グランブルーな人たちへ |
2013年
今は昔 駅舎、言葉、食べ物、風景・・・「この土地を訪れてよかった」とよく思ったものです。考えてみれば当時も強欲な政治家や企業家がいて、お金儲けのための画策はあったのだけれど、今と違ってテクノロジーの未熟が幸いした部分がありました。あれからほんの数十年。テクノロジーは飛躍的に進化して、悪用されれば致命的になる段階にまで達しました。郊外の広大な土地につくられる大型店。地域の個人店はどう考えてもかないっこありません。市場も商店街も映画館もまるで地上から消え失せたようです。田んぼの真ん中にぽっかりと現れた巨大施設。超高層ビルに詰め込まれた商店街や映画館。集約すれば合理的で儲かるのは分かりますが、短絡さゆえの弊害はとてつもなく大きく、情緒やコミュニケーションの喪失を考えれば、それは結局大損ではないかとも思えます。今は昔。数十年後の今はどうなっていて、その時、今はどう映るのでしょう。 核を廃絶する意思表示を先に 女性議員率が象徴する日本の男女同権のまだまだと目を疑う事実 アイスマンとナスカの地上絵 自然は汚さない。街の景観を壊さない。先進国のあるべき姿勢 競争の中に個性を埋没させるのではなく、自由の中に個性を伸張させる社会でなければ人間として真の能力を引き出せませんし、愛は育ちません。愛のない社会は殺伐です。経済利益だけのために山を壊し海を汚し、街の景観を破壊するようなことはもう止めて、先進国としてのあるべき姿を取り戻す時だと思います。その契機が福島の原発事故だと思うのです。大きな犠牲、未来への大きな危惧、想像を絶する経済的負担・・・先進国であるなら馬鹿な事は繰り返してはいけないと思うのです。 |
宇宙の果ては分からないけど、人間が守るべきものは明らかです。 「二度と同じ過ちを繰り返さない」戦争で筆舌に尽くせない体験をした人々、その恐ろしさ、虚しさを伝え聞いた世代は「自由の大切さ」が何にもまして大切だと分かっています。いかなる理由があっても戦争に向かうような流れ、自由が侵害されるような気配に対しては抵抗します。どんな些細な兆候でも放置すれば後戻りできない事態になることが予想できるからです。この宇宙にあるたった「4.9%の物質」しか認識できていない現代の科学。人間はまだまだ謙虚に過ぎなければならないはずです。驕り高ぶり盲信盲従、目先の損得勘定で政治家がそろばんを弾くのも惨めですが、平和とか命とか絶対的に大切なものは一人一人が強く意識しなければなりません。古い建物や伝統文化がないがしろにされていくように、人間そのものもまたないがしろにされて、結果、戦争とか原発事故とかにつながり、もっとも大切な「自由」と「命」が奪われて行くことになりかねません。 となりの火星とW3 1965年に発表された手塚治虫の漫画「W3」は無益な戦争を繰り返す悪評高い地球を見かねて銀河連盟から調査のために3人の銀河パトロールを送り込まれるという話ですが、彼らの報告しだいでは、地球は消滅させられるかもしれないと言うストーリーです。2013年現在、ワンダースリーのメンバーはまだ地球にいてまだ判断をしかねないでいるかも知れませんが、地球人は進歩しないなと思っているに違いありません。特に日本の姿勢、原発事故であれだけの被害を出し、その危険性をいやと言うほど分かったはずなのに反省もせずまだ原発を動かそうなんて低級にもほどがあるとさじを投げるのではないかと不安です。ボッコ、プッコ、ノッコのW3は面白いし人間的だけれど、日本のW3、なぜ人命を軽視するのか?なぜそこまでお金に執着するのか?なぜ他者に無関心なのか?は恥ずべきワンダースリーです。 なるべく携帯を使わない運動 理由がどうあれ携帯に依存してしまう心理には問題がありそうです。家族、会社、友人などそれぞれの関係に携帯が影響を及ぼしているのは明らかで、考えてみれば細やかなコミュニケーションの喪失につながっているのだと思います。それは他者に対する思いやりや人と人との信頼関係にも影響していて、良いこととはとても思えません。携帯に取り込まれている時間を他のことに使わないともったいないですし、依存が度を超えれば、人が携帯を使っているのではなく、携帯が人を操っているようにさえ見えます。指令で動くロボットにはならないでしょうが、思考力を弱めてしまうかも知れません。友人と話し込む、本を読む、映画館で映画を観る、自転車に乗る、何でもいいけれど携帯を使えない環境に身を置くのは気持ちのいいものです。
食品からの内部被ばくを完全に防ぐのは現状を見ればとても不可能で、せめて子供たちには厳密に検査された食品をと思いますが、それもまた国が徹底した対策と体制を作らない限り無理な話です。魚やカエルに降り掛かった災厄は結局人間に戻って来ます。風評でも大げさでもない原発事故の後遺症について、一人一人がもっと関心を払い、もう二度と事故を起こさせないためにも、政府や電力会社の巧言を見抜く力が必要だと思います。何度も書いているけれど原発を廃止することはヒューマニズムの問題すなわち人間一人一人の意識と心の問題に他ならないと思うのです。 「正しく考えて、その考えを明らかに話す」 |
古き建物の味わいと存在 ただ歩いているだけで、ただ観ているだけで得られるものがあります。京都の町もずいぶん破壊されましたが、それでも古き良きものを守ろうと尽力している人も少なからずいて感謝です。いったん壊してしまうと取り返しがつかない町や建築。それは視覚的、物理的要素に加えて長い時間の中で流れたり貯まったりした精神が共にあって、それはもう2度と再現できないものだからです。行き過ぎた商業主義は古いものを不利益なものととらえ利益率の高いものへと変換しようとしますが、人間にとって本当に不利益なのは商業主義がもたらす精神性の欠如です。町も建築もそこに住む人間の心が豊かで無ければ意味がないし、そしてまた心をいかに豊かにするかが環境づくりの主題であるはずなのですから。古い街並や建物には森や公園と同じ「癒し」の効果があることを行政や建築に携わる人間は忘れてはいけないと思うのです。 愛=好奇心+想像力 好奇心+想像力=平和 愛=平和 何故だろう?と言う好奇心。どうなるのだろう?と言う想像力。人ごとでないと言う自覚。日常の犯罪も沖縄の基地問題も身の回りの小さな環境破壊も全てつながっていてそれらに心が動かないのは好奇心と想像力の欠如です。人や動物や環境に対して、自分以外の他者に対する配慮の無さは、愛情の希薄さ以外のなにものでもないと思います。無関心と閉鎖、そして独断や排他。好奇心や想像力のない即物的な価値観は愛のない殺伐とした世界をつくってしまいます。そしてどうしようもなく恐ろしいのはそのような世界は闘争や戦争へと流れこむ可能性があることです。逆に考えれば好奇心と想像力に裏打ちされた愛を一人一人が育てることが平和を守るための唯一無二の方法だとも思えます。意識できること、表現したり、実行できる小さな愛は日常の中にだっていくつもあると思うのです。 ローカルな精神の大切さ こんなことを思い出すのはいつの頃からかどこを旅していてもそんな違和感がなくなったなと感じるからです。違和感と言ってもいい意味でのことで、その土地、風土の新鮮な空気というような感じです。最近では地方を走る電車内などで、お年寄りや地元の学生同士の会話の中から特有の方言が聞こえて来たりしますが、あらためて方言はいいものだと思います。特有の言葉の中にはその土地の精神が宿っていて、それは「そこにしかないもの」であって「大切な何か」であるのだと思います。グローバルと言う流れの中であえて意識しなければ消え失せてしまうもの、言葉に限らず、風習や風景、固有の価値観などもまた「大切な何か」であって、国全体の奥行きの深さを保つためには不可欠なものなのだろうと思わずにはいられません。 ジェンダー・ギャップ指数 もしかしたらスポーツや一部業界の女性の活躍のクローズアップにこの国の実態を見誤っていたのかも知れません。それにしても恥ずべきことである指数は世界トップクラス、例えば3万人に及ぶ自殺者、膨大な食品廃棄、愛犬家愛猫家がこれだけ多い中での異常な動物殺処分の数。世界でも唯一の被爆国であり、放射能の被害を現実に受けて来ているにも関わらずの福島原発事故以降の国民の無反応。深刻な現実を報道しないテレビの悪影響は大きすぎるとは思いますが、事実を知ろうとしない無関心の風潮は目に余ります。「男女平等」と「民主主義」の成熟度は比例する部分が多いと思います。個人の人権が尊重され、多様な価値観が調和したゆたかな国になるためにも「ジェンダー・ギャップ指数」も50位ぐらいにならなくてはと思うのです。 |
日本列島ぐるりの環境破壊 日本列島をぐるりと取り囲んだ原発施設には膨大な使用済み核燃料が保管されていて、原発を動かさない状態であっても大きな危険をはらんでいる事実。半永久的に安全に保管しなければならない核燃料をどうするかさえ決まっていない状況で何故に原発を動かし続けて来たのか、動かせば必ず増えるのですから無責任を通り越しています。原発の正体がすっかり見えてしまった今、遅れをとってしまったけれど、自然エネルギーにシフトするまで火力や水力で十分エネルギーはまかなえると分かっているのですから、すみやかに原発は全廃すべきです。廃炉に向けての作業だけでも地域の雇用は十分生まれるでしょうし、その労働は安全な未来に向けての意義のある労働です。合わせて自然エネルギーの小規模設備を地方に点在させれば地方の表情は一変するだろうと思います。美しい海や山と放射能は相容れないものです。人間を含めすべての生命体にとって相容れないものです。それはこの先科学がどれだけ進もうが、永遠に変わらない真実です。 学者、弁護士、政治家の前に、人間としての問いかけ 現行の法律にさえ触れなければ何をしてもいいと言う卑怯。法の前に、自らの中に、人間としての問いかけはないのだろうかと思ってしまいます。虐げられた者、弱い者がいっぱいいる社会がそこにあって、それを感じないような鈍感な人間を人の上に立たせてはいけないとは誰でも思うはずです。「政治家と言う者は愚鈍なるがゆえに政治家たりうる」とスペインの哲学者オルティガ・ガセットが言っていますが、そうでない政治家も少なからずいて、でも現状の面々を見わたせば、その極論にうなずかざる得ないところもあります。「政治家とは聡明なゆえに」「政治家とは慈愛がゆたかなゆえに」あるいは「政治家とは感性ゆたかなゆえに」政治家たりうる、少なくとも日本の政治家は。とガセットさんに言えるような時代を目指したいものです。 象を安楽死させないでとブリジット・バルドーさん オランド仏大統領に対し、ゾウ助命への介入を求めたそうです。動物とのかかわり方で、その国の文化レベルが分かると何かの本に書かれていましたが、命あるものへの思いやいたわりは人間ならば当然のことです。犬好き、猫好きの人がいっぱいいる日本で30万匹以上の犬や猫が殺処分されている現実に大きな疑問が湧きます。福島原発事故の直後の3月29日に福島の野菜農家の男性が放射能汚染に絶望して自殺。遺族は「原発に殺された」と悲しみにくれました。6月20日には壁に「原発さえなければ」と遺書を書き残して酪農家の男性が自殺しました。そのニュースを聞いたとき、これは日本中の人が怒るだろう、原発を推進して来た人たちに対して国民は責任を追及するだろうと思いました。 原発の安全を信じ、懸命に農業に従事してきた被害者にはあまりにも理不尽でせつないことでしたから。あれからもうすぐ2年になります。未だ16万人以上の人が避難生活を強いられる中、放射能被害も十分解明されない中、「何事もなかったかのように」事を運ぼうとする人間がいます。それでも立ち入り禁止区域に取り残され意味も分からず死んで行った動物たちの叫びは多くの意識ある人間と共に原発全廃に向けて合唱しつづけるでしょう。 イーグルス、ツェッペリン、、ラジオから流れる音楽に聴き入って 天国への階段が発表されたのは1971年、ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロードは1970年、いつわりの瞳は1975年。とにかくロックの神様が舞い降りたかのような充実度ですが、実際は神様ではなくその時代の精神の圧縮なんだろうと思います。絵を観て「ぐっ」と来たり、本を読んで「うっ」と来たりすることがありますが、音楽は意識や感性に加えて本能のような部分を刺激します。シューベルトの交響曲「未完成」などは小学校の時に聞いてから半世紀あまり聞き続けても新鮮ですし、キースジャレットの「My Back Pages」は12時間繰り返して聞いたこともあります。そう言えばキースも1945年生まれ。ちなみにシューベルトは1797年と遠い昔ですが、近くにはベートーヴェン、ちょっと離れてモーツアルトがいます。時代精神の圧縮と展開。とにかく音楽は心の酸欠を補う魔法の妙薬です。 |
ラジオフォーラム 4月20日 経済界は、せめてしっかり金勘定ぐらいしなさいよ!/ラジオフォーラム「小出裕章ジャーナル」
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ダートムーア動物学公園に感じる、人間性と今の日本に欠けているもの |
2013/03/16 2006年、南仏で不自由のない作家暮らしをしていたペンジャミン・ミーさんは全財産をつぎ込んで英国の片田舎にある廃園寸前の動物園を買い取り、再生させました。買い手が現れなければ飼育されている動物220匹の半数が殺処分になると知り、心が動いたそうです。借金で改修費をまかなう挑戦を認めてくれた闘病中の奥さんが園の再開前に亡くなり、ショックで何日も動けなかったペンジャミンさんを立ち直らせたのは助けたはずの動物達。「人間も哺乳類の一種、死も生も自然の摂理だと感じる事ができた」とペンジャミンさんは語ります。2006年からの動物園再生の軌跡は「幸せへのキセキ」と言う映画になり日本でも6月から公開されるそうです。古いものや採算の取れないものが次々と切り捨てられる今の日本に、ほんとうに必要なものは何かを教えてくれる1つのエピソードだと思います。2007年に生まれ変わった「ダートムーア動物学公園」。利益優先しか考えられないような貧弱な頭と心を持っている人が、1人でも減る事が日本の明るい未来には不可欠な要素ではないかと思うのです。。 2011年3月11日に起こった福島原発事故の後、多くの人が日本はこれではいけないと思ったはずです。2年経った今も、原発の非人間性と人体や環境への影響を危惧して懸命になって原発廃止に声を上げ続けている人も少なからずいて、希望はあります。しかし一方では心を失ってしまった施政者や企業家、御用学者は今も反省することもなく原発稼働をもくろんでいます。そして全ての人に関わる問題なのに無関心な人もいて悲しくなります。動物への愛、人への愛をなくした人たちです。「ダートムーア動物園」の話を聞いただけでも考え方が変わるだろうと思うのだけれど、愛のない人たちの心は動きません。それでも世界にも日本にもヒューマニストはたくさんいて一人一人がネバーギブアップと思っているはずです。静かに熱く一歩づつ・・・ 『幸せへのキセキ』(しあわせへのきせき、原題: We Bought a Zoo)は、2011年のアメリカ合衆国のコメディ・ドラマ映画。ベンジャミン・ミーによる2008年の回顧録『We Bought a Zoo: The Amazing True Story of a Young Family, a Broken Down Zoo, and the 200 Wild Animals That Change Their Lives Forever』を原作とし、キャメロン・クロウが共同脚本と監督を務めた。ミーは2006年、休園状態にあったイングランド・デヴォン、ダートムーア(英語版)南西部のダートムーア動物園 (Dartmoor Zoological Park) を購入し、約1年かけて動物園の公開を再開させた。ミーをマット・デイモンが演じる。2人の子供を抱え、ロサンゼルスでコラムニストとして働いていたシングルファーザーのベンジャミン・ミー (マット・デイモン) は、人生と家庭を修復しようと仕事を辞めて街外れの広大な家を買う。そこはローズムーア動物公園といい、ケリー・フォスター (スカーレット・ヨハンソン) ら飼育員と47種の動物がいた。 |
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