お月さんとお正月 年末に電話して状態は分かっているのだけれど年が変わるとそれが随分前の事のように思われて不安が募ります。こうやって公園のベンチで数十分座っているだけでも我慢出来ないほど寒いのに路上生活を余儀なくされている人たち。高齢でもなく病気や怪我もしていないのに仕事が見つからないと言う理不尽。年始の神社やお寺は暖かく着飾った人で溢れていますが、それぞれの願掛けの中に、ぎりぎりの逆境に追い込まれてしまっている人たちが窮地を脱する事ができるよう願いを含めて欲しいなと思います。社会全体が暖かくならなければ本当の「暖」は誰も取れないと思うからです。 小さく生きる 話は変わりますが校舎や教材にも不足する発展途上国の子供達がインタビューに応えて「私はお医者さんになって病気の人を助けたいの」とか「立派な政治家になってこの国をよくしたい」「技術者になって井戸をいっぱい掘りたい」「踊り子になって人をよろこばせたい」など目を輝かして答えるシーンがありますが、みんな誰かのため何かのために夢を語ります。あらゆる職業に夢を見いだします。以前ある大学院生と一緒に仕事をした時に数人の学生に将来の夢を聞いたことがあります。工学を学ぶ彼らはどんな夢があるのだろうと思ったからです。答えは驚くべきものでした。 「別にそんなのありません」「安定したゼネコンにでも勤めて食べれたらいいです」「できれば名の通った設計事務所に入れればいいと思います」彼らが何のために大学院まで行ってるのか僕にはさっぱり分かりませんでした。受験勉強に追われ人間のいちばん大切なものをどこかで置き忘れて来たようで取り返しがつきません。それでは「小さく生きる」ではなく「小さくしか生きれない」ではありませんか。彼らのような学生が今の日本の主体だとは思いたくはないですが、教師、親を含め彼らの範となるべき大人の「小ささ」には大きな問題があると思います。 まあるいもの 寒さに負けないよう羽を膨らませているのでしょうか、まるで小さなボールのようにみんなまんまるです。小さくてまるいものは理屈抜きで愛らしく見えます。ころころして安定感があってつい手を差し伸べたくなります。弱者に対する勝手な思い入れかも知れませんが人間の赤ちゃんでも、子犬でも子猫でもアザラシの赤ちゃんでもたいていは太っている方が可愛いものです。三角、四角、丸。三角野郎とか四角四面な奴とかあいつは人間が丸くなったとか幾何学的な言いようはあるけれど、丸に内接する三角や四角はいつまでも持っていたいものです。
若気のいたり ある者は社会のせいにします。ある者は家庭のせいにします。仕事、親、子供、夫婦、兄弟の問題。病気や怪我の問題もあります。それでも僕が知る限り状況の厳しい人ほど自分を見失わずに生きている人が多いのには皮肉な感がするほどです。生きるためにはどうしようもない妥協も、やるせない我慢も多々あるけれどかと言ってそれは若き日の純情や情熱、夢を無くする言い訳にはなりません。 若気のいたりの中の真実。積年のいたりの中の虚偽。年齢だけ重ねて中身が積み重なるどころか空っぽになって行くような生き方だけは避けなければなりません。 鍋と心と心意気 お金がなくてあてはホルモンの「ミノヤキ」しか注文出来なかった時の事、美味しそうに焼けた「ミノ」を一切れ口にいれると固くて全く歯がたちません。10分ほど格闘しても噛み切れずごくんと飲み込んでから店主のおっちゃんに言いました。「おっちゃんこれはミノではなくてブリジストンタイヤの断片ではないの?」おっちゃんは「ちゃんとしたミノだよ。若い者は歯とあごを鍛えないといかんからね」確かに明日あごは筋肉痛でしょう。でもお陰でミノだけでビールを数本飲めました。同じ店での事。「おっちゃん今度忘年会やろうと思うのだけど1人1000円ぐらいの予算で鍋できる?」「それだけあれば十分だよ」「ほんと?」忘年会の当日店の2階に上がるとテーブルに大きな土鍋とこれでもかと言うぐらいの量の寄せ鍋の材料が皿に盛られていました。 予算が予算だけに期待していなかったのでみんな顔を見合わせて笑いました。「これはとても食べきれないぞ」それぐらいの量です。みんな席に着いて土鍋のふたをあけるとなんと、鍋の中にも具材がびっしり入っているではありませんか。おっちゃんの心意気にみんな心が熱くなりました。料理とはまさに人の心。そして鍋は心意気です。 それぞれの転機 のど元過ぎればではありませんが多くの体験は流れる水のごとしです。それでも幾つかの体験はしっかりと記憶に刻まれ人格の一部を形成して行きます。考え方と行動、意識と表現は織物の縦糸と横糸のように交差してそれぞれの絵柄を織り込んで行きます。くっきりした部分もあればぼやけた部分もあって全体がどう言う構図になるのかは分からないけどきっと読み解く鍵は用意されている事でしょう。人それぞれの転機、その時々の転機、連続する日常の中に点在する不連続な部分と部分、時と時の積み重ねこそが自己変革の歴史、その人の個性とか人格と呼ばれるものではないでしょうか。 温度差それぞれ 人と人の関係の中にも年齢による温度差、体験や経験による温度差、知識による温度差、学歴による温度差、職業による温度差、男女の性別による温度差さえまだまだ残っています。若い頃アルバイトを含め20近くの異なった職業に従事した事がありますが、職業によって価値観や視点が大きく異なる事を体験しました。あらゆる職業が細分化され専門化が進む現代社会においてはその差異はますます大きくなるのは必然です。 細分化や専門化によって実験科学や技術分野が飛躍的に進んだのは明らかですがその効率主義が社会全体を覆うとあらゆる歪みと温度差が生まれます。知識や行動の単純化感性の鈍化につながりそこから孤立や対立が生じやすいからです。「人は一つの事に従事している時はその他あらゆる事をさぼっている時だ」と言う格言を時々に思い出さなければ行けません。ソウルの友人は風邪を引かないだろうか。気象的な温度差はやむえない事ですが、人間的な温度差は少しでも縮めたいものです。
前進とリスク 周りに数人同じような症状を持つ人がいますが手術をした人もしない人も完治するのは難しい症状です。過去に何度かこれは腹筋を鍛えるしかないなと考えいろいろな方法でチャレンジしたのですがその都度激痛に見舞われこれは無理だと中断。以来なるべく背骨に負荷をかけないようにやって来ましたがなんか情けなさがあります。 そこで昨年末から再チャレンジして上半身の筋トレと腹筋を続けて来ました。1日も休まず鍛えた成果があって上体はかなり締まって、これはもしかしたら腰痛を克服出来るのではないかと思った昨日、背骨にぴりっと痛みが走りました。激痛へと至る恐るべき前兆です。やる事がいっぱいあって寝込むなど出来ない状況だし、無理は止めようかと思ったけれどここで止めたらもうその気力は戻らないだろうなと思い一か八か痛みをこらえて筋トレの継続。 そして今日。鈍い痛みは感じるけれど大事にはならない感じがします。何事も変革や前進するためにはリスクを伴いますが躊躇して何もやらない事が結果自身への負荷になってしまう場合もあります。もしかして後退するかも知れないけれどリスクは前進するために必要なものです。 大震災 復興、再開発で街の見た目は以前よりきれいになりましたが、肉親を亡くした人、家を失った人、不本意な引っ越しを余儀なくされた人にとって心の傷は道路や建物のように元に戻るものではありません。神戸の街を歩いていて思わぬところで出会う倒壊を免れた古い家屋やビルを見るごとに複雑な気持ちになります。一新された周りに1人取り残されたように見える建物は仲間を失った人間そのものに見えます。
ハイチでの大地震 今そこまで迫っている天変地異の脅威は現代の人間のエゴが自ら招いたものです。ですからせめてハイチに日本の救助隊が空母と艦船に5000人のスペシャリストを乗せてすでに出航したとか、航空機20機がすでに現地に到着して隊員は仮設の病院をすでに設置し始めています。とかの話に何故ならないのでしょうか。日本の自衛隊員だってそれが国際救助隊のような任務ならもっと生き甲斐を感じるでしょう。国民の尊敬だって集まります。 「ハイチで大地震発生」国際救助隊はすでに現地に20000人以上入り、千人以上の人を瓦礫の下から救い出しました。なお各国の救助隊はそれぞれ最新鋭の医療機器を携えハイチに向かっています。そんな報道がなされる現実が単なる絵空事ではないだけの必要性と具体性が少なくとも先進国と呼ばれる国にはあると思うのです。 地方の存在感 閉塞感漂う福知山の市街地は空き店舗が目立ちます。シャッターが降ろされた商店街にぽつんぽつんと店が営業する様子は地方都市の多くに見かけられる光景です。ピカピカの駅舎と整備された駅前と反比例をなす衰弱した地元の商店街。 車社会と大規模店舗がもたらす利便性より大きなものが失われていると旅行するたびに思います。その土地土地の個性があってこその地方。地方の文化や活力が失われれば日本文化のすそ野の崩壊につながります。 そんな思いで綾部の町をぶらぶら歩くと、この町は比較的元気な感じがします。古い家並みもそこここに残り、空き店舗が目立つ事もありません。町の経済体質の差もあるのでしょうがとにかくほっとする感じが残る町です。 一長一短 それでも犯罪被害者の中にも死刑を廃止すべきだと言う人もいます。やりきれないのはそんな人に対して攻撃する人がいる事です。当事者でもない人間ならば極刑をのぞむ被害者の心と絶対に許せないのは同じだけれど死刑はのぞまないとする被害者の心のどちらにも同情すべきでしょう。 もし僕自身の家族や友人にそのような事が起こればたぶん許せないと思いますが分からないと言うのが正直です。そしてそのような極限の問題でなくても人は人に対して行き過ぎた批判をしたり攻撃をしがちです。一長一短が混在する人間において自分の長所をのばす努力より短所を直す努力が必要だと改めて思います。そして子供に対しては「子供は長所だけのばしてやればいい」と言う考えと同時に「子供は短所だけ直してやればいい」考えもまた大切だと思うのです。社会や人間関係を殺伐とさせるエゴイストな人間を見るたびに彼らにも長所はあるのだろうけどあまりにも短所が多過ぎるし大き過ぎると思うからです。 自己と他者 今はそれでもいいかも知れない。だけどきっと辛くなる・・・・・・冬には足が冷たくならないか?空からは雪も降らず陽も照らない。・・・・・気持ちが去って行くのは笑い事じゃないよ。・・・・・デスペラード目を醒したらどうだ。こっちに戻ってくるんだ。心を開いて。今は雨が降るかも知れない。けれど頭上には虹がかかるさ。おまえには誰かに愛されることが必要さ。誰かに愛してもらうんだ。手遅れになる前に。<訳、加納一実>
集中と偏狭 学校の学部が違ったり、職種が違うだけでコミュニケーションが取れない人が増えていて異なった環境や知識の交流がますます減っていく事態は深刻です。視点が変わると価値観も変わるし多様な価値観の認識は人と人の理解や思いやりに欠かせないものだと思うからです。世界も人間もあらゆる要素に満ちていていくら意識していても偏狭になりがちです。スポーツ、芸術、科学、それぞれにまた多様なジャンルがあります。 そんなジャンルのたった一つの世界に邁進していては自我の埋没にもなりかねません。せめて、文武両道。僕の子供の頃に少し残っていた風潮は今の子育てや教育にも生かされているのだろうか?本を読んで音楽を聴いてそして野原を駆け巡る。危なくて駆け巡るどころではない環境になってしまった事も嘆かわしい現実です。 たとえばそばにいるだけで それよりもきっとその人が自分自身の事で心をいっぱいにせずに人が分け入るスペースを空けてくれているからでしょう。この世にはいろんな人がいます。相手の言葉に耳を貸さない人、イライラをぶつける人、説教くさい人、揚げ足取りに馬耳東風。たとえばそばにいるだけで疲れきってしまう人もいます。 何が彼らをそこまで偏狭にしてしまったのか、などと考えても虚しい事ではありますが別れて帰る道々それぞれの生い立ちや環境に思いを巡らす事もあります。もっとおおらかに、せめてユーモアと笑いぐらいは会話に挿めないものだろうか。高度な学歴や社会的地位があっても経済力があっても心の寛さとは別問題である事を最近特に思い知らされます。 心のみならず知識や智慧もまた同じくです。「たとえばそばにいるだけで心が強くなれる人」「たとえばそばにいるだけで笑顔が取り戻せる人」「たとえばそばにいるだけで心がやさしくなれる人」そして『たとえばそばにいなくとも心が温かくなれる人』。そんな人を目指したいものです。 老人と笑顔 施設に従事する介護士や関係者の方々には頭の下がる思いですが現場を見れば介護する側の人手を増やし待遇を良くしないと行けないとは誰でも思うはずです。過酷で重労働な介護の仕事。最高の待遇が必要なのに医療現場と同じく労働や責任の重圧に見合う待遇がなされていません。 人の命や人の心を預かる現場だけは国が介入して絶対的な援助をすべきでしょう。社会には民営化や市場主義に当てはめてはいけない分野があります。車いすに座って虚空を見つめるおじいさん。黙々と食事をとるおばあさん。20年に及ぶ祖父母の介護で人生を無くしてしまったと悲しく笑う叔母さんや母の生き様を身近で見て来た僕にとって介護の問題は軽々に言える事ではありませんが、せめてモノが溢れる今の時代、施政の方向と方法でもっと老人に笑顔が増えるような環境づくりは急務だと思うのです。 施設の問題、そして増え続ける高齢者の一人暮らしの問題。「孤独」は高齢者に限らずあらゆる年齢層に広がっています。それは歪んだ社会構造が生み出した人災です。老人の笑顔が消えた時、それは青年や子供までもが笑顔を失う時です。
自由と形式 どんな自由の中にも形式が含まれていて、どんな形式の中にもまた自由な発想と表現があるからこそ創作は続けられるのでしょう。それぞれの個性とそれぞれの才能。これからの長い道のりは紆余曲折、目指すものも生き方もそれぞれ変わって行くでしょうが、この美術展から発散している純粋性だけはいつまでも持ち続けて欲しいものです。
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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。