記憶の中の日本の女優 |
ウィキペディアより抜粋 |
1■浅丘ルリ子
・・・日本映画全盛期に一世を風靡した日活アクション映画における代表的なヒロインであり、小林旭の『渡り鳥』『流れ者』『銀座旋風児』の三大アクション・シリーズや 石原裕次郎のムード・アクション・シリーズ(『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)等)など多数の作品でヒロイン役を演じた。 ・・・その他にも、『太平洋ひとりぼっち』、『水で書かれた物語』、『私が棄てた女』、『栄光への5000キロ』、『戦争と人間・第一部〜第三部』、『告白的女優論』、『鹿鳴館』、『博士の愛した数式』などの映画の話題作に出演した。 特に、映画『男はつらいよシリーズ』で演じたクラブ歌手の「リリー」の役は大好評で、マドンナとしてシリーズ最多の4回の出演を数え、最後の作品となった『男はつらいよ 寅次郎紅の花』でもマドンナ役を務めた。 ・・・日本のテレビ番組『スター千一夜』のフランスロケで、フランス映画の俳優ジャン・ギャバンが同番組にゲスト出演した際に、石坂と共にギャバンと共演した。浅丘いわく「ギャバンは顔がピンク色で凄くきれいな肌をしていた」と、ギャバンの大ファンで知られる高倉健等と同じくギャバンを尊敬している近藤正臣との対談で語った。
『虹を織る』では、ヒロインを指導する教員(日舞担当)・上原敏江役を演じた。また、舞台での『細雪』の二女は当たり役とも評された。このように、和服が似合う清楚高潔な「伝統的な日本女性」としてのイメージを保ちながら、娘役から母親役、良妻賢母から悪女まで、幅広い役柄を演じられる器量が評価され、各方面から絶賛された。
・・・同じ1975年にTBSの演出家・鴨下信一に「美人でなく、知的でもなく、金もない“3ナイ女優”を探していた」とのことからドラマに誘われ、鴨下演出のテレビドラマ『花吹雪はしご一家』に出演。 この頃から女優業に乗り出し、1980年に『手ごろな女』(日本テレビ)でドラマ初主演。歌手としても1977年に「哀恋蝶」が10.9万枚(オリコンチャート最高位37位)のヒットを記録した。
小学校のときから日本舞踊を習い、また、養父の姉に連れられて宝塚歌劇を見に行くうち、憧れるようになる。 ・・・1983年(昭和58年)、驚異的な視聴率を記録したNHKの連続テレビ小説『おしん』に出演。主人公・おしんの晩年期を演じ、主演もこなせる女優であることを改めて知らしめ、国内外において新たなファンを獲得した。 また1987年(昭和62年)から1992年(平成4年)にかけて、日本テレビ放送網の火曜サスペンス劇場で、水谷豊主演の浅見光彦ミステリーとその続編である、朝比奈周平ミステリーで、水谷の母親役を演じた。
・・・千代田区の一橋中学を経て明星学園高等学校入学。同校在学中の1960年、通学姿を見初めた篠田正浩と寺山修司に路上でスカウトされ、フジテレビ系ドラマ『東京タワーは知っている』でデビュー。芸名は秋山庄太郎に付けてもらった。「加賀だったら、『まりこ』が明るくていいじゃないか」とのことだった。 ・・・20歳の時、次々に舞い込んでくる仕事と女性週刊誌がイメージだけで書く記事に嫌気がさし、人生をリセットする目的で半年先のスケジュールまでキャンセルして、単身パリに渡る。それまでに稼いだ金で豪遊のかたわら、イヴ・サン=ローラン、フランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワーズ・サガンらと交友する。 半年が経ち、金が底をつき帰国を考えていた矢先に国際電話で演出家・浅利慶太から「舞台に出るかい?」と舞台出演の打診をされる。帰国後、劇団四季の舞台『オンディーヌ』に出演。連日大入りの大盛況で日生劇場始まって以来の大成功となる。この舞台で初めて、女優としての喜びを知り、以降女優業に本腰を入れる。
自由学園高校卒業[1]。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士、母は翻訳家の岸田秋子[2][3]。姉に詩人で童話作家の岸田衿子、従弟に俳優の岸田森がいる。・・・東京府豊多摩郡(現在の東京都杉並区)に劇作家の岸田國士・秋子夫妻の次女として生まれる。 若くして母をなくす。自由学園在学中に舞台美術に興味を抱き、舞台美術家を志す。卒業と同時に裏方として文学座付属演技研究所に入り研修生となるが、その後女優に転じ、1950年に『キティ颱風』で初舞台。これを機に芝居の虜になる。 ・・・映画では1962年に『破戒』などの演技で毎日映画コンクール助演女優賞、1964年には『砂の女』でブルーリボン助演女優賞を受賞して、実力派女優としての地位を確立した。1963年、杉村春子ら文学座幹部の運営に限界を感じていた芥川比呂志、高木均、小池朝雄、神山繁、山崎努らと共に文学座を脱退。 ・・・テレビドラマでは、特に1963年の『男嫌い』で、男をむしる独身四姉妹・越路吹雪、淡路恵子、岸田、横山道代(現・横山通乃)の三女役で出演したことが大きい(四姉妹の末弟役は坂本九)。同番組は「カワイ子ちゃん」「かもね」「そのようよ」などの流行語を生み出す大人気ドラマであり、お茶の間での岸田の認知度も上がった。 ・・・晩年は九条の会の他、「イラク攻撃と有事法制に反対する演劇人の会」に参加するなど、護憲運動に関わったことでも知られる。
市ヶ谷にある千代田女学園に入学後、演劇部に在籍し、その傍ら薬剤師を目指していたが、大学受験直前にスキーで足を怪我したため、大学進学を断念した。 ・・・1964年に森繁久彌主演のテレビドラマ『七人の孫』にレギュラー出演し、一躍人気を獲得した。1965年に文学座の正座員となるが、1966年に文学座を退団した後も、個性派女優として多くのテレビドラマ、映画、舞台に出演する。 ・・・1974年にTBSで放送されたドラマ『寺内貫太郎一家』で、小林亜星が演じた主役の貫太郎の実母を演じた。実年齢は小林より10歳以上若く、頭髪を脱色し「老けメイク」を施し、当時30代前半のまだまだ若い手との不自然さを隠すため、劇中は指ぬき手袋を外さなかった。 ・・・1964年に俳優の岸田森と結婚するが、1968年に離婚。1973年10月に内田裕也と再婚するが[4]、1年半で別居し、その後別居生活を続けている。 ・・・1980年に放送された『フジカラープリント お名前篇』では、お見合い写真を現像しにきた客(綾小路さゆり)役の樹木と写真屋の店員役の岸本加世子との「美しい人はより美しく、そうでない方は…」「そうでない場合は?」「それなりに映ります」というやり取りが流行語となった。フジカラーのCMには40年にわたって出演し続け、2002年には消費者の好感度が最も高い女性CMタレント1位に輝いた。
中学3年生の時に渡辺プロダクション主催の新人オーディションがジャズ喫茶「新宿ACB」で開催され、受験する友人は緊張の余り固まってしまい、困った司会者より「じゃあ! 君が代わりに唄って!」と指名され、堂々とした唄いっぷりもあって優勝した。 ・・・1973年、帰国後に劇団四季のミュージカルに自ら応募し、同年『アプローズ』に出演する。これがヒット作となり、自身も高い評価を受けて舞台女優としての地位を確立した。この時に主演を務めた越路吹雪とは、共演を機にプライベートでも親しく付き合うようになり、多大な影響を受けたという。以後、多数のミュージカルに出演するようになった。 1974年から始まった、細川俊之との歌と踊りとしゃれた会話でつづる二人芝居『ショーガール』は16作品、公演数547回、観客動員数は60万人を超す大ヒットとなる。1975年、芸術選奨新人賞受賞。1976年、紀伊國屋演劇賞受賞。 ・・・1977年頃、西田敏行や武田鉄矢と共に、バラエティー番組『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』に出演し、コントを披露する。また、1982年の五木ひろしとのデュエット曲「居酒屋」は大ヒットを記録した。
主人公・氏家真知子のストールの巻き方を「真知子巻き」と呼んでマネる女性が出るほどだった(ちなみに北海道での撮影の合間に、現地のあまりの寒さに横浜で購入して持参していた私物のストールで耳や頭をくるんだ岸のアドリブである)。以降、松竹の看板女優として絶大な人気を誇った。 ・・・1956年、フランス・日本合作映画『忘れえぬ慕情』に出演。1957年、『忘れえぬ慕情』の撮影がきっかけで、フランス人の映画監督イヴ・シャンピと結婚。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。以降、パリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた。 この頃に、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、ジャン・コクトーらと親交を持つ。・・・自宅はセーヌ川の中州にあるパリ発祥の地、パリの高級住宅街として有名なサン・ルイ島にある。築400年の家で一人暮らしをしている。小説を執筆中である。 10■草笛光子
1953年に在籍中のまま、松竹(松竹京都撮影所)から映画『純潔革命』でデビューする。豊かな歌唱力を持ち味とした。・・・日本ミュージカル界のパイオニアでもあり、数々の大作に出演した。 『私はシャーリー・ヴァレンタイン』などで芸術祭賞を3度受賞している。1999年には紫綬褒章、2005年には旭日小綬章を受章した。2013年に第48回紀伊國屋演劇賞・個人賞を受賞した。永年の舞台の功績に対して、2014年に第39回菊田一夫演劇賞・特別賞を受賞した。
このとき映画内の挿入歌「潮騒の詩」も歌い、歌手としてもデビューしている。映画『ゴジラ』(1984年、東宝)で、第9回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。 ・・・かつては清純派女優という印象が強かったが、金鳥の「タンスにゴンゴン」のCMでは、田中眞紀子風の政治家やマリリン・モンロー風のセクシー歌手、泉州弁で毒舌を吐く汚れた雛人形やパンクロッカーなどに扮して出演。 それまで見せなかったコミカルな面が好評で話題となる。またこれをきっかけとして、近年では地元大阪でのCMならびに番組出演や、舞台『女ひとり』のミヤコ蝶々のように、大阪にゆかりの深い人物を演じることも多くなっている。
太地は自身の出生について「自分はさる事情から、生後すぐ実母との別離を余儀なくされ、養父母の元に引き取られたと高校在学中に知った」と談話している。 ・・・新宿区立牛込仲之小学校〜千代田女学園中学校卒。松蔭高等学校在学中の1959年に、東映ニューフェイスの第6期に合格。同期には千葉真一・亀石征一郎・真山知子・茅島成美・新井茂子・都築克子らがいる。東映と専属契約し、当初は志村 妙子(しむら たえこ)という芸名で映画に端役で出演していた。 ・・・離婚後は生涯、独身を通した。また当時の女優としては池波志乃らと共に大変な酒豪で鳴らした。「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公言し、映画「飢餓海峡」のロケを追い俳優座を辞め北海道に渡ったが、左幸子演ずる杉戸八重に嫉妬し、数ヶ月で俳優座に戻り女優一筋の道を選ぶ。その後文学座で加藤武に育てられる。 その後、雑誌上で三國と最初で最後の対談をしているが、その場でも八重に対する猛烈な嫉妬心を語っている。この頃から緑内障を患い、失明の恐怖にさいなまれるようになった。1992年10月13日、静岡県伊東市での『唐人お吉』公演期間中の午前2時過ぎ、乗用車(トヨタ・スプリンターシエロ)が桟橋から海に転落する事故により死去。 同乗者の外山誠二と大滝寛は泳いで脱出したものの、太地は泳げなかった上、乗車前に深酒をしていたことから生還できなかった。駆けつけた佐藤陽子は「死に顔は眠っているようだった」と語っている。48歳没。
・・・父は稼いだお金を酒につぎ込んでいたため、子供の頃から借家に住んでいた。そのため、マイホームへの憧れが強かった。母は厳しく、怒ると電信柱に縛りつけられたり、トイレに閉じ込められたりした。父が怖いので、父が帰宅すると寝たふりをすることが多かった。 妹は父の機嫌をとるのが上手かった。父は大酒飲みで酒癖が悪く、夕食のときしばしばちゃぶ台返しをした。そのため、十朱らは父がちゃぶ台返しをする直前に、大事なオカズの皿を手に取っていたという。2011年4月(68歳)、トータルで21時間もかかった足首の大手術をした(腰の骨を移植)。 半年間、車椅子で生活をし、その後、1年間リハビリをした。楽屋では、待ち時間に本を読んでいる。読書好きで、週に1冊、年に約50冊本を読んでいる。車の中でも本を読む。
・・・1961年4月30日付で、宝塚歌劇団を退団。最終出演公演の演目は『残雪/華麗なる千拍子』。その後は東宝現代劇と契約、舞台女優として『悲しき道具』(1962年)で文化庁芸術祭奨励賞、『湯葉』(1973年)でゴールデン・アロー賞演劇部門賞など数々の賞を得る。
・・・近年、人気ドラマ『女監察医・室生亜季子』シリーズの終了後はテレビドラマの出演はなく、年間1か月の座長公演及び、その稽古期間やCM出演の他には仕事はほとんどせず、悠々自適の生活を送っている。息子一家と同居しており、一時期は元夫も加わり生活していたが、現在は元夫は別の女性と暮らしている。
・・・4歳の時、父を戦争で失い、毛糸商を営む母に育てられた。1957年、フェリス女学院高等部卒業。1961年、大映京都撮影所演技研究所に入所。1962年、『破戒』に出演して各種新人賞を受賞。以降、大映のスターとして主に時代劇で活躍。テレビドラマにも進出し、1965年、『太閤記』のねね役を演じたのをきっかけに大河ドラマで活躍。『風林火山』での演技が認められ、第59回NHK放送文化賞を受賞した。 また『欽ちゃんのどこまでやるの!?』、『森田一義アワー 笑っていいとも!』テレフォンショッキング、『徹子の部屋』、『スタジオパークからこんにちは』などバラエティ番組やトーク番組にも多数出演し、軽妙なトークや撮影秘話などを披露。 ドラマ・映画・舞台からは窺い知ることのできない素顔を見せている。・・・1985年には臓器移植を取材して著書『脳死をこえて』を書き上げ第6回読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞を受賞、同著はテレビドラマ化もされている。自身も腎臓バンクに登録、衆院法務委員会で参考人として意見を述べた。
・・・京大卒の高校教師の父親と母親の間に生まれた。小学校5年の時に両親が離婚。中学校2年で母親の育児放棄に伴い、兄と京都に移り住んでしまう。暮らしは非常に貧しく京都で住んでいた家は窓の裏が崖であった。 内職やアルバイトをする日々で、高校受験前には担任教師の家で仮住まいをしていた。京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科を受験し、一次試験に合格するが二次試験当日に母親の再婚を知らされ、受験を放棄。 レストランなどで住み込みで働き始める。18歳で上京し、銀座の高級クラブに勤務、1971年クラブに在籍中にスカウトされる。芸名は、風に吹かれたように出てきたから"風吹"、語呂がいいから"ジュン"。 https://ja.wikipedia.org/wiki/風吹ジュン
その後、『3年B組金八先生』に出演して人気を得る。映画では『序の舞』や『吉原炎上』でのヌードを厭わない体当たりの演技が話題になった。CMでは、長年、オロナインH軟膏のイメージキャラクターを務めた。 「片平なぎさに次ぐ2時間ドラマの女王」の異名を持つが、かつては松本清張作品に映画・テレビドラマ合わせて17本出演し「清張女優」と呼ばれた(清張本人とも交流があった)。長年、結婚歴のない独身であるが、「絶対結婚しない」と決めている訳ではない。 https://ja.wikipedia.org/wiki/名取裕子
1971年、19歳の時に本名の中島淳子名義で「小さな恋」にて歌手デビュー。ジャニス・ジョプリンのような曲を歌いたかったが希望は受け入れられず、清純派アイドルとしてデビューした。しかしあまり注目されず、キャバレー回りの日々が続く不遇の時代を過ごす。 1973年に現在の夏木マリ名義で「絹の靴下」を発表。妖艶な振り付けやフィンガー・アクションが盛り込まれた同曲は大ヒットした。・・・ヌードダンサーが踊るレビューショー小屋での仕事中、演劇を仕事としている観客に舞台出演に誘われ、舞台の仕事を始める。 1990年に単身ニューヨークへ行き、自分も何かを発信してみたいと思うようになる。そして1993年、企画から構成、演出、出演まで全てを手がける舞台表現『印象派』を発表。以降、2006年のvol.8までで9作品・80以上のステージを重ね、国内はもとよりドイツ、フランス、イギリス、ポーランドでも公演を行い、高い評価を得た。 https://ja.wikipedia.org/wiki/夏木マリ |