睦月/1/January
謹賀新年 無関心はどこからくるのだろう 過去に対する無関心、未来に対する無関心、考えればそれは当然現実に対する無関心でもあります。そして当然ながら他者に対しての無関心につながります。自分だけがよかったらいい、深く考える事がめんどうくさい、どうせ社会は変わらない・・・そんな態度や意見に接するたびに柔らかく反論は試みるけど接点なく終わる事もしばしばです。 心ある人間として、経験ある大人として、少しでも未来を良くしようと努力されている人々が点在するのも事実ですが、圧倒的な無関心とエゴイズムが蔓延しているのではないかと思わざるえない現状があります。朝日新聞で見かけたすばらしい言葉。 1931年生まれの作家、吉武輝子さんの記事の見出しに「闇の原因見据え、個人の力を信じよう」とありました。彼女は戦争とレイプと言う恐ろし過ぎる体験に負けることなく高齢と重病にも関わらず平和と人間性を訴え続けていらっしゃいます。「闇の原因」の大きな一つは無関心であるとそれは間違いありません。
水たまり 大きな水たまり、小さな水たまり、せっかくきれいに張りつめた氷を割ってしまうのはうしろめたい気持ちもありましたが、先に踏まれて割られてしまうのもしゃくだし、帰りには融けてしまっているだろうし、氷が張っていそうな寒い朝はとにかく早く家を出たものです。土を掘ったり、土を盛ったり、手も顔も服もどろんこにはなるけれど土の中には思いがけないものも埋まっていたりして楽しいものです。 変わった形の空きビン、ビー玉、さび付いたブリキのおもちゃなども出て来ます。地中の生き物たちにとっては大迷惑だったでしょうが、人間の子供もまた土とともに生きていました。でこぼこ道、水たまり。舗装道路の下には今も同じ世界があるのだけれど、人間は見たり触れたりする事が出来ないと、その存在を忘れてしまうものです。久しぶりに見つけた水たまりの氷。踏み割るどころかまるで希少な生き物を見つけたみたいにそっと指でなでました。
日射し 手袋を忘れてきたのはうかつだったと思いながら遠くを見やると山々が屏風のように町を囲んでいます。奈良盆地。友人が冗談で「奈良は文化の止まった町だよ」と言っていたけどここから見やる風景もまた時間が止まったように感じます。それにしても寒い。手に息をかけ、昆虫のように手をこすり合わせても指先の感覚はなかなか戻りません。 自転車に戻って暖かい缶コーヒーでも探そうと歩を返したとき、曇天の空から太陽が顔を出しました。暖かい。日射しです。即席の太陽崇拝者は日射しよもっと強くなれと勝手な事を念じましたが、太陽はまた姿を隠し、暖かさは一瞬。それでも光の熱気が衣服に残っていて、今更ながら太陽エネルギーの偉大さを再認識しました。体があたたかくなるもの、心があたたかくなるもの。自転車を走らせながら考える奈良街道です。
マグロの思い 経済効果、経済優先、経済至上主義・・・高価なマグロはそんな風潮をいちばん表している生き物かも知れません。確かに美味しい魚ではあるけれど、日本人がマグロを異常なまでに食する傾向はその味のみならず何かリッチなイメージが伴っていることも一因ではないでしょうか。経済対価が大きい事から海外のいろいろな国からマグロは日本に送られて来る現実。マグロは賽銭箱の上ではなく祭壇にでも祭らなければ申し訳ないような気さえします。
和ローソク ローソクの構内も京都駅とは対照的に昔ながらの雰囲気そのまま。それでも当然お土産品は流行を反映して変化自在の生八つ橋などが色も鮮やかに並んでいます。東京タワーには長く行ってないけど、神戸のポートタワー周辺も大阪の通天閣界隈も古びてちょっと斜陽で、そのうち雰囲気は一新されるのだろうなと昨今の流れを見て思わざる得ません。 遊園地でも百貨店でも閉園や閉館となると、惜しむ声が聞こえて最後の人だかりがするけれど、そうなら何で普段から利用しないのかと疑問が湧きます。新しい物は時代のニーズに合わせて計画計算されているからほっておいてもいいけれど、古い物はちょっと意図して保護するような気持ちで利用しなければ存続出来ないのは当然です。 効率一辺倒で古いものを壊してしまうと、再生、再現は不可能な部分があって、それは必ず文化の喪失につながりますし、これからの日本人の心のあり方に対してじわじわとよからぬ蓄積になるだろうと思うのです。
阪神大震災 無惨に横倒しになった高速道路は誰が見ても構造的に欠陥があったんではないかと思うほどあっけない倒れ方で、それでも自然の力の恐ろしさに震えが来ました。あれから16年、日常の時々にまたあのような地震が起こるかもしれないと言う不安と恐れはつきまといます。 震災で家族を失い、家を失った人々に比べれば僕の体験は大した事ではありませんがそれでもその後の仕事環境や精神的な部分、特に生きると言う事への考え方に関しては少なからずの影響がありました。自然と言う絶対的な力に対して備えがどうとか、心構えがどうとかと言う事ではありませんが、一つだけ身にしみた事があります。 生きていると言う道すじにおいて、いつなにが誰にどう起こるかは分からないと言う事です。たとえ明日と言えども絶対的な事等何一つないけれど、今この瞬間だけは絶対ですし、それだけは自分の意志や感性が発揮出来る表現の「場」なんだと考えるようになった事です。 一瞬、一時間、一年、一生。延々の過去と延々であろう未来の中においてどんな命も一瞬にしか過ぎないけれど、みんな瞬間と言う「場」は与えられている、そしてそのシーンは生きてる限り次々と与え続けてもらえる「場」だと考えると、真剣さとともに勇気もまた生まれるのです。
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。