師、医師。ヨーロッパ人で初めて、当時「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカ大陸を横断した。また、現地の状況を詳細に報告し、アフリカでの奴隷解放へ向けて尽力した人物でもある。1813年にスコットランドのラナークシャー地方にあるブランタイア(Blantyre)で生まれた。生家は貧しく、10歳の頃から近所の紡績工場で働くことを余儀なくされるが、聖書、ラテン語等の学問への意欲は旺盛であった。彼は日中の工場での仕事中に本を読む工夫をしつつ、仕事が終わってからは夜間学校で熱心に勉強をした。
■フェスタス・モハエ
(Festus Gontebanye Mogae, 1939年8月21日 - )はボツワナの政治家で第3代大統領。イギリスのオックスフォード大学を卒業後、1968年に開発計画省の企画官に就任。1989年に蔵相。1992年には副大統領と出世を重ね、1998年4月から2008年4月1日まで大統領を二期務めた。 |
ボツアナ Botswana
南部アフリカの内陸に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。南を南アフリカ共和国、西と北をナミビア、東をジンバブエに囲まれた内陸国である。 首都はハボローネ。ツワナ系の人々が多く住む。ボツワナの独立以来、アフリカでは数少ない複数政党制に基づく民主主義が機能している国として知られ、政局はきわめて安定している。実際に独立以来クーデターや内乱は一度も起きたことがない。
■ハボローネ
ハボローネ(英語/ツワナ語: Gaborone)は、ボツワナの首都。サウスイースタン地区の地方政府所在地。ハボローネは1961年に南アフリカ共和国のマフェキング(現マフィケング)に代わりベチュアナランドの首都となった。それまではガベロンズと呼ばれた小さな村だったが、首都が置かれ、ボツワナが独立すると急速に成長した。
■ボツワナ大学
ボツワナ大学(University of Botswana、略称:UB)は、ボツワナの大学。ボツワナ初の高等教育機関として1982年に創設された。大学は、首都ハボローネに2ヶ所、フランシスタウンとマウンにそれぞれ1ヵ所ずつ、計4つのキャンパスから成る。 ボツワナ大学には、経営学部、教育学部、工学部、人文科学部、自然科学部、社会科学部の計6学部が設置されている。2009年にオーストラリア・メルボルン大学と共同して学生を登録する予定である。
外務省:ボツワナ共和国
在ボツワナ日本国大使館
■ベチュアナランド
Bechuanalandは、1885年3月31日から1966年9月30日まで南部アフリカに存在した、イギリスの植民地/保護領のこと。ベチュアナランドとはチュアナ族の国という意味で付与された呼称だが、チュアナ族(ベチュアナ)とは現在でいうところのツワナ族(バツワナ、Batswana)のことである。広義のベチュアナランドは2つの地域から構成され、南部はイギリス領ベチュアナランドという植民地、北部はイギリス保護領ベチュアナランドとして、それぞれ別個の行政体として統治されていた。北部は1966年、ボツワナ共和国として独立するまで、保護領として一個体であり続けた。
■セレツェカーマ国際空港
Sir Seretse Khama International Airportは、ボツワナの首都、ハボローネにある国際空港。ハボローネ市街に位置する同市最大の空港である。名は同国の初代大統領のセレツェ・カーマに由来する。滑走路は3000メートルのものが1本ある。
■フランシスタウン
(Francistown)は、ボツワナ北部の都市。ノースイースタン地区の中心都市であり、ボツワナ第2の都市である。人口113,315人(2001年)。首都のハボローネから北北東に400km、ジンバブエ国境から90kmのところにある。1894年にブラワヨとケープタウンを結ぶ鉄道が開通して村ができた。北部に多い鉱山の開発拠点として重要であり、またオカバンゴ・デルタへの入口ともなっている。市内には多数のショッピングモールやスーパーマーケットがある。
■マウン
(Maun)は、ボツワナ共和国北部の都市。ノースウェスタン地区の州都である。「マウン」とは「葦の茂る場所」という意味であり、その名の通りオカヴァンゴ川からの水がやってきて葦の生い茂る肥沃な場所に、ツワナ人の1部族であるタワナ族によって街が作られた。現在の人口は約43,000人。チョベ国立公園やオカヴァンゴ・デルタに最も近い都市であり、複数のリゾートホテルがあるなど観光の拠点となっている。ボツワナ政府はエコツーリズムに力を入れており、雄大な自然を楽しむため欧米諸国から多くの観光客がこの町を訪れる。
■セロウェ
(Serowe)は、ボツワナの都市。セントラル地区 (ボツワナ)の州都である。人口約90000人。首都ハボローネの北350kmに位置する。セロウェはツワナ人の8部族のうちもっとも大きなングワト族の首都であり、現在も伝統的な家屋や集会場が残る。、作家のベッシー・ヘッドは1964年に英領ベチュアナランドに亡命した後、1986年に亡くなるまでセロウェに住んで作品を発表し続けた。
■カサネ
Kasane)は、ボツワナの都市。ノースウェスト地区 (ボツワナ)に属する。人口7,638人(2001年)。ナミビア、ボツワナ、ジンバブエ、ザンビア4ヶ国の国境が最も近くなる地点に位置する国境の都市である。ザンビアのカズングラ市とはカズングラ・フェリーによって結ばれている。また、その近くにはジンバブエ国境と検問所も存在し、80km東にあるヴィクトリアの滝と道路で結ばれている。カサネは首都ハボローネやフランシスタウンと結ぶ舗装道路の終点である。この道路はカズングラ・フェリーによってザンビアの幹線道路と接続し、中部アフリカの動脈となっている。
■ハンツィ
(Ghanzi) は、ボツワナの都市。ハンツィ地区の首府である。ボツワナ西部に位置し、トランスカラハリハイウェイでロバツェやナミビアと結ばれる。カラハリ砂漠の中央部に位置し、カラハリの首都と呼ばれる。カラハリ・アームズ・ホテルやバークレイズ銀行の支店などが建設され、この地方の経済や観光の拠点として発展してきた。1989年には太陽光発電によって電話サービスが開始され、1999年にはJICAの支援による円借款などによって全線舗装のトランスカラハリハイウェイが開通し、ハンツィと首都ハボローネ、ナミビアの首都ウィントフックが結ばれた。
■モチュディ
(Mochudi)は、ボツワナの都市。ボツワナ南東部に位置し、カトレン地区の州都である。人口約40000人。標高938m。首都ハボローネから北東に37km離れており、ハボローネとフランシスタウンを結ぶ道路上に位置する。モチュディはツワナ人の一部族であるカトラ族によって1871年に建設された。モチュディの丘の上にはフタディコボ博物館があり、モチュディやカトラ族の古い文書や写真が展示されている。
■カニエ
(Kanye)は、ボツワナの都市。人口40,628人(2001年)、標高1306m。ボツワナ南部に位置し、サザン地区 (ボツワナ)の州都である。ツワナ人の1部族であるングワケツェ族の本拠地であり、族長が居住している。
■モレポロレ
(Molepolole) は、ボツワナの村。人口69,789人(2008年)。ボツワナではセロウェに次いで2番目に大きな村であり、アフリカでもっとも大きな伝統村落のひとつである。モレポロレはツワナ人の1部族であるクウェナ(バクウェナ)族の本拠地であり、クウェネン地区の州都である。
■セントラル地区
(Central District)は、ボツワナ東部の行政区。ングワト族の本拠地でボツワナ最大の行政区である。セレツェ・カーマ、フェスタス・モハエ、イアン・カーマは何れもセントラル地区出身である。パラペ、セロウェが主要都市で、南アフリカ共和国との国境を流れるリンポポ川は時折鉄砲水をもたらす。
■カラハリ地区
(Kgalagadi District)は、ボツワナ南西部カラハリ砂漠南部の行政区。州都は南部のツァボン。2001年の国勢調査人口は42,049人。南部はカラハリ・トランスフロンティア公園に指定されている。
■ノースウェスト地区
(North-West District) は、ボツワナ北部の行政区。2001年にそれまでのチョベ地区とンガミランド地区が統合され設置された。北西にオカヴァンゴ川の内陸デルタで世界最大級の湿地オカバンゴ・デルタがあり、州都は中南部のマウン。
■クウェネン地区
(Kweneng)は、ボツワナ南部の行政区。デイヴィッド・リヴィングストンの宣教でボツワナで最初に改宗した人々とされるツワナ系のクウェナ人(バクウェナ)の本拠地である。
■ノースイースト地区
(North-East District) はボツワナ東部の行政区。州都は北部のマスンガ。中南部にボツワナ第2の都市フランシスタウンがある。サブディストリクトはノースイーストとフランシスタウン。住民はショナ系のカランガ族が多い。
■ボツワナの国旗
ボツワナの国旗は、1966年9月30日に制定された旗。水色は水、特に雨を表す。この雨はボツワナの国章にあるツワナ語のモットー「プラ(Pula)」=「雨よ降れ」から来ている。白と黒の線は人種の融合と国章のシマウマを示す。
■国名
正式名称は英語で、Republic of Botswana(リパブリック・オブ・ボツワーナ)。通称、Botswana。日本語の表記は、ボツワナ共和国。通称、ボツワナ。国名は「ツワナ族の国」を意味している。
1.面積:58.2万平方キロメートル(日本の約1.5倍)
2.人口:195万人(2009年:世銀)人口増加率1.5%(2009年:世銀)
3.首都:ハボロネ(Gaborone)
4.民族:ツワナ族(79%)、カランガ族(11%)、バサルク族(3%)等
5.言語:英語、ツワナ語(国語)
6.宗教:キリスト教、伝統宗教
1885年 イギリス保護領となる
1891年 駐南ア英高等弁務官の管轄となる
1966年 独立(初代大統領カーマ大統領)
1980年 マシーレ大統領就任
1998年 マシーレ大統領引退(3月31日)
モハエ大統領就任(4月1日)
1999年 モハエ大統領再任(10月20日)
2004年 モハエ大統領再任(11月2日)
2008年 モハエ大統領引退(3月31日)
カーマ大統領就任(4月1日)
2009年 カーマ大統領再任(10月20日)
■主要産業(農業)こうりゃん、メイズ(畜産)牛、羊(鉱業)ダイヤモンド、銅、ニッケル、石炭(工業)繊維製品、食品加工
■主要貿易品目(2009年:ボツワナ中央統計局)(1)輸出(%) ダイヤモンド 62.6、銅・ニッケル 14.9、繊維製品 5.8、牛肉 3.3(2)輸入(%) 機械・電気製品 17.3、飲食料品 13.2、燃料 13.5)、車両 12.6
■プラ
プラ(pula)は、ボツワナの通貨単位。国際通貨コード(ISO 4217)は、BWP。補助通貨単位はテベ(thebe)で、1プラ=100テベ。プラとテベはそれぞれ、Pとtに略される。 1プラ=19.24円(2006年8月4日現在)ツワナ語でプラは、雨を意味している。カラハリ砂漠の影響で雨は非常に希少なため、通貨単位になった。
■ボツワナ民主党
(Botswana Democratic Party、BDP)は、ボツワナ共和国の政党。イデオロギーは保守主義。党首はイアン・カーマ。2009年10月16日の選挙では53.7%の得票率で、ボツワナ議会57議席中45議席を得た。1966年の独立以来、一度も下野することなくボツワナの与党であり続けている。ボツワナ民主党は1966年、セレツェ・カーマやクェット・マシーレらの手により、ベチュアナランド民主党として結党した。独立前の選挙で31議席中28議席を得て圧勝し、以後独立してからも政権を維持してきた。
■ボツワナ国民戦線
(Botswana National Front、BNF)は、ボツワナ共和国の政党。ボツワナ議会のおいて野党第一党の地位を占める。2004年10月30日に行われた総選挙では、得票率26.1パーセント、57議席中12議席を獲得した。ボツワナ独立の直前、1965年に結成された。1969年の選挙ではじめて議席を獲得し、以後は常に野党第一党の地位にある。1994年の選挙では40議席中13議席を得て、議会の3分の1を結党以来初めて超え、議会に大統領の任期を2期10年までとする法案を提出。
■ボツワナ会議党
(Botswana Congress Party、BCP)は、ボツワナ共和国の社会民主主義政党。ボツワナ会議党は、ボツワナ議会で3番目に大きい政党である。また、新民主戦線と社会民主党の国民運動組織を持つ。1998年ボツワナ国民戦線の党内路線対立にともない、Michael Dingakeをはじめとする11人の議員が離党して結成した。初代党首はMichael Dingake。
■ボツワナ同盟運動
Botswana Alliance Movement、BAM)は、ボツワナ共和国の政党。党首はEphraim Lepetu Setshwaelo。2004年10月30日の総選挙では、2.8パーセントを得票するものの議席を得ることはできなかった。 2009年10月16日の総選挙では、得票率2.8%で1議席を獲得した。これは同党成立以来初めての議席であった。
■工業・農業
農業部門では、自給農業と牛や羊の畜産が中心で、牛肉の輸出の割合が大きい。食品加工などの軽工業は発展しているものの、現在のところ重工業やハイテク産業はほとんど未発達であり、諸外国からの誘致を進めている。
■鉱物資源
ダイヤモンド鉱床が1967年に発見されたのに続き、1970年代に多数の鉱床が相次いで発見されたため、ダイヤモンドの採鉱事業は、ボツワナ経済の中心となっている。ダイヤモンドだけで、GDPの3分の1を超え、輸出総額の75%から90%、国の歳入の約半分を占める。その他の鉱物資源としては、銅やニッケルなどがあり、これらの輸出によって外貨を得ている。
■ダイヤモンド
(diamond) は、炭素(C)の同素体の1つであり、実験で確かめられている中では天然で最も硬い物質である。日本語で金剛石(こんごうせき)ともいう。結晶構造は多くが8面体で、12面体や6面体もある。宝石や研磨材として利用されている。ダイヤモンドの結晶の原子に不対電子が存在しないため、電気を通さない。ダイヤモンドという名前は、ギリシア語の adamas (征服できない、懐かない)に由来する。
■教育
ボツワナ政府が教育に力を入れている上に、安定した政治と経済を背景に、公立学校と国立学校、私立学校が全国規模で整備されている。2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は81.2%である。これはアフリカ諸国だけでなく、世界でも高い方に分類される。主な高等教育機関としては、ボツワナ大学(1982年開校)が挙げられる。
■ボツワナの教育
中等教育は無料ではなく、義務教育でもない。2002年には初等教育の総就学率が103%、純就学率が81%であった。ただ、この数値は公式に登録された小学校の生徒数に基づいており、実際の学校の出席率を反映しているとは限らない。最も優秀な生徒はハボローネにあるボツワナ大学、ボツワナ農業大学、ボツワナ会計大学に進学する。一方残りの学生たちは、国内に多数ある私立の専門学校で教育を終えている。
■保健
エイズ(HIV/AIDS)感染率が世界最高(2000年の調査で成人の38.8%)となっている。政府は、国の歳入の多くを失業対策とエイズ対策に注ぎこまざるを得ない状況である。エイズの蔓延の影響で、現在の平均寿命は50歳と非常に短い。なお、衛生状態は近隣諸国に比べ良く、水道水を飲むことも可能である。
■ジャイアント・キマラ
Giant Kimalaは、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名はベンジャミン・ピーコック(Benjamin Peacock、1964年2月19日 - )。自称アフリカ・ボツワナ共和国出身。アメリカではボツワナ・ビースト(The Botswana Beast)のリングネームで知られる。1990年にアブドーラ・ザ・ブッチャーのパートナーとして全日本プロレスに初来日。
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