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2024

11

2016

記憶の中の画家

ミレーレンブラント
ミケランジェロゴヤ
ドーミエピサロ
シスレーゴッホ
マティスルオー
デュフィエゴン・シーレ
モンドリアンモディリアーニ
シャイム・スーティンシャガール
ユトリロミロ
パウル・クレーオディロン・ルドン
ムンクビュフェ
ドラクロワスーラ
ロートレックカンディンスキー

 

 


ユトリロ

モーリス・ユトリロ
モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883年12月26日 - 1955年11月5日)は、近代のフランスの画家。生活環境に恵まれなかったが、飲酒治療の一環として行っていた描画が評価され、今日に至る。母親であるシュザンヌ・ヴァラドンもまた画家であったが、彼らはそれぞれ違った方法で自分たちの絵画のあり方を確立している。ユトリロは、エコール・ド・パリの画家のなかでは珍しく生粋のフランス人だったという。
彼の作品のほとんどは風景画、それも、小路、教会、運河などの身近なパリの風景を描いたものである。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に、壁などの色に用いられた独特の白が印象的である。・・・1900年2月、ムジスのお陰で臨時雇いの外交員の職を得るが、4か月しか持たなかった。また他の仕事もユトリロの気難しさと激情、そしてアルコール依存症の悪影響によって暴力が増え、一家は1901年にモンマニーとピエールフィットに近いサルセルに転居せざるを得なくなった。

しかし引っ越した後もユトリロはアルコール依存が悪化した。・・・病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/モーリス・ユトリロ

「シャティヨン・シュル・セーヌ教会」 1911年頃

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ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ(ジュアン・ミロー・イ・ファラー, 1893年4月20日 - 1983年12月25日)は、20世紀のスペインの画家。カタルーニャ地方の出身。・・・ミロはパリでシュルレアリスムの運動に参加したことから、シュルレアリストに分類されるのが通例だが、ミロの描く人物、鳥などを激しくデフォルメした有機的な形態、原色を基調にした激しい色使い、あふれる生命感などは、古典的・写実的描法を用いることが多い他のシュルレアリストの作風とは全く異なり、20世紀美術に独自の地位を築いている。

・・・ミロの作風は同じシュルレアリストでもマグリットやダリらの古典的・写実的描写法とは全く異なる自由奔放なものであるが、ブルトンは、こうしたミロの絵画こそが真のシュルレアリスムであるとして共鳴し、ミロはシュルレアリストのグループに迎え入れられることとなった。ミロは「画家」という肩書きにこだわって狭い世界に閉じこもることを嫌い、パリでは作家のヘミングウェイやヘンリー・ミラーなどとも交流があった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョアン・ミロ

オマージュミロ

『アルルカンのカーニヴァル』 1924年

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パウル・クレー
パウル・クレー(Paul Klee、1879年12月18日 - 1940年6月29日)は20世紀のスイスの画家、美術理論家。
ワシリー・カンディンスキーらとともに青騎士グループを結成し、バウハウスでも教鞭をとった。その作風は表現主義、超現実主義などのいずれにも属さない、独特のものである。1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。

クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、その腕はプロ級であり、1906年に結婚した妻もピアニストであった。

・・・1906年、リリー・シュトゥンプフと結婚してミュンヘンで新婚家庭を営み、翌年には息子フェリックスが誕生した。まだ無名の画家だったクレーには収入源が無く、リリーがピアノ教師として働くことで家計を支え、代わりにクレーは育児をはじめとする様々な家事に携わった。・・・

第一次世界大戦が勃発すると多くの芸術家も兵士として動員され、クレーの知人であるマルクやマッケらは戦死した。特に親友マルクの死はクレーに大きな衝撃を与えた。クレー自身も1916年から1918年にかけて従軍しているが、クレーが新進の画家として次第に認められるようになるのもこの頃からである。この時期のクレーは絵に文字を取り込む実験なども行いながら、具象とも抽象ともつかない、あるいはその両面を備えた絵を手がけていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パウル・クレー

「オペラ”船乗り”緞帳下絵」1923年

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オディロン・ルドン
オディロン・ルドン(Odilon Redon, 1840年4月20日(4月22日説もあり) - 1916年7月6日)は、19世紀−20世紀のフランスの画家。・・・20歳の頃植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に魅せられるようになる。後にルドンが制作した版画には植物学の影響が見られ、版画集『夢の中で』はクラヴォーに捧げたものである。


1864年パリに出てジャン=レオン・ジェロームに入門するが数か月でやめ、ボルドーに戻って放浪のボヘミアン画家として知られた銅版画家ロドルフ・ブレダンの指導を受ける。また、1878年頃にアンリ・ファンタン=ラトゥールから石版画(リトグラフ)の指導を受ける。・・・

ルドンは印象派の画家たちと同世代だが、その作風やテーマは大いに異なっている。光の効果を追求し、都会生活のひとこまやフランスのありふれた風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/オディロン・ルドン

眼=気球(1878)

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エドヴァルド・ムンク
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch1863年12月12日 - 1944年1月23日)は、19世紀-20世紀のノルウェー出身の画家。『叫び』の作者として世界的に有名で、ノルウェーでは国民的な画家である。ムンクは、1863年、ノルウェーのロイテンで、医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニア(現オスロ)に移った。1868年、母が病気で亡くなり、1877年には、姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている。・・・

ムンクは、通っていた学校を1879年に中退している。この頃から彼は画家になりたいという希望を持っていたが、父の反対に遭い、技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになった。しかし、彼はリューマチ熱のため欠席が続き、1880年11月8日、退学した。その日、彼は日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている。


それまでも水彩画や鉛筆画で風景や家屋のスケッチをしていたが、彼の日記によれば、1880年5月22日に油絵用の画材一式を買い、5月25日に古アーケル教会を写生している。ムンクは、父を説得し、同年(1880年)12月16日、ノルウェー王立絵画学校(現・オスロ国立芸術大学)の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃モデル・クラスに編入した。彼はこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/エドヴァルド・ムンク

『叫び』油彩・カゼイン・パステル、厚紙(1893年)

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ベルナール・ビュフェ
ベルナール・ビュフェ(Bernard Buffet、1928年7月10日 - 1999年10月4日)はフランスの画家である。第二次世界大戦後の具象絵画の代表的な画家である。1928年パリ生まれ。多忙の工場経営者の父のもとに生まれ、父親との関係は希薄であった。心の支えであった母を10代で亡くし、ひとりキャンバスに向かうことが多かった。1943年、パリ国立高等芸術学校に入学。1948年、パリで最も権威のある新人賞・批評家賞を受賞。この頃から天才画家として有名であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ベルナール・ビュフェ

ベルナール・ビュフェ「駅のホテル」

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ウジェーヌ・ドラクロワ
フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ (Ferdinand Victor Eugè臆鈬 Delacroix, 1798年4月26日 - 1863年8月13日) は、フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。1798年、パリ近郊のシャラントン (現在のサン=モーリス) に生まれた。父は外交官シャルル・ドラクロワだが、ウィーン会議のフランス代表として知られるタレーランが実の父親だという仮説があり、かなりの根拠がある。

・・・1822年に始まり、1824年に中断、1847年に再開され、1863年の彼の死まで続いた。このドラクロワの個人的な日記は、この画家の文業における代表作である。そこには絵画、詩、音楽についての考察が書き留められており、また、ジョルジュ・サンド、ジョゼフィーヌ・ド・フォルジュ男爵夫人、ショパン、シャブリエ等との議論が記録されている。それは単に画家の日々の生活や彼の心配事についてにとどまらず、19世紀半ばのパリの生活についての証言となっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ウジェーヌ・ドラクロワ

『民衆を導く自由の女神』1830年

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ジョルジュ・スーラ
ジョルジュ・スーラ(スラ)(Georges Seurat , 1859年12月2日 - 1891年3月29日)は、新印象派に分類される19世紀のフランスの画家。
スーラは、印象派の画家たちの用いた「筆触分割」の技法をさらに押し進め、光学的理論を取り入れた結果、点描という技法にたどりついた。完成作を仕上げるまでに多数の素描や下絵を制作して、入念に構想を練った。

・・・典型的な中産階級の家庭に生まれ、正規の美術教育を受けたスーラは、早世したという点を除いては特に波乱のない平穏な人生を送った。スーラは寡黙で内省的な性格であったと言われ、私生活については他人に全く語ることがなかったという。スーラは死の直前の1890年、内縁関係にあった女性との間に一子をもうけているが、スーラの母親さえそのことをしばらく知らなかったというほど、秘密主義を貫いていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジョルジュ・スーラ

グランド・ジャット島の日曜日の午後(1884-86)

 

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アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック
アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック=モンファ(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa、1864年11月24日 - 1901年9月9日)は、フランスの画家。一般的に姓は「トゥルーズ=ロートレック」、または単に「ロートレック」と呼ばれることが多い。・・・トゥールーズ=ロートレックは、幼少期には「小さな宝石(プティ・ビジュー、仏: Petit Bijou)」と呼ばれて家中から可愛がられて育った。しかし弟が夭折すると両親が不仲となり、8歳のときには母親と共にパリに住まうようになった。

そこで絵を描き始めた。すぐに母親は彼の才能を見出し、父親の友人の画家からレッスンを受けるようになった。しかし13歳の時に左の大腿骨を、14歳の時に右の大腿骨をそれぞれ骨折したために脚の発育が停止し、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。・・・

アブサンなどの長年の飲酒により体を壊した上、梅毒も患ってトゥールーズ=ロートレックは次第に衰弱していった。家族によってサナトリウムに短期間、強制入院させられた後、友人らと旅行に出た後の1901年8月20日にパリを引き払って母親のもとへ行き、同年9月9日、ジロンド県のサンアンドレ=ドゥ=ボワ近郊にある母親の邸宅、マルロメ城で両親に看取られ脳出血で死去した。

最期の言葉は彼が障害を持つようになってから、彼を蔑み、金品は与えたが彼の描く絵を決して認めなかった父親に対して発した「Le vieux con!(馬鹿な年寄りめ!という意)」だった。36歳没。城の近くのヴェルドレに埋葬された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック

ポスター『ディヴァン・ジャポネ』1892年 "Divan Japonais"

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ワシリー・カンディンスキー
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、、1866年12月4日(ユリウス暦)/12月16日(グレゴリオ暦) - 1944年12月13日)は、ロシア出身の画家であり、美術理論家であった。一般に、抽象絵画の創始者とされる。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。・・・彼はモスクワに生まれ子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学ぶ。
1896年にミュンヘンで絵の勉強を始め、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事する。

1902年、ベルリンの分離派展に出品。1904年からはパリのサロン・ドートンヌにも出品している。・・・1922年からはバウハウスで教官を務め、1933年にナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務した。1941年にフランスがナチスによって占領されたのにも関わらず、彼はアメリカへの移住を拒否し続け、パリ郊外に位置するヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。なお、1928年にはドイツ国籍、1939年にはフランス国籍を取得している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ワシリー・カンディンスキー

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今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。

 

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