長月/9月/SEPTEMBER
介護施設の現場に思うこと 20人あまりの老人に対して、介護士が1人しかいないような現場を何度も見ました。施設運営がどんな形でなされているのか不安と疑問が起こりますが、経費と利潤の問題があるのは明らかです。 教育や福祉に関しては国の主導がなければ歪みが出るのは当然です。福祉施設とはいえ経営者によってはブラック企業化している現実が新聞などで取り上げられてはいますが改善の兆しはありません。逆にまともな経営者が運営に四苦八苦しているのも現実で理不尽です。 しかもそのような介護保険が使える施設すら不足していて、特別擁護老人ホームは200人とか500人待ちの施設もあって明らかに国政に原因があります。不要な道路や危険な原発などに流用される税金の巨費を見れば、もっと人間的な介護の世界を構築するのはやろうと思えばできるはずですから、ひどい話です。 安心した老後が保障されないような国が美しいはずもなく、未来を描けるはずもありません。教育、医療、福祉の質と充実は国の根幹で、先進国のバロメーターです。企業の利潤や我欲に支配される国を先進国とは呼べないでしょう。命と生活と未来に関わる問題に1人1人がもっと注意を向け、理不尽なことは少しでも減らしていかなければ、美しい国どころではないと思うのです。
山岳信仰の聖地、吉野へ。1+1の無限 人間を生かしてくれている大自然。山も、海も、川も湖も、破壊や汚染から守るのが人間の使命だとつくづく思います。欲の絡んだ開発事業で環境を破壊するなど愚かすぎる行為ですが、想像力と愛をなくした近視眼的な人間は同じ過ちを繰り返します。でも、たとえ微力なブレーキだとしても1人1人が常に意識して踏み続ければ、大きな力にもなります。どん欲な政治家や企業を抑止、排除できるのは結局1+1を無限に続けて行くことしかないように思うのです。帰り道に小さなとのさまガエルが一匹いました。こんな山中に1人で大丈夫だろうかと心配しましたが、きっと1+1の一員なのでしょう。 いろいろなものへの感謝で育つヒューマニズム 勝ち負けへの強迫観念や自分だけよかったらいいなどと言う価値観が蔓延する今の社会。漠然と思うのですが、人やものに対する感謝が足りないような気がします。経済が偏重されれば当然の事なのかも知れません。 人が成長するためにはある部分競争もいるでしょうが、勝ち負けの結果ばかりを気にすると努力する過程で得た大切なものを見失ってしまう事もあります。もったいない事です。人は人と競争するのではなく、人は夢と競争する。ライバルとしては最強ですが、夢と競争すれば実力は上がるし、なにより人にも、ものにもやさしくなってしまいます。あらゆるものへの感謝の心がなければ、とても夢にはついて行けないからです。 国家としてのお手本がアメリカでなくフランスやドイツだったら フランスやドイツに限らず歴史ある欧州の国々がアメリカの経済一辺倒の政策に一線を画しているのは当然のことで過度な経済志向が文化や歴史のみならず精神をも軽視するに至ることを分かっているからです。見る機会は少ないですが、欧州の映画やアニメーションなどを見るとはっとすることがあります。映像と物語の中に精神性、芸術性がにじみ出ていてこんな映画が生まれる国のあり方を考えてしまいます。こんな映像を見ていれば子供も大人も感性が育つだろうなと思うからです。スポンサーに迎合し、大衆受けを狙うようなものをつくらなければ成り立たないからと言うのでは創造的仕事に従事する意味がありません。弊害だけです。 皮肉なことですが官民一体となって大衆受けを狙う反面、官民どちらも大衆のことなど考えていません。社会の大多数を占める大衆の思考力を弱めればものが売れ、政治がやりやすくなる。煽れば流行り、煽れば売れる。まさに経済絶対主義アメリカの方法そのものです。国民性が対照的とも言えるフランスとドイツ。共通するのは過去の過ちを繰り返さないという信念と1人1人の自由を尊ぶ理念です。 そのためには過去の記憶を残すものを大切にし、国民1人1人が自らを啓蒙し続ける努力があるとおもうのです。GDP(国内総生産)がドイツやフランスの倍近くもある日本。でも、あくせく働き、心の余裕をなくし、他者を顧みないような社会がいいとはとても思えません。 自身の心と頭脳ががコントロールできていない安倍首相 汚染水の影響が一定範囲内で「完全にブロックされている」など海が区分けされた貯水槽のごとく言っているのを聞くと、思考のコントロールを失っているのではないかと恐ろしくなります。 汚染水放出で日々苦悩が増す漁師の方達や放射能に故郷を奪われた人の痛みが分かるどころか無責任な発言は更なる苦しみを与える仕打ちです。沖縄の基地問題、オスプレイの不穏、改憲の不気味、原発再稼働の危険、原発輸出の不道徳、秘密保護法案の真意、ブラック企業の野放し・・・加えて国民生活の様々な部分で歪みの度合いは大きくなるばかりです。 国民1人1人と政治家自身がまずまっとうな心と哲学を持って自身をコントロールできなければこの国は、心温まる「3丁目の夕日」から心情を取り去った「地獄の1丁目」へと盲進してしまうのではないかと思えてなりません。1人1人が物事を決して人ごとだと思わず、正しい認識を持ってそれぞれができる何らかの行為行動を取らなければ、気がついた時には遅いという状況になってしまう気配が色濃くある現状です。弱者の声はなかなか届かないけど、分断、隠蔽された弱者の数は決して少なくないと思うのです。1人1人が高感度のアンテナを持たなければいけない、そして弱者の声を増幅させなければいけないと心から思います。
サマータイムブルース 曲の発売予定が原発企業東芝の圧力で中止になった1988年当時は37個だったんだとあらためて認識。37個でも滅茶苦茶な数だけど、それから54個まで増やしたあげくの果ての大事故だからまさに絶句です。推進して来た自民党と原発関連企業、学者はひど過ぎますが、自分も含め強く反対してこなかった国民にも責任があります。 コストが半端じゃないこと、電力が足りているのが分かっていて、しかも危険性を訴える科学者、技術者、ジャーナリストなどの人たちが真剣に警鐘をならし続けていた中でのことですから、異常としか言いようがありません。原発が見える海でなんか泳ぎたくもないけれど、事故が起これば泳ぐどころか土地や家まで捨てて逃げなければならない。2009年、福島原発事故の2年前に亡くなった忌野清志郎が生きていたら絶句のあと絶叫するだろうと思います。「さっぱりわかんねえ誰のため」そして「人間なら考えろ」と。 リニア狂騒曲、狭い日本そんなに急いでどこへ行く それにしても新幹線すら料金が高過ぎてしんどい夜間の長距離バスを利用なければならない人も多くいます。しかも新幹線のグリーン車など1車両に1人か2人しかいない光景もしばしばで、本当に理不尽です。田中角栄の時代じゃあるまいし、闇雲に目先の欲得で暴走するのを止めなければ、国自体が脱線、衝突してしまうのではないかと恐れます。1人1人が客観的にこの国を眺め、人生にとって国にとって何がほんとうに大切なのかを見極めて、少しでも人間的で心ゆたかな世界をめざしたいものです。
まあるい月がくっきりと見える夜 久しぶりの澄んだ空、満天の星にはほど遠いけれどいくつかの星と月を眺めながらふと思いました。「本当の夜空」を見たのは何年前だろう・・・多過ぎて空にあふれた星が今にも降って来そうで怖さすら感じた夜。今夜の空は忘れていたその時の神秘的な宇宙を思い出させてくれます。無数の星の中の一つである太陽を周回する地球。限りなく小さい惑星ですが、人間はともすれば大宇宙を忘れ近視眼的で自己中心的な思考に陥ってしまいます。謙虚なんて言葉では足りませんが、小さな地球に生かされている生物としてできるかぎり賢く宇宙の神秘に感謝しながら生きたいものです。 ボイジャー1号が教える地球環境の大切さ 1957年にスプートニク1号が大気圏外に打ち上げられ92日間、地球を周回。69年にはアポロ11号によって人類が月面に着陸。「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」と言ったアームストロング宇宙飛行士の名言からも44年の月日が経ちました。 大陸から大陸へ、地球から月へ、そして火星へ・・・それでも太陽系は人類にとってはまだまだ大きすぎる空間です。その太陽系からボイジャー1号が脱出したとのニュースが14日、NASAからもたらされました。ボイジャー1号は1977年に打ち上げられ、現在は太陽から約187億キロ付近を飛行中だとか。 太陽系の端はどうやって分かるのだろうかという単純な疑問が湧きますがそれは太陽風と星間風との関係において分かるのだそうです。ボイジャーが有人宇宙船ならどんな光景を目にするのだろうと想像は膨らみますが、20歳の飛行士が56歳になっている距離に奇妙な感じを覚えます。航行するための新しい原理を考えなければ有人宇宙旅行は夢物語ですが、無人のボイジャーは2025年まで地球に信号を送り続ける予定なのでこの先驚くような発見があるかも知れません。 銀河系の端っこにある小さな太陽系ですら人類にとってはこのスケールです。地球以外に人類が生き延びれる場所が無い現実を考えれば環境破壊につながる戦争と原発だけは永遠に放棄、廃棄しなければならないとつくづく思います。 生命の源、水の大切さ、ケニアで夢の地下水源発見! 一方、福島原発では毎日のように汚染水漏れのニュース。今日も観測用井戸で、地下水1リットル当たり6万4千ベクレルのトリチウムが検出されたと東電が発表。連日なので何がなんだかわからなくなります。恐ろしいことだけど命を育む大切な海が汚染され続けていることだけは事実です。 生命にとってこの上なく大切な水。水源に恵まれた日本ではありますが、更なる原発事故で地下水脈や琵琶湖などの水源が汚染されることを考えたら再稼働などという方針がどれだけ馬鹿げているかは誰にでも解るはずです。 地震多発国という立地、被ばくする作業員がいなければ動かせないという人道的な問題、そして福島原発事故が日々証明しているように底なしのコスト。しかも経費の調達は税金と電気料金への上乗せと言うのですから空いた口がふさがりません。なおかつ原発がなくとも電力が足りている確証と事実があるのですから、やりきれません。ケニアの現状を見れば水がいかに貴重なものかあらためて実感します。環境に恵まれた日本を自らの手で破壊するような行為には国民1人1人が強い意志で立ち向かわなくてはならないと思います。そして海も大気も境界などないのですから尚更のことだと思うのです。 責任不在という怪奇 避難者と避難できない人とのコミュニケーションの破壊、離婚などの深刻な家族崩壊も起こっていると言うのに、誰も責任を取らないなんてどう考えてもおかしいと思います。 パン一つ盗んでも罪を問われる法治国家の中でこれだけ深刻な人災事故があって、その責任の所在を明らかにせず、うやむやのまま事態が進行することはどう考えても異常ですし、未来に向けて危険なことです。 責任の不在は事故後の政府や東電の無責任な対応の大きな要因で、更なる被害の拡大や再稼働、そして同じ事故を繰り返す原因になるのではないでしょうか。過ちは過ちだと素直に認めて、誠心誠意被災者を助け、放射能の被害をできるかぎり防ぐこと。そして2度と過ちを繰り返さない誓を立てるという人間として当たり前のことがどうしてできないのか、情けない思いがつのります。 もし、自分が避難を強いられ、家や仕事を奪われ、家族が分断する状況に置かれた場合を想像すれば、どれだけの怒りが込み上げるでしょう。理不尽きわまりないではありませんか。原発問題は誰一人無関係な人などいない問題なのですから、難儀の渦中にいる被災者の人より難を逃れた他地域の人たちが声を上げ理不尽を追求しなくてはあまりにも非情だと思うのです。 エコノミック・アニマルの彷彿 生存本能だけで生きる野獣だってこんな馬鹿げた行動はしないでしょう。東京オリンピック決定に湧く経済界。オリンピック開催をアベノミクス第4の矢と呼ぶ政府と金、金で蠢く企業のどこにスポーツマンシップがあるのでしょう。ビーストの次は何が来るのだろうと恐れます。オリンピックの精神を記したオリンピック憲章の中に「オリンピズムの目標は、スポーツを人類の調和のとれた発達に役立てることにあり、その目的は、 人間の尊厳保持に重きを置く、平和な社会を推進することにある。 」とあります。 1964年の東京オリンピックは西洋の先進国の文化を吸収し、アジアの一国としてその資質を世界に世界に知らしめる目的がありました。50年の時を経て経済大国となった日本。これからは西洋や発展途上の国々に対して経済ではなく日本の精神性を発信できる国にならなければいけないと思うのです。オリンピック憲章の中には次のような言葉もあります。「オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。」 狂喜乱舞のオリンピック関係者 そこに現在進行形の危機と多くの人々の苦悩があります。しかも経済目的があからさまでスポーツ精神もオリンピック精神も感じ取れません。経済効果は結果であってその前に世界の文化交流と平和への思いがスポーツの役割でもありオリンピックの精神でもあると思うからです。 国策の原子力発電の事故によって多くの人が生活を奪われ苦悩する毎日が続く中、それを無視するかのような発言、行動はまさにスポーツマンシップからはほど遠いと思うのです。開催が決まり、しばらくはマスコミのオリンピック狂想曲がつづくでしょうが、その間も原発事故の物理的、精神的被害はつづいています。 おばあさんと自転車 しばらくして追いついたので「こんにちは」「お元気ですね」と声をかけると「ええ、毎日のことですから」との返事。聞けばお年は87歳で、おばあさんも僕が向かうスーパーが目的地とのこと。小さな段差、少しの傾斜があれば降りて自転車を押しながらの小旅行。 しばらく並行しながら話をして「じゃあお先に」と挨拶をして追い越しました。時々振り返っておばあさんを見ると自転車を漕いでいます。普通の自転車なら確実に倒れる速度。三輪車ならでは超微速。買い物難民という言葉がありますが車のないお年寄りにとっては過酷な世の中だと思います。考えれば歩いていて見かけるのは大抵お年寄りで、そもそも長い距離を歩く人なんかほとんどいない現状です。 振り返って「おばあさん、車には気をつけて下さいね」とつぶやくように言ったとたん、脇を車が猛スピードで走り抜けました。運転するのは若い女性です。どこへ行くのも車、車、車。おばあさんこそ車に乗せてあげたい、そう思ってまた振り返ると少し距離が縮まったように見えました。 あなたしか見えない、私しか見えないでは悲しい 共に悩んだり苦しんだりなんとか対処したり、それが愛するということだろうと思います。私しか見えないという歌は聞いたことがありませんが、自分を愛するなら同じようにいろいろなものが見えて来ます。 自分を育ててくれたもの、親、友人、本、絵画、旅行で出会った人々。自分を幸せにしてくれるもの、悩ますもの、苦しめるもの。あなたの場合と同じようにいろいろなものがつぎつぎと見えて来ます。もしほんとうにあなたしか見えない、私しか見えないのならそこには「愛」はないのでしょう。 そう考えると戦争や放射能は愛があるすべての人を悩まし、苦しめるものです。愛するものを根こそぎ不幸にする誰にとっても共通の敵です。プライベートで悩むこと苦しむことは、なんとかやり過ごしたり解決だってすることもあります。 でも、戦争と原発事故は問答無用の不幸であって、いったん起こればどうなるかは歴史と現実がこれでもかというぐらい残酷に証明しています。あなたしか見えない、そして私しか見えなくとも、いや、だからこそ愛する人を不幸にするものとは戦わなければならないと思うのです。 戦争につながるかも知れないいかなる微細な要素も排除しなければならないと思います。そして原発は動かさなければいいだけです。すでにつくり出してしまった核廃棄物の処分は未来の叡智を待たなければならない部分はありますが、とにかく動かさなければいいだけです。 理不尽な国の理不尽な話 東電や政府の援助、保障は無責任と言ってもいい状態です。それにも増してこれだけの事故を起こした当事者の誰も責任を取っていない事実。しかも安倍政権は原発の再稼働や輸出にまで動いているその神経が解りません。誰も望まない戦争につながる改憲もそうですが、この国をどうしたいのだろうと考え込んでしまいます。 操業を目指して懸命の努力を続けておられる福島の漁業者の方の怒り。「われわれ漁業者は、海で燃油を漏らしただけで罰金を取られる。あれだけの放射能を海に流し、われわれからの海の仕事を奪った東電が罰せられないのは納得できない」との叫びは当然のことだと思います。 巨額の除染費用はゼネコンを潤し、暴力団にまで流れているとの報道もあります。原発にまつわる話はどこをどう取っても理不尽だらけで、国民がもっと怒らないのが本当に不思議です。小出しに発表される汚染水の問題はドイツでは連日トップニュースで報道されているのに当事国の日本では知る人ぞ知るような状態。マスコミにも責任はあると思いますが、政府の無神経さは恥ずかしさと怖さを感じます。この国は一体どうなっているのだろうと思う人が1人でも増えて、社会や政治にきちんと目を向ける風潮が強くならなければ未来はあまりにも暗雲です。 謎と愛の関係 過去とこの時を行き来しながら想像する未来。暗雲がかかる現代だけど、やはり未来は全てが謎。ダヴィンチやミケランジェロの絵に何か謎が隠されているなら、この世にはどれだけの謎が隠されているのか考えるだけで楽しくなります。何億と言う謎の中で自分が出会える謎は幾つあるんだろ?そして自分が解ける謎なんてあるんだろうか?言葉に迷うから謎なんだし直感を信じれば謎なんか存在しない、なんて思ったりもします。でも謎はロマン、ロマンは夢、夢はハーモニー、ハーモニーは愛・・・だから謎は大好き。分かりきったことより分からないからこそ、歩みはつづきます。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。