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2024

睦月/1月/JANUARY

 

もし精神性が物質性を上回っていたら
2012/01/31  世界中のそれぞれの土地に太古から根ざしていた文化がそのまま育っていたとしたら、今の世界はどんな姿になっていたのだろうとよく考えます。強国の侵略、先進国のエゴイズムによって虐げられ、滅ぼされた民族や文明がそれぞれ進化していたらと想像すると随分違った世界が見えてきます。

過ぎ去った時代に「もし」はないけれど、未来を考える上では重要な「もし」になります。コロンブス、コルテス、ピサロを始めとするコンキスタドールたちが行った中南米での行為は黄金略奪のみならず残虐きわまりないものであったけれど、もし彼らが友好的で人間らしくふるまっていたなら歴史は大きく変わっていただろうと思います。

インカにしろマヤにしろ当時のヨーロッパにひけを取らないどころか建築や数学、天文学において優っていた事実があります。劣っていたのは武器や戦争と言う野蛮な傾向だけであって、あれだけの文化を野蛮性に変じる事なく保っていたと言うのは現代世界を考えても驚くべき事です。(これだけ文化が進んだと自負している現代で野蛮な事が続いているからです)

中米にしてもアフリカにしてももともとある彼らの文化がそのまま継続、存続していたら現代の地球文明の様相は随分変わっていたに違いありません。今も世界各地で続いている恐ろしい紛争や内戦も、その大きな要因となっているのが先進国のエゴイズムです。いまわしい奴隷制度こそ廃止されましたが、後進国に対する差別や命の軽視は明らかに続いていて、資源目当て、宗教やイデオロギーの攻防で操作混乱させられた人々が得体の知れない報復の連鎖に恐怖して暮らしています。

もともと何の罪もない人々が殺し合う不条理は強国や大国によってつくり出されてきた側面が強くあります。先進とか、科学とか経済と言う名の下に行われる野蛮性に気がつかない限り、誤った過去と同じ「もし」はこれからも繰り返されるのではないでしょうか。権力や物質、経済に偏向する考えには幼稚性と野蛮性が潜んでいる事を常に意識しておく必要があります。時代に迎合しない堂々たる精神


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堂々たる精神

2012/01/25  93歳になる日本画家、堀文子さんが新聞で「昨年、以前にアトリエがあったイタリアのアレッツォを訪ねました。行く前は最後のお別れにと言う気持ちだったのですけれど、20年前と変わらぬ風景が広がっていて、現代社会に迎合しない堂々たる精神に感銘を受けました・・・」と語っていました。

「堂々たる精神」いい響きだなあと思いました。それにしてもこの日本、開発と言う名目で破壊されたりうらぶれたり、久しぶりに懐かしい町を訪れる時には覚悟が要ります。アレッツォの町のように変わらぬ風景に感銘するどころか、無惨な開発に呆然とすることすらあります。「無情なる精神」とでも呼べばいいのでしょうか。何が大切で何が不必要なのか。風景が変われば精神も変わります。

価値観は精神の現れです。野田内閣が進める増税政策。その一方で1機100億円もするF35戦闘機を平気で導入しようとする神経。戦闘機1機分で食品の放射能汚染測定器が3000台も買えると言います。除染や被災者の補償だってまだまだどれだけ費用がかかるかも分かりません。まさに「無情なる精神」です。この国の馬鹿さ加減を見ていると、1つの町の風景すら守れない精神が根底にあるからだとも思ってしまいます。

堂々たる精神は無理としても「ちょっとぐらい精神」があれば、政府も東電もまず福島で難渋している被災者を救い、放射能被害に対する徹底した対策に予算をまわすのが当然の責務です。内部被曝を測定するホールボディカウンタが全国で100台あまりしかなく、しかも実動しているのはもっと少ないと言われている現状でどうやって国民の健康を守るのか、無責任に過ぎると思うのです。


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GNPからGNHへ
2012/01/23  国民総生産は高いけれど、反比例するように精神的貧困が進んでいるのではないかと思われる日本の現状。12年連続で3万人を超えると言う自殺者の数を見れば誰もが考え込むのではないでしょうか。「本当にこの国は豊なんだろうか」と単純な疑問が湧きます。通勤電車の車内には無気力、いらだち、疲れ果ての空気が充満し、爽やかな笑顔やのんびりした表情の人を見かけるだけでほっとする状況。多くの人がここまで精神的余裕をなくしている以上、この国は貧しいに違いないと結論づけたくもなります。

国策か政策かは知らないけど、戦後の日本を豊かさに向かって先導してきた力はあまりにも近視眼的で、今を予測できていなかったのだろうと思います。12年前に自殺者が3万人を超えた時に「これではいけない」と経済一辺倒の社会からシフトするだけの知力が施政者と国民双方に欠けていた結果ですが、それが今日まで続いて混迷は深まるばかりです。自殺者の多さは氷山の一角で、鬱病の人や精神的バランスを崩している人がどれだけいるか、計り知れないのが現状だと思います。

アジアの小国ブータン王国が提唱する「国民総幸福感」Gross National Happiness「GNH」と言う尺度は、1990年代からの急速な国際化に伴い、もともとブータンでは当たり前であった「価値観」をあらためてシステム化する必要にかられてつくられたものだそうです。尺度の基準となる項目は 「1.心理的幸福、2.健康、3.教育、4.文化、5.環境、6.コミュニティー、7.良い統治、8.生活水準、9.自分の時間の使い方」となっていますが、日本では8の生活水準以外顧みられているのだろうか、と不安になります。金銭的、物質的ゆたかさは決して精神的ゆたかさではありませんし、幸福でもありません。

ましてや競争や格差が大きくなるような社会においては金銭や物質を得るためのエネルギーがより過剰になり精神がますます貧窮して行きます。今の日本はブータンの「当たり前の叡智」を真剣に学んで取り入れる時期だと痛切に思うのです。


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幸せの見直し
2012/01/21  経済追求と言う中毒症状。と何かの本に書かれていましたが、経済に限らず人間はそこに安定や安楽を見つけるとしがみついてしまう習癖があるのは自己防御本能が生命の原点にある事を考えれば当然かも知れません。

経済があればあるほど自己が守られると考えるのは資本主義社会では当然ですが、それが行き過ぎると道徳や倫理感が稀薄になって殺伐とした風潮が生まれ、自己防御の殻をますます厚くしようとする心理が働いて、経済にしがみつき殺伐となる・・・まさに悪循環です。中毒というより強迫観念です。1人1人の過剰防衛が連鎖してつくり出した圧迫感。それは人間が根源的に求めている「幸福感」につながる道ではなく、孤独や空虚につながる道だと思います。

相手が、他者が幸せであってこそ自分も幸せ。平和や安全が維持され、ゆたかな環境に恵まれてこそ人間は幸せ。

幸せとはそう言うものだと思います。中東やアフリカで今なお続いている紛争や内乱の中で「ただ生きる」と言う事さえできない人々。考えなくてはなりません。日本も悲惨な戦争を経験して、命や自由の尊さを噛み締めながら今日までたどりついた経緯があります。でも急速な経済成長を求めるあまりに犠牲にしてきた「大切」なものも多くあります。

人に対する感謝やいたわりの心、自然や環境に対する配慮などもっとも根源的なそれこそ「幸せ」に直結する大切なものをないがしろにしてきたのではないでしょうか。それぞれ生きるためにある程度のお金は不可欠です。ただお金を得る事が至上目的になってしまえば、求めていたはずの「幸せ」からどんどん遠ざかり、気づいた時にはもう引き返せなくなる事も肝に銘じておかなければならないと思うのです。


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日本人は本当に冷静だからなのだろうか?
2012/01/19  政治の世界でも経済の世界でも、度重なる不祥事が報じられ全ての国民が怒りをあらわにしていいような問題は少なからずあります。環境、医療、食品、雇用など様々な問題がきちんと解決されることなく弱者や被害者が置き去りにされてきた事実はいくつもあると思います。

国民を守らなければならないはずの政治家。国民を啓蒙しなければならないはずの科学者、教育者。事実を公正に報道しなければならないはずのマスコミ。そして民主主義を自認しているはずの国民。

当然そうであるべき「はず」のものが実際にはそうなっていないのは人間としての目標や価値観が変わってしまったのか、あるいはすり替えられてきた結果かも知れません。世界唯一の被爆国である日本で、大きな原発事故が起こり被爆者や自殺者まで出している事実とこの先被害がどれだけ広がるか分からない現状の中で事故以降、原発建設にまつわるいくつもの不祥事が発覚し怒り心頭に達して、原発廃止を訴える人は数多くいますが、それでも海外の目からみれば「日本人は冷静だ」と映っているようです。

外国メディアは皮肉を込めて言っているのかも知れませんが、これだけの不祥事が噴出、露呈しているのに何故もっと怒らないのだろうかと不思議がっているのでしょう。でも実際は冷静などと言う姿勢ではなく、無関心と言うのが実態のような気がします。事実はある程度報道されていますが、隠蔽もありますし、巨額のお金を使って安全を始めとするプロパガンダは今なお続いています。

でも関心があれば真実は知ることが出来ますし、自己判断できる材料は手に入れる事が出来ると思います。原発事故から10ヶ月以上が経って、国民の総意としてもう原発は止めようとならないのは「冷静」だからではなく、「無関心」な人がまだ多くいるからではないでしょうか。しみついてしまった「エゴイズム」。でも環境汚染や放射能汚染から「無関係」な人間などいませんし、少なくとも不可抗力な未来を望む若者もいないでしょうし、わが子の未来を案じない親もいないと思うのです。


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少しでも早く原発利用をやめること
2012/01/18  朝日新聞で大江健三郎さんが岩波書店の雑誌「世界」に掲載された「原発利用に倫理的根拠はない/ドイツ倫理委員会の報告書より」と題された内容を紹介していました。「ドイツ知識人の徹底した論理性が、原発への2つの立場を整理する様子を抜き書きします」として、まず絶対的反対の立場の意見「原子力に関する決定は、エネルギー政策のさまざまな可能性に伴う損害の規模や事故の可能性についての計算や問題で済むものではない。

次の世代への生へのリスクと負担とを未解決に残すのだから」次に比較考慮も大切だとする立場の意見「社会には原子力を放棄した場合の帰結も考える義務がある」そして2つの立場の人々が同じ結論に達した意見は「つまり、環境や経済や社会と適合する度合いを考慮しながら、原発の能力をリスクの低いエネルギーに置き換えうる程度に応じて、原発の利用をできるだけはやく終結させるべきである」そしてドイツは現実にその方向に進んでいると。

大江さんはわが国の政府がそれに学ぶことを望むとともに、ドイツよりもっと緊急で独自の行動をとらねばならないと訴えています。日本は地震大国であるからです。この先、日本で原発を稼働させるリスクはあまりにも無謀ですし、無責任と言わざるをえません。


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先進国と精神国
2012/01/16  ある時期からの米国と日本は先進国ではなく後退国です。大量消費と大量生産。まだ使えるもの、まだ食べられるものをどれだけ捨てているかを考えるだけで進んだ国のあるべき姿ではないことが分かります。まだ使えるものを補修、再生するより壊してつくる方が、あるいは捨てて処理するほうがコストがかからない。経済的利益追求が生んだ理不尽な結果です。

建築で例えれば技術的にも時代的にも芸術的にもすぐれた建築が「古い」と言う理由で取り壊され「儲かる」と言う理由で高層ビルになるようなものです。その建物が持つ歴史や情緒、精神的財産は顧みられません。

環境を含めた精神的財産が物理的財産より価値があるのは言うまでもありませんし、だからこそヨーロッパの先進国においては、たとえ時間とお金がかかっても「古い」ものを守っています。精神をないがしろにすれば国は後退するしかないのが分かっているからです。

何も古いものに限りませんが、ものを大切にしない感覚は命や心を大切にしない風潮へとつながっていきます。ものの本質を考える力を奪ってしまうからです。今日の朝日新聞に東京都墨田区にある町工場の経営者たちがそれぞれ仕事場で捨てていた廃材は財産だと考え、再利用して商品をつくるプロジェクトを立ち上げた記事がありました。

繊維、樹脂、金属、木など製品加工の結果残った様々な端材や廃材を使ったものづくり。知恵と技術と経験を生かして捨てていたものが新たな商品になれば素敵なことです。きっとものの本質を考える力が倍増するだろうと思います。短絡的なお金儲けは先進国のやることではありません。精神があってこその先進国、人やものを思いやってこそ文明国です。


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人間ってなんだろう?海ってなんだろう?
2012/01/15  1人の女性が海辺に立って涙を流しています。米国ABCのニュース「A Woman Refuses to Give In to A New Nuke Plant/あさこはうす」の中のシーンです。青森県下北半島のマグロで有名な大間の町。鉄パイプの柵に閉ざされた大間原発の敷地に一カ所開口部があってそこから鉄条網に囲まれた細い道をたどると小さなログハウスが建っています。原発に反対する人たちが次々と買収に応じて土地を手放しても最後まで土地を売らなかった熊谷あさこさん。

2004年に建ったログハウスは2006年に不慮の事故で亡くなったあさこさんの意志の象徴です。娘の厚子さんは母の意志を継ぎログハウスを「あさこはうす」と命名して土地を守っています。母を思い出して厚子さんは語ります。「執拗な買収工作と嫌がらせ、最後は村八分にされても命を何よりも大切にする女だから母は最後まで頑張れたと思います」「母は先祖代々続くまぐろ漁師の家に育ち、この海の素晴らしさと大切さを誰よりも良く知っていました。

土と海から命をもらって育った母は、本能的に原発に危機感を持っていたのです。だから周りの人たちがみんな買収され、たった一人になっても原発に反対し続けたのです」福島の原発事故があり、かけがえのない海が計り知れないほど汚染された現実の中、対岸に建設中の大間原発を見つめる目に浮かぶ涙は「人間ってなんだろう」「海ってなんだろう」と言う究極の問いかけからにじみ出ているように見えました。

全ての命を育んできた海。厚子さんは語ります「土地から穫れる野菜と海から捕れる海産物で、私たちは生きてゆけます。その豊な海と土地を子や孫に残したいというのが母の切なる希望でした」今、全国の心ある人が厚子さんを支えているそうですが、「あさこはうす」宛に一枚のハガキでも送って下さいと言う要望があります。<039−4601 青森県下北郡大間町字小奥戸 396 「あさこ はうす」>


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記憶と忘却
2012/01/14  どーんと言う衝撃があって、がたがたっと言う揺れが続いて、恐怖にすくんだあの時。17年前の阪神淡路大震災。住んでいた大阪西区の家の屋根瓦は全部落下して前にとめてあった軽トラが埋っていました。後日神戸方面を歩いて見た光景は今でも鮮明です。見渡す限りの家屋が土の小山と化し、線路はどんな力が働けばこうなるんだろう?と思うような変形。あり得ないような倒れ方をしている高架道路と新しいビルは一見して手抜き工事ゆえの人災だとも思いました。

それから数年、当時神戸で仕事をしていた関係もあって復興の過程をつぶさに見てきましたが、物理的復興は想像を超えて早くなされたのに対し、精神的立ち直りは時間とともに深刻になる場合もあって、とても難しいものであると痛感しました。

17年経った今この時も心の傷が癒えない人が多くいらっしゃると思います。不可抗力な自然災害ですが、そこには何時も、特に予知科学や技術力が進んだ近代においては自然災害に混じって「人災」の二文字が絡みます。

防げたはずの事故や災難。阪神淡路の震災直後もこの「人災」については重大な問題がいくつか浮上するだろうと思っていましたが、構造的欠陥に疑問が湧く高架道路やビルの倒壊原因も究明する前に撤去してしまって、証拠隠滅の感がありました。

闇から闇、忘却の彼方へ。震災に限らず戦後の日本が取ってきた基本的な姿勢です。そんな基本があってたまるか、とは誰でも思うはずですが過去の事件事故を振り返れば「うやむや」のうちに終わってしまったことが多いのは事実です。

そして今回の過去もっとも恐ろしい「人災」である原発事故。震災当初に放射能の危険があるために近寄れず助けられたかも分からない命もあったはずですし、放射能からの避難で負荷がかかって亡くなったお年寄りもいます。

汚染された土地に絶望して自殺した農家の方もいます。適切な判断がなされず、避けれたはずの被曝を受けてしまった人も多くいて、それは10ヶ月も経った今なお続いています。国内外の見識ある科学者が避難させなければならないと言っている場所に、未だ多くの人が暮らしています。今回の事故に至る経緯と事故後の対処は「人災」というより「犯罪」と言う方が的確な気がしてなりません。地震大国日本に54基もの原発施設を造ってきたことは戦後日本の権力者が犯しては闇に葬ってきた犯罪の集大成、無責任の象徴ではないかと思うのです。

ただし決定的なことは今までのように「うやむや」では終わらないと言うことです。放射能汚染は「証拠隠滅」出来ないものです。この先、被曝と病気の関連性が疑われる症状が出た時に、因果関係を「うやむや」にするだろうと言う姿勢は現状を見ると明らかですが、医学も科学も進歩していますから、隠蔽も言い逃れもきっと難しくなります。

今なお汚染が続き、環境と食品を通しての内部被曝が避けられない現実はもうどうしようもないけれど、せめて国策として子どもや若者の被曝を可能な限り減らす努力を、あらゆる案件に先んじて全力でやらねば後悔ではすまない未来になります。記憶が忘却とならないのが「原子力事故」の特徴であり、もう決して原発を稼働させてはならない理由なのです。


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物理的に生きることと精神的に生きること
2012/01/13  人間は物理的に生きることに関してはとどまることも戻ることもできなくてただ死に向かって進むしかないのだけれど、精神的に生きることに関してはとどまることも戻ることも可能でむしろ進むことにおいて大きな力が要ります。勇気と言い換えてもいい力がなければ「生きる」と言う言葉が人間としては意味をなさない気がするのです。自己防御本能は誰にでもあるもので、否定できないものですがその本能が知力や精神力によってコントロールできなければエゴイズムに直結してしまう危険性があります。それは他者に対する理解や関心でもありますし、自分自身に対する人間的自覚や精神的向上心でもあります。

今の日本のように行き過ぎた資本主義にあって自己防御本能にそのまま依存すれば経済依存主義になってそれはそのままエゴイズムに直結するのは当然かも知れません。それでもいかに金権で防御しようが人は死に向かって平等に進むことだけは避けられません。しかもそんな生き方は精神的には「心肺停止」、死に等しいのではないかと思ったりします。

物理的には生きているのですが「思考停止」は精神的には死のようなものです。アフリカや中東で今この時も物理的な死に直面している人たち。懸命に生きようとする自己防御本能さえ意味をなさず、内戦による殺戮や飢餓の中でかけがえのない命が失われている現実があります。物理的に生きることすら叶わない不条理な現実があります。精神的に生きるなどと言う言葉さえ無意味で厳しい現実があります。

では、日本はどうでしょうか。他者を思ったり、自然を思ったり、未来を思ったりする基本的条件、物理的「生」がそこまで圧殺されているでしょうか。僕はぜんぜんそうではないと思います。むしろ精神的「生」がないから物理的「生」が脅かされていると思うのです。明らかに間違っていること、明らかに人間的でないこと、それを判断するぐらいの物理的余裕は多くの日本人が持っているはずです。持っていないのは、失ってきたのは精神的余裕です。精神的価値観です。

目に見えない形のないもの、でも人間をましな生き物足らしめる大切なもの、いっぱいあります。気品、意志、温情、理性、勇気、名誉、誠実、自信、思慮、叡智、正義、忍耐、節制、芸術性・・・まとめて言えば「やさしさ」です。

物理的に生きることを達成した国なら「精神的に生きる国」を目指さなければいけません。でなければ、物理はとどまることを知りませんから、競争は激化しもともとふんだんにある資本はますます偏って結局、エゴイズムだらけの格差社会、とても先進国とは呼べない惨状になるのは目に見えています。何故見えるかと言えば、すでにその傾向があるからです。

これからの日本が教育を含め改めなければならないこと、それは1つしかありません。物理的生き方が補償されて、戦争とか内紛とか暴動とかがない間に、精神性を高めることです。ヒューマニズムを培って揺るぎない社会を構築することしかありません。原発などなくても問題ないのは分かっていますし、競争社会や格差社会など間違っているのも分かっています。そのような方法はもう要らないのです。

1人1人が賢くなり、勇気を持ち、やさしくなるためにどうしたらいいか、それだけを親も、施政者も、教育者も考えればいいと思うのです。いくつもの方法があります。まず馬鹿な競争社会をなくすることです。それぞれの分野で本当に優秀な人は自由で垣根のない教育現場さえつくれば必然的に育ちます。

優秀の対価としてお金や地位など何ら関係のない風土をつくらなければなりません。何故ならすでに日本は全員が物理的に生きれるだけの土台があるのですから。それぞれの生き甲斐、それぞれの喜び、十人十色、千差万別の人が、まず僕らは人間だと誇れるような精神性を育てなければならないと思うのです。


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日々思う事があって
2012/01/12  日々思うことがあって、日々振り返ることがあって、日々夢見ることがあって、時は連続していくのだろうけど、人生は停止したり忘却したり虚脱したりすることもあります。個人的に考えると時間は一定でもなく繋がっているわけでもなく、不連続で奇妙な空間を描いているような気がします。

真の始点も真の終点も分からないけどそれはいつもとぎれた軌跡の終点から間を置いて始まる規則性のない一点鎖線のようなつながりだと思います。それがもつれた糸のようになってしまっているのか、ただただひたすら直線的に伸びているのか、はたまた螺旋のようなものなのか、想像をめぐらせて自身の軌跡を描いてみるとやっぱりある時は直線的で、ある時はもつれた糸で、ある時は螺旋のようにぐるぐる回って上昇、降下。

でも結局始点と終点はすぐ近くにあって、たった一ミリ動くための延々とした過程ではないかと考えたりします。ただ大切なのはとぎれなく走る軌跡がちょっととぎれた一点鎖線の「点」にあたる部分に自分が立つ時が「生きる」と言う意味ではとても大切なポイントではないのかと考えるのです。

日常のラインがとぎれる過去と未来の狭間。通常の連続がとぎれる時は人生に幾度かあるいは案外多くあるのかも知れません。ただ人は途切れだと感ずるのが不安で一点鎖線を実線に書き換えてしまうのかも知れません。でも点線では慌ただしいけれど、とぎれない実線の連続もまた味気ない気がします。


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貧困マジョリティー
2012/01/11  「貧困の多数派に歯止めを」と言う新聞の見出しにはっとして目を通すと内藤克人さんへのインタビュー形式で次のような事が書かれていました。「グローバル化やマネー資本主義が進み、非正規雇用が増えて中間層が崩壊する社会の到来は危険な時代への予兆ではないか」「米国初め国内外の最強の秩序形成者に抵抗する力もなく、政治的な難題に真正面から対峙するゆとりもない。同時に、精神的バランスを維持するために『うっぷん晴らし政治』を渇望する。

自虐的に、極めて反射的に、表面的に評価して、選挙権を行使する。・・・」「民主主義を基盤とする国でのヒーロー待望論ほど異常なものはない。日本古来の『頂点同調主義』に加え『熱狂的等質化現象』が一体となる。・・・」などと読んでいて確かにその通りの流れがあるなと実感します。大阪での橋下現象はまさにその通りだと思います。

貧困マジョリティーの心情を利用しようと思えば地方公務員へのバッシングは効果的だし、経済、経済、を連呼するのも効果的だけれど、本当に社会的弱者の事を思っているのだろうかとその先にある結果に不安を抱きます。

これは小泉政権の時と同じですが、小泉政権の結果は明らかに選挙前の公言とは裏腹で、多くの弱者が追い込まれ貧困層が増加した事実があります。そしてより欲求不満の高まった状況下でまた同じ事が繰り返されるなら、大阪どころか日本はますます危うい国になってしまうのではないかと思わずにいられません。

今の社会が抱える問題は多くて複雑ですが、改革や革新が一体誰のためになるのか、と言う一点を注視し続けて行かなければ、あらぬ方向、あらぬ結果と言う事は起こりえます。


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1人の人間としての抵抗「あさこはうす」の今
2012/01/10  以前テレビで青森県の大間原発近くに暮らす女性が電力会社や原発見返りのお金目当ての住人からの嫌がらせや買収にもめげず小さな小屋を立てて、必死に抵抗している状況を取材した番組がありました。

その後気になっていたのですが、先日友人から現状をネットで知れると聞き、サイトを開いてみるとあまりにも酷い状況がありました。立ち退かない自分の敷地回りをぐるっと柵で囲まれ、非人間的な状況に追いやられています。無言の圧力と圧迫で追い出そうと言う意図が見え見えで、原発の悪の側面があからさまに出ています。

郵便物が届くだけでも励みになるとサイトに書かれていましたので、さっそくハガキを出しましたが、出来ることなら現地へ行って励ましてあげたい気持ちです。いま「あさこ はうす」に通ずる道路を電源開発J東北パワーは、閉鎖しようとしていて、毎日、交通量をチェックしているそうです。だからこの道が、車のよくとおる公道であることを示したいそうです。そこで郵便局の車が毎日通れば、道路が閉鎖されないだろうと考えて、「あさこ はうす」宛てに、激励のはがきを送ってほしいとのことです。
A Woman Refuses to Give In to A New Nuke Plant/あさこはうすと題された米国ABCのニュースです。Youtube  ABCNEWS
http://www.youtube.com/watch?v=lJaK7vddwro&feature=player_embedded
http://www.abc.net.au/foreign/content/2011/s3317005.htm

039−4601 青森県下北郡大間町字小奥戸 396「あさこ はうす」宛
内容が詳しく書かれたサイト「脱原発の日のブログ」
http://ameblo.jp/datsugenpatsu1208/entry-11108920118.html


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人間であるならば
2012/01/08  村には美しい海があって、緑豊かな山があって、漁師は海の幸に恵まれ、田や畑には作物が実り、近隣の町は地元の産業でにぎわうような環境がありました。日本国中どこの町や村を訪れても独特の風土と料理。慣習と言葉に出会えるのが旅の醍醐味でした。風景もありました。

降り立った駅舎と駅前の風景はやすらぎと好奇心を同時に与えてくれました。それぞれが違う風、違う香り。ほんの数十年でこれだけ変わってしまうとは思いもよらなかったけれど、地方の過疎化と衰弱がなければこれだけ無謀な原発が造られることはなかったのにと思わずにはいられません。グランブルーへ続く


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どんど焼きと涙
2012/01/07  福島県川俣町の春日神社に山積みにされたままの門松など正月の縁起物や飾り物。放射性物質の拡散が懸念され例年通り燃やすことができず、宮司は「焼いて神様の元へ返せないのは残念だ」「なぜ原発事故を最小限に止められなかったのか」と涙をこぼしました。

一方では原発事故以降、幼いわが子が被曝する不安に耐えきれず故郷を離れて移住する母親たちが後を絶たないと新聞にありました。そして福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域では取り残され生き残っているペット332匹を許可を得た民間の動物愛護団体が保護したとも報じられていました。事故から10ヶ月が過ぎ、小出しに報じられるたった今日一日の新聞にもこれだけの悲報があります。抑制報道の陰で被曝を含め想像もできない被害を出し続けている原発事故。事故当初から予測された放射能汚染で、実際に迅速に避難したのは東電の社員や家族と彼らから話を聞いた住民。

各国大使館の人員や宮城県沖のアメリカ空母まで撤退したと言うのにその危険性を一般住民には知らせなかったと言う非道。むしろ避難を抑制したかのような感があります。そして汚染されている可能性のある農産物、海産物の放射能チェックがきちんとできているとはとても思えません。

食品の放射能を規制する暫定基準値がいかに厳しくともチックする姿勢が厳しくなければ国民は対処のしようもありません。放射線量の高い地域の人たち、中には自力で避難できる人もいますが、政府の補償や援助がない限り避難したくとも出来ない人はいっぱいいて、それは実際なされていません。あまりにもひどすぎる現状の中、原発を推進してきた関係者が責任も取らずのうのうと生活しているのを見ると本当に法治国家だろうかと不安になります。どう考えても人災であり、犯罪である原発事故に関して誰も罪に問われないのはおかし過ぎると思うからです。


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数の悪魔
2012/01/06  「ずうっと前からロバートは、夢を見るのにウンザリしていた。だってさ、夢じゃ、いつもひどい目にあうんだから・・・」そう始まる絵本のような数学の本があります。著者はH・M.エンツェンスベルガーと言う1929年生まれのドイツの詩人であり文学者です。ロバートはあるとき夢の中で数の悪魔と称する数学者に出会い話は進んで行きます。

算数の大嫌いなロバートはことごとく数の悪魔にたてつきますが、夢の中での出会いを重ねて行くうちにロバートは数の秘密を学んで行きます。1のこと、0のこと、素数のこと、三角数、四角数、累乗と平方根、フィボナッチ数、順列、無限と収束・・・ある時は浜辺で、ある時はジャングルで、様々な面白いシチュエーションの中でロバートと数の悪魔は会話を続けて行きます。

夢から覚めるごとにロバートは少しづつ数学を理解して行きますが、読んでる僕もまた数学を少し理解します。本の冒頭でロバートが算数が大嫌いだと言った時に数の悪魔は「ところで知ってるかい。ほんものの数学者というのは、たいてい計算ができない。それに計算する時間だってもったいない。

計算するんだったら計算機があるじゃないか」と言ってロバートの先入観を少しずつ解いていくのですが、数学にせよ他の学問にせよその入り方によって子どもは大きく変わってしまうのではないかなと考えてしまいます。教育のあり方、どんな方法であれ面白さを感じさせ、好奇心を目覚めさすことこそが知性の入口だとは思いますが、教える教師の魅力そのものも大きな力となることも間違いありません。ロバートのように数の悪魔と出会っていたなら僕ももう少し数学に強くなっていただろうと単純に思ってしまいました。


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国民のレベルと政治家のレベル
2012/01/05  元月刊文芸春秋の編集長、81歳になる作家の半藤一利さんが「論語は「中庸」こそ大事と説いているが、日本人は実は右か左か二者択一が好きで、どちらかに大きく流れ、集団催眠にかかりやすい。閉塞感が出てくると強いものへの待望論が生まれる」と言っています。確かにその通りで加えて言えば「中庸」とは深く考えた上での偏りのない判断、あるいは人間の行為や感情をコントロールするためのポジショニングだとするとかなり高度な社会性や道徳性が必要で「強いものへの待望論」が生まれるのはそのような人が少ないからではないかとも思えます。

閉塞感の原因が一体何であるかを冷静に考えればその解決策が小泉政権が唱えた郵政改革でもなく、政権交代でもなく大阪都構想でもなく政治家の人間性にあることは明らかですが、ワンフレーズのスローガンに引っかかってしまうのは「中庸精神」が足りないからだと思うのです。

ならば閉塞感の原因は、日頃からの1人1人の社会意識の少なさ、道徳心の低下、それこそ人間性を構築するあらゆるもの「気品、意志、温情、理性、勇気、名誉、誠実、自信、思慮、叡智、正義、忍耐、節制、芸術性・・・」の希薄さが原因ではないかと思うからです。半藤さんはこうも言ってます「単純化したスローガンは集団催眠にかける政治的テクニックとして使われる。

危険なことだ」と。これはその通りだと思います。現代のようにテレビと言う強力なメディアがある時代においてはそれはなおさらです。国民1人1人は人間性を構築する大切なものを見つめ直す、そしてリーダーたるものは政治的テクニックではなく、「国民の命を守る」「弱者の痛みが分かる」など本当の人間性からにじみ出る「徳性」を人々に感じさせて欲しいと思うのです。


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通販生活の言葉
2012/01/04  通販生活の送付袋に「これって、原発再開のための造語でしょうか?」と言う文字が印刷されていました。サブコピーに「原子力界で多用される主な専門用語」とあって例えば<事象>:事故やトラブルのこと!危険性を小さく見せようとする典型的な用語。<高経年化>:老朽化のこと!原発の老朽化。

会見で記者が「老朽化」と発言すると、「高経年化」といいなおされることがしばしば。<滞留水>:汚染水のこと!建屋などにたまった高濃度の放射性汚染水。穏やかな表現だが表面線量は毎時2000ミリシーベルト強。<燃料の損傷>:メルトダウンもあるのに!核燃料が傷ついているだけのような印象を与えるが福島第一原発1〜3号機では溶け落ちている。<廃スラッジ>:放射性汚泥のこと!汚染水浄化装置で発生する放射性汚泥。ただのゴミのような呼称だが、実は超高濃度。<バックエンド>:核廃棄物処理業務!使用済み核燃料の再処理を含む核廃棄物の処理業務全般のこと。字面からの類推は全く不可能。<冷温停止状態>:高濃度汚染水が大量にある状態なのに!健全な原子炉に使われる「冷温停止」に「状態」を付け、政府が安全性のアピールにフル活用。などなど・・・

問題提起したのは東京新聞だそうですが、こうやってあらためて実際の意味と言葉を比較すると明らかに意図的な言い回しだと思います。問題の説明のために使われる言葉のニュアンスがこれだけ事実と離れていると正しい事実認識ができなくなってしまいます。変な専門用語の「廃語」も「廃炉」のために必要だと思います。


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少女とお笑い芸人の国
2012/01/02  テレビを見なくなって半年、地上デジタル放送への移行の時に特別に見たい番組があるわけでなし、この際一度テレビと縁を切ろうと古いアナログテレビは置物となって鎮座。大切な情報に関しては明らかにテレビは消極的と言うよりスポンサーサイドの圧力があるので、新聞やネットの方が知ることができるし、結局今のテレビは国民の脳をマヒさせるためにあるんじゃないかと思うぐらい軽々しい番組が多いのも事実です。

もう少し意識が高くてかつ面白い映画やドラマは過去にいくつもあったと思うのだけれど、吉本興行とジャニーズ事務所がテレビ界を浸蝕しだしてから番組がかなり偏ってきました。コラムニストの天野祐吉が新聞に「外国から来た人がいまの日本のテレビを見たら、この国には少女とお笑い芸人しかいないんじゃないかと思うに違いない」と書いていましたが、それは決して大げさではないなと思います。

時に新聞の番組表を見ますが、「写らなくってもいいや」とあらためて思うほど新味のない番組が並んでいます。まだまだ復興にはほど遠い大震災の爪痕も現在進行中の原発事故もテレビの世界ではまるで何も無かったかのような雰囲気で、ネバーエンディングストーリーの「虚無」がじわじわと現実の世界をたべているんじゃないかと思うぐらいです。


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あけましておめでとうございます
2012/01/01  例年のお正月と違って区切りとか切り替えとかの気持ちの代わりに去年からつながる気持ちをよりいっそうしっかりと持って、1人の人間としてできる限りの事をしようと思う元旦です。震災と原発事故で多くの人が悲しみと不安のまっただ中にいる状態でとても楽天的な気持ちにはなれませんが、この国が理性を取り戻し少しでも人間的な社会に向かって舵をきるように、小さなヒューマニズムの輪をつなげていきたいと思います。

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自然エネルギーへ
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。

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