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アンゴラ共和国
Republic of Angola

アフリカ

ルアンダ
ルアンダ(Luanda)は、アフリカ南西部アンゴラ共和国の首都で、最大の都市でもある。大西洋に面し、アンゴラの主要港であると共に行政の中心でもある。ほぼ300万人の人口(2007年)を擁し、ルアンダ州の州都でもある。ルアンダは1575年にサン・パウロ・デ・ルアンダ (Sao Paulo de Luanda) として、パウロ・ディアス・デ・ノヴァイスの率いるポルトガル人によって植民され、アフリカ黒人奴隷の重要な輸出港となった。1641年オランダの西インド会社軍によって占領されたが、1648年にはブラジル植民地軍によって奪回されている。ルアンダにはローマ・カトリックの大司教座がおかれている。またアンゴラ大学、17世紀に建てられた砦であるサン・ミゲル要塞、旧ポルトガル総督府などがある。


アゴスティーニョ・ネト大学
Universidade Agostinho Netoとは、アンゴラの首都ルアンダに存在する公立大学である。アンゴラ政府によって認められた7つの大学の内の一つである。1962年に二つの州立大学機関が、ポルトガル領アフリカに、ポルトガル海外領土相のアドリアーノ・モレイラによって設立された。


ロビト
(Lobito)はアンゴラのベンゲラ州に属する都市である。ベンゲラ鉄道の終点であり、大西洋に面した良港はコンゴ民主共和国やザンビアから産出された鉱物資源の積出港として発展してきた。人口は約153,000人である。

ベンゲラ
(Benguela)は、アンゴラ西部の港町。ベンゲラ州の州都である。
1617年ポルトガルによって建設され、奴隷貿易港として栄えた。現在は貿易港としての地位は近くのロビトに奪われたものの、漁港としては今も活況を呈している。

カビンダ
(Cabinda)は、アンゴラの飛び地の地方行政区分の一つ。コンゴ共和国とコンゴ民主共和国に囲まれたアフリカの南西海岸にある。面積は7270Km2、州都はカビンダ。沖合は世界的にも重要な石油生産地域であり、アンゴラ内戦時、カビンダは内戦の被害から巻き込まれずに済んだ。カビンダを舞台とした作品に、ペペテラの小説『マヨンベ』がある。

ルバンゴ
(Lubango)は、アンゴラの都市。アンゴラ南西部、標高1720mの高原上にあり、フイラ州の州都である。人口100,757人。1975年までは、サ・ダ・バンデイラ(Sa da Bandeira)という名だった。ナミベとメノングエを結ぶ鉄道が通っており、農産物の集散地となっている。

ンバンザ=コンゴ
Mbanza Kongo, は、かつてはサン・サルヴァドール(ポルトガル語)としても知られていたアンゴラ北西部ザイーレ州の州都である。アンゴラとコンゴ民主共和国の国境付近に位置している。この街はまた、多くのアンゴラ人がブラックアフリカ最古の教会だと主張する16世紀の大聖堂(1549年建設)の廃墟でも知られる。

ウアンボ
(Huambo)は、アンゴラ共和国ウアンボ州の州都。英語読みに従ってフアンボと表記されることもある。ベンゲラから東に220km、首都ルアンダから南東600kmに位置する。標高1,700mの高原地帯にある町である。ザンビアとベンゲラやロビトを結ぶベンゲラ鉄道が通っており、交通の要衝である。

ウイジェ州
58,698km2の面積を擁し、人口は約800,000人である。州都はウイジェ。ウイジェ州はアンゴラの26年間に及ぶ内戦で最も被害を受けた地域の一つである。住民の大部分は離散し、インフラストラクチャーは深刻な打撃を受けている。2004年10月初めから2005年にかけて、ウイジェ州はエボラ出血熱に良く似た熱病であるマールブルク熱発生の中心地となった。

ベンゴ州
(Bengo Province) はアンゴラ北西部の州。州都はカシート。北にザイーレ州、北東にウィジェ州、東に北クアンザ州、南東に南クアンザ州と接し、西は首都ルアンダを包むように大西洋に面している。面積は33,016 km2。

ビエ州
同国中央部のビエ高原に位置する。州都はクイトであり、70,314km2の面積を擁し、人口は約800,000人である。州都はルバンゴ。爽快な気候と豊富な降水量がトウモロコシ、サトウキビ、イネ、コーヒー、ラッカセイなどの栽培を可能にしている。


マヨンベ
マヨンベとは、アンゴラの作家ペペテラの小説である。1980年に出版された。社会主義者としてアンゴラ独立戦争に参加する経験を持ったペペテラは、この戦争の一局面を、独立革命を指導するはずの前衛政党内部での部族主義や官僚主義、さらには登場人物の人間的な愛憎を交えながら描き切り、出版と同年の1980年にアンゴラ作家協会からアンゴラ文学賞が授与された。


1483 ポルトガル人が発見
16世紀中葉 ポルトガル海岸地方を支配
1951 ポルトガルの海外州となる
1950年代から 民族運動台頭
1975.11.11 MPLAがアンゴラ人民共和国の独立宣言
1979.9. ネト大統領病死
ドス・サントス大統領就任
1991.5 アンゴラ包括和平協定調印(ビセス合意)
1992.9 同国初の民主的大統領及び議会議員選挙
1994.11. ルサカ和平協定調印
1997.4 統一国民和解政府樹立
2002.4.4 停戦合意に関する党書の署名

■面積 124.7万km2(日本の約3.3倍)■人口 12.7百万人(2000年:世銀)人口増加率2.9%(2000年:世銀)■首都 ルアンダ(約350万人、2000年1月アンゴラ政府推計)■人種 オヴィンブンドウ族(約38%)、キンブンドゥ族(約25%)、バコンゴ族(約15%)、混血(3.5%)等■言語 ポルトガル語(公用語)。一般にはツバンツー■宗教 大半は伝来の宗教、キリスト教徒

観光
アンゴラの広大な国土の大部分は豊かな自然で覆われており、また海岸沿いと内陸、北部と南部によっても異なる様々な顔を持っています。内陸部は緑豊かな土地が多く、また海岸沿いには美しい砂浜が続いています。南部には広大な砂漠が広がる一方、内陸部には広大な大地を一望できる丘陵地帯、水資源の豊富な土地もあるなどアンゴラの有する観光資源のポテンシャルは非常に大きいといえます。しかしアンゴラ全土には依然として地雷の危険性が多く残っており、除去活動は進んでいるものの、舗装された幹線道路を一歩外れれば地雷原の可能性もあるという状況ですので、現時点で国内を自由に観光で廻ることはやはりおすすめできません。 

クワンザ
(kwanza)は、1977年以降アンゴラ共和国で使用されている通貨単位。現行通貨の国際通貨コード(ISO 4217)は、AOA。略称はKz。補助通貨単位はセンティモ(cêntimo)で、1クワンザ=100センティモ 。


 

アンゴラの音楽、芸術/在アンゴラ日本国大使館
アンゴラの伝統音楽のセンバ(Semba)が,ブラジルのサンバの元だと言われている。ブラジルに連れて来られた奴隷の多くが、アンゴラからのアフリカ人であったことから、このような関連性があるのは不思議ではない。
1940年代に有名なNgola Ritomos bandをつくったLiceu Vieira Diasは、現代アンゴラ音楽の先駆者であり、アンゴラの豊かな伝統音楽とアフリカ系アメリカ人のジャズ、ポルトガルのファド(Fado)から影響を受けた。1960年代初頭、Elias Dia Kimuezo, Kiezos & Jovens do Prendaなどの音楽家が出た。


■文学
殆どのサブサハラアフリカ諸国の文化は口承による伝統に基づいているが、アンゴラにおいては、文学が長い歴史を持っている。初期の最も著名な作家は、Castro Soromenhoであり、二十世紀初頭に多くの作品を残した。

また、Domingos Van Dunem, Agostinho Mendes de Calvalho は共に、奇妙な現実主義者といわれ、Kimbundu神話や伝説からインスピレーションを得ている。若い小説家の世代は、Arthur Pestana Pepetela, Sousa Jamba, Jose Eduardo Agualusaに代表され、他の言語にも翻訳されている。


アゴスティニョ・ネト
アントニオ・アゴスティニョ・ネト(Antonio Agostinho Neto、1922年9月17日 - 1979年9月10日)は、アンゴラの民族主義者・政治家・社会主義者・詩人で、初代大統領。ベンゴ州のカテテ町でメソジストの牧師の息子として生まれた。

ネトはコンゴ動乱にチェ・ゲバラ率いるキューバ軍が派遣された際にはゲバラと会談し、キューバの支援を取り付けた。幾度もハバナを訪れ、彼とフィデル・カストロはイデオロギー的な視点を分かち合った。

ヴィリアト・ダ・クルス
ヴィリアト・クレメンテ・ダ・クルス(ポルトガル領アンゴラポルト・アンボインキクヴォ、1928年 - 中華人民共和国北京、1973年6月13日)とはアンゴラの詩人、政治家である。彼はアンゴラでもっとも重要な詩人の一人だと考えられている。彼はポルトガル語とアンゴラの言語で詩を書いた。

彼はポルトガルの支配者からの自由を求めるアンゴラの戦いに参加した。彼はポルトガル植民地時代のアンゴラの首都ルアンダで教育を受けた。青年時代の1957年に彼はパリに渡り、そこでアンゴラ人の詩人、マリオ・ピント・デ・アンドラーデと出会った。ダ・クルスはアンドラーデに政治観念を助けられた。1960年代に彼等はアンゴラ解放人民運動(MPLA)の創設を援助した。

マリオ・ピント・デ・アンドラーデ
1928年8月21日 - 1990年8月26日はアンゴラの詩人、政治家である。彼はポルトガル領アンゴラのゴルンゴ=アルトで生まれ、リスボン大学で文献学を、パリのソルボンヌ大学で社会学を学んだ。その間、彼はアンゴラにおけるポルトガル植民地支配に対する反抗活動を始め、反植民地詩を書いた。

1956年に彼はアンゴラ解放人民運動(MPLA)の創設者となり、1960年から1962年まで議長を務めた。彼は後継者のアゴスティーニョ・ネトと衝突し、1974年にMPLAから分離した。アンゴラは1975年11月11日に独立したが、アンドラーデはギニアビサウ、カーボベルデ、モザンビークと放浪生活を続けた。彼はロンドンで死去した。

ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ
Jose Eduardo Agualusa,Alves da Cunha,1960年-は、ポルトガル系白人として生まれたアンゴラのジャーナリストであり、作家である。アンゴラのウアンボ(旧ノヴァ・リスボア)にポルトガル系アンゴラ人として生まれ、現在はリスボンとルアンダの双方で暮らしている。

アグアルーザは2007年にダニエル・ハーンによって英語に翻訳された彼の作品『カメレオンの書』(The Book of Chameleons)でインデペンデント紙外国フィクション賞を受賞した。彼は1990年に同賞が創設されて以来、初のアフリカ人受賞作家となった。

パウロ・フローレス
Paulo Flores,1972年-とはアンゴラ出身のミュージシャンである。彼はルアンダで生まれ、幼少期をリスボンで過ごした。彼の音楽はほとんどポルトガル語で書かれるが、一部はキンブンド語で書かれる。彼の音楽は内戦や腐敗など、しばしばアンゴラの生活の苦境を扱う政治的なものである。彼のアンゴラ様式の音楽はセンバとして知られている。彼の音楽の一部はフランス映画のLa Grande Ourseをフィーチャーしている。

ジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス
Jose Eduardo dos Santos, 1942年8月28日 - は、アンゴラの政治家で第2代大統領。アンゴラ解放人民運動(MPLA)議長。1979年にアゴスティニョ・ネト初代大統領の後を継いで大統領となった。

ヴァルデマール・バストス
(Waldermar Bastos,1954年、アンゴラ共和国ザイーレ州ンバンザ・コンゴ)とは、アンゴラの音楽家である。彼はアフロポップとポルトガル音楽(ファド)とブラジル音楽の影響を融合している。彼の両親は看護師だった。彼は非常に早い時期から歌い始めた。

マテウス・アルベルト・コントレイラス・ゴンサルヴェス
(Mateus Alberto Contreiras Gonçalves、1983年3月7日 - )は、アンゴラ・ルアンダ出身のサッカー選手。レアル・バリャドリード所属。アンゴラ代表である。ポジションはフォワード。アンゴラの首都ルアンダに生まれ、Flamenguinhosという少年サッカークラブに所属すると、左ウイングとしてチーム一番のスター選手となった。1999年にはアンゴラリーグで中位につけるベンフィカ・デ・ルアンダに加入してプロデビューした。

エンリケ・アブランシェス
Enrique Abranches、ポルトガル共和国リスボン、1932年9月29日 - はアンゴラの作家、人類学者である 。

オスカル・リバス
(1909年8月17日 - 2004年6月19日)とはアンゴラの作家である。
リバスはルアンダで、アルナルド・ゴンサルヴェス・リバス(ポルトガル人)とマリア・デ・コンセイサン・ベント・ファーリア(アンゴラ人)の息子として生まれた。彼の最初の出版物はニ冊の小説であり、1927年のNuvens que passam (過ぎ去る雲)と1929年のResgate de uma falta(欠乏の救助)だった。

ジョゼ・ルアンディーノ・ヴィエイラ
(JosE Luandino Vieira,1935年5月4日-)とは、アンゴラのショートフィクションと小説の作家である。ポルトガル系アンゴラ人。ヴィエイラの作品はしばしばアフリカの口承物語の構造と、ポルトガルによるアンゴラ支配の厳しい現実に求められた。

彼のもっともよく知られた作品は、初期の短編集『ルーアンダ』(Luuanda ,1963)であり、1965年にポルトガル語作家の文学賞を受賞したが、アンゴラにおける植民地行政の抑圧を考察していたため、ポルトガル政府によって1974年まで禁止された。

ディオゴ・カン
(Diogo Cao、古ポルトガル語では Cam)は、大航海時代のポルトガルで最も優れた航海士の1人として活躍した探険家。1480年代にアフリカ西海岸を南下する航海を2回行った。アンゴラがポルトガルに植民地化されるきっかけを作った人物であり、アンゴラでは非常に有名である。

ホールデン・ロベルト
(Holden Alvaro Roberto、1923年1月12日 − 2007年8月2日)は、アンゴラの民族主義者、政治家。アンゴラ民族解放戦線(FNLA)の創設者、指導者。コンゴ族出身。アンゴラの公用語であるポルトガル語に近く表記するならば、オールデン・アルヴァロ・ロベルトとなる。

テタ・ランド
(Alberto Teta Lando,1948年6月2日[1] - 2008年7月14日)とは、アンゴラのミュージシャンである。アンゴラ北部ザイーレ州のンバンザ・コンゴにて、コンゴ人として生まれた。彼はポルトガル語圏アフリカとポルトガル以外では著名ではない。彼の音楽は、内戦やアンゴラからの亡命者のサウダーデ(郷愁に近い意味だが、日本語に正確に訳すことは不可能な概念)、若い愛や家族などアンゴラのアイデンティティに焦点を当てている。

パウロ・ディアス・デ・ノヴァイス
(1510年 - 1589年)とは王族である貴族であり、16世紀ポルトガルのアフリカ植民者にして初代アンゴラ総督である。彼は探検家バルトロメウ・ディアスの孫だった。ノヴァイスは1575年2月20日に現在のアンゴラに相当する地に到達した。カンバンベに期待されていた有名な銀鉱脈にひきつけられ、彼はルアンダ島近くのサン・パウロに定着した。

ファブリス・アルセビアデス・マイエコ
1977年5月30日 - は、アンゴラ共和国、ベンゲラ出身の元同国代表サッカー選手。通称アクワ。ポジションはフォワード。1995年、17歳ながらアンゴラ代表としてモザンビーク戦で代表デビュー。2006 FIFAワールドカップ・アフリカ予選のルワンダ戦ではアンゴラを初めてのFIFAワールドカップへ導く決勝点を決めた。

センバ
Sembaとは、南部アフリカに位置するアンゴラ共和国の伝統音楽の様式である。センバはアフリカに起源をもつ様々な音楽様式の前身であり、3つのうち特に有名なものとしてはサンバ(ブラジル)、キゾンバ(カリブ海のリズム、ズーク直系のアンゴラの音楽様式)、クドゥーロ(またはクドゥール、精力的な、テンポの早いいわばアンゴラのテクノ/ハウス音楽)が挙げられる。

ペドロ・マントラス
Pedro Manuel Torres "Mantorras", 1982年3月18日 - はアンゴラのウアンボ出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。アンゴラ代表として2006 FIFAワールドカップに出場した。フィジカルが強く、数人のディフェンダーが付いたとしてもものともしない。シュートセンスも高く、状況に応じて瞬時に判断しシュートコースを変えられる。

ペペテラ
Pepetela, 1941年 - はアンゴラの作家。アンゴラ西部のベンゲラ出身。ポルトガル系アンゴラ人。本名は、アルトゥール・カルロス・マウリシオ・ペスターナ・ドス・サントス(Artur Carlos Maurisio Pestana dos Santos)。MPLA(アンゴラ解放人民運動)の一員としてアンゴラ独立戦争に参加し、その体験をもとに小説『マヨンベ』を執筆した。

ボンガ
ボンガ・クウェンダ(Bonga Kwenda)出生名はジョゼ・アデリーノ・バルセロー・デ・カルヴァーリョ、ボンガとして良く知られている、はアンゴラ出身のポップス歌手であり、ソングライターである。ボンガは1943年にベンゴ州で生まれ、23歳の時にアスリートとなるためにアンゴラを離れ、400m走のポルトガル記録を獲得した(当時のアンゴラは、ポルトガルの五つのアフリカ植民地の内の一つだった)。

彼は15歳から既に歌手としてのキャリアを重ねていた。アンゴラは未だにポルトガル植民地であり、ボンガは率直な独立の支持者であった。このことは彼が1970年代初頭にアンゴラから追放されることにつながった。彼が1stアルバムであるAngola 72をリリースしたのはこの期間である。アンゴラ独立後のボンガはリスボン、パリ、アンゴラに居を構えた。

脱植民地化後のアンゴラの生活は腐敗、卑劣、蛮行、果てしない血塗られた内戦として描かれ、ボンガは全陣営の政治指導者を批判し続けた。ボンガの平和と良心の声は、彼がどこにあるかを問題にせずに彼をアンゴラ人の英雄に押し上げ続けた。彼は猛烈に非暴力の理想に専念し続け、シンプルにこう語っている。「我々は他者を不快にせずに生きねばならない。」

アンゴラ共和国 Angola
アフリカ南西部に位置する共和制国家。東にザンビア、南にナミビア、北にコンゴ民主共和国と国境を接し、西は大西洋に面している。コンゴ民主共和国を挟んで飛地のカビンダが存在し、カビンダは北にコンゴ共和国と国境を接する。首都はルアンダ。

■主要産業
(農)とうもろこし、フェイジョン豆、砂糖、コーヒー、サイザル麻(鉱)石油、ダイヤモンド●石油・ダイヤモンド等の鉱物資源の他、土地も農業に適し、漁業資源も豊富である。特に、石油生産は順調に伸びており、2007年には、ナイジェリアと並ぶサブサハラ最大の産油国となると言われる。石油産業を中心に外国投資も急増しており、1999年、2000年と外国直接投資はアフリカ諸国で最大。

ルアンダ国際空港
Quatro de Fevereiro Airportはアンゴラの首都ルアンダにある国際空港である。また、TAAGアンゴラ航空の本拠地でもある。正式名称は「クアトロ・デ・フェベレイロ空港(2月4日空港)」であり、由来はアンゴラ独立戦争の始まった日が1961年2月4日であった事に因んでいる。

ノバ・リスボア空港
(英: Nova Lisboa Airport)はアンゴラのウアンボにある空港である。


外務省:アンゴラ共和国
在アンゴラ日本国大使館
アンゴラへ渡航される方のためのご案内 ・ アンゴラに居住される方のためのご案内 ・ アンゴラを知るための情報 ・ フォトギャラリー ・ アンゴラ奮闘記 ・ 医務官より ... アンゴラ 情勢報告(10月号)をアップしました



在日アンゴラ大使館ホームページ
駐日アンゴラ共和国大使館のウェブサイトにようこそ。 このウェブサイトにはアンゴラ経済、観光及び、文化についての情報が載っています。

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オカヴァンゴ川
Okavango River)は、アフリカ南西部を流れる川である。南西部では4番目に長く、全長は1,600kmある。アンゴラ高原に源を発し南東へ流れ、アンゴラとナミビアの境を越えボツワナにまで達している。

カサイ川
アフリカ中西部、コンゴ民主共和国(旧ザイール)南部とアンゴラ北東部を流れるコンゴ川の支流。全長約2150km。アンゴラ中部のベンゲラ高原に源を発して東流した後、コンゴ民主共和国との国境をなしつつ北流する。

クネネ川
(Cunene River、Kunene River)は、アフリカ南部を流れる川である。アンゴラ高地からアンゴラとナミビアの国境に向かって南に流れ、それから西に国境を流れ大西洋に注ぐ。長さは約1,126km。途中にあるエプパ滝は、ナミビア北部に居住するヒンバ族にとっての神聖な滝とされる。

コンゴ川
Fleuve Congoは、中部アフリカのコンゴ盆地を蛇行しながら流れ、大西洋に至るアフリカ大陸2番目の長さ(4,371km)を誇る河川である。コンゴ川の名はコンゴ王国に因む。

ミトゥンバ山地
Mitumba Mountains, Mitumba Rangeは広義にはコンゴ民主共和国南東部のカタンガ高原北東部から大地溝帯西リフトバレーを形成するタンガニーカ湖両岸、タンザニア、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダ西部山岳地帯の5ヵ国にまたがる山地の総称である。

ベンゲラ海流
南大西洋・アフリカ西岸を北上する海流。はっきりとした海流の特性を示すのはアフリカ南端から北緯17、18度までで、幅数百kmにわたると考えられている。その影響は南赤道海流への移行域付近にまで及ぶ。

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バントゥー系民族
バントゥー系民族(Bantu peoples)は、アフリカ言語の大カテゴリであるバントゥー語群に属する多様な言語を使用しつつ1つの大きな言語集団を成す多くの民族の総称である。この語は、現在のカメルーンから中央アフリカと東アフリカを横切り南アフリカまでのブラックアフリカに分布する、400以上の民族(140 - 600以上の言語)に対する一般的分類として用いられている。近年の学術界における一般解釈では、バントゥー系民族の祖先である 原バントゥ族(Proto-Bantu)発祥の地は、およそ4000年前(紀元前2000年)の現在のナイジェリアとカメルーンの境界線付近南西部付近であると考えられている。


ベンゲラ鉄道
アンゴラの大西洋岸にある港町ロビトとコンゴ民主共和国のカタンガ州を結ぶ鉄道。全長1344km、軌間は1067mmの狭軌である。カッパーベルトと海を結び、ザンビアやコンゴ民主共和国の重要な輸出経路となっていたが、アンゴラ内戦により破壊され、現在復旧中である。タンザン鉄道と連絡し、アフリカの大陸横断鉄道となっている。


今のルアンダ市について

現在のルアンダ市は、27年にわたる内戦中に流入した避難民が定着し、アンゴラの総人口の30パーセント近い400万人から500万人が集中する事態となっています。 また、石油生産が軌道に乗り、収入が増大するにともない車輌数もうなぎ登りに増え、同市の現在のインフラの能力を遙かに超えてしまいました。そのため、激しい交通渋滞が慢性化し、週末の車輌の少ない日であれば15分程度の道程も、夕方の混雑時には1時間から3時間かかる日も珍しくありません。特に、雨の日は渋滞がひどく3キロ程度移動するのに2時間半から3時間もかかる事態に至っています。

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アンゴラ民族解放戦線
National Liberation Front of Angola,略称:FNLA)は、アンゴラの武装組織、政党。1962年4月、ポルトガルからのアンゴラ独立を目指して創設された組織のひとつである。創設者は、ホールデン・ロベルト。1992年に政党として再編・改組された。

アンゴラ全面独立民族同盟
Nacional para a Independência Total de Angola,UNITA:ウニタ)とは、1966年、アンゴラで結成された武装抵抗組織/政党。アンゴラ内戦の当事者。創始者、初代議長はジョナス・サヴィンビ。

アンゴラ解放人民運動
(MPLA-PT)はアンゴラの政党。党首に相当する議長はジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントス。独立以来、党の柱であった社会主義経済政策を放棄し、複数政党制を導入しながらも、一貫して政権の座にある。

社会改革党
Social Renewal Partyは、アンゴラの政党。1991年結成。キオコ族(チョクウェ)が主体である。結党直後の1992年総選挙で6議席を獲得した。しかし、1999年には党内抗争の結果、4人の議員が離党に追い込まれた。

新民主選挙連合
New Democracy Electoral Unionは、アンゴラの政党連合。結成は、2006年11月18日。[1]新民主選挙連合は、2008年人民議会総選挙目前にアンゴラ最高裁判所によって設立を承認され登録された。新民主選挙連合に参加した諸政党は以前は、別の選挙連合 Partidos da Opocição Civilを構成していた。選挙連合総裁(党首)には、アンゴラ民主運動党首のクィンティーノ・デ・モレイラが就任した。


ポルトガル語諸国共同体
Comunidade dos Paises de Lingua Portuguesa, CPLPはポルトガル語を公用語とする諸国によって構成される国際協力組織。加盟国が対等の立場で政治、経済、文化の面で協力することを目的として1996年7月17日に結成された。ポルトガル語の普及にも力をいれている。加盟国の人口総数2億2300万人、面積10,742,000平方キロに及ぶ。

ポルトガル語
主にポルトガルおよびブラジルで使われている言語である。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス語の1つで、スペイン語などと共にインド・ヨーロッパ語族イタリック語派に属する。スペインの作家セルバンテスはポルトガル語のことを「甘美な言語」と、ブラジルの詩人オラーヴォ・ビラックは「ラティウムの最後の、粗野で美しい花」と評している。

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アンゴラ人民共和国
Republica Popular de Angolaは社会主義国(西側では一般的に共産主義国として知られる)を自認し、1975年にポルトガルから独立した後に設立され、モザンビーク人民共和国の状況と似ていた。新たに形成された国民はソビエト連邦、キューバ、モザンビーク人民共和国との友好関係を保っていた。1991年に、MPLAとUNITAは和平協定に調印し、アンゴラにおける複数政党制が認められた。しかし、酷い論争が続き、アンゴラ人民共和国は最終的に1992年に廃止され、今日のアンゴラ共和国となった。


コンゴ王国
Kongo ya Ntotilaは、14世紀末から1914年までの間、中部アフリカ大西洋岸にあった王国である。現在のコンゴ共和国・コンゴ民主共和国・北アンゴラ・ガボンに相当する地域を支配していた。首都はンバンザ・コンゴ。

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コンゴ人
(Bakongo)は、アフリカの民族。コンゴ共和国南部のポワントノワール周辺からアンゴラ北部のルアンダ周辺までの海岸部に主に居住する。バントゥー系。人口は約1000万人。コンゴ人は紀元前5世紀には現在の居住域であるコンゴ川河口付近に居住していたと考えられている。14世紀にはコンゴ王国を建国し、ポルトガルとの交易などで繁栄したが、やがて奴隷貿易や1665年のポルトガル軍の侵攻などにより衰退し、コンゴ王国は名目上の存在となり、群雄割拠の状態となった。


アフリカ分割
1880年代から第一次世界大戦前の1912年までにかけて、ヨーロッパの帝国主義列強によって激しく争われたアフリカ諸地域の支配権争奪と植民地化の過程のこと。1912年にイタリアがリビアを獲得した事により、リベリアとエチオピアを除くアフリカの全土がヨーロッパのわずか7か国によって分割支配された。


■民族
オビブンドゥ族、キンブンドゥ族は農耕民族であるのに対し、キコンゴ族は古くから貿易、交易で生計を立ててきた民族だと言われてます。ポルトガル系を中心とした混血や白人は、依然としてアンゴラ経済の中枢を占めています。

■宗教
キリスト教が最も信仰されており、カトリックが3分の2を占めている。都市部には教会(カトリック、プロテスタントなど)が多数ある。地域によっては伝統的な土着宗教も根強く信仰されている。


<歴史
サバンナの王国社会
ザイール川流域は、アフリカ大陸の地表のおよそ一〇分の一を占める。その外縁部を構成するのはサバンナの世界であり、ここには15世紀ころからコンゴ、ルバ、ルンダの王国と文明が形成された。

■ポルトガルとアフリカ
十五世紀末以降、イベリア半島のスペインとポルトガルを先頭に、北西ヨーロッパ諸国が探検、略奪、植民、商取引などの形で海外に進出した。一般に大航海時代と言われる。

■大西洋奴隷貿易の開始
大西洋奴隷貿易の開始を告げたのはスペインだった。十七世紀になると、スペイン、ポルトガルに代わりオランダが、十八世紀にはイギリスの主導のもとに大西洋奴隷貿易は絶頂期を迎えた。大西洋を渡ったアフリカ人奴隷の数は、一般には千二百万から二千万程度と見積もられている。

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■植民地支配
1880年から1910年までのわずか30年の間に、広大なアフリカ大陸は、ヨーロッパ列強によって分割され、武力征服され、植民地支配が始まった。大部分のアフリカ諸国が独立した1960年代になっても、ポルトガル植民地のアフリカ人の9割以上は読み書きを学ぶ機会を与えられなかった。

アンゴラでは、アゴスティーニョ・ネトーが率いるMPLA(アンゴラ解放人民運動)が結成された。こうした中で、ポルトガル本国で1974年、反ファシズムのクーデターが成功し、新政権の下で、74年から75年にかけてすべての植民地の独立を認め、アンゴラも独立を達成した。

■新生アンゴラの誕生
MPLAは1990年に社会主義路線を放棄し、翌年には複数政党制の導入を決めた。1991年5月、MPLAとUNITAがリスボンで和平協定に調印したが、1992年の大統領選挙及び議会選挙をめぐる対立から再び内戦となった。1994年、国連の仲介で和平がなったが、1998年に内戦が再燃した。2002年2月、UNITAのサビンビ議長が死亡したことから、和平機運が高まり、やっと内戦に終止符が打たれた。

現在まで和平の定着のために様々政策が実施された。2008年秋には初の全政党が参加する民主的な総選挙が平穏理に実施され、与党MPLAが圧勝、国内の政治的安定度性が一挙に高まった。2008年、アンゴラはサブサハラ・アフリカ諸国の中で最大の産油国の一つとなり、南部アフリカの中でも政治的にもっとも安定した国の一つとなりつつある。


 

 

 

 

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