今年の終わりに。何の信念も知恵もなく、保身と自己満足だけの安倍政治。 平和についても知恵と熱意と信念ある外交努力で平和を堅持するより、兵器増強で威嚇する方が簡単です。威嚇や競争はどこかで摩擦、衝突が起る可能性がありますから簡単だけど無責任な方法です。
大企業や富裕層に配慮し、政治や他者に無関心な中間層を誤魔化しておけば、世論は押さえられる、というのも簡単な方法です。生活に逼迫している人たちや、底辺に追い込まれた人たちには声を上げる余裕もありませんから、世論にはなりにくいからです。 アメリカの国益に配慮し、国内の大企業の顔色をうかがい、一部投資家と富裕層の機嫌を損なわないための政治。そうすれば権力を維持するのが簡単なのは分かりますが、それは知恵と精神の貧困ゆえの方策です。そんなやり方で一体日本はどこへ向かい、何を目指せるというのでしょう。政治に無関心といわれる日本国民。 富裕層はごく一部だと思うのだけれど、多数を占める人たちは何を感じ何を考えているのだろう。しかし大多数を占める中間層と言われる人たちは勘違いしているだけで決して余裕ある暮らしをしているわけではなく、人間関係とかそれぞれの夢とか、自然な笑顔すら無くした中で生活を維持している人たちかも知れません。 GDP世界3位の経済大国であることを考えればその精神的余裕のなさの理由を考えてしかるべきです。自然環境に恵まれ、山海の幸と自然エネルギー資源にも恵まれた日本。大きな経済力と高い技術力もある日本。その国で起っている様々な悲惨。
貧困家庭、老人の孤独死、若者の自殺、増え続ける暴力事件、男女の不平等、子供の虐待、介護疲れによる絶望、異様に多い動物の殺処分、食べれない人もいる中での大量の食品廃棄、日本と同じように古い歴史を持ちかつ経済力も同等な欧州の国々と比較して、国の中身があまりにも違う気がします。 それはおそらく日本が経済至上主義、アメリカ型資本主義をそのままコピーさせられてしまったからで、恩恵もあるけれど、そろそろ日本独自の資本主義を考えださなければならない時です。巨大で複雑な構造を持つアメリカ社会とは異なる日本がアメリカと同じ道を歩めば、混乱と矛盾の中で崩壊してしまうのではないか。この一年の安倍政権による政治を見ていて危機感がつのる年の瀬です。 ひとときだけれど静かで空気もきれいな都会 巨大なショッピングモールがへんぴな場所につくられ、身近な小売店は全滅状態で、田舎では車がなければ生活ができない状況があります。交通網が整った都会では事情が違いますが、それでも不必要な自家用車を持つことが当たり前のような風潮があります。
車に乗らなくなって15年ぐらいになりますが、都会に住んでいるせいもあって、車の必要性はほとんど感じません。JRがあり私鉄があり地下鉄がありバスがありレンタカーがありタクシーもあるという環境でどうしても車でなければという事態は滅多に起るものではありません。 仕事上どうしても車が必要な人は仕方ないとして、私用で使うだけの人は考え直すべきだと思います。車の運転は大きなストレスが伴います。どんなに注意をしていても事故を起こす可能性が伴うからです。入り組んだ町中の道からいつ人や動物が飛び出して来るかも分からない緊張。 交通法規を守っていれば事故があっても自分には責任はないとは言い切れない部分があります。相手は命、けがをさせたりましてやひき殺してしまえば責任うんぬんは次元の違う問題だからです。
だからどうしても乗らなければならない理由がない人は止めるべきです。それだけで心にゆとりが生まれます。ストレス社会と言われている現代で、その要因の大きな一つが車の運転だろうと思うからです。歩いていれば気づくこと、歩いていれば出会うこと、歩いていれば考えること、歩けば得るものがたくさんあります。 移動する方法として車が卓越した時代は過ぎ去りつつあります。孤立させられてしまった地方の生活で車が必要なのはよく分かりますが、都会で暮らす人間が車を手放せないと言うのならその人の生き方、考え方が時代遅れなのだと思います。 この国をよくする秘訣 GDPは世界第三位、大都市の中心部は人とモノであふれかえり、でもちょっと外れるとさびれた町が昔を偲ぶありさま。地方はその色をなくし、人もまばらであのぼくとつな笑顔に出会うことも少なくなりました。なんかおかしい。無意味な選挙で700億円もの税金を使った安倍政権。先進国中最低レベルの貧困率は何故なんだろうかと考えてしまいます。
政治が悪いのは間違いありませんが、それに気づかない国民の無意識は恥ずべきものです。実際逆境に追い込まれている人たちには考える時間も考えるための情報を得るゆとりもないのは仕方のないことですが、少なくとも普通に暮らせてる人たちがあまりにも無関心、無意識であること、そこに問題があると思います。他者への無関心、会社や家族など閉じられた世界にしか意識が働かない内向きの心理。
自分が当事者、被害者にならなければ分からない、動かないという想像力のなさ。結局はエゴイズムで総称されるのでしょうが、そのような生き方の何が幸せなのか分かりません。前時代のように日本も閉じられた国ではなく世界の状況を無視しては成り立ちません。同じように日本の中の歪みや理不尽は結局すべての人に関わる全体問題となるはずです。
自分は関係ない、自分は安全などという局所的な感覚が成り立つ時代ではないと思うのです。この小さな国で、豊かだと言われているこの国で実際に進行している格差や貧困の問題。福島の原発事故後の政府の無責任、動物の殺処分、食品廃棄の多さの問題もあります。 男女の不平等、老人が阻害され、若者が夢を持てない現実があります。未来を想像すれば今じっとしていられない現実があるのに、無関心の分厚い壁は崩れることも溶けることもなく立ちはだかります。 他者に対する関心。人間や自然環境や動物に対するいたわり。当たり前のことだけれど、この国をよくする秘訣はそれだけなんだろうと思います。 バタークリームのクリスマスケーキ
宗教的な意味とは別に定着してしまった日本のクリスマス。ものにあふれかえっていない時代でもクリスマスだけはちょっとゆたかな気分になったものです。日本にクリスマスが定着したのはいつなんだろうと調べてみたらウィキペディアに 「日本でクリスマスが受け入れられたのは、1900年(明治33年)に明治屋が銀座に進出し、その頃からクリスマス商戦が始まったことが大きな契機であった。」「昭和初期の頃、銀座、渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店においてはクリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えた。
この様子を1931年(昭和6年)12月12日の都新聞は、「七千四百余のカフェと二千五百余の喫茶店に華やかにクリスマスが訪れサンタ爺さん大多忙を来たす」と報じた。」・・・とありました。そういえば舶来食品で有名な明治屋もここのところ斜陽になった気がします。 もう輸入食品の店は珍しくないですから。昭和初期のクリスマスの盛況ぶりにはちょっと意外な気がします。クリスマスを家で過ごす人が増えた今より、人が外向きに生きていたような気がします。生クリームが当たり前の時代だけれど、バタークリームと生クリーム、どっちが贅沢なのだろうか・・・ キリスト教徒ではないけれど、共感するフランシスコ法王の言葉 迷狼と化しつつある安倍首相、命に対する根源的な尊敬を欠き、他者を顧みない社会風潮。15の項目は間違った価値観、人生観を見事に指摘していると思います。宗教や哲学や芸術が、生きるとは?人間とは?幸福とは?何かを長い歴史の中で問いかけ、提示してきたもの。バチカンのみならず現代に生きる人間は再考を求められているのではないでしょうか。 いい人、悪い人 人を殺傷することは悪いこと、モノを盗めば悪いこと、人を騙せば悪いことなど法治国家ですから、法の上の悪の線引きはなされています。しかし法には触れないけれど、人を困らせたり苦しめたりする諸悪が無数に定着してしまった社会、それが今の日本だろうと思います。暴力は振るわない、大声もださない、一見冷静沈着で穏やかに見える人たち。
でも自分に関わること以外、他者や社会に大しては無関心、無感動で冷たくすらある人たち。そんな人たちの生き方が引き起こす不幸がその人間の周りや社会にどれだけの悪影響を与えているかを考えれば、そういう人たちは消極的な悪とでも呼ばなければならない気がします。 おとなしい人、穏やかな人ではあっても、決していい人ではありません。いい人とは悪い人に対峙する積極的な心の動きを持つ人のことで、そういう人たちがせめて10%ぐらいいれば、諸悪は色褪せてしまうのだろうにと思います。 まがいもの文化とゆたかさの錯覚 それでも貧しい家庭でさえ季節の食卓には今は高価な松茸や鯨肉などが上がり、安くて美味しい季節の野菜とともに、すき焼きとかはりはり鍋でにぎやかな団らんでした。
たまにしか食べれないけれど、牛肉も鶏肉も豚肉も魚も当たり前のように美味しいものでした。すべて国産の天然もの。美味しいのは当たり前です。今では国産といえども大量消費のための養殖と過密飼いですから、味もおかしくなります。 スーパーに行けばあらゆる食品が所狭しと並び、一見これ以上豊かな国はないような錯覚に襲われますが、華麗なパッケージを無視して中身だけを考えれば、大量消費のためにつくられた粗雑な材料、合成調味料と合成甘味料、合成着色料などによって取り繕われてはいますが、ゆたかとはとても言えるような食品ではありません。
過剰包装とも言えるパッケージは中身を幻惑するための手段のようにも思えます。外食産業もしかりで、店舗のイメージとは裏腹に材料は冷凍ものが大半で、調理もアルバイトの素人でも出来るシステムですから、その質は計り知れます。子供時代から青春時代、これからの若い世代がこんなものばかり食べていたら、のちのち体はおろか精神にまで影響するのではないかなどと不安を感じますが、 安ければいい売れればいい、分からなければいいの三拍子が支配する社会において金持ちは別として(高いものはそれなりの質が保たれていますから)、多くの消費者は無力で、防御策を講じることも至難です。国民1人1人の関心や意識も大切ですが、国が流通や経済をある程度コントロールしなければ、弱肉強食、豊かさのパッケージに隠されたまがい物文化は人間の体も心も蝕んでいくのではないでしょうか。 民主国家に格差社会は似合わない そしておぞましい軍国主義。資本家の思惑と軍人の狂気によって、自由と命が奪われた時代です。戦争犠牲者の多くは戦争など望まない一般市民ですからあまりの不条理です。そんな痛恨極まる時代を経て今があります。何があっても戦争だけはいけない。何があっても自由だけは手放してはいけない。 監視や束縛の中で生きたい人などいないでしょうが、無関心や短絡的な風潮が蔓延すれば、最悪の時代に逆行しないとも限りません。今進行しつつある格差社会がナショナリズムや排他主義につながることは指摘されていますが、もともと格差社会は民主社会と相反するものですから、要注意です。 現政権が何故にそのような社会へと誘導しようとするのか。何故に民主国家を弱体化させようとするのか。その思惑に関しては計り知れませんが、その結果に関しては想像することができます。幸い日本はまだ民主国家ですから、1人1人が個人の自由のためにも無知や無関心に陥らないよう心がけなければならないと思います。 明日を生きる店と今に埋没する店 お店とは本来そういう空間でなければならないのだと思う。かってどれだけ多くの若者が、そういうお店で傷を癒し、夢を育んだかと思うと昨今の企業化したお店の無意味さを考えてしまいます。
店主と客の交流。客と客の交流。小さなお店だけれど人がいやされ人と人の出会いが未来をつくるようなお店が点在していた時代。学校や会社などのつまらない垣根などのれんをくぐれば一切関係のない小さな空間が大阪にも神戸にも東京にも無数にあって今から考えれば、社会の歪みや人間の不条理を吸収するセーフティーネットの役割を果たしていたのだと思います。 それは飲食店に限ったことではなく、八百屋さんでも肉屋さんでも金物店でも個人が経営する多くのお店が何らかの役割を担っていた気がします。なぜなら店主という個人が客という個人に対していたからです。人と人。店主の過去の経験と人柄が、訪れる客の明日へとつながる可能性があったからです。 マニュアル化されたチェーン居酒屋とイオンモールのような巨大量販店が個人店を駆逐してしまった現在。たむろする客も個人をなくして家庭とか学校とか会社とかの小さな仲間意識の中で飲食をし、買い物をする。学校を出たらもう何も学べないという環境が今の日本の深刻の一面なんだろうなと思います。 戦後最低の投票率、52.99%で民主国家と言えるだろうか たとえ選択肢がないにしても少しでもましな人物、政党に票を投じるのがルールです。たとえ似たようなものでも同じものはないわけですから、選択の余地はあるはずです。 それが選挙だろうと思います。それでもまだ選挙などいかないと思っている人は救いがあります。もし白紙投票に意味を持たせることが出来るような選挙システムなら白紙の一票は投じるだろうからです。深刻なのは無関心、無気力な風潮です。
自分の頭でモノを考えない、考えられない、自分の生活に直接影響がなければ社会も国家も世界もまるで視野に入らないような人たちです。投票率の低い若者の間にそのような人間が増えているなら、とても恐ろしいことです。政治や社会がどっちでもいい、どうでもいいなら何故に生きているんだろうと思います。 自由と平和を創造し守ることが民主主義の根幹で、それが崩れればその上には何も乗っからないのですから、民主主義は崩壊です。今の日本は投票率が表す通り、半民主主義なのだろうと思います。 国民にとって大切なものの半分が切り捨てられないがしろにされている。国民1人1人の存在が尊重される本当の民主主義を取り戻さなければ、それこそ時代を逆行して自由も希望もない国に成り下がってしまいます。 なぜ貧困や格差が広がるのだろう。 この2年間で大企業や富裕層は確かに潤ったようですが、それはほんの一部のことで、大多数の国民はとても今の政治に満足しているとは思えないのだけれど、自民党を支持する人が多いのには閉口します。 政治なんかどうでもいい、まともな政治家がいない、どうせ同じこと・・・と若者を中心にさめた人が多くいて、今の政治がおかしいとは思っていても声を上げない、選挙にいかない、そんな国民がかなりの数いるのだろうと思います。
水面下です。確かにまともな政治家、政党が見当たらないという現状は分かりますが、出来ることはとにかく最悪を排除して、社会の悪い流れにストップをかけることしかありません。次の政治家なり政党がだめならまたストップをかける。その繰り返ししかないだろうと思います。 流れを変えれば少しは変わるでしょう。未来に向けて現状の少しの変化はとても大きな変化につながるかも知れません。水面下の意思が水面に現れて小さな波紋が無数に湧き出た時、悪質な政治家はそれこそ水面下に没するだろうと思うのです。 老人と子供がのびのびとしなければ 無意味とは言わないけれど自らの政治的思惑だけで700億円とも言われる選挙費用を使う14日の選挙。おそらく思惑通りにはいかないだろうけど、あまりのエゴイズムです。福島の問題、沖縄の問題、地方の問題、老人の問題、子供の問題。福祉や教育に関して使わなければならないお金がいっぱいあるはずです。
政治家の資質の低さはいったい何故だろうかと考える時があります。国家国民を少しでも幸せにいい方向へと導く、最低限それぐらいの志があっても良さそうな職業ですが、私利私欲とあほらしい自己達成の手段としか政治を考えていない政治屋とでも呼ばなくてはならない人間が行政をあやつっています。口先、目先のやりたい放題。 それに気づかないあるいは分からない国民。自然環境に恵まれ、長い歴史に培われ、間違いもあったけれど情があり勤勉に紡いで来た日本の良さが根こそぎ無くなりそうな今の風潮。そう感じる心をもつならば、止めなければ、立ち止まらなくては行けないと思う空気を広めなくてはなりません。 まず理不尽に対する1票を 非正規雇用は拡大し正社員は22万人も減少。不安定でじりじり広がる格差は社会のあらゆる部分に歪みを生んでいます。
それでも安倍、自民党政権を正せないのは不安と困難に直面する多くの人が政治どころではない状況、心境に追い込まれているからでなんとも理不尽です。ある意味それが安倍政権の狙いでもあるのでしょうが、卑怯な政治手法だと思います。 国民1人1人が何事に関してもきちんと考えられる社会環境をつくり、その上で国民の意思を汲み取って政治家が手腕を振るう。今ある政治は正反対の様相です。選挙で1票を投じること、少しでもましだと思う政治家、政党に1票を投じることがまずできることです。 エンジェルフォールとアベノミクス その滝にアベノミクスを例えた新聞記事がありましたが、言い得て妙です。湯水のように使われた税金で潤ったのはほんの一部の富裕層。流れ落ちる水は大企業や海外の投資家と多国籍企業に吸い取られてしまってまさにエンジェルフォールのようです。
貧困層をはかる一つの指針である「相対的貧困率」は大人が一人(母子・父子世帯)に限ってみれば貧困率は54.6%で、これは世界第1位の低水準。世界3位のGDP(経済規模)にもかかわらず貧困層は広がり、格差社会はますますその溝を深めています。 1%の富裕層が富を独占するアメリカ社会のようになってしまうのではと危惧します。経済政策だけではありませんがとにかく今の政治は間違っている、それだけは確かなことです。 人間は考える葦である 記事中に「・・・つまり、彼らは考えること自体を避けたがるのだ。・・・あれやこれや考えることに時間を割きたくないとすれば、問題を解決することはできないから、そのままほったらかしにしておくことになろう。それは、解決策を自分の頭で考えるより、運命に任せる方がいいと思い込む態度につながる。」・・・ 実際忙しいと言うのは現代人の口癖、合い言葉のようなものでその実はあれやこれやの物事を避ける口実、言い訳の部分が多分にあるような気がします。あえて忙しくするあるいは忙しいふりをして面倒な問題に対してなるべく関わらないようにする。それがある種の処世術であるかのごとくです。 多くの社会問題は1人1人が自分で考え判断しなければならない、それが民主主義の根幹です。思考を放棄すれば、社会はあらぬ方向へと傾き、結局そのしわ寄せは1人1人にかかって来ます。命に対する尊厳を欠く政治家や私利私欲にまみれた政治家が多数を占める今の日本においては特に考える力は必要です。 少しずつ光があたりだした過去の世界 近い将来太陽系ぐらいは自由に航行できる日が来ると思いますが、速度やエネルギーに対する新しい概念でも生まれない限り後数十年はかかるだろうと思われます。
考古学の世界でも少しずつ過去へと照らす光は伸びています。それでも明らかになっている過去より未知の部分が大半だろうと思います。 今日のナショナルジオグラフィックスの記事に「50万年前のジグザグ、最古のアートか」との見出しがあって目を通しましたがインドネシアの河岸で発掘されたムール貝に刻まれた幾何学模様は43万年前のものだと推定され、これまでの7万年〜10万年と言われて来た認識が大きく変わるかも知れないというものでした。
議論はまだこれからとのことですが、科学が進めばこれまでの常識を覆すような発見が次々となされるような気がします。現代文明がまだ発展途上のレベルであることが分かれば、地球環境に対するお山の大将のような傍若無人の振る舞いにストップがかかるでしょう。先日他界された菅原文太さんのメッセージ「人間は植物や昆虫と一緒なんだ。 人間だけがおごるのは違う」という言葉が謙虚に受け止めれるような時代にならなければ人類は自らのみならずこの地球の全てを破壊してしまうのは目に見えています。優れた人間が賢くなればなるほど謙虚になるように、文明もまたそうならなければならないと思うのです。 アメリカの悲惨と闇と日本 警官が不起訴になったことに対するあまりの理不尽に抗議デモが起っていますが、事件の一部始終が通行人によって撮影され、報道されているのですから当然のことです。白人警官の不起訴はアメリカ社会に巣くう人種差別の根深さを感じます。
無抵抗の被害者が背後から警官に首を絞められて倒されそのまま絞め殺されたのですから、明らかな殺人です。ニュースでデモをする人々が被害者の最後の言葉「息ができない」を連呼していましたが、経済大国アメリカの華やかな背後にまさに「息が出来ない」社会が広がりつつある現実を感じます。 アメリカのような人種や民族の混合、移民問題など複雑な要素のない日本ですが、アメリカがくしゃみをすれば風邪を引くと揶揄されるぐらいアメリカ追従の日本ですからアメリカで起っていることは日本でも起りえると考えなくてはなりません。 格差社会の進行、平和憲法に対する暗雲、秘密保護法による自由に対する懸念などいくつもあります。国民1人1人が日本はこうあるべきだと言う自覚と意思を持たなければ普通であることすら維持できない、今はそんな時代だと思うのです。
2014/12/01 菅原文太さん、惜しまれる死 人間とは何であるか、知識とは、勇気とは、生きることの意味。多くの人がその背中にヒューマニズムを感じたことだろうと思います。まだ60歳で朽ちたような精神の安倍首相と比べれば同じ人間として雲泥以上の差があると思いますが、この国の命運を握るのは悲しいかな自民党であり安倍政権です。
菅原文太さんが「政治家たちのナルシシズムという病に、これはどこかで見た光景だぜと警鐘を鳴らすのも、老いぼれの役目だ。」と語っていたのは今年の2月のこと。「人間は植物や昆虫と一緒なんだ。 人間だけがおごるのは違う」という言葉は科学や経済に埋没して命の本質を忘れた全世界へのメッセージです。それにしてももっと生きていて欲しい人が次々と亡くなって、寂しい限りですが、それぞれの志を次ぐ人々が数多く育っていると信じたいものです。 |
今や自然エネルギーを有効に使えるだけの科学力があります。原発を完全に無くし、
化石燃料をなるだけ減らして行くことが未来に対する人類共通の責任です。
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