■マヤに関する一冊の本との出会い
スティーヴンズは1836年に中東の旅から帰り、スペインの陸軍士官アントニオ・デル・リオが著したメキシコ南部のパレンケという廃墟の事を記した一冊の本と出会います。この「古代都市の廃墟の記述」と題する本がスティーブンスにマヤ考古学への関心を最初に与えました。数年後ある友人からスペインの画家ヴァルデックが描いたユカタンの遺跡の絵がある紙ばさみを見せられ、興味を持ちその後、キングズバラのエドワード・キングというアイルランド貴族の著作集「メキシコの遺跡」という一連の本に非常に強い関心を持ちます。その他スペイン軍士官ギレルモ・ドゥパイクスと言う士官の書いた「メキシコの遺跡」ドイツ人博物学者で探検家のアレクサンダー・フォン・フムブルトの論文「アメリカの山岳と原地人の遺跡考」アイルランド生まれの兵士で冒険家で公務員のジュリアン・ガリンドの「古代アメリカ社会の発展」などを次々に読破しスティーヴンスのマヤに対する興味はどんどんと増していきました。
■中米探検の決意
そして1839年にこの神秘的な遺跡のはっきりとした証拠を見つけに中米の密林に探検に出かけることを公言しました。当時の専門的な歴史家や大部分の学者はアメリカのインディオは裸体の野蛮人でそれ以上の文明人であったなどとは考えていませんでしたし、比較的新しい学問であった考古学の眼はほとんどアメリカには向けられておらずスティーブンスの探検の成果には懐疑的な風潮でした。アステカやマヤやインカの滅亡以前の素晴らしい業績を眼にしたスペイン人探検家の目撃談や証言は無視されるか信用されませんでした。
壮麗なマヤの都市や芸術的な彫刻や装飾品は彼らの誇張か幻想のように思われていたのです。こうした風潮の中でスティーヴンズは調査を進める中で自分が発見したことを立証する証拠が是非とも必要だと痛感するようになりました。そして友人のキャザーウッドこそこの立証に必要な能力を持ち合わせる人物だと思いました。(この時キャザーウッドは英国からニューヨークに帰ったばかりで、それまでの旅行で描いた絵の展覧会を開いていました)キャザーウッドは新しい土地の探検に意欲を燃やしスティーヴンスの申し出を快諾し一緒に探検を決行することとなりました。
■キャザーウッドと共に
二人は最初の目的地としてホンジェラスのコパンの古代都市を調査する事に決めました。出発の前夜スティーヴンズはかねてから申請していた合衆国の中米大使としてのポストを幸運にも得ることに成功しました。当時の中米は各地で内戦状態にあり探検にはかなり危険な状態でしたから、中米大使としての外交上のパスポートが身を守る上で役に立つだろうと考えたからです。1839年10月、探検隊の一行は英国領ホンジェラスのベリーズに向かって出向しました。そこから汽船でプンタゴルダに南下し、ドゥルセ川をヴァテマラのの北東海岸にほど近い内陸のイザバル湖へと北上しました。彼らは湖の南端の小さな村で案内人と騾馬をやとい、ミコ山という険しい障害を乗り切り戦に荒廃したヴァテマラの奥地に入って行きました。一行はコパンに遺跡があるという希望を抱いて厳しい難所を次々と乗り越えて行きました。ジャングルの行く手を消し去るほどの激しい雨に見舞われたときは、さすがのスティーヴンズも自信を失いかけました。しかも進めば進むほど、ジャングルの様相は恐ろしさを増し、文明がこの様な場所で繁栄したとは考えられなくなってきました。
後にスティーヴンズはこの時の気持ちを回想して「藁をも掴みたい気持ちで進んで行った」と述懐しています。そして彼はこの旅行の最初から一行にふりかかった危険についてこう記しています「山道は急な登りとなり、狭い渓谷は騾馬の足跡と流れ出す山水のためにぬかるみになってひどい道となった。そこはたいへん狭い所で両側の山肌は頭上より高く、触れずに通るのがやっとだった。われわれ一行は一人ずつこの狭い谷間を進んで行った。騾馬追いは動けなくなった騾馬を助けたりころんだのを起こしたりして、積み荷を整えながら騾馬を怒ったり怒鳴ったり、むちで叩いたりしていた。
一頭でも止まれば後から来る者は全て動けなくなる。向きを変えることすら出来なかった。急に動き出せば両側の山肌にぶつかって脚を折る危険性も少なくなかった。この谷道から抜け出すとまたもや深いぬかるみや突き出した木の根にぶつかった。そのため山道の登りは一層困難なものになった。---密林は通り抜け出れるとは思えないほど茂っていて、目の前には道らしいものが見あたらなかった。われわれはぬかるみからやっと抜けだし、峡谷を押し分けて進み、木にぶつかり、根につまずきながら歩いた。一歩一歩に細心の注意を払い、全力をふりしぼらなければならなかった。
そして不名誉にも、墓碑に”騾馬の頭上からころがり、マホガニーの木の幹で頭を打ち、ミコ山の泥の中に埋まった”と刻まれるのではないかと思った。」
■自然の恐怖から人的恐怖へ
しかし一行は、とうとう高地の濃い密林を抜け、モンタヴァ川を横断しヴァテマラの東部境界近くの火山性高原を登った。そしてこの過酷な肉体的な困難から抜け出したとたん今度は政治的な危険が待ちかまえていました。一行がコマタンという村に入るとインディオとスペイン混血人などの兵士の一団に突然捕らえられました。スティーヴンズが記すところによると「杖・剣・棍棒・小銃・マチューテなどで武装したどう猛な顔つきの連中だった」その一団の長らしき者がスティーヴンズの外交官としてのパスポートを無効なものだとして一行を拘留したのです。殺気を帯びた無頼漢に銃を突きつけられたときは「この探検旅行ももう終わりかと思われた」そう述懐しています。しかし、この事件は始まった時と同じように思いがけなく解決し翌朝、理由もなく解放されました。一行は急いでホンジュラスを横切り、彼方の小さな村へと進みました。そしてこの村で遺跡を知っている一人のインディオを見つけることが出来ました。新しい案内人を得てスティーヴンズとキャザーウッドは深い密林に分け入って行きました。山道をマチューテで切り払いながら、一行はやっとの思いでリオコパンと言う川の畔にたどり着きました。そして対岸を見渡すと、こんもりと茂った森の間におよそ30メートルの石壁がはっきりと見えたのです。
■最初の遺跡との出会い
一行はすぐにその川を渡って進み、壊れかかった階段を上へ登っていくと、そこからは森の中の他の建物の遺跡が見えました。そこには想像をはるかに上回る進んだ文明の遺跡がありました。