霜月/11月/NOVEMBER
沈黙の春と沈黙の街 四季の移り変わりは生き物が知らせてくれました。それにしてもたった数十年でツバメやトンボはおろか、猫さえ見かけることがなくなった都会。表面的には近代的で快適な都市空間ですが、よく考えればレイチェル・カーソンの著書「沈黙の春」を連想する環境の激変です。はたしてこれでいいのか?もう少し自然環境に配慮しなければ騒音と活気があっても人間的には「沈黙の街」となって消えてしまった生き物のように心がどこかに行ってしまうような気がします。 自由がなくなるほど不幸なものはなくて 自民党安倍政権がやろうとしていること、特定秘密保護法案を成立させることはまさに時代に逆行すること、やっとたどり着いた平和と民主主義をふたたび硬直させ、再び戦争にさえ向かわせかねないあまりにも愚かな法案です。多くの人が危機感を募らせ、新聞紙上や街頭デモで反対の意志を示しているにもかかわらず我関せずの強硬姿勢には不気味さえ感じますが、法案を成立させてしまえば、国も社会もバランスを失ってじわじわと「自由」や「平和」を蝕んで行くことは容易に想像がつきます。ほんとうに恐ろしいことです。そんな政治家や政党を選んだのは国民ですが、今はともかく国民の総意でこの暴走を止めなくてはいけないと思います。 800万人もの認知症患者と国の姿勢 自分自身が発病する可能性をも含めて、多くの家族が認知症という問題に向き合わなければならない時代です。この深刻で難しい問題には個人が対処できる範囲は限られています。国家としての援助が広く細やかに行なわれなければ認知症を患った本人も介護をする家族も共倒れになってしまうことは予想がつきます。認知症ではなくとも年老いた両親の介護問題は深刻です。症状、経済力など在宅介護の限界は明らかにあります。にもかかわらず介護施設は不足し、特別養護老人ホームへの待機者は十数万人と言われています。 しかも施設に足を運べば分かりますが、介護士の人数は不足し、現場は過酷です。それでも使命感をもって懸命に介護する人たちの姿に感謝の気持ちでいっぱいになります。国としてできることがいっぱいあるのではないかと思います。福島原発事故の被災者への対応を見ても感じますが、国が国民に持たなければならない責任があまりにも希薄です。老人の現状はそのままこの国の現状です。そして子どもたちの未来への暗示だと思うのです。 「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」 1974年にエチオピアで発見された化石人骨は318年前のものでアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)、別名「ルーシー」と呼ばれるようになったのは発掘を祝う騒ぎの中でビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」が何度も流れていたからだそうです。(ウィキペディア/ルーシー)。 近年、アフリカ大陸中部で600万年前から700万年前にかけての地層より出土したサヘラントロプス・チャデンシスが最古の人類となっていますが、まだまだ過去へ遡るだろうと思われます。700万年に及ぶ人類の歴史と5000年という文明の時間軸のアンバランスにはどんな謎があるのだろうと考えてしまいます。びっくり仰天の未知のピースがどこかに埋もれているのかも知れません。 同じくウィキペディアにこんな記述もありました。「2004年2月13日に、ハーバード大学の天文学者は白色矮星BPM 37093の発見を発表した。BPM 37093は炭素で構成され、最大で1034カラット (2×1030kg、太陽質量程度) のが結晶化していると考えられた。彼らはその星をルーシーと名付けた。」化石人骨も星もどちらも夢のあるネーミングです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ 千差万別、十人十色、生き方も個性も違うのは当然ですが 分子人類学的には人種間の遺伝距離は同じ人種内の個人的な遺伝距離に比べればずっと小さいそうですが、実感します。他者の命を守るために身を削り、命がけの行為までする人がいるかと思えば、我欲と姑息な処世術だけで他者を顧みない人もいます。その差は同じ種の生き物なのだろうかと思うぐらい隔たりがあります。個性はとても大切なものだとは思いますが、人間であるならば、他者に対する慈愛と他者に対する想像力だけは1人1人のベーシックとしてなければならないと思うのです。人類の分類、それは古今東西1つしかありません。心ある人間と心ない人間です。 核のゴミどうすんの!? 山本太郎と広瀬隆のドイツ取材3000kmの旅 「核のゴミどおすんの?」このDVDを観て原発の核廃棄物が人間の手に負えないものであるかを実感すると同時に原発というエネルギーを使ってしまった人類の愚かさを今後払拭できるのだろうかという不安がよぎります。2010年の国際環境映画祭でグランプリを取ったデンマーク映画「Into Eternity」(10万年後の安全)を観た時にも思ったのですが、強固な岩盤を掘り下げた地層処分でさえ、何万年と言う時間軸の中ではどうなるか分からず、放射性物質の底知れない恐ろしさを感じます。 DVDを観てよく分かりましたが原発に対する意識が高いドイツでさえ核廃棄物の処分には困り果てているのが実態で、一度地下深くに貯蔵した核廃棄物を地下の状態の不安定さゆえに取り出すシーンには「安定した保存など不可能ではないか?」との不安さえよぎりました。世界の科学力を結集し、核廃棄物の安全な処理方法を見いだすだけでも至難だと言うのに、まだ原発を動かして核廃棄物を増やすなどは気違い沙汰です。福島原発事故から2年半たった今の福島の現状を見るだけでも「2度と原発を動かしてはいけない」と思うのが人間として当然の感覚だと思うのですが、そうでない人間の頭の中には何が巣くっているのだろうと背筋が寒くなります。 とにかく、圧倒的多数の人が、事実を認識して当たり前の判断をするまで、1人1人の働きかけと、ジャーナリズムの力を緩めることがあってはいけないと思います。「すでにつくってしまった核のゴミをどうするか」たとえ全原発の廃炉を決定したとしても、未来に向けて最大の問題が残ることには変わりがないのですから。
【DVD先行配信映像】核のゴミどうすんの!? 山本太郎と広瀬隆のドイツ取材3000kmの旅 武士は食わねど高楊枝&襤褸は着てても心は錦 特に戦後の日本は社会に連綿と続いた価値観を全否定し、個人の欲望追求に精を出した。その結果、人々はどこまでも満たされないことに疲れ、精神の豊かさを見失った。・・・」とも語っています。いつか大阪新世界の喫茶店で店主のおばあさんが「戦後復興の見本がアメリカではなくてヨーロッパだったら違った日本になっていたでしょうね」とため息をついていたのを思い出します。それにしても日本にも仏教の教えがあり、武士道精神があり、人間が何故この世に生まれ、何故に生きているのかを問う風土は古来からあります。 水前寺 清子さんの「いっぽんどっこの唄」が流行ったのは1966年。
原発。その理不尽、危険性に何十年に渡って警鐘を鳴らして来た人がいて 原発を再稼働させない、全原発廃炉は国家として当然の方向です。決断は早急にしなければなりませんが、安全に処理できるまでには長い時間がかかるのも周知の事実です。今は原発と同時に注視しなければならないのは「特定秘密保護法案」と「改憲」の動向です。日本の未来を左右する大問題で、原発問題とも直結しています。多くの人たちが地道な努力を続けて来た脱原発の流れを先々ひっくり返されないとも限りません。脱原発を訴える人間ならば、当然、改憲にも秘密保護法案にも反対のはずです。 そして福島の故郷を追われた人たちの現状、被ばくの不安の中で暮らしている人の心情、被ばく覚悟で作業する人々への気遣いがにじみ出てこなければ不自然です。真の動機は分からないけれど、今頃になって悪政の張本人である小泉純一郎氏が脱原発を言い出したことに疑問を感じている人は少なくないと思います。 確かに原発に反対する人間が1人でも増えることには異論を持てないのも現実です。でも、かって自民党をぶっ壊すと言って自民党を守り、大企業を潤わし、格差社会の歪みを大きくした人間であることをふまえて考えなければ同じ過ちが繰り返されるかも知れません。杞憂であればいいのですが・・・ 昔なつかしい味。 ・・・また有効微生物群の発酵飼料の餌を与えることにより、盛っこりした黄身と弾力のある白身、硬くてきれいな殻の卵になりました。更に味にもコクがあり、臭みがない昔なつかしい卵の味を再現することができました。・・・」と書かれていてさっそく卵かけご飯にして食べると、確かに昔なつかしい大好きだった卵の味がします。 昔なら自然に育った鶏が普通に卵を産んだ結果の味。それが今や神経を使い研究と手数をかけなければできない味になったのかも知れません。普段スーパーなどの安価な卵を食べていますが、余りにも安いので、これで農家は儲かるのだろうかと思うこともしばしばです。そして、いったいどのようにしてこの安価な卵はつくられているのだろうと、不安にもなります。 この卵の蓋の裏に書かれた説明書きの反対を考えれば、考え込んでしまいます。卵に限らず大量に安く食品をつくろうとすれば、陥ってしまう危険性。家畜や作物に課した過酷な環境は結局まわりまわって、人間に戻って来ます。農薬、遺伝子組み換え、放射能・・・一つ一つの影響だけでも案じられる要素が複合的ですから、不安にもなります。昔なつかしい味は、昔なつかしい心であり、昔なつかしい社会であるような気がします。 ジョルダーノ・ブルーノの信念
核の脅威、環境破壊、地球温暖化、農薬汚染、遺伝子組み換え食物の不安、そして放射能汚染。過去2000年とこれからの2000年を考えただけでも存続において等比でないことは誰にでも分かることです。ある程度進化した文明が1万年を維持するためには、経済や科学を制御する高度な精神性がいるのは当然ですが、精神は進化しているでしょうか。ブルーノの火刑ではありませんが、正しい考えが抑圧され、真理が埋没させられるような低次元な精神社会は悲しいけれど継続していて、まさに「傲れる野獣の追放」がなさなければ4万年は夢のまた夢ではないでしょうか。 ポールがビートルズと共にやってきた イーグルス、レッド・ツェッペリン、シカゴ、ピンクフロイド・・・素晴らしいバンドはいくつもあってそれぞれの存在感は強固なものだけれど、世代を超えジャンルを超えいつもどこかで世界に漂っているような音楽、それがビートルズサウンドです。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの4人の異質な個性と共通する感性、そして若い彼らの価値観がつくり出した永遠のハーモニーなのだろうと思います。バンドの解散後も次々と名曲をつくり出したポールですが、他の3人と同じように彼もまた永遠にビートルズそのものなのだと思います。 水銀被害(水俣病)の現実に重なる原発事故後の現状 2013年11月7日(木)放送のNHKクローズアップ現代で、「動きだした水銀規制、水俣の教訓をどう生かす」と題された放送を見てあらためて日本の無責任な体質を感じました。欧米は国内法で水銀の輸出は禁止されていますが、日本はリサイクルしたものを輸出していて、日本企業全体が輸出してきた水銀は、この10年で1,000トン以上。しかもまた日本はキルギスタンを除くアジアで唯一の水銀輸出国とのこと。(ヘルプアニマルズ アニマルライツ動物の権利 ニュース) 水俣病という歴史的な惨事を起こした当事国の反省や教訓はどこにあるのかとその神経を疑うと同時に原発事故が収束するめども被災者の救済もおぼつかない現状で原発を輸出しようとする現政権の無神経が重なります。クローズアップ現代の映像にブラジルのアマゾン川流域の住民が金採集のために水銀を使い、水銀の残った廃液を川に垂れ流す様子が写っていましたが、恐ろしいことです。日本の水銀の輸出先は輸出先は、インドやブラジル、東南アジアなどと同番組に出ていましたが、貧しい途上国で水銀が安全に管理、使用されるとはとても思えません。経済先進国としての自覚のなさ、誤った過去の反省が真摯になされないこの国の有り様の原因は一体何なのでしょう。 *天皇、皇后両陛下が27日に熊本県水俣市を初めて訪れ、水俣病患者と懇談することについて、7月に初めて皇后さまと会った熊本市在住の作家・石牟礼道子さん(86)は「水俣にはまだまだ問題が残っています。患者の苦しみに思いを致していただく機会になればと思います」と願う。・・・東京のホテルで開かれた社会学者の故・鶴見和子さんをしのぶ「山百合忌」の会。石牟礼さんは皇后さまの隣に座り、2時間あまりを過ごした。石牟礼さんが鶴見さんの思い出話をすると、皇后さまは「今度、水俣に行きますからね」と答え、パーキンソン病を患う石牟礼さんの皿に料理を取り分けたという。石牟礼さんは後日、「今も認定されない潜在患者の方々は苦しんでいます。50歳を超えてもあどけない顔の胎児性患者たちに会ってやって下さいませ」と手紙を書いたという。(2013/10/25朝日新聞) 食材偽装の嵐の影で重要な特定秘密保護法案が審議入り 新聞紙面の一面に連日取り上げる問題だろうかと思います。その影で、日本のこれからを左右するような大問題である特定秘密保護法案の話題が埋もれてしまっています。新聞なら一面、テレビのニュースでもトップで取り上げ、その中身と問題性を国民に十分に知らしめるのがマスコミの役目だと思うのですが、まるで特定秘密保護法案への関心をそらすために話題材料を用意していたのではないかと思えるぐらいの食材偽装問題の連発です。過去においても重要な法案が審議される時期にタイミングよく話題をさらう事件が浮上するケースが何度もありましたが、今回も似た感があります。 本質的に何が重要な問題なのか、1人1人がアンテナをはっていなければ、大事な問題は素通りしてしまう状況があります。国民が打ち上げ花火に気を取られている隙にどろぼうに入るようなことを政府がしていいものでしょうか。まして権力の横暴を阻止すべくあるはずのジャーナリズムがそのお先棒を担ぐようなことをするなどもっての他だと思うのです。 聖徳太子が嘆く四天王寺の偏狭 反原発は政治でも宗教でもなく純粋にヒューマニズムの問題です。「いのち優しく生きたい」というテーマそのままの問題です。四天王寺側にこそ政治的な思惑が見えます。豊かな耳を持つといわれた聖徳太子。「人の話を聞き分けて理解することに優れている」とされる聖徳太子が聴けばその浅はかさを嘆くに違いありません。まさにヒューマニズムの問題から反原発を訴える仏教界の僧侶も数多くいる中で、あまりにも情けない話です。 鯨と松茸 化石燃料の普及で燃料の薪や肥料の落ち葉が必要とされなくなり放置された里山の養分過多にあるそうです。アカマツと松茸の関係は養分が過多にあると成り立たないそうです。ふと、人間社会にも似たようなことがいえるのではないかと思いました。人が人の心に入らない、人が人と関わらない、それは愛情が不足しているわりには経済や物質、養分だけは過分にある今の世相に通ずるものがあるような気がしたからです。 暗雲を払えるのは1人1人の意識改革しかなくて 特定秘密保護法案、改憲、TPP、原発再稼働への動き。安倍首相はこの国をどうしたいのかさっぱり分かりませんが、目指すものが美しい国でも、民主的で平和な国でもないことだけははっきりしています。そしてはびこるブラック企業。弱者を搾取し、歪みきった精神で得た利益がいったいなんだと言うんでしょう。 有権者であり、消費者である国民1人1人が間違った政治家や企業家の浅はかな方策に乗らなければ彼らは自己崩壊するはずです。彼らにはその向こうのビジョンがないのですから。それにしても信用が最大の企業コンセプトである銀行や大手ホテルまでもが目先の利益に血迷うような現状があることだけは事実です。そしてこの国を覆う暗雲を払うことができるのは、国民1人1人の意識改革しかないのもまた事実です。
世界に点在するヒューマニズムこそ希望そのもの ・・・と絶望とも思える言葉に変わっています。度重なる戦争、そして広島、長崎に投下された核爆弾のショックはウェルズの未来感をこなごなに打ち砕いたのだと思います。平和で調和がとれた未来像があってこそウェルズは「透明人間」や「タイムマシン」などの科学小説の世界に想像の羽をはばたかせ、科学はその道案内だと信じていたのでしょう。 それから半世紀以上がたち科学技術は飛躍的に進化したけれど、強力な農薬、遺伝子組み換え食品、放射能などの複合汚染は深刻度をまし、環境そのものが「精神のない科学」によって壊されつづけています。しかも核の脅威はそのままに、あろうことか原発などという核廃棄物の処理さえできない不完全で危険な装置までつくってしまいました。 1946年に悲観的な思いの中で亡くなったウェルズが今の世界を見れば、希望の光をどこに見いだすのだろうと考えてしまいます。おそらくそれは科学ではなく人間そのものなんだと思います。平和のために、環境のために、子どものために、愛するもののために、人類のたった一つの生存圏である地球のために・・・世界中にそんな人たちが少なからずいる事実こそが希望そのものなんだろうと思います。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。